〈このような、魔人優遇、人道無視の政策に対して、正しき人間の権利を守る会は、その支持者も含め断固とした形で――〉
窓の外では、今も街宣車の演説が続いていた。20分近くも由絵の家の前でそうしている。
明らかに彼女の家に狙いを定めた嫌がらせだった。
明らかに彼女の家に狙いを定めた嫌がらせだった。
そういうことがある日は、とても怖かった。12歳の由絵に何かができるわけもないので、こうして書斎でじっと身を潜めて、家の前から彼らが立ち去るのを待っていた。
書斎には大きなクローゼットと大きなソファと大きな本棚と、レコードか何かを鳴らせるオーディオがある。その大きさがまるで背が高くて頼りになる彼女の父親そのもののようで、子供部屋にいる時よりも気持ちが落ち着くのだった。
書斎には大きなクローゼットと大きなソファと大きな本棚と、レコードか何かを鳴らせるオーディオがある。その大きさがまるで背が高くて頼りになる彼女の父親そのもののようで、子供部屋にいる時よりも気持ちが落ち着くのだった。
暗闇のドアが開いて、二人の人影が書斎に入ってきた。
由絵はすぐに父の名を呼んで抱きつきに行きたかったが、そうできなかった。
由絵はすぐに父の名を呼んで抱きつきに行きたかったが、そうできなかった。
「野々原さん。正人会の嫌がらせはだいぶしつこいようですね。来るたびにひどくなる」
父と一緒に書斎に入ってきた来客は、魔人だった。
加治木という名の男で、何度かこの家に来ている。魔人団体の代表をやっているのだと聞いていた。
加治木という名の男で、何度かこの家に来ている。魔人団体の代表をやっているのだと聞いていた。
「椅子を使わせてもらってもいいですか」
「ああ、悪いね。ソファも最近はうちの子供専用になってしまった」
「ああ、悪いね。ソファも最近はうちの子供専用になってしまった」
色とりどりのクッションで埋まったソファを一瞥して、加治木は父の対面に座った。
加治木の正面には、由絵の父親が講演する時に使うようなスーツが詰まった大きなクローゼットがあった。
加治木の正面には、由絵の父親が講演する時に使うようなスーツが詰まった大きなクローゼットがあった。
「私は思うんですが、野々原さん。やはりあの手のヤクザまがいの政治団体には、少しばかり荒い手段を取らないとキリがないんじゃないですかね」
「それではますます魔人の権利向上が遠のく。世間は、君達魔人の暴力を恐れているんだ。だから暴力ではなく、対話と政策で働きかけなければ皆の意識は変わらない。それはいつも言っているだろう」
「それはもちろん、いつも仰られてますがね」
「それではますます魔人の権利向上が遠のく。世間は、君達魔人の暴力を恐れているんだ。だから暴力ではなく、対話と政策で働きかけなければ皆の意識は変わらない。それはいつも言っているだろう」
「それはもちろん、いつも仰られてますがね」
由絵の家族は誰も魔人ではなかった。実のところ由絵も、加治木のような魔人のことを怖いと思う。
だから誰よりも努力して魔人のために運動している父のことを、凄い人だと尊敬していた。
だから誰よりも努力して魔人のために運動している父のことを、凄い人だと尊敬していた。
加治木が思い出したように尋ねた。
「あ。そういえば、今日は奥さんと使用人さんはいらっしゃいますか? 他にお客さんなどは?」
「……? 妻と子供と、使用人が二人だが――」
「それはよかった」
「……? 妻と子供と、使用人が二人だが――」
「それはよかった」
加治木が立ち上がると同時に、パン、という音があった。
暗がりの中で由絵は息を呑んだ。父の顔面が赤く染まったように見えた。そのまま椅子から崩れ落ちてしまったので、それが本当のことだったのかは分からない。
暗がりの中で由絵は息を呑んだ。父の顔面が赤く染まったように見えた。そのまま椅子から崩れ落ちてしまったので、それが本当のことだったのかは分からない。
きっと嘘なのだろう。加治木が右手に小さな拳銃のようなものを持っていて、物凄い血の匂いが漂っていたとしても。
魔人は倒れた父を踏み躙りながら、トランシーバーの向こう側の誰かに告げた。
魔人は倒れた父を踏み躙りながら、トランシーバーの向こう側の誰かに告げた。
「使用人二人と、妻と子供が一階にいる。全員片付けろ。魔人能力は使うなよ」
さっきと同じような破裂音が、今度は下の階から響いてきた。パン。パン。パン。パン。
由絵は震えていた。大声で泣き出したかった。
おかしなしゃっくりが由絵の肺の奥から湧き上がってきて、涙を流しながら、声を出さないようにこらえた。
由絵は震えていた。大声で泣き出したかった。
おかしなしゃっくりが由絵の肺の奥から湧き上がってきて、涙を流しながら、声を出さないようにこらえた。
いつも料理を作ってくれた陽気な家政婦さんが、黙々と掃除をしていた働き者の使用人さんが、そして何よりも、由絵の母親が。弟の将志が。
「っく」
小さなしゃっくりを必死に押さえつけながら、一階にいた皆のことを思い出さないように努力していた。
もしも思い浮かべたりしたら、彼らが殺されたことを認めたことになってしまう。
もしも思い浮かべたりしたら、彼らが殺されたことを認めたことになってしまう。
「あーん! うあーん!」
廊下をトテトテと歩く足音があった。将志の鳴き声だった。
「あああーん! お父さーん! お父さーん! お母さんの顔が変になっちゃったよー!」
その足音は書斎に近づいていた。拳銃を持った加治木がいるこの部屋へと。
(駄目。将志、こないで)
そう叫びたかった。暗闇の中で震えながら、願うだけだった。
「お父……」
ドアが開くと同時に、パン、という音が鳴った。
絶望の虚脱が由絵の全身を襲った。
絶望の虚脱が由絵の全身を襲った。
弟の足音に続いて、階段をドタドタと駆け上がる音が聞こえてきた。
血生臭い襲撃者達が、由絵の隠れる書斎に集まってくる。
血生臭い襲撃者達が、由絵の隠れる書斎に集まってくる。
――魔人だった。
一人残らず、父が守ろうとした魔人だった。
一人残らず、父が守ろうとした魔人だった。
「おい。撃ち漏らした子供がこっちに来てたぞ。遊ぶなよ」
加治木が扉の下に転がるものに視線を向けながら言った。
相手の若者は半笑いで答えている。
相手の若者は半笑いで答えている。
「いやでも、子供を撃つのって、なんか嫌な気分になるじゃないっすか」
「他に逃した奴はいないだろうな」
「ええ、使用人も母親も全部片付けましたよ。拳銃も結構楽ですね」
「……姉がいたはずだぞ」
「他に逃した奴はいないだろうな」
「ええ、使用人も母親も全部片付けましたよ。拳銃も結構楽ですね」
「……姉がいたはずだぞ」
四人の襲撃者達が、言葉を止めた。
由絵は恐れた。しゃっくりを必死で押し留めている。
由絵は恐れた。しゃっくりを必死で押し留めている。
「野々原の家には前にも来たことがある。子供が二人いたはずだ。姉の方は見なかったのか」
「え? でも一階は子供部屋まで全部見ましたよ。別にいいじゃないっすか。買い物にでも出かけてたんでしょ」
「使用人は二人って言ってたわよね。子供は何人家にいるのか聞いたの?」
「……いや」
「ハハ、そりゃミスったな。街宣車をさっさと引き上げないと警察が来るぞ」
「え? でも一階は子供部屋まで全部見ましたよ。別にいいじゃないっすか。買い物にでも出かけてたんでしょ」
「使用人は二人って言ってたわよね。子供は何人家にいるのか聞いたの?」
「……いや」
「ハハ、そりゃミスったな。街宣車をさっさと引き上げないと警察が来るぞ」
――ああ、今日来ていた街宣車は、彼らが自分で手配していたんだ。
死を目前にして、由絵は他人事のように思った。
死を目前にして、由絵は他人事のように思った。
「待て」
引き上げようとする三人の背中に、加治木は言った。
彼らの答えを待つことなく、彼は大きなクローゼットを乱暴に開けた。由絵の心臓が跳ねた。
しゃっくりを堪えるために、ずっと息を止めていないといけなかった。
彼らの答えを待つことなく、彼は大きなクローゼットを乱暴に開けた。由絵の心臓が跳ねた。
しゃっくりを堪えるために、ずっと息を止めていないといけなかった。
「……」
クローゼットの中のスーツを乱暴に散らかした後で、拳銃を下げたままの加治木が呟く。
「何でもない。さっさと引き上げよう」
襲撃者は一人残らず書斎から消えた。
この部屋は、彼女の父を思わせる、絶対に安全な世界のはずだった。
この部屋は、彼女の父を思わせる、絶対に安全な世界のはずだった。
ソファのクッションの一つが動いた。それは色とりどりのクッションの只中に埋もれていたが、赤い毛布に身を包んだ小さな由絵の体だった。
「ひっく」
泣き声よりも嘆きよりも先に、滑稽なしゃっくりが由絵の口から漏れた。
血に染まった書斎で、彼女は全てを失ったことを知った。
血に染まった書斎で、彼女は全てを失ったことを知った。
大通りから細い路地に入って、そこから三度道を曲がった。由絵が曲がるたびに道幅は狭くなっていって、小学生の由絵でなければつっかえてしまうのではないかと心配になるほどだった。
けれど、小さな手に握られたくしゃくしゃのメモに書かれた住所は、確かにこの突き当りの場所を示している。
けれど、小さな手に握られたくしゃくしゃのメモに書かれた住所は、確かにこの突き当りの場所を示している。
地下への階段が地獄のような暗闇の口を開いていて、壁には『Restaurant 死』と書かれた手書きの看板があった。
頭のおかしないたずらのようにしか見えなかった。
頭のおかしないたずらのようにしか見えなかった。
「レストラン……死……」
けれど冗談のような光景の何もかも、メモに書かれている通りだった。
彼女は階段を下りていく。湿った地下のコンクリートが、上等なパンプスの靴底を濡らした。
彼女は階段を下りていく。湿った地下のコンクリートが、上等なパンプスの靴底を濡らした。
「レストラン、なのかしら」
扉には『OPEN』の木札がかかっていた。油性マジックで手書きしたような札だった。
小さな手でそれを押し開けると、中には全裸の男が座っていた。
小さな手でそれを押し開けると、中には全裸の男が座っていた。
「ひっ」
「うわあああああああああ」
「うわあああああああああ」
少女と中年男性は同時に叫んだ。
全裸の男は特売かなにかのカップラーメンを食べていた。
全裸の男は特売かなにかのカップラーメンを食べていた。
「うわああああああ、わあああああ。お、お、お、お客様ですか」
壁際まで後ずさりながら、男は間の抜けた質問を発した。由絵は絶句したまま防犯ブザーに指をかけていたが、それがこんな裏路地の果てでどこまで役に立つものかも分からなかった。
男は両手で自らの股間を隠した。
男は両手で自らの股間を隠した。
「し、ししし、失礼いたしました、こんな格好で!」
――それは本当にそうだな、と由絵は思った。
「………………。あの」
大通りから細い路地に入って、三度道を曲がった突き当りの地下。
『Restaurant 死』という店に、そんな名前の男がいるのだという。
『Restaurant 死』という店に、そんな名前の男がいるのだという。
「あなたが、デスコックさんなの?」
魔人ヤクザも魔人警察も誰一人手を出してはならない、手を出せば死ぬ。
最強にして最悪の殺し屋が、そんな名前なのだという。
最強にして最悪の殺し屋が、そんな名前なのだという。
「は、はい。わたくしが当店の料理人兼ウェイター兼店長兼オーナーのデスコックです」
股間を隠したままデスコックは答えた。
「あのお客様、まずは防犯ブザーからお指を外していただいて」
「……」
「着ます! ちゃんと着ますので。大丈夫です」
「……」
「着ます! ちゃんと着ますので。大丈夫です」
デスコックは恐る恐る足を進めて、コート掛けに掛かっていた古びた黒コートを全裸の上に直接羽織った。
何も大丈夫ではなかった。
何も大丈夫ではなかった。
罅割れた、コンクリート打ち放しの壁。キャンプに使うような折り畳みの汚らしい机とテーブルが一組あるだけで、蝿や蜘蛛や、その他の虫が至るところに這っている。
由絵は一度深呼吸をして、ここに来て最初に発する予定だった言葉を告げた。
由絵は一度深呼吸をして、ここに来て最初に発する予定だった言葉を告げた。
「私、野々原由絵よ」
「ははあ、由絵様でございますか。本日のご注文はいかがでしょうか? 当店は和洋中なんでも取り揃えておりまして――」
「人を殺してほしいの」
「人を!!??」
「ははあ、由絵様でございますか。本日のご注文はいかがでしょうか? 当店は和洋中なんでも取り揃えておりまして――」
「人を殺してほしいの」
「人を!!??」
デスコックがギョッとその場を跳ねて、後ろの壁に頭をぶつけた。
予想外極まりないといった反応であった。
予想外極まりないといった反応であった。
「ええ。相手の名前も居場所もわかっているのよ。魔人中英会特別顧問の加治木恭平……」
「ま、まま、お待ち下さいお客様」
「ま、まま、お待ち下さいお客様」
全裸に黒コートの不審者は、慌てて由絵を制止した。
「当店はレストランでございますよ」
「嘘よ。こんなレストランがあるわけないと思うわ」
「嘘よ。こんなレストランがあるわけないと思うわ」
由絵は切れかけて点滅している蛍光灯を見上げた。
そもそも、まともに営業しているレストランは料理人が全裸でカップラーメンを食べていたりしないはずだ。まともに営業している殺し屋でもしないことかもしれない。
そもそも、まともに営業しているレストランは料理人が全裸でカップラーメンを食べていたりしないはずだ。まともに営業している殺し屋でもしないことかもしれない。
「そもそも、そのようなお話をどこから」
「1年くらい前、お父さんと付き合いのあった記者さんが言ってたの。お父さん、ずっと嫌がらせばかり受けてたから……『どうしてもどうにかしたいことがあったら、ここに頼め』って」
「こ、殺し屋に頼めと言ったのですか? しかもよりによってわたくしの紹介を? 大変非常識でございますね。抗議しなければ……!」
「……その記者さんは事故で死んじゃったわ。薬をたくさん飲んで運転している途中に車が爆発炎上して、止まれずに崖の下に落ちた後で、野犬に全身を食べられてしまったんだって」
「ヒエーッ、それはまたダイナミックな事故死でございますね」
「1年くらい前、お父さんと付き合いのあった記者さんが言ってたの。お父さん、ずっと嫌がらせばかり受けてたから……『どうしてもどうにかしたいことがあったら、ここに頼め』って」
「こ、殺し屋に頼めと言ったのですか? しかもよりによってわたくしの紹介を? 大変非常識でございますね。抗議しなければ……!」
「……その記者さんは事故で死んじゃったわ。薬をたくさん飲んで運転している途中に車が爆発炎上して、止まれずに崖の下に落ちた後で、野犬に全身を食べられてしまったんだって」
「ヒエーッ、それはまたダイナミックな事故死でございますね」
……本当に、あの記者が言っていたデスコックなのだろうか。由絵は正面に座る男の顔を見る。
がっしりとした体格は、確かに父よりも大きいように見える。
けれどなんとも眠たげというか、覇気のない顔だ。全く料理人に見えないことは勿論、殺し屋であるようにも到底思えなかった。
がっしりとした体格は、確かに父よりも大きいように見える。
けれどなんとも眠たげというか、覇気のない顔だ。全く料理人に見えないことは勿論、殺し屋であるようにも到底思えなかった。
「……でも、そう。殺し屋さんなんていなかったのね。最初から……こんな話、あまり信じてなかったけど」
「差し出がましい質問ですが、そのお相手の加治木某様は殺されるようなことを何か」
「ニュースを見ていないの?」
「差し出がましい質問ですが、そのお相手の加治木某様は殺されるようなことを何か」
「ニュースを見ていないの?」
由絵は、大きな目をパチパチと瞬かせた。野々原一家殺害事件はニュースでも連日取り上げられている。
事件直前に野々原家前で演説を流す街宣車が目撃されていることから、野々原の政治理念に反対する反魔人政治団体の犯行なのだと容疑が掛かっていた。そして加治木の組織である魔人中英会は、この事件を旗印としてさらなる過激な報復を始めようとしているとも。
事件直前に野々原家前で演説を流す街宣車が目撃されていることから、野々原の政治理念に反対する反魔人政治団体の犯行なのだと容疑が掛かっていた。そして加治木の組織である魔人中英会は、この事件を旗印としてさらなる過激な報復を始めようとしているとも。
「……お父さんも、お母さんも、弟の将志も、みんな殺されたわ。本当の犯人を知ってるけど、私、言いたくないの。魔人中英会の魔人は私の顔も名前も知ってるから、もしも私が目撃したってばれたら、すぐに魔人能力で殺されてしまう」
椅子に座って俯いたまま、由絵は膝の上で両手を強く握った。
「何も知らない、バカな子供のふりをしてないといけないの」
「……由絵様。事情はよく分かりました」
「……由絵様。事情はよく分かりました」
深刻に語る少女を前にして、デスコックは心配そうに口を開いた。
「彼らにお料理をもてなしましょう」
「なんで!?」
「よろしいですか」
「なんで!?」
「よろしいですか」
「……暴力に暴力で復讐するのは愚かなことです。殺人の連鎖は新たな殺人を生むだけ……。美味しいお料理でおもてなしして、きれいな心を取り戻してもらう。それこそが憎むべき敵に行うべきことではないでしょうか」
「じょ、冗談なの?」
「冗談ではありません。由絵様のご依頼で、明日、直接魔人中英会をおもてなしすることをわたくしは決意いたしました! しかも……しかも、よろしいですか……? これは由絵様の深刻なご事情を考慮した、今回だけの特別サービスなのですが」
「じょ、冗談なの?」
「冗談ではありません。由絵様のご依頼で、明日、直接魔人中英会をおもてなしすることをわたくしは決意いたしました! しかも……しかも、よろしいですか……? これは由絵様の深刻なご事情を考慮した、今回だけの特別サービスなのですが」
黒コートの全裸男は、ありもしない人目を憚るように口元に手の平を寄せて、囁いた。
「無料なんです」
デスコックは完全に狂っているようにしか思えなかった。ただの、どこにでもいる狂人だ。
ただの子供があやふやな噂話に飛びついた結果としては、きっと妥当なところなのだろう。
ただの子供があやふやな噂話に飛びついた結果としては、きっと妥当なところなのだろう。
「……分かったわ。じゃあ、料理をお願いね」
「勿論です! ここはいつものフレンチとは趣を変えて、和食コースをご用意しましょう。熱々の豆腐のお味噌汁と皮をパリパリに焼いた塩サバ、一晩漬け込んだ浅漬けに……」
「勿論です! ここはいつものフレンチとは趣を変えて、和食コースをご用意しましょう。熱々の豆腐のお味噌汁と皮をパリパリに焼いた塩サバ、一晩漬け込んだ浅漬けに……」
メニューをウキウキと数え上げながら、デスコックは厨房と思しき部屋へとスキップで入っていく。
もう一度見てもやはり、その中で料理に類する何かが行われているとはとても信じられなかった。
もう一度見てもやはり、その中で料理に類する何かが行われているとはとても信じられなかった。
「……あの、由絵様」
デスコックは一度厨房に引っ込めた顔を、申し訳無さそうにもう一度出した。
「どうしたの?」
「実はわたくし、とても方向音痴で……その場所までご案内いただけますか」
「実はわたくし、とても方向音痴で……その場所までご案内いただけますか」
「すみませーん! 『Restaurant 死』のデスコックと申します!」
人通りの少ない路地の一角である。
灰色の光景に溶け込むような雑居ビル――魔人中英会本部の前で、黒コートの不審者が声を張り上げていた。
道を挟んだ斜めの場所にある廃屋に隠れて、由絵はその様子を見守っている。
灰色の光景に溶け込むような雑居ビル――魔人中英会本部の前で、黒コートの不審者が声を張り上げていた。
道を挟んだ斜めの場所にある廃屋に隠れて、由絵はその様子を見守っている。
(正気の沙汰じゃないわ)
彼女の家を襲撃した際に拳銃を持ち出していたことからも分かる通り、魔人中英会は政治団体を名乗っているものの、その実体はほぼ魔人ヤクザのようなものだ。不用意な手出しをして殺されるのならばまだ良い方で、何らかの拷問的魔人能力によって死ぬに死ねない末路を辿るだとか、死ぬまで持続する魔人能力によって苦しみ続けるということも十分に考えられることだ。
「お料理の宅配にあがりました! しかも、なんと……なんとですよ」
デスコックの足元は裸足にサンダル履きで、多分昨日と同じように中身は全裸なのだろうなと由絵は思った。
あまりにも無防備で、その両手に大事に捧げ持つお盆には、錆の浮いたクロッシュを被せていた。
あまりにも無防備で、その両手に大事に捧げ持つお盆には、錆の浮いたクロッシュを被せていた。
「無料なんです」
ドアが開いて、粗暴そうな若い魔人が現れてデスコックを詰問した。
彼は何らかの受け答えをヘラヘラとしていたが、首根っこを捕まれて中へと引きずり込まれていく。お盆が落ちて、赤やら青やらの色をした体に悪そうな色の料理らしきものが中から溢れたのが見えた。
彼は何らかの受け答えをヘラヘラとしていたが、首根っこを捕まれて中へと引きずり込まれていく。お盆が落ちて、赤やら青やらの色をした体に悪そうな色の料理らしきものが中から溢れたのが見えた。
「せっかくの料理が!」
デスコックの悲しそうな言葉だけが、由絵の耳にはっきりと聞こえた。
「おう、せっかくだ。話があるならここでゆっくり聞こうじゃないかよ兄ちゃん」
デスコックを連行した魔人は、太い両腕で彼の両肩を押さえつけてソファへと座らせた。
事務所内はタバコの臭いに満ちていて、三人の魔人構成員が敵意に満ちた視線を集中している。
事務所内はタバコの臭いに満ちていて、三人の魔人構成員が敵意に満ちた視線を集中している。
「ウチに何の用だって?」
「料理。料理が」
「料理。料理が」
黒コートの不審者はさめざめと泣いていた。
「皆さんのために、一晩かけて作ったんです」
「はははは、頭が変なら病院でも紹介してやろうか」
「あ、じゃあ俺が二、三発殴っていいっすか。取り押さえる時に抵抗したからってことで」
「うう。あのう……」
「はははは、頭が変なら病院でも紹介してやろうか」
「あ、じゃあ俺が二、三発殴っていいっすか。取り押さえる時に抵抗したからってことで」
「うう。あのう……」
にわかに暴力の気配が漂い始めると、デスコックは申し訳無さそうに顔を上げた。
「厨房はどちらですか? 料理人として……皆さんの料理を作り直させていただきたいんです」
「ああ、いいよいいよ。泣くなって。ちゃんと立てるか? ほら」
「ああ、いいよいいよ。泣くなって。ちゃんと立てるか? ほら」
肩を貸すように見せて、若い構成員が膝蹴りを叩き込んだ。
デスコックは足をもつれさせてその場に倒れた。
デスコックは足をもつれさせてその場に倒れた。
「ハハ。おいおい、だから言ったろ。転ぶんじゃねえよ。なあ?」
「ハハハハハハハハハ」
「え、えーと……厨房は、どちらですかねえ」
「ハハハハハハハハハ」
「え、えーと……厨房は、どちらですかねえ」
地面に這いつくばったデスコックは半泣きで尋ねた。その頬に蹴りが飛んだ。
「お前みたいな、ただのイカれ野郎がよ」
さらにもう一発。
「分かるか? 社会じゃあ、魔人と一緒くたにされてんだよ」
周囲の構成員も暴行に加わり始めた。蹴られる。殴られる。魔人特有の筋力で、何度も。
デスコックは嘔吐し、少ない胃の内容物を吐き出した。そこには血も混じっていた。
デスコックは嘔吐し、少ない胃の内容物を吐き出した。そこには血も混じっていた。
「だから俺達が苦労するんだろうが? あああ?」
「すみません、すみません、げへ、えへへへ」
「すみません、すみません、げへ、えへへへ」
低頭平身のまま、デスコックはその場を動こうとした。性懲りもなく、厨房を探しに行こうとしたのかもしれない。
「歩けって言ってねえだろ」
一人の構成員の靴底がデスコックを再び蹴り倒した。
「おい、こいつコートの中は裸じゃねえのか」
「露出狂の変態かよ」
「ははははは」
「へへへへ……」
「露出狂の変態かよ」
「ははははは」
「へへへへ……」
「あれ」
その膝が逆向きに曲がった。
関節ではないところも折れていて、白い骨が中から覗いていた。
関節ではないところも折れていて、白い骨が中から覗いていた。
「いっ、痛でええっ、あっ……ぎえっ」
「げ、げへ、げへへへへへ」
「げ、げへ、げへへへへへ」
俯いたまま、黒コートの男は不気味な笑い方をしていた。
常人であれば呼吸もままならないほどのダメージであるはずなのに、先ほどと同じ言葉を言った。
常人であれば呼吸もままならないほどのダメージであるはずなのに、先ほどと同じ言葉を言った。
「あの。厨房は、どちらですかねえ」
「おい、お前」
「おい、お前」
――魔人の刺客かもしれない。
脚を折られて悶える一人も含め、三人の頭にその思考が過ぎった。
脚を折られて悶える一人も含め、三人の頭にその思考が過ぎった。
常識を逸脱した変態的な装い。敢えて攻撃を受けるためであるかのような狂った言動。狂人と魔人が世間で同一視されることには、その両者の振る舞いに少なからぬ共通点があるためだ。
「おい、なあ」
血と、それ以外の何らかの液が中からドクドクと流れ出していく。
呼びかけていた一人は、呆然と呟く。
呼びかけていた一人は、呆然と呟く。
「殺っちまったのかよ」
「しょうがねえだろ……魔人相手なら手加減してらんねえよ」
「げへへ、そうですね」
「しょうがねえだろ……魔人相手なら手加減してらんねえよ」
「げへへ、そうですね」
彼らの会話に答えた者は、足元の死体だった。
「そうですね。そうですね。りょ、料理がないので、つ、つ、作らないと」
デスコックはおよそ人体のバランスを無視したような動きで、踵を支点にして起き上がった。後頭部を叩き割られた衝撃で片目が飛び出していた。脳の損傷のためか、彼は支離滅裂な言葉を発した。
「げへへへ。ご注文はどちら様でしょうか」
「てめえ――」
「てめえ――」
魔人達が動いた。拳で触れた対象を時速80kmに加速する『車道ボクシング』。過去に接触した物品を一瞬にして手元に転送する『ミクロクローク』。
転送された拳銃が横合いから火を吹き、デスコックの側頭部を吹き飛ばした。彼は前方の魔人へと腕を伸ばしていた。それと交差するように『車道ボクシング』の拳がデスコックの胸部に到達――しなかった。
デスコックの手刀はそれよりも遥かに恐るべき速度で、手首までを魔人の喉元に突き刺していた。
デスコックの手刀はそれよりも遥かに恐るべき速度で、手首までを魔人の喉元に突き刺していた。
「げ、へへへへへ!」
「さ、さ、三枚おろしィ――ッ! ぐげへっ、げーっへへへへへへへへ!!」
「な、なんだよ。なんで死なねえっ、おい!」
「な、なんだよ。なんで死なねえっ、おい!」
もう一人の魔人は拳銃を構えたまま、恐慌状態で叫んだ。
不死身の魔人能力者なのだろう。恐らく、多分。説明のつく事柄だ。
だがそれ以上に、その挙動は怪物的だった。
不死身の魔人能力者なのだろう。恐らく、多分。説明のつく事柄だ。
だがそれ以上に、その挙動は怪物的だった。
黒コートの男はふらふらとその一人も始末しようとした。
「た、助け……」
床に蹲っている、脚を折られていた魔人が魔人能力を発動していた。
デスコックの上下左右前後に白い板が出現し、彼を隙間なく閉じ込めた。
破壊不能の六面体の防壁で対象物一つをパッケージングする『獄監地獄』。
デスコックの上下左右前後に白い板が出現し、彼を隙間なく閉じ込めた。
破壊不能の六面体の防壁で対象物一つをパッケージングする『獄監地獄』。
間一髪死を免れた拳銃の魔人は、尻もちをついた。不死の魔人だろうと、行動不能にしてしまえば何ということもない。
「上の……階に、加治木さんを呼びに行け。あと、119番だ……」
「お、おう。脚……折れてるからな。なんだろうなこいつは。野々原のやつの報復かな」
「……」
「お、俺は使用人の奴しか殺してないんだぞ。なあ」
「ごぼっ」
「お、おう。脚……折れてるからな。なんだろうなこいつは。野々原のやつの報復かな」
「……」
「お、俺は使用人の奴しか殺してないんだぞ。なあ」
「ごぼっ」
脚の折れた魔人から返ってきたのは奇妙な答えだった。
その腹部から指が生えていた。人間の右手だった。
同じ傷口からさらに左手が生えた。床から生えた両腕がミシミシと人体を広げて、彼を完全に真っ二つに引き裂いた。
その腹部から指が生えていた。人間の右手だった。
同じ傷口からさらに左手が生えた。床から生えた両腕がミシミシと人体を広げて、彼を完全に真っ二つに引き裂いた。
「ヒ、ヒイイイイイ!?」
「か、かかっ、加治木様に、ぜひお料理、を」
「助けっ、やめろ! やめろ! おい!!」
「助けっ、やめろ! やめろ! おい!!」
銃声が続けざまに鳴った。撃鉄がガチガチという音を鳴らすだけになっても、その魔人は引き金を引き続けた。デスコックがその顔面を掴んだ。頭蓋骨が軋みを上げた。
「み、味噌汁……お味噌汁をですね」
デスコックは朦朧とした意識のままでズルズルと拳銃の魔人を引きずり、頭部を給湯室の流し台に叩き込んだ。
彼は顔面を排水口に押し付けられる形となった。
彼は顔面を排水口に押し付けられる形となった。
「ごっ、オウッ」
「熱々のお味噌汁が、やっぱりおいしいですから」
「熱々のお味噌汁が、やっぱりおいしいですから」
恐ろしい力で顔面を排水口に押し付けたまま、デスコックは給湯器の熱湯を全開にした。
魔人の手足がバタバタともがき、デスコック自身の右手も熱傷を負っていくが、顔面を排水口に押し付ける恐ろしい膂力が緩まることは決してなかった。
魔人の手足がバタバタともがき、デスコック自身の右手も熱傷を負っていくが、顔面を排水口に押し付ける恐ろしい膂力が緩まることは決してなかった。
「ゴブッ、ガババッババ、バ、ア」
「豆腐かな。わかめかな。なめこかなあ。げへ、げへへへへ」
「豆腐かな。わかめかな。なめこかなあ。げへ、げへへへへ」
バタバタともがく動きは次第に弱まっていった。
熱湯で茹で上がり膨れた水死体の顔面が排水口を塞いでいるので、熱湯は流し台を満たして溢れ続けていた。
熱湯で茹で上がり膨れた水死体の顔面が排水口を塞いでいるので、熱湯は流し台を満たして溢れ続けていた。
「加治木様ぁーっ」
その調理に満足したのか、デスコックはふらふらと次の犠牲者を探し始めた。
加治木は上の階にいるという会話から反射的に行動しているのかもしれない。
加治木は上の階にいるという会話から反射的に行動しているのかもしれない。
「『Restaurant 死』のデスコックが、お料理をお持ちしましたよぉーっ」
全裸でゲラゲラと笑い続ける男の表情は虚ろだ。
デスコックは魔人以上の暴力の化身だった。
デスコックは魔人以上の暴力の化身だった。
五階に踏み入ったその時、角の向こうから伸びた手がデスコックの左手首を掴んだ。
その皮膚に一瞬にして霜が走り、肌が紫色に変色していく。
その皮膚に一瞬にして霜が走り、肌が紫色に変色していく。
「あなた、終わりね」
野々原家を襲撃した魔人のうち一人は女だった。接触した生体を伝染的に凍結する魔人能力の名を『コーリング・ユー』という。
「もうその凍結の進行は止められ」
左腕のチョップが女の首を切断していた。
女が掴んでいたのはデスコックが自ら切断した左腕だった。生え変わった左腕をだらりと下げて、彼は女の死体を踏みにじって奥へと進んでいった。
女が掴んでいたのはデスコックが自ら切断した左腕だった。生え変わった左腕をだらりと下げて、彼は女の死体を踏みにじって奥へと進んでいった。
その全身は信じられない量の返り血で赤く染まっていて、両目だけが白く光っていた。
一階から四階までの魔人構成員がひとり残らず皆殺しにされていることは間違いなかった。
一階から四階までの魔人構成員がひとり残らず皆殺しにされていることは間違いなかった。
「お料理を用意してきたんです。野々原由絵様からのご注文です」
「は。はは。あの家のガキか」
「は。はは。あの家のガキか」
――犯行を見ていたのか。
あの時、人数を確認していれば。その一言さえあれば。
悪夢のような後悔だった。
あの時、人数を確認していれば。その一言さえあれば。
悪夢のような後悔だった。
「料理……俺が料理を食えば、いいんだな」
「ええ。ぜひ召し上がっていただきたい!」
「ええ。ぜひ召し上がっていただきたい!」
デスコックは足元の女の首筋をおもむろに掴んで、近くの仕事机で叩き割った。卵を割るように、中身が容易く露出した。
血まみれの顔を明るく綻ばせて、料理人は言った。
血まみれの顔を明るく綻ばせて、料理人は言った。
「どうぞ、召し上がれ!」
「……」
「……」
加治木は、机の上にぶち撒けられた脳髄を眺めた。
この男は完全な狂人だ。誰にも制御不可能な暴力だ。
だが完全な狂人であるからこそ、その狂気のルールに従いさえすれば……
この男は完全な狂人だ。誰にも制御不可能な暴力だ。
だが完全な狂人であるからこそ、その狂気のルールに従いさえすれば……
「わ、わかった。食べよう」
「前菜ですからね」
「前菜ですからね」
椅子に座った加治木の耳に、デスコックは恐るべき一言を告げた。
「げ、げへへへへへ。一人分だったのですが、少しばかり作りすぎてしまっていて。建物がいっぱいになるくらい。熱々の豆腐のお味噌汁と皮をパリパリに焼いた塩サバ、一晩漬け込んだ浅漬け……しかも、しかもですよ?」
それは絶望的な宣告だった。
「無料なんです」
――机に突っ伏した加治木恭平の死体が発見されたのは翌日のことだった。
元の姿が分からないほどに膨れ上がり、体内にはおぞましい内容物を詰め込まれていた。
元の姿が分からないほどに膨れ上がり、体内にはおぞましい内容物を詰め込まれていた。
「由絵様ぁーっ」
彼女が隠れる廃屋に響いた声に、由絵はびくりと身をすくませた。
雑居ビルで繰り広げられた惨殺は、建物の外から見ていてもなお恐ろしい地獄だった。
雑居ビルで繰り広げられた惨殺は、建物の外から見ていてもなお恐ろしい地獄だった。
「えへへへ」
扉を開けて、黒いコートを纏ったデスコックが佇んでいる。
この廃屋の出入り口はそこにしかなかった。
この廃屋の出入り口はそこにしかなかった。
「加治木様は、当店の料理に大変ご満足していましたよ」
「そう……そうなの」
「そう……そうなの」
由絵は落涙した。
――暴力に暴力で復讐するのは愚かなことです。
――暴力に暴力で復讐するのは愚かなことです。
「……私は、やっぱり、間違ってたのかしら」
「どうしてですか?」
「どうしてですか?」
心底不思議そうに、デスコックは首を傾げた。
「由絵様は、家族の仇とすらいえる加治木様を許して……美味しい料理でおもてなしすることを、わたくしに依頼してくださいました。いいですか、由絵様」
記者から聞いたことは全て正しかった。
デスコックは狂人で、魔人で、誰にも勝てない殺し屋だった。
デスコックは狂人で、魔人で、誰にも勝てない殺し屋だった。
「美味しい料理でお客を笑顔にすること以上の正義なんて、ありません」
「……そうね」
「……そうね」
……けれど。
由絵の涙の理由は、恐怖だけではなかった。
由絵の涙の理由は、恐怖だけではなかった。
もしもこの狂人が本当にその幸せを信じていて、心からそうしたいと思っているのだとしたら。
そうだとしても魔人の暴力性と狂気が、その正反対の結末しかもたらさないのだとしたら。
それはどんなに残酷で、悲しいことなんだろう。
そうだとしても魔人の暴力性と狂気が、その正反対の結末しかもたらさないのだとしたら。
それはどんなに残酷で、悲しいことなんだろう。
「ああ、そうだ。由絵様にもサービスの一品を提供したいのです」
デスコックはヘラヘラと笑った。
「今、プリンをお作りしましょう」
「……私にも、料理を作るのね。デスコックさん」
「……私にも、料理を作るのね。デスコックさん」
そうだ。あの地獄の光景の引き金を引いたのは自分だ。
何もなければ、自分がバカな子供のふりをしたままだったなら、こんなことは起こらなかった。
野々原由絵は復讐の連鎖を止めることを選べなかったから。
何もなければ、自分がバカな子供のふりをしたままだったなら、こんなことは起こらなかった。
野々原由絵は復讐の連鎖を止めることを選べなかったから。
「ええ、お子様でも、私にとっては大事なお客様ですから」
コートの内側から、デスコックがそれを取り出した。
目を逸らしてはならないという意志に反して、由絵は固く目を閉じてしまう。
目を逸らしてはならないという意志に反して、由絵は固く目を閉じてしまう。
「――どうぞ、由絵様」
目を開ける。
彼の手にはプリンが握られている。市販の、プラスチックケースに入ったプリン。
何の変哲もない平和な日々に、由絵がいつも食べていたような。
彼の手にはプリンが握られている。市販の、プラスチックケースに入ったプリン。
何の変哲もない平和な日々に、由絵がいつも食べていたような。
「えへへへ。無料のサービスなので、拾い物で恐縮ですけど」
デスコックは恥ずかしげに頭を掻いた。
家族の思い出が、あの頃の全てが、後悔と悲しみが。
全ての感情が堰を切って溢れて、由絵は泣いた。
全ての感情が堰を切って溢れて、由絵は泣いた。
「あ、ああ、泣かないでください」
デスコックはおろおろと慌てた。由絵の小さな肩に触れようとして、どうすればいいのか分からないようだった。
彼女は泣きながら、プラスチックのスプーンでプリンを食べた。
レストランでは間違っても出てこないような、一個100円もしないプリンだった。
彼女は泣きながら、プラスチックのスプーンでプリンを食べた。
レストランでは間違っても出てこないような、一個100円もしないプリンだった。
「おいしい」
ポロポロと、止めどなく涙が流れていた。
「とてもおいしいわ。涙が出るくらいなの」
「……そうでしたか」
「……そうでしたか」
デスコックは笑っていた。
安心したように、もしかしたら悲しそうに。
安心したように、もしかしたら悲しそうに。
「お粗末様です」