これは何の夢なのかと鬼はふと思った。
口に出すことはしない。
答えを求めていたわけではなかったからだ。
それによしんば答えが返ってきてしまえば、ようやく落ち着き始めた調子をまたも狂わされることになるのは見えていた。
安らいだ寝息を立てて眠る要石の娘。
それとは対照的にガーガーと大いびきを掻いて眠りこける二刀流の破天荒。
どちらも
黒死牟にとっては決して好ましい相手ではなかったが。
なのに剣を振るう気はおろか、握る気すら湧いてこないのは。
やはり先の勝負で敗けたのは己の方なのだろうと、鬼…黒死牟にそう思わせるに足る空白だった。
“剣を握り三百余年。あの地獄で苛まれ続けた時を含めれば……更にその数倍”
思えばあまりに長い時間を剣に費やしてきた。
物心付いた頃には既に剣は己の近くにあった。
人であることを止めてもまだ剣を握り続けた。
地獄の炎に焼かれながらも、心の中の刃だけは置かずにいた。
ならば当然サーヴァントになっても刀を手放すことなどなく。
悪鬼、黒死牟として刃を振るい続けた。
振るい、振るい、振るい、振るい…。
そうして己の内の妄執を燃料に血の通わない躰を動かし続けて。
侍の誉れも誇りもまるでない異形の刀のみを寄る辺として戦い続けた――その結果がこれだ。
その顛末がこれだ。
あれほどまでに魂を焦がした炎は無様にも凪ぎ。
ああも執着した弟が傍にいるというのに刀の柄すら握らず。
人倫から解き放たれた己(おに)の行方を鬱陶しくも遮ろうとする少女のその微睡みを引き裂けず。
一騎討ちの剣豪勝負で討ち果たせなかった人間のいびきを黙って聞いている始末。
“……我が刃も……遂に、錆びたか………”
なんと情けない有様か。
地獄での長い懲罰は魂の在り様までもを腑抜けにさせたか。
そう嘆かわしく思う感情はありながらも、しかしそれは黒死牟の裡を焦がす炎を再び呼び起こしてはくれなかった。
人間の頃以来ついぞ感じることのなかったであろう心の静寂。
これを安らぎだと認識出来ないのは黒死牟という鬼にとっての最後の一線なのか。
或いは其処こそが黒死牟と■■■■を隔てる境界線であったのか…その真なるところまでは定かでないが。
“弟を超える悲願は叶わず。それどころか…”
主と認めて傅いたあのお方への忠誠も貫けない。
何もかもが宙吊りのままに終わる無様。
それを恥じずにいられるほど黒死牟は無慙無愧にはなれなかった。
彼にもしもそのくらいの大雑把さがあれば、そもそも人を辞めてまで弟に固執することもなかっただろう。
絶対の存在として膝を折り忠を誓ったあのお方。
彼が今の己を見たなら青筋を立てて罵倒するだろうという確信があった。
果たしてこの地にあのお方は存在しておられるのか。
己と同じく時空の果てから呼び寄せられているのか――そこまで考えて。
「……………………、……………………」
――違和感を、抱いた。
今まで滞りなく噛み合っていた歯車がズレた。
精密な絡繰を構成していた螺子の一本が外れた。
そんな違和感を前に黒死牟は胸中の声までを沈黙させる。
何だ。私は今、何を忘却(わす)れている……?
眉根を寄せて六眼を怪訝の色に染める黒死牟。
そんな彼の疑問に答えを与えたのは、やはりというべきか"彼"であった。
「兄上」
「…何だ」
「一つ。お聞きしたいことがございます」
「……何だ、と私は言った……」
「この問いを兄上に投げかけること。そこに決して他意はないことを…踏まえた上で聞いていただきたい」
黒死牟がそれを知ればきっと憤ったろうが。
縁壱は今、兄との会話を全くの手探りで行っていた。
兄が鬼と成り果てたことを知っても縁壱は彼への親愛を捨てなかった。
しかし縁壱は、最後の邂逅を果たす権利を得てもなお彼を救えなかった。
慈悲を以って終わらせてやることすら出来なかった。
その頸を切り裂くことは出来たが、そこが限界だった。
それまでだった。
継国縁壱は所詮そこまでの男だった。
そのことは英霊となった縁壱の霊基にもしっかりと傷となって刻み込まれていたようで。
そしてだからこそ彼は今…夢物語のように舞い降りた生前果たせなかった結末に当惑している。
少なからず、動揺している。
兄が刀を納めて自分と同じ道を進んでくれるという事態に――真実、魂の底から望んでいた筈の未来がこうして目前にあることに。
らしくない戸惑いを抱かずにはいられない。
それが今の縁壱だった。
そしてその彼が兄に問うたこと。それは……
「兄上は――覚えておられますか。貴方を鬼へと変えた男の名を」
忘れられる筈などない。
そもそも忘れる道理がない。
嘗めているのか、嘲笑っているのかと憤られても文句は言えないだろう稚拙な問いかけだ。
かつて人間だった己を魔道に導いた鬼の始祖。
忘れるべくもない。
人を辞めて膝を折り忠を誓った相手の名を忘れるなど、言語道断の不忠であろう。
そして…だからこそ。
「…………な、に?」
黒死牟はこの時心の底から驚愕した。
そうするしかなかったからだ。
何故なら今の今まで、縁壱からその名を出されるまで。
黒死牟は…十二鬼月が筆頭であった筈の"上弦の壱"は。
■■■■■というその名を――完膚なきまでに忘却していたのだから。
「やはり…でしたか」
「縁壱……答えろ、お前は……何故、私が………あの方の名を忘れていると、思った…………」
「私も、思い出せなくなりつつあるのです」
そう言って縁壱は自分の右手に視線を落とす。
その視線の意味は黒死牟にも分かった。
かつてあのお方を斬った腕。
最強不変の鬼を膾切りにした神の腕(かいな)。
「記憶が、まるで霞が掛かったように茫洋としていく。
時を経る毎に確実に…何としてでも討ち果さねばならぬと誓ったあれの存在が抜け落ちていくのです。
今や私も――」
奴の名を思い出せない。
と、弟は言う。
それに対して黒死牟は何も言えなかった。
彼もまた同じだったからだ。
同じ。そう、同じだ。
人の世と袂を分かって頭を垂れた主。
鬼の始祖たるあのお方の名を思い出せない。
「私は…この東京に奴がいることを確信しておりました。兄上は如何でしたか」
「………………」
予感していたと言えば語弊があろう。
黒死牟はその可能性に思い至りながら目を背けていた。
しかし今となってはそうすることにも意味はあるまい。
彼は彼で、縁壱と同じように――この時既に悟っていたからだ。
■■■■■――(
鬼舞辻無惨)。
我ら鬼の絶対にして永遠の始祖たる"あのお方"が、この地で敗死を喫したことを。
「……その可能性には、思い当たっていた……が…………」
「であれば最早疑う余地はないでしょう」
「私も……同じ、考えだ………。俄には……信じ難いが……」
「私とて同じです、兄上。私は…奴を今度こそこの手で滅ぼすことこそが、この現界における使命であると高を括っておりました」
かの者がどうやら滅ぼされたらしい事への驚きは縁壱も黒死牟も一緒だった。
かの者が鬼の中で絶対とされていた理由は、何も無惨が最初の鬼だったからというだけではない。
全ての鬼を常に支配し生殺与奪を掌握する絶対の王権。
そして誰もに恭順を選ばされるだけの圧倒的な力。
縁壱をして肝を冷やしたと言わしめた次元違いの暴力。
今だからこそ至れる思考だが、己の選んだ道は酷く大きな矛盾を抱えていたのだと黒死牟は思う。
継国縁壱と鬼の始祖の間における彼我の差は既に明確に示されていた。
縁壱を超えるのだと願うのならば必然、まずは天まで聳えた壁の前にある始祖■■以上の力を手に入れる必要があったのだ。
他人へ上下関係の何たるかを説いておきながら、自分が最もそれに反していた事実。
その愚かしさを今になってようやく理解しながらも――黒死牟は弟の声に耳を傾ける。
地獄の炎に灼かれても憎み続けた憧憬の声を。
「しかし…。どうやらそれは私の思い上がりだったらしい」
黒死牟が主君の死を悟った理由は縁壱の言葉だった。
彼の言葉を聞いた瞬間にようやく気付いた。
始祖の名は愚かその顔や力の詳細すらも、黒死牟はとうに思い出せなくなっていた。
こうしている間にも始祖について有していた筈の知見や記憶が日に曝された霜のように溶け崩れていく。
完全に記憶が溶け落ちたなら、そもそも鬼の始祖などという存在があったことすら忘却してしまうのだろうか。
であれば彼の血を賜り変生したこの躯の体はどうなるのか・
一体あのお方は何と行き遭い…そして滅ぼされたのか。
黒死牟にはいずれの答えも想像することが出来なかったし、それは縁壱とて同じのようだった。
「果たすべき使命はまたしてもこの手をすり抜けて消えた。
であればこの身が此処にある意味とは、おでんの――我が主君の仇敵を討つことなのか」
「縁壱………。それは…………」
剣も持たない手で虚空を掴む。
当然その五指は何も掴むことなくすり抜けて掌に触れた。
なんとこの身は無価値なのかと無常を気取るようなその仕草。
それを目にした途端。
黒死牟の心の裡がカッと熱を帯びるのが分かった。
「それは――……弱音か………?」
何も掴まず空を切った縁壱の五指。
彼とは対極に、黒死牟の手は目玉の浮き出た鬼刀の柄を握っていた。
刃を見せぬのは彼を熱くした"熱"が嫉妬と羨望によるものではなかったからか。
上弦の壱として数百年自他の境なく全てを灼き続けた炎とはまた種の異なる"熱"だったからか。
真のところは彼にすら分かるまいが、確かなのは縁壱の吐露した言葉が彼にとって非常に不愉快な文言であったらしいこと。
「それだけのものを持っていながら…この世の全てに愛されていながら……」
「…兄上。おやめください」
「お前は……私に、そんな戯言を吐くのか………?」
炎に灼かれ続けていた頃ですらも。
黒死牟が縁壱に向ける感情は複雑に捻じくれ怪奇していた。
憎悪に身を焦がしながらも、彼が
光月おでんによって強制的に矛を収めさせられる光景を見ればそっちに憤激する。
縁壱の超人性に全てを狂わされた男はその実この世の誰よりも、自分をこうも焦がした――焦がれた――男が唯一無二の星であることを望んでいる。
曰く好意の反対は無関心であるという。
だが黒死牟は、継国縁壱の兄だった男は…弟以外の全てを擲ち破滅する程彼のことだけを考えて堕ちてきた。
心底嫌いな弟に対して彼が無関心であったことなど一瞬たりとてない。
「己の産まれた意味が、解らぬなどと…………!」
縁壱は神仏の寵愛を受けた超常の存在である。
自分やその他有象無象の凡人がどれだけ努力をしようとその影すら踏めない超越者である。
その点には黒死牟としても異論は一切ない。
むしろ全くの同意見だった。
しかしでは彼の生誕と存在は始祖を滅ぼすためだけにあったというのか。
あのお方が――あれが滅べば役目は終わりで全てが白紙に戻るとでもいうのか。
お前がこの世に残した爪痕も。
お前がこの心に与えた熱も。
全てが泡沫の夢幻、朔の夜の寝物語と消え果てるというのか。
「だから私は…お前が嫌いなのだ……。
素面でそんな妄言を吐けるお前の存在が……お前の剣を初めて見たあの日よりずっと、気味が悪くて仕方がなかった………」
――巫山戯るな。
そんなことも分からない阿呆だから。
そんなことも分からぬお前だから。
だから私は、お前のことが嫌いなのだ。
怨嗟をすら込めて紡がれるその言葉は数百年越しの本音だった。
「私が越えるのに一月を費やす壁を…お前は何時も事もなげに足で跨いで越えていく。
剣も、呼吸も、鬼を狩る技術も……お前は私の何もかもを、それが道理であるとばかりに凌駕していた………。
その姿を私が、どれほど忌んでいたか……どれほどおぞましく思っていたか……。
お前のことだ……あの赤い月の夜に老いて死する最期のその時まで………一顧だにすら、しなかったのだろう…………」
「……それは」
言葉を返せない縁壱に黒死牟は途切れ途切れの言葉で捲し立てる。
「お前は…他者(ひと)の心が、解らぬのだ……」
忌まわしかった。
おぞましかった。
気味が悪かった。
お前の全てが妬ましかった。
だというのに全てを知ったように達観して、血の通っているとは思えぬ言葉を吐く。
かつて抱いた嫌悪の全てを。
生前は只の一度とて言葉にすることのなかったそれを。
気付けば黒死牟は憎たらしい弟へ吐いていた。
新月の夜に光はない。
されどそこに月があるのなら。
月明かりは闇を照らす。
影に隠れて蹲るしかないものをも照らし出す。
光月に受け止められ。
太陽に宥められ。
そうしてついぞ光の下に躍り出た鬼の本心。
それを耳にした縁壱は。
「…、……」
ひどく驚いたような顔で黒死牟のことを見つめていた。
まるでなぞなぞの答えを明かされた子どものように。
神の寵愛を受けていると誰もがそう認めた男にはお世辞にも相応しくない顔で、変わり果てた兄の異貌を見る。
そしてあろうことか彼が放った言葉は、その表情以上に稚拙なものだった。
「兄上は私を――そのように思っておられたのですか」
だが稚拙なのは縁壱に限らず黒死牟もそうだ。
彼ら兄弟は何処までも稚拙だった。
幼すぎた。
兄は弟に抱く憧憬と嫌悪を口に出さぬまま二度と交われぬ離別に走り。
弟は兄の感情を何一つ理解出来ぬまま、最後の敗北すら与えることなく死んだ。
その果てがこの世界。
界聖杯、可能性が並び立つ願いの牧場。
そこで初めて彼ら継国の兄弟は想いを交わす。
「話は…終わりだ……。お前と話しているとどうにも苛立つ……今も昔も、矢張り変わらぬ………」
初めて吐露した胸の内。
それに対しての答えがあまりにも間抜けすぎて黒死牟は毒気を抜かれた。
吐き捨てるように溢して踵を返す。
此処で無駄口を交わし合っているようならまだ黄昏れていた方が生産的だと判断した。
だがその背中に縁壱は言葉を掛ける。
「兄上」
万能と呼ばれた彼ではあったが。
この時何を言うべきかはすぐに浮かんではくれなかった。
だから兄がそうであったように…弟もたどたどしく。
「返す言葉もありません。
私はこの生、この肉体…その全てはかの始祖を滅ぼすために造られたものと信じていた。
そこにとて人の喜びが介在する余地はあるのだと教えてくれた者は幸いなことに居りましたが……」
赤子を喪ったことを覚えている。
赤子を抱き上げたことを覚えている。
そうして泣いたことを覚えている。
そこで理解出来なかったこと、悟り切れなかったこと。
それを思うとやはり縁壱は自分が超人だなどと思い上がる気にはなれなかった。
何せこうまで直球で投げられなければ気付けない粗末な頭なのだ。愚鈍な心なのだ。
神仏が造ったにしては拙すぎる。
あまりにも――出来が悪すぎるではないか。
「……私をそのように糾してくれたのは、あなたが初めてです」
継国縁壱は何も変わらない。
彼の剣は今後もこれまでの通りに振るわれるだろう。
悪を討つため人の敵を討つため。
その為に極限の冴えを以って振るわれるだろう。
だが。
それでもきっとこの邂逅に意味はあったのだ。
この再会に、意義はあったのだ。
それを物語るように縁壱の口元は微かではあるが弧の形を描いていた。
「……、……そうか………」
黒死牟は何か言おうとして、…止めた。
鬼となるよりも。
鬼狩りとなるよりも遥かに以前。
つまらない哀れみで笛を拵え渡してやった記憶。
拙く不格好で安っぽい歳相応の細工。
それを与えてやった日の記憶が徐に脳裏を過ぎったからだった。
『いただいたこの笛を兄上だと思い…どれだけ離れていても挫けず、日々精進致します』
何故今これを思い出す。
強さを希求しようと思うならば。
縁壱へ近付こうと思うならば真っ先に切り捨てるべき過日のこと。
この期に及んでそんなものを思い出してしまった不可解が彼の口を塞いだのか。
真実の所は彼にしか分からなかったろうが…
「この戦の弥終で……お前を待つ」
しかし閉口のまま終わりはしなかった。
紡ぎ出した言葉は裏を返せば妄執の先伸ばしであり。
激情と性に縛られる悪鬼らしからぬものでもあった。
最後の二騎となった時は勿論。
この世界の終末ないし破綻のような終局でも構わない。
黒死牟は果てにて待つ。
剣鬼は、そう決めた。
「そこで私の剣を受けろ。
鬼となり変わり果てたこの頸を断ち切ってみせろ」
赤い月の夜。
あの日継国縁壱が万全でさえあったなら。
彼が定命の鎖に縛られてさえいなかったなら己に訪れただろう結末。
それが今度は至極順当なものとしてやって来ても構わないという覚悟の許黒死牟は縁壱へ申し込んだ。
果たし合いの誓い。
因縁と妄執の清算。
数百年の憎悪と研鑽の結実の場を寄越せと、兄は弟に求めていた。
「それまでは…この剣と、この炎は……収めてやる………」
「兄上がそう望むのであれば――承りましょう」
"それまでは剣を収める"などという文句はやはり鬼の語るそれではない。
鬼としての在り方に則るならばこの場ですぐさま仕掛けることこそが正しい筈だ。
にも関わらず黒死牟はそれをしなかった。
そうする気にはなれなかった。
数多の光が彼の心を照らしている。
灼かれ磨り減るばかりだったその心を優しく寿ぐ光がある。
始祖たる男は死んだ。
直にこの世界からその存在ごと消え果てよう。
しかしその後も彼の造った鬼は残る。
上弦の鬼。
その壱の席を数百年と保ち続けた剣鬼は今、無軌道に周りを鏖殺する英霊剣豪ではなくなった。
誓いは成った。
であれば後は誓われた"いつか"へ繋ぐために。
黒死牟は踵を戻さぬまま去り、縁壱はそれを見送るが。
すれ違い続け拗れ続けた兄弟の物語は…改めてひとまずの小休止を迎えたのであった。
やはりと言うべきか先に目を覚ましたのは光月おでんだった。
黒死牟との戦いで負った無数の切り傷は大小様々だった筈だが、箇所によってはもう傷口が塞がり始めているから人体の神秘めいていた。
「うおォ~! 全身が痛ェ! 涙が出そうだ!」
「むしろそれだけで済んでいるのが驚嘆だ。受けた刀傷の数は大小合わせれば百を優に越えていたというのに」
「そんなに斬られてたのかよ! 道理で痛ェわけだぜ…!」
断っておくがこれは打ち所が良かったとかそういう話ではない。
光月おでんが常人を遥かに逸脱した超人で、だから平気でいられるだけ。
仮に彼の傍らで寝息を立てる少女が同じ目に遭っていたなら九割九分死んでいるだろう。
月並みな言い方になるが、鍛え方が違うとしか言いようがなかった。
「…で。話は出来たのかよ、あのバカ兄貴と」
「おでん」
答えにはなっていない。
縁壱は答えるのではなく彼の名前を呼んだ。
そして言う。
質問の答えなぞよりも余程優先して彼に伝えるべき言葉を。
「ありがとう」
「なんだよ。礼を言われるようなことをした覚えはねェぞ」
礼を受けたおでんは照れるでも遠慮するでもなく、シッシッと手を振ってそう言った。
「おれがそうしてえと思ったからやっただけだ。
感謝される謂れはまったくねェし、むしろむず痒いからやめてくれ。
友達(ダチ)に頭下げられる程気まずいことはねェんだこの世にゃ」
「…お前らしい」
「その様子じゃちったあ喋れたみてェだな。令呪とこの傷が無駄にならなくて良かった!」
これも光月おでんが人を惹きつける理由なのだろう。
おでんは人を助けるが決して驕らない。
礼を言われれば素直に受け取りつつもひけらかさず、時にはこうして頭を下げられること自体を拒む。
あくまでおれがやりたかったことをしただけだと豪快に笑うのだ。
継国兄弟の捻れ歪んだ因縁も彼にかかれば茹での甘い糸こんにゃくのようなもの。
いつも通り豪快に、目が眩む程爽快に。
土足で踏み込んで思うまま暴れて、前に進ませてしまった。
「
カイドウとの約定を全く反故にするつもりはない。
どの道あのランサーは捨て置けない脅威だ。
生かしておけば、必ずまた新宿の災禍を繰り返すことになる」
「ああ」
「だがその後は奴だ。そして私は、おでん。
奴を討ち取るというお前の使命を死力を以って支えよう。しかしだ」
カイドウは縁壱にランサー、
ベルゼバブの討伐を委ねた。
あの男は外道ではあるがしかし獣ではない。
それが縁壱の見立てだった。
むしろ悪党としては愚直な程真面目で不器用な男。
であればあの言葉が違えられるとは考え難い。
そしてそうであるのならば、縁壱としても腐滅の悪鬼を討つ役を担うことに異存はなかった。
「兄上と誓ってしまった。この戦の弥終に果たし合うと」
「は――何だよあの野郎。気の利いたことも言えるんじゃねェか」
「私はその場に往かねばならない。そして願わくばその時私を従える者は、お前であってほしいのだ」
「死ぬなってか」
おでんは呵呵と笑った。
なんて無理難題。
カイドウの暴威は一度相対して縁壱も知っているだろうに。
勝った上で生き延びろなどと要望するとは、彼らしくない無茶な願いだ。
おでんは確かに過去一度カイドウへ不覚を負わせている。
しかしあの時ですら戦いは途中で中断され、奴の真の実力を見ることはついぞなかった。
その上であれから年月を経て…英霊としての全盛期から呼び出されているだろうカイドウ。
勝てる勝てないの以前に、相手になるのかどうかからして疑わしい。
そんな男を相手に死ぬなと言うのか。
馬鹿げた話だ。
無茶な話だ。
そんな思いも含めた一笑だった。
「ああ――分かった。男同士の約束だ」
そして――面白ェことを言う奴だと笑った上でその無茶を呑む。
時空は違えど元居た世界は違えど、もう縁壱はおでんにとっての師であり友人だった。
そのたっての願いを無碍にするなどおでんのやることではない。
現実問題出来るか出来ないか、そんなことは後から考える。
とにかくまずは頷いて白い歯を見せて笑ってみせる。
それが、光月おでん。
ワノ国にその人ありと謳われた"バカ殿"。
「その代わりお前も勝手に逝くんじゃねェぞ縁壱。
そん時ゃおれがお前の代わりに、てめえのおっかねえ兄貴の前に立つことになるんだからな。
あの野郎絶対怒るだろ。今度こそ膾切りにされかねん」
「…あぁ、そうだな。私も誓おう。"男同士の約束"だ」
おでんが突き出した拳に縁壱も自分のを触れさせる。
あまり慣れないノリではあったが、おでんの顔を見るに間違いを冒してはいないらしい。
そのことに少し安堵する縁壱と、全身の惨状が嘘のように活力を漲らせ立つおでんの傍らで。
「……ん……。あれ、わたし……」
おでんにやや遅れて目を覚ます少女が居た。
彼女の名前は、
幽谷霧子。
光月おでんだけでは消しきれなかった炎を宥めた要石。
縁壱の兄、黒死牟のマスターである偶像(アイドル)だった。