コマ十表現とは、田型4コマ(曼荼羅型4コマ)の十の部分を主役とした現代4コマの表現方法である。
概要
4コマ原理主義において「田」型、「曼荼羅型」と呼称される、2×2でコマを配置した4コマの形態に対し、十の空白部の4コマ空間ではなく、仕切りである十の部分を主役とする表現である。実はコマ4表現よりも歴史があるが、注目されたのは後々のことであり、コマ4表現に則った名前がつけられている。
アラヤマ説
最も最初に提唱したとされるのがアラヤマである。彼は2023年3月23日、国旗4コマとして独立した十字が描写されているスイス国旗を引用した「スイスの4コマ」を発表した。彼は「外枠と区切りの線の間に途切れている箇所があろうと、それは4コマと見做せる」と寛容的な解釈を示し、十字の枠との乖離を許容した。
さらに、テキスト4コマである「十」を発表したのが2023年3月28日のことである。彼はここで十字の4コマ性を追求。外枠を完全に取り払って残った十の字にさえ「潜在的に外枠が存在している」と解釈することによって、それが4コマであることを証明したのである。
んぷとら説
んぷとら(トランプ)は4コマの分割がどのような知覚によってなされているかを度々論じており、例えば「4コマ無欠仮説」では、枠線の途切れがコマ性を損なうものであるかについて問いかけている。彼はアラヤマ論と反対に、枠線の途切れに対しての不寛容論を最初期に唱えた一人である。
しかし一方、「4コマ原理主義」においては「4コマとは4つに分割するものである」と諭示した。すなわち、枠線ではなく「区切り」を伴うかどうか、その完全な分離性が4コマであるかを決定づけると考えたのである。その過程で、「意見」として区切りの注視を取り上げている。複数個ある意見のうち、以下の二点がそれに該当する。
- 区分けは強力なアウトラインか、明確な分離によって行われるべきだ。
- コマであるのだから区切りこそが重要だ。区切り以外の者はいらない。
そもそもこの記事を書いたその時点がこの主義の始まりなので内部意見もクソもないのだがそれは置いておいて、彼は境界線・区切りがコマを規定している、という部分を重要視する視点があるのではないかと説いた訳である。
その後コマ十表現、「・・・」などの作品で区切り線を主とする表現を拡張する試みをしている。
彼の理論は空間の隔離性に重きを置いており、「潜在的な外枠」の存在を肯定しているわけではない点には注意したい。
空間を区切るのに大仰な壁などは要らないんだよ。1つ柱を置くだけで、もう一方との間に境目ができる。その時点でその空間は二つに分割されるんだ。
いととと説
いとととは「自分に甘く、他人に厳しい」(2023年5月17日発表)において「十」のみが描写された形態を挙げ、「これで4コマって正気か?」という批判意見のような文言を添えた。もっともこの作品はいととと自身の考えを反映したものではない。
事実として、彼は非行少年の4コマにおいて4分割の行為に注目させたり、2023年末発表の「見てここ、4コマ」を契機にして十字の4コマ性を再注目させようと動いている。コマ十表現との呼称は彼による定義である。
「4コマ原理主義」に同調したうえで、「十」の4コマ性を「常識」扱いで完全に踏襲してしまい、とりあえず十字が描写されていればなんでも4コマになると言わんばかりにさまざまなグラフィックを乱造している。その中では、4コマの単純化、合理化に逆行するかのように、十字のシンボルの周辺には他の構成要素を好き勝手に介在させている。
いとととは「十が4コマである」という観念に誰よりも素直に向き合うことで、決して複雑に考える必要などないのだと示しているのだ。