鬼哭街 ◆awaseG8Boo
「……"誠"くん? もしかしてこのみのこと……忘れちゃった、のかなぁ?」
このみはクスリ、と嗤った。
瑞々しい果実のような唇の両端は歪み、桜色の舌先がチロチロと顔を出す。
大きな茶色の瞳は真っ直ぐに目前の少年を見つめ、一瞬の揺らぎさえ見られない。
瑞々しい果実のような唇の両端は歪み、桜色の舌先がチロチロと顔を出す。
大きな茶色の瞳は真っ直ぐに目前の少年を見つめ、一瞬の揺らぎさえ見られない。
「おおおお、お前っ!? い……い、いつの間にこんな近くまで……!」
赤く染まった少女がいる。
元々、彼女の制服は赤系統の色を基調にデザインされたものだ。
しかし、既にそれは更なる紅――血液によって極彩の海の中にある。
元々、彼女の制服は赤系統の色を基調にデザインされたものだ。
しかし、既にそれは更なる紅――血液によって極彩の海の中にある。
少女は黒髪にこびり付き、暗い茶に変色した血液を拭う仕草も見せず、笑顔を絶やす事はない。
(なんだよ、これ……!?)
フカヒレは自らの身に起こっている事態をまるで享受出来ずにいた。
現時点での最大の焦点は、フカヒレの肩に軽く添えられている彼女の指先。そしてあまりにも近過ぎる立ち位置について、だ。
現時点での最大の焦点は、フカヒレの肩に軽く添えられている彼女の指先。そしてあまりにも近過ぎる立ち位置について、だ。
その光景は見るものが見れば、愛を語り合う男女の微笑ましいワンシーン……と見るかもしれない。
事実、両者の距離は互いに気心を持っている相手同士でなければ考えられないほど近い。
柚原このみとフカヒレの身長の差は丁度20cm。
つまり、二人が並んだ場合、頭一つ分以上の差が生まれる訳だ。
フカヒレは完全に少女を見下ろす形となり、少女は上目遣いで彼を見上げる事になる。
事実、両者の距離は互いに気心を持っている相手同士でなければ考えられないほど近い。
柚原このみとフカヒレの身長の差は丁度20cm。
つまり、二人が並んだ場合、頭一つ分以上の差が生まれる訳だ。
フカヒレは完全に少女を見下ろす形となり、少女は上目遣いで彼を見上げる事になる。
(在り得ねぇ、絶対に在り得ねぇ……! なんだよ、コレは!? どうなってんだ!?
ワープ、瞬間移動……? 馬鹿か、相手はドンくさそうな女だぞ!?
ギャルゲーじゃ大体相場が決まってんだよ。こいつみたいに背がちっこくて、胸の貧相な妹系の女はドジっ娘だってなぁ!
そうだ。"あの人達"でもないのにそんな素早く行動出来る訳が……!!)
ワープ、瞬間移動……? 馬鹿か、相手はドンくさそうな女だぞ!?
ギャルゲーじゃ大体相場が決まってんだよ。こいつみたいに背がちっこくて、胸の貧相な妹系の女はドジっ娘だってなぁ!
そうだ。"あの人達"でもないのにそんな素早く行動出来る訳が……!!)
このみが一瞬で、自らと寸分違わぬ距離まで移動した事実をフカヒレは認められずにいた。
彼はあくまで「竜鳴館高校」というある種、異様な枠組みに所属する人間だ。
彼はあくまで「竜鳴館高校」というある種、異様な枠組みに所属する人間だ。
不幸な事に、フカヒレは彼女の行動を論理付けるだけの常識を持ち合わせていた。
例えば鉄乙女や橘館長であれば十分に今眼の前で少女が行った動作――眼にも止まらぬ速さで移動する――を実行に移すのは可能だろう。
だが、ソレを認めるのは『眼の前の女は二人と似たレベルの使い手である可能性が非常に高い』という仮説を同時に肯定してしまうのと同意義。
故に、彼は少女の異常を素直に認識する事が出来ない。
例えば鉄乙女や橘館長であれば十分に今眼の前で少女が行った動作――眼にも止まらぬ速さで移動する――を実行に移すのは可能だろう。
だが、ソレを認めるのは『眼の前の女は二人と似たレベルの使い手である可能性が非常に高い』という仮説を同時に肯定してしまうのと同意義。
故に、彼は少女の異常を素直に認識する事が出来ない。
(しかも……おい、まさか……!! こいつ本物の"伊藤誠"と会った事があるんじゃ……!!
おいおいおいおい、マジかよ……常識的に考えて普通ないだろ、そんな可能性! でもコイツの口振り……)
おいおいおいおい、マジかよ……常識的に考えて普通ないだろ、そんな可能性! でもコイツの口振り……)
そして、同時にフカヒレは自らが適当に『伊藤誠』という他の人間の名前を使った事に強い後悔を覚え始めていた。
とはいえ、もうこうなってしまっては後の祭り。
今更ながらに考えてみれば、自分が名乗った際に見せた少女の自分を嘲るような笑み――あれこそが、この失敗を証明していたのではないか。
とはいえ、もうこうなってしまっては後の祭り。
今更ながらに考えてみれば、自分が名乗った際に見せた少女の自分を嘲るような笑み――あれこそが、この失敗を証明していたのではないか。
しかし、
「どうやって移動したかなんて……そんなの、どうでもいいよ。ね、それより教えてよ。ファルさんの、こと!
それとお薬も、欲しいな。このみもね……病気だから。注射でも飲み薬かは分からないけど……お薬が必要なの」
「クスリ……ファ、ファル…………? あ、えーと、そのだな……ファルは……」
「うん。誠くん、ファルさんはどうしたの? 勿体ぶってないで早く教えてよ……誠くん。
本当に酷いなぁ、誠くん。もしかして、このみを苛めて楽しんでいるのかなぁ……このみ、悲しいよ」
それとお薬も、欲しいな。このみもね……病気だから。注射でも飲み薬かは分からないけど……お薬が必要なの」
「クスリ……ファ、ファル…………? あ、えーと、そのだな……ファルは……」
「うん。誠くん、ファルさんはどうしたの? 勿体ぶってないで早く教えてよ……誠くん。
本当に酷いなぁ、誠くん。もしかして、このみを苛めて楽しんでいるのかなぁ……このみ、悲しいよ」
あくまで、彼女はフカヒレの事を『誠くん』と呼ぶのだ。
親しげに、語りかけるように、まるで壊れた機械のように――何度も、何度も何度も何度も。
親しげに、語りかけるように、まるで壊れた機械のように――何度も、何度も何度も何度も。
少女の瞳は彼の顔を見つめ続ける。
少女の指先は彼の肩を揺さぶり続ける。
灰色に染まった街。スラムの細い路地の壁際に追い詰められた彼に、もはや逃げ場は無かった。
少女の指先は彼の肩を揺さぶり続ける。
灰色に染まった街。スラムの細い路地の壁際に追い詰められた彼に、もはや逃げ場は無かった。
(俺は……誠じゃない。そんなのコイツにも分かっている筈だ。じゃあ、何故だ? 何で俺を――!?)
確かにフカヒレにも彼女の顔に見覚えはあった。
もっとも、それはおそらくこの会場にいる全ての人間が当て嵌まる条項でもある。
脳裏に浮かぶのは一番最初に広間に集められた際、起こった惨劇を全ての参加者は目撃しているのだから。
もっとも、それはおそらくこの会場にいる全ての人間が当て嵌まる条項でもある。
脳裏に浮かぶのは一番最初に広間に集められた際、起こった惨劇を全ての参加者は目撃しているのだから。
頭を首輪爆弾によって吹き飛ばされた二人の少年少女。
そして、その亡骸に追い縋るように涙を溢していた柚原このみと呼ばれた少女。
それは間違いなく、今自分の肩を掴んでいる少女と同一人物だ。
……外見だけは。
そして、その亡骸に追い縋るように涙を溢していた柚原このみと呼ばれた少女。
それは間違いなく、今自分の肩を掴んでいる少女と同一人物だ。
……外見だけは。
薬を素直に渡すか?
とはいえ、アレはただの鎮痛剤である。彼女が求めている『病気を治す薬』に該当しないことは明らかだ。
そんなものを渡した所で、彼女は納得しないだろう。
それにこんな女の言う事をホイホイと聞いてやるつもりは毛頭無い。
こんな……馬鹿で泣き虫そうな相手など、生き残るためには足手まといでしかないのだ。
とはいえ、アレはただの鎮痛剤である。彼女が求めている『病気を治す薬』に該当しないことは明らかだ。
そんなものを渡した所で、彼女は納得しないだろう。
それにこんな女の言う事をホイホイと聞いてやるつもりは毛頭無い。
こんな……馬鹿で泣き虫そうな相手など、生き残るためには足手まといでしかないのだ。
「クッ……! ふ、ふざけんじゃねぇっ! それにち、近過ぎだろ! 離れろよ!」
フカヒレは思わず、彼女の手を払い除けようとした。
少なくとも明らかに美少女の部類に入る相手のボディタッチ――普段の彼ならば、それは至高の喜びであった。
少なくとも明らかに美少女の部類に入る相手のボディタッチ――普段の彼ならば、それは至高の喜びであった。
とはいえ、今回だけは話が違うのだ。
鮫氷新一にはもちろん女の性格の変化、思考の機微など分からない。
加えて彼は馬鹿で鈍感で墓穴を掘る性質ではあるが、妙な部分では鋭くまた"野生"としての感覚は非常に鋭敏である。
鮫氷新一にはもちろん女の性格の変化、思考の機微など分からない。
加えて彼は馬鹿で鈍感で墓穴を掘る性質ではあるが、妙な部分では鋭くまた"野生"としての感覚は非常に鋭敏である。
この時、彼の全神経が告げたのだ――この女は『地雷』であると。
しかし、
「な――ッ!? お……、おい、何だよコレ!? 離せよ! な、なんだよ……なんなんだ!?」
「誠……くん? あははーくすぐったいよ」
「誠……くん? あははーくすぐったいよ」
何度払っても、このみの手はフカヒレの肩から離れなかった。
フカヒレの動作は軽く肩口に乗ったゴミを振り払うかのようなものだった。
しかし不発。このみの小さな真白い手はどれだけの力を込めてもピクリ、ともしなかった。
故に何度もソレを繰り返す。
二度目はやや強く。三度目は若干の苛立ちを込めて。そして、
しかし不発。このみの小さな真白い手はどれだけの力を込めてもピクリ、ともしなかった。
故に何度もソレを繰り返す。
二度目はやや強く。三度目は若干の苛立ちを込めて。そして、
「は……離せよ!! おい、離せって言ってんだろ!?」
それから先、四度目以降は完全な力の氾濫だった。
このみの指を引き剥がすべく、フカヒレは声を荒げながら少女の手の甲に爪を立てる。
このみの指を引き剥がすべく、フカヒレは声を荒げながら少女の手の甲に爪を立てる。
明らかに彼は余裕を無くしていた。半ば半狂乱になっていたと言ってしまっていい。
それでも、背筋から彼を飲み込もうと画策する恐怖に比べれば、血染めの少女を更に紅で染め上げる事に彼は一切の躊躇いを覚えなかった。
それでも、背筋から彼を飲み込もうと画策する恐怖に比べれば、血染めの少女を更に紅で染め上げる事に彼は一切の躊躇いを覚えなかった。
赤い血がとろり、と流れる――赤は白を陵辱し、一瞬で自らの色へと世界を侵蝕する。
それでも、
それでも、
「ま、誠くん……? い、痛いよ……なんで……なんで、このみの手を引っ掻くの? このみとお話したくないの?」
このみの指先はフカヒレの肩から離れない。
大きな瞳を少しだけ潤ませ、このみは小さく餌付きながらフカヒレへと言葉を投げ掛け続ける。
両者の距離は変わらない。どれだけ、少年が少女を引き離そうと力を込めても、だ。
それはつまり、
大きな瞳を少しだけ潤ませ、このみは小さく餌付きながらフカヒレへと言葉を投げ掛け続ける。
両者の距離は変わらない。どれだけ、少年が少女を引き離そうと力を込めても、だ。
それはつまり、
「ぐぁっ!! お、お前……!?」
強く強く、このみがフカヒレ以上の膂力を込めて彼の肩を握り締めている事に他ならない。
小さな女の子が母親の衣服を摘むような力ではない。
まるで、手の中にある宝物を決して離さない――そんな鬼気迫る、異様なまでの力。人ならざる力。
小さな女の子が母親の衣服を摘むような力ではない。
まるで、手の中にある宝物を決して離さない――そんな鬼気迫る、異様なまでの力。人ならざる力。
太陽の光も碌に差し込まないある意味で密閉された空間。
壁に身体を押し付けられた体勢にあるフカヒレは思わず苦痛に顔を歪ませた。
壁に身体を押し付けられた体勢にあるフカヒレは思わず苦痛に顔を歪ませた。
爪が食い込んでいる、という訳ではない。
フカヒレの身体を圧迫するのは純粋なるこのみの指の力。単純な握力に過ぎない。
力だけで小さな少女が同じぐらいの年頃の少年を圧倒している光景はあまりにも異様だった。
フカヒレの身体を圧迫するのは純粋なるこのみの指の力。単純な握力に過ぎない。
力だけで小さな少女が同じぐらいの年頃の少年を圧倒している光景はあまりにも異様だった。
「や、やめ…………こ、こいつっ!!」
「誠くん? どうしたの、誠くん? ねぇ、誠くんったら」
「誠くん? どうしたの、誠くん? ねぇ、誠くんったら」
このみは病的なまでにフカヒレへと言葉を重ねる。
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
誠くん、
まるで彼を嘲嗤うように、顔も知らぬ男の名前が繰り返される。
が、フカヒレも一方的にやられているだけの男ではなかった。
彼のモットーとして『女は男に従うべきである』という論理がある。
故にこのような明らかに力も無さそうで、弱そうな相手に好き勝手される事は我慢ならないのだ。
とはいえ、相手が自分よりも圧倒的な強者である場合――例えば、鉄乙女や霧夜エリカ――容易く反故にされる意思ではあるのだが。
彼のモットーとして『女は男に従うべきである』という論理がある。
故にこのような明らかに力も無さそうで、弱そうな相手に好き勝手される事は我慢ならないのだ。
とはいえ、相手が自分よりも圧倒的な強者である場合――例えば、鉄乙女や霧夜エリカ――容易く反故にされる意思ではあるのだが。
(こいつ……俺の眼しか見てない……!? なら……今なら……!)
すぐさま、フカヒレはその怒りを暴力へと変換する。
掴まれているのとは反対の手を懐に突っ込むと、その中に忍ばせた銀色の装飾銃を取り出したのだ。
クトゥルー神話の支配者の名を持つ四十六口径のモンスターハンドガン、イタクァである。
掴まれているのとは反対の手を懐に突っ込むと、その中に忍ばせた銀色の装飾銃を取り出したのだ。
クトゥルー神話の支配者の名を持つ四十六口径のモンスターハンドガン、イタクァである。
自分は古河渚の偽者を相手が攻撃に移る前に切り殺したのだ。
ならば、この血だらけの女を撃つ事になんの問題があるだろう?
この握撃は自身への敵対行為と見て、間違いない。
見た目と違って、在り得ないほど力が強い事が気になるが、撃てば死ぬ――間違いない。
ならば、この血だらけの女を撃つ事になんの問題があるだろう?
この握撃は自身への敵対行為と見て、間違いない。
見た目と違って、在り得ないほど力が強い事が気になるが、撃てば死ぬ――間違いない。
一人の悪人を奈落の底に叩き落したフカヒレである。
ならば、二人目の相手を殺す事に何を躊躇うのだろうか。
彼女は、明らかに変だ。そう、一言で言ってしまえば『気持ち悪い』のである。
こう……胸がムカムカするのだ。
ならば、二人目の相手を殺す事に何を躊躇うのだろうか。
彼女は、明らかに変だ。そう、一言で言ってしまえば『気持ち悪い』のである。
こう……胸がムカムカするのだ。
――不揃いな妙な髪形が不快だ。
――にやにやとコチラを馬鹿にするような笑顔が不快だ。
――いつ瞬きをしているのかと、不思議に思ってしまう瞳が不快だ。
――こんなに小さな身体の癖に、自分を微妙に脅えさせているのが不快だ。
――あくまで自分を『誠くん』と呼ぶのが不快だ。
――にやにやとコチラを馬鹿にするような笑顔が不快だ。
――いつ瞬きをしているのかと、不思議に思ってしまう瞳が不快だ。
――こんなに小さな身体の癖に、自分を微妙に脅えさせているのが不快だ。
――あくまで自分を『誠くん』と呼ぶのが不快だ。
これだけ近くに接近しているのに、彼女の髪から漂ってくるのは血の匂いだけだった。
シャンプーの芳しい香りなど微塵も感じられない。
相手は年頃の少女の筈なのに、だ。
鼻腔からの刺激は背筋へと襲い掛かって来るような恐怖を増幅する。
心臓の鐘が更にそのペースを上げる。心が呑まれそうになる。
シャンプーの芳しい香りなど微塵も感じられない。
相手は年頃の少女の筈なのに、だ。
鼻腔からの刺激は背筋へと襲い掛かって来るような恐怖を増幅する。
心臓の鐘が更にそのペースを上げる。心が呑まれそうになる。
だから、
「いい加減にしろって言ってるだろっ!!」
眼の前の少女に銃口を向ける事に疑問など持たなかった。
「――え?」
ドンッ、という鈍い音が草臥れた街の中で木霊した。
少女はキョトンとした眼でこちらを見つめていた。身体が地面へと沈んでいく、最後の瞬間まで。
少女はキョトンとした眼でこちらを見つめていた。身体が地面へと沈んでいく、最後の瞬間まで。
▽
「……あら?」
瓦礫やゴミにまみれ一切の艶やかさを失い灰色に染まった街の片隅。
一人の少女が立ち止まり、辺りを見回した。
一人の少女が立ち止まり、辺りを見回した。
「……気のせい、かしら」
ファルは悩みながら、ひたすら"東"に向けて歩き続ける。
教会から、スラム街の一介へ向けての移動。
この短い行程をこなす間に、何度も彼女の耳には劈くような火薬の爆ぜる音が突き刺さった。
辺りを見回し、誰も近付いて来ないことを何度も何度も確かめながら、少女は背を猫のように丸め小走りに路地を駆ける。
教会から、スラム街の一介へ向けての移動。
この短い行程をこなす間に、何度も彼女の耳には劈くような火薬の爆ぜる音が突き刺さった。
辺りを見回し、誰も近付いて来ないことを何度も何度も確かめながら、少女は背を猫のように丸め小走りに路地を駆ける。
白銀色の髪の毛が揺れる。
処女雪のように極め細やかな肌は、日の光を浴びて輝いているようだった。
彼女は確かに未だ『殺し合い』という枠組みの中で己の生を勝ち取ってはいる。
しかし、自らの名前や出身どころか、果てはこの催しに参加している事すら覚えてはいないという大きなハンデを抱えたままで。
処女雪のように極め細やかな肌は、日の光を浴びて輝いているようだった。
彼女は確かに未だ『殺し合い』という枠組みの中で己の生を勝ち取ってはいる。
しかし、自らの名前や出身どころか、果てはこの催しに参加している事すら覚えてはいないという大きなハンデを抱えたままで。
只事ではない、そんな事実だけは認識出来る。
疑問は……いくつもある。
いや、逆に不思議に思わない事象の方が遥かに少ないのではないか。
自身のデータベースから吹き飛んだのは出自や性格などに関するパーソナルな情報が大半だ。
疑問は……いくつもある。
いや、逆に不思議に思わない事象の方が遥かに少ないのではないか。
自身のデータベースから吹き飛んだのは出自や性格などに関するパーソナルな情報が大半だ。
逆に世間の常識に対する知識は大半が残っていた。
銃の音は畏れるべきモノだと自分は知っていたし、頭上に広がる遙かなる蒼を「空」と呼ぶのも知っている。
言葉も当たり前のように喋れるし、字の読み書きだって可能だ。
銃の音は畏れるべきモノだと自分は知っていたし、頭上に広がる遙かなる蒼を「空」と呼ぶのも知っている。
言葉も当たり前のように喋れるし、字の読み書きだって可能だ。
そして何より――私は歌を、歌を歌う事を覚えていた。
ファルは"空"を見上げながら、当てもなく前へと進んでいく。
この辺りが危険な場所であるとは分かっている。
流れていく雲は白く、燦燦と照り付ける太陽は少しだけ暖かい。
思わず眉を顰めたくなるような世界の中で、この青色だけはずっと変わらない。
いつまでも……太陽が沈まない限り、自分を照らしてくれる。
この辺りが危険な場所であるとは分かっている。
流れていく雲は白く、燦燦と照り付ける太陽は少しだけ暖かい。
思わず眉を顰めたくなるような世界の中で、この青色だけはずっと変わらない。
いつまでも……太陽が沈まない限り、自分を照らしてくれる。
何なのだろう、この感覚は。
記憶喪失、という概念に覚えはある。つまり、今の自分は名前すら分からない真っ白な存在なのだ。
そう、いわばそれは抜け殻なのかもしれない。
器を満たしていた液体はポッカリと空いた穴から抜け落ちてしまったのだ。
×××××××××××××という人間を形成していた要素は何もかもが欠落してしまったと言ってもいい。
記憶喪失、という概念に覚えはある。つまり、今の自分は名前すら分からない真っ白な存在なのだ。
そう、いわばそれは抜け殻なのかもしれない。
器を満たしていた液体はポッカリと空いた穴から抜け落ちてしまったのだ。
×××××××××××××という人間を形成していた要素は何もかもが欠落してしまったと言ってもいい。
だが、こう考える事も出来るのではないか?
器だけは残った、と。
ふっ、とため息を溢しながら、何気なく喉をファルは両手で包み込んだ。
か細くて折れてしまいそうな……それでも、力強くさと温もりを感じる。
トクトクと脈を打つ鼓動が躯の中で命を形作っている。
生命の息吹が掌を伝って頭へと染み込んでいく。
か細くて折れてしまいそうな……それでも、力強くさと温もりを感じる。
トクトクと脈を打つ鼓動が躯の中で命を形作っている。
生命の息吹が掌を伝って頭へと染み込んでいく。
何をすればいいかは分からない。
だけど――自分は、もっともっともっと……歌が歌いたい。
その気持ちに嘘偽りは存在しない。
だから、こうしてここにあるモノが本当の×××××××××××××なのではないか、ふとそんな事を思った。
だけど――自分は、もっともっともっと……歌が歌いたい。
その気持ちに嘘偽りは存在しない。
だから、こうしてここにあるモノが本当の×××××××××××××なのではないか、ふとそんな事を思った。
ならば、迷うことなどないのではないか。
ならば、臆することなどないのではないか。
ならば、臆することなどないのではないか。
……うん。多分、間違ってはいないと思う。
▽
「あ……ご、ゴメンなさい! 大丈夫ですか! 痛かったんじゃ……」
このみは足元で全身を痙攣させながら、蹲る少年へと声を掛けた。
「ご……ぐ……あ……っ!!」
どうして、こんな事になったのだろう。
額から汗を垂らし、凄まじい叫び声を挙げる少年を見つめながら、このみはそんな事を思った。
胸の奥は別に痛んだりはしないけれど、彼の唸り声は少しだけ気持ちが悪い。
それに彼からは妙な臭いがする。
何だろう……まるでドブ川で自生しているザリガニ、みたいだ。変なの。
胸の奥は別に痛んだりはしないけれど、彼の唸り声は少しだけ気持ちが悪い。
それに彼からは妙な臭いがする。
何だろう……まるでドブ川で自生しているザリガニ、みたいだ。変なの。
彼――伊藤誠と名乗ってはいたが、それが偽名だと言う事は分かっている。
なぜなら、自分は本物の伊藤誠さんに会っているし、彼が嘘をついていない事も知っているからだ。
なぜなら、自分は本物の伊藤誠さんに会っているし、彼が嘘をついていない事も知っているからだ。
彼が偽りの言葉を自分に吐き出したと瞬時に理解はした。だけど、それだけだ。
怒りや憎しみのような感情は別に湧いてこなかった。
淡々と……世界の澱を再認識しただけだった。
怒りや憎しみのような感情は別に湧いてこなかった。
淡々と……世界の澱を再認識しただけだった。
だから、少しだけ脅かしてやろうと思った。小さな悪戯心という奴だ。
ちょっとビックリしてくれればそれで良かった。でも、
ちょっとビックリしてくれればそれで良かった。でも、
――彼は私に銃を向けた。
それは咄嗟の判断故の行動だった。
フカヒレがイタクァを取り出し、このみへと引き金を引く一瞬、彼女は自らに押し迫った危険を察知したのである。
そして、不思議なことに身体は一分の淀みもなく動いた。
少年の肩に『縋りついていた手とは反対の手』で、すぐさま彼の銃を叩き落とし、右膝で彼の腹部を貫いた。
フカヒレがイタクァを取り出し、このみへと引き金を引く一瞬、彼女は自らに押し迫った危険を察知したのである。
そして、不思議なことに身体は一分の淀みもなく動いた。
少年の肩に『縋りついていた手とは反対の手』で、すぐさま彼の銃を叩き落とし、右膝で彼の腹部を貫いた。
それだけの事を行うのに一秒の迷いも必要なかった。
まるで……何かに躯が操られているような気分だった。
まるで……何かに躯が操られているような気分だった。
少年は瞬間「うっ」という小さな叫びを漏らしながら地面へと倒れた。
完全に急所……とはいえ、女の子の他愛もない空手の真似事みたいな行為にここまでのオーバーリアクションはないと思う。
少しだけ、演技が過剰だ。口の中から吐瀉物がボトボトとこぼれ落ちて、地面を汚している。
ビックリ人間か何かなのだろうか? あそこまでやる必要があるのかな……。
完全に急所……とはいえ、女の子の他愛もない空手の真似事みたいな行為にここまでのオーバーリアクションはないと思う。
少しだけ、演技が過剰だ。口の中から吐瀉物がボトボトとこぼれ落ちて、地面を汚している。
ビックリ人間か何かなのだろうか? あそこまでやる必要があるのかな……。
とはいえ、このみの意思をまるで解さずに指先は動くのだ。
彼は話せるようになるまで時間が掛かるかもしれない。
このみは倒れ込んだ少年からデイパックを引き剥がすと、中身を物色し始めた。
すぐさま、目当ての道具は見つかった。ラベルの貼り付けられた瓶。中身は――ん、待て?
彼は話せるようになるまで時間が掛かるかもしれない。
このみは倒れ込んだ少年からデイパックを引き剥がすと、中身を物色し始めた。
すぐさま、目当ての道具は見つかった。ラベルの貼り付けられた瓶。中身は――ん、待て?
「あれ、そういえば、あの銃……?」
瓶より先に、一つだけ気になる事があった。
「やっぱり! ……これ、ドライさんに貰った銃だ!」
地面に転がっていた銃を確認する。
銀色のフレームに刻まれた紋章のような文字。在り得ないほどの重さに、巨大な銃身。
間違い、なかった。
それはドライが臆病者の自分にくれた武器だった。大切なものだ……そして――"彼女"に奪われたものだ。
銀色のフレームに刻まれた紋章のような文字。在り得ないほどの重さに、巨大な銃身。
間違い、なかった。
それはドライが臆病者の自分にくれた武器だった。大切なものだ……そして――"彼女"に奪われたものだ。
「……どこで、これを」
「ぁ……ぐっ……うぉえ……っ!!」
「ぁ……ぐっ……うぉえ……っ!!」
フカヒレは答えない。いや、単純に答えられないのだ。
彼の身体は悪鬼化しつつある人間の打撃を急所に食らってすぐさま行動出来るほど、頑丈ではない。
しかし、彼のそんな態度にこのみが苛立ちを覚えたこともまた事実。
彼の身体は悪鬼化しつつある人間の打撃を急所に食らってすぐさま行動出来るほど、頑丈ではない。
しかし、彼のそんな態度にこのみが苛立ちを覚えたこともまた事実。
「答えて! この銃をどうしてアナタが持っているの!?」
「う……っ、あが……っ! う…………っ、……た……」
「聞こえない! もっと大きな声で喋ってよ!」
「う……っ、あが……っ! う…………っ、……た……」
「聞こえない! もっと大きな声で喋ってよ!」
このみは地面で未だに身体を捩らせ、痛みで転げ回るフカヒレの襟元を掴むと彼の身体を揺さぶった。
まるで出来の悪いコースターのように、彼の身体はガクンガクンと前後にシェイクされる。
まるで出来の悪いコースターのように、彼の身体はガクンガクンと前後にシェイクされる。
少女の瞳は完全に光を失い、あどけない笑顔は完全にその姿を潜める。
残ったものは汚泥のような怒りの感情だけ。
自らに命の枷を嵌めた相手、ファルシータ・フォーセットの明確な手掛かりを手に入れた彼女は必死だった。
残ったものは汚泥のような怒りの感情だけ。
自らに命の枷を嵌めた相手、ファルシータ・フォーセットの明確な手掛かりを手に入れた彼女は必死だった。
「うば……っ、……た。俺がこ、殺した……女が持っていただけ、だ」
「殺した!? アナタ、もしかしてファルさんを……!?」
「ち、違う……俺が、殺したのは……古河渚の、ニセモノだ! ……あの女、お、俺を殺そうとしやがった……それで……!」
「な……ファルさんじゃ……ない!?」
「殺した!? アナタ、もしかしてファルさんを……!?」
「ち、違う……俺が、殺したのは……古河渚の、ニセモノだ! ……あの女、お、俺を殺そうとしやがった……それで……!」
「な……ファルさんじゃ……ない!?」
自分の身体からスッと何かが抜けていく感覚をこのみは覚えた。
ソレは緊張と高揚した感情によって張り詰めていた糸がプツン、と切れたような感覚だ。
ソレは緊張と高揚した感情によって張り詰めていた糸がプツン、と切れたような感覚だ。
あのファルが容易く銃という強力な武器を手放す訳がない。
では何故だ? 何故、その「フルカワナギサ」という人物がこの銃を持っていたのだ?
では何故だ? 何故、その「フルカワナギサ」という人物がこの銃を持っていたのだ?
その女に――殺された?
「あ……っ! く、クスリは……解毒剤はっ!?」
「ぐぁっ!」
「ぐぁっ!」
ファルの死という概念が頭を過ぎった瞬間、このみは一つの危機が自分へと突き付けられている事を理解した。
フカヒレを掴んでいた手をパッと放す。反動のままに、フカヒレは後頭部を地面にしたたかに打ちつけた。
銃を払った時、彼の手の指が一本妙な方向に曲がってしまったようだが、なんて貧弱なんだろう。
フカヒレを掴んでいた手をパッと放す。反動のままに、フカヒレは後頭部を地面にしたたかに打ちつけた。
銃を払った時、彼の手の指が一本妙な方向に曲がってしまったようだが、なんて貧弱なんだろう。
だが、そんな事はこのみにはどうでも良い事だった。すぐさまデイパックの中身を確かめる。
ファルシータ・フォーセットの死が導き出すもの。
それは同時に柚原このみの避けられぬ"毒死"の運命なのだから。
それは同時に柚原このみの避けられぬ"毒死"の運命なのだから。
策略によって遅効性の毒薬を食事に混ぜられた……少なくとも彼女はそう認識していた。
もっとも、それ自体はファルの真っ赤な嘘だ。
毒などファルは持っていなかったし、銃を奪い戦乱の種を撒き散らすための方便に過ぎなかった。
彼女はいくら時間が経過しようとも毒で死ぬ危険性はない。今の所は。
もっとも、それ自体はファルの真っ赤な嘘だ。
毒などファルは持っていなかったし、銃を奪い戦乱の種を撒き散らすための方便に過ぎなかった。
彼女はいくら時間が経過しようとも毒で死ぬ危険性はない。今の所は。
が、それを知らないこのみにとっては只事ではなかった。
存命のため、彼女は解毒剤を喉から手が出る程欲していた。迫り来る……死へのカウントダウンの恐怖から逃れるために。
存命のため、彼女は解毒剤を喉から手が出る程欲していた。迫り来る……死へのカウントダウンの恐怖から逃れるために。
少年が背負っていたデイパックをこのみは狭い路地の中にぶちまける。
まず、凄まじい音と共に金色のメダルが滝のような勢いで飛び出して来た。
一見、火の玉を連想する特徴的な刻印が両面に刻まれていた。数字などは書かれていない。ゲーム用の特殊通貨だろうか?
まず、凄まじい音と共に金色のメダルが滝のような勢いで飛び出して来た。
一見、火の玉を連想する特徴的な刻印が両面に刻まれていた。数字などは書かれていない。ゲーム用の特殊通貨だろうか?
カラカラと喧しい騒音を撒き散らしながら、数秒間で金色の雨は打ち止め。
基本的な支給品の他にも重くて太い銃もある。
説明書には『エクスカリバーMk2 マルチショット・ライオットガン』とある。どうやらグレネードランチャーのようだ。
エクスカリバー、何とも大層な名前である。この貧弱な少年の支給品としては不釣合いに思えた。
基本的な支給品の他にも重くて太い銃もある。
説明書には『エクスカリバーMk2 マルチショット・ライオットガン』とある。どうやらグレネードランチャーのようだ。
エクスカリバー、何とも大層な名前である。この貧弱な少年の支給品としては不釣合いに思えた。
数回、デイパックを揺さぶり、中に何も残っていないことを確認すると、このみは地面に屈み込み目的の品物を探し始める。
探し物――少年が口にしていた「クスリ」という単語。彼が何らかの薬品を所持しているのは分かっていた。
探し物――少年が口にしていた「クスリ」という単語。彼が何らかの薬品を所持しているのは分かっていた。
「……あった、薬瓶――――え」
すぐに、らしき物体は見つかった。茶褐色の瓶に白いラベルが貼ってある。
そこには小さく「鎮痛剤」と書かれて――
そこには小さく「鎮痛剤」と書かれて――
――アレ?
妙だ。
おかしい。いや、こんな事があっていいのだろうか。
おかしい。いや、こんな事があっていいのだろうか。
確かに、論理としては合っている。
彼はファルシータ・フォーセットの荷物を持っていた。それは、フルカワナギサと名乗る女から彼が奪った物だ。
つまりフルカワナギサが何らかの手段でファルから奪った道具が、回り回って自分の手の中にやって来た事になる。
彼はファルシータ・フォーセットの荷物を持っていた。それは、フルカワナギサと名乗る女から彼が奪った物だ。
つまりフルカワナギサが何らかの手段でファルから奪った道具が、回り回って自分の手の中にやって来た事になる。
だから、この中にはファルの荷物が入っていても何も驚く事はない。
解毒剤がない事もそう考えれば納得出来る。彼女は『薬を隠した』と言っていたのだから。
解毒剤がない事もそう考えれば納得出来る。彼女は『薬を隠した』と言っていたのだから。
でも、
「これ…………ファルさんが、このみに見せた瓶とおな……じ……?」
どうして、この中には「鎮痛剤」とラベルに記された薬しかないのだろう。
しかもコレはファルさんが私を脅す時にチラつかせたモノと全く同じだ。
ハッキリと覚えている。
アレは思い出すのも胸が痛くなるくらい……鮮明な記憶なのだから。見間違えようがない。
しかもコレはファルさんが私を脅す時にチラつかせたモノと全く同じだ。
ハッキリと覚えている。
アレは思い出すのも胸が痛くなるくらい……鮮明な記憶なのだから。見間違えようがない。
――じゃあ、私が飲まされた筈の毒薬は何処に行ったのだろう。
▽
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109:往こう、苦難と逆境と熱血と不屈に彩られた王道を | 柚原このみ | |
109:往こう、苦難と逆境と熱血と不屈に彩られた王道を | 鮫氷新一 | |
108:記憶無き少女、彷徨う | ファルシータ・フォーセット |