【時代区分】
ヒマジア王国における時代区分は様々あり、定説と呼べるものはない。研究者間では古代・中世・近世・近代・現代の区分が最も用いられており、国内一般的にはモンテリウス時代・アリート時代・クラシア時代・中央戦国時代・スピン時代・モモテン時代・六国時代・チェルケス時代・カビヨ時代・フレンチェ時代・ルン時代・軍国時代・共和時代・王国時代で捉えられている。
古代の始期については文明の形成時期によって様々な議論がされているが最も有力な説は紀元前28世紀頃である。中世に関しては、初の共和制が用いられた紀元後2世紀頃が指標とされており、終期はフレンチェ帝国に支配される15世紀前半までだと考えられている。近世の始期は植民地ヒマジア臨時政府が出来た15世紀後半頃で、終期は植民地支配解放運動(ゴンゴ最終権力)が起きた19世紀後半頃だと考えられている。近代は軍国主義国家としてホーランドが総統に就任した20世紀前半頃に始まり、共和制国家が誕生する21世紀前半までだと考えられている。現代はザージ・アントニオ・ヒマンドが建国した21世紀頃に始まったとされる。
上記の時代区分は少なからず発展段階史観の影響を受けており、一部の歴史研究者は歴史の国家性を踏まえた上での区分が適切と考えている者もいる。
また文化面ではメンダン文化、フロンフス文化、ヤープ文化、北東文化、西東文化、中東文化、モーナル文化、コクナン文化、テェルカー文化、ゴクヒマ文化などある。
時代年表
時代 | 名称 | 西暦 | 主な地域 |
古代 | モンテリウス時代 | 〜前790年 | ヒマジア全域 |
古代 | アリート時代 | 前790年〜前695年 | ヒマジア全域 |
古代 | クラシア時代 | 前695年〜前27年 | ヒマジア全域 |
古代 | 中央戦国時代 | 前60年〜210年 | ヒマジア地域 |
古代 | スピン時代 | 212年〜554年 | 西・南・中央ヒマジア地域 |
中世 | モモテン時代 | 557年〜575年 | ヒマジア地域 |
中世 | 六国時代 | 575年〜678年 | ヒマジア地域 |
中世 | チェルケス時代 | 678年〜972年 | ヒマジア地域 |
中世 | 前カビヨ時代 | 975年〜1028年 | ヒマジア地域 |
中世 | 南北朝時代 | 1028年〜1111年 | ヒマジア・ハイランド地域 |
中世 | 後カビヨ時代 | 1112年〜1343年 | ヒマジア地域 |
中世 | バジル時代 | 1351年〜1498年 | ヒマジア・ハイランド地域 |
近世 | フレンチェ時代 | 1510年〜1723年 | 南西大陸全域 |
近代 | ルン時代 | 1730年〜1842年 | 東・西・南ヒマジア地域 |
近代 | 軍国時代 | 1845年〜1926年 | ヒマジア・ハイランド・ミルマツ・ミルマツ地域 |
現代 | 共和時代 | 1926年〜1974年 | ヒマジア地域 |
現代 | 王国時代 | 1974年〜現在 | 南西東部地方地域 |
【原始】
オスカツァ人の出現と生活
紀元前21000年頃
オスカツァ人は現在のハイランド地方で発生した。当時は言語はなく自然的に集団を形成し洞窟を見つけたり、岩山を掘り住居(ヤグナム式掘穴住居)を作り暮らした。オスカツァ人はその後、ヒマスカ人とヒマジア系オーシア人、ハイバン人に分かれる。
紀元前9800年頃
ヒマスカ人のアデムジスが現在のヒマジア地方にオスカツァ人を導く。そしてヒマジア地方に永住したオスカツァ人をヒマスカ人と呼ぶようになる。
紀元前7000年頃
ヒマジア地方北東部に船で渡ってきたミリアイバド人が来る。ミリバイアド人は精巧なる技術を持っていたと言われる。青銅を用いた食器、青銅ヤムッテ(祭り等で使用)が製造された。
紀元前5700年頃
北ヒマジアでヤングテナギク遺跡が栄える。この遺跡の調査から当時のヒマスカ人は多神教的なものを信じていた事が分かった。この宗教は後のヒマジン教に影響を与える事になる。当時、人気だった神は頭髪神ヤーボ、労働神チムビなどであると記載されている。
紀元前4200年頃
ゴーン遺跡からヒマスカ語の元となる焼皮文字が発見される。現在、焼皮文字は解明中であり、明確な意味などは判明されていない。またこの頃からヒマスカ人がニャー人とヒマァ人に分かれる。
●ヒマスカ人の分類
●ヒマスカ人の分類
名称 | 分布 | 備考 |
ヒマァ人 | 中央ヒマジア | 現在のヒマスカ人の34%を占める。 |
ニャー人 | 南西ヒマジア | 現在のヒマスカ人の21%を占める。 |
クジン人 | 西ヒマジア | 1475年に滅ぶ。 |
ゾナー人 | 南ヒマジア | 現在のヒマスカ人の5%を占める。 |
バモン人 | 北東ヒマジア | 現在のヒマスカ人の11%を占める。 |
チョロン人 | 北西ヒマジア | 2022年に滅ぶ。 |
モードヒル文明と民族戦争
紀元前2000年頃
ヒマジア地方西部モードヒルにクニが出来る。帝国神士記によると、21の大きなクニと75の小さなクニがヒマジア地方とハイランド地方にあると記載されている。
紀元前1800年頃
紀元前1800年頃になると初代モーディン王が作ったクニのモードヒル文明が西ヒマジアを統一したとされている。モードヒル文明では裸で乗馬するメンダン文化が栄えたとされる。
紀元前1210年頃
モードヒル文明は西ヒマジアから南ヒマジアまでを治めていたと記載されている。またこの頃に東ヒマジアでヒマイモが発見され、農耕時代が始まった。現在、その地は東穀倉地帯として発展している。
紀元前1110年頃
民族間での戦争が激しくなる。北ヒマジア系と南ヒマジア系で分かれ死傷者は2万人以上にも上ると言われる。
【古代】
ヒマジア統一とナユバン暇王
紀元前1100年頃
民族間での戦争が何百年も続く中、モードヒル文明はニャー人が建国したニャード帝国によって滅ぶ。その一件により戦争は悪化し、ヒマジアは5つの帝国に分かれた(五暇五王)。
●五暇五王(五帝国と五人の王)
●五暇五王(五帝国と五人の王)
国名 | 暇王 | 位置 |
モンテリウス帝国 | モンデル | 北ヒマジア、ハイランド南部 |
ニャード帝国 | アガサード | 中央ヒマジア、南東ヒマジア |
ガノクス帝国 | ジルガー | 東ヒマジア |
ナンデンス帝国 | ゾバンヌ | 南ヒマジア、中央ヒマジア一部 |
モードニア帝国 | ロスドンダス | 西ヒマジア、ミルマツ東部 |
紀元前990年頃
5つの帝国(五暇)の中、モンテリウス帝国でモンデルが皇帝に即位する。モンデルは古代階級の1つ「ストロン」生まれであったが、主君であったジョノッタ家を倒し皇帝の座を奪う、いわゆる下剋上を行った皇帝としてモンデル伝に記されている。
●古代階級(ガナンの階級論)
●古代階級(ガナンの階級論)
順 | 名称 | 備考 |
1 | グッワ | 主な役職は「司祭」、「王族」、「学者」 |
2 | ジバーグ | 主な役職は「王族補佐」、「高級市民」 |
3 | ソガテ | 主な役職は「騎士」、「有業者」「中級市民」 |
4 | ドナル | 主な役職は「兵士」、「低級市民」 |
5 | ストロン | 主な役職は「奴隷」。130年頃に廃止。 |
紀元前985年頃
モンテリウス帝国がヒマジア統一に向けて歩みだした。混乱した世の中を変える武力とカリスマ。その間違いを直そうとニャード帝国がモンテリウス帝国に侵攻。モンテリウス時代最大の戦争が始まろうとしていた。
紀元前975年頃
モンデルは皇帝補佐の1人スピーゼルを将軍に任命し、ニャード帝国軍と戦い圧勝(ガナベ運河の戦い)。その後、南下していき次々と砦を落とすスピーゼル。あと少しでニャード帝国が滅びそうになった時、ニャード帝国はガノクス帝国とナンデンス帝国、モードニア帝国と連合王国を組んだ。連合王国の勢いはとても盛んだったが、スピーゼル将軍の甥スピルマンが白鳩の計で打破し、ニャード帝国を滅ぼし、連合王国は消滅(チョノマン戦争)。
紀元前970年頃
ニャード帝国を滅ぼしその後、ガノクス帝国を滅ぼした。ガノクス帝国は戦う前から降伏をしてきたが、モンデルはジルガー王族を処刑、首吊りし市民に見せしめにした(モンデルの恐怖)。モンデルの恐怖後、軍備はどんどん強くなり、紀元前2791年頃に最後の帝国ナンデンス帝国を滅ぼした。
モンテリウスの発展と革命
紀元前950年頃
ヒマジア統一を果たしたモンデルは北から来るバジル人の襲撃に備え、現在のピンフェル県にピンフェルの長城と、シャーリン県にシャーリンの長城を作った。当時のピンフェルの長城は横に長く、縦は5m程度だったと推測されている。また、一部の地域にバジル人が紛れていた事から、豚のバジルソース炒めが流行ったと言われる。
紀元前915年頃
独裁的だったモンデルは国民に愛されながらも死んだ。モンデルは一人娘がいたが、まだ幼かった。そこで、統一戦争で大きな功績を残したスピーゼルの孫スバンドウが国民から選ばれ臨時皇帝として即位した。だがスバンドウは女癖が悪く、税を大きく上げた為、国民からの人気はうなぎ下がりだった。
紀元前900年頃
成人したモンデルの娘モンデーヌだったが皇帝の座は渡されず、スバンドウによってオーリス城に監禁される。その間、スバンドウは軍事を強める事に資金を注ぎ込んだ為、農地は荒れ果てた。
紀元前890年頃
国民の不安が高まる中、モンデルの娘モンデーヌが民衆の支持を得て、スバンドウを倒した。モンデーヌは公正で平等な世の中を目指して、帝政を廃止し、市民が参加できる共和政にした。モンデーヌの死後も共和政モンテリウスとして存続した。
600年戦争
紀元前800年頃
共和政が続いていたモンテリウス帝国だったが、ある時にシャーリンの長城が破られバジル人の大軍が攻めてくる。建国時は軍事国家として南西諸島で恐れられていたが、今は軍事は衰えて、ただの大国国家として存在していた。モンデーヌの孫で将軍職を務めていたモスロングは、軍を率いてバジル人と戦った(シャーリン城の戦い)。
紀元前790年頃
モンテリウス帝国はバジル人によって滅んだ。共和政は滅び、多くのヒマスカ人が処刑された。それに怒ったヒマスカ人はハイランド地方に逃げ、ハイランド王国を建国した。これにより、ハイランド王国とアリート帝国での600年間続く戦争が始まった。
アリート建国と滅亡
紀元前785年頃
バジル人はその後、ヒマジア地方にアリート帝国を建国した。初代皇帝は侵攻時、民族軍を率いたブロアリートだった。ブロアリートはバジル人の為だけの世の中を築こうと、国内に残っていたヒマスカ人を強制収容した。
紀元前725年頃
ヒマジア北部がハイランド王国によって支配された。それに激怒したジャウザー朝第3代目皇帝グロンラインがヒマジア北部に侵攻。700年戦争で最も大きな戦い、ハイア戦争が始まった。
紀元前695年頃
アリート帝国はハイランド王国の強大なる軍事力の差に連敗を続けついに滅んだ。ハイランド王国はその後、第ニ王子クラシアを皇帝においたクラシア帝国を建国した。
他国貿易とメンダン文化
紀元前680年頃
クラシア帝国ではバジル文化とハイランド文化を融合したメンダン文化が流行した。メンダン文化では医学が大きく発展し、人口と高齢率が高まった。
紀元前680年頃
海を挟んだ隣国ヤジュー帝国と貿易を始めた。ヤジュー帝国からは多くの文化と生物が渡ってきて、ヒマジアは森林が増えた。また、クラシア帝国からはヒマイモを輸出し共に友好関係を結んだ。
紀元前610年頃
ヒマジア海(現在のヒマジア王国と野獣帝国の間にある海)でバーニンと呼ばれる海賊が現れた。バーニンはヒマジア沿岸部の町を荒らして、他国と貿易をしていた。
大鮫軍の遠征
紀元前600年頃
ヒマジア海で暴れまわるバーニンを討伐する為、皇帝直下の元、ビッグサーズ軍が創立された(以後大鮫軍と記す)。大鮫軍はヤジュー帝国と同盟を結び、バーニンの本拠地ライドグリンズ(現在のカラスイカ県)に攻め込んだ。バーニンは薬学に精通しており、ゼア毒で大鮫軍は苦しめられた。
紀元前580年頃
クラシア帝国内でゼア毒を利用したブラス菌が開発された。高い感染力と死亡率を持つブラス菌は厳重保管され、戦争時、ライトグリンズに開放された。バーニンは瞬く間に人数が減り、特別マスクをつけた大鮫軍が攻め込んだ。その後、ライトグリンズは占拠され、バーニンは滅んだ。
ゾナーと暇王中心の国づくり
紀元前310年頃
ヒマジア地方にカタリーナ教(未作成)の宣教師が訪れ、カタリーナ教が広まる。それによってヒマジア地方はヒマスカ人率いるヒマスカ教派とバシル人率いるカタリーナ派に分かれた。その中でも代々、右大臣を務めるヒマスカ人のアーク家と、代々、左大臣を務めるバジル人のサバルキン家が大きく対立していた。
紀元前295年頃
クラシア帝国東部ザノーラで国の認可を受けず、サバルキン家が無断でカタリーナ教教会を建てる事件(ザノーラ事件)が発生した。皇帝がブロー・サバルキンに理由を問い詰めると黙秘するだけだった。皇帝がブロー・を捕らえようとすると、皇帝の実弟ボンドが私が命令したと公言した。そして皇帝は悩みながらも、ボンドとブローを許す事にした。
紀元前285年頃
皇帝が許してから数年後、ガナン右大臣とブロー左大臣が毎日口論を繰り返すようになった。それに呆れた皇帝は次で刑に処すと話した。その3日後、ブロー左大臣の姉であり、ボンド王弟の妻であるミルマが暗殺された。ボンドは深く悲しみ、父にガナンを殺すようにと話した。そしてサバルキン軍とアーク軍がナムナヤ峠(バジル府)で衝突し戦う(宗教戦争)。しばらくしてガナン右大臣と親交があり、皇帝の王子であり暇王中心の国づくりを目指していたゾナー(当時13歳)がアーク軍に加わる。結果としてサバルキン軍が敗北し、左大臣の地位から降りた。
●宗教戦争の人物図(右・カタリーナ、左・ヒマスカ)
●宗教戦争の人物図(右・カタリーナ、左・ヒマスカ)
名前 | 役職 | VS | 役職 | 名前 |
ゾナー・クラシア | 王子 | ー | 王弟 | ボンド・クラシア |
ガナン・アーク | 右大臣 | ー | 左大臣 | ブロー・サバルキン |
ジョノ・タイル | 地方官 | ー | 地方官 | ソガジン・ダラー |
紀元前270年頃
サバルキン家が左大臣の地位から降りたが、ボンド王弟は皇帝の許可をとらず、自領メネガット(オスカル県)で独裁的な政治をした。時に税金を上げ、メネガットは貧困が激しくなっていたという。メガネットの貧困を見たゾナー王子はボンド王弟を倒す決意をした。7月未明、ゾナー王子はボンド王弟との酒交わしの際、宿臣ガナンと協力して暗殺した。その後、父である皇帝が死に、ゾナーが新皇帝として即位した。ゾナーは新しい地位獲得のため、「皇帝」から「暇王」に名称を変えた(ゾナーの改名)。ちなみに暇王は「五暇五王」から取ってある。
紀元前260年頃
新暇王として即位したゾナーは暇王中心の国づくりを目指す為、様々な政策を行った。まず行ったのは「ゾナー憲法」の制定、これに国の在り方やヒマスカ教を利用した暇王中心の国であること、役人の仕事や態度を示した。そして「貴族階議」の制定で、貴族を22階級と仕事別に分けた。貴族階議制により、民主化が進められキャリア登用の制度が採用された。
●ゾナーが行ったこと
●ゾナーが行ったこと
- ゾナー憲法の制定(ヒマジア初の法律)
- 貴族階議の制定(明確に貴族の仕事を定める)
- ボノーガヤ堂の建立
- 地方法務令の制定
- 暇王定
紀元前200年頃
圧倒的カリスマ暇王ゾナーの死後、アーク家が暇王を支える傍ら、アーク家は自己利益を優先し、多くの貴族が不満を持っていた。ベナンドルド・アークの時代には国内貧困率が20%を超えたという。
内戦期
紀元前180年頃
ヒマジア西部シタンバンク(オスカル県)にて農民と奴隷による反乱が起きる(シタンバンク戦争)。反乱は紀元前550年にて反乱は抑えられたが、さらに貧困が広がった。
紀元前120年頃
貧困が広がったシタンバンクの地方官ゴマ・ホワイトが農民達を率いて挙兵、バナーフォス平原で衝突し戦う(バナーフォス戦争)。結果としてクラシア軍が勝利したが負け気味であった為、ナンドルドはゴマを役人に任命し税を下げさせた。その後ゴマは西部長官に昇任する。
紀元前110年頃
貧困問題により反乱が連発していたクラシア帝国の軍は疲労しきっいた。そんな時、帝国議会でアーク家を失権させるという案が出る。それに賛成する貴族や騎士、役人が増える中、東部で滅んだはずだった海賊バーニンが復活する。
●紀元200年〜紀元前100年まで発生した反乱数
●紀元200年〜紀元前100年まで発生した反乱数
位置 | 主な都市 | 件 |
東部 | ライトグリンズ | 25 |
西部 | シタンバンク | 47 |
北部 | ピンフェル | 12 |
南部 | ゾロナッツ | 39 |
中央部 | グローブフィスト | 56 |
帝国滅亡と四西戦国
紀元前90年頃
バーニンによる街荒らしが過激に行われるようになった一方、西ヒマジア民による反乱軍も過激に行われるようになった。そして、紀元前400年頃、クラシア帝国第二の都市シタンバンクが崩壊する。
紀元前40年頃
シタンバンクが崩壊してしばらく経った頃、シタンバンクを中心として西ヒマジアをまとめる者が現れる。それは西部長官になったゴマ・ホワイトの従兄弟の孫ルーダニア・ホワイトである。ルーダニアは自らを公と名乗り、共和制のルーダニア公国が誕生する。ルーダニア公国はクラシア帝国と戦い、西ヒマジア全域を治めた(ルーダニア戦争)。またこの戦争にて多くの兵士、農民、そしてクラシア王子ガブリンが戦死する。この後、クラシア帝国は滅亡する一途をたどる。
●ルーダニア戦争
《第一次(紀元前60年頃)》
●ルーダニア戦争
《第一次(紀元前60年頃)》
ルーダニア軍 | 勢力 | クラシア軍 |
ルーダニア公 | 大将 | アガリレ・ナガン将軍 |
4万3000人 | 人数 | 10万9000人 |
西ヒマジア地域を得る | 結果 | ナガン将軍の戦死 |
勝利 | 勝敗 | 敗北 |
《第二次(紀元前45年頃)》
ルーダニア軍 | 勢力 | クラシア軍 |
ルーダニア公 | 大将 | カブリン・クラシア皇子 |
3万1000人 | 人数 | 7万人 |
戦死者が多発する | 結果 | 戦死者が多発する |
引き分け | 勝敗 | 引き分け |
《第三次(紀元前40年頃)》
ルーダニア軍 | 勢力 | クラシア軍 |
ルーダニア公 | 大将 | クラシア帝 |
10万8000人 | 人数 | 35万6000人 |
西部領域を得る | 結果 | 西部領域を失う |
勝利 | 勝敗 | 敗北 |
紀元前60年頃
西ヒマジアでルーダニア公国とクラシア帝国が戦っている頃、東ヒマジアでは海賊バーニンがデデール帝国を建国。デデール帝国の皇帝に即位したのはスバンドウの子孫スバルリンだった。デデール帝国は表でクラシア帝国と同盟を結んでいたが裏では……。
紀元前35年頃
西ヒマジアにルーダニア公国、東ヒマジアにデデール帝国が建国されている頃、北ヒマジアでも建国の流れが出来上がっていた。ハイランド王国出身である青年軍の総長ライコウがその指揮を行っていた。ライコウは武力で皆を率いてクラシア帝国軍と戦い、見事勝利し北ヒマジアを奪い取る(ルーシアの戦い)。その後、バジル人を中心としたバジリア帝国が建国される。
●ルーシアの戦い
●ルーシアの戦い
ライコウ軍 | 勢力 | クラシア軍 |
ライコウ王 | 大将 | ナマジン・クラシア皇子 |
1万3000人 | 人数 | 8万2000人 |
バジリア帝国が建国 | 結果 | 北部領域を失う |
勝利 | 勝敗 | 敗北 |
紀元前30年頃
西にルーダニア公国、東にデデール帝国、北にバジリア帝国が建国され各方位を囲まれて二国包囲網が完成した。かつてクラシア帝国と同盟関係を結んでいたデデール帝国は二国包囲網に参加し三国包囲網になった。三国はクラシア帝国を滅ぼす為に結託し、三国軍で各方位から侵略を始める。
●勢力図(紀元前30年頃)
●勢力図(紀元前30年頃)
名 | 元首 | 地域 |
クラシア帝国 | ジェネルガ・クラシア帝 | 中央ヒマジア、南ヒマジア |
ルーダニア公国 | ルーダニア・ホワイト公 | 西ヒマジア |
デデール帝国 | スバルリン・ザガー帝 | 東ヒマジア、メガイン島 |
バジリア帝国 | ライコウ・エバルダ帝 | 北ヒマジア |
紀元前27年
700年戦争最後の戦争クラシアン・オブ・ダーポリアンによって、600年以上続いたクラシア帝国は滅亡する。三国包囲網を形成していた三国は、中央北部はバジリア帝国、中央南部はルーダニア公国、南部は共同管理という形で領土を分けた。はずだったが……