水嶋水獣 ◆wgC73NFT9I


 ヒグマの繁殖期は6~7月。
 繁殖可能年齢は、約4歳以降。
 一度に出産する子どもの数は、約1~3匹程度。

 他の多産な哺乳類、況や大半の鳥類、爬虫類、両生類などと比較しても、ヒグマの繁殖速度は決して早くはない。

 彼らヒグマは、『質より量』ではなく『量より質』の繁殖戦略――『K戦略』をより強く採った種である。
 熊の繁殖能力とは、つまり、生んだ個体を、確実に生き残るような強力な子供として産み育てる能力である。
 シーナーたちが後に大量作成したヒグマたちも、それゆえに、生れてすぐに高度な自我を持ち、言語を操り、強靭な己の肉体を操作することができた。


 『野生の繁殖パワー』とくくることで、その戦略を、『質より量』の『r戦略』と混同することは、大きな誤りである。


 ――この誤りは、双方の戦略者の実力を、共に誤認することに繋がる。


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 津波を切り裂く、桃色の光。
 押し寄せる潮位は島の崖をたやすく乗り越えるも、その光の背後にて落ちる滝の元には被らなかった。

「よーっし! これでキリカちゃんやヤイコちゃんは無事だよね」

 プリキュア・シューティングスター。
 海水をその突進力で裂ききったキュアドリームは、満足そうに後方を振り返る。
 既に津波はその勢いを潜め、島の外へと波を引き始めていた。
 水を裂く光を弱め、波の間に着水するも、水位は後方の海食洞を覗かせる程に落ち着いている。

 島の岸から1キロメートルばかりも直進してしまっただろうか。
 首輪を布束砥信に外してもらったとはいえ、流石に島から離れすぎた。
 戻ろうと波間からキュアドリームが飛び立とうとした時、彼女は足首に鋭い痛みを感じた。

「いヒぃッたーい!! なになになになに!? 何なの?」

 慌てて水中から浮かび上がり足下を見やる。
 左の足首に、長径30センチメートル程の、真っ黒い楕円形の塊が取り付いていた。
 力任せにはぎ取ると、それはふくらはぎの肉をぞっくりと抉り取りながら離れる。
 痛みを堪えながら、その物体を観察した。


 固い。
 まるで木か石のような手ごたえだが、黒い表皮は明らかにクマの毛皮のような細かい毛に覆われている。
 左右に、枯れた枝のようなものが4本ずつ飛び出しており、何かの種か木の根のようにも見えた。
 脚から離した裏側は、黒いヒダが横に並んでいて昆虫の腹部のようだが、そちらもやはり固く、洗濯板のようになっていた。

 左脚の肉を抉った部分は、よくわからない。
 もしかするとこれが生き物で、噛みちぎられたのかとも思ったが、血も海水で流れており、一見しただけではどこにも口のようなものは見あたらなかった。


「……なんだろうこれ……。ただの変な石?
 わたしの脚にぶつかってきただけなのかなぁ……」


 キュアドリームは、それを海に放り捨てようと、頭上に掲げる。
 その時、その物体が鳴いた。

「ちぃぃぃぃぃぃ……」
「ひえぇ!?」

 右手の先で、その物体は4対の枝のような脚を動かし、体の先端から、鋭い牙を覗かせていた。
 ほぼ真円形に開いた口が、手の肉を抉ろうと身を捩らせている。
 驚きで、夢原のぞみは反射的にその物体を投げ出した。

 手を離しざま、その物体は口のある方とは反対側の端から、濁った液体をのぞみに吹きかけてくる。
 プリキュアの衣装に、わずかだったがその褐色の汁が付着した。
 波間に沈む物体を見送りながら、夢原のぞみはその気色悪さに改めて戦慄した。

「うわぁ~ばっちぃ……。本当に何なのあれ……。
 津波で変な生き物が来ちゃったのかなぁ……。布束さんって、ここの島の人だったみたいだから、後で訊いてみよう……」

 海水でその汁を洗い落とし、足首の傷を押さえながら、キュアドリームは島の西側へと飛び帰っていった。


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝



 中島の中川堤の下に変なものが現れた。死んだ牛のように見えるのが、水面に背をさらして久しく動かないので、あるいは大木の朽ちたのだと言い、また苔むした石だなどと、人々は言い合った。
 水練の達人が近寄って撫で回したりしたが、なにしろ流れの激しい場所で、ゆっくり調べることができない。ただ『黒くて皮の手触りがある。頭もなく口もなく、左右に枝のごときものが二三本出ている。おそらく枯木の根ではないか』とのことだった。
 近くの山田村の牛かもしれないと、いちおう尋ねたけれども、やっぱり牛ではなさそうだった。鍬で叩いたり竹で突いたりしてみると、ただバンバンというばかりで鍬の刃も入らないながら、木石などではなく、何か知らないが生き物の皮だろうと思われた。

 その後、川水の少ない日に、地元の若者たちが黒皮のごときものの周りに寄り集まって、一鍬ずつ力いっぱい打ち込んでみるに、だれも刃が立たなかった。

「こいつ、絶対に生き物じゃないよ」

 そう言い合って、みな岸に腰かけて煙草を吸っていると、そこへ「椰子の実」という一抱えばかりの木の実が流れ下ってきた。これは白山の谷間に生ずるといわれ、表面は毛の生えた皮で、中に髑髏のような果肉があり、白い油が満ちている。油は甘くて美味なので、土地の者は実を拾って吸う。
 その椰子の実が黒い物の前へ流れてくるや、そいつは枝のような手を伸ばした。そして実を引き抱え、目も口もないところへ押し当てて、たちまち白い油を吸い尽くすと、殻を捨て流した。
 これを見て、百姓たちは驚き呆れた。

「生きているぞ。化け物だ。打ち殺せ」

 みな立ち騒いだが、鍬の刃も立たない、どうするか。だれかが思いついて、藁に火をつけ、黒い皮の上に置いた。他の者たちも次々に焼け草を投げかけ投げかけするうちに、シュウシュウと音がして油臭さが漂ってきた。

「それ、今だ」

 鍬を振り上げてしたたかに打つと、焼け爛れた跡だから、一寸ばかりも切り込み、黒い血も少し流れ出たように見えた。


 そのときだ。


 大地も覆るようなドウドウという水音が轟いて、今まで渇水していた川に、一丈あまりの水かさの大波が川上から押し寄せた。
 驚いた百姓たちが一目散に逃げたあと、黒い死牛のごときものは、水がかかると同時にコロコロ転がるように見え、するとたちまち幾重の堤防がいっせいに崩れ落ちた。逃げ延びたと思った百姓たちが振り返ると、水は彼らを追いかけるように、道なき田畑を走り流れて来た。

 それからというもの、方々で水が溢れ、周辺は長らく水害に苦しむこととなった。黒い獣が転がっていくと見えた場所は、たちまち淵となって、水難は止まない。獣は、中国の伝説の「天呉」とかいうものだろうか。『目鼻がなく、よく川の堤防を破る』などと聞いたことがある。
 とにかく人力の及ぶものではなく、仏の力にすがるしかないということになって、百日間、家ごとに毎朝、川に向かって観音経を唱えた。
 その効験か、または単に時節が来たからか、ある夜、闇の中に薄赤い光があって、黒い獣が川上へと向かうのが見えた。その後、水が引いて、今の土地の様子になったのである。


 俗説に『水熊が出た』というのは、この出来事をいう。


 (堀麦水『三州奇談』二ノ巻「水嶋水獣」より)


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『【暁美ほむら 死亡】
 【ブラキディオス 死亡】
 【クリストファー・ロビン 死亡】
 【黒木智子 死亡】
 【夢原のぞみ 死亡】
 【呉キリカ 死亡】
 【高橋幸児 死亡】』


 という文字列がモニターに映し出されている。

 火山より現れた巨人。
 島の全体を包むように襲った津波。
 参加者の仕業とも外部からの介入ともつかない事態の連続だった。


 しかし首輪は、滞りなくこの殺し合いが進行していることを伝えていた。
 研究所内の受信機は、首輪の盗聴器からの音声もしっかりと拾っている。


 クリストファー・ロビンと黒木智子は、何らかの手段で地下の研究所の存在に気づいたが、禁止エリアに入って爆死したものらしい。
 夢原のぞみと呉キリカは、帝国内に偶然侵入してしまったところを布束砥信がその能力で排除したようだ。
 高橋幸児は、無謀にも穴持たず48に襲い掛かり、正当防衛を受けて分解された。


 問題は暁美ほむらである。
 彼女は穴持たず12の捕食により死亡したと思われるが、どうやら近隣にいた参加者の会話を拾うに、信じられないことだが首輪の外れた肉片の状態でしぶとく生き残っている可能性がある。
 さらに、穴持たず1が『例の者』に接触したらしい。
 また、参加者たちにペラペラと余計な情報を喋っている、外部より連れてこられたヒグマが2名いる。
 声にならない声を発しながら人間を切り刻んでいたらしい参加者もいたようだが、それにしては死亡者のリストが増えていないことも気になる。
 これは看過してよい状況なのか否か――。


「――キングさん。状況は把握できましたか」


 背後から、何の前触れもなく声がかかる。
 荒れた研究所の一角に、骨と皮ばかりの影のようなヒグマが現れていた。
 穴持たず47、シーナーであった。
 呼びかけられたキングヒグマは、操作を覚えたての機械画面から目を離し、シーナーの虚ろな瞳に向けて唸り返す。


『ご苦労様ですシーナーさん。ようやく島内センサネットワークをリストアして被害状況が確認できたところです。
 ご指摘の通り、津波の到来と巨人の出現により、地上の損壊状況は激しい模様です。
 E-5およびD-7エリアは巨人が踏破。目立った建物がないことが幸いでした。
 その他、E-5以外のエリアは基本的に津波によって冠水。シーナーさんのいたE-6の他、A-5、B-5、C-4、D-4、D-5は比較的地上の損壊は軽微なようですが、今後の引き波によって被害は更に拡大するものと思われます』
「あと、A~Dの6~9あたりは、シバさんが盛大に爆破して下さったようですね」
『……聞いていらっしゃったんですか、今さっきの電話』
「はい。識(み)ました。建造物と参加者・ヒグマに影響がなければいいんですが……」
『センサが生きているので、爆心地付近はともかく、それほど会場の破壊に繋がってはいないかと……』


 高橋幸児の音声を拾ったことで、『羆殺し』なる宝具が出現したことは認知されていた。
 同胞のヒグマの一頭が武器と融合したものらしく、シーナーやキングヒグマにとっても気になる物品ではある。
 そしてシーナーが津波を確認した後の呼び掛けで、シバはそれを回収して津波の収拾に当てるという案を出していた。
 だが、当の本人が収拾案を盛大に反故にして会場を撹乱しているのだから世話はない。
 信頼に足りるかと言われれば、正直心もとない。

 一方でキングヒグマは、布束砥信とヤイコがある程度復旧させた研究所の機能を、当座のところ順調に使いこなしていた。
 操作中にクロスゲートを誤作動させてしまい、人間を一人、近海の海上に呼び出してしまったが、大きなミスはその程度だ。
 撹乱の多い会場の環境を少しでも把握すべく、彼は主催者然とした行動を着実に積み重ねている。



 シーナーの表情は渋い。

「……あなたも、パッチールの派遣および帝国の維持、ご苦労様です。あなたが君臨しているからこそ、我々が行動できるのですから」
『労いは有り難いのですが、何か、ご不満があるのでは』
「いえ……。ただ、これらの異変を原因から止めない限りは、再三再四、異変が起きる可能性がありましてね」


 既に、シーナーはヒグマ帝国内で、脱走した人間と、それに呼び出されたらしい闖入者を補食している。
 危惧すべきは、島外にクルーザーで出て行ってしまった同胞達から島の情報が漏れ、外部より干渉を受けることであった。
 火山に突如出現した巨人も不自然な挙動の津波も、もしかすると外界からの何らかの能力によるものとも考えられる。
 夜間の火山の噴火でさえ、下手をすれば参加者か部外者が引き起こしたものと考えられなくもない。

 今回の津波の収拾のように、何度も後手に回っていては取り返しがつかない。
 先手を打って、対策を取っておく必要があった。


『そう思いまして、メインサーバーの電源は落としたままにしています。こちらからもデータの閲覧はできませんが、今のところ外部より重要情報にアクセスされることはないかと』
「賢明な判断ですね。我々が研究所のデータを使うことは余り無いでしょうから。
 ――ですが、この島は、既に外部からの介入に晒されている可能性が高い……」


 ――“彼女”たちに動いてもらうしかありませんね。


 呟きながら、シーナーは部屋の隅の伝声管の蓋を開けた。
 キングヒグマは、驚愕に眼を見開く。


『No.39の御姉様にですか!? シーナーさんは、御姉様の行動方針を変更できるのですか!?』
「“彼女”も我々の同胞です。実験を滞りなく進めることが、我々の目的なのですから。
 有冨所長の意向とも、表向き食い違いはないはずです。やれるだけやってみますよ」


 シーナーの体から見えない霞が溢れ出し、伝声管を伝って、島の地下へと流れ落ちてゆく。
 その黒い流体が辿りつくのは、島の位置する海底の一端。

 シーナーの振動覚が、“彼女”の息遣いを捉える。
 シーナーの口から、有冨春樹の、鼻につくような笑い声が響いていた。


「やあ、調子はどうだい? 海上の異変を報告してくれ」


 伝声管の向こうから、ざわざわと昆虫の群れが蠢くような音で、返答が返ってくる。


 ――島外への脱出者1名を確認。捕食中。
 ――脱出ヒグマ43名とクルーザー6艘を確認。うち42名は死亡。5艘は轟沈。
 ――現在、直接の波浪による死者は確認されておりません。
 ――なお、波浪に乗り脱出しかけた人間1名の島内帰還を確認しています。
 ――海上より島内への侵入者6名を確認。看過。うち5名は島内の水上で死亡しています。
 ――周辺海上に7名の人間と2名のヒグマ、2名の名称不明の存在を確認。行動を保留しています。
 ――また空中より複数の飛来物の振動を確認しましたが詳細不明です。


 シーナーは伝声管から口を外し、キングヒグマに向けて、

『やはり既に侵入されていたようです。追々掃討に向かいます』

 と幻聴を投げた。


「なるほど。こちらでもゴタゴタがあってね。長い間連絡していなくてすまない。
 キミは今後、『周辺海上を通るヒグマと研究員以外の生命体は、全て捕食』してくれ。
 そしてキミの事を知らず、『攻撃を加えてくるようであれば、ヒグマのようであっても敵とみなせ』。
 あとはここに、ヒグマを一匹残しておくから、海食洞や津波の状況なども詳しく報告しておいてくれ。
 特に、海食洞には布束がいるんでね。津波が行ってないか、見に行ってやって欲しい」


 ――了解いたしました、有冨所長。


 シーナーは伝声管を閉じ、安堵の息をつく。

「なんとか、私が有冨所長であると信じて下さったようです。これで、“彼女”が外部介入の大半を処理してくれるでしょう。
 あなたは引き続き、島内の状況確認と、ヒグマたちの統制をお願い致します。
 ……灰色熊さんにも、引き続きご連絡を」


 有冨春樹が残していた、『先手を打った対策』。
 それを更に万全の状態に、張り直した。
 研究所育ちのヒグマならば皆知っている、信頼に足りるものだ。
 “彼女”の採る戦略は、この撹乱の多い状況の中で、最も真価を発揮する。
 事実、彼女は既に、第一の異変には適切な対応を採っていた。
 海上の侵入者たちを処理するのも、すぐだろう。


 しっかりと頷くキングヒグマを見やり、穴持たず47は再びその存在を虚空に掻き消した。



【ヒグマ帝国内:研究所跡/午前】


【穴持たず47(シーナー)】
状態:健康、対応五感で知覚不能
装備:『固有結界:治癒の書(キターブ・アッシファー)』
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:ヒグマ帝国と同胞の安寧のため、危険分子を監視・排除する。
0:地上から帝国内への浸水は無かったため、会場内の収拾に当たる。
1:内部で生き残っているらしい、残り1人の侵入者の所在確認が先決か……?
2:暁美ほむらの安否確認や、李徴・隻眼2への戒めなども、いざとなったらする必要がありますかね……。
3:モノクマさん……ようやく姿を現しましたね?
4:デビルさんは、我々の目的を知ったとしても賛同して下さいますでしょうか……。
[備考]
※『治癒の書(キターブ・アッシファー)』とは、シーナーが体内に展開する固有結界。シーナーが五感を用いて認識した対象の、対応する五感を支配する。
※シーナーの五感の認識外に対象が出た場合、支配は解除される。しかし対象の五感全てを同時に支配した場合、対象は『空中人間』となりその魂をこの結界に捕食される。
※『空中人間』となった魂は結界の中で暫くは、シーナーの描いた幻を認識しつつ思考するが、次第にこの結界に消化されて、結界を維持するための魔力と化す。
※例えばシーナーが見た者は、シーナーの任意の幻視を目の当たりにすることになり、シーナーが触れた者は、位置覚や痛覚をも操られてしまうことになる。
※普段シーナーはこの能力を、隠密行動およびヒグマの治療・手術の際の麻酔として使用しています。


穴持たず204(キングヒグマ)】
状態:健康
装備:なし
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:前主催の代わりに主催として振る舞う。
0:島内の情報収集
1:キングとしてヒグマの繁栄を目指す
2:穴持たず59に連絡して島へ呼び戻す
3:灰色熊に、現在の情報を伝達する


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝


 穴持たず59は、頭を抱えていた。
 夜明けから意気消沈して、彼は携帯端末を前にして身じろぎもできていない。
 レオナルド博士を拉致するという特命を受けて派遣され、はや一週間も経とうか。
 相棒の穴持たず58を対象の一味に無惨に殺されて以降、日本中を探すも、拉致対象の動向はさっぱり掴めなくなっていた。

「……予定だと、今日ってもう実験の日だよなぁ……。
 先輩の穴持たず達はもう爽快な戦いを楽しんでる頃だろうに……。どうすりゃいいんだよオレ……」

 彼のいる場所は、東北地方の太平洋沿岸。
 研究所から再拝命を受けた後、彼は九州からここに至るまで虱潰しにレオナルド博士の行方を追っていた。
 先輩と違い、彼にはとりたてて便利な隠密能力などはない。
 人語を解し、喋れるというのは特技と言えなくもなかったが、穴持たずの半数近くは何をせずとも喋れたりしていたので、特に自慢できることでもない。
 海峡を泳ぐのも人目を避けて行動するのも、彼には細心の注意を払いながらの探索行だった。
 しかし、それも時間切れ。
 島の研究員からどんな怒りの文句と処罰が飛んでくるかビクビクしながら、彼は先程から海岸沿いの植え込みに身を潜めているのだ。

 そして、目の前に置いていた携帯端末が鳴る。
 穴持たず59は、諦観をその瞳に宿しながら端末を取った。

「――はい、穴持たず59です……。あの、すんません、まだ博士は――」
『――グルルルルルル……』


 ――ヒグマ語!?



 携帯の向こう側から聞こえてきたのは、研究員の罵声ではなく、ヒグマの唸り声であった。
 ヒグマは、穴持たずNo.204、『キング』という個体であると名乗っていた。
 つまり、地下研究所の放送席の前には、今、人間ではなくそのヒグマが座っていることになる。
 事態を理解しかねる穴持たず59をよそに、電話口の向こうで、ヒグマ語の唸りは更に続いていく。

『穴持たず59。至急、島への帰還を願う。キミの直近に、間もなく愚昧な同胞のクルーザーが着岸する。
 奪い返して戻りなさい。同胞が反抗するようなら殺害しても構わない』
「おいおいおいおい、ちょっと待て。あんたはまず誰だ!?
 204号なんて番号聞いたこともねぇぞ!? それになんだって研究員のクルーザーに乗ってヒグマがやって来るんだよ!?」
『我々ヒグマは研究所を制圧したのだ。しかし、想定外の異変が多発し、同胞の中からも無闇に島外へ脱出しようとした者たちがいる。
 まだ我々の存在は人間に知られるべきではない。事実、その一艘を残して同胞のクルーザーは海上自衛隊の艦船に悉く沈没せしめられた。
 早急に、ヒグマ内でも統制を取る必要があるのだ』

 想像を絶した答えに、穴持たず59は言葉を失った。
 キングヒグマは、彼を後押しするかのように、重々しく一言付け加える。

『大丈夫だ。我々は、“彼女”を――穴持たず39を統御下に置いた。
 闖入者及び異変の収拾にも、“彼女”が当たってくれている』
「“彼女”って……、まさか、“ミズクマの姐さん”?」


 その時、穴持たず59の前の海岸に、一隻のクルーザーが着岸していた。


『――では、頼んだぞ、穴持たず59』

 携帯電話の唸り声が切れるのとほぼ同時に、話の通りその船からは一頭のヒグマが降りてきていた。
 研究所から出てきてしまったヒグマであるらしい。

 身を震わせて伸びをしているそのヒグマに向かって、穴持たず59は慌てて走り寄っていた。

「おい、あんたマジで穴持たずなのか!? 今、島はどうなってるんだ!?」
「あ~?」

 ヒグマは首の関節を鳴らし、穴持たず59に胡乱な眼差しを向けて立ち上がる。
 そして、彼をせせら笑うように前足の指を向けて、名乗りを上げた。

「誰かと思えば、人間のイヌの5み9ず(ゴミクズ)さんじゃねぇかよぉ。
 俺は穴持たずNo.427!! てめぇみたいなゴミクズヒグマとは違う、シーナー謹製のヒグマの一頭だ!!」
「427号!? 第2、第3の穴持たずとは言ったが、何頭まで増えてんだよ、馬鹿じゃねぇの!?」

 驚き呆れる穴持たず59に向けて、穴持たず427は、クルーザーの中を指して注目をさせる。
 クルーザーの船室や甲板には、6体のヒグマが惨殺され、喰い散らかされた状態で放置されていた。

「俺は同期のヒグマの中でも最強なんだよ……。だから、ムカつく奴らは全部喰ってやった。
 自由は俺一人のもの!! 日本中の人間を俺がシーナーたちに先駆けて支配してやるのよ!!」
「食事の後片付けもできんヤツがどうやって日本征服する気だ!?」

 期待とかみ合わない穴持たず59の返答に、穴持たず427は怒りを顕わにする。
 前脚の爪を研ぎ合わせ、戦闘の構えを取った。

「……てめぇ……。死にたいらしいな。俺の筋力なら、てめぇみたいなゴミクズ、一撃で殺せるんだぜ……?
 シーナーを下克上する前に、てめぇからブッ殺してやるぞ!?」
「貴様が、死亡フラグというものの何たるかを理解していない馬鹿者だということだけは良く分かった」

 一撃で相手を殺せる先輩方なんて山のようにいるし。
 と、穴持たず59は、かわいそうな者を見るような目を穴持たず427に向けていた。

 瞬間、穴持たず427は、風のように飛び掛る。


「死になぁ!! ゴミクズがぁぁぁぁあぁぁ!!」



 叫びながら、穴持たず59に向けて、その爪が振りぬかれた。
 だが、その爪は肉にも毛皮にも、触れることはなかった。

 穴持たず59は、低く身を屈めたまま前進する。
 脇の下に潜り込むような、ダッキング。
 その前脚は、ドリルか何かのように高速で回転していた。


「427(死にな)は、貴様だろがぁーッ!!」


 正確無比、機械のような、だが荒々しいショートアッパーがヒグマの下顎を捕らえる。
 その一撃は穴持たず427の下顎骨を砕き、舌を貫き、口蓋をぶち抜いて脳を破壊した。
 前腕の回転と共に飛び散った脳漿が、砂浜に雨のように舞い落ちていく。
 穴持たず59と交錯した後、絶命した穴持たず427の肉体は、ふらふらと砂浜に倒れ伏して、動かなくなった。

 前脚に付いた体液を舐め取り、穴持たず59は忌々しげな表情で同胞の死体を見やる。


「俺は腐っても、『量より質』を求めるHIGUMAの、最後の生まれなんだ。中途半端にネズミみてぇな『質より量』を求めた野郎どもに遅れをとるかよ。
 羆はもともと『K戦略』寄りの動物だ。『r戦略』をとるなら、“姐さん”くらい突きつめねぇと駄目だぜ」


 人間に発見されるのもまずいので、きちんと死体を海洋葬にすべく、穴持たず59はその死体を砂浜から海に放り捨てていく。
 クルーザーに放置されていた同胞の肉体も、丁寧に血肉を集めて海に流していった。


「……まったく。それにしても、最近のヒグマは布束さんから『奇襲する時は叫ばない』って注意すら受けてないのか?
 くまモンや烈海王とか、尊敬すべき先輩から技を教わったりもしてないのかねぇ……。
 せめて58号が檻の中を整理整頓してたみたいな心意気くらい、あって欲しいもんだ……」


 穴持たず59が、砂浜の血液を掃きながら、回想に鼻をすすり上げていた時。
 北方から地響きを立てて、巨大な人間が街道を走り寄ってきていた。

 巨大と言っても、身長10メートル程度、3階建てのビルくらいである。
 海岸沿いの道を南へ下りながら、その白髪頭の人間は、ふらふらとした足取りを必死で前に進めていた。


「……まずい……! 戦闘機も戦車も、前回より性能が上がっておった……。
 艦砲射撃を喰らったのも、いかん……。
 頭のおかしい恐竜が喰らいついてきたのも、いかん……。
 しかしそれよりもなによりも……」


 巨大な老人は、黒いスーツを、真っ赤な血に濡らしていた。
 一歩走るごとに、びちゃびちゃと大量の血液が街道に落ちてゆく。
 喘ぐように、虚ろな瞳を進めていくその歩みは、刻一刻と減速して行った。


「……この、得体の知れん、船虫どもよッ……!!」


 老人は、声を荒げながら、自分の黒いスーツを毟り取り、ちぎっていった。
 しかし、そのスーツはすぐに体内から再生するかのように、元通りになっていく。
 よくよく見れば、老人が投げ捨てるスーツの一部は、布などではなかった。


 その黒いスーツは、直径30センチほどの黒い楕円形の生物が、群がることで形成されていた。



 巨人が流す血液は、全てその生物に食い破られて流されたものであった。
 その生物の一群は既に巨人の体内に侵入しているらしく、時折、肩や腕の皮膚が炸裂して、大量の黒い生命体が溢れてくる。

 そして、巨人は時間が経つに連れ、どんどんと体が縮小していく。
 彼は顔に悔しげな表情を浮かべて、ついに道のど真ん中に倒れた。


「アカギ……! 赤木しげる……!
 お前と、もう一度……、会いたかった……!」


 最期の息をつくや否や、その頭部は内部から張り裂け、黒い昆虫のような生物群に食い破られる。
 少しの時間もなく、その肉体は骨も残さずに綺麗に捕食されていった。


【鷲巣巌@アカギ 会場外に脱出するも死亡】


 穴持たず59は、一連の光景を、戦慄しながら見つめていた。


「マジだ……。マジで“姐さん”が動いてやがる……。ってことは今のヤツは島から脱出してきた人間……?」


 足元を通って海に帰って行く、巨大なフナムシのようにも見える生物群に対して、穴持たず59は震えながらも深々と頭を下げていた。

「お勤めご苦労様です……、“姐さん”……」

 黒い革に覆われたその生物たちは、その辞儀に応えるように、ぞわ、と一斉に脚を打ち鳴らし、水面下に潜っていく。
 その黒い一群は北方に泳いでいきながら、先程穴持たず59が投棄した7体のヒグマの死体を瞬く間に喰い尽し、見えなくなった。

 穴持たず59は、ただちにクルーザーに飛び乗り、その生物群を追い始める。


「“姐さん”がここまで動いてるんなら、確かに島は大混乱になってそうだな……。
 今朝方、お台場の方から津波もあったみてぇだが、まさかそれが北海道の方まで行ってるとか……。
 とにかく無事であってくれ、研究所! 58号の蜂蜜壺を、もらってやらにゃあならないんでな!!」


【会場外 東北地方太平洋沿岸/午前】


【穴持たず59】
状態:健康
装備:クルーザー操舵中
道具:携帯端末
[思考・状況]
基本思考:仕事をして生きる
0:とりあえず島に戻るぞ!
1:一体、島はどうなってるんだ!? 研究所は!? 参加者は!? ヒグマは!?
2:58号の蜂蜜壺を、もらう。
3:シーナーって、一体何者だ?
[備考]
※体の様々な部分を高速回転させることができます。


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝



「ふむ……どうやら島の外に流されていたようですねぇ」
「木も建物も見えないと思ったら単に海だったってだけか。納得だよ」

 会場の島を襲った津波は引き始めていた。
 筏に乗っていた杉下右京とクマ吉は、下がっていく海面の水位の下から、島の岸壁が現れていくのを見ていた。
 それに続けて、滝のように崖からは海水が流れ落ち、石礫や流木、ガレキが大量に二人の乗る筏の方へ流れてくる。

 咄嗟の判断で、右京は細めの丸太を拾い上げ、クマ吉とともに島へ向けて筏を漕ぎ始めた。

 流石、丸太製の筏と櫂なだけあって、津波の引き波にも転覆はしない。
 しかし、その勢いには到底勝てず、彼ら二人はどんどんと島から引き離されてゆく。

「ヒグマというのはもっと膂力に富んだ生命体ではないのですか。
 海上自衛隊からの報告では、単体でも相当な生命力と戦闘能力を持っていると聞いたのですが」
「僕は変態という名の紳士だよ!? 小学生の紳士に肉体労働を期待しないでほしいよ!!
 あ、そうだ! というか、むしろこのまま島外に脱出しちゃえばいいんじゃないかな!?」
「いけませんよ。我々は島の参加者を救出するのですから。主催者を逮捕し、脱出はその後です」
「救助手段も確保せずにかい!? お笑いだね!! 僕はもうこの機会に戻るよ!!」
「待ちなさいクマ吉さん! そちらに漕いではいけません!」

 ただでさえ推進力の少ない丸太のオールで、クマ吉は右京の漕ぐ方向と反対方向に漕ぎ始めた。
 そのため筏はぐるぐるとその場で回転を始め、全く推進力を得ることなく、島の岸からは瞬く間に離れていってしまう。

「駄目ですクマ吉さん! ここの主催者を捕まえないことには……!」
「主催の前に、ヒグマに人間の道理が通じると思っているのかい!? 杉下さんは頭が良いワリに馬鹿だね!!」


 二人が口論しながら流されていた時、ふと、筏の回転は止まっていた。


 それどころか、丸太製の筏はばらけて沈み始めていた。
 流石、丸太である。
 むしろ今まで津波の中で、急ごしらえのくせにその機能を保っていられたことの方が僥倖なのだ。
 そしてその櫂や丸太の間を伝って、体長30センチメートルほどの、真っ黒な船虫のような生物が何体もその上に這い登ってきていた。
 見れば水面下は、何千体いるかもわからないその黒い生物に埋め尽くされている。
 筏はその生物群に破壊されようとしているのだ。


「なんですかこの生物は。表皮の質感から見るに、これもヒグマの一種……? クマ吉さん、あなたはご存知ですか?」
「僕は、ヒグマロワに踊らされただけの被害者だよ?
 いくらヒグマ扱いで誘拐されたとはいえ、布束さんと桜井さんと田所さんのパンツしか見てなかった僕が知る訳ないじゃないかこんなキモイ生き物」
「……罪状追加ですね」

 右京の問い掛けに返答しながら、クマ吉は筏の上に這い上がってきたその平べったい虫のような生物を、櫂にしていた丸太で潰そうとする。
 バランスの悪い壊れかけの筏の上で、その生物の固い殻はなかなか潰せなかったが、渾身の力を込めて垂直に丸太を叩きつけた時、ついにその生物はぐちゃりと音を立てて黒い血を噴き出していた。

「やった! 流石、丸太だね! 僕でもこの通り潰せるよ!」

 クマ吉は朗らかに笑い、瞬間、筏の上に登っていた数十体のその生物に飛びかかられていた。
 なす術もなく、スクール水着を着た小学生のヒグマは、海中に引きずり込まれて跡形もなくその黒い生物群に捕食される。

 それを引き金にするかのように、丸太製の筏はそれらによって見る間に食い荒らされていった。
 流石、丸太である。
 右京が筏の端に逃れて十数秒の思索を巡らせるくらいの間は、その浮力を保っている。


「迂闊でした」


 ――僕とした事が、なぜ、このような事態を想定できなかった……!



 水中での行動に特化したり、多数で行動するヒグマがいてもおかしくない。
 穴持たず、ヒグマという存在の全貌がわからない以上、対策はどれだけ取っても取りすぎることはなかったというのに。
 それこそ、プリキュアオールスターを呼べるまで本州で粘るなり、先遣隊に任せて情報収集に徹するなりしておけば良かったのだ。
 義憤に駆られた。
 らしくないことだが、あまりに等閑な政府の対応に怒りを覚え、特命を受けるやすぐさま、相棒も道具もなく、飛び出してきてしまったのだ。
 拙速にすぎる。
 なぜヒグマの跋扈する島へ、手錠しか持ってこなかったのだ僕は。
 携帯すら置いて来ている。
 冷静さを欠いたにも程がある。
 僕が死んでしまったら、もう本州で、ヒグマの危険性を推察できる者はいなくなってしまうのに――!
 ……誰も、僕の浅はかな行動を、止めてくれる者はいなかった。


「本当に、必要なのは、相棒でした……」


 劉鳳さんとは、早々に離れてしまった上、僕はクマ吉さんを、相棒ではなく、ただの犯罪者としか見れなかった。
 むしろ、彼の謂いこそが、僕の思考の穴を埋めるものだったのかもしれないのに。
 もっと早く、彼と協力して、劉鳳さんを探すなり、島の内奥に向かうなり、一旦帰還するなりしておけば良かったのだ。

 残る望みは、劉鳳さんと、白井黒子さんに託すしかない。
 もはや連絡も言伝もできないが、彼らが『相棒』として、この事件を解決に導いてくれることを祈るほかない。

 アルター結晶体との戦いを、津波の中を、どうか、協力して、生き残っていて下さい。
 どちらも、僕たちの本来の目的とは関係ないことなのですから。
 付け加えて言うなら、クマ吉さんの取り調べも、二の次にするべきでした。
 細かいことを気にするのは、僕の悪い癖だ。
 あなた方は、その程度のことで、命を落とさないで下さい。


「お二人で、生き残って下さいね……。欠けを、穴を補って高め合える『相棒』がいなくなった時、僕たち人間は、『穴持たず』に対する、唯一の勝機を、失うのです……」


 杉下右京はそう呟いて、最後の一本となった丸太の上で目を閉じる。
 体は、船虫のような多数のヒグマの牙に食いちぎられていく。
 もう叶うことのない祈りを空に投げて、警視庁特命係係長は、静かに殉職した。


【クマ吉@ギャグマンガ日和 死亡】
【杉下右京@相棒 死亡】


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝


「……しまった! 会場ではなく海上だったのかここは!」


 丸太の上にすっくと立ちながら、HOLY部隊の制服を着た男はそう叫んでいた。
 その男、劉鳳は、遥か遠くに島の高い崖が出現するのを目撃してしまったのだ。
 何の目印も解らぬ水上を、丸太のオールでひたすら漕ぎ出していったら、相当な遠くに出て行ってしまったらしい。

「しかも、これは、引き波か……! 急がねば更に島から離される……!」

 劉鳳は棹をさして丸太の向きを変え、流れに逆らうようにして力いっぱいオールを漕ぐ。
 しかし、丸太の上に立っていてはバランスが悪すぎる。荒波に揉まれ、既に脚先の筋肉は小刻みな体重移動でかなり疲労していた。
 片側だけしか一回の動きで漕げぬことも無駄が多すぎる。

 劉鳳はようやく、丸太に跨って、オールの両端で漕ぐことを思いつき、実行した。
 しかし、流体力学的に速度の出せぬ丸太を船にしていては、到底津波の引き波に敵う速度は出せない。


「うおおおおおおおおおおおおお!!! 絶影ぃぃぃいぃぃぃッ!!!」


 ついに劉鳳は、全身に自らのアルターを融合装着し、その速度を腕の回旋に充てて漕ぎ始めた。
 すると、徐々にではあるが、丸太は引き波に逆らって、島の方へと進み始めた。
 流石、丸太である。
 絶影の速度で振り回されても、数分はオールとしての機能を保ち続けられたのだから。

「よし、これで島に戻れる……!」

 そう劉鳳が安堵した時、ちょうど丸太製のオールは磨耗によりへし折れたところであった。
 そこで、劉鳳は気づく。


「……しまった! 絶影を身に纏うなら最初から飛べば良かったじゃないか!!」


 そもそも丸太になど跨らず、津波に飲まれた後も融合装着をして、丘や木々の上に逃れれば良かったのだ。
 融合装着でなくとも、わざわざ丸太を探して乗るより、真なる絶影に跨って飛んだ方がどれほど良かったか。
 会場にやってくる時も、杉下右京と白井黒子を一緒に絶影に乗せて飛行してきたのである。
 もし、白井黒子が生きていれば、この無駄な行為を指摘してくれただろうか。
 しかし、今となっては遅すぎる。

 とりあえず、遅々として進まない丸太の上から飛び立とうとした時、劉鳳は両の脚に激痛を感じていた。


「ぐうっ――!?」


 海面を見やれば、そこはいつの間にか真っ黒に染まっていた。
 その黒色の原因たる、体長30センチメートルほどの固い楕円形の生物が、丸太に跨った劉鳳の脚に噛み付いていたのだ。
 そして、劉鳳を更なる苦痛が襲う。


「うごぁあああぁああああぁ!?」



 両脚に、更に大量の生物が喰らいついてきたのだ。数百に及ぶかと思われるその重量たるや、半端ではない。
 流石、丸太である。
 最終形態のアルターを纏った劉鳳をして、丸太は彼の局部へ、木馬責めに等しいダメージを負わせていた。
 丸太は下から突き上げられ、脚は海中に引き込まれ、波の適度な振動が拷問としては理想的な状態を形成している。

 そして更に、涙の滲む劉鳳の視界には、見覚えのある影が一つ映りこんできた。
 右腕が黒く、左腕が白いアルター。

「――アルター結晶体ッ……!」

 劉鳳が再びアルターを形成したことを感じ取ったのだろうか。
 茶色の体毛を風にたなびかせて、それは海上を悠然と浮遊し、近寄ってくる。
 得体の知れない生物群に動きを封じられ、丸太に責め続けられた状態でその攻撃を受ければ、劉鳳とてひとたまりもないだろう。

 ――しかし。

「こんなところで……! 貴様らなぞに負けていられるかぁッ!!」

 かつて一度倒していたことで意識から外れていたが、このアルター結晶体は、自分の母親の仇なのである。
 母を殺し、愛犬を殺し、そして今となっては、協力者であった白井黒子をも殺害した張本人なのである。
 許すわけにはいかなかった。


「俺の中にある何かが、貴様を悪だと確信させる……。ああ、そうだ……貴様は、悪だッ!!」


 劉鳳の周囲を、緑色の閃光が覆った。
 それは直ちに極彩色の光の柱となって立ち上り、爆風を伴って海面を撫でた。
 劉鳳の股間を痛めつけていた丸太が分解され、黒い生物たちに捕食されていた脚部を補う。
 “向こう側”の力を引き出し、再構成されなおした絶影の甲冑が劉鳳の身を包んだ。

 ――絶影・断罪者(ジャッジメント)武装。


「悪は処断しなくてはならない! 罪は処断されなくてはならないッ!!」


 劉鳳の肉体は海面から消えていた。
 テレポートにより空中に浮かび上がった劉鳳は、そのまま、向かい来るアルター結晶体に対して全速で突撃する。


「絶影、刀龍断ッ!!」


 右手に構えた刃を、劉鳳は真一文字に振るう。
 超高速の一撃により、アルター結晶体は、上下半身を綺麗に両断されていた。

 鎧袖一触の交錯に、劉鳳は振り返る。
 しかしアルター結晶体は、劉鳳に分断された後も、それをまったく意に介さないように、海上を直進していた。
 そして先ほどまで劉鳳がいた位置に出現している光の柱の中に身を投じ、静かに消え去った。


【アルター結晶体@スクライド “向こう側”の世界に帰還】


「は――?」

 劉鳳は呆然とした。
 しばらく前の、激しい戦闘は何だったというのだ。
 それこそまた、アルターを身代わりにした分身などで猛反撃をしてくるものだと思っていたのに。



 ――あれはネイティブアルターなどではない。君も見た向こう側の世界、その領域の結晶体だ。
 ――六年前にこちら側に出てきた結晶体は、息苦しさに耐えかね、アルターを求めていた!


 脳裏に、HOLY部隊の隊長であったマーティン・ジグマールの言葉が蘇る。
 こちらの世界は、アルターにとっては、人間で言うならば酸素の薄い高山のような過酷な環境。
 そのため、アルター結晶体は常に高濃度のアルター粒子を、そして“向こう側”の世界への帰還を望んでいた。


「――つまり、ヤツは、俺にまた、“向こう側”へのゲートを、開いてもらいたがっていたのか?」


 劉鳳に対する飽和攻撃も、それに匹敵する力を劉鳳が引き出すことにより、濃いアルター粒子を得て、引いてはゲートを開いてもらう一助にするためであったと考えれば辻褄が合う。
 かつて劉鳳はアルター結晶体を倒し、一度、“向こう側”に帰したことがあった。
 アルター結晶体にとっては、迷子となりさまよっていたところを、お家へ連れ戻してくれた、優しいお兄さんに見えたことだろう。
 そのため、アルター結晶体は、再び迷い込んできてしまったこの世界で劉鳳に邂逅できたことに歓喜し、また連れ戻してもらえるよう、お願いを繰り返していただけだったのだ。
 その攻撃の意味するところを理解しようともせず、単純に相手を敵と見なして応戦し、周辺の被害を拡大させてしまったのは、ひとえに劉鳳の責任であった。

 息が荒くなる。
 脚部の痛みが、感覚として戻ってくる。
 瞳孔が震えて、焦点が定まらない。


「俺が最初から、“向こう側”を全力で開いていれば、白井黒子は、死なずに済んだのか――?」


 かつてアルター結晶体を倒した際、劉鳳は、絶影最終形態の一刀でそれを両断し、同時に出現したゲートの中にそっと押しやって帰していた。
 その時劉鳳は、アルター結晶体は両断して押せば帰ってくれるものと、今の今まで勘違いしていたのだ。
 そのため今回、彼はアルター結晶体を烈迅の触鞭で裂き、伏龍・臥龍で押し帰そうとした。
 そこに必要不可欠なものが足りていないのにである。
 ケアレスミスだの思い違いだのでは済まない。

 そもそも、アルター自身に、殺人罪の意識や善悪の概念などは存在しないだろう。
 そこに処断すべき悪はなく、断罪されるべき対象は存在しない。
 もし、先の戦いに、『悪』が存在したとするならば、それは――。


「それは、俺自身だ――」


 負傷した白井黒子が、最後のテレポートで俺をアルター結晶体たちの攻撃から避難させてくれた後、俺は一体何をした?
 白井を守ってやることもできずむざむざと見殺しにし、爆散した白井の遺品を集めようともせず、俺は絶影・断罪者(ジャッジメント)武装などと粋がって、ただの迷子だったアルター結晶体をひたすら消し飛ばそうとしていた。
 しかも、俺はその消し飛ばすことすら満足にできず、津波に飲まれた程度でその行動を中断してしまった。
 あとコンマ1秒もかからなかっただろうはずのトドメの一撃をだ。
 あの男なら、カズマなら。
 その程度で戦闘を中断するか!? ありえないだろう!!
 その程度で死者をないがしろにするか!? ありえないだろう!!
 津波に揉まれながら剣を突き立てるくらいの行為が、なぜできなかった!!
 そもそもなんで、押し寄せる津波にそこまで気づかないくらい俺の視野は狭かったのだ!!
 そんな所だけカズマに似ないでいい!!
 加えて俺は、甚だしい勘違いをしている――!


「『絶影』は漢語で、『ジャッジメント』は英語だ!!!」



 劉鳳はその身を、未だに付着している数匹の黒い生物に食まれながら、海上で悶絶した。


 普段の俺なら、いくら聞こえが良かろうと、こんなとっちらかった命名はしないはずだ。
 漢語なら漢語、英語なら英語、イタリア語ならイタリア語で名前は統一するだろう。
 どれだけ浮ついていたのだ、俺は。
 その上、俺は、一時的とはいえ同僚になったはずの杉下さんのことを、全く気遣っていなかったじゃないか!!
 安全な場所へ、とは言ったが、あのアルター結晶体の猛攻を受けて、あの近辺のどこに安全地帯があったというのだ。
 あの激しい雷とアルター粒子と津波と蔓延するヒグマの中で、杉下さんは一体どんな『安全な場所』に逃れていると言える?
 下手をすれば、あの無害そうに見えたクマ男に襲われて殺されている可能性だってあるというのに。
 まず、彼の安否を確認しなければならなかったのに、俺はなぜ、彼らの無事を前提に、アルター結晶体との決着や地球温暖化の心配ばかりに執心できたのだ――。


 力が抜けて、劉鳳は海面に落下してしまう。
 体に付着し続けていた黒い生物は依然として劉鳳の体を食い荒らし、さらに、海中からは数十匹の生物が飛びかかってくる。


「くそぉおおおおおおっ!! ふざけるなあああああっっ!!!」


 誰に向けてかもわからない罵声を宙に叫びながら、劉鳳は瞬間移動を繰り返す。
 絶影・断罪者(ジャッジメント)武装の速度で、この生物群を振り落とそうというのだ。

 しかし、テレポートというのは、無限大の速度による移動ではなく、11次元ベクトルを利用しての単なる座標移動である。
 時間経過なしに場所を変えられるとはいえ、そこに何らかの運動量の変化が起きるわけではない。
 加えて、体に触れているものは同時にテレポートしてきてしまう。
 テレポートを習得したばかりの劉鳳では、白井黒子にその能力が及ぶ道理もなく、移動距離は数メートル。精度もかなり低い。

 牛肉を食べたところで、人間は牛にはならない。牛肉は分解され、人間の肉体に再構成される。
 アルターも同様である。
 原料の性質に関わらず、それによって形成されたアルターは、みな一様にアルター使いのエゴの形を採る。
 テレポーターのAIM拡散力場を分解して再構成されたアルターがテレポートできるようになったのなら、それはたまたま、アルター使いのエゴがテレポーターとして収斂進化したに過ぎない。
 白井黒子の能力の影響はあったにせよ、それが引き継がれたわけではない。

 先の戦いでアルター結晶体たちを瞬時に切り裂いていったのも、テレポートによりアルター結晶体の内部座標に転移し、自分の体を喰い込ませて無理矢理結晶体を散らせるという、普通の空間移動能力者なら卒倒モノの行為を、アルターによるゴリ押しで成し遂げていただけである。
 黒い船虫様の生物たちが落ちるわけもなかった。


「俺は、俺はっ……! こんな訳のわからん生き物に、殺される訳にはいかないっ……!」



 一匹一匹、劉鳳はその生物を体から引き剥がしてゆく。
 泣きそうな表情で口をわななかせながら、速度も何もほとんど活かしようのないその殺戮作業に、彼は身を投じざるを得なかった。
 30センチメートル大のその生物は、絶影の握力を以ってすれば簡単に潰す事ができる。
 しかし、その数は、何千、何万いるともつかない。
 劉鳳の体に纏わりついているもの以外に、彼の肉体を海中に引きずり込もうとしているその叢は、水面下を黒色に染めつくしている。

 そして、劉鳳が、ようやく一番最初から脚に食らいついていた生物の一匹を握りつぶした時である。


「なにっ――!?」


 一回り他のものよりも膨れていたその生物が炸裂するや、内部から、数十匹の同形の生物が溢れ出してきたのだ。
 中で、子供が孵ったとでもというのだろうか。
 その小さな生物たちは劉鳳の腕に絡み付き、頭の上から降り注ぎ、さらに彼の体を食んで、成長していく。
 脚に食らいついている生物たちは、劉鳳の脚に尾部を差し込んで何かを注入してきたり、膨れ上がって破裂し、小さな生物たちを次々に放出したりしている。
 生物の死骸をアルター化して、自分の体を再構成しようとするも、劉鳳の分解よりも早く、彼ら自身がその死骸を捕食しきってしまうため、ダメージの回復は全く追いつかなかった。


「そんなっ――! そんなっ、馬鹿なっ!!」


 劉鳳の体は、ついに全身を黒い生物たちに覆われ、海中に引きずり込まれていってしまう。


「俺はっ、託されたものを――、背負った正義を、守らねば――」


 御坂美琴を、初春飾利を、佐天涙子を。
 彼女たちを、助け出さなければ――。

 しかし、海水に飲みこまれていく思考の中で、劉鳳は思い至る。


 ――俺は、彼女たちの、何を知っているというのだ?


 杉下右京とは出発前の緊急異動の際に顔合わせしたばかりであり、況や白井黒子とは派遣時に会っただけで、その友人たちのことはなおさら初耳である。流石に、常盤台の超電磁砲の噂くらいは聞いているが。
 そもそも、この会場に誘拐されている参加者の全容すら、自分たちは把握できていない。
 絶影で関東からカッ飛んでくる間の速度では、情報交換しようものなら舌がちぎれていたかもしれないのだ。
 俺は幾人か、誘拐されていると思われる人物の名前くらいは把握しているが、それだけ。
 主催者はSTUDYという組織だと目され、クマを用いて悪行を働いているらしいという程度の情報も特命係で耳にしていたが、こちらについてもそれだけだ。
 義憤に駆られた。
 らしくないことだが、あまりに卑劣なその犯罪に怒りを覚え、特命を受けるやすぐさま、下調べも準備もなく、飛び出してきてしまったのだ。
 拙速にすぎた。
 参加者うんぬんを言うならまず、杉下さんが無事かを確かめるのが最優先で、彼の情報をもらって今後の方針をすり合わせねばならなかったのに。
 最悪の場合、杉下さんの推理は空振りで、初春飾利と佐天涙子の誘拐は、こことは完全に別件であることすら考えられるのに。
 白井黒子を喪い、人員の増強も考慮しなければいけなかったかもしれないのに。
 なぜ人命救助に来て、食料品や救急道具の一つも持ってこなかったのだ俺は。
 主催者の処断しか考えていなかったことの表れだが、そもそも主催者がこの島にいる確証すらないじゃないか。
 人間とヒグマとの区別はつくが、その人間が参加者なのか主催者なのかもわからないじゃないか。
 このざまで一体どうやったら、知りもしない加害者たちを断罪し、知りもしない被害者たちを救い出すことができるというのだ。
 一体どうやったら、知りもしない人間の思いを託されることができるというのだ。


 ――そして、無用な戦いで、罪なき命を散らせてしまった俺に、どうしてその他の者を守れる道理がある?


 一人を救えなかった者が、どうやったら複数人を救い出せるというのだ。
 俺は白井黒子の遺品を回収したか?
 彼女を救えないまでも、せめて彼女に弔意を示すくらいの気概は見せたか?
 シェリスの髪飾りは、後生大事に確保していたというのに。
 ジグマール隊長には、絶影の覚醒した力を見せて報恩したというのに。
 人命を差別するというのか、この俺が。
 思いを託された気になって、その思いを実現させる手段すらわかっていないくせに。


 俺の掲げる正義は、その程度のものだったのだ。
 俺に、正義など、なかった。
 悪を、正義だと信じ込んでいた、だけだったんだ――。


【劉鳳@スクライド 死――



『――なんだなんだ。こじ開けてみりゃあ早速大ピンチの現場か』


 突如あたりに響き渡った声とともに、劉鳳の周囲の海水が凍結していた。
 分子一つ一つの熱エネルギーを直に奪い取るようなその冷え込みに、劉鳳の体を覆っていた生命体は悉く硬直する。


『おい兄ちゃん、流石にこれくらいは耐えられるよな――』
「なんだ、これは、一体……」


『――第四波動』


 声と同時に、劉鳳の肉体は一転して灼熱の業火に包まれていた。
 絶影・断罪者(ジャッジメント)武装の甲冑ごと熔融するほどの高温で、凍結した海水と、黒い生物たちが焼き焦がされていく。
 シュウシュウと音がして、油臭さが漂う中、劉鳳は再び海面に顔を上げることができた。

 見回せば、近くに、先ほど自分が開いた“向こう側”へのゲートが、わずかに虹色の光を放っている。
 半分閉じかけたその門から、腕輪を嵌めた筋肉質な男の腕が一本、覗いていた。
 声はそこから聞こえてくるようだった。


『あー駄目だ。これじゃあ弱すぎらァ。第六波動使うわけにもいかんし、この程度の繋がりじゃ戻って来れねぇな』

 腕は、門を広げて体を出そうとしているのか、暫く空中を掻いていたものの、諦めたようにその動きを止め、虹色の空間に引き戻されていく。

「なんなんだ……、お前は……?」
『ああ、俺は左天ってもんだ。兄ちゃん、もう一人のサテン……、佐天涙子って嬢ちゃんにもし会えたら、こいつの開け方、教えてやってくれや』


 ――まあ、生き残れたらでいいから。無理しなくていいよ。じゃあな。


 男の腕は、劉鳳に向けて軽く手を振ると、それだけ言い残してゲートの中に消え去った。
 虹色の光も、それとともに完全に消滅する。

 突然のことにさっぱり理解が追いつかなかったが、自分は、異空間から現れた謎の男に、命を救われたのだ。

 体に寄生虫のごとく纏わりついていた生物の一群は、燃え尽きた。
 しかし、絶影の武装もまた、完全に溶け落ちてしまった。
 一時的に難を逃れたとはいえ、海底からは、またぞくぞくとあの黒い生物たちが上がってきている。
 このままぼーっとしていれば、纏わりつかれるのは、すぐだ。


「俺は何をすればいい……。何もしてやれない……、何も……。
 俺は、俺の正義は、一体どこにあるんだ……」


【I-4 海上/午前】


【劉鳳@スクライド】
状態:疲労(極大)、ダメージ(極大)、ずぶ濡れ、全身にⅠ度熱傷、大量出血、会陰部裂傷、体内に何かを注入されている。
装備:なし
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:この異常事態を解決し主催者を断罪しようと思っていたが……そもそも主催者はどこにいるんだ?
0:この目の前の生物たちを倒すのは、果たして正義なのか? 俺は一体何をすればいいんだ?
1:御坂美琴、初春飾利、佐天涙子たちを見つけ保護したいのだが、彼女たちのひととなりも知らないぞ俺は!?
2:杉下さんの安否をほとんど考慮していなかったが、彼はそもそも本当に無事だったのか!?
3:この生物たちも、もしや地球温暖化に踊らされた被害者なのか?
4:一体誰が向こう側を開いたんだ?
[備考]
※空間移動を会得しました
※ヒグマロワと津波を地球温暖化によるものだと思っています
※黒い船虫のような生物群によって、体内に何かを注入されています。


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝


「ふむ……これもヒグマというわけか」

 救命ボートをサウザンドサニー号の船尾から下ろそうとしてきたところで、鷹取迅はしばし立ち止っていた。
 ボートを投下しようとしていた海上に、真っ黒い毛皮に覆われた多数の生物が群がっていたのだ。
 そしてそれは既に、サウザンドサニー号の船体を蚕食し始めている。
 鷹取迅の練磨した空間把握能力が確かなら、もう船底は浸水しきっており、倉庫や砲列甲板まで水が上がってきているものと思われた。

 デイパックから『HIGUMA計画ファイル』を取り出してめくるに、そこには海面に蠢く生物群に近い様相のヒグマを確認することができた。
 黒い毛皮に覆われた楕円形の体で、4対の脚を持ち、眼も鼻も見受けられないそのスケッチ上の生物。

「『ミズクマ』。この実験計画を島嶼において実行するに当たっての決め手となった穴持たずである。
 彼女の能力は、水上の拠点防衛において絶対の信頼性を持つ……」

 迅は、ファイルを仕舞い直して溜息をつく。

「……肝心の能力が書かれていないな。推測するに、ゲンゴロウのような水中での活動性と、分身能力というようなものか……?
 とりあえず、この牝たち全員を至らせてやらんことには、島へは戻れんな……」

 着込んだ救命胴衣を今一度チェックしながら、迅は後方を振り仰ぐ。


「親父!! なんか損傷部から青いものが流れてきたぜ!! 気持ち悪いな!!」
「おう! マジで気持ち悪いな!! 膿かもしれん!! 流せ流せ!!」
「馬鹿やろぉおおお!! それはG-ER流体だ!! それがないとダンは動かねぇンだよ!!」
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「グルルルルル……!」


 海上では怪獣とロボットたちがしょうもない争いを繰り広げており、その様子を、ヴァンという黒ずくめの男がやきもきしながら甲板で見守っている。
 彼らの脚元にもこの黒いヒグマは泳ぎ寄っているというのに、ヴァンたちは気付く様子もない。
 恐らく暴君怪獣の叫びは、脚を喰われていることによる苦痛の叫びだ。それが対して普段の叫び声と変わらないので異常が伝わっていないだけである。
 ロボットの脚に痛覚はないし、ロボットの機能を全く把握していない乗り手が操っているようではなんの希望もない。

 鷹取迅は、船尾を這い上ってくる黒いヒグマたちに構えを取りながら、ヴァンに向かって叫んだ。


「おい! この船はヒグマに囲まれている! もう沈没するぞ! 命が惜しければさっさと脱出しろ!」

 叫ぶや否や、早くも鷹取迅は十体ばかりの黒い生物に接近されていた。
 いつまでも彼らのことを顧みている余裕はない。


 ヴァン及び、ダン・オブ・サーズデイに搭乗するハンセン親子は、その声でようやく海上の異変に気付いた。
 よくよく見れば、先程まで取っ組みあっていた暴君怪獣タイラントは、叫びながらどんどんと海面下に沈んでいく。
 もがくように口から爆炎を放射しているが、肝心の足元へ向けてはその口は動けず、30センチメートルほどの小さな生物に群がられ、見る間に食い散らかされていった。


【暴君怪獣タイラント@ウルトラマンタロウ 死亡】



「おい! 早く俺を乗っけて飛んでくれ!! もう戦ってる場合じゃない!!」
「あ、このイェーガーって脚なくても跳べるのか!? なら早く言ってくれよそういうことは!!」
「KAIJU自体は倒れたし、ここは一端退くのが吉ってもんだ!! 跳び方を教えてくれ!!」
「ジャンプじゃなくてフライの方だぞ!? わかってんのかお前ら!?」

 ダン・オブ・サーズデイの腰から下は完全に喰われて、なくなっていた。
 甲板に寄ってヴァンの身を確保し、ハンセン親子はダンを飛び立たせようとした。

 しかし、その身に、上から陰がかかる。

 ヒグマの搭乗したガンダムが、その肩に背負う剣の柄に手をかけて、上空から飛び降りてくるところだった。
 ハンセン親子は、驚愕に目を見開いた。


「「この世界のイェーガーは、空を飛ぶのか!!!」」
「避けてくれ馬鹿ぁあああああああっ!!!」
「墜ちろーー――ッッ!!!」


 ビームサーベルの一撃が、ダン・オブ・サーズデイを、その愚鈍な二人の搭乗者と、その不運な本来の搭乗者とともに、唐竹割りに両断していた。
 赤と青の体液を噴き出しながら海面に落ちた死体とスクラップは、群がる黒い生物たちによって、綺麗に食べられていった。


「グルルルルル……!」


 唸り声を上げる、ガンダムに乗ったヒグマに対して、海面の生物たちは、ざわざわと一斉に音をたてて何かを伝言する。
 ヒグマの乗ったガンダムは、それに応えるように海軍式の敬礼のポーズをとった。

「――ミズクマの御姉様より、穴持たず56、確かに作戦を伝令いただきました」

 ガンダムに乗ったヒグマ――穴持たず56は、一言そう応答して、どこへともなく飛び去って行った。


【ヴァン@ガン×ソード 死亡】
ハーク・ハンセン@パシフィック・リム 死亡】
チャック・ハンセン@パシフィック・リム 死亡】


【H-9 海上/午前】


【穴持たず56(ガンダムに乗ったヒグマ)】
状態:健康
装備:お台場のガンダム@お台場
道具:ビームサーベル、不明
[思考・状況]
基本思考:ヒグマ、行きまーす。
0:当座のところ、ミズクマの御姉様からの伝令に従う。
1:海上をパトロールし、周辺の空中を通るヒグマと研究員以外の生命体は、全て殺滅する。
2:攻撃を加えてくるようであれば、ヒグマのようであっても敵とみなす。
3:たしか、崖周りのパトロールにはもう一体同胞があたってたよなー。
[備考]
※制限でガンダムは人間サイズ、ヒグマはそれに乗れるほどのサイズになっています。


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝



「……『ライトニングチャージ』」


 電光のような速度で、男の指が空を走っていた。
 鷹取迅に飛びかかっていた十体の生物が、空中で身を捩り、地に落ちる。
 日々の痴漢で鍛え抜いた技術が、精密かつ瞬息の指づかいで、このヒグマたちを快感の渦に飲みこませ、無力化させたのだった。

「……これだけの数の女性を同時に相手するのは初めてだが。むしろ俺は幸運だ。
 上質の『逸脱者』たちとこんなにも高め合えるのだからな」

 向かい来る次なる生物群に構え直した鷹取迅だったが、その耳に、ポン、という軽い炸裂音が響いてくる。
 後ろを振り向いた迅の目に飛び込んで来たのは、先ほど無力化したはずのヒグマの肉体を食い破って出てくる、100体ほどの小さな同形の生物群であった。
 10体の生物から、それぞれ約100体ずつ生じてきたため、一気にその数は一千近くに上ったことになる。

「――なんだと!?」

 狼狽する鷹取迅の脳裏に、ある書物から得た知識が蘇ってくる。
 普段から痴漢に関しては入念な下調べを行う鷹取迅が、ふと、生物の生殖方法にまで立ち返って文献を漁っていた時に得た知識であった。


「分身ではない。処女生殖――、いや、ペドゲネシス。『幼生生殖』なんだな!? お前たちの能力は!!」
「ちぃぃぃぃぃぃ……」


 返答なのか威嚇なのか、細い声で、その生物たちは一斉に鳴いた。

 幼生生殖とは、一部のハエや寄生生物などの間で見られる、生殖戦略の一形態である。
 幼生生殖をする生物では、未熟な娘の体の中で、卵子が精子と結びつくことなく勝手に分裂を始め、新たな子供となる。
 その子供は、親となった処女の娘の体を喰い破り、新たな娘として世に生まれる。
 そしてこの新たな娘たちの中の卵子も、勝手に発生を始めて生まれてくるのだ。
 寄生虫がその宿主内で効率的に、素早く子孫を増やしていくことにおいては、ほとんど最高といっていいほどに適した生殖戦略の一つである。

 痴漢に例えるならば、電車で偶然会ったロリに痴漢を働いたら、瞬時にその子が妊娠・出産し、その子孫を末代に至るまで、性行為もしてないのに認知せざるを得なくなり、養育費をせがまれ続けるようなものである。
 鷹取迅は、これについて知った時、この生殖戦略を取る女性こそが、自分たち痴漢の天敵となりうる存在であると思っていた。


 ――生まれる子供は全部、処女にして妊婦! これほど理不尽なハーレムがあるだろうか!!


 1000匹を越す黒い生物が、沈み行く船尾の鷹取迅へ、容赦なく飛びかかってゆく。
 3P、4Pなどは世に多くあれど、1000Pの大乱交など、どんなAVの企画も実行しないだろう。
 そしてこれは、1000人を越す女性が一人の男を嬲る、逆レイプ(殺戮)なのである。

 ――そう。
 確かに相手がただの男であったならば、この光景はただのレイプ(殺戮)で終わっていただろう。
 しかし、ここにいる男は、『逸脱者』である。
 千万のヒグマに囲まれても、この男の『悪魔の手(デモンズハンド)』は、その指先にたおやかな嬌声を紡ぐ。


 ――この一場面は、間違いなく、痴漢(戦い)の現場である。



「肉欲の牢獄――、我が悪魔の迷宮に、きたれ、ヒグマ――!」


 両脚を海水に縛られながらも、鷹取迅の手は、雷光の如く空間を切り裂いていた。
 半径約1メートルの真球の空間が、その稲妻に満たされる。
 蓮の花の開くのにも似た、その両腕の閃きが、残像を伴ってヒグマたちを撫でる。

 欲界の十四有。
 色界の七有。
 無色界の四有。
 25の世界を一つの指先で救う。

 受蘊の感受。
 想蘊の表象。
 行蘊の意志。
 識蘊の認識。
 4つの精神の全てを色欲に堕とす。

 鷹取迅の10本の指先は、あたかも千の手を持つ神のように、十方世界に不空の快感を齎していた。


「――『ラビリンス』ッ!!」


 肩で息をしながら鷹取迅が、その腕を合掌手に打ち合わせた時、1000匹を越すその周囲のヒグマたちは、悉く水上に落下していた。

「ハァッ……。これほどの消耗は禰門との戦い以来か……。
 余裕があればまた相手してやりたいが、次は中折れ(力負け)しそうで怖いな……!」

 最早腰元まで海水に浸かりながら、鷹取迅が船外への脱出を続行しようとした時、彼の耳に再び、ポン、という軽い炸裂音が届く。


 ――10万匹を越す、小さな黒いヒグマたちが、鷹取迅に襲い掛かってきていた。


「うおおおおおおおおぉぉぉぉぉっ!?」


 鷹取迅の肉体は、その黒い毛皮の生物たちに飲まれて見えなくなり――そして、消えた。
 サウザンドサニー号も、海中から登り来る黒い生物群に埋め尽くされ、轟音を立てて沈没していった。

 その十数メートル島側で、華麗な抜き手を切って泳いでいる一人の人影がある。
 救命胴衣をつけた男が、水上を全力のクロールで渡っているのだ。


「――『デッドマンズビジョン』!!」


 10万のヒグマに集られる刹那、その一瞬を極限まで引き伸ばし、対痴漢特殊鉄道警察隊「レイヴン」の手から逃れるが如く瞬間的に脱出を図った、鷹取迅であった。
 しかし、迅が顔をつけて確認する海中では、既に生物の一群が、鷹取迅の存在を捕捉して泳ぎ寄ってきている。
 水中での速度で、人間である鷹取迅が彼女たちに勝てる道理はない。
 数メートルのアドバンテージなど、すぐに詰め寄られてしまう。


 海は、地獄絵図と言っても良いような様相を呈していた。
 見える限りの海底で、ありとあらゆる魚介類が、黒い生物に集られ、食い荒らされてゆく。
 ホオジロザメなのではないかと思われる巨大な生物までもが、もがきながら食われているのだ。


 ――しかし、島まで。島までたどり着けさえすれば――!!


 デッドマンズビジョンを繰り返すことで距離を離し続け、島まで泳ぎ抜ければ、建物の上などに登って難を逃れることができるだろう。
 しかしそう思考する鷹取迅の前に、壁が立ちはだかる。


 崖。


 十数メートルの高さのある、島の崖が、迅の視線の遥か先に聳え立っていたのだ。
 既に、島を襲った津波は、引いていた。
 彼はサウザンドサニー号と共に、島からかなり離れた沖合いにまで、流されてきてしまっていたのだ。

 その距離、約1キロメートル。
 この『ミズクマ』というらしいヒグマたちから、迅の体力ではそんな長距離を着衣泳で逃げ続けることはできないだろう。
 その上、たどり着けたとしても、反り立つその壁面を遡れるようなクライミング技術は、迅にはない。
 頼みの綱とも言えないほどの頼りない希望だったロボットは背後で撃墜され、纏流子はもう島へと飛び去ってしまった。

「つッ……」

 既に迅の左脚には、一匹の黒い生物が食いついていた。
 それは迅の行動を学習していたのか、即座に尾部から迅の足先に何かを注入して離れる。
 鷹取迅は、瞬間的に危機感を抱いて、指先を自分の下腿に走らせていた。


「『デモンズハンド』ッ!!」



 指先が脚の皮膚を撫でた一瞬の後、そこからは数ミリ大の黒い生物が霰のように炸裂していた。
 肉の千切れる痛みに耐えながら、迅は歯噛みする。


「……やはり、寄生虫の生殖戦略らしく、発生中の卵子を動物の体内に生みつけることもできるのか!
 血流に乗らせ、子供に標的を体内から食い破らせると!」


 鷹取迅は、自分の肩にかけていたデイパックを、できるだけ島の方に近づくように、思い切り放り投げていた。
 そして彼は、島に向かって泳ぐのを止め、海上に自然体となって浮かぶ。
 周囲の水中を、黒い群れに取り囲ませるに任せ、彼はただ静かに、呼吸を整えていた。


「……『マインドバースト』!!」


 鷹取迅から立ち昇る気迫が、黒い生物たちをして、一瞬その身を退かさせる。
 彼は、覚悟を決めていた。


 ――俺の持つ『HIGUMA計画ファイル』は、恐らくかなり貴重な支給品だろう。
 今からの俺の痴漢(プレイ)に巻き込んでしまうよりは、少しでも島に近づけて、纏流子なり誰かなりが拾い上げてくれる、僅かな可能性にかける方が有意義だ。
 もう、逃げはしない。
 この牝たちは、これほどまでに俺との高め合いを求めているのだ。
 それに応えずして、何の痴漢(おとこ)だ。
 据え膳上等。誘い受け上等。
 俺も、このヒグマたちも、共に『逸脱者』なのだから。

 ああ、俺は果報者だ。

 生殖行動の最果て同士に逸脱した俺たちが巡り合えるなんて、なんという幸運なのだろう。
 決して交わりあうこともない両極の逸脱者が、高め合い、登りつめて至る、螺旋の歌。
 “彼女”となら、その頂に咲く大輪の痴漢(愛)を、掴み取ることができるかもしれない。

 40億年の旅を続けて、俺はもしかするとずっと、“彼女”と出会うことを求めていたのかもしれない。
 これは遥か昔、同一の起源から別れ、『逸脱』へと旅立った俺たちの、長い長い、進化の果ての再会なんだ。


「……さあ来い。この世界の痴漢(愛)のために、陵辱(希望)のために、俺はお前たちを受け止める」


 俺の腕には、虹色の粒子が渦巻いていた。
 久々に味わう感覚だ。
 誰かがどこかで、『彼方』へのゲートを開いてくれたのだろう。
 ……力がみなぎってくる。これならば、能力を遠慮無く発揮することができそうだ――!

 俺の指先には、本当に電光が通電する。
 神経を愛撫し、脳髄の天辺で快感をスパークさせる、『悪魔の手』。
 俺のエゴが具現化した、逸脱の形だ。


「『ヘヴンズドア』」


 神経節の一つ一つまで、蕩かしてやる。
 卵細胞の一つ一つまで、喘がせてやる。
 お前たちを、俺の存在で、満たしてやる。

 俺が犯(く)う。
 お前が喰(く)う。
 ――歓喜の高みへ、共に至ろう。


「……共に登ろう。ミズクマ。単為生殖(一人エッチ)ばかりでは、寂しいだろう?」


 鷹取迅は、海面を埋め尽くす黒い生物たちに向けて微笑んでいた。
 整った杏仁形の眼が、深い色合いを湛えて三千世界を見晴らす。
 輝く指先の金剛杵が、羂索のように彼女たちを惹きつけて止まない。

 鷹取迅は、その黒い生物群に、完全に飲み込まれていた。
 黒い宝珠のように集った数瞬ののち、曼荼羅のようにその生物たちが炸裂しては、またその娘たちが黒い珠となる。
 水底へと沈みながら、海砂利水魚の命たちと、鷹取迅は一つとなった。


 ……惜しむらくは、これが全部、『姉妹丼』だということだ。
 流石にもうそろそろ、幼女は犯(く)い飽きた。
 俺は変態ではなく、ただの痴漢だからな。
 家に帰ったら、『お母様』を紹介してくれ。ミズクマ。
 いるんだろう?
 『HIGUMA計画ファイル』にスケッチされていたのは、『幼生』ではなく、『成体』だったから。
 是非一度、お目にかかりたい――。


【鷹取迅@最終痴漢電車3 死亡】


※鷹取迅のデイパック(基本支給品、ランダム支給品×0~1、「HIGUMA計画ファイル」)が、H-9の海上に浮遊しています。


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝



「キリカちゃ~ん! ただいま戻ったよー!」
「……おかえりのぞみ。ちょうど今さっき、そのヒグマも目を覚ましたところだ」

 キュアドリームが戻ってきた海食洞では、布束砥信が、ヤイコというヒグマを抱え起こして、その背中をさすっているところだった。
 呉キリカは憮然とした表情で腕を組みながら、その様子を見ている。
 数度咳き込んだ後に、大きめのテディベアのようなヒグマは辺りを見回して、溜息をつきながら呟いた。

「……意識消失寸前の記憶と現在の状況を鑑みるに、侵入者のくせになんでヤイコを助けやがったこのやろう。
 と、ヤイコは質問と共に暴言を吐かざるを得ません」
「あン!? 私の魔力を吸っておきながらなんだいその言い草は!! 恩人まで馬鹿にする気かキミは!! もう一度殺してやってもいいんだぞ!!」
「ま、まあまあキリカちゃん……」
「そちらの桃色の髪の方におかれましては、交通の要所である海食洞を守っていただいたことにつきまして、ヒグマ帝国を代表してヤイコは深く御礼を申し上げます」
「え? そうかな? ありがとうヤイコちゃん!」
「な、なんだこの扱いの差は……!」

 今にも飛び掛らんとしていた肩口をキュアドリームに押し止められて、やる瀬のない怒りを青筋に湛えながら呉キリカは唸った。
 布束砥信は、そんな様子の二人組へ、ヤイコに付け加えるようにして言葉を掛ける。

「……私は、二人共に感謝するわ。できれば腰を落ち着けて色々と話したいところだけれど……。
 Anyway, 夢原のぞみ、で合ってるわよね、あなた。その脚の傷は、大丈夫かしら?」


 つっと半眼の視線で指す先には、海食洞の浜の先から点々とキュアドリームの脚まで続く、血の跡があった。
 思い出したように傷へ目をやる夢原のぞみの前に、呉キリカが慌てて跪く。

「おいおい、いつの間に怪我したんだのぞみ! 待っててくれ、今治すから!」
「あ、ありがとうキリカちゃん。そうそう、ちょうど布束さんに聞きたかったんです。
 これ、なんか真っ黒で毛の生えた、これくらいの大きさの虫みたいな生き物に、津波の上で咬まれちゃって……。
 なんだか知ってますか?」


 夢原のぞみは両手を使って、空中に30センチメートル大の楕円形を描いて見せた。
 瞬間、布束とヤイコの目が驚愕に見開かれる。
 布束は慌てて立ち上がり、のぞみとキリカがひるむのも構わず、彼女に詰め寄っていた。

「『ミズクマ』に襲われたの!? Are you alright!? 『卵』を産み付けられたりしなかった!?」
「へ? へ? あの、なんか変な汁はかけられましたけど、お水で洗いましたよ?」
「……Okay。落としたなら平気よ。警告で済んだのね……」

 全く意味が分からず、困惑に固まる二人に向かって、布束は安堵に息をついた後、説明を始めた。

「あなたが会ったのは間違いなく、ミズクマというヒグマの『幼生』の一匹よ。
 有冨が、この島で実験を実施するにあたり入念に調整していたヒグマでね。彼女は『島の周囲1キロ以遠の海域に脱出する、研究員以外の人間を捕食せよ』という命令に忠実に従っているの」

 続けて、布束砥信は、そのヒグマの能力である、『幼生生殖』のことについても説明を加えた。
 水中に適応した活動能力に加え、その寄生虫じみた能力の不気味さに、二人は身の冷えるような思いでその言葉を聞く。


「で、でも、そいつらは洗い流したし、戻ってきたから、のぞみはもうそのクマに食われずに済むんだな!?」
「そう思ってもらって良いはずよ。島からの脱出に関しては、追々考えればいいだけの話だし……」
「……いえ。事態はそれほど良好な状態ではないと、ヤイコには想定されます」


 布束の説明の間ひたすらに黙考していたヤイコが、そこで口を開いていた。
 決して表情の豊かではないそのヒグマの貌が、傍から見ても解るほどに深刻な焦りに歪んでいる。

「……先程、こちらに津波が到達したのでしょう。島全体に被害が及ぶ規模の災害ですので、当然、シーナーさんがご心配なさって対策を打ってくるはずです。
 最も被害が懸念される海食洞には、水中での活動に適応している穴持たず39の御姉様を事態の収拾に派遣なさるのが、当然考えられる流れです」
「ミズクマが39番目なのかどうかは知らないけれど、そんなことが可能なの? 彼女の思考回路は有冨の命令しか受け付けないようにされてるのよ?」
「布束特任部長は、シーナーさんの能力をお忘れですか。有冨所長の声真似くらい、シーナーさんができないとでも」

 見落としていたことを指摘され、布束は雷に撃たれたように硬直した。
 足が震えて、隠しようもなく目が泳ぐ。



 ――まずい!
 ミズクマがシーナーと繋がったのなら、ここにミズクマが来た場合、折角救い出すことができた二人の参加者の存在を知られてしまう。
 首輪の盗聴すら考慮して立ち回っていたというのに、ここで裏切りが露見したら私の命はない。
 人間とヒグマのために積み上げてきた計画が、水泡に帰してしまう――!


 完全に話に置いていかれているキリカとのぞみをよそに、ヤイコは再び語り始めた。

「……今までの御姉様は、『来るものは拒まず』だったわけですが、今回の津波で、多くの外来物が漂着したことでしょう。引き波で、重要情報が流出してしまうことも考えられます。
 その処理を行なうため、『海上の全てを捕食せよ』などとシーナーさんが命令を加えていてもおかしくありません。
 何にしても御姉様がここにいらっしゃるのは、すぐでしょう。
 ……海食洞の潮位は、既に普段よりも低くなっています。波は、引き切りました」


 キリカは、ヤイコの首を掴んで詰め寄っていた。
 瞠目した眼が震えている。

「おい! つまり、もうすぐその、寄生虫じみた大量のヒグマがここに押し寄せて来るっていうのか!?
 どうすれば倒せるんだ!! 教えろ!!」
「御姉様を倒す方法など、ヤイコにわかるはずがありません。よしんば倒したところで、連絡の途絶を知ればシーナーさんが直々にいらっしゃいますよ。その場合、あなた方侵入者が生き残る確率は、却ってゼロになるでしょう」

 呉キリカの剣幕に、ヤイコは相変わらず淡々と言い返す。
 布束は歯噛みしながら、周囲に目を走らせていた。

「……ええ。私たちが生き残るには、あなたたち二人の存在を、どうにか隠さなければならないわ……」
「ヤイコにとっても、侵入者を排除し損ねたことは大きな瑕疵です。現在のヤイコの価値判断基準では、何がヒグマ帝国のためになることなのかわかりません。
 布束特任部長とのお話ができるまでは少なくとも、あなた方の生存を知られたくないことは確かです」

 脚の傷の癒えた夢原のぞみは、必死に海食洞の中を見回して、隠れられそうなところを探している。

「ね、ねえ、ヤイコちゃん! あの通路の方の柱の陰とかに隠れておけば良いかな!?」
「駄目です。御姉様もヒグマです。簡単に臭跡を追われ、却って不自然な挙動を怪しまれ、発見されるだけです」


 ヤイコは、諦観したように目を閉じて、首もとのキリカの手を振り払う。


「……それに。もう、いらっしゃいました」


 海食洞の入口を流れ落ちる大きな滝の向こうに、真っ黒い小山のような影が、差し入ってきたところであった。


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝



「……ええい。どういうことじゃスタディの奴ら。WWWには接続せず、メインサーバーを落としておるのか?
 その上で島内実験の監視は全て、衛星などには頼らずローカルイントラネットで済ませておるわけか、考えおって……!」

 島の西側の海底で、獣電竜プレズオンの体内に待機しながら、Dr.ウルシェードは独りごちる。
 島根で運び込んでおいたソファーに座り、彼はキョウリュウバイオレットに変身したままパソコンの画面を睨んで唸っていた。

 主催者の研究所のネットワークに侵入し、データを引き出すことで、ヒグマ細胞破壊プログラムの完成と、会場の干渉波の解析を行なおうと、彼は目論んでいた。
 しかし、島からのデータ通信はほとんど確認できない。
 唯一、島の複数地点と行き来する単純な電気信号群は確認できたが、これは独立プログラムで動いているらしい、何らかの爆弾への信号であるようだ。
 これでは、実際に島の内部に突入して、イントラネットのノードを特定して有線接続しなければ進入は不可能だろう。
 外部からの介入を想定しての予防線だとすれば、不自然なほどに入念すぎる。サーバー内のデータ読み込みすら放棄していることになり、科学者として理解しがたい行為である。
 会場の干渉波についても、その正体は全く掴めない。科学的手段でわからないとすれば、魔術のようなものが働いているのだろうか。

「うーん……。準備期間中にもう少し用意をしとくべきだったかのぉ。マジレンジャーの連中に話を通しておけば解析にあたってくれたかもしれんし……。プレズオンの操縦席に椅子を据えておいても良かったかもしれん」

 Dr.ウルシェードは、現役の時ならばプレズオンの操舵も仁王立ちで軽々とこなせていたのだが、持病のぎっくり腰に悩まされている現在では、正直ここのソファーから立ってプレズオンの操縦にあたるのが億劫でしょうがない。
 ヒグマよりも通信よりも、腰に細心の注意を払わねばならないのは非常に悩ましいことであった。

 キョウリュウジャーの意匠が施されたその操縦エリアへソファーを引き摺っていこうかなどと考えていた時、突如彼のスマートフォンが、島外への電話を傍受していた。
 そこから聞こえてきたのは、人間の声でなく、ヒグマの唸り声であった。
 片方の人物は、日本語を話してはいるが、それにしたって、人間の口から漏れる言葉ではない。擦過音が多すぎる。


『――はい、穴持たず59です……。あの、すんません、まだ博士は――』

『おいおいおいおい、ちょっと待て。あんたはまず誰だ!?
 204号なんて番号聞いたこともねぇぞ!? それになんだって研究員のクルーザーに乗ってヒグマがやって来るんだよ!?』

『“彼女”って……、まさか、“ミズクマの姐さん”?』


 聞き取れた会話は、それだけであった。
 通話の向こうでの狼狽と絶句が、相当意外な事柄が発生したのだろうということを容易に想像させた。

「……この通話は、レオナルドっちを襲ったあのヒグマに向けてのものか……」

 推測するに、あの日以降、ご苦労なことにヒグマはレオナルド博士をずっと探していたものらしい。
 そして実験当日になって研究所からどんな叱責がくるかと構えていたところに、同胞であるヒグマからの電話がはいった。しかもその相手は、穴持たず204番というとんでもない通し番号の個体であったらしい。

「研究所生まれのヒグマ自体が、知らないほどにヒグマが増えておるということか……?
 そしてなぜ、研究所からの通信をヒグマが行なっておる。研究員は一体どうしたというんじゃ。ヒグマに通信を任せねばならんほど人材不足な団体ではなかろうスタディは。
 その上、研究員のクルーザーに乗って、ヒグマがやってくる? 『ミズクマのアネサン』とは、一体……?」


 しばし沈思した後、Dr.ウルシェードははっとして天井を仰いだ。
 紫色のスーツのバイザーに、思わず手をやる。


「――飼い熊に噛まれたかよ、有冨春樹!!」


 スタディは、ヒグマたちに反乱を起こされたのだ。
 当然考えられることだった。自分が出会った穴持たず59以上の知性をもつヒグマたちがごろごろ寄せ集められているのならば、自分たちの扱いに不服を覚えて、もしくはそんな細かい理由など関係もなく、更なる獣性の解放を求めて研究員たちを食い殺すことは想像に難くない。
 北海道の本島にはすでに多数のヒグマが押し寄せ、自衛隊による掃討作戦が実行されたことは聞き及んでいる。
 サーバーダウンは、意図的なものではなく、ヒグマが反乱を起こした際に同時に破壊されたものだと考えれば、辻褄が合った。



「だとすれば今、島の中は、数百体ものヒグマで溢れた無法地帯かァあ!? 津波の浸水は引き始めておるし、まずいぞ!?
 いくらレオナルドっちにプログラムを持たせたとはいえ、そんな数に囲まれては……!」

 焦りに彼が立ち上がった時、辺りにプレズオンの絶叫が響いていた。
 ただ事ではない苦悶の声とそれに伴う振動で、Dr.ウルシェードの腰椎に嫌な渋さが流れた。

「ぐおお!? プ、プレズオン!! どうした!! 何が起こったんじゃあ!!」

 腰を擁護しながら操縦エリアまでいくや、プレズオンの視界が、一面真っ黒な生物たちに埋め尽くされているのがわかる。
 ソナーには、全方位をくまなく埋め尽くす、幾万とも知れぬ赤い点が表示されていた。


「ヒ、ヒグマなのかこやつらも!! 寄生虫のようなナリをしとるくせして、動きが統制されすぎじゃろ……!」


 プレズオンは、自身の牙や尾部のジェット噴射により必死に生物群に対して応戦していた。
 プレズオンに組み込んだ『ヒグマ細胞破壊プログラム』により、その一撃ごとに確かに生物たちは死ぬ。
 しかしその生物たちは、一度その攻撃で仲間が殺滅されるや、首の根元や胴体部など、攻撃の死角となる場所を狙って殺到するようになっていく。


「くそっ、プレズオン!! わしに構わんで良い!! 浮上から、ブリーチングじゃあああっ!!!」
「グアアオオオオオオゥッ!!!」


 プレズオンはその長い首を上に振り向け、水深約30mの海底から、一気に空中へと急速浮上した。

「あがあああああっ!!」

 急加速と急減圧が、Dr.ウルシェードの腰部に深刻なダメージを蓄積させる。
 プレズオンは、上空の高みへ仰向けに飛び出し、高速旋回しながら、海面へその腹部を盛大に打ちつけた。


 ――スピンジャンプからの腹打ち型ブリーチング。


 クジラがその身から寄生虫を打ち落とす際に用いる、落下衝撃による体表の外敵撃砕法である。
 その衝撃は海上に巨大な水柱を打ち立たせ、腹部に取り付いていた生物群を悉く圧砕し、残る生物たちもその水流に乗せて吹き飛ばしていた。
 しかしながら、Dr.ウルシェードの腰に与えた衝撃も半端ではない。
 それでも彼は両手で腰を守りながら、必死に叫んでいた。


「い、今のうちじゃあ……! プレズオーに、ロケット変形ッ!!!」


 ズオーン……オンオンオンオー……ン――。


 プレズオンの体は、海上でパーツごとに分解され、その体を再構成することで、巨大なロボットに変形しようとしていた。
 戦闘形態になって応戦の構えを整えようというのである。
 しかし、その変形のさなか、接合する関節部が突如破裂し、内部からは大量の黒い生物群が溢れ出していた。


「なっ、なっなっ……!? なんじゃとぉぉおおお!? プレズオンの体内に産卵でもしとったというのかぁあ!?」
「クィイ……!? クアアオオオオオオォォオ!!!」



 プレズオンが切ない悲鳴を上げると共に、コクピットの隔壁を打ち破って、Dr.ウルシェードの周りにもその生物たちが押し寄せ始めた。
 変形の途中だったプレズオーはその力を失い海面に落ち、再び群がる黒い叢に埋められていく。

「ふざけるなよヒグマの卵とかぁあ!! せめて哺乳類であれよ!!
 ヒグマじゃなくて『HIGUMA』だぁ!? カモノハシかよ馬鹿ヤロォ!!」

 操縦エリアの前部からガブリカリバーを引き抜きつつ、襲い来る巨大な船虫のような生物たちに向けて乱射する。
 命中するごとにその一角の生物たちは確かに死滅したが、それらは後から後からひっきりなしに押し寄せる。
 コクピット隔壁も一箇所だけでなく打ち破られ、Dr.ウルシェードの背後からも生物が襲来し始めた。


「クルルィィイ……」
「くそぉおおおおおっ……! すまん、プレズオンッ……!!」


 プレズオンが最期の鳴き声を上げるとともに、キョウリュウバイオレットの姿はコクピットから消え去っていた。
 島の海上の空中に出現した彼は、沈み行くプレズオンに群がる黒色に向けて、そのガブリボルバーを構える。


「獣電ッ!! ブレイブフィニィィイィィィィィイッシュ!!!」


 竜の口の如き紫色の巨大なエネルギーが海面に突き刺さり、その生物たちを吹き散らす。
 Dr.ウルシェードはその砲撃を繰り返すことで、反動で島へと飛行していった。


 ――信じられない光景じゃった。
 空中から望めば、あの大量のヒグマらしい黒い生物たちが埋める海域は、ぱっきり島から約1キロメートルの領域で線を引いたようになっている。
 ヒグマたちがただ獣性のままに繁殖し食尽しようとしているのならば、こんなことはありえなかった。
 ヒグマたちは、統率されているのだ。
 反乱も、ただ単に暴れたヒグマが巻き起こしたものではない。その程度なら当然、スタディも想定していただろうし、ファイブオーバーシリーズに匹敵する性能を持つ擬似メルトダウナーの独占生産権を有するスタディコーポレーションがそれを鎮圧できないわけはないだろう。

 ――ヒグマたちは、反乱をした後も、粛々と実験を続けようとしているのだ。
 ヒグマと人間と、彼ら同士の血で血を洗う殺し合いを。
 プレズオンが喰われたのも、彼らにとっては単に、実験に邪魔な外的要因を排除したに過ぎない。実験をする科学者なら当然の行為だ。

 何故だ。

 彼らはもう十分に進化している。
 ここまで極端なr戦略の個体までいるのならば、彼ら『HIGUMA』という種は、もうどんな環境撹乱にも適応し、生存しうるだろう。

 生物の進化とは、環境への適応だ。
 我々キョウリュウジャーがその力を借りている恐竜が、なぜその強大な力を持ちながらゼツメイツごときに絶滅させられたか。
 それは、急激な環境の変化に適応し、進化することができなかったからだ。
 進化する時間を稼げるような戦略を採っていなかったからだ。

 人類の祖先たる哺乳類がその環境撹乱を生き残ることができたのは、そのr戦略と、温血の齎したその身に流れるブレイブのためだ。


 安定した環境ならば、強い力を持つK戦略の個体は絶対的に有利だ。
 しかし、不安定な環境下では、適応のための試行回数を稼げるr戦略は、その数が絶対的なアドバンテージとなる。
 何体殺されても、次は殺されない手段を採れば良い。
 無限の残機を有した死に覚えゲーを地でいくことができる。


 進化して、環境に適応できていないのは人間の方だ。
 そもそも単独の力が、K戦略としてHIGUMAに及ばない人間は、どうすればいい!?
 r戦略をとれる命のスペアもない人間は、どうすればいい!?


 有冨春樹が考えたこの実験開催理由が、今ならばわかる。
 彼は、人間に進化してほしかったのだ。
 ヒグマは、あくまで当て馬なのだ。
 実験資金を出したスポンサーは、ヒグマの戦術的価値を主眼にしていたかもしれないが、科学者にとってそんな上っ面の理由は比較的どうでもいいことに分類される。目的にしていたとしても、あくまで副次的なものだっただろう。
 彼は集められた参加者の数自体を、r戦略で消耗する命のスペアに当て、ヒグマに晒されるr選択の環境下で、確実に生き残れるほどのK戦略者を求めたのだ。
 最悪、ヒグマが勝ち残ってもそれはそれで、開発したスタディの力は認められるだろうが、それでは結局ヒグマの勝利だ。
 スタディが社訓のように掲げている『新たな時代を切り開くのは(超)能力ではなく、知性である』という言葉は、この実験の場合、『新たな時代を切り開くのは(ヒグマの)能力ではなく、(人間の)知性である』と言い換えられるだろう。


 知性とはなんだ。
 人間が発達させたコミニュケーション能力であり、人間が発達させた大脳のネットワークだろう。
 それこそ、極端なK戦略者である人類に唯一許されたr戦略を採る道。

 ――仲間との協力だ。


 協力をさせながら、一人を生き残らせるという行為は、矛盾を孕んでいるかも知れない。
 しかし、その矛盾の果てに得られるだろう強大な力を観測したいという欲求は、科学者ならば抱いておかしくない。
 人道的に許せずとも、同業者としては、有冨春樹の行為には理解の余地があった。


 ――しかしその場合、なぜヒグマたちは、実験を存続させようとしている?


 レオナルドっちならば、それもさらなる進化のためと言うだろう。
 しかし本当にそうだろうか。
 数百体ものK戦略者を有し、ここまで極端なr戦略者を持つHIGUMA種が、わざわざ人間ごときの撹乱を、それもここまで管理・制限された弱弱しい撹乱を進化のアテにするだろうか。
 しかも彼らは、むしろその外部からの撹乱を排除するように動いている。
 実験環境を依然として整えようとしているのだ。
 強力で多様な能力を持ち、今や人間に匹敵するほどの知能を持ち始めたこのHIGUMAたちは、一体何を求めているのだ――!?


「……ま、まさかッ……。そうか、そういうことじゃったのか!!」


 Dr.ウルシェードが呟いた時、彼は島の崖の端に辿りついていた。
 ガブリボルバーの射撃で空中の速度を減速し、なんとかその壁面にへばりつく。
 しかし、その衝突の衝撃は激しく、真隣で流れている滝の水流もあり、ずるずると彼は下へ滑り落ちていった。

「い、いかんいかん! 海食洞! 島の構造解析ではここに海食洞があるはずなんじゃ!
 そう! ここっ、ここっ! ここに避難……ヲウッ!?」

 滝の裏に、大きな洞窟の入口を発見し、彼はそこに必死でにじりよっていく。
 しかし、急激で無理な体勢の運動が祟った。
 ついに魔女の一撃が、Dr.ウルシェードの腰を、強かに打ち据えていたのだ。


 グキッ。



「こ、ここでっ……! ギッ、クリ、腰、とはああああ……!!」


 Dr.ウルシェードは、もはや一歩も動けなくなっていた。
 もう、頑張れば海食洞の中が覗けるほどであるというのに。

 海食洞の内部には、人がいた。
 しきりにあたりを見回している、ドレスを着たピンク色の髪の毛の少女。
 黒い燕尾服のような衣装を着て、テディベアのような熊に掴みかかっている黒髪の少女。
 そして、長点上機(ながてんじょうき)学園の紺色の制服を着た、ウェーブのかかった髪の少女。


「ぬ、布束、しのぶ博士じゃあないかっ……!!」


 生物学的精神医学の分野で幼少の頃から頭角を現し、学園都市第七薬学研究センターでの研究期間を挟んだ後、長点上機学園に復学。
 学習装置(テスタメント)の監修に携わり、学究会でも、スタディの有冨春樹らとともに、上位入賞の常連であった。
 量産型能力者計画を退いた後、スタディコーポレーションに在籍し、ケミカロイド計画の一端に携わったらしい。
 その後、頓挫した計画の後始末としてコーポレーションを脱退し、ジャーニー、フェブリという名の人工生命とともに渡米。
 四大財閥協定機関『ケルビム』出資の研究機関のもとで彼女たちの調整を行ないながら過ごしていたが、突如日本に帰国し、間髪入れずスタディコーポレーションに再在籍していた。
 ゴシックロリータ風の私服で有名な、若い秀才であった。


 ――彼女が生きているなら、ヒグマたちに立ち向かう算段もたつぞ!


 彼女の最近の不自然な挙動は、学会で面識のあったDr.ウルシェードが今回の事件の主催者を特定する一助になっていた。
 彼女の性格からして、この人道に反した実験を許すことは考えづらい。恐らく、元から研究員であった地位を利用して、内側から実験を中止しようという計画を練っているものと想像された。
 彼女がいれば、『ヒグマ細胞破壊プログラム』も完成するだろう。スマートフォンはプレズオンのもとに置いてきてしまったが、レオナルド博士ともう一度連絡できるアテもあるだろう。

 Dr.ウルシェードは、ガブリカリバーを持った右腕を大きく振って、叫んでいた。


「うおおおおーーい!!! 布束さぁあああん!!! お久しぶりじゃあー!!!」


 背後から大きな影が差していることに、彼は気づかなかった。
 聡明で声の大きな科学者は、最期までバイザーの下に満面の笑みを浮かべていた。


【Dr.ウルシェード@獣電戦隊キョウリュウジャー 死亡】


    仝仝仝仝仝仝仝仝仝



 聞き覚えのある、とんでもなくうるさい、名が体を現したあの科学者の声が聞こえたような気がした。
 海食洞の先の滝の向こうに、『彼女』の影があった。

「くはっ……」
「ガッ……」

 その時、ドクターウルシェードの叫び声に紛れて、ヤイコが周囲に電気を放出していた。
 そして、夢原のぞみと呉キリカの体が、地に倒れる。
 海水で濡れた浜を通して、ヤイコが彼女たちの体内を強かに電流で叩いたのだ。


「ヤイコッ……!? あなた……」
「生存したくば、この場はヤイコにお任せいただくことを要求します……」


 浜で痙攣する二人の参加者は、心室細動に陥っていると思われた。
 血流が途絶え、10秒で意識は落ち、すぐに彼女たちは死に至ってしまう。

 そう。
 ヤイコはヒグマなのだ。彼女にとって、侵入者である二人の存在は無価値に等しい。
 自分たち二人の生存を優先するのならば、侵入者を殺してしまうのが最も手っ取り早い手段である。
 しかし、ヤイコは、その決断をここまで延長させた。
 策があるのだ。
 それくらいは、私にも察することができた。


「穴持たず39『ミズクマ』の御姉様のご足労に感謝いたします。穴持たず81『ヤイコ』は、海食洞の無事と、侵入者の適切な排除をご報告いたします」

 ――通路内への浸水なし。
 ――人間2名の心停止を確認。
 ――布束特任部長とヒグマ1名の生存を確認しました。


 見上げるほどの、海抜3メートルの高さに、ミズクマの口があった。
 円形に開かれたその牙の間から、紫色のスーツの腕が覗いている。
 その手が握り締めていた黒と黄色の拳銃が、砂浜に落ちた。

 彼女の体は、巨大な湯たんぽかラグビーボールのような形の、真っ黒な毛皮の塊である。
 その左右に、ただ太い木の枝のような4対の脚が生え、上半身をもたげた空中でその2本が宙に蠢いている。
 目も耳も鼻もなく、ともすればその口までが毛皮の中に埋もれてしまう彼女は、それでもその嗅覚と振動覚で周囲の状況を克明に察知する。
 彼女の音声は、海面を埋め尽くす彼女の『娘』たちによって発せられていた。
 寸分の狂いもなく同期する『娘』たちの動きが、空気を言語として認識できる振動に震わせるのだ。
 彼女は『幼生生殖』し続ける自分の『娘』たちを、振動により完全に統率する。


 私はただ震えていた。
 海上から参加者を連れて脱出するに当たり、彼女への対処は不可欠なのだ。
 彼女が自身を地上に晒してくれている今ならば、彼女を打ち倒すことも不可能ではないだろう。
 腕一本犠牲にする覚悟があれば、彼女の口に、麻酔針を放り込むことができる。
 彼女の思考回路は、感情を孕んでいない。
 彼女の住処がこの海食洞の真下の海底であり、研究所に通じる伝声管の隣に待機しており、研究員とヒグマの依頼には比較的応じることを考慮すれば、呼び出して気絶してもらうことはそれほど難しくなかったのだ。
 統率を失った『娘』たちは、そうなればもう、増えるだけの死んだ牛も同然になる。
 しかし、今となっては、それはできない。
 すれば、シーナーが気づいてしまう。


「有冨所長へ、こちらに大事のないことをお伝え下さい」

 ――了解いたしました。


 ミズクマは、ヤイコの言葉を受けて、再び海面下に潜っていった。
 ドクターウルシェードの体を食い尽くして、彼女は何の感慨もなく淡々と、海上の防衛に戻るのだ。



「……侵入者の除細動を行います。布束特任部長、除細動が不完全だった際の心肺蘇生を願います」

 ミズクマの一群が水中に消え去った後、再びヤイコが電撃を迸らせた。
 夢原のぞみと呉キリカが、水揚げされたマグロのように砂浜を跳ねる。


「あはあっ……!! はあっ、はあっ……!!」
「がぶっ……!! げぇっ、げほっ……!!」


 二人は、一発で心室細動から蘇生した。咳き込み、流涎し、涙を滲ませながらも、彼女たちの身体に異状はないようだった。
 ヤイコは、端的なミズクマとのやりとりに一分もかけなかった。
 この迅速な決断と行動が、全員の命を救ったのだ。
 ヤイコは、二人の様子を一瞥した後に、私の方に向き直る。


「……危険は去りました。布束特任部長。さあ、今こそお話し下さい。あなたが本当は、何をお考えになって行動していらっしゃるのか。
 ヤイコが今後、如何なる基準に基づいて行動するべきなのか、その判断材料をお示し下さい」
「ええ……。そうするつもりよ……」


 私は、砂浜に落ちた、ドクターウルシェードの拳銃を手に取った。
 一瞬で特撮ヒーローのようなスーツに着替えられる銃で、ガブリボルバーと言ったか。
 彼は、島外に出たヒグマや、私の最近の履歴から、この島に至ったのだろうか。
 ほんの少ししかお会いしたことはないが、義に篤く、お調子者で、うるさい人だった。
 彼にミズクマについての知識があれば、そしてもう少しでもタイミングが違えば、生きて私たちは出会うことができたかもしれない。

 頭の中で、サンバの音楽が流れる。
 うるさい。
 どういう機能なのだ。
 『踊って銃を突き上げて“ファイアー”と叫べぇぇ!!』とか、ドクターウルシェードの声が頭に聞こえてくるのはどういうことなのだ。
 本当にうるさい。

 学会で彼に司会を頼んだのはどこの誰だったのだ。スピーカーがハウリングしまくって5分開始が遅れたのよ。
 どれだけ彼は学会に笑いの渦を巻き起こさせ、発表と質疑応答を朗らかに進行させたことか。

 こんな音楽を四六時中聞いて活動しているなら調子に乗るのも無理はない。
 学会を快活に進めることはできても、冷静さが求められる実験や行動には、このBGMはあまり適しているとはいえないだろう。
 私は白衣を拾い上げて、ポケットの中にその拳銃を押し込んだ。


 この島に、正義のためにやってきてくれたのだろう彼の勇気を無為にしないためにも。
 彼のあまりにもうるさく力強い声に応えるためにも。
 私は今後も冷静に行動する必要がある。

 息を整えて砂浜に起き上がり始めた呉キリカと夢原のぞみも、私を見上げている。
 三対の瞳を見返して、私は一度、瞬きをした。


「……ヤイコ、あなたも、ヒグマ帝国の面々が何を目的にして行動しているのか、教えて頂戴。
 私たち4人の身のこれからの振り方を、一度しっかり話し合いましょう」
「はい。ヤイコがお話しできる事柄であれば」


 昔の人々は、『水熊』が出た時、人力の及ぶものではなく、仏の力にすがるしかないと考え、百日間、家ごとに毎朝、川に向かって観音経を唱えたそうである。
 私たちは、百日間もかけてはいられない。
 ありもするかもわからない、仏の力などにはすがれない。
 観音経を唱える声があるのならば、その声で学会の司会を担うことを、私は選ぶわ。


【A-5の地下 ヒグマ帝国(海食洞)/午前】


【夢原のぞみ@Yes! プリキュア5 GoGo!】
状態:ダメージ(中)、キュアドリームに変身中、ずぶ濡れ、心停止から復帰直後
装備:キュアモ@Yes! プリキュア5 GoGo!
道具:なし
基本思考:殺し合いを止めて元の世界に帰る。
0:ようやく、布束さんとヤイコちゃんとお話しできるかな……?
1:ここがどこかわかったら、キリカちゃんと一緒にリラックマ達を捜しに行きたい。
2:ヤイコちゃんのおかげで助かったよ!
3:気絶する寸前に見た、あの黒いヒグマ、怖いなぁ……。
[備考]
※プリキュアオールスターズDX3 終了後からの参戦です。(New Stageシリーズの出来事も経験しているかもしれません)



【呉キリカ@魔法少女おりこ☆マギカ】
状態:疲労(中)、魔法少女に変身中、ずぶ濡れ、心停止から復帰直後
装備:ソウルジェム(濁り中)@魔法少女おりこ☆マギカ
道具:キリカのぬいぐるみ@魔法少女おりこ☆マギカ
基本思考:今は恩人である夢原のぞみに恩返しをする。
0:布束には協力してやりたいが、何にせよ話を聞くところからだ。
1:布束砥信。キミの語る愛が無限に有限かどうか、確かめさせてもらうよ?
2:恩返しをする為にものぞみと一緒に戦い、ちびクマ達を捜す。
3:ただし、もしも織莉子がこの殺し合いの場にいたら織莉子の為だけに戦う。
4:命を助けた私に向かってする対応じゃないだろこのクソチビヒグマぁ……。
5:あんな虫みたいな化物までヒグマなのか!?
[備考]
※参戦時期は不明です。


【布束砥信@とある科学の超電磁砲】
状態:健康、制服がずぶ濡れ
装備:HIGUMA特異的吸収性麻酔針(残り27本)、工具入りの肩掛け鞄、買い物用のお金
道具:HIGUMA特異的致死因子(残り1㍉㍑)、『寿命中断(クリティカル)のハッタリ』、白衣、Dr.ウルシェードのガブリボルバー、プレズオンの獣電池
[思考・状況]
基本思考:ヒグマの培養槽を発見・破壊し、ヒグマにも人間にも平穏をもたらす。
0:ミズクマを切り抜けられて良かった……。
1:キリカ・のぞみ・ヤイコの情報を聞き、和解させ、協力を仰ぐ。
2:帝国・研究所のインターネット環境を復旧させ、会場の参加者とも連携を取れるようにする。
3:やってきた参加者達と接触を試みる。
4:帝国内での優位性を保つため、あくまで自分が超能力者であるとの演出を怠らぬようにする。
5:ヤイコにはバレてしまいそうだが、帝国の『実効支配者』たちに自分の目論見が露呈しないよう、細心の注意を払いたい。
6:ネット環境が復旧したところで艦これのサーバーは満員だと聞くけれど。やはり最近のヒグマは馬鹿しかいないのかしら?
7:ミズクマが完全に海上を支配した以上、外部からの介入は今後期待できないわね……。
[備考]
※麻酔針と致死因子は、HIGUMAに経皮・経静脈的に吸収され、それぞれ昏睡状態・致死に陥れる。
※麻酔針のED50とLD50は一般的なヒグマ1体につきそれぞれ0.3本、および3本。
※致死因子は細胞表面の受容体に結合するサイトカインであり、連鎖的に細胞から致死因子を分泌させ、個体全体をアポトーシスさせる。


【穴持たず81(ヤイコ)】
状態:疲労(小)、ずぶ濡れ
装備:『電撃使い(エレクトロマスター)』レベル3
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:ヒグマ帝国と同胞の安寧のため電子機器を管理し、危険分子がいれば排除する。
0:ヤイコにはまだ、生存の価値があるのでしょうか?
1:ヤイコがヒグマ帝国のためを思って判断した行動は、誤りだったのでしょうか?
2:無線LAN、買いに行けますでしょうか。
3:シーナーさんは一体どこまで対策を打っていらっしゃるのでしょうか。


【A-5 海底/午前】


【穴持たず39(ミズクマ)】
状態:健康、潜水、『娘』たちを統率中
装備:なし
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:有冨春樹の命令に従いながら、『娘』の個体数を維持する。
0:周辺海上を通るヒグマと研究員以外の生命体は、全て捕食する。
1:攻撃を加えてくるようであれば、ヒグマのようであっても敵とみなす。
2:島の周囲1キロ以遠の海域に脱出する、研究員以外の人間を捕食する。
[備考]
※『娘』たちは幼生生殖を行なうことができます。
※本体も『娘』も、動物の体内に単為生殖で産卵することができます。
※『娘』たちは、島の崖から約1キロメートルまでの海域にくまなく分布しています。



No.115:羆帝国の劣等生 本編SS目次・投下順 No.117:狛枝凪斗の幸福論
本編SS目次・時系列順
No.089:第一回放送 穴持たず204 No.128:てんぷら☆さんらいず
No.105:Sister's noise 穴持たず47 No.132:Dμ34=不死
布束砥信 No.131:Licorice Leaf
呉キリカ
夢原のぞみ
ヤイコ
No.102:海上の戦い ヴァン 死亡
鷹取迅
ハーク・ハンセン
チャック・ハンセン
暴君怪獣タイラント
No.104:鷹の爪外伝 北海道周辺より愛をこめて 接触編 Dr.ウルシェード
No.101:特命 杉下右京
クマ吉
劉鳳 No.126:獣の施し
アルター結晶体 帰還
No.104:鷹の爪外伝 北海道周辺より愛をこめて 接触編 穴持たず59
No.102:海上の戦い 安室嶺(ガンダムに乗ったヒグマ) No.176:一体何が始まるんです?
ミズクマ

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最終更新:2015年12月27日 17:15