レギオン





本当に大丈夫だから。
そんな、何度目かとなる囁かなる抵抗は結局虚しく終わる事となり、真冬のシャツは半ば強引に少女に捲り上げられた。
怪我人の意思を無視して行われる手当てだが、それも厚意によるものなのだから無下にするのも躊躇われる。已む無く、真冬は少女におとなしく従う事にした。
簡単な応急処置を施しただけだが、しっかりと患部を押さえてくれていた脇腹のガーゼがベリベリと音を立てて無遠慮に引き剥がされる。傷口が空気に触れ、少し沁みた。

「うわ、いったそ~」

銃弾の走った痕を見て、少女は率直に顔を顰めた。
心配そうに、と言うよりは、まるで自身が脇腹に痛みを覚えたかの様な表情だ。

「そうだ、傷口洗わなきゃ! お水お水」

少女は立ち上がり、パタパタと慌ただしくキッチンに駆け込んでいく。
その後ろ姿に真冬は、本当に深紅とは随分と違うな、と仄かな苦笑を漏らしていた。

二人が今居るのは、出会った路上からすぐ近くにある民家のダイニング・ルームだ。
ここに来るまでの短い道程の中で済ませた簡潔な自己紹介によれば、少女は名前を福沢玲子といった。
幼さ、あどけなさの残るその外見と仕草から漠然と中学生位だろうと考えていたのだが、予想に反して彼女は鳴神学園という高校の一年生らしい。
これでいて妹である深紅と一つ違いというのだから驚きだ。見た目も、落ち着きのなさそうな性格も、とても深紅と近い年頃のものとは思えなかった。
無論、人の性格など十人十色。年齢だけで一括りに出来るはずもない。
そんな事は真冬も重々承知だが、同じ年頃の妹を持つ身としては無意識に比べてしまうものだ。

(深紅……)

自宅を出発する際、不安気な表情を浮かべて自分を見送った引っ込み思案な妹の事を、真冬はついつい思い返す。
深紅は、幼い頃に両親を亡くしてからは自分以外に心を開こうとはしなかった。
同性であれ異性であれ、深紅が真に心を通わせられる友人の存在は真冬の知る限りでは一人もいない。
兄として頼られるのは悪い気はしていないが、自分もいつまでも側にいてやれる訳ではないのだ。
もう少し明るく成長してくれて、他人と打ち解けられる様になってくれるといいのだが。
例えば、そう、玲子のように明るくなってくれれば――――。

「きゃあーーーっ!」

そんな思いに耽ていた真冬の耳に届いたのは、甲高い悲鳴。玲子の入ったキッチンからだ。
まさか、怪物がいたのか。そう言えば家内の安全を確かめてはいなかった。何かが潜んでいたとしてもおかしくはない。
電車を徘徊していたナースの姿が脳裏をよぎり、鉄パイプを持ち上げた手に力が篭もった。

「福沢さん!」

呼びかけに、反応がない。
まだ出血が止まった訳ではない傷口にシャツが直接かかる事も厭わず、真冬は玲子の後を追ってキッチンに飛び込んだ。
果たして、怪物は――――何も、いない。そこには玲子がいるだけだ。玲子は、顔を恐怖に引きつらせて背後の茶箪笥にもたれかかっていた。
どうしましたか。そう口にする前に巡らせた視線が、玲子の表情と悲鳴の理由を解き明かす。
彼女が捻ったのだろう。蛇口から水が静かにシンクに流れ落ちている。その水が、ここに来る途中で見た湖と同じような赤色で染まっていたのだ。
赤錆にしては鮮やか過ぎ、どこか幻想的にも見える色合いの水。じっと見つめていると、意識がぼんやりと霞んでくるようだった。
胸の奥が不意にざわめき立った。背筋を走る悪寒に突き動かされる様に、真冬は蛇口を締めた。

「ししし、死体……」
「死体?」
「き、きっと死体が入ってるんです! ここの貯水タンクに! だから血の混じった水が出てくるんだわ!」

後ろで玲子が少々興奮気味に、冷静さを欠いた様子で言った。
確かにそれはそれで気味の悪い話だが、違う。今の水はそんな現実的な説明がつけられる代物ではない。
間近で見て理解した。あれは、真冬がいつからか見えるようになっていた『ありえないもの』に近しい存在だ。
人の理解を超えた、人が触れてはならない世界にある存在。
もしも触れればどうなるか――――悪霊に取り憑かれる事と同様であれば、精神を病んでしまうか、身体に異常を来すか。
どうであれ、ただで済むとは到底考えられない。

「落ち着いて。ここは一軒家だから貯水タンクは取り付けられていません。
 死体なんかじゃなくて、今のは多分大量の赤錆か何かでしょうから、心配ありませんよ」
「…………え? あ。そうか……そうですよね」

ただ、そうと感じていても、それをわざわざ玲子に伝える必要はない。
それでなくても今はいつ恐怖に囚われても不思議の無い状況だ。
無意味に怖がらせては、パニックや錯乱を引き起こす事に繋がりかねない。
ここは、玲子をあの水から遠ざける。それだけで良い。

「それはともかくとして……とりあえず手当ては止めにしましょう。
 こんなに濁った水で傷口を洗ったら余計に傷を悪化させてしまいますからね」
「あっ! そうだ!」
「……どうしました?」
「もしかしたらきれいなお水あるかも!」

言いながら、玲子はまたパタパタとダイニングに戻って行く。
切り替えが早いというか何というか。真冬は顔に2度目の苦笑を浮かばせて玲子の後について行こうとし、ふと足を止めてシンクを振り向く。
蛇口からは締め方が甘かったのか、赤い水滴が1滴、また1滴と垂れていた。
人が触れてはならないもの。近寄る事は可能な限り避けたいが、落ち続ける雫をそのままにしておいてもいいものだろうか。
蛇口を締め直すべきか、少しだけ迷う。その間に水滴の落ちる間隔は段々と長くなり、やがてシンクは静かになった。
水滴の止まった蛇口をしばらく眺めて、真冬はキッチンを後にした。




ダイニングに戻ると、玲子は自身のバッグを抱えて一枚の用紙を眺めているところだった。
水があるかも、と言っていたのだから、バッグの中に水筒でも入れていたのだろうか。
玲子の持つバッグは運動部の学生が部活動で使用する類のバッグのようだ。水筒を持ち歩いていたとしても不思議はない。
しかし、もしも玲子がその水筒の水を使って手当てをするつもりならば、それは絶対に断らなくてはならない。
水道から得体の知れない液体が出て来るこの世界では、飲料水はいつ手に入れられるかも分からない貴重品だ。自分の手当てなぞに使用する訳にはいかない。
真冬はその旨を伝えるべく声をかけようとして、玲子の様子がおかしい事に気付いた。キッチンの時よりも彼女の顔色は悪く見える。

「どうかしましたか?」
「こ、これ……」

玲子は蒼白の顔面を真冬に向けて、その用紙を差し出した。
それは、駅で流れた陽気なDJによる放送の内容を裏付ける、この街を支配しているルールの説明書きだった。
何気無しに裏面を見れば、そこには『呼ばれし者』と表題のつけられた名簿も記載されている。
これが、この街に迷い込み、殺し合いを強要されている人間の名前なのだろうか。
福沢玲子、ジェイムス・サンダーランドの名前もその中には確かにある。
そのまま視線を下げていけば、用紙の下部には自分の名前も見つかった。更に――――。

「深紅……!?」

心臓を鷲掴みにされたかのような驚愕と共に眼に飛び込んできたのは、その隣にある『雛咲深紅』の文字。妹の名前だった。
真冬は言葉を失った。深紅までもがこの世界に囚われてしまったというのか。一体、何故。
自分はともかくとしても、あの大人しい妹がこんな場所で裁かれるような罪を犯しているとはどうしても思えない。

「ミクって……誰なんですか?」
「……僕の、妹です。どうやら僕達と同じ様に、この街に迷い込んでしまったようですね。
 ところで福沢さん。この用紙は、どこに?」
「んーと……バッグの中なんです。ペットボトルでも無いかと思って探してたんですけど……」
「バッグの中? 貴女のそのバッグの中ですか?」
「あ、これ私のじゃないんです。説明すると長くなっちゃうんだけど――――」

そう前置きして、玲子はこの世界に入り込んだきっかけと、これまでの経緯を簡潔に語り始めた。
彼女は放課後の水泳部部室でロッカーに引きずり込まれ、気付けばこの街のあるアパートにいたらしい。
バッグはその時に側に落ちていたものだという。つまりは、この街で用意された物。名簿が何かの間違いという可能性は少ないようだ。
となれば、深紅もまたこの世界に迷い込んでいる。それは事実として受け入れなければならないという事か。
無意識に、真冬は悲痛で顔を歪めていた。そんな彼を気遣ったのか、いつの間にか玲子は話を止めて気まずそうな表情を真冬に向けていた。

「ああ、すみません。……ついでに続きもお願いします」

深紅の事はとりあえず置いておくしかない。真冬は無理に笑顔を作り、話の先を促す。
迷いながらも再開された玲子の回想は、そのアパートで荒井という学校の先輩に再会し、少しの間だが一緒に行動していた事、
そして、その荒井も怪物に殺され、街をさ迷っている時に真冬と出会ったのだという事までを話して終わった。

「アライ……アライ?」

名簿を見返しながら話を聞いていた真冬は、一つだけ違和感を覚えた。
玲子がしばらくの間一緒に行動していたという『荒井昭二』。彼の話についてだ。何度名簿を見返してみても、その中に荒井の名は見当たらなかったのだ。

「すみません、荒井君というのは――――」

真冬は率直に疑問を口にしようとした。しかし、その問いかけは――――家内の何処からか聞こえてきた金属音によって遮られた。
ガン、と何かを叩くような重く、鈍い金属音。それが、ダイニングまで響いてきたのだ。
思わず口を閉ざし、二人は耳を済ませた。
音は、一度では終わらない。ガン、ガン、と。重い金属同士が忙しなくぶつかり合うような鈍い音が、止む事なく響き始めていた。

「何なんですか、あの音……」

抑えた声だが、堪えきれない不安を玲子が吐き出した。
そう問われても真冬にも音の正体の見当は付かない。
答えて安心させてやりたいのは山々なのだが――――。

「話の続きは後にしましょう。ちょっと、見てきます。
 ……福沢さんは念の為にいつでも逃げられる準備をしておいて下さい」
「逃げるって……そ、外に!?」

玲子が窓の外に怯えの色を浮かべた目を向ける。
確かに外には異形の怪物が徘徊している。真冬が玲子に出会う前には、付近からは激しい銃声も聞こえてきていた。
出来る事なら家の中に篭っていたいと、そう願う気持ちは理解出来るが、それを状況が許してくれるのか。

「もしもの場合は、です。何でもなければそれで良いんですから。
 ……とにかく確認してきます。ここを動かないで」

血に濡れた鉄パイプと、氷室邸を探索する際に使うつもりだった懐中電灯を躊躇いがちに握ると、真冬はダイニングのドアを開いた。
金属音が若干大きくなる。それ以外の音は、今は何も聞こえない。
殆ど視界の利かない暗闇の廊下に懐中電灯の明かりを差し込むと、汚れと錆で飾り立てられた世界が浮かび上がった。
左右に光を巡らす。とりあえず見える範囲に異常はない。
身体を廊下に出し、落ち着かない様子で見送る玲子に頷きかけると、真冬は静かにドアを閉めた。
耳を澄ませ、金属音の確認をする。音の鳴る方向は玄関側ではなく、家内の奥のようだ。
明かりを廊下に向け、慎重に1歩を踏み出した。極力気配を殺そうとする真冬を嘲笑うかのように、足元の床板がギィッと軋んだ。
予想外の物音にハッと視線を落とし足を止めるが、鳴り続けている金属音は別段に変化を見せなかった。
音は一定間隔で鳴っている訳ではないが、数秒以上の間を開ける事もなく。ただ不規則に、ひたすらに、鳴り続けている。
前を向き直し、歩みを再開する。床板を軋ませながら一歩ずつ近づいていく。近付くに連れ、音は大きくなる。
鉄パイプを握り締める手に、高まる緊張で強張る顔に、冷たい汗が滲んでいた。

と、真冬の動かした円形の明かりが、数m先の左手のドアを照らし出した。
手前と、奥。ドアは2つある。その幅は、約3~4mと言ったところか。
真冬は手前のドア付近まで進み、耳に意識を集中させた。
金属音はドア側の壁の向こう――――ドアとドアの中間程の位置から響いて来る様だ。
つまりは、恐らくこのどちらかのドアの向こう側という事なのだろうが、どちらが正解なのか。そこまでの判別はつけられそうにない。
暫し、逡巡。薄汚れた2つのドアを、迷いの混じった明かりと視線が行き来する。
数秒の後、真冬は手前のドアを開く事に決めた。判別出来ないなら、近い方からだ。
鉄パイプと懐中電灯を一纏めにして右手で逆手に持ち、錆び付いたドアノブを左手で掴んだ。
ノブを捻り、ドアを押す。やはり錆び付いていた蝶番が音を立てた。ドアに若干の重さを感じるが、それも錆のせいか。
半分程ドアを開くと、中から独特の悪臭が漂ってきた。ここはどうやらトイレだった様だ。
怪物の類が飛び出してくる事にも注意を払っていたが、その様子もない。そのまま慎重にドアを開いていく。すると――。

「はっ……!」

真冬は目を見開いた。個室内に居たのは、男子学生の死体だった。
壊れているのか、水が溜まってもいない便器。それに顔を突っ込むかの様に男子学生の死体が伏している。
いや、正確には『男子学生らしき者の死体』だ。その死体が本当に男性であるのか、まだ真冬には分からない。
死体は、白骨化していたのだから。男子学生だと推測出来るのは、骸骨が纏っている男性用の制服のおかげだ。
そのズボンとシャツは骸骨の骨格と比べてやや大きめに映った。
それがこの人物の物だと素直に受け取るのなら、彼は少々肥満体だったのかもしれない。

(彼も犠牲者なのだろうか……?)

金属音はやはり変わらず鳴り続けていた。
懐中電灯を左手に戻し、トイレの隅々に光を入れる。死体以外には特に異常はない。音が鳴る様な物も無い。要するにこちらは外れだ。
ただ、一つだけ気になる物があった。骸骨の側の床に黒っぽい小さな手帳が落ちているのだ。
死体には若干の恐怖は感じているが、それでも、真っ二つに捌かれていたジェイムスの死体を見た時程の衝撃はない。
異を決して、真冬は手帳に近寄った。手帳には所々血液が付着していた。
ゆっくりと手を伸ばし、そして、それに触れる。



――――――――頭の中に、残留思念が流れこんできた。




白と黒。単色で描き出された誰かの思念。
そこは、どこかのトイレの様だ。個室しかないところを見ると女子トイレか。
三人の学生が居る。一人はやや肥満体の少年。一人は幼さの残る少年。
そしてもう一人は、奇妙な白い仮面を被っている女生徒だ。
肥満体の少年は、驚くべき事にトイレの天井に張り付くように浮かんでいた。

『嫌だ! 嫌だよ! 助けてくれよっ!』

肥満体の少年が天井に吸い込まれていく。まるで水の中に沈む様に。

『うわあーーーーーーっ!』

絶叫を残し、肥満体の少年の姿は天井に飲み込まれた。
幼さの残る少年は、唖然として天井を見上げていた。
彼は怯える小動物の様に、震えながら、ゆっくりと、視線を天井から外して仮面の少女へと動かしていく。
少年と少女の視線が混じり合い、そして――――。




そこで、残留思念は途切れた。
左手の中に何かの感触がある。視線を落とせば、そこにはいつの間にか手帳が握られていた。

「鳴神学園……。細田、友晴……?」

それは、高校の生徒手帳だった。
鳴神学園。そこは玲子の通っているという高校のはずだ。そう言えば仮面を被っていた少女は玲子と同じ制服を着ていた。
しかし、細田友晴。その名前には心当たりがない。記憶を辿ってみても、名簿には記載されていなかったように思う。
最初のページを捲ると、手帳の所持者の顔写真が貼り付けられていた。
その顔は見間違えようもない。残留思念の中で天井に飲み込まれて消えたあの肥満体の少年だ。
真冬は骸骨に目を向ける。やはりこの死体が彼なのだろう。
ならば、この細田友晴もジェイムスと同様だという事だろうか。
天井に飲み込まれた後、何らかの罪を償わせられる為にこの街に呼ばれ、裁かれたという事なのだろうか。
しかしそれならそれで疑問が生じる。何故彼はジェイムスや自分と違い名簿に名前が載っていない。何故彼がここで死んだ時の残留思念が残っていない。
或いは死体だけがこの世界にやってきたのか。それは何の為に。どんな理由で。いや、意味などは無いのかもしれないが。
この細田友晴に話を聞ければ何かしらの答えが出るのかもしれないが、残念ながらその魂の気配も付近には感じられなかった。

仕方がない、と真冬は小さく頭を振り、纏まらない思索を打ち切った。
考えていても答えは出ないし、今はそれよりもする事がある。
壁の向こうからは今も金属音が続いている。現時点ではその確認をして安全を確保する事が最優先だ。
細田友晴の事は気になるが、名簿に載っていない人物でこの世界に来ていたのは彼だけではない。先程玲子が話していた荒井も同じだ。
機会を見つけ、荒井という少年の所に行ってみよう。
この世界で死んだのか、死んでからこの世界に来たのかが分からない細田と違い、荒井ならば死んで間もないのは確かだ。まだ霊魂が死体の側にいる可能性は高い。
もし話せれば、細田友晴の事も含めて何かが分かるかもしれない。

トイレから出ようと、真冬が骸骨に背を向けて廊下に戻ろうとした時だった。背後で、カサリ、と気配がした。
ハッと身体を返し、懐中電灯を向ける。便器の中を覗き込んでいた頭蓋が、黒く大きな目でこちらを見つめていた。
いや、見つめていただけではない。頭蓋は小刻みに動き、僅かながら便座から持ち上がったではないか。

まさか。

冷静になろうと努めるが、動揺は隠しきれない。
息を呑み、後退りをした。まさか、こんなものまで襲ってくるというのか。
真冬の恐れが胸中で膨らみかけた次の瞬間――――頭蓋と便座の間から黒い物体が姿を覗かせた。

「これ、は……!?」

その物体は、虫だった。それも、相当に大きい。15、いや20cmはありそうだ。
信じられない大きさだが、形状から判断すればその虫は、ゴキブリだ。それ以外の何物でもない。
そいつは一旦動きを止め、何かを探る様に二本の触覚を円を描くように動かしている。どこに目があるのかは良く知らないが、真冬をじっと見据えている様な気がした。
頭蓋が動いていたのは、便器の中からこの虫に押されていたせいか。
ゴキブリが動き出した。便器を伝い降り、真っ直ぐに真冬へと向かってくる。持ち上げられた頭蓋はゴキブリが通り過ぎた後は、軽い音を立てて便器にぶつかり動かなくなった。
特別に虫が苦手という意識は無いのだが、流石にこの悍しさには真冬も身を震わせた。
慌ててドアノブを掴み、勢い良くドアを閉める。内側から、ドアに激突する音が響いた。
2度。3度。ドアに衝撃が走る。巨大ゴキブリが体当たりを繰り返している。
有り得ない。あれ程に巨大化している事もそうだが、ゴキブリが人に向かってくるなど有り得るはずがない。
――――いや、この世界はそもそもが異常。ここにいる生物を常識で測ろうとしても無意味なのかもしれないが。

衝撃が、止んだ。諦めたのだろうか。真冬はホッと息を吐き、肩の力を抜く。
直後、一際大きな金属音と、続けて何かが落下して床を叩く鈍い音が響いた。隣の部屋だ。
それを堺に鳴り続けていた金属音は一切しなくなる。部屋で何か変化が起きたらしい。
真冬は奥側のドアを見据えた。音の正体は、もう間もなく判明する。

奥のドアの前に立ち、先程と同じ要領で鉄パイプと懐中電灯を握り直し、赤錆まみれのドアノブをそっと捻った。
唾を飲み込み、ドアを押す。何かが蠢く気配が部屋から漏れ出した。確実に、何かがいる。
開け放したドアから、真冬は数歩離れた。鉄パイプを構えてしばらく待つが何も出てこない。気配は今もしているというのに。
廊下から室内を照らす。浮かび上がった部屋の様相は、脱衣場のそれ。
半身だけ身体を室内に入れ、隅からゆっくりと光を動かしていく。果たして、蠢く音の正体は――――見えた。
脱衣場の更に奥。曇りガラスに仕切られたそこは、浴室だろう。
その曇りガラスに浴室側から張り付き蠢いている黒い影は、見間違えようもない。トイレにいたのと同じ種類の巨大ゴキブリだ。張り付いているのだけでも4、5匹はいる。
1つの黒い影が浴室内を走り、バンッと曇りガラスに突進してきた。ガラスに張り付いていた連中が衝撃で落下していく。
反射的に床に光を向け、そして真冬は気付いた。黒い影が浴室内の1点から続々と出てきている事に。
あの1点――――あれは、排水口だ。
金属音は、ゴキブリ達が排水口から這い出て来る為に排水筒と排水目皿を破る際の音だったのだ。

(虫が金属を破壊する……馬鹿な)

否定はしてみるものの、それしか考えられなかった。信じ難い事ではあるのだが、他に音の正体らしきものはない。
ガラスに激突した1匹を皮切りに、他の個体も突進を始めていた。走ってくる個体。飛びかかってくる個体。次々と加えられる衝撃が脱衣場内の空気を震わせる。
加減をする気は全くないのか、ガラスに激突してそのまま潰れる個体もあった。白い体液と黒い残骸が曇りガラスに飛び散り、こびりついていく。
そんな姿になる仲間に構おうともせず、そんな姿になる事を躊躇おうともせず、ゴキブリ達は激突を止めようとはしない。何匹も、何匹も、曇りガラスにぶつかっては潰れていく。
何故そうまでして向かって来るのか――――真冬がそう疑問に思うと同時にフラッシュバックしたのは、トイレの少年の白骨化していた姿だった。

(白骨……まさか、このゴキブリは人を食べる……のか?)

何故細田少年がこの世界にいるのか今はまだ分からないが、虫に食われた、とそう考えればあの無残な姿の説明だけはつけられる。
この虫達は今、テリトリー内に餌が入ってきた事に喜び、餌にありつこうとする一心でガラスをも破ろうとしているのだ。
浴室内の様子は最早伺う事が出来ない程に、曇りガラス一面が白と黒で染まっていた。だが、今も虫達が排水口から這い出し続けているであろう事は想像出来る。
曇りガラスに何度目かも分からない衝撃が走った。真冬の耳が、ピシリと、亀裂の入る音を捉えた。
ガラス――――ではない。ガラスよりも先に悲鳴を上げたのは下方の蝶番だった。
一瞬の戸惑いの後、真冬は理解する。
原因は、赤錆だ。赤錆で蝶番が腐り、強度が脆くなっているのだ。排水口が破られたのも恐らくはそのせいか。
次の衝撃で、亀裂の入った蝶番が弾け飛んだ。同様にドアの下部が弾かれ、一瞬だけ開いた隙間から1匹が姿を覗かせた。
隙間から這い出ようとしたその個体は、反動で戻ったドアを潜り切れず、半身を潰されて体液を辺りに撒き散らした。
そこまでを見知って、真冬は大きな音を立てながら脱衣場のドアを閉め、急いで廊下を戻った。
あの曇りガラスが破壊されるのは時間の問題だ。脱衣場やダイニングのドアの蝶番もあの大群の総攻撃を受ければやはり破壊は免れないだろう。
このままこの家にいては、いずれあいつらに押し包まれる。一刻も早く別の場所へ逃げなくては。

「福沢さん!」

ダイニングに飛び込むと、玲子が真冬の剣幕に驚いたように目を丸くした。
荷物は握り締めている。真冬に言われた通り、逃げる準備はしていてくれたようだ。

「ど、どうなっちゃったんですか真冬さん? 何か音が大きくなってません?」
「説明は後でします。とにかくこの家を出ましょう!」
「え? え? え? な、何があったの?」
「いいから、早く!」

真冬は福沢の手を取り、ダイニングを出て玄関に向かう。
ガラスドアが倒れて砕ける耳障りな音と振動を背中に受け、二人は家から飛び出した。


【C-5/路上/一日目夜中】


雛咲真冬@零~ZERO~】
 [状態]:脇腹に軽度の銃創(処置済み→無し)、未知の世界への恐れと脱出への強い決意
 [装備]:鉄パイプ@サイレントヒルシリーズ
 [道具]:メモ帳、射影機@零~ZERO~、クリーチャー詳細付き雑誌@オリジナル、
     細田友晴の生徒手帳、ショルダーバッグ(中身不明)、懐中電灯
 [思考・状況]
 基本行動方針:サイレントヒルから脱出する
 0:とにかく場所を変えなくては
 1:名簿には名前の無かった荒井の霊魂に話を聞いてみたい
 2:福沢からもう少し詳しく話を聞く
 3:この世界は一体?
 4:深紅を含め、他にも街で生きている人がいないか探す


【福沢玲子@学校であった怖い話】
 [状態]:深い悲しみ、固い決意
 [装備]:ハンドガン(10/10発)
 [道具]:ハンドガンの弾(9発)、女子水泳部のバッグ(中身不明)、名簿とルールの書かれた紙
 [思考・状況]
 基本行動方針:荒井の敵を撃ち出来るだけ多くの人と脱出する
 0:真冬さんについていく
 1:真冬と情報交換をする
 2:人を見つけたら脱出に協力する。危ない人だったら逃げる
 ※荒井からパラレルワールド説を聞きました
 ※荒井は死んだと思っています




【クリーチャ基本設定】
ラージ・ローチ
出展:バイオハザード2
形態:複数存在
外見:巨大化したゴキブリ
武器:歯
能力:ゴキブリ。通常のゴキブリよりも凶暴で怪力。1匹1匹の力は然程でもないが群れで行動すれば腐った金属くらいなら破壊できる。
攻撃力:個体による
生命力:個体による
敏捷性:個体による
行動パターン:他の生物を捕食する為に、生物の気配を感知すれば襲いかかってくる。基本的には下水道に生息。
備考:サイズは個体によって様々であり、20cm~40cm程。攻撃力、生命力、敏捷性もその大きさで変化する。





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最終更新:2013年06月26日 20:55