◆



 ───わたしは、ぱちりと眼を開ける。




 広くて、深い────暗い、昏い、からっぽの井戸(イド)の底。
 目を開けた先は、いつもそんな風景をしていた。

 なにも見えないものを風景といっていいのかとも思うけれど。
 目が醒める前、眠りながら開けた目は、いつもこんなまっくらやみを見ていた。
 音も、光も、ここにはない。まるで海の底でのっそりと起きたクジラみたいに。


 お日さまも、お月さまも、そこには見えない。
                     (見えるよ。赤い炎がぱちぱちと広がってるよ)。

 小鳥のさえずりも、風の音も、そこからは聞こえない。
                     (聞こえるよ。炎が燃える音がごうごうって鳴ってるよ)。


 最近は夜ふかしする日が多くて、それで寝ぼけてしまって不思議な夢を見てるんだろうかとも思っていたけれど。
 何度も、何度も、同じ景色を見続けて、そうではないらしいと気づいたのが、一週間くらい経ったあと。

 だから少し、よくない想像をしてしまう。
 ああ、ひょっとしたら、知らないうちに行ってはいけない場所に足を踏み入れてしまったんじゃないかって。
 小さい頃、きっと他の子よりもほんの少しだけ触れる機会が多いそれについて考えを巡らせて、どんどん怖い方にばかり考えが進んでしまって泣き出してしまい、両親を困らせてしまったのを憶えてる。
 自分の体重や息遣いすら感じ取れないここは、怖いところで、生きてる間は来ちゃいけない世界。
 そしていま自分は、いつそうなってもおかしくない世界に住んでいるんだと。




 ここにはきっとなにもない。
 世界がなくて、物語がない。
 明かりがないから暗いのではなくて、暗闇ですら、こんなに黒くなりはしなくて。その中で目はないものを観測している。
 ……死という、もの。
 無くて、亡くて、失くしてしまって。
 ここにいることを感じるところができない、いなくなった先の場所。あるいは始まる場所。

 なにもない、ということは。おなかを空かせることも、眠くなることもないということで。
 夢から醒めるまでは、ずっとこの闇を直視し続けないといけない。
 眠っている時に、誰かの、あるいは自分の死を見る。
 そんなのは本当なら耐えられないだろうけど、やっぱりこれは夢だから。  
 怖がる心は閉ざされて、感じる心も壊れないように、ぎゅっと固められて。
 ただ、『なにもない』を眺め続けていた。





 ■




 ───月が、頤を上げた顔を見下ろしていた。


 ぞっとするほど、玲瓏な光。
 光芒はそれこそ針のように浴びる肌に突き刺さる。陽光でもないのに、肌に粟が生じる。
 化外の血を取り込んで醜く膨れ上がった貌を、自ら輝ける光を持たぬ土塊の分際で。
 真円に程遠い上弦は眇めるように、炯々たる巨大な白眼を晒して睥睨している。
 何物の意志もなく鎮座するだけの月にすら苛立ちが込み上げる。
 そう思うのも無理もなかろう。何しろ之は、黒死牟にとって初めての”力負け”であるから。

 刀柄を握る指は感覚が無かった。
 鬼(こ)の体になって、刃を受けた腕が痺れを覚えた事なぞ、数百年の最中に一度でもあったろうか。
 外皮の硬度、筋繊維と骨の密度、いずれも人という種の容量を突破している。腕が落ちようが臓物が零れ出ようが逆回しに復元がされる。
 神経は体内の稲妻すら感知できるまで研ぎ澄まされ、あらゆる不如意から解放された。
 この世のしがらみを抜け、永劫無限に強さを磨け続けた筈の鬼の体が、今、人の不条理に屈していた。

 侍の両刀での薙ぎは、それこそ海の彼方で太陽が昇る地平線のように、どこまでも力強く伸びて往った。
 眼では追えた。刀を差し込んで迎撃も間に合った。呼吸術は一糸の乱れなく月の刃の群れを形成した。
 全ての反応が間に合った上で、この始末。
 足が地面から浮き、体重が持っていかれ、月輪の守りを砕いて地平線は突き放す。
 家屋の塀に背中を強かに打たれなければ、海の先、空の彼方まで永遠に遊泳する羽目になったやもしれない。
 足りなかったのは、単純なる力だ。
 膂力、振りの速度、全身の筋肉骨格神経を武器に用いた剛力、体外へ越流した"気合い"としか呼べない観念が可視化された力。
 鬼狩りを、鬼すらも上回った剣圧が、上弦の壱を御苑の郊外、そのさらに場外へと有無を言わさず押し退けた。

「悪いな。あそこじゃまだ巻き込まれそうなんで、場所を変えさせてもらったぜ」

 月光を背負うその侍の姿、正に威風堂々。
 乱童にして怪傑。迷わず進んだ轍に一片の悔いも残さない者だけが浮かべられる破顔。
 例え死に際に瀕しようとも、男からこの気概を奪うことは出来はしまいだろう。
 釜茹で地獄から帰還した一匹侍、光月おでん。伝説を知る男。

 抜かれた二刀は共に至極の名刀。
 一振りは白。天をも切り落とすと謳われる天狗の一品。天狗山飛徹が秀作、天羽々斬。
 一振りは紫紺。地獄の底まで切り伏せる、仕手すら枯死させる大食らいの妖刀。霜月コウ三郎が真作、閻魔。

 歴史と性能が積み上げられた武器は、それ自体が神秘の塊であり、姿なき霊を討つ神器と成る。
 汎人類史に名だたる名刀に並び立つ、誇張なく宝具の位階に達している。
 手に取る侍もまた、見劣りするどころか、ともすれば二刀が霞むだけの身体を保有している。
 打ち立てた武勇もまた規格外。海を知り、名だたる大海賊と轡を並べて覇を轟かせ、歴史の真実を垣間見、伝説に立ち会った風雲児。
 刀は持ち主の段位を押し上げ、持ち主は刀に許される最大限の斬れ味を発揮させる。
 人器一体の境。それをとうに会得したおでんこそは、数多並み居る英霊に引けを取らぬ豪傑である。
 証明はされてきた。一度は流離いの女剣士との戯れ合いで、そして二度目は此度の私闘で。
 剣聖を制した天剣を感嘆させ、魔剣士を一合にて転ばせた武錬、英雄に互するに些かの不足もなしと。
 この場で潰えれば、すぐにでも新たなる器として英霊の座に招聘される資格を有していた。


「…………退け………………」

 だが如何なる豪剣を披露しようとも、黒死牟の焦点を合わせるには至らない。
 三対の凶眼は残らず、太陽の黒点の如く燃え盛っている。虹彩に映るのは烈日の輝々のみ。

「邪魔を……するな…………私の邪魔を、道を阻むな…………」

 幽鬼の如く、にじり寄る。
 視覚のない盲獣が海底をまさぐるように、吼えて這いずり悶え狂う。
 英霊に至る剣の力量。それがどうした。どれだけ綺羅びやかな才を喧伝しようが、太陽の前には消える寸前の灯火に過ぎず、比較する事すらおこがましい。

 黒死牟はおでんを見ていない。その先に立つ、従属の縛りを受けた弟にしか意識は注がれていない。
 不滅の太陽が、不敗の神話が、不義不徳の鎖に引き摺り下ろされる。そんな有り様が許されてなるものか。
 あれを超えるのは俺だけだ。穢すのは俺だけだ。
 直射で解けた骨肉は、内側で泡噴く溶岩となって流れる。己の体から噴いた焔で絶えず男を焼き続けながら。


「一発かましといても眼中にねェかよ。ちょいと傷つくなオイ」

 漏らした言葉とは裏腹に、おでんはそこまで機嫌を損ねた風でもない。
 むしろ、賭場に来た新参をどれだけカモにして鳴かせてやろうかと、舌なめずりする嗜虐さすら浮かばせている。
 なにせ───


「だが、もうこっちは張っちまった。賽子は籠の中だ。あとはお前の出目を待つのみ。
 生憎と、逃がしてはやれねェなあ。素寒貧か億万長者か……とことんまで付き合ってもらうぜ?」

 なにせ、喧嘩を売ったのは此方からだ。
 鯉口切って場外から乱入して、有無をいわさず試合を指名した。
 この時点で義も筋もあったものじゃない。水差しなどお呼びでないと言われれば正に正論。その通り。
 おでんは誰にも望まれない闖入者で、宿痾で結ばれた兄弟の対決に水を差した狼藉者だ。

 自覚している。
 承知している。
 酷く無粋な、非難轟々の蛮行であると理解した上で、おでんは喧嘩を売った。
 理由はある。だがしかし仔細は語らず。
 真意を聞けば膝を打つ美談と受け合いのおでん節はしかし、詳らかになるまでは珍行にしか見えないのが世の常だ。
 そしておでん節の喧嘩とは、相手が参るまで押し倒す。これに尽きる。

 即ちは────

「ようはよ、わかんだろ?」



 この試合に正義はなく、悪はなく。意義も見当たらない。
 今が地平聖杯戦争の只中であり、一夜の佳境を迎えようとしている最中であろうと関係ない。
 戦う意味がまったくなかったとしても、この二人にはそんなものは必要ない。
 なぜならば、彼らが己を通さんとするならば。そこに行き着く道がひとつしかなければ。


「邪魔だからはっ倒す、気に食わねェからぶっ飛ばす!! 
 飾り立てようが所詮、俺もお前もどうしようもねェ悪ガキだ。喧嘩ってのはそんなもんだろうが!!」


 押し通るのみこそが、ただひとつの道理……!



 血華咲き誇る彼等が極地。
 月は赤く染まらずとも、剣の鬼が見えれば、屍山血河の死合舞台の帳が降りる。
 敗北せし者の魂を取り込み食らうは、どの刃か。

 さて、お立ち会い。
 いざ、覚悟召されよ。
 之よりご覧になるは魂震わす果し合い。
 空前絶後、驚天動地、我らが我らである証を立てんとす武の権現。
 まことの真剣勝負────その結末が如何なるものになろうとも、決して瞬きなきよう、お願い奉り候。


「いざ! 尋常にィ! ───────勝負!!」


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆





                   壱   英                    
                   本   霊
                   勝   悪
                   負   鬼



                     待
                     っ
                     た
                     な  
                     し
                     !






            黒  セ           光  鍋 
               イ              奉
               バ           月  行
            死  |              
               ・           お  
               無              大  
            牟  間           で  殿 
               地              侍
               獄           ん   

               一
               切
               斬
               獲





                    い
                    ざ
                    尋
                    常
                    に



                   勝負!!                   




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆





 手本となる動きを見ておく事の重要さを、この齢になって初めて思い知った。


 剣術指南の記憶ぐらいはあるが、あくまで基礎の基礎、刀の振り方の手ほどきを受けた程度。
 乳児の時点で野の獣相手に大立ち回りを演じ、10になればヤクザとの抗争に明け暮れて、律儀に同情で稽古を受ける暇なぞありはしなかった。
 気づけば、おでん二刀流という、独自の剣法を体得していたのが18の頃だ。 
 その無軌道と奔放さから、手を付けられる師範なぞいるはずもなく、おでんが使う技は完全な我流に仕上がった。
 自惚れたりもせず、驕慢も憶えず、自分なりに律儀に鍛錬を続けて、ワノ国一と挙げられても文句の付け所のない大剣豪。
 生来の才覚を独自に鍛え伸ばし、誰の教えで矯正されもしなかったからこそ開花した天稟ともいえる。性格上薫陶を大人しく受けられる性でもないだろう。
 後に海を渡って、自分以上の大物に触れる機会は数知れなかったが、だからとてそれに倣って自分の戦い方を変えようなどとは露とも考えたりはしなかった。縁壱もまたそうだ。

 見たことのない剣の冴え。風に乗って流れる桜の花弁のように自然な、一切無駄のない挙動。
 剣の道を志ざせば誰もが思い描く。頭で考えた通りの流れで自由自在に動かせる自分の体。
 当然絵に描いた餅を食えるわけもなく、都合のいい所しか見ない稚拙な思考では肉体はついていけない。
 その齟齬を少しでも埋めるよう、体を絶えず強くし、思考を知識で補強して順応していく。
 そしてそんな届かぬ理想を、尽く身一つで実現してのけている男こそが縁壱なのだ。
 模範にして極限である剣腕を心底惚れ込んではいるが、まさかそれを模倣しようなどとは思考の片隅にも置かない。
 だいいち、三十年以上も費やして得た技術はおでんと一体になっている。今更縁壱と取り替えは利かない。
 一度出汁が染み込んだおでんの具は、違う味には変えられないのと同じだ。違う液に浸せば、不味くなって身を崩す。
 ただ……『教材』として見せてもらう分には、何の支障もなかった。



”顔と名前もまだ一致しちゃいねぇ、主従を結んでの早々だが、頼みがある。
 同じく剣を嗜むよしみとして、ひとつお前の技を教えちゃくれねェか? ああいや細かく言うと、その妙に耳に残る呼吸の仕方なんだがよ”


 武芸者であれば、呼吸と武術の関係性は精通していて然るべきだ。
 人間なら誰であれ持つ生態機能。普通は息をするのに意識すらしていないそれは、全ての生命活動の要となる基盤だ。
 食事にも、運動にも、勉強にも、睡眠にも、当然武術にもだ。
 激しく動くには多く息をしなければならない。だが疲労が溜まれば呼吸がしにくくなる。そして息が乱れれば、全ての行動は阻害され精彩を欠きやがて停止する。
 この負の循環を解消するため、多くの武芸者、研究者が、日夜効率的な呼吸の方法を模索している。
 どれだけ息をしても疲れを感じず動き続けられるような理想型に辿り着けるかは、一生を捧げても届くかどうか、老境に事切れる寸前に至れるかといったところだ。
 怠惰に過ごそうが息はするし生きてもいける。当たり前の生態ということは、仕方を僅かに外していても体感がし難いということ。
 ただ息をするだけの行為も、探求すればどこまでも終わりのない底抜けに奥深い世界なのだ。

 おでんも呼吸の鍛錬については一通りを修めている。 
 我流なだけに、より本能に根ざした部分に意識化がなされたのだろう。
 覇気・流桜という、生命の力を体外に排出する闘法を用いるのであれば、自らの内界の操作を覚えることは必須とすらいえる。
 だから縁壱の埒外の剣舞を見て、圧倒されると共に、鼓膜を揺さぶった聞いたことのない奇妙な呼気に勘付いたのだ。

 おでんは縁壱の見せた演舞を、ひとつも取り零さず目に灼きつけると、自分の動きの無駄な部分に気づけた。
 ほんの僅かな手首の角度の違い。足の運びの違い。呼吸の間隔の違い。
 今まで気にも留めていなかった小さな動きを修正するだけで、動きの全体の滑らかさが段違いに変わったのを肌で理解できた。
 元から人域の限界に極めて近い位階にあった力を、より効率的な力の配分のし方を覚える事で速度の上昇が可能となるのだと、己の飛躍を実感できた。



 思えば、あれは純粋な好奇心だった。
 謳い文句を言い終えるより先に銃弾を受けて、眼を覚ませば見知らぬ土地に五体満足で放り出され、驚く暇もなく光から侍が現れて、しかも目が飛び出るほど強いときた。
 目の前の侍の途方もない強さの武者震いが、状況の把握とか聖杯がどうとかを置き去りにしていた。
 幾つになっても、男は夢を見る。直前に手痛い敗けを味わった手前、埋もれていた挑戦心の再燃が、新たな強さの希求に繋がった。
 その時は、それしか考えていなかった。これを機に自分を見つめ直し、精進を重ねようという程度の、真剣ではあるがどこか呑気な腹積もりだった。

 呼吸の鍛練に近道はない。とにかく死ぬほど努力を重ねるしかない。
 地道な作業だ。そして根気のいる道程だ。
 派手好きで横好きのおでんにしてみれば実に気が進まない。普通なら覚えようとはしなかっただろう。
 息の仕方を変える事は、生理生態の機能を丸ごと入れ変えるにも等しい。
 焦れて投げ出したくなった日が何度あったか。よくぞ一月も続けられたものだと過去の自分を褒めてやりたい。


「”おでんの呼吸 弐ノ具材”」


 今は思う。あれは必要な修行だったと。
 全ては、来る時の為の収斂。
 この力を使う日が必ずやって来るから、一月の内に改めて牙を研いでおけという”意志”だったのだ。

 果たしておでんは気づいていたのだろうか。
 己の運命。この地平の常世に招かれた悪龍を。
 往時のままでは止められぬ、強食の理念を敷く若き総帥を。
 天啓という先触れの声を、おでんは疑わない。己も一度死する前、同じように遠い先の未来に目を向けていたのだから。

「”弐弾・豪(にたま・ごう)”!!」

 上半身を弓を番えた弦のように引き絞り、大きく振り下ろす。
 両刃から射出される衝撃波は、およそ斬撃と呼べる形状をしていない。
 弧月に急激な速度による回転の遠心力を加えた、楕円形に伸びた『砲丸』だ。
 投じられた豪速球は前方に展開される弾幕の中を突き進む。月が砕かれ、割れ、蹴散らされる。


 陣を抜けて迫り来る弾を危なげなく避ける黒死牟
 速度こそ凄まじいが、太刀筋が直線的過ぎだ。軌道さえ読めればかわすのは造作もない。
 次の一手を指す為の布石であると知れば、尚の事だ。

 飛空する月の牙群に生じた隙間。
 砲丸が過ぎ去った跡には、弾幕を破かれた事で月輪のない空白地帯が出来ている。
 入れば断たれる剣の結界。剣客の命ともいえる間合いを詰めさせない、盾にして矛の型。そこを崩し作った間隙の割れ目に身を滑り込ませた。
 回避の選択を取った黒死牟に先んじて、攻めの面を通したおでんが戦場を我が物と躍り出る。


「ォオオオオオッ!!」


 肉薄。


「………………!」


 交錯。


 双刀を迎え撃つは無数の散刃。おでんという巨大な引力を目印に墜落する箒星。
 千々に散りばめられ、自身目掛けて降り注ぐ月の欠片、斬撃の網を、範囲に入ったものから片端に叩き落としていく。

「よくは見えねェが面白ェ技だな! その剣から出てんのかあ!?」

 刀身から発生する力場の大輪と、その周囲に不規則に増減する小輪。
 月の呼吸の斬輪軌道をおでんは捉えられてはいない。
 【見聞色】と剣士の勘任せで、肌に触れた瞬間から、食い込んで肉を千切るまでの刹那に腕を振るって弾くまでが精々だ。
 だが怯む事もない。恐れもない。ただ見た事のない技術に、驚きと心躍る好奇を胸に抱いて出迎える。
 未知なる舞台で、未知なる部族の、未知なる攻撃に晒されるのは、"偉大なる航路(グランドライン)"での冒険にとっては日常の一幕。
 最初の航海に連れてもらえた白ひげ海賊団で、道中に乗り継いだロジャー海賊団で、着いた島を一番槍に飛び出し、出くわし、巻き込まれ、心ゆくまで騒いだのだ。
 この技もそうだ。【武装色】で斬撃の範囲を広げ、遠距離攻撃に換装するは数あれど、斬撃を残して置いていくなど、これほど独特なものには早々お目にかかれない。 
 そして軌跡にだけ構ってはいられない。気を余所にやれば続く二の刃に首を取られる。
 最も警戒しなくてはならないのは始点たる黒死牟の腕。一流の剣士の手による生の太刀筋こそが相手の本命だ。
 その場に留まっていては、増えていく剣筋に雁字搦めにされて身動きが取れなくなる。



 然らば、撃ち落とすのみ。
 手数には手数。設置された罠を乱れ斬って細かく裁断する。
 おでんの呼吸。取り入れた息吹が毛細血管を拡張する。名付けられたばかりの型、新生した剣技が鍔を鳴らす。

 「”参ノ具材 逐倭武(ちくわぶ)”!!」

 縦横無尽に振り回す黒き乱舞。
 冷厳なる夜に絢爛な刃葉(はば)の桜が舞い踊る。
 二刀流による突進はかの女武蔵も用いた突破法だが、両者の技量には差異がある。優劣ではなく、質の違いとして。
 鮮花咲き誇る、美しく正確無比な鋭さが武蔵の剣なら、おでんの剣は武骨の塊、金剛をも粉微塵にする極太の丸太。
 手数は劣るものの、触れる月輪を逆に粉砕せしめる剛力がおでんにはある。
 そこに呼吸術の後押しが相乗され、対極の手でありながら黒死牟の攻めと五分に渡り合っていた。

(まだだ。もっと練り上げろ。肺にある空気を残らず使えッ)

 加速し始めたこの勢いを殺したくはない。意気つく間もなく畳みかける。
 黒死牟の型が変わる。前方を多い尽くす林群から、上から覆い被さる鉄格子に。
 【弐ノ型 珠華ノ弄月】の切り上げが前進を留めるよう展開される。

「“肆ノ具材 混・不間鬼(コン・ブマキ)“!!」

 ───戒縛を裂く竜巻。
 体を独楽に見立てての回転斬りが、静寂を打ち壊す乱気流へと進化する。
 月輪を吹き飛ばしても止まらない。回転する度に運動力は増し、影響は拡大し、大気を巻き込んで、かき廻す。
 荒巻き迸る人造の奔流。眼前に突如として顕した夏の嵐を浴びた黒死牟にたたらを踏ませ、足を下げさせた。


 攻勢の天秤が、比重を変えかけている。
 俄仕込みとは思えない呼吸の冴えが、怒濤の攻めを後押しする。
 見知らぬ無頼漢が己の世界に通じる呼吸を用いる不合理。異なる世界で育った似通う術などではない。何から何まで完全に一致している。
 男が独自に磨いたのでなく、全集中を知る者が適切に指導をした跡が見て取れた。
 黒死牟は、その正体を知っていた。

”お前が教えたのか、縁壱”

 そもそも鬼殺隊に呼吸術を教えたのは、誰あらん縁壱である。
 個の強さのみならず、他者を指導する才にも縁壱は恵まれていた。個々人の適性を見抜き、それぞれに合った型に分けて派生したのが、後の五大呼吸の起源。
 英霊ならざるマスターに教え込ませるのも、縁壱にすれば造作もない事だ。
 だが召喚された矢先から教えを受けたと仮定しても、修行を積ませられる期間は、長くて予選時の一ヶ月のみ。
 本来なら肉体に呼吸の効果が作用するどころか、覚えた呼吸を安定して使えるようにするのがやっとの期間だ。
 それをここまで習熟させ、ものにするとは。信じ難い早熟さだ。


 いいや。そうではない。丹念な修行の時間は必要ない。
 おでんはとうに剣士としては円熟期に入っている。年齢的にもそれは明らかだ。
 手足は伸び切り、技術も肉の一部にまるまで癒着した。実戦経験も存分に蓄積されている。
 呼吸は、あくまでそこにもうひと押しをする為の起爆剤だ。火に焚べる薪であり油だ。
 その世界で完成した肉体を、別の世界の技術を組み込んで一回り再調整させるに留めて、自前の技の切れを磨くのに専心させたのだ。
 時を超えた融合、亜種並行世界同士の技の融合。
 いわば継国縁壱の最後にして最新の弟子。歴代の鬼殺隊の番付におでんの名前を刻んでみせた。

”また、お前ばかりが受け継がれるのか。お前の技だけが”

 腕の痺れは抜けてるが、一瞬でも緩めれば指から剥がれ落ちかねない衝撃が一合毎に刀身を震わす。
 しかし真に震えるのは何処を指しているのか。男の腕とは全く別の出処から殴られるようなこの衝撃は。

”誰も、お前の境地に到れるわけでもないのに”

 縁壱との邂逅が、全盛の頭打ちにあった剣士に新たな扉を開かせた。
 だとしても───あの男には届かない。
 足りないのだ、貴様達は。
 変わりはしないのだ。何度実力を見せつけようとも。
 どれだけの標高の断崖を踏破しようが、天の日輪は掴めない。
 尚も触れようと翼を得てさらなる飛翔をしようと飛び上がるものなら、不遜の代償を支払う羽目になる。
 火を灯された蝋燭と同様、寿命という不可逆の前借りを───。


「…………ッッぶはァ!!」


 崩れた。
 張り詰めた筋肉の弛緩、濁流より早く走る脈動の停滞。
 足を踏み外しかねない大げさな息継ぎが、本人の意に反して強制的に起きる。
 おでんほどの手練ならばすぐさま復帰できる間、だが触れ合う距離での切り合いでは許されない隙。

「オ……ァァあッ!」

 ぎりぎりの反射神経で受ける。かち合う両者。
 しかし明らかに力が籠もってない。本来ならば黒死牟を押し退けられるだけの筋力が備わってるのに、先程で比べればまるで赤子の手だ。
 踏ん張りが利かず腰から仰け反る。肺が潰れかけたせいで、血中に酸素が行き渡らず、筋肉を絞める指令が届かないのだ。
 超常現象、神秘的現象を起こす覇気も、根底は生命力の発露。人体力学の構造は突破出来ない。
 肉体の調子が狂えば、それだけ放出量も萎んでしまう。
 俄仕立ての呼吸術を取り入れ、自前の技術と協調が出来ないまま実戦に臨んだ結果が、これだった。


”こんなものが、お前の期待した未来なのか?”

 これは予期されていた光景だ。
 呼吸術とは縁壱に近付く為の模倣。太陽目掛けて飛び込むという、婉曲な自殺行為に他ならない。
 英霊の座に飛び入りをかけられるおでんといえど、無事に済むわけもない荒行。油煮え滾る釜に放り投げられる、生前の死の再現だ。
 看板を掻っ攫って勝負を挑んできてこの体たらく。黒死牟の失望と侮蔑の念はとどまるところを知らない。

「それで……終わりか……では、疾く逝ね…………」

 マスターが死ねば契約を喪ったサーヴァントは消滅する。
 知識に収めてはいても、容赦を与える気は一切ない。
 むしろ、分不相応に主の座に居座り莫迦げた放言を吐いた罰を与えなくては、こちらの気が済まない。


【月の呼吸 漆ノ型】


 血を沸かす。
 鬼が鳴く。
 魔を孕む呪言が夜に音なく木霊する。
 ただならぬ殺気の充溢。覇気にも近しい気配に大技が来ると、萎えた四肢に喝を入れ持ち直そうと呼吸を再開した直後───眉間に触れた切っ先に肝が凍りつき、跳ねるように飛び退いた。

「!? は!? 伸びんのかソレ!!」

 鍔迫り合ってた刃渡りが眉間に向かって伸びたのだと、三回跳ねて着地してから見て、慄く。
 目と目の間を生温い液が垂れる、頭蓋を滑るように逸れた刃は表面を削いだ程度だ。直刃では。
 突きと同時に、例の力場も放出されていたのだ。そして刀身が伸びただけ展開範囲も広がった。
 月牙の方は、おそらく骨を掠めている。零れる血は軽傷では済まされない。
 視界を汚す血量だが、拭う暇はない。既に向こうは構えを完了している。


【厄鏡・月映え】

 見えざる巨大な獣が爪を振り下ろした。そうとしか見えない破壊の斜線。
 五の爪が横に広がり、少輪が従来通りに間を埋めて踊りかかる。

”速い! 間に合わねェ!”

 間合いの詰め方が速すぎる。迎撃の型を取るよりも早く到達する。
 攻撃範囲は倍以上。衝撃波というか、津波そのものだ。
 残る逃げ道は、上。おでんの脚力ならば難なく跳び越えられる。相手もそれは見越してる筈。
 故にこれは逃げに非じ。攻めの指向に傾けた跳躍。間合いの外から撃つ技はあちらの専売特許ではない。
 態勢させ直せばこちらのものだ、津波のお返しには大砲をお見舞いさせてくれる。



【月の呼吸 拾ノ型】


「な──────」

 今度こそ、おでんは戦慄と驚愕で臓腑を握り潰された。
 馬鹿な。幾らなんでも速すぎる。どうして動きが読まれてる。
 見開かれる双眼に、黒死牟は何も返さない。
 当然の結果である。
 防御も反撃も不可能な呼吸の間での面制圧。
 上に跳ぶ以外の選択肢を排除させて、そうするしかない場に追い詰めていたと、知っていたのだから。

「てめェ! さては見聞……!!」

 言葉は続かない。
 大気を引き裂く絶叫を上げながら、災禍の星が墜落した。


【穿面斬・蘿月】


 それは最早、剣術ではなく、斬撃ではなく、衝撃波でもない。
 剣から発生したものとしては、あまりに分厚く、歪で、悍ましい形状をしていた。
 それはまさに削岩機であった。

「ぬ”ぅ”────ウォアアアア!!!」

 金属が擦れ合う、ガリガリと耳に嫌な凶音が響き渡る。振動だけで骨まで割れそうだ。
 奥歯を噛み締め、血管を内側から破裂させながらも、交差した刀で食い止める。
 これを食らえば、人体など屠殺場で捌かれる家畜以下の有様となる。木っ端微塵だ。
 肩にのしかかる重圧、守りをすり抜けて手足に纏わりつく月輪を耐えて、耐えてみせると奮起する。
 流れからして、謀りも撹乱もここで一段落だ。二重に張ったここまでのお膳立ては、明らかに決める気でいる。
 仕留めにかかる全力の技だからこそ、打ち終わった後は硬直が生まれる。
 故にここを凌げば、反撃の目を出せる。出さずして何のおでん節か。
 「閻魔」と「天羽々斬」は、送られた覇気に呼応した黒雷で月輪を散らし、主君への義を務めんと侵攻を阻止する。
 共に最上大業物の号を賜った得物、下手物剣法で折られる根性はしていない。
 中空からの振り落としではそのまま地面に落下するしかないが、衝撃を堪える自負がおでんにはあった。


”オイ、まだ下には───”


 落ちていく先。 
 何から避ける為に地を跳んだのか、直前の行動を振り返って、おでんは黒死牟の狙いを悟った。

 上下を、挟まれた。
 蘿月の墜落地点と、未だ地上を滑る月映えの軌道上の先。
 ふたつの技が重なり合う一点に、今おでんの体が突き落とされていた。
 翼なき人は自由に飛べない空、たとえ飛燕でも行き場のない檻。
 両腕は蘿月の支えに絡め取られ、踏ん張る土台のない両脚はばたばたと虚空を掻き分ける事しか出来ない。
 先鋭化された思考がどれだけ考えを巡らせても、現実の体は無慈悲に、無情に流されるまま。


「刀の咽に……呑まれて消えよ……」


 天から垂れる蜘蛛の糸にしがみつく愚者の顛末。切れた糸が待ち受けるは針山地獄。
 龍の大顎が閉じられる。口腔に入り込んだ稚魚をごくりと嚥下した。


「~~~~~~~~~~!!!」

 何事かを叫んだおでんの声は聞こえない。砕月の破壊音は他の自然をかき消した。
 土石を割り、地盤を貫通して生まれるクレーター。屈服する地平の常理。
 高速回転する金属の摩擦か、辺りでは焦げついた異臭が漂っている。
 およそ剣を振って出来た光景とは信じられない、惨憺たる現場。
 人の業(ごう)が生み出した鬼の業(わざ)。
 複数の呼吸の型を、単一で重ね合わせるという絶技。
 剣術の枠を破り開花してしまった破壊痕は、正しく魔技の原理に他ならない。

 黒死牟は王手詰めを疑わなかった。
 上に防御を取らせてからの、無防備な下への挟撃。
 全身の体重を支える屋台骨となる下半身を破れば、上半身にかける力も半減する。
 おでんの体はどれも常人を大きく逸脱した総量だったが、構造自体は人間の範疇のままだ。この理に抗う現象は起こせない。
 剣の術理とは握る腕だけでも、そこに繋がる上体を使うだけではない。頭の天辺から足のつま先を残らず駆動させてこそ武術は成る。
 筋肉の収縮。血流の流動。骨の可動部位。肺の膨張。
 生物の構造を透き通らせる視界を得ればこそ、これらの間隔に最適な一撃を差し込める。

 故に耐えられない。
 故に死ぬ。
 縁壱の主を僭称する未熟な侍は、月の魔獣に全身を跡形もなく噛み砕かれる。
 己を超えて行くなど、末期の際に見た儚き夢であった。
 おでんは死に、縁壱は消える。再戦の続きはまたしても霞の先に消える。


 ──────では、問うが。
 舞い上がる土埃の只中で立つ濃い影は、一体誰のものであるのか。



「何…………」

 夏の湿気を含んだ風が流れ、埃を晴らす。
 すり鉢状に陥没した地面の真ん中には、見間違えようのない傾き武士。
 二の足で立ち、両腕で名刀を握る、光月おでんに他ならない。

「あんがとよ。さっきから血の巡りがよすぎてパンパンで、血管破裂しちまいそうだったもんでな。いい血抜きになったぜ」

 気の抜けた事を言ってるが、黒死牟の頭はそれどころではなかった。
 何故立てる。
 何故生きている。
 殺す気で斬った。一寸の勝機も与えず、遊びも手抜かりも入れていない。かわせる道理は皆無だった。
 この男はもう死んでいなければいけないのだ。それが自然の摂理なのだ。
 だのに何故、奴は生きていて、あまつさえ五体満足で仁王立ちなどという威厳を持った振る舞いでいられるのか。


「何を……した……。どうやって……あの技を……かわしたというのだ……」

 疼く蟀谷の頭痛に六の眼が締め付けられる。
 驚愕と動揺を、今度は黒死牟が味わう番だった。
 理が狂う音が頭蓋の中でけたたましく鳴っている。忘れかけていた火が再び胃の腑を灼く。

「……かわしてねェ!! 耐えたんだ!!」

 べん、と琵琶を弾く音色が聞こえた。
 そんな気がするほど爽やかで簡潔な答えを、おでんは告げた。
 惚けてるつもりかと訝しむが、埃が完全に去ったおでんを見れば、たちまち疑念が解消された。

 血に濡れた全身。
 足元に水たまりが出来る量の失血。
 何処の箇所を見渡しても横線が入って、逆に斬られてない部位を探す方が億劫になる。
 傍目に見れば、満身創痍そのもの。
 立ち尽くしたまま息絶えていると聞けば、その通りだと納得して呑んでしまうような死に体だった。

 回避しなかった事が虚言ではなく事実だとは分かった。
 では耐えたとは何だ。それは文字通りか。
 上弦の撃ち放った斬撃をもろに喰らい、全身を切り刻まれながら、生き永らえたとでもいうのか。

 回転式の鋸のように細かく裁断する蘿月の傷は無い。
 刃を重ねて集約した蘿月よりは、範囲を拡大させて散らしている月映えの方がまだ殺傷力は劣る。
 より重傷となる技を防ぐのに専心し、残りは自らの体力に託して受ける選択をしたというのか。
 かの天元の花、武蔵ですらこんな、奇抜が一周回って正道に見える錯覚を起こす道は進むまい。
 斬撃を骨から先に届かせない肉の厚みと、そこに被せる覇気の鎧への自信。
 何より、迫り来る刃を怯まず受け入れる気構えがなければ、到底実現し得ない。
 最早胆力で言い表せる話ではない。武士の遣り取りではなく博打に手を出す気狂いの行いだ。
 そんな狂した真似で、己の必殺を覆されたのか。指の一本も奪えず、死に瀕していてもなお笑ってみせる男に。
 頭がどうにかなりそうだった。有り得ない不条理を見せられている。


「……しかし、なんだよお前。もう十分強ェじゃねェか」

 肌の色を朱にして、おでんは口を開く。
 皮肉のない、称賛だった。黒死牟の強さに、練武に、心底感服致したと腹を見せる。

「そんなになっても、それだけ積んでも、また足りないってのか。
 そこまでして勝ちてェのかよ、縁壱に」

 礼賛には靡きもしなかった黒死牟の心境が荒れ狂う。
 その名を口に出すな。お前がその名を口にするな。
 あの女剣士のように、縁壱のように、お前も私を憐れむのか。
 化物になってでも勝ちたいと、強く在らねばならぬと邁進する道が間違いだと。



「凄ェな」


 短く。一言。

「おれはもう、あいつの剣を見たらひと目で惚れ込んじまったからよ。そういう気持ちは湧かなかったんだ。
 でもお前、兄貴なんだろ。あれをずっと見てきて、諦めも腐りもせずに鍛え続けたんだろうよ。
 そいつは誰にも出来るもんじゃねェ。それだけは認めてやらにゃあな」

 言祝ぐ賞美は強さではなく、傑出した身内を追い続けた登攀への労いだった。

「まあ、近くで見てると、あいつもけっこう抜けてるからな! 意外と傍にいなくちゃ危なっかしいとか思ってたか? 
 俺もよ、まだ予選の頃に公園で茶しばいてた時、子供連れで遊んでる夫婦をのほほんとしながら見ていてよ。どうしたって聞いたら『この世界はありとあらゆるものが美しい。そこで幸せに暮らす人を見てるだけでこちらまで嬉しくなる。お前もそう思わないか』って言うんだよ。
 いや菩薩かよ! 頭までお日さまなのか!? とか軽く引いちまったぜあれは」

 豪放に磊落に、酒のあての話でも披露しているように大笑いをする。
 笑い話、のつもりなのだ。鮮烈過ぎる強さだけが先行して掠れてしまう、縁壱の人の顔の素朴ぶりを、笑うに相応しい面白さだと。
 ひとしきり笑ったと思ったら、おでんは一点して表情を厳しくして黒死牟を見据え。



「だからよ、おれには分からねェ。
 そこまで凄い弟を、なんでお前は褒めてやらなかったんだよ」



「─────────────」

 理解を判じかねる事象は幾度と経験したが。
 理解を放棄する空白に、黒死牟は初めて直面した。

「凧揚げでも独楽でも一緒に遊んでやればよかったじゃねェか。
 一緒に轡を並べて戦えるのを誇ってやればよかったじゃねェか。
 のっぴきならねェ事情があって、離れ離れになっちまっても、たまに会いに来て、でかくなったなとか、流石おれの弟だなって、肩を抱いて酒を酌み交わせばよかったじゃねェか!」

 人間と鬼との戦いの歴史の深さも。
 因習蔓延る武家のしきたりも。
 鬼狩りを裏切って鬼に与した、怨恨の背景にも。
 おでんにはどうでもよかった。心底、本当にどうでもよかった。
 おでんが許せないのはたったひとつだった。黒死牟を怒るのは理由はそれだけだった。



「あいつは!! お前に!! ずっとそうしてほしかったんだぞ!!」


 これはただ、友が為の喝破だ。
 友を悲しませた兄の不甲斐なさへの咆哮だ。
 深い話は知らない。細かい事情を把握せず、伝え聞いた兄弟間への諍いに、たまさか縁を結んだという理由だけで襖を開けて押し入った。
 くだらなく、お節介で、傍迷惑限りない理由が、おでんという侠(おとこ)を突き動かしていた。
 そんな矮小な動機で命を張れるのが、光月おでんという侍(おとこ)なのだ。



 一方の黒死牟は、只々唖然とする他に何も出来なかった。
 何を言っている。 何を知った口で怒鳴り散らしている。
 縁壱が自分からの施しを求めていたなどと、想像しただけで怖気が走る程たちの悪い冗談だ。
 話の筋道が立ってない。まるで酔漢の暴言だ。

 縁壱も、武蔵も、おでんも。
 誰も彼もが口を揃えて言う。後ろを振り返って、落としてきたものを顧みろと指を差す。
 落としてきたのではない。捨てたのだ。強さ以外の尽くは余分な荷物だ。
 家も、妻子も、同胞も、子孫も。手に入れる為には持ち得る全てをかなぐり捨てた。
 人の時代が何だというのだ。今より弱く、燃え尽きる有限の命を抱えた身に後悔の念などあるものか。
 拾う価値など、残るものなど何も、



 ─いただいたこの笛を兄上だと思って、どれだけ離れていても、挫けず日々精進致します─



 ─お労しや。兄上─





─心が……どこにもいけないままだと…………命も……どこにもいけないから……─





 脳漿をぶち撒ける悪寒。
 灼熱が精神を火達磨に変える。
 捨てた筈の懐古が、忘却した筈の歌が強襲する。

 考えるな。考えれば敗ける。またあの敗北を繰り返す。
 惨めで、無様で、何も手に入らず何も残せない、この世に生まれた意味を見いだせない終わりが待ち受ける。
 そんなのは二度と御免だ。これは屈辱を払拭する為の闘争だ。二の轍を踏めば、それこそ何の為の現界だ。

 だから斬れ。殺せ。 
 路傍の石を投げつけてくる不遜者に向けて刀をかざせ。
 死者は、言葉を残さない。何もしてこない。

 咽を斬って口を噤ませろ。
 肺を裂いて呼吸をさせるな。
 これ以上、奴に何も言わせるな……!


 中断されていた剣戟の再開に、たちまち空気は戦場へと立ち戻る。
 以前と異なり、攻め手に回るは黒死牟
 枝葉に分かれた奇刀を手首で回せば、蘭と光る月が舞う。
 月の呼吸を名付けられた、今は既に血鬼術の枠組みに含まれた月輪の雨の威力は先刻通り。長大化した刀に準じて、総量も密集具合も段違いに向上している。
 狂宴乱るる凶月を囲いながら、己もまた前進。長刀と遠距離斬撃によるリーチの利点を捨てたと思いがちだが、脅威度はこちらが倍増しだ。
 外から撃ち続けるだけで済むなら、避ければその場は助かる。間合いを離したままの一方的に掃射、避ける事のみを考えていればひとまず命は繋がる。
 勝機は一生回らないが、即死の可能性はほんの少しだが薄れる。
 その力場を全身に纏った状態からの接近戦。こちらこそが真の悪夢だ。
 長刀故の小回りの利かなさ等ものともしない。人外の膂力と感覚は、元の刀以上の剣速と精妙さを両立する。


「───”全・集・中”!!」

 雄叫びを上げ、正面にて突っ込むおでん。
 使うは全集中の呼吸。生兵法を咎められても、躊躇せず体を作り変える
 猪突猛進の諺のまま、負傷を無いものと扱い向かい合う。事実気迫はこれまで以上に膨れ上がってる。
 負けられない戦いで失策してしまったのはおでんとて同じだ。情と義に悖るを絶対に良しとしない信念は、時に勝利から遠ざかる選択を取らなくてはならなくなる。
 かつておでんはそれをしてしまった。寡兵にて大軍を相手取った大立ち回り。大将首を取る事のみが唯一の勝利条件。
 確かに倒せる状況まで持ち込んだにも関わらず、息子の偽物を囚われた狂言に引っかかり、勝機を逸してしまった。
 敵の策が一枚上手だっただけであって、恨みはないし、あそこで息子を見殺しにして遂げた本懐に、自分は納得しなかっただろう。
 真逆の立場、預かり知らぬ騙し討ちで勝ってしまったカイドウとて同じ思いだったろうと、宿敵の心境を慮る気持ちすらある。
 後悔はない。だが無念ではある。
 続く先の未来を見据えていたとはいえ、その間に民は飢え苦しみ続ける。己がしくじらなければそれが最上なのは違いなかった。
 思いの質と戦いの結末は、必ずも一致しない。死者の身であるおでんは世界のままならさを、人一倍知っている。  

 だからこそ。
 信念と勝利が重なった時の強さも、この上なく知っている。
 聖杯の真偽も、カイドウとの決着も、今だけは頭にない。
 異世界で知り合った友の苦悩を振り払う。これだけが戦う根源。
 サーヴァント。死者の霊魂。千の理屈を論ったところで、友を守るひとつの理由が勝る。
 多少鬱陶しがられようとも、おでんは縁壱を友と認め、戦うと決めた。それが全てだ。 

「休憩も終わりだ。喧嘩の再開と行こうぜ、バカ兄貴───!」

 最初の述べた通りだ。
 これは試合でも戦争でもなかった。
 始めから、この戦いはその程度の諍いだったのだ。


 ───激突する武器と武器。覇気と殺気がぶつかり合う。
 最早互いに惑わす事も、探り合う事もない。
 より短絡にして苛烈。愚直にして凄絶な、真っ向きっての力と力の正面衝突。
 より速く、より重く。おでんも黒死牟も、相手の一撃を凌駕する会心の一撃を追い求めて、ただひたすらに刃を趨らせ交錯させる猛烈なる攻め技の応酬が繰り広げられる。

 絡み合う月牙と黒刀が鎬を削る火花が、百花繚乱と狂い咲く。
 共に超逸の力と速さで駆使される必殺の武具に、音が追いつけず、空気が逆らえない。
 観測が意味を失う領域の瀬戸際で極限の冴えを競い合っていた。


”何だ……?”

 違和感の発端は、百を超える打ち合いを交わしてから。
 今の黒死牟は全ての技を攻撃面に割り振ってある。最長の刀を寸分のブレなく振り、追従する月輪も最大展開。
 斬撃の回数は一度で百回以上。それを百合重ねていながら───半死人の首ひとつ刎ねられていない現状。
 自身の太刀筋が鈍ってるわけもない。原因は受けて立つおでんの体の、ある変化だ。

“呼吸の乱れが、収まりつつある……?“

 型を使う度に、おでんの体内は震動していた。急激すぎる血の巡りに心臓他、組織が軒並み追いついてない為だ。
 長年熟成された肉体が、呼吸に馴染めず齟齬で暴れ、技を使う度に精細を欠いていた。
 なのに今は乱れが軽い。先ほどとは見違えるようだ。
 心臓の鼓動こそ尋常でない勢いだが、肺も筋肉も潰れていない。脈動に順応している。

“まさか覚えているとでもいうのか。戦いの最中で“

 歴戦の侍、覇王の器を備えたおでんが、こうまで呼吸術に振り回されていた理由。
 素養不足、適正違いから来るものではなく、偏に経験不足にある。
 如何な名刀といえど、初めて握る武器を手の延長のように自在に扱う事は困難を極める。
 現におでんの愛刀の閻魔は、持ち主の覇気を無尽蔵に奪い尽くし、たちまち干からびさせる妖刀の側面を持っている。
 武蔵との手合わせは軽い戯れ合いで、要領を掴む練習にこそなったが、本格的に用いるのはこれが最初。
 使い慣れない武器を、それも一流の剣士相手にぶっつけ本番で試そうと目論んだおでんの無鉄砲さを責めるべき案件だ。

「やっぱ鍛錬は実戦に限るなァ! 漸く見えてきたぜ、お前の技が!
 空一面の三日月たァ随分と洒落てやがる! 酒があれば進みそうだ!」

 生死の境に立った壇上で、笑い上げながら驚愕の台詞。
 見えている。月の呼吸、不可視の力場の輪郭を。
 見聞色という、千里眼に分類される素質の片鱗のあるおでんであれば、初見ならともかくここまで目にすれば差して不可能な芸当でもなかった。
 見れなかったのは呼吸の制御に覇気を回す余裕がなかったから。それが払拭され、おでんは黒死牟と同じ世界に迫りつつある。

 おでんの体は間違いなく重体の筈だ。
 筋肉を引き絞り出血は食い止めてあるが、次に息を抜けば一斉に開いてしまう。さしものおでんもこれ以上の失血は限界だ。
 対する黒死牟は全くの無傷。防御を捨てた今、数回耳や腕を掠めていくがその程度。鬼の急所たる頸を除く傷は瞬きひとつで修復する。
 実力が拮抗しても、体力の差で勝ち越せる。鬼と人の種族差が、そのまま勝敗の明暗だ。
 一撃だ。たった一太刀を新たに刻むだけで決着はつく。血を失いによる意識の朦朧ですぐに戦えなくなる。


 馬鹿な。そう思って傷を増やして何度目になると、軟弱な意思を叩く。
 もう止まらない。おでんはこの喧嘩が終わるまで、もう腕が止まりはしない。
 この一戦で全てを出し尽くしてもいいと覚悟を決めた人間は、頸を断ち、心臓を突き刺さない限りは戦いを止めないと、既に認めてしまっていた。

 終わりのない戦嵐刀勢の渦中で振るい続けられる白黒の軌跡。
 常人は無論、達人の目でさえ視認不可能にまで達した死闘。
 永遠にも思える時間回り続ける演武。その、嵐の中で。

”まだ……疾くなる──────!?”

 少しずつ。 
 少しずつ。
 じりじりと詰め寄られる。
 ゆっくりと緩慢に、だが確実におでんの剣刃が黒死牟の戦輪を弾く頻度が勝っていく。

 もっと月輪を出す。無理だ。既に全力を投じている。
 退避。防御。思考に置いた途端均衡を持ってかれる。
 おでんの傷も、一秒を刻む間に増えている。防御を捨て攻撃に全振りしているのはおでんも同じだ。
 息切れするのがどちらかなのは言うまでもない。あと少し膠着を維持出来ればいい。
 だが───出来なければ?
 その時、傾く天秤の行方は、いったい何方を指すのか。 

 孤剣を相手に降りかかる窮地。
 敗北という名の底なし沼が足首まで飲み込む。
 逃げる場所はない。言い訳は無用。人の剣に、真正面から押され、鬼が屈しつつある。
 負け。死。二度ならず三度目までも敗れ去る最期が、己の末路。


”いいや───────────────”



 瀕死の相手に追い詰められ、残す手が無いと認識し。
 鬼は、手元に握られた最後の矜持すらも、濁った溝の底に投げ捨てた。



「まだだ………!!」



 怨嗟に満ちた絶叫。
 地の底まで響く執念は、地獄の亡者にこそ相応しい毒色に濡れている。
 決死の嘶きに呼応した鬼の体が霊基を変容させる。

 あと少しで頸に届くまで肉薄したおでんが、至近距離で爆発と見紛う強風に引き剥がされる。
 直後に右腕をなぞる刀傷。失血死を当然のように乗り越えておでんの視線は前のみを見る。
 黒死牟を中心に巻き起こった突風
 より正確には、起きたのは黒死牟の左腕。刀を離した空の手の甲。
 そこから。

「ま……刀が伸びるんだ。生やすのだって出来らァな」

 侍の姿にはない凶器が伸びている。
 敵を殺す執着のみで形作られたような、魔物の蔦。
 鉤爪の要領で伸びた刀身に張り付いた目玉が、ぞろりとおでんを凝視する。


 夥しい目線を基点に束になって放たれる斬撃を、おでんは絶妙にいなす。
 奇襲には面食らったが威力は以前と変わらない。いちいち驚きもせず打ち払って見せる。
 払って見せて────その間に変容を終えた黒死牟の姿に、思わす突っ込まざるを得なかった。

「オイオイオイオイ……それは多すぎだろォが!!」


 ……控えめに言えば、生花を刺す剣山を想起させた。
 あるいは、百年の樹齢に至った古い大木のよう。
 そして包み隠さない事実を列挙すれば、戦に敗れ、農民の落人狩りに遭い、全身に刃を突き刺された落ち武者の死体だった。 
 刺しているのではなく、生えているとして、武士の誇りも垣間見えない凋落に何の違いがあろうか。

 刀を振るという、最低限の剣の体裁さえ失くした剣は、一本一本が力場の発生器である『装置』だ。
 一行程の動作すら消失し、ただ念ずるだけで周囲は斬られる図は、見る者には神通力を使用したと思わせる。
 『見えぬ斬撃を放った剣士』とは、誰も浮かべはしない。
 それを恥じ入る誇りは泥で曇っている。御姿を映す鏡はあまりにも遠い。
 悔やむ心は踏み潰した。血でぬかるんだ地面で野ざらしに転がっている。

 全身の剣林から響く甲高い奇声。
 それこそは終幕を知らせる総攻撃。全ての刃から一斉に解放する蹂躙の合図。 
 型は名付けられない。真の鬼は戦いを彩る名を持たない。
 技も理も含まれない、純粋単純な生態機能。彼が頭を垂れ洗礼を施した始祖がそうしたように。
 華の枯れた、味気のない暴力が、滅尽滅相の帳を落とす。

 ……これが、光の亡者の姿。
 神々の寵愛を一身に受けた、太陽の如き光に目を灼かれて、それ以外が入らなくなってしまった執着の果て。
 亡者に現世の心は届かない。囚われた対象そのものの言葉でさえ、より呪いを深刻に深めるだけ。
 脳裏に焼き付いた理想に溺れ息を止めるまで、生者を犠牲にして喰らい続ける。 


「そうじゃねェだろ……バカ野郎がァ!!!」

 そうはさせじと、異を唱える声がひとつ。 
 なんでそうなるんだと、怒鳴りつける。
 友の次は、現在進行系で殺し合う敵対者へ。おでんはずっと怒りっぱなしだ。 
 始原はともかくとして、あれは見事な剣士だったのだ。
 力を使い、操る技を磨く。剣気を飛ばすのも立派な戦術。おでんは剣士でないとは否定しない。
 その方法が人喰らいであるのについては色々問題だが、唸るほどに強かった。一度の戦いで何度も煮え湯を飲まされた。
 気に食わない面も多々あるにせよ、黒死牟という士を、得難い好敵手だと思い始めてたのだ。

 それがどうだ。
 少し敗北に近づけて追いついただけでこの慌てよう。
 まだ勝負は分からなかった。あのまま攻め続けていれば自分の方が力尽きていた可能性だって十分あった。
 それなのにどうして、自分の可能性を、勝利の渇望を、此処ぞという時に信じてやれないのか。

「”おでんの呼吸 捌ノ具材”」

 横溢する怒りの覇気。
 終焉となれば是非もなし。こちらも最大の威力で応えるべし。
 そしてこのどうしようもない、つける薬のないバカ兄貴の目を覚まさせる。
 己がそうしたいが為。縁壱の為。そして道を見失ってる、男本人の為にも。 

 力場は、とうに斬撃の体を成していなかった。
 集まり固まった月輪は互いが互いを噛み、溶け合って、虫が抜ける網目もない巨大な壁に変貌している。
 さながら、渓谷の大瀑布。大自然の果断なき猛威。
 世界の広さを知る為に大海へ漕ぎ出す夢を見た男の最期を飾るには出来すぎた土産。

 ……否。
 その夢は、もう叶えた。
 見果てぬ夢に潰えるならともかく、踏破した残骸に潰されて死ぬは御免被る。

「”仙境草那藝(せんきょうくさなぎ)”!!!」

 ───故に、これは当然の帰結。
 三連振るわれる黒刀の横一線が禍津を祓う。
 一撃が壁にぶつかり全身を阻み、次撃が先行した刃を押し込んで亀裂を入れて、最後の斬撃が駄目押しに突き出し、絶望の壁がこじ開けられる。
 汎人類史の歴史に曰く、受難の度を背負う聖者は祈りを捧げて大海を割り路を作ったという。
 祈りなく信仰なく、だが思いだけは劣らず込もった力づくで、おでんは伝説を再現した。

 割れた壁面を抜ける黒刃が黒死牟に届く。
 三発あったうちの二つは壁の崩壊に消費され、残る一つも勢いを減じてる。
 輪唱を再動する。撃ち落とすは容易い。この距離では趨勢を覆す技は届かない。
 力を使い切り、動けなくなるまで幾らでも撃ち込んでやろう。


 委細承知。 
 撃たせるものかよ。


「”おでんの呼吸 玖ノ具材”」


 壁破りで穿たれた穴を駆ける、四発目の斬撃。人の形をした生ける刀。
 黒刃の後ろにぴたりとつき、黒死牟の死角に潜ったおでんが、至大至極の一閃を抜き放つ。 


「”蓬莱都牟刈(ほうらいつむがり)”!!!」


 龍を裂く極剣。 
 乾坤一擲の大上段振り下ろしが、遂に鬼の命脈を捉える。
 輪唱を中途で使い、即席の盾にした力場が紙細工のように割断され。
 割り込ませた長刀も中程を叩き折られ。
 地獄の王を冠する刀が、黒死牟の体に吸い込まれていった。


 ■


 ───半分に割れた月が見下ろしている。

 三日月をさらに半分に割ったような、おかしな形状をしていた。
 暦を読む中で、こんな珍妙な月を見た記憶はない。
 やけにぼんやりとした思考で月を眺めてる。
 何かおかしい。月どころか見える景色も半分だ。様子を確かめようとまさぐろうにも腕すら感覚がない。
 そこまでして漸く、己の顔が断たれている状態であるのだと、理解が追いついた。

 混線する記憶を手繰り、必死に直前の光景を思い出そうとする。
 聖杯戦争で同じく英霊として召喚された縁壱と邂逅し、その主たる侍に勝負を挑まれて……
 顛末の全てを思い出すと同時に、屈辱と憤怒とが堰を切ったように押し寄せる。

 斬られた。
 剣術で上回れ、血鬼術での力押しも敵わずに、脳天からの直撃をもろに貰った。
 体の中心に引かれた正中線のあたりを、真っ向から唐竹割りにされている。
 全てを出し切り、それでも倒せず敗れた。申し開きの余地もない完敗だった。

 思考が叶ってるのは鬼の不死性ゆえだ。
 頸を斬り飛ばされない限り、不滅の命は消え去らない。
 頸はまだ辛うじて繋がってる。
 半分は泣き別れになったが、別状はない。
 もっとも完璧に近い生命の原液は、ものの数秒で戦闘可能な形にまで逆回す。


 ああ、ならば───つまり、まだ、負けてはいない。


 そうだ。まだだ。
 まだ終わっていない。まだ戦える。
 殺されず、頸も断たれていないのなら、敗北じゃない。戦える限り己は勝つ。勝たなければいけない。
 すぐに再生しろ。手足を復元し手に剣を握れ。立ち上がって奴の心臓に突き立てろ。
 いつもなら即刻に元の形に戻れるのに、いやに時間のかかる。あの剣のせいか。契約者の不足か。
 手を揉んで再生を待ちながら、用を為す目で敵の位置を探し求め立ち上がると、探しものは下に寝転んでいた。

 光月おでんと名乗っていた侍が、地面に仰臥している。
 滅多斬りにされた傷は我が手でつけておきながら実に痛々しく、これでどうして生きているのか、英霊でもない人間なのか疑わしく感じてしまう。
 そう、侍は生きていた。豪快にいびきを鳴らし、鼻提灯を膨らませて呑気に寝入っている。
 傷口は塞がっている。全集中の常中の賜物か、このまま死する事にはならなさそうだ。
 馬鹿げた体力から換算すれば、一刻も眠っていれば普通に動くぐらいには回復するだろう。
 尤も────そんな未来を与えてやる気は毛頭ないが。

 直した刀を番え、喉元に突きつける。 
 結局は、こうなるのだ。人が単騎で鬼と、英霊とかち合えば自然、こうなる。
 最後の最後で根性の塊のような男は根負けした。己は競り合いに勝ったのだ。  
 あとはこのまま頸を斬り飛ばせば、勝利は我がものとなる。
 魂が砕けたかと思う裂帛の気合をこの身に打ち込んで、無防備になった侍の頸を。

「…………」

 侍の振る舞いか? これが……。
 卑怯な真似をせず、真っ向から立ち向かい、王道を突き進んだ結果地に背を着かせた相手を、気を失ってる間に野盗じみた手で姑息に息の根を止める。


 これが─────────こんなものが───────────勝利か?


 三畳分の先に立つ先に、別の気配を感じて身構える。
 佇んでいたのは、侍の従者。己と同じ容姿の弟。
 何もせずその場で立ち尽くす縁壱は、何処か哀しげな目でこちらを見据えている。

「縁壱……」

 いつから見ていたのか。
 どの時点から縁壱がこの場にいたか、不覚にも気づかなかった。
 常に妬みの象徴として内面に居座っていた男を忘れる程、あの男との戦いに熱中していたのか。
 予期せぬ動揺に困惑し目を逸らす。すると視界の隅で走った光に目を吸い寄せられる。
 突き立てられた一振りの刀。紫色をした、一瞥してまたとなき名刀と分かる拵えをしている。
 戦いの際は何某かの術で黒く硬化していた刀身は、麗美な抜き身を露わにして鏡面の役目を果たしてる。


 ドクンと心臓が強く震えた。
 思い起こされた恐怖と、言い知れぬ悪寒に。
 蓋をしていた記憶が蘇る。内側に押し込められていた醜い怪物の手によって。

「やめろ……」

 直視してはならない。内なる声が、そう厳然と自戒する。
 いま思い出そうとする記憶を、お前は決して鮮明に描いてはいけない。思い出してはいけない。何故なら───


 英霊とは死者の再現。
 死者である以上、どんな英霊も最期の瞬間を迎えている。
 ならばこの身の死もまた、霊基という仮初の体に登録されているのだとしたら。

 頸の弱点の克服。全ての鬼の悲願の一つ。 
 生前にそれは確かに達成した。鉄球と風刃に頭部ごと潰されながら活動し、再生を果たした。
 だがそれで得た姿。蘇りの結果得たものの正体は、後生抱えた望みを腐食させる劇毒であり。

 今、俺はどんな顔をしている?
 本当に、俺は頸を斬られなかったのか?
 そうだと気づかず蘇ったのを、斬首を凌いだと勘違いしているだけではないのか?
 それに気づかず直視を避けてるからこそ、まだ自分が自分でいられるとしたら……。

「見るな……私を」

 縁壱。
 その顔は何だ。
 何故、憐れむものを見る目で俺を見る。
 今の俺は────お前にどんな風に見えているのだ?


「私は…………!」

 ああ、消える。
 月が腐る。
 私という存在が、俺という痕跡が壊れて崩れる音が耳元でした。 

 何も、何も、この手に掴めるものは無かった。あの強さを収める事など泡沫の夢だった。
 残るものは一つとてない。捨てられるものすらこの手には残っていなかった。
 ただ、空漠な虚ろがあるだけ。まるで我が人生そのものを象徴するように。
 黒死牟という英霊の霊基、魂の起源がそれであるなら、もう、軛から逃れる運命は最初から用意されてないのだろう。

 存在の価値は無かった。生まれてきた理由は皆無だった。
 此処には誰もいない。塵となり、風に乗って、何処へともなく粒子の欠片となって透明に変わる。

 伸ばした指すら溶けて行く。

 何も掴めない手は


 空を握るだけで




 落ち




    る











「ううん…………ここに…………いるよ…………」


 落ちる、筈だった。


 消えかけた指が、何かに掴まれる。
 刀の柄の硬さはまったくしない。柔く、脆い、淡い新雪を感じさせる純白の白い指。

 指と指とが触れ合って、じわりと熱がり伝わる。
 あの身を焦がす太陽の輝き。しかし熱くはない。怨毒の気配はなく、居心地の悪い生温い感触が広がっていく。

 確か、顔も名前も思い出せない誰かに、こんな風に握り返された気がする。
 まだ日の下に出られていた時代、嫉妬と怨嗟を忘れて長閑に浴びた光。

 面を上げて指の伸びる先を見る。
 其処には誰かがいた。黒髪を結わえ、額と喉元に痣を浮かばせる、浮かない顔で見返す男。
 瞳に映る鏡像は、人間だった。
 弱々しく、限られた命を嘆き、妄執を腹に溜め込んで爆発させる前の愚かな鬼狩り。
 複眼の醜男でも、みじめな死なないだけの怪物でもない、ただの継国巌勝の残像が。


「あなたの命は…………ちゃんと、ここにあります……!」


 鏡に水滴が溜まっていく。
 名前を呼んだ事すらない、価値を見出ださなかった娘が、手を繋いでいる。
 不要だとを捨ててきた欠片を、丹念に一つ一つ拾い集めて、眼の前で差し出してくる、幽谷霧子が。

 ……娘の瞳に移る己の姿は変わらない。
 実体は解れておらず、眼球揃えた刃が背を突き破りもしていない。
 三対の凶眼を貼り付けた、黒死牟と字された鬼のままだ。


「ごめんなさい……。あなたの……思い出を……わたしは知らなくて……。
 理由や価値なんて……わたしには……あげられなくて……」


 華奢な両指が掌を包む。
 握り返せば、魚の小骨と同じに容易く折れる。


「あなたのお願いに……私は……寄り添えないかも……しれないですけど……
 私なんかが……お邪魔しちゃ……いけないって思いますけど……」


 だから、筋繊維一本も動かせない。
 この声が、途絶えてしまうから。


「お日さまにも……お月さまにも……いてほしいんです……」


 腰の柄に指はかからない。
 この言葉が、絶たれてしまうから。


「私も……縁壱さんも……おでんさんも……。
 黒死牟さんに……いなくなってほしいなんて……思ってないよって……伝えたかったの……!」


 無垢なる祈りは、頑なに閉じられた急所を、事も無げに貫く。
 か細く、拙く紡がれる声には激情があった。決死さがあった。
 遍く世界を祝福する娘にあって、なおも訴えたい痛みと存在の物語。


「どんなに痛くて……ここにいることが苦しくても……わたしは見てるから……。
 あなたのための歌を……こうやって……届けられたらって……今のわたしは……すっごくそう……願うんです……」

「────────────」




 おかしい。

 こいつは、どうかしている。



 静かに感情を訴える瞳の潤みが信じられない。
 泪の理由(わけ)に、愕然とする。
 今までの苛立ちとは訳が違う。完全に理解の埒外にある生き物と遭遇してしまったかのような、恐怖にも等しい感情が波打つ。

 生きていたいが為に守りが必要なら傍らの縁壱に頼めばいい。二つ返事で承諾し、終結まで安寧が約束される。
 それをわざわざ、人喰らう鬼にここまで心を砕いて思いを込めるなど、どうしてこんなところだけ聞き分けが悪いのか。
 そして。疑い無く娘の本音なのだと受け入れて、目障りだと斬る気になれない、自分自身が最たる異常だ。

 感謝される為でもなく、利益が欲しいからでもなく。
 ただ隣にいた誰彼に真摯に思いを送る、一点の濁りもない言霊。


 どうかしているのは、私なのか。
 それとも、今までどうかしていたのが、元に戻りつつあるのか。


「…………もう、いい…………」

  渇いた喉で。辛うじてそこまで告げる。
  指の絡みを解き振り払って、踵を返す。白貌の直視に耐えかねて。

「……でも…………」
「もう……やめろ…………」

 聞きたくなかった。
 もう限界だ。
 優しさも、慈愛も、不要だと散々嗜めたのが無駄だと分かった。
 変わらぬ結果と知って無意味に諭そうとするほど滑稽な事はない。


「私は………………………………お前が嫌いだ」


 だがら吐き捨てる。
 お前とはこれまでだと、輩になれる未来はないのだと断絶の言葉を言い渡す。
 ああ、けれど。この娘への心情を直接口にしたのはこれが初めてで。
 吐露してしまった後になって、年端もいかぬ小娘に躍起になってる様は、なんとも生き恥そのものであると後悔した。

「…………はい………………」

 そして、娘はいつものように薄く笑う。
 困ったような、されど日だまりの温もりを思わせる柔らかさで。
 例え拒絶でも、心の内を開き、聞かせてくれたのが嬉しいと。

 瞳を閉じ、祈る仕草で手を胸に置いた娘が、音もなく崩折れる。
 地面に投げ出されかけた体を、駆け寄った縁壱が労って受け止める。
 体力が尽きて、精神の張り詰めが切れた。最後に余った力を振り絞って、声を届けるまで耐えていた。

 契約の主の二人は落ち、立つのは私と縁壱だけ。
 邪魔者は全て消えた。巡り巡って、待ち望んだ対峙が図らずもやってくる。
 なのに……あれ程燃え狂っていた焔が、今は種火の勢いも見せずに、心は凪いでいて。

「この者らを介抱します。兄上も、ついて参りますか」

 この結末は縁壱にも予測出来なかったのか。目に見えて分かる戸惑いの面持ちで同行を促す。
 ああ、お前も、そんな顔をするのか。

「好きに……するがいい……」

 どうしても決着をつけられる雰囲気に、この場でなれる気がしなかった。
 少なくとも、あの娘の声が脳で木霊する間に剣を握るのは勘弁してくれと、心が折れたのだ。

 空を仰ぐ。相も変わらず、嘲笑の口を象った月が我々を睥睨する。
 かかる雲が僅かに晴れて、幽き笑みに変わったような、そんな気がした。






 以上を持ちまして、剣豪勝負、終幕と相成りました。
 悪鬼の宿業、両断成らず。
 しかして訪れたのは別口の奇跡。不倶戴天の敵同士が連れ合う呉越同舟。

 誰かが言った。界聖杯は可能性の集約だと。
 あらゆる世界を浚ってかき集めた、可能性持つ者のみが、マスターという挑戦者の資格を有すると。
 鬼と鬼狩りのきょうだいが伴う可能性。それすらも界聖杯は許容したのか。
 その可能性を呼んだマスターとは、はてさて。

 いずれにせよじきに日が跨ぎつつある。 
 最悪が災厄となって更新される。絶望は晴れず、地平の向こうに朝日は見えず。
 けれど煌々と夜を照らす月に免じて、せめて短くともよい夢が訪れんことを、細やかながらに願って。

 今宵は、此れにてお開き。


【新宿区・新宿御苑避難所の郊外・の更に奥/一日目・夜(未明に近い)】

幽谷霧子@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:健康、お日さま、おやすみ
[令呪]:残り二画
[装備]:包帯
[道具]:咲耶の遺書、携帯(破損)
[所持金]:アイドルとしての蓄えあり。TVにも出る機会の多い売れっ子なのでそこそこある。
[思考・状況]
基本方針:もういない人と、まだ生きている人と、『生きたい人』の願いに向き合いながら、生き残る。
0:あなたが……そこにいてくれるだけで……今は……
1:色んな世界のお話を、セイバーさんに聞かせたいな……。
2:病院のお手伝いも、できる時にしなきゃ……
3:包帯の下にプロデューサーさんの名前が書いてあるの……ばれちゃったかな……?
4:摩美々ちゃんと一緒に、咲耶さんのことを……恋鐘ちゃんや結華ちゃんに伝えてあげたいな……
[備考]
※皮下医院の病院寮で暮らしています。
※"SHHisがW.I.N.G.に優勝した世界"からの参戦です。いわゆる公式に近い。
 はづきさんは健在ですし、プロデューサーも現役です。


【セイバー(黒死牟)@鬼滅の刃】
[状態]:健康、生き恥
[装備]:虚哭神去
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:不明
0:呪いは解けず。されと月の翳りは今はない。
1:私は、お前達が嫌いだ……。
[備考]
※鬼同士の情報共有の要領でマスターと感覚を共有できます。交感には互いの同意が必要です。
 記憶・精神の共有は黒死牟の方から拒否しています。


光月おでん@ONE PIECE】
[状態]:全身滅多斬り、出血多量(いずれも回復中)、爆睡、呼吸術習得
[令呪]:残り二画
[装備]:なし
[道具]:二刀『天羽々斬』『閻魔』(いずれも布で包んで隠している)
[所持金]:数万円程度(手伝いや日雇いを繰り返してそれなりに稼いでいる)
[思考・状況]
基本方針:界聖杯―――その全貌、見極めさせてもらう。
0:Zzz……
1:他の主従と接触し、その在り方を確かめたい。戦う意思を持つ相手ならば応じる。
2:界聖杯へと辿り着く術を探す。が――
3:カイドウを討つ。それがおれの現界の意味と確信した。
4:ヤマトの世界は認められない。次に会ったら決着を着ける
5:何なんだあのセイバー(武蔵)! とんでもねェ女だな!!
6:あの変態野郎(クロサワ)は今度会った時にぶちのめしてやる!
7:あさひ坊のことが心配。頃合を見て戻りたい
[備考]
古手梨花&セイバー(宮本武蔵)の主従から、ライダー(アシュレイ・ホライゾン)の計画について軽く聞きました。
※「青い龍の目撃情報」からカイドウの存在を直感しました。
※アヴェンジャー(デッドプール)の電話番号を知りました。
※廃屋に神戸あさひに向けた書き置きを残してきました。
※全集中の呼吸を習得してました。

【セイバー(継国縁壱)@鬼滅の刃】
[状態]:疲労(中)、全身各所に切り傷や擦過傷(いずれも小程度)
[装備]:日輪刀
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:為すべきことを為す。
0:今はただ、この月の下で兄と共に。
1:光月おでんに従う。
2:他の主従と対峙し、その在り方を見極める。
3:もしもこの直感が錯覚でないのなら。その時は。
4:凄腕の女剣士(宮本武蔵)とも、いずれ相見えるかもしれない。
[備考]
※鬼、ひいては鬼舞辻無惨の存在を微弱ながら感じています。
気配を辿るようなことは出来ません。現状、単なる直感です。



時系列順


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セイバー(黒死牟
097:光月譚・桃源 光月おでん 107:向月譚・弥終
セイバー(継国縁壱

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最終更新:2022年04月16日 23:09