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轆轤首(ろくろくび)
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轆轤首/飛頭蛮/ろくろくび
日本に伝わる妖怪・怪異。体から首が抜け分離して活動するものと、細紐のような首で体と頭が繋がっているものの2種が見られる。首が抜けるものは「抜け首(ぬ-くび)」や「飛頭蛮(ひとうばん)」と呼ばれることもある。
下働きの女・遊女・女房・娘などが轆轤首であるとされることが多く、夜中に女の首が抜け出て行灯の火を舐めたり、誰かに目撃されたりした後、明け方になると胴体に戻るというパターンの話が多く残る。分離するものは虫を食べたりすることもあるが、江戸の草双紙では首で繋がったタイプの轆轤首も虫を食う姿が描かれた。皺のない糸のような細長い首で体に繋がっているものが多いが、太い首の場合もある。伝承や文献によって、異人の類・奇病・奇形・「轆轤首」という妖怪だ、などと様々な見解・解釈がある。
『古今百物語評判』『太平百物語』『新説百物語』『耳嚢』『北窓瑣談』『閑田耕筆』『画図百鬼夜行』など、江戸時代の文献から見られるが、伝承の元となったのは中国の伝説である。
『曾呂利物語』の「女の妄念迷い歩く事」という話では、ある女の魂が寝ている内に体から抜け出て、野外で鶏になったり女の首になったところを旅人が目撃する。旅人が刀を抜いて首を追うと、首はある家に入った。すると家の中から「ああ恐ろしい夢を見た。刀を持った男が追いかけてきて、家まで逃げたところで目が覚めた」と聞こえたという。
『和漢三才図会』14巻・外夷人物の項では、中国の『三才図会』『南方異物誌』『捜神記』『太平広記』を引き、轆轤首の伝承を記している。『三才図会』によれば、大闍婆国(ジャワ島)には首が胴から抜け出る人間が住んでいるという。彼らは目に瞳が無く、現地では「虫落(むしおとし)」や「落民(らくみん)」と呼ばれている。また、漢の武帝の時代(前140~87)に、因稺国(「稺」の字は、文献によっては「忄・尸・辛」であることも)という者が、派遣された南方の地で体をバラバラにできる人間に出会った。彼らは首を南海に、左手を東海に、右手を西沢に飛ばし、夕暮れになるとそれぞれが戻ってきて体に納まった。しかし飛ばしている最中の両手が運悪く暴風に遭ったりすると、そのまま海上を漂うことになるという。『南方異物誌』によれば、嶺南(広東、広西、ベトナム)や、ヒマラヤ山脈の南側の山間の渓流に面した洞穴に轆轤首が住んでおり、夜になると首が胴から離れ、耳を翼にして飛び回り、虫を食べるが、明け方になると元の体に戻る。彼らは頭(首の周り)に赤い糸のような筋(傷跡)があるという。『捜神記』では、呉の朱桓という将軍の婢(はしため)は、夜になると首がぬけて飛行したとある。『太平広記』では飛頭獠(ひとうりょう)の名で記されている。善鄯(鄯善のことか?)の東の龍城(熱洞省朝陽県の西南)の西南に位置する地は1000里ばかりの広さだが、全てが塩田であるため、ここに泊まる人や牛馬は絨毯をしいて寝なければならなかった。この山の南側の渓洞の中に、時々首が飛ぶ人間が住んでいるという。彼らは首が抜ける前日になると首筋に赤い糸のような筋が生じるため、彼らの妻子はこれを見て首が飛ぶのを知る。抜け出た首は、岸辺の泥中の蟹やミミズなどを食べ、明け方になると戻って来る。そうして本人は夢から覚めたように正気に戻り、満腹になっていることを感じるのだという。『和漢三才図会』は以上の伝承を引いた上で、大闍婆国の住民すべてが轆轤首ではなく、一部の者に限られること・日本や中国でも首が飛ぶ人間がいるが、それは一種の異人であることを述べている。
『閑田耕筆』巻2では、伸びた首が1尺(約30cm)だという、やや短い轆轤首が記されている。俳諧師の遊蕩一音という男が若い頃、新吉原で美しい遊女と一夜を共にした。しかし遊女仲間が「彼女は轆轤首だ」と言うので、翌日に確かめにいった。すると夜半過ぎ、女が寝ている間に首が1尺ほど伸びて垂れた。一音が驚いて大声を出すと、寝ずの番をしていた妓夫や主が飛んできて、「遊女が轆轤首であることが知られると評判に傷がつくため、秘密にしてほしい」と一音を宥めて酒でもてなした。解説には「轆轤の名のごとく、頸の皮の屈伸する生質にて、心ゆるぶ時は伸るなり。病にはあらじ。もとより飛頭蛮のごとく、数丈延て押下に登るなどやうのことは、あるまじきことなり」と書かれている。首が伸びた現象は病気ではないとした上で、本人の気が緩むと首が伸びたと考えたようだ。
『怪物輿論』には、以下の話がある。周防の大守・大内氏に滅ぼされた筑紫の菊池家遺臣・磯貝平太左衛門武連という者が仏門に入り、「回龍」と名乗って諸国を遍歴していたが、甲斐国の山中で野宿をすることになった。木の下で臥せっていたところ、通りがかった木こりに「そんなところで寝ていると狼に襲われるから我が家に泊まりなさい」と誘われ、山奥の一軒家に案内された。そこには4,5人の男女がおり、木こりは家の主人らしかった。回龍は歓待され床についたが、夜中に喉が渇き、炉端に出て湯を飲もうとすると、そこで寝ていた人々の胴体から首がなくなっていた。回龍は驚いたが、中国の飛頭蛮(ひとうばん)という病気のことを知っていたため、首が抜けた体を別の場所に移しておくと、戻ってきた首が元に戻れずに3度地上を転がって死ぬという話を思い出し、木こりの胴だけを外に放り出して窓から観察することにした。すると垣根の外では5つの首が飛び回り、飛んでいる虫を追いかけて食べていた。その中の木こりの首が「今晩泊めてやった旅僧は肥えていて美味そうだから、皆で料理して食べよう。僧が寝入ったかどうか見てこい」と言うと、1つの首が家の中に戻って中を飛び回ったが、回龍の姿が見えないと慌てて飛び出してきて、木こりの胴もないことを報告した。5つの首は急いで室内に飛び込み、中に隠れていた回龍に襲い掛かった。回龍が棒で首を払いよけると、首は家の外に逃げ出したが、木こりの首だけは自分の胴が見つからないため、回龍に立ち向かってその衣に食いついた。そのまま首は決して離れず、回龍は首をつけたまま諸国を巡ったという。この話は小泉八雲の『怪談』にも載っており、そこでは話の続きが書かれている。曰く、国巡中に出会った盗賊が、衣に食いついた生首を見て人を脅すのに丁度よいと思い、5両の金と引き換えに譲り受けた。しかし首の因縁を思い出して恐ろしくなり、元の胴体に戻してやろうと甲斐の山中の木こりを家を訪ねた。だが胴体は既に無くなっていたため、家の裏に衣ごと首を埋めて首塚として供養したという。
『諸方見聞録』には文化7(1810)年、江戸上野の見世物小屋に首の長い男がおり、轆轤首として評判だったことが記されている。彼は大和国生まれの50代だったらしい。
『甲子夜話』巻8の5項では以下のような伝承が記されている。愛媛県、江戸時代の拳法家・西尾七兵衛の女使用人が轆轤首だというので、能勢源蔵という侍が確かめるために、夜半過ぎに女の寝室を密かに覗いていた。すると女の胸の辺りから細長い蒸気のようなものが出始め、やがて濃くなって肩から上が見えなくなる程になった。たちまち首が襖の上の欄間あたりに上がっていき、晒し首のような恰好になったが、そのまま女は眠っていた。一緒に見ていた者がこれに驚いて音を立てると、女もその音に驚いたのか寝返りを打ち、蒸気は消えて首も元通りになっていた。これを聞いた七兵衛は女に暇をとらせたが、「私は一生懸命奉公しているのに、いつもすぐに暇を出されてしまう。なんとも悲しく思います」と言ったため、本人は轆轤首である自覚がない様子だった。この女は普段から顔が青ざめていたという。
『甲子夜話続編』巻22の12項には、常陸邦利根川の谷田辺村での轆轤首にまつわる伝承が記されている。百姓・作兵衛の妻・喜久が病名不明の病気にかかり、次第に痩せていった。医者や祈祷師に頼んでも快方に向かわなかった。そこに来た行商人が、「この病気には白犬の胆を取って飲ませれば癒える」と言った。しかしこの話をした時、作兵衛の飼い犬が行商人を睨みつけたため、行商人は恐れて、「白犬より雉の胆の方が良い」と言った。すると5,6日後、白犬が雉を咥えて帰ってきた。ところが作兵衛はそれでも白犬の胆の方が良いと思い込み、白犬を殺してその胆を飲ませた。すると喜久は回復し、3年後に女児を出産した。娘は美しく育ったが、年頃になると村中から「轆轤首ではないか」との噂が持ち上がるようになった。この噂は事実だったらしく、ある年の10月の夜、娘の首が抜け出て井戸の辺りを飛び回っていたところ、白い犬が現れてその首に噛みつき、寝ていた娘は死んでしまったという。
明治時代の『夜窓鬼談』では、金持ちの男が美女の家の入り婿になったが、初夜の寝床で女が轆轤首だったことを知り、驚いて逃げ出したという話がある。
美女として描かれる轆轤首には「お六」という名が与えられるパターンが多い。『化物見越松』では、化け物であるお六は首が伸びないため、化け物仲間から仲間外れにされていたという。解説が「畢竟娘がろくろ首なればこそ、化け物なれ、首が伸びねば、常の人間なり」と書かれている。『狂言末広栄』では、お六が上方に行ったきりの夫を待ちきれず、江戸から上方まで首を伸ばしたが、後に医者の治療によりこの病を治したという。
また、轆轤首を奇病とする話には、その持病のせいで嫁げない娘というパターンが多い。
女性であるとされることが多い轆轤首だが、男性の轆轤首の逸話も残る。竹尾半四郎という男は誠実だったが、4,5年前に妻が7人も家を出て行った。実は半四郎は夜中になると首が伸び、1,2尺先で転がっていた。半四郎の首には横皴があったという。『蕉斎筆記』には以下の話がある。ある夜、増上寺の和尚の胸あたりに人の首がやって来たので、それを取って投げつけるとどこかへ行ってしまった。翌朝、体調不良により寝ていた下総出身の下働きの男が和尚に「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と聞く。和尚が「来た」と答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅いと叱られましたが、そんなに怒ることはないのにと思っていると、夜中に首が抜けてしまったのです」と言い、これ以上は奉公に差し支えがあるからと里に帰った。この下男は腹が立つと首が抜ける病だった。この病は下総国に多いという。
福井県の伝承では、敦賀の原家で急遽雇った女が轆轤首だったとあり、夜更けに呻き声で起きた家人がその女の寝室を覗くと、女の首が結髪のまま屏風を1,2尺ずつ登ろうとしては落ちていた。ついに屏風を越えて女の寝室に入ると、呻き声と襲われる声が聞こえたという。
若狭国の伝承が、藤沢衛彦『妖怪画談全集』日本編 上にある。百々茂右衛門という侍が、夜更けに町の水谷作之丞という者の塀の近くを通った時、塀の上に女の首があり、移動しているのが見えた。茂右衛門が月影に透かして見ると、それは作之丞の侍女で、顔見知りだった茂右衛門を見てにっこり笑った。茂右衛門は無礼な奴だと思ったため、持っていた杖で頭を突くと、首が邸内に落ちた気配がした。同刻、熟睡していた作之丞の侍女が急に叫び声をあげて目を覚ましたので、傍で寝ていた下女が心配して訳を聞いた。すると侍女は、「作之丞と話していると門前を通った百々茂衛門に杖で頭を叩かれた。痛くて逃げ出したところで目が覚めた」と話した。翌日、作之丞はこの話をただの夢だから気にするなと言ったが、茂右衛門からも同様の話を聞くと、しばらく考えたのち、侍女が轆轤首であるに違いないと考え、侍女を密かに呼んでそのことを告げた。侍女はこれを恥じ、直ちに暇をとって寺に入り、一生尼として過ごしたという。
香川県大川郡奥山村(長尾町多和)では「首に輪がある女性は轆轤首であるため、嫁に貰うな」という言い伝えがある。
熊本県には以下のような伝承がある。しころ村という地に絶岸和尚という僧侶が宿泊したが、風が凄まじく眠れなかったため、念仏を唱えていた。すると丑三つ時、その家の女房の首が伸びて窓から外に抜け出した。首が通った跡には白い筋が見えていた。夜明けになると筋が動き出し、首は元通りになった。昼に女房の首を見ると、筋があったという。
他にも現代の民俗資料を読むと、抜け出た魂が火の玉や首になるところを目撃した逸話が残る。
江戸後期になると、轆轤首は歌舞伎や狂言、見立て図などに多く用いられるようになった。怪談ブームや鳥山石燕の『百鬼夜行図』の影響も相まって「髪を結った美女が首を長く伸ばす」というイメージが定着した。また、見越し入道(みこ-にゅうどう)を夫とし、彼と長い首を絡め合う図も多く描かれた。江戸末期から大正時代頃までは、寺社の祭礼や縁日での興行の中に、香具師(やし)による轆轤首の見世物小屋が度々行われた。黒い幕の合わせ目から顔だけを出した若い女と、顔だけを幕の裏側に隠して座った女がおり、両者の間を、長い筒状の竹ひごを肌色の布を貼ったものが繋いでいる。顔だけ出した女が、下座の三味線や太鼓の音に合わせて上下左右に動くことで、長い首が実際に動いているように見えるのだ。
首が分離するタイプの伝承は、飛頭蛮(ひとうばん)やマレーシアのポンティアナ、ペナンガルなどが原型となっている他、魂が抜けだす病などが由来だと考えられる。首が伸びるタイプの由来は、奇形・奇病のほか、酷使されて腺病質になった遊女や下女が夜に灯油を嘗める際の影が、首が長く伸びて見えたという説がある。そこに見世物として作られた妖怪像が影響し、イメージが作り上げられたものだと考えられる。
語源について詳細は不明だが、轆轤(ろくろ)と関連するものと思われる。
下働きの女・遊女・女房・娘などが轆轤首であるとされることが多く、夜中に女の首が抜け出て行灯の火を舐めたり、誰かに目撃されたりした後、明け方になると胴体に戻るというパターンの話が多く残る。分離するものは虫を食べたりすることもあるが、江戸の草双紙では首で繋がったタイプの轆轤首も虫を食う姿が描かれた。皺のない糸のような細長い首で体に繋がっているものが多いが、太い首の場合もある。伝承や文献によって、異人の類・奇病・奇形・「轆轤首」という妖怪だ、などと様々な見解・解釈がある。
『古今百物語評判』『太平百物語』『新説百物語』『耳嚢』『北窓瑣談』『閑田耕筆』『画図百鬼夜行』など、江戸時代の文献から見られるが、伝承の元となったのは中国の伝説である。
『曾呂利物語』の「女の妄念迷い歩く事」という話では、ある女の魂が寝ている内に体から抜け出て、野外で鶏になったり女の首になったところを旅人が目撃する。旅人が刀を抜いて首を追うと、首はある家に入った。すると家の中から「ああ恐ろしい夢を見た。刀を持った男が追いかけてきて、家まで逃げたところで目が覚めた」と聞こえたという。
『和漢三才図会』14巻・外夷人物の項では、中国の『三才図会』『南方異物誌』『捜神記』『太平広記』を引き、轆轤首の伝承を記している。『三才図会』によれば、大闍婆国(ジャワ島)には首が胴から抜け出る人間が住んでいるという。彼らは目に瞳が無く、現地では「虫落(むしおとし)」や「落民(らくみん)」と呼ばれている。また、漢の武帝の時代(前140~87)に、因稺国(「稺」の字は、文献によっては「忄・尸・辛」であることも)という者が、派遣された南方の地で体をバラバラにできる人間に出会った。彼らは首を南海に、左手を東海に、右手を西沢に飛ばし、夕暮れになるとそれぞれが戻ってきて体に納まった。しかし飛ばしている最中の両手が運悪く暴風に遭ったりすると、そのまま海上を漂うことになるという。『南方異物誌』によれば、嶺南(広東、広西、ベトナム)や、ヒマラヤ山脈の南側の山間の渓流に面した洞穴に轆轤首が住んでおり、夜になると首が胴から離れ、耳を翼にして飛び回り、虫を食べるが、明け方になると元の体に戻る。彼らは頭(首の周り)に赤い糸のような筋(傷跡)があるという。『捜神記』では、呉の朱桓という将軍の婢(はしため)は、夜になると首がぬけて飛行したとある。『太平広記』では飛頭獠(ひとうりょう)の名で記されている。善鄯(鄯善のことか?)の東の龍城(熱洞省朝陽県の西南)の西南に位置する地は1000里ばかりの広さだが、全てが塩田であるため、ここに泊まる人や牛馬は絨毯をしいて寝なければならなかった。この山の南側の渓洞の中に、時々首が飛ぶ人間が住んでいるという。彼らは首が抜ける前日になると首筋に赤い糸のような筋が生じるため、彼らの妻子はこれを見て首が飛ぶのを知る。抜け出た首は、岸辺の泥中の蟹やミミズなどを食べ、明け方になると戻って来る。そうして本人は夢から覚めたように正気に戻り、満腹になっていることを感じるのだという。『和漢三才図会』は以上の伝承を引いた上で、大闍婆国の住民すべてが轆轤首ではなく、一部の者に限られること・日本や中国でも首が飛ぶ人間がいるが、それは一種の異人であることを述べている。
『閑田耕筆』巻2では、伸びた首が1尺(約30cm)だという、やや短い轆轤首が記されている。俳諧師の遊蕩一音という男が若い頃、新吉原で美しい遊女と一夜を共にした。しかし遊女仲間が「彼女は轆轤首だ」と言うので、翌日に確かめにいった。すると夜半過ぎ、女が寝ている間に首が1尺ほど伸びて垂れた。一音が驚いて大声を出すと、寝ずの番をしていた妓夫や主が飛んできて、「遊女が轆轤首であることが知られると評判に傷がつくため、秘密にしてほしい」と一音を宥めて酒でもてなした。解説には「轆轤の名のごとく、頸の皮の屈伸する生質にて、心ゆるぶ時は伸るなり。病にはあらじ。もとより飛頭蛮のごとく、数丈延て押下に登るなどやうのことは、あるまじきことなり」と書かれている。首が伸びた現象は病気ではないとした上で、本人の気が緩むと首が伸びたと考えたようだ。
『怪物輿論』には、以下の話がある。周防の大守・大内氏に滅ぼされた筑紫の菊池家遺臣・磯貝平太左衛門武連という者が仏門に入り、「回龍」と名乗って諸国を遍歴していたが、甲斐国の山中で野宿をすることになった。木の下で臥せっていたところ、通りがかった木こりに「そんなところで寝ていると狼に襲われるから我が家に泊まりなさい」と誘われ、山奥の一軒家に案内された。そこには4,5人の男女がおり、木こりは家の主人らしかった。回龍は歓待され床についたが、夜中に喉が渇き、炉端に出て湯を飲もうとすると、そこで寝ていた人々の胴体から首がなくなっていた。回龍は驚いたが、中国の飛頭蛮(ひとうばん)という病気のことを知っていたため、首が抜けた体を別の場所に移しておくと、戻ってきた首が元に戻れずに3度地上を転がって死ぬという話を思い出し、木こりの胴だけを外に放り出して窓から観察することにした。すると垣根の外では5つの首が飛び回り、飛んでいる虫を追いかけて食べていた。その中の木こりの首が「今晩泊めてやった旅僧は肥えていて美味そうだから、皆で料理して食べよう。僧が寝入ったかどうか見てこい」と言うと、1つの首が家の中に戻って中を飛び回ったが、回龍の姿が見えないと慌てて飛び出してきて、木こりの胴もないことを報告した。5つの首は急いで室内に飛び込み、中に隠れていた回龍に襲い掛かった。回龍が棒で首を払いよけると、首は家の外に逃げ出したが、木こりの首だけは自分の胴が見つからないため、回龍に立ち向かってその衣に食いついた。そのまま首は決して離れず、回龍は首をつけたまま諸国を巡ったという。この話は小泉八雲の『怪談』にも載っており、そこでは話の続きが書かれている。曰く、国巡中に出会った盗賊が、衣に食いついた生首を見て人を脅すのに丁度よいと思い、5両の金と引き換えに譲り受けた。しかし首の因縁を思い出して恐ろしくなり、元の胴体に戻してやろうと甲斐の山中の木こりを家を訪ねた。だが胴体は既に無くなっていたため、家の裏に衣ごと首を埋めて首塚として供養したという。
『諸方見聞録』には文化7(1810)年、江戸上野の見世物小屋に首の長い男がおり、轆轤首として評判だったことが記されている。彼は大和国生まれの50代だったらしい。
『甲子夜話』巻8の5項では以下のような伝承が記されている。愛媛県、江戸時代の拳法家・西尾七兵衛の女使用人が轆轤首だというので、能勢源蔵という侍が確かめるために、夜半過ぎに女の寝室を密かに覗いていた。すると女の胸の辺りから細長い蒸気のようなものが出始め、やがて濃くなって肩から上が見えなくなる程になった。たちまち首が襖の上の欄間あたりに上がっていき、晒し首のような恰好になったが、そのまま女は眠っていた。一緒に見ていた者がこれに驚いて音を立てると、女もその音に驚いたのか寝返りを打ち、蒸気は消えて首も元通りになっていた。これを聞いた七兵衛は女に暇をとらせたが、「私は一生懸命奉公しているのに、いつもすぐに暇を出されてしまう。なんとも悲しく思います」と言ったため、本人は轆轤首である自覚がない様子だった。この女は普段から顔が青ざめていたという。
『甲子夜話続編』巻22の12項には、常陸邦利根川の谷田辺村での轆轤首にまつわる伝承が記されている。百姓・作兵衛の妻・喜久が病名不明の病気にかかり、次第に痩せていった。医者や祈祷師に頼んでも快方に向かわなかった。そこに来た行商人が、「この病気には白犬の胆を取って飲ませれば癒える」と言った。しかしこの話をした時、作兵衛の飼い犬が行商人を睨みつけたため、行商人は恐れて、「白犬より雉の胆の方が良い」と言った。すると5,6日後、白犬が雉を咥えて帰ってきた。ところが作兵衛はそれでも白犬の胆の方が良いと思い込み、白犬を殺してその胆を飲ませた。すると喜久は回復し、3年後に女児を出産した。娘は美しく育ったが、年頃になると村中から「轆轤首ではないか」との噂が持ち上がるようになった。この噂は事実だったらしく、ある年の10月の夜、娘の首が抜け出て井戸の辺りを飛び回っていたところ、白い犬が現れてその首に噛みつき、寝ていた娘は死んでしまったという。
明治時代の『夜窓鬼談』では、金持ちの男が美女の家の入り婿になったが、初夜の寝床で女が轆轤首だったことを知り、驚いて逃げ出したという話がある。
美女として描かれる轆轤首には「お六」という名が与えられるパターンが多い。『化物見越松』では、化け物であるお六は首が伸びないため、化け物仲間から仲間外れにされていたという。解説が「畢竟娘がろくろ首なればこそ、化け物なれ、首が伸びねば、常の人間なり」と書かれている。『狂言末広栄』では、お六が上方に行ったきりの夫を待ちきれず、江戸から上方まで首を伸ばしたが、後に医者の治療によりこの病を治したという。
また、轆轤首を奇病とする話には、その持病のせいで嫁げない娘というパターンが多い。
女性であるとされることが多い轆轤首だが、男性の轆轤首の逸話も残る。竹尾半四郎という男は誠実だったが、4,5年前に妻が7人も家を出て行った。実は半四郎は夜中になると首が伸び、1,2尺先で転がっていた。半四郎の首には横皴があったという。『蕉斎筆記』には以下の話がある。ある夜、増上寺の和尚の胸あたりに人の首がやって来たので、それを取って投げつけるとどこかへ行ってしまった。翌朝、体調不良により寝ていた下総出身の下働きの男が和尚に「昨夜お部屋に首が参りませんでしたか」と聞く。和尚が「来た」と答えると、「私には抜け首の病があります。昨日、手水鉢に水を入れるのが遅いと叱られましたが、そんなに怒ることはないのにと思っていると、夜中に首が抜けてしまったのです」と言い、これ以上は奉公に差し支えがあるからと里に帰った。この下男は腹が立つと首が抜ける病だった。この病は下総国に多いという。
福井県の伝承では、敦賀の原家で急遽雇った女が轆轤首だったとあり、夜更けに呻き声で起きた家人がその女の寝室を覗くと、女の首が結髪のまま屏風を1,2尺ずつ登ろうとしては落ちていた。ついに屏風を越えて女の寝室に入ると、呻き声と襲われる声が聞こえたという。
若狭国の伝承が、藤沢衛彦『妖怪画談全集』日本編 上にある。百々茂右衛門という侍が、夜更けに町の水谷作之丞という者の塀の近くを通った時、塀の上に女の首があり、移動しているのが見えた。茂右衛門が月影に透かして見ると、それは作之丞の侍女で、顔見知りだった茂右衛門を見てにっこり笑った。茂右衛門は無礼な奴だと思ったため、持っていた杖で頭を突くと、首が邸内に落ちた気配がした。同刻、熟睡していた作之丞の侍女が急に叫び声をあげて目を覚ましたので、傍で寝ていた下女が心配して訳を聞いた。すると侍女は、「作之丞と話していると門前を通った百々茂衛門に杖で頭を叩かれた。痛くて逃げ出したところで目が覚めた」と話した。翌日、作之丞はこの話をただの夢だから気にするなと言ったが、茂右衛門からも同様の話を聞くと、しばらく考えたのち、侍女が轆轤首であるに違いないと考え、侍女を密かに呼んでそのことを告げた。侍女はこれを恥じ、直ちに暇をとって寺に入り、一生尼として過ごしたという。
香川県大川郡奥山村(長尾町多和)では「首に輪がある女性は轆轤首であるため、嫁に貰うな」という言い伝えがある。
熊本県には以下のような伝承がある。しころ村という地に絶岸和尚という僧侶が宿泊したが、風が凄まじく眠れなかったため、念仏を唱えていた。すると丑三つ時、その家の女房の首が伸びて窓から外に抜け出した。首が通った跡には白い筋が見えていた。夜明けになると筋が動き出し、首は元通りになった。昼に女房の首を見ると、筋があったという。
他にも現代の民俗資料を読むと、抜け出た魂が火の玉や首になるところを目撃した逸話が残る。
江戸後期になると、轆轤首は歌舞伎や狂言、見立て図などに多く用いられるようになった。怪談ブームや鳥山石燕の『百鬼夜行図』の影響も相まって「髪を結った美女が首を長く伸ばす」というイメージが定着した。また、見越し入道(みこ-にゅうどう)を夫とし、彼と長い首を絡め合う図も多く描かれた。江戸末期から大正時代頃までは、寺社の祭礼や縁日での興行の中に、香具師(やし)による轆轤首の見世物小屋が度々行われた。黒い幕の合わせ目から顔だけを出した若い女と、顔だけを幕の裏側に隠して座った女がおり、両者の間を、長い筒状の竹ひごを肌色の布を貼ったものが繋いでいる。顔だけ出した女が、下座の三味線や太鼓の音に合わせて上下左右に動くことで、長い首が実際に動いているように見えるのだ。
首が分離するタイプの伝承は、飛頭蛮(ひとうばん)やマレーシアのポンティアナ、ペナンガルなどが原型となっている他、魂が抜けだす病などが由来だと考えられる。首が伸びるタイプの由来は、奇形・奇病のほか、酷使されて腺病質になった遊女や下女が夜に灯油を嘗める際の影が、首が長く伸びて見えたという説がある。そこに見世物として作られた妖怪像が影響し、イメージが作り上げられたものだと考えられる。
語源について詳細は不明だが、轆轤(ろくろ)と関連するものと思われる。
別名
参考文献
- 村上健司著『日本妖怪大事典』角川書店
- 村上健司著『妖怪事典』毎日新聞社
- 小松和彦監修『日本怪異妖怪大辞典』東京堂出版
- 志村有弘著『日本ミステリアス 妖怪・怪奇・妖人事典』勉誠出版
- 草野巧著『幻想動物事典』新紀元社
- 笹間良彦著『図説 日本未確認生物事典』柏書房
- 谷川健一編『妖怪 日本民俗文化資料集成8』三一書房
- 善養寺ススム著/江戸人文研究会編『時代小説のお供に 絵でみる江戸の妖怪図巻』廣済堂出版