Piova ◆J1Yqz32Be.
初めは、優しそうな人だと思った。
深い深い緑色の目をした、外人さん。
深い深い緑色の目をした、外人さん。
◇ ◇ ◇
気がついたら、変な部屋に集められていて。
朋也と渚を見つけたのに、話もできない内に急にわけのわからないことを言われて、
目の前で、人が、その、あんなことになって。
真っ赤で、怖くて、目をつぶって。
しばらくして目を開けたら、辺りは真っ暗で。
そうしたら周りにはもう、誰もいなかった。
朋也と渚を見つけたのに、話もできない内に急にわけのわからないことを言われて、
目の前で、人が、その、あんなことになって。
真っ赤で、怖くて、目をつぶって。
しばらくして目を開けたら、辺りは真っ暗で。
そうしたら周りにはもう、誰もいなかった。
「……?」
ざわざわと、音がする。
真っ暗で何も見えないけど、沢山の木が周りにあるんだと、その音が教えてくれた。
今の今まで建物の中にいたはずなのに、一歩も動いていないはずなのに。
じっとりとした冷たい汗が全身に噴き出してくるのを感じる。
涙が滲む。頭が痛い。お腹が痛い。
何もかも、悪い夢の中の出来事だったらいいのに。
そう思った瞬間、ぐらりと足元が揺らいだ。
ああ、夢が覚めるんだ。そう思った。
そのまま倒れていたら、気を失えていたら、本当に目が覚めたのかもしれない。
飛び起きて、呼吸は荒くて、心臓はばくばくいってて、でもそこは自分の部屋で。
汗まみれの身体を拭き終わる頃には忘れてしまえるような、そんなものであったのかもしれない。
だけど余計なことに、あたしの身体は反射的にバランスを取ろうとして、足を踏み出してしまっていた。
あたしは倒れない。気も失えない。悪い夢からも、覚めない。
真っ暗で何も見えないけど、沢山の木が周りにあるんだと、その音が教えてくれた。
今の今まで建物の中にいたはずなのに、一歩も動いていないはずなのに。
じっとりとした冷たい汗が全身に噴き出してくるのを感じる。
涙が滲む。頭が痛い。お腹が痛い。
何もかも、悪い夢の中の出来事だったらいいのに。
そう思った瞬間、ぐらりと足元が揺らいだ。
ああ、夢が覚めるんだ。そう思った。
そのまま倒れていたら、気を失えていたら、本当に目が覚めたのかもしれない。
飛び起きて、呼吸は荒くて、心臓はばくばくいってて、でもそこは自分の部屋で。
汗まみれの身体を拭き終わる頃には忘れてしまえるような、そんなものであったのかもしれない。
だけど余計なことに、あたしの身体は反射的にバランスを取ろうとして、足を踏み出してしまっていた。
あたしは倒れない。気も失えない。悪い夢からも、覚めない。
「…………ぃや、」
小さな声を漏らしてしまえば、もう駄目だった。
耳が張り裂けるような声が、あたしの喉から迸っていた。
何も見えなかった。何も聞きたくなかった。
何もかもがいやで、何もかもが怖くて、走り出していた。
がさがさと音がする。
落ち葉を踏む音だ。
それは紛れもなくあたし自身の足音で、だけどそれすらも、ぐにゃぐにゃとゆれる世界が
あたし一人に向ける悪意のように思えて、その音から逃げるように、足を速めた。
破裂しそうな心臓の鼓動が、ほんの数歩で呼吸を乱す。
ひ、と引き攣るように息を吸った瞬間、真っ暗な世界が、逆さまになっていた。
何かに躓いて転んだのだと気付くのと、ほとんど同時。
熱いような、冷たいような、白いような、黒いような火花が、真っ暗な世界の中に飛び散った。
耳が張り裂けるような声が、あたしの喉から迸っていた。
何も見えなかった。何も聞きたくなかった。
何もかもがいやで、何もかもが怖くて、走り出していた。
がさがさと音がする。
落ち葉を踏む音だ。
それは紛れもなくあたし自身の足音で、だけどそれすらも、ぐにゃぐにゃとゆれる世界が
あたし一人に向ける悪意のように思えて、その音から逃げるように、足を速めた。
破裂しそうな心臓の鼓動が、ほんの数歩で呼吸を乱す。
ひ、と引き攣るように息を吸った瞬間、真っ暗な世界が、逆さまになっていた。
何かに躓いて転んだのだと気付くのと、ほとんど同時。
熱いような、冷たいような、白いような、黒いような火花が、真っ暗な世界の中に飛び散った。
どれだけの時間、そうしていたのかわからない。
あたしはだらだらと流れ続ける鼻血の生温さを感じながら、膝を抱えて泣いていた。
じんじんと響く痛みは一向に治まらない。
流れる血も止まらない。
骨が折れたのかもしれない。
真っ暗な中で鏡もなくて、怖くて鼻を押さえることもできない。
痛くて、辛くて、悲しくて。
だからあたしは、ずっと泣いていた。
あたしはだらだらと流れ続ける鼻血の生温さを感じながら、膝を抱えて泣いていた。
じんじんと響く痛みは一向に治まらない。
流れる血も止まらない。
骨が折れたのかもしれない。
真っ暗な中で鏡もなくて、怖くて鼻を押さえることもできない。
痛くて、辛くて、悲しくて。
だからあたしは、ずっと泣いていた。
「―――どうしたの? どこか、怪我をしたの?」
背中から声をかけられたのは、そんなときだった。
本当なら、恐怖が先に浮かぶべきだったのだと思う。
だけどそのときのあたしはもう、泣くのに疲れて、痛いのに疲れて、怖いのに疲れ果てていた。
しゃくり上げながら振り向いた、その先に見えた光の優しさ。
それから、あたしの眼を覗き込むみたいな、深い深い緑色の瞳の柔らかさと、かけられた声のあったかさに。
あたしはただ、声を上げて泣くことしか、できなかった。
本当なら、恐怖が先に浮かぶべきだったのだと思う。
だけどそのときのあたしはもう、泣くのに疲れて、痛いのに疲れて、怖いのに疲れ果てていた。
しゃくり上げながら振り向いた、その先に見えた光の優しさ。
それから、あたしの眼を覗き込むみたいな、深い深い緑色の瞳の柔らかさと、かけられた声のあったかさに。
あたしはただ、声を上げて泣くことしか、できなかった。
◇ ◇ ◇
優しそうな人だった。
深い深い緑色の目をした、外人さん。
深い深い緑色の目をした、外人さん。
「……うん、これでもう大丈夫」
あたしの鼻血を見て驚いて、ポケットから出したハンカチで拭いてくれた外人さん。
「痣になるかもしれないから、ちゃんと冷やしておかないと」
言いながら、ハンカチを真っ暗な夜空にかざすみたいにして、あたしの鼻の頭に乗せてくれた。
優しい人だと、思った。
優しい人だと、思った。
「あ、ありがと……」
「どういたしまして、えーと……?」
「どういたしまして、えーと……?」
ランタンの灯りが揺れる。
外人さんの緑色の眼の中でも、あったかい光が揺れていた。
外人さんの緑色の眼の中でも、あったかい光が揺れていた。
「ふ、藤ばや、し……杏」
まだ声が少し震えていたのが恥ずかしい。
そんなあたしの顔は、小さな灯りの中でも見て取れるほど赤くなっていたんだろうか。
外人さんが小さく笑う。
そんなあたしの顔は、小さな灯りの中でも見て取れるほど赤くなっていたんだろうか。
外人さんが小さく笑う。
「フジバヤシ……不思議な名前だね」
「き、杏が名前よ。藤林は苗字」
「そうか。……キョウ、だね。僕はクリス。クリス・ヴェルティン。……よろしく、キョウ」
「き、杏が名前よ。藤林は苗字」
「そうか。……キョウ、だね。僕はクリス。クリス・ヴェルティン。……よろしく、キョウ」
そう言って、片手を差し出してくる外人さん……クリス。
ちょっとだけ照れながら、あたしはその手を握り返す。
ちょっとだけ照れながら、あたしはその手を握り返す。
「よ、よろしくね、クリス」
その手は思っていたよりも少し硬くて、だけど指は白くて、見とれてしまうほど細くて。
だからあたしは、次の言葉に一瞬だけ、反応できなかった。
だからあたしは、次の言葉に一瞬だけ、反応できなかった。
「うん。歩けそうなら、少し歩こうか。……どこか、雨宿りできる場所を探さなきゃ」
「……、え?」
「……、え?」
ほんの瞬きするくらいの、空白。
今、なんて?
今、なんて?
「……どうしたの? そんなに濡れたままでいたら、風邪をひくよ」
「濡れ、て……?」
「うん。僕が住んでいた街ではあまり傘をさす習慣はなかったけど、いくらなんでも
この雨に打たれっぱなしじゃ身体に毒だよ」
「……ッ!」
「濡れ、て……?」
「うん。僕が住んでいた街ではあまり傘をさす習慣はなかったけど、いくらなんでも
この雨に打たれっぱなしじゃ身体に毒だよ」
「……ッ!」
反射的に、手を引っ込める。
鼻の頭に乗っていたハンカチが地面に落ちるのも構わず、あたしは目の前に立つ人を凝視する。
彼が何を言っているのか、理解できなかった。
空を見上げようとして、できなかった。
そんな必要も、なかった。
雨など、一滴も降っては、いなかった。
鼻の頭に乗っていたハンカチが地面に落ちるのも構わず、あたしは目の前に立つ人を凝視する。
彼が何を言っているのか、理解できなかった。
空を見上げようとして、できなかった。
そんな必要も、なかった。
雨など、一滴も降っては、いなかった。
「……何を、言ってるの」
引いたはずの汗が、背中を伝って流れるのを感じる。
この人は何を言っている? 濡れている? ……誰が? どうして?
緑の瞳の中で、ランタンの灯火が揺れている。
ぐらぐらと、揺れている。
疑念は、瞬く間に恐怖へと変わった。
この人は何を言っている? 濡れている? ……誰が? どうして?
緑の瞳の中で、ランタンの灯火が揺れている。
ぐらぐらと、揺れている。
疑念は、瞬く間に恐怖へと変わった。
「どうか、した……?」
「来ないで……!」
「来ないで……!」
がさり、と足元で落ち葉が音を立てた。
あたしの手を掴もうとするように伸ばされた、その手を振り払うようにして距離を開ける。
緑色の瞳が、あたしをじっと見詰めていた。
ついさっきまで優しそうに見えていたはずの深い深い色のそれは、今や粘りつくような光を湛えて
ぎらぎらと輝いているように思えた。
あたしの手を掴もうとするように伸ばされた、その手を振り払うようにして距離を開ける。
緑色の瞳が、あたしをじっと見詰めていた。
ついさっきまで優しそうに見えていたはずの深い深い色のそれは、今や粘りつくような光を湛えて
ぎらぎらと輝いているように思えた。
「……近づか、ないで」
後ずさりしたその足に、当たるものがあった。
思わずそちらに目をやれば、それは他ならぬ彼の持っていたデイパックのようだった。
足が当たった拍子に倒れて、その中身が顔を覗かせていた。
思わずそちらに目をやれば、それは他ならぬ彼の持っていたデイパックのようだった。
足が当たった拍子に倒れて、その中身が顔を覗かせていた。
「……ッ!」
ひ、と声が漏れていたかもしれない。
そこにあったのは、一見するとトランシーバーみたいな、あるいはお父さんの使う電気式の髭剃りみたいな、
プラスチック製の細長いもの。だけどその先っぽから、小さな金属製の突起が二本、突き出していた。
あたしは素っ気ないデザインのそれが何なのか、知っている。
そこにあったのは、一見するとトランシーバーみたいな、あるいはお父さんの使う電気式の髭剃りみたいな、
プラスチック製の細長いもの。だけどその先っぽから、小さな金属製の突起が二本、突き出していた。
あたしは素っ気ないデザインのそれが何なのか、知っている。
「スタン……ガン……!」
声に出した瞬間、それが急に存在感を増したように思えた。
ランタンの灯りが、あったかい光が揺れている。
だけどあたしは思い出してしまっていた。
その光の外側には、暗くて、冷たくて、ぐにゃぐにゃ歪んだ世界が広がっていることを。
同時に、思い知る。
その真っ暗な世界は、小さな光を侵食してやろうと、ずっと機会を窺っていたことを。
緑の目の外人が何かを言おうと、口を開きかけたのを見た瞬間、あたしは自分のデイパックを掴むや走り出していた。
ランタンの灯りが、あったかい光が揺れている。
だけどあたしは思い出してしまっていた。
その光の外側には、暗くて、冷たくて、ぐにゃぐにゃ歪んだ世界が広がっていることを。
同時に、思い知る。
その真っ暗な世界は、小さな光を侵食してやろうと、ずっと機会を窺っていたことを。
緑の目の外人が何かを言おうと、口を開きかけたのを見た瞬間、あたしは自分のデイパックを掴むや走り出していた。
「…………!」
走る、走る、走る。
足を止めたら追いつかれるぞ。
息を止めたら背中にいるぞ。
躓いたら、転んだら、止まったら、もう逃げられないぞ。
スタンガンの火花が、すぐそこに迫っているような気がした。
彼は、緑の目の彼は、あれを使って何をするつもりだったんだろう。
……決まってる。
ドラマやマンガで見たことのあるような、とてもひどいことをするつもりだったんだ。
考えないようにしていた言葉が、押さえつけようとしても押さえつけられずに、蘇ってくる。
足を止めたら追いつかれるぞ。
息を止めたら背中にいるぞ。
躓いたら、転んだら、止まったら、もう逃げられないぞ。
スタンガンの火花が、すぐそこに迫っているような気がした。
彼は、緑の目の彼は、あれを使って何をするつもりだったんだろう。
……決まってる。
ドラマやマンガで見たことのあるような、とてもひどいことをするつもりだったんだ。
考えないようにしていた言葉が、押さえつけようとしても押さえつけられずに、蘇ってくる。
『諸君らにはコレから互いを傷付け騙し犯し欺き――』
怖い。
怖い。
こわい。
助けて。
息が苦しい。
酸素が足りない。
何メートル進んだ? 何十メートルの距離が開いた? まだだ、まだだ、まだだ。
走れ、走れ、走れ!
怖い。
こわい。
助けて。
息が苦しい。
酸素が足りない。
何メートル進んだ? 何十メートルの距離が開いた? まだだ、まだだ、まだだ。
走れ、走れ、走れ!
あたしはあたしの心の中から響く声に突き動かされるようにして、無我夢中で走り続ける。
振り向くこともできず、一歩先すらも見えない闇の中を、走る。
段差を無視し、高低差を考えず、ただ交互に足を出し、地面を蹴り続ける。
転倒することなく走り続けられていたのは、奇跡だといってよかった。
そうして何十歩目か、何百歩目か、何千歩目で、奇跡は唐突に終わりを告げた。
振り向くこともできず、一歩先すらも見えない闇の中を、走る。
段差を無視し、高低差を考えず、ただ交互に足を出し、地面を蹴り続ける。
転倒することなく走り続けられていたのは、奇跡だといってよかった。
そうして何十歩目か、何百歩目か、何千歩目で、奇跡は唐突に終わりを告げた。
今度は、鼻を打つことは、なかった。
咄嗟に出した手が、地面を擦る。
瞬間、焼けるような熱さを掌に、脳を直接叩くような激痛を手首に、それぞれ感じていた。
咄嗟に出した手が、地面を擦る。
瞬間、焼けるような熱さを掌に、脳を直接叩くような激痛を手首に、それぞれ感じていた。
「……ッッッ!」
声が出せなかった。
上も下もわからない闇の中で、おでこを地面になすり付けるようにして呻く。
膝小僧は盛大に擦り剥けているだろう。
掌も皮が破れて、小石や木の葉や枝がいくつも食い込んでいるだろう。
だけど、それ以上にあたしの身体が訴えていたのは、手首から響く痛みの大きさだった。
―――捻挫だ。それも、相当ひどい。
あたしの中で、他人事みたいに呟く声が聞える。
経験という名の、それは声だった。
上も下もわからない闇の中で、おでこを地面になすり付けるようにして呻く。
膝小僧は盛大に擦り剥けているだろう。
掌も皮が破れて、小石や木の葉や枝がいくつも食い込んでいるだろう。
だけど、それ以上にあたしの身体が訴えていたのは、手首から響く痛みの大きさだった。
―――捻挫だ。それも、相当ひどい。
あたしの中で、他人事みたいに呟く声が聞える。
経験という名の、それは声だった。
追いつかれるかもしれないと、思った。
立ち上がることなんて、できなかった。
涙を流すこともできず、声も漏らせずに、闇の中であたしはただ、海老みたいに身体を丸めて震えていた。
立ち上がることなんて、できなかった。
涙を流すこともできず、声も漏らせずに、闇の中であたしはただ、海老みたいに身体を丸めて震えていた。
◆ ◆ ◆
―――行ってしまった。
慣れないことをするもんじゃない。
瞬く間に小さくなっていく背中を見送りながら、軽い溜息をつく。
何がいけなかったのかはわからないけれど、どうやら彼女には盛大に誤解されてしまったらしい。
精一杯にお人よしを演じたところで、この様だった。
やはり僕にはそういった部分での才能が致命的に欠けているのだろう。
こんな時だけは、ここにはいない友人のことを少しだけ羨ましく思う。
饒舌で軽妙な彼の周りには、いつも人が集まっていた。
彼はそんな僕の方こそ羨ましい、などと言ってはいたが、それも彼なりの冗談なのだろう。
僕はいつだって自分のことで手一杯だっただけだ。
笑顔で会話を交わしながら皮一枚の下で足を引っ張り合うような友人関係や、わずらわしいだけの上下関係、
恋愛や、友情や、そんな大きかったり小さかったりするコミュニティの中に、僕はどうしても溶け込めなかった。
無論のこと、僕だって隠者を気取るつもりはない。
そういうものが縦糸として、あるいは横糸となって織り成す模様を社会というのだとは、理解しているつもりだった。
ただ、そういうものに対処するだけの余裕が、要するに僕にはなかった。
それだけのことだ。
もう一度、溜息をつく。
溜息をつくと幸せが逃げる、と言ったのは誰だったか。
僕の中に、逃げていくだけの幸せがまだ残っているのかどうか、それすらもわからなかった。
瞬く間に小さくなっていく背中を見送りながら、軽い溜息をつく。
何がいけなかったのかはわからないけれど、どうやら彼女には盛大に誤解されてしまったらしい。
精一杯にお人よしを演じたところで、この様だった。
やはり僕にはそういった部分での才能が致命的に欠けているのだろう。
こんな時だけは、ここにはいない友人のことを少しだけ羨ましく思う。
饒舌で軽妙な彼の周りには、いつも人が集まっていた。
彼はそんな僕の方こそ羨ましい、などと言ってはいたが、それも彼なりの冗談なのだろう。
僕はいつだって自分のことで手一杯だっただけだ。
笑顔で会話を交わしながら皮一枚の下で足を引っ張り合うような友人関係や、わずらわしいだけの上下関係、
恋愛や、友情や、そんな大きかったり小さかったりするコミュニティの中に、僕はどうしても溶け込めなかった。
無論のこと、僕だって隠者を気取るつもりはない。
そういうものが縦糸として、あるいは横糸となって織り成す模様を社会というのだとは、理解しているつもりだった。
ただ、そういうものに対処するだけの余裕が、要するに僕にはなかった。
それだけのことだ。
もう一度、溜息をつく。
溜息をつくと幸せが逃げる、と言ったのは誰だったか。
僕の中に、逃げていくだけの幸せがまだ残っているのかどうか、それすらもわからなかった。
首を振って、地面に散乱した荷物を整理しようと屈みこむ。
安っぽいコンパスと地図。
それから黒い、小さな筒のようなもの。
いったいそれが何であるのか僕には使い方の見当もつかなかったけれど、さっき逃げていった彼女は
それを見て顔色を変えていたから、彼女にはきっと理解できていたのだろう。
反応から察するに、あまり真っ当な代物ではないだろうことは想像がつく。
凍死した浮浪者でも見るような、あの表情を思い出すと少し気が重くなる。
見ず知らずの人間が僕を見てどう感じるのかは人それぞれだと思うけれど、さすがにああいう風な反応を返されて
何も感じないほど、僕は人間ができていなかった。
だからといって怒りを感じるわけでもなかったが。
安っぽいコンパスと地図。
それから黒い、小さな筒のようなもの。
いったいそれが何であるのか僕には使い方の見当もつかなかったけれど、さっき逃げていった彼女は
それを見て顔色を変えていたから、彼女にはきっと理解できていたのだろう。
反応から察するに、あまり真っ当な代物ではないだろうことは想像がつく。
凍死した浮浪者でも見るような、あの表情を思い出すと少し気が重くなる。
見ず知らずの人間が僕を見てどう感じるのかは人それぞれだと思うけれど、さすがにああいう風な反応を返されて
何も感じないほど、僕は人間ができていなかった。
だからといって怒りを感じるわけでもなかったが。
もう何度目かもわからない溜息をついて、転がった鉛筆を拾い上げる。
その傍らに落ちていたのは、何枚かの紙。
上質なその紙を、僕は明かりの傍でじっと眺める。
もう何度も目を通して、書かれていることのほとんどすべては頭に入っていたけれど、
それでもその中身には視線を惹きつけられてしまう。
何の因果か、そこに記されていたのは僕にとって、ひどく見慣れたものだった。
五本の長い線と、その上を踊る無数の記号。その上下を飾る幾つかの単語。
俗に五線譜と呼ばれる、それは紙束だった。
記されたタイトルは『L'uccello blu』。
その傍らに落ちていたのは、何枚かの紙。
上質なその紙を、僕は明かりの傍でじっと眺める。
もう何度も目を通して、書かれていることのほとんどすべては頭に入っていたけれど、
それでもその中身には視線を惹きつけられてしまう。
何の因果か、そこに記されていたのは僕にとって、ひどく見慣れたものだった。
五本の長い線と、その上を踊る無数の記号。その上下を飾る幾つかの単語。
俗に五線譜と呼ばれる、それは紙束だった。
記されたタイトルは『L'uccello blu』。
「……蒼い鳥、か」
いったい神は僕にどんな役割を期待しているのだろうと、悪態の一つもつきたい気分だった。
僕の手元にフォルテールは、あの魔導楽器はない。
歌をうたえるだけの喉の持ち合わせもなかった。
だから、こんなものを見せられたところで僕にはどうすることもできなかった。
もっとも、もしこの場にフォルテールがあったとして、新しい楽譜を見たからといって
夜の森で独り音楽に身を浸したくなるような情熱など、僕にありはしなかったのだけれど。
僕の手元にフォルテールは、あの魔導楽器はない。
歌をうたえるだけの喉の持ち合わせもなかった。
だから、こんなものを見せられたところで僕にはどうすることもできなかった。
もっとも、もしこの場にフォルテールがあったとして、新しい楽譜を見たからといって
夜の森で独り音楽に身を浸したくなるような情熱など、僕にありはしなかったのだけれど。
目を閉じて、雨の街を思う。
僕が三年近くを過ごした、静かな水音に煙る街。
石造りの街並みは今日も、いつもと変わらぬ姿で雨と音楽に満たされているのだろう。
ナターレを迎えるまで、あと半月といったところだった。
僕が急にいなくなったところで街の営みは何一つとして変わらない。
元々熱心な学生ではなかったし、もしかしたらパートナーすら決まらない卒業発表から
逃げ出したと思われるだけかもしれない。
コーデル先生くらいは怒ってくれるのだろうか、それとも呆れるだけか。
後者かもしれない、と思う。
僕という存在は、あの街にとってその程度のものだった。
僕が三年近くを過ごした、静かな水音に煙る街。
石造りの街並みは今日も、いつもと変わらぬ姿で雨と音楽に満たされているのだろう。
ナターレを迎えるまで、あと半月といったところだった。
僕が急にいなくなったところで街の営みは何一つとして変わらない。
元々熱心な学生ではなかったし、もしかしたらパートナーすら決まらない卒業発表から
逃げ出したと思われるだけかもしれない。
コーデル先生くらいは怒ってくれるのだろうか、それとも呆れるだけか。
後者かもしれない、と思う。
僕という存在は、あの街にとってその程度のものだった。
だけど、最初に集められた大きな部屋には、いくつか見知った顔もあった。
ファルさんは優秀な学生だったし、騒ぎになるかもしれない。
トルタの友達やリセの家族もきっと心配しているだろう。
僕にしても何日も帰れなければ、手紙が途切れてしまう。
アルはきっと気を揉むだろう。
新年の休みにはこちらへ様子を見に来るかもしれない。
誰もいない部屋を見て、どんな顔をするのだろう。
他人事のように、思う。
ファルさんは優秀な学生だったし、騒ぎになるかもしれない。
トルタの友達やリセの家族もきっと心配しているだろう。
僕にしても何日も帰れなければ、手紙が途切れてしまう。
アルはきっと気を揉むだろう。
新年の休みにはこちらへ様子を見に来るかもしれない。
誰もいない部屋を見て、どんな顔をするのだろう。
他人事のように、思う。
静かな部屋。
静かな、誰もいない部屋の中で、アルは泣くのだろうか。
その目の前で必死に手を振る、小さな音の妖精にも気付かずに。
静かな、誰もいない部屋の中で、アルは泣くのだろうか。
その目の前で必死に手を振る、小さな音の妖精にも気付かずに。
ああ、と思う。
あの小さな妖精は、もしも僕が戻らないとしたら、どうなるのだろう。
誰も窓辺まで、彼女を連れて行ってやれない。
どんなに頑張っても窓枠に登れずに、小さな足を踏み鳴らすのだろうか。
あんなにも美しい歌声を、誰にも聞かせることなく。
いつまでも、窓を見上げているのだろうか。
あの小さな妖精は、もしも僕が戻らないとしたら、どうなるのだろう。
誰も窓辺まで、彼女を連れて行ってやれない。
どんなに頑張っても窓枠に登れずに、小さな足を踏み鳴らすのだろうか。
あんなにも美しい歌声を、誰にも聞かせることなく。
いつまでも、窓を見上げているのだろうか。
考えて、僕もまた空を見上げる。
ぼんやりとした光に照らされた梢の向こうには、黒の一色だけが広がっている。
雲も何も、見えはしなかったけれど。
ぼんやりとした光に照らされた梢の向こうには、黒の一色だけが広がっている。
雲も何も、見えはしなかったけれど。
―――雨が、降っていた。
恋人と、フォルテールと、あの小さな妖精と。
色々なものが僕の周りから、あっという間に奪い去られてしまったというのに。
雨だけは変わらずに、あの街と同じように。
いつまでも、僕の上に降り続いていた。
色々なものが僕の周りから、あっという間に奪い去られてしまったというのに。
雨だけは変わらずに、あの街と同じように。
いつまでも、僕の上に降り続いていた。
【D-4 深い森の中 深夜】
【クリス・ヴェルティン@シンフォニック=レイン】
【装備】:なし
【所持品】:支給品一式、『蒼い鳥@THE iDOLM@STER』の楽譜、スタンガン、ランダム支給品*1
【状態】:健康
【思考・行動】
基本:無気力。能動的に行動しない。
0:Piovaゲージ:70%
1:あの部屋に帰れるのだろうか。
2:トルタ・ファル・リセと会えるだろうか。
3:やはり他人とはあまり関わらない方がいいのかもしれない。
【装備】:なし
【所持品】:支給品一式、『蒼い鳥@THE iDOLM@STER』の楽譜、スタンガン、ランダム支給品*1
【状態】:健康
【思考・行動】
基本:無気力。能動的に行動しない。
0:Piovaゲージ:70%
1:あの部屋に帰れるのだろうか。
2:トルタ・ファル・リセと会えるだろうか。
3:やはり他人とはあまり関わらない方がいいのかもしれない。
【備考】
※雨など降っていません。
※Piovaゲージ=鬱ゲージと読み替えてください。
※増えるとクリスの体感する雨がひどくなります。
※雨など降っていません。
※Piovaゲージ=鬱ゲージと読み替えてください。
※増えるとクリスの体感する雨がひどくなります。
【藤林杏@CLANNAD】
【装備】:なし
【所持品】:支給品一式、ランダム支給品×3(未確認)
【状態】:右手首に重度の捻挫、鼻から出血中、掌と膝にひどい擦過傷。
【思考・行動】
基本:混乱。恐怖。苦痛。
1:怖い。誰か助けて!
2:怖い。誰も近づかないで!
【装備】:なし
【所持品】:支給品一式、ランダム支給品×3(未確認)
【状態】:右手首に重度の捻挫、鼻から出血中、掌と膝にひどい擦過傷。
【思考・行動】
基本:混乱。恐怖。苦痛。
1:怖い。誰か助けて!
2:怖い。誰も近づかないで!
【備考】
※捻挫は専門知識による治療が必要です。
※捻挫は専門知識による治療が必要です。
005:世界で一番NGな出会い? | 投下順 | 007:I AM SACRIFICE BLOOD |
時系列順 | ||
クリス・ヴェルティン@シンフォニック=レイン | 024:偽りの空の下で狂人は変人に魅入られ、そして始まるたった2人だけの演奏会。 | |
藤林杏 | 033:Fearing heart |