The FEAST 1
一つだけ、腑に落ちた事がある。
幅のそう広くないグレーチングの足場を囲うのは、間隔の広く置かれた格子状で構成される金属製の手摺。
そこから乗り出した半身で、
ハンクは空間に立ち昇る熱を感じていた。
作業員の姿など何処にも見当たらないというのに、遥か下方に見える加熱処理用熔鉄炉は愚直に運転を続けており、そのものが放つ熱気で時折揺らいでいる。
――――やはり同じだ。
幾度めかの記憶の確認を行い、ハンクは確信に至る。
エレベーター前の廊下から続くポンプ室も。
動力室と表記された扉を潜った先の――――この部屋にそびえ立つ、施設の心臓部と思われる巨大な柱の様な機器類も。
そして、下階に確認出来る熔鉄プール室も。
この大学の地下階層は、ハンクらU.S.S.αチームが
G-ウィルス回収の為に突入し、結果崩壊する運びとなったラクーンシティのアンブレラ地下研究所と酷似しているのだ。
今のところ確認したのはたったの数部屋ではあるが、異なる部分と言えば、設置された金網や器材等の細かな部分を除けば、廊下の長さと荒れ果てている様相くらいのものだ。
何故、これ程までに似通っているのか。
単なる偶然、である筈がない。全く別の街にある二つの巨大施設の間取りと設備が全く同じ物となる偶然など、有り得ないのだから。
無論そうなる可能性が100%無いのかと問われれば否定し切る事は不可能だが、しかし、そんなものは所詮は確率論の戯言。
現実的に捉えるならば、単なる偶然だけで一致する確率は0と見做すべきなのだ。
偶然とするよりは、何者かの意志によりラクーンの研究所を模して造られたと考える方が遥かに自然であり、筋が通る。或いはラクーンがこちらを模した物なのか。
つまるところ――――ここの『ラクーン大学』もまた、ラクーンシティ研究所と同じくアンブレラの所有物だったという事だ。恐らくはラクーンシティにあるラクーン大学も同様に。
だからこそ、この地下施設はラクーンシティ地下研究所と同じ構造で建設されている。
そして、だからこそ――――。
(同じ名称で訴えられる事も無い訳だ……)
何故この大学が、ラクーンシティのラクーン大学との訴訟沙汰に巻き込まれずに存続出来ているのか。
漸く腑に落ちる答えが導き出され、ハンクは一人頷いていた。
(……これ以上は確認の必要もないだろう。とりあえず地下の構造全てをラクーンと同じだと仮定するなら……)
この幾日か、さ迷い歩いていたラクーン研究所。間取りは鮮明に思い浮かべられる。
目的の部屋を定め、ハンクは身体を翻して錆だらけの金属板の上を戻る。
その足が、幾度目かの小さな音を立てた時だった。扉の向こう側から、男の怒鳴り声が発せられたのは。
「オーケーだ! 来い!」
隣のポンプ室に人が雪崩れ込む気配。
誰かがいる。それも複数人。ハンクは静かに扉に近付き、耳を澄ます。
鋼鉄製の分厚い扉と、周囲で絶えず唸る様に上がっている機器類の低周波音に阻まれ、怒声以外の聞こえてくる声に明瞭さは無いが、焦燥混じりの様子は伝わってくる。
飛び降りろ。男の言葉に続き、鉄板を鳴らす軽い衝撃音が――――三回。暫く待つが、四回目の衝撃は無い。
あちら側の人数は三人か。そう思うや否や、まるで車でも衝突したかの様な轟音と振動がハンクまで伝わった。
金属と金属が擦れ合いぶつかり合う耳障りな高音の中で、またも男が怒鳴る。乗るんだ、と。
扉一枚先の向こうが抜き差しならない状況にあるのは容易に想像がついた。
三人の人間が何者かに追われているのだ。追手側は上で見た大男――――恐らくは
タイラントの亜種であろうあの禿頭の可能性が濃厚か。
すると今の轟音は、奴が扉を破壊した音だという事になりそうだが、ただ、それにしては奇妙な事が一つ。
追手が奴にしてはポンプ室の気配は静かすぎる。奴が獲物を見つけたならばもっと暴れ狂う筈だ。実際ハンクに対してはそうだった。
扉越しとは言え、それ程の動きが感じられないという事は、彼等を追っているのはまた別の何かなのか。
再び衝撃音が響いた。鉄板を重たい何かで叩いた様な音。先の三人同様に、追手が飛び降りた音だろう。
ほぼ同時に、吹き抜けを通じて下方からリフトの稼動音が伝わってくる。
すぐ手前の手摺の隙間から熔鉄プール室を覗き込めば、ハンクのほぼ真下付近の位置で三人の人間がリフトから降りる姿が確認出来た。
見たままに判断するなら、男が一人、女が二人。
男の着衣がラクーン警察署警官隊のユニフォームと似ている事に気付くが、明確にそうだと判別出来る程の距離ではない。
瞬時に浮かぶ損得勘定。仮に男がラクーン署の人間だとして、接触する事にメリットは有るだろうか。
――――流石にそれは不明だ。有るかもしれないし、無いかもしれない。
ただ、彼等の逃げ込んだその先は行き止まりだ。
この動力室もではあるが、下の熔鉄プール室も部屋からの出口は一つしか無く、この段階で既に彼等は追手に追い詰められた格好となってしまっている。
となると、彼等と接触するには必ず彼等を追う相手と対峙せねばならない。
それを選択したとして、果たして得られるリターンに対してリスクは如何程のものだろうか。
三人が60フィート程度の足場を一通り走り切り、漸くそこがデッド・エンドだと気付いた頃、三度の衝撃が鳴った。
それもやはりハンクの位置よりほぼ真下。下階のリフト前の床に突如現れていた物は、モスグリーンの大きな塊。
一瞬後、ハンクはその認識を改める。あれはただの塊ではない。生物だ。それも――――。
(タイラント……あれはまさか、新型か?)
着地の衝撃で身体を屈めていたそいつは、ゆっくりと立ち上がると、おもむろに顔を上げる。
無機質な視線が、ハンクの視線と絡み合った。
「何……?」
僅かに困惑が走った。
何故奴はこちらを見上げたのか。その疑問が浮かんだ。
己の気配を感じ取られたとは思えない。そもそも状況からして奴の狙いはあの三人だ。
それなのに、タイラントはハンクを見上げていた。気付かれる要素など一つも無かったのだが。
直ぐ様ハンクはその睨み合いを打ち切り、ポンプ室の扉を開いて中へ。
そして迷いなく向かいのフロアに飛び移ると、エレベーターへと通じる廊下に素早く走り込む。
タイラント。アンブレラ社の造り出したB.O.W.の中でも最高級の性能を持つ“究極の生命体”。
――――と聞いている。
ハンクはアンブレラ社の特殊工作部隊(U.S.S.)に身を置く人間だ。
個人としては人的資源の重要性、貴重性は認識しているが、それはともかくとして、上層部から見れば結局自分達は使い捨ての駒に過ぎない。
その為、任務に必要とされない限りはB.O.W.一種一種の性能などを細かに知らされる機会は無いのだ。尤も、その点に関してはハンク自身も必要性を感じた事は無いのだが。
“究極の生命体”と称されるタイラントに関してもそれは同様であり、実際に戦闘を行った事も、性能を調べた事もハンクには無い。
知能が高い新型タイラントの研究が進んでいる事は小耳に挟んでいたが、知識としてはそれだけだ。
タイラントが非常に強力なB.O.W.である事は理解しているが、それ以上の具体的な性能となれば知る由もない。
確実なのは、戦えば勝敗はどうあれそれなりの手間がかかってしまうという事。
故に、接触は無しだ。
追手が新型タイラントだと分かれば、尚の事危険は冒せない。
タイラントも、アンブレラ社が何かしらの目的で送り込んだものではあるのだろうが、それをフォローする義務もない。
社から直接の任務変更の指示は無いのだ。社の目的を勝手に推測して動くなど愚の骨頂。己は己で、与えられた本来の任務を遂行する為に行動するだけで良い。
――――切り替える。
ハンクはもう一度、研究所の間取りを思い浮かべた。
地下の構造全てをラクーンと同じと仮定するなら、外部との連絡が取れるだけの設備がありそうな場所は、B5のモニター室。
同じくB5の電算室。
B6のセキュリティセンター。
そして、もしも最下層に地下運搬施設や貨物列車までが有るのならば、それも候補の内。
場合によっては列車運転室の通信機器を利用する手段もあるが、それは位置からしても最終手段だろう。
ならば当面の目的地はB5。向かうにはまずB4までエレベーターで降りて、同フロアを通り抜けねばならない。
エレベーターに突き当たる頃に、後方から響いた小さな銃声。
特にそれを気に留めた様子もなく、ハンクは操作スイッチに手をかけた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「駄目、やっぱり行き止まりです!」
「下もこれじゃあ……無理に通ろうとすれば火傷じゃ済まないでしょうね。レオンくん、どうするの?」
「ああ…………やるしかないだろうな、畜生! 二人共そこから動くなよ!」
沸き上がる焦燥が苛立ちに変わり、怒声として吐き出された。
胸程の高さの手摺に囲われただけの、狭く短いクランク型の足場の上。
額から大量の汗が滲み出るのは、異様に高い室温のせいだけではない。
胸の中に不快感が生じているのは、辺りに強烈に漂う鉄臭さのせいだけではない。
モスグリーンのコートを纏う大男――――冷静沈着なその見た目とは裏腹に、壁や鋼鉄製の扉を腕一本、その身一つでいとも容易く破壊して迫る荒々しい怪物。
そいつが今、足場の角を曲がり、感情の一切が欠落した白眼でレオンを見据えてゆっくりと近付いて来る。
――――命を狙われる実感がもたらす緊張と恐怖。自覚しているものはそれだった。
プレッシャーがこうも重たく伸し掛かってくるものだったとは、出来れば知りたくもなかったが。
しかし、そんなものに押し潰される訳にはいかない。
足場の先。先行したは良いが、行き場を無くして立ち尽くしているミヨと少女。
フジタとあの子の分まで守ると決めた二人の女性の命が、レオンの腕には預けられているのだから。
もう失敗は許されない。今度こそ、必ず、守り切る――――。
「勝負するのは自分自身……。勝負するからには……勝たなきゃなっ!」
自然とレオンは叫んでいた。胸中に伸し掛かる圧力を跳ね除けようとする気概を込めて。
煮えたぎる鉄から発せられる焔に不気味に揺らめく大男に、熱く鋭い眼光と共にベレッタを突き付ける。
最早、警告も威嚇射撃も――――情けも躊躇も無い。照準は顔面に定めている。
通路の丁度中間辺りに差し掛かる大男。レオンの指が連続でトリガーを引く。それに合わせてくぐもった銃声が二度響いた。
焔に溶け込むマズルフラッシュ。大男の頬が、続いて額の肉が爆ぜ、赤い血が飛散する。
しかし――――止まらない。衝撃に僅かに仰け反りを見せたものの、大男は変わらず重い足音を響かせた。
三発目の銃声。次に爆ぜたのは鼻の頭。それすらも敵は意に介さず。怯むどころか拳を振り被っていた。
「くそっ!」
零した悪態が掻き消される程の風切り音が、屈み込んだレオンの金髪を掠めた。
振り下ろされた丸太の様な腕を間一髪掻い潜り、レオンは床を滑るように大男の背後に回る。
今ならば距離が取れる――――――――だが。
一瞬の弱気を押し殺す。レオンは直ぐ様立ち上がると、振り向きかけた大男の横顔に狙いを付けていた。
銃声が立て続けに反響する。ひたすらにトリガーを引く人差し指に反動が伝わり、微かな痺れが生じ出す。
大男の頭が幾度と無く揺れた。こめかみを中心に、鮮血が顔中に広がっていき――――。
ベレッタがホールドオープン状態になった時、顔を顰めていたのはレオンの方だった。
撃ち込んだ銃弾は、確かに大男の皮膚を貫きはした。
だが、それだけだ。
皮膚の上。いや、頭蓋の上か。銃弾はそこで潰れていた。明らかに、骨にめり込むまでには至っていない。
「ターミネーターにも……程があるだろ」
仮面の様に変わらぬ表情と、無機質な両眼が、レオンを捉え直す。それがミヨ達二人に向けられない事は願ったりだが。
顔面に開けた筈の穴、最初に撃ち込んだ銃弾の痕を見れば、レオンは呆れた様に小さく息を漏らしていた。
その傷口は蠢き出し、筋繊維の再生を始めていたのだ。
「しかもその図体でロバート・パトリックの方かよ」
今度こそ後ろに距離を取りつつ、弾切れのベレッタを投げ捨ててホルスターからブローニングを引き抜いた。
引き抜いて――――ここから、どうする。
この至近距離で浴びせかけた十発近い銃弾を、耐え抜いたどころか物ともしていない化物に、一体どうやって勝てば良い。
ブローニングに残っていた弾は三発か。四発か。アサルトライフルにも予備の弾は無い。
撃ち尽くせばそれで終わりだ。そして、それだけの弾薬では到底殺せない相手であろう事は、たった一度だけの攻防でも充分過ぎる程に予想がついた。
銃で殺せないのならば、何か、別の手段は――――。
その時レオンの視界に入り込んだ、手を振る少女の姿。ちらりと視線を二人に移す。
何かを考え込む様子で口元に手を当てているミヨの横で、少女は指を差していた。
その手が示すのは、熔鉱炉。思わずレオンは頬に苦笑を刻んだ。
「なるほど、ターミネーターだ……!」
後退りの向きを、熔鉱炉側へ変える。
より一層狭くなる足場。より一層増す熱気。足を炉へと寄せる度に、身体中から汗が噴き出してくる。
熔鉱炉へ突き落とす。十代半ば程の少女が思い付くには少々えぐくて容赦がない手段だが、銃で殺せない以上、今は他に方法が無い。
レオンの考えを知ってか知らずでか、尚も変わらず歩みを止めない大男。
下がろうとするレオンの踵が、遂に手摺にぶつかった。
行き止まり。真後ろの手摺を越えればその下には熔鉱炉。ここが、正念場だ。
「さあ、来いよ!」
次の一歩で、大男は右腕を大きく後ろに引いた。
限界まで引かれた右腕から、豪腕のラリアートが襲い来る。
タイミングはギリギリだった。辛うじて身を屈めれば、真後ろの手摺が大きな叫びを上げた。
レオンは大きく一歩踏み込んだ。男の腕の下をすれ違う様に潜り抜ける。身体を捻り、見据えるは巨大な躯体。
下腹部に力を込め、レオンは大男の背中に向けて渾身のショルダータックルを浴びせかけた。
鈍い音と共に重たい衝撃が肩に走る。突き飛ばされた巨体は手摺を越えて熔鉱炉に落ちていく――――その筈だったのだが。
「うっ!?」
壁か何かにぶつかったかの様な手応えだった。
巨体は、微動だにしていない。
熔鉱炉まではたかが数フィート。どんな巨漢相手だろうと、その程度の距離を突き飛ばせない程自分の肉体と訓練は柔ではない。それなのに――――。
動揺が硬直を呼ぶ。
瞬間、強い浮遊感を覚えると同時に、目の前の巨体が勢い良く遠ざかっていく。
振り払われた。そう気付いたのは、後方の手摺に身体が打ち付けられる直前だった。
強烈な炸裂音が、背中から全身を貫いた。掠れた呻き声が口から漏れる。
予想だにしていなかった衝撃は、瞬間的にレオンの五感の全てを奪い去った。
その場で身体が崩れ落ちていく感覚も。痛みすらも。レオンは全く感じられずにいた。
限界まで薄れた、ただ手放さないだけの意識の中で、逆光に切り取られた怪物の巨大なシルエットだけが見えていた。
徐々にレオンに近付いてくる、巨大なシルエットだけが――――。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
閉じた両目の中に映し出されている光景は、まるで現実味が無いものだった。
遥か上方から落下してきたこの視界の主は、比沙子の倍近く程はある高さから研究施設内を見下ろし、徘徊していた。
時折視界の左側に見え隠れしているのは、触れる物全てを破壊するべく進化を遂げたような、巨大で無骨な左腕と爪。
怪物がここで徘徊を始めてから、その左腕は進行を妨げる物全てに幾度と無く振るわれてきた。
廊下に並ぶストレッチャーだろうと、積み重なる瓦礫だろうと、鋼鉄製の扉だろうと、お構いなしだ。
驚愕するしかなかった。まるで現実味の無い光景だが、これは受け入れるしかない事実だ。視界の主は、恐るべき怪物だった。
羽生蛇村で見てきた村人達の成れの果ても、命の危険を考えれば充分に脅威的な存在ではあったが、これの脅威は彼等を軽く凌駕していた。
今もこの怪物は、瓦礫に阻まれている扉へと近付いていく。
それは、先程の比沙子では通れなかった扉の一つ。
視界の端で左腕が動いた。これまで同様、これも破壊する気だ。
耳を塞ぎたい衝動に駆られるが――――それは、無意味だと言う事は嫌という程に思い知らされている。
爪が突き出されるその瞬間、比沙子は反射的に首を竦めるが、その細やかな抵抗を嘲笑う凄まじい音が彼女の耳を容赦無く劈いた。
「っ……」
より強く閉じた両目の中に映し出されている物は、歪に変形して床の上で微動している扉と砕け散った瓦礫や壁。
無理矢理に抉じ開けられた扉の奥に、映像はゆっくりと移動する。
そこは、広々とした闇の中に数畳程度の金属製の足場が突き出しているだけで、上にも下にも闇以外には見えるものは何も無い吹き抜けの空間だった。
その足場は格子状の手摺に囲われていて、下の階に通じると見られる梯子が中心にあるだけの簡易な造りとなっている。
怪物は階下には興味が向かないのか、幾度か辺りに視界を巡らせると、やがて来た道を戻り始めた。
比沙子は、そこで一旦視界を自身に戻し、両目を開いた。
「戻ってくる……!」
今、あの怪物が居るのは『WEST AREA』。これで怪物は、この階層を一通り回り終えてしまった。
あれが探索をしていない場所と言えば最初の分岐点で選ばなかった通路のみ。
つまり、比沙子が今居るこのエリアだ。もたもたしていれば鉢合わせになる。
蒼白の顔面に滲む汗を拭う事もせず、比沙子は電車へと向き直した。
否応無しに目に入る、床に散らばり広がる肉塊と血溜まり。
極力踏みつけぬ様に努めながら慎重に、しかし、迅速に車内に戻る。あれに見つかってしまえば、次にそうなるのは自分だ。
幸いにして、この電車の窓にはシャッターが降りている。扉は、怪物が来る側からは車体の陰となる為に、一見では見つかりはしない筈だ。
問題は、あの怪物が施設内の壁や扉と同様に電車までをも破壊しようとした場合だが――――。
そもそも比沙子の居るこちら側のエリアの構成は、電車の他には小部屋が一つ。瓦礫に阻まれて通れない廊下が一つ。
つまり隠れられそうな場所は小部屋か電車か。それしか無いのだ。
扉という扉を破壊して徘徊する怪物から身を隠すならば、まだ電車の方が凌げる率は高い筈。後は運を天に任せるしかない。
開閉時の音を出来るだけ抑えようと、出入口の扉を半開きの状態で保ち、比沙子は幻視を再開する。
予想した通り、怪物の薄く濁った視界は連絡通路を越えてこちらのエリアに戻ってくるところだ。
怪物に初めに破壊された扉がその足に踏みつけられ、奇妙な高音を立てて振動している。
その音が視界の中で、そして直にも比沙子の耳に届いてきた。
近くと遠くとで同時に聞こえてくる同じ音。怪物がすぐ側に存在すると、実感としても伝わって来る。
ごくり、と思わず鳴らした喉の音がいやに大きく、耳障りに聞こえてしまう。
怪物はこのエリアの廊下に戻ると、一旦視界をぐるりと巡らせた。
それは獲物を見つけ出そうとしているのか。それともとにかく破壊の対象を選ぼうとしているのか。
視界は瓦礫の通路側から巡り、小部屋の扉を通過して、比沙子の居る電車で止まる。
まさか、気付かれたのか――――異様に長く感じられる時間の中、不安が身体中を締め付ける。
しかし、実際にはそれはほんの僅かな間の事。すぐに視界は瓦礫で封鎖された通路に向けられた。
怪物は瓦礫の前に立つ。どうやら次の移動先にはその通路を選んでくれたらしい。
今の視点からだと良く見える。その通路は、長い一本道だった。100mかそれ以上はあるだろうか。突き当たりには扉らしきものも見える。
これで、状況は変わるかもしれない。比沙子は思った。
これまでの傾向からして、怪物はあの扉を目指すだろう。
怪物が扉の奥へと消えてくれたなら、それはこの電車から離れる絶好の機会だ。
幸運と言うべきか、怪物が施設内を徘徊してくれたおかげで新たな道は開かれている。下の階に通じる梯子。あれだ。
あの様な怪物が徘徊する階に留まるよりは、まだ下の階に逃げた方が安全だろう。
それに、この階の何処を探しても見つからなかった電車の鍵。それは下にあるのかもしれない。
行くべきだ。怪物が、あの通路に入ったならば。
見出せた一つの希望を胸に、比沙子は機を窺う為に幻視を続ける。
だが――――比沙子では手も足も出せなかったその瓦礫を、怪物がものの一撃で破壊してフロアを大きく揺るがした、次の瞬間だった。
バタンッと、大きな音が間近で鳴った。それは怪物の視点ではなく、比沙子の耳に直接飛び込んだものだった。
抱いた希望は、瓦礫と共に脆くも崩れ去っていた。
「え?」
つい、幻視を解いていた。
目の前には閉じられた扉がある。半開きにしていた筈の扉が今、閉まっている。
何が起きたのか、咄嗟には上手く飲み込めないでいた。
だが、ややあって理解する。破壊により生じた大きな振動。それは当然の如く電車まで伝導し、扉を揺らしてしまったのだと。
音を立てて扉が閉まる。事象としてはたったそれだけの事。
しかし、この場合においてそれは、何よりも致命的な出来事だった。
事態を飲み込めた時、たちどころに襲い掛かる不安と焦燥。比沙子の表情は凍りついたかの様に強張っていた。
果たして今の音は怪物まで届いてしまっただろうか。
いや、届いていた。視界の中でもその音は聞こえていたのだから。
それだけならまだ良いが、問題となるのは、音が怪物の気を引いてしまったかどうかだ。
震える手。比沙子は顔を覆う様に近付ける。確かめる為に、恐る恐ると瞼を閉じる。
そこに捉えたのは――――この、電車だった。
怪物は、既に比沙子の居る電車へと向かおうとしていた。
「ど、どうすれば……!」
幻視は直ちに打ち切った。
怪物が来る。このままでは殺される。そうは思うも、何をして良いのか分からない。
狭い車内を見回すも、ここには身を隠せる場所など何処にも無い。
逃げ出そうにも扉は一つ。怪物に見つからずに外に出る事など不可能だ。
使えそうな道具も見当たらず、あるものと言えば「
アンブレラヌードル」と表記された非常食くらいのもの。
いっその事、殺されるのを待つよりは外に飛び出してみるか。――――駄目だ。とても走って逃げ切れる自信は無い。
何も答えを出せず、ただ焦燥の中で立ち竦むだけの比沙子の耳に、壁一枚の向こうから咆哮が響いた。
無意識に比沙子は、顔の前で両手を組んでいた。
神へ縋る事。最早彼女に出来る事は、それだけしかなかった。
「ほってろですきりんとすぴりとさんとのみつのびりそんな
ぐるりやぐるりやぐるりやぐるりや
きりとやえれんぞきりとやえれんぞきりとや…………あれ?」
そしてその祈りの最中に感じ取るのは、一つの違和感。
足音が遠ざかっていく。怪物が走り去っていくのだ。
こちらに向かって来ないのか。助かったのか。しかし、それは何故。
奇妙に思った比沙子は祈りを止め、遠ざかる足音へと意識を飛ばす。
すると――――閉じた両目の中に映し出されたものは、あの通路のずっと奥に立つガスマスクを被った黒尽くめの人物だった。
突き当たりの扉から出て来てしまったらしい。怪物は、その人物に向かって猛然と走り迫っていたのだ。
逃げて。切実にそう願う比沙子の瞼の裏で、映像は徐々に乱れていく。
それは怪物が比沙子から離れて行く事の証明。だが、比沙子の心は絶望に支配されていた。あの人は、逃げられない――――。
灰色に染まる視界の中、黒尽くめの人物は
マシンガンらしき銃を構えて屈み込んだ。
その姿を最後に、映像は完全に砂嵐に覆われた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「来るわっ! 早く起きてっ! ねえ、早くっ!」
真横でレオンに投げかけられた少女の悲痛な声も耳に入らない様子で、三四は思考を巡らせていた。
モルモットを観察するような視線――それは要するに彼女のデフォルトだが――の先には、床に崩折れたレオンに詰め寄る大男の背中がある。
あれが“タイラント”なのではないか。彼女の思考が行き着いた場所はそこだった。
ノートのニュアンスから推察するに、アンブレラという企業は“タナトス”こそ量産には至っていなかった様だが、“タイラント”という兵器自体は決して“タナトス”一体ではないらしい。
目の前にいるコートの男が“タナトス”なのか、別の“タイラント”なのか、或いは全く別の何かなのか。現時点では明確な判別がつけられる訳ではない。
だが、“タナトス”や上で見たキメラ生物等の研究を進めていた大学施設内で襲いかかって来た、人の姿を模した怪物。結びつけて考える事は、至極当然の発想というものだ。
何より、ノートに書かれていた“タイラント”としての形骸的特徴は一致している様には思える。
とりあえず、この大男を“タイラント”だと仮定すれば――――。
人を素体とした生物兵器。知能が著しく低下しているのは間違いないが、これまでの経過を見ればそれは確かに信じ難い能力を秘めている。
素手の拳で金属を発泡スチロールか何かの様に打ち破り、顔面に銃弾が直撃してもまるで動じない、人間としては途方も無い屈強さ。頑丈さ。
強化されているのは筋力だけでなく、骨格までもなのだろう。更には銃弾による負傷をごく短時間で完治させてしまう再生能力まで兼ね備えている。
何処を取り上げても恐るべき性能だ。
これが仮に“タナトス”なら、芸術作品として唯一無二の存在へと留めようとした研究者の気持ちは分からないではない。
これが仮に“量産されているタイラント”なら、その能力には只々舌を巻く他無い。
どちらにせよこれが“タイラント”であるならば、
T-ウィルスなる未知の病原菌が人体に与える影響とその応用性が、雛見沢寄生虫を遥かに凌ぐ事は認めざるを得ない事実。
これを世界に公表すれば、その研究者は確実に未来永劫その名を残す事になる。――――即ち、神になれる。
あのノートを見て。そしてその研究成果と思われるものを目の当たりにして。三四は一研究者として、T-ウィルスに対する興奮、胸の高鳴りを確かに感じていた。
しかしその一方で、先程から自身の胸中で暗い何かがじわりと広がりつつある事も、三四は自覚していた。
嫉妬だろうか。それとも羨望か。正体は分からないが、それは微かな痛みとなって胸の奥で燻り続けている。
いや、それは単なる気のせいに過ぎないのかもしれない。或いはT-ウィルスではない別の事柄に感じている事なのか。
そして現状、そんな些末事に気を取られている場合ではない事も重々承知している。
考えるのは後だ。三四は、差し迫った脅威に注意を戻す。レオンは、未だ動かない。
(こうなれば逃げるのも手かもしれないけど……)
執拗にレオンのみを標的とするこの大男の眼中には、先程から三四と少女の姿は一切入っていない。
がら空きの背面。今ならば通り抜けてリフトへと辿り着くのはそう難しい事ではないだろう。だが――――。
(いえ、やってみる価値はあるわね)
大男がレオンの前で立ち止まる。
三四はピクリとこめかみを疼かせ、走り出した。
こちらを見向きもしない敵。警戒していない背面。無防備の背中。チャンスは、今しかない。
後ろの少女が驚く気配を他所に、助走をつけて一息に三四は――――足場を蹴って跳び上がった。
身に纏うマントをたなびかせ、着地するのは不安定な手摺の上。
身体のバランスを取りながら、その目に捉えるのはレオンを見下ろす“タイラント”の後頭部。
レオンの戦闘中、考えていた事だ。
銃弾を弾き返す程の硬度を持つ、強化された骨格。銃弾に貫かれても、即時に再生を始める肉体。
確かに恐るべき性能なのだが――――それにしては不自然な点がある。大男の身に着けている防弾コートだ。
最初に遭遇した際、レオンの射撃がコートを撃ち抜けずに止められた事からそれが防弾仕様だとは見当がついていたが、本当に完璧な存在ならば、そんなものは必要無い。
裏を返せば、必要とするだけの理由があるのだ。それはつまり、弱点が無い訳ではないという事の証明になるのではないだろうか。
そうだとしたら、人間を素体としているのだから自ずと狙う急所は見えてくる。
9mm拳銃の銃弾でも彼の肉体を貫ける事はレオンが見せてくれた。後は、何処を貫くか、だ。
今の状況で、それは一つしかない。人体の構造を熟知していて、射撃の腕には絶対の自信を持つ彼女だからこそ出来る事。
それを、三四は試す。試すならば、チャンスは今しかない。逃げ出すのはそれからでも遅くはない。
狙うは人体の急所の一つ、延髄。どの様な屈強な人間だろうとそこを貫けば確実に死ぬ。
レオンを見下ろしている奴のその体勢は、狙いを定めるには実に好都合だった。
頭蓋骨の構造上、それはわざわざ延髄を曝け出して的を広げてくれている様なものなのだから。
“タイラント”が両手を組み合わせて掲げ上げる動作の中に、三四は乾いた銃声を割り込ませた。
放たれた銃弾が、正確に後頭部に突き刺さる。
僅かな血飛沫が舞い、今にも腕を振り下ろさんとしていた“タイラント”の動きが固まった。
それは、単なる仰け反りなのか、それとも推測通りに即死したのか。どちらとも判断の付かぬ一瞬が、随分と不快に感じられた。
果たして――――“タイラント”はゆっくりと、硬直した体勢のまま後ろに倒れ始めた。
巨体が足場を大きく揺らす。振動を避ける様に、三四は手摺から飛び降りた。
念の為にと、足場に沈んだ大男に銃を構えて様子を見るが、その巨体はピクリとも動かない。予想は正しかったようだ。
「まだまだ改良の余地はあるみたいねえ。案外脆かったわ」
「凄い……どうして?」
「芸術作品としてはお粗末だったってことじゃないかしら? まあ、どっちなのかは知らないけれども」
目を丸くする少女に、三四はくすくすと愉快そうに笑みを浮かべた。
「それよりもレオンくんね。死んでないといいんだけど。レオンくん。聞こえる? レオンくん」
三四がレオンを振り返れば、彼もまた動く気配がない。
最悪の事態も想定しつつ、二人で呼び掛けながら足を運ぶ。
声に反応したのかどうか。レオンは小さく吐息を吐き出した。
その顔に表情を取り戻すまでは、それから数秒の事。呼び掛けを続ければ、暫くして漸くレオンは顔を上げた。
「………………ミヨ? ……あいつは……?」
「殺したわ。貴方の活躍のおかげよ」
「…………俺の?」
「ええ。間違いなく貴方のおかげ。貴方がいてくれなかったら、とても勝てなかったでしょうねえ。くすくす。さあ、立てるかしら?」
「……っつ。……ああ、どうにか」
痛みを堪えた様子でレオンは三四の差し出した手に掴まった。
派手に手摺に打ち付けられた割には、幸いにも大きな負傷は無いらしい。
頑丈さは案外この大男と良い勝負なのかもしれない。密かに三四は笑う。
立ち上がり、痛みの具合を確かめる様に身体を捻りながらレオンは疑問を口にした。
「凄いな……本当に殺したのか。どうやって?」
「頭を撃っただけよ」
「頭? それなら俺だって散々――――」
中途半端に言葉を切ったレオンの目が三四の背後に移り、そして険しさを帯びた。
「ミヨッ!」
レオンは彼女の名を叫びながら手を伸ばし、突然の事にただ驚くだけの三四の身体を自身の方へと引き寄せる。
床を擦る様な気配が背後からした。三四はレオンの腕の中で気配を振り返り、そして思わず息を呑んだ。
「――――そんな、馬鹿な……!」
一目で彼女の余裕は消え去った。医師として受け入れ難い現実がそこにはある。
延髄を撃ち抜き、確かに殺した筈の大男が目の前で起き上がろうとしているではないか。
「効かなかったわけじゃない…………間違いなく延髄を撃ち抜いた。だからこそ倒れたはず。
…………なら、延髄ですら再生が可能だということ? 人間がベースである以上そんなの……」
有り得ない。しかし目の前の現実が三四の思考を掻き乱す。
T-ウィルスに因る肉体強化とはこれ程現実離れしているものなのか。
唖然とする三四の背中を、後ろから誰かが押していた。
「ミヨ、驚くのは後にしてくれ! 逃げるぞ!」
「こっち! 早く!」
レオンに腕を引かれて漸く三四は走り出す。
一足先にリフトの確保に向かった少女の後を、やや遅れて二人は追った。
大男が立ち上がるよりも早く少女がリフトへ駆け込みスイッチを押し、大きな稼働音を立てて上昇を始めたそれに三四が、続いてレオンが飛び乗った。
一息を吐いた三人は、自然と大男に視線を落としていた。大男もまた、その白眼で彼等を見上げていた。
ダメージなど残した様子も無く平然と歩き出した大男に見送られ、すぐにリフトは専用の狭い吹き抜けへと入り込む。
「……まさか昇って来たりしませんよね……?」
少女の呟きに、三四達は言葉を返せなかった。
恐らくリフトの使用までは出来ないだろうが、あれが壁をよじ登る姿は容易に想像がついてしまう。
冷静さが戻るにつれ、感嘆の思いが胸に湧き上がる。あれがT-ウィルス。あれが“タイラント”なのだと。
同時にその感嘆の中で、あの暗い何かがざわめき出してもいた。ギリ、と歯軋りの音が聞こえた。自身の口の中から。無意識の内に。
それに気付き、三四は心中で首を捻っていた。この燻りは何なのだろうかと。
やはり単なる気のせいではない。嫉妬や羨望とも違う気はするのだが、しかし、何かがある。何かが――――気に食わない。
「……とにかくこの大学から出よう。あんなのがいたんじゃヤバすぎる。命がいくつあっても足りやしない」
「……そうね。こうなったらやむを得ないでしょうね」
正体不明の暗い何かを押し殺し、三四はレオンの当然の提案にそう言葉を返す。
本音を言えばもう少し調査を続けたい気持ちはあるのだが、命と天秤にかける程の事ではないのも確かだ。
「それじゃ――――」
「あの……待って、下さい」
今後の方針を決める為に、と話を纏めようとすれば、二人の会話に割って入るのは遠慮がちに紡がれた少女の小さな声。
三四とレオンが目を向ければ、彼女は真剣味を帯びた面持ちで口を開いた。
「ごめんなさい、まだ行けないの。友達と逸れたんです。探さなくちゃ」
「友達? ……まだ誰かここにいるのか?」
「はい……多分。それに、やらなきゃいけないことがあるんです。お願いします、手伝って下さい!
私だけじゃなくて、この町に居るみんなに関係のあることなんです! もちろんあなた達にも……」
少女はレオンと三四を交互に見据え、必死さを露にして訴えかけた。
その剣幕に押されて三四もレオンも言葉に詰まり、互いに顔を見合わせる。
少女はどうやら何かを知っているらしい。有益かどうかはともかく、聞ける事は多そうだ。
何から聞くべきか――――決めあぐねている内に、リフトは上階へと到着した。
とりあえず会話は一旦切り上げる事にして、三人は利便性の欠片も感じられない、無駄に複雑な構造のポンプ室を安全に抜ける事に集中する。
次に口を開いたのはレオン。それは、三人が最初に通った廊下に入ってからだった。
「あー……と、そう言えば自己紹介がまだだったな。俺はレオン。警官だ。彼女はミヨ。君の名前は?」
「ジェニファー。
ジェニファー・シンプソン」
「よし、ジェニファー。まず教えてくれ。君はこの町の人間なのか? 何が起きてるのか知ってるみたいだが」
「そうじゃないんです。何が起きてるかなんて分からない。でも――――」
そうしてジェニファーと名乗った少女は、何処か切なげな表情でこれまでの経緯を語り始めた。
突拍子も無い事だらけの、俄には信じられない話を。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
最終更新:2013年11月14日 21:52