原始
始まり
およそ3万年前
当時は陸続きとなっていた大陸から北部を通ってはじめて人類が到達した。その人類は、当時ニスア人と呼ばれていた。
およそ2万年前
出土した石器から、この頃に大和内で初めての磨製石器が作成、使用され始めたと思われる。
紀元前7世紀頃
紀元前4世紀頃
この頃国内は、現在の天巳原県に位置していたと考えられている通称天巳原政権を始めとする5つ程の国にまとまっていた。
紀元前750年〜3世紀頃
この間に、天巳原政権は天巳原王朝へと名前を改め、大和全体の支配を始めることとなる。
古代
天巳原王朝の進出
5世紀頃
天巳原王朝が大和島東部を統一し、西部への攻撃を一時停止させ、周辺島嶼や大陸への干渉を始める。
575年
現在の萩宮帝室に繋がると考えられている巴妓乃宮鹵淑が帝位に就き羽楊帝を名乗る。(諸説あり)また、この前後には雲級文化が成立、12世紀ごろまで続くこととなる。
天巳原時代
(帝宮が現在天巳原に置かれたため天巳原時代と呼ばれている。)
7世紀初頭
帝室による政治が安定しだし、この頃から帝位継承抗争が各所で勃発。
633年
大陸から、A教(≒仏教)が伝来し、後の文化に多大なる影響を与えることとなる。また、この頃にA教の経典などが持ち込まれた事により文字が伝来した。
724年頃
このころ、貴族の間で「大和歌」が流行り始める。
732年
「大和歌」を集めた、古大和歌集が作られる。(編集者不明)
7世紀末
摂政の牛舎王により大陸へ使者が送られ、大陸の政治や文化などが輸入された。
8世紀初頭
王地王民思想の下律令体制が敷かれ、皇帝とその臣下による一元的支配が実現される事となる。しかし100年程経った頃、寺院への寄進などでこの体制に陰りが見えることとなる。
825年〜875年
このあたりの時期、「温故記」などの大和神話や、「大和歴紀」などの歴史書が作成された。
神宮時代
(9世紀末にあった神宮への遷都から12世紀初頭の武家政権成立まで)
9世紀初頭
この頃、宗教改革が行われた事によってA教が政治から離れるようになり、大和神話の復古が行われるようになった。
845年
摂政の樺蘭吹麻呂(かばらふきまろ)によって、大陸への使者の派遣停止。これによって、大和独自の文化が発展することとなる。
971年
阿倍野閑子が大和帝国内で初めに成立した随筆の、「円古布記」を記す。
1001年
芦原御前が大和内で現存する最古の長編物語「応氏物語」の第一編を執筆する。「応氏物語」は後に流行する「大和歌」の先駆けと言われている。
三つ巴戦争
1003年
雲級群島の民族となった伊柄が本土南部に上陸。神宮政権は、南部に軍を置いていなかった事で中電や稲崎西部を一時的に占領された。
1006年
垣井から深河にかけて広い地域を制していた西大和の覇権国家多美国がこれに乗じ朝行、海野宮方面に侵攻、神宮朝廷に衝撃を与える。
1007年
本生業宗率いる本生家など武家階級の活躍により伊柄を撃退。
1009年
多美国上層部の部下への悪待遇により鹿原家、筑豊家などが離反、神宮朝廷に忠誠を誓う。
1010年
多美国、神宮政権への攻撃を中止。
武家抗争
1038年
貴族らの勢力争いに乗じ本生業弥ら本生家と鹿原和弘ら鹿原家の戦い、杏仁の乱が神宮の都で始まる。
1041年
杏仁の乱、終結。本生業弥は処刑され、息子の本生義徳は原山島へ島流しとなる。
1057年
本生義徳が挙兵、十津川へ上陸。
同
屯湖畔合戦で鹿原側の部隊が敵の勢力を誤認、不戦敗。
1059年
本生側、神宮に入城。
1060年
雨野谷の戦いで鹿原家滅亡。
武家政権
1062年
本生義徳、鎮護大将軍を拝命。清留幕府成立。