生田善次郎

生田善次郎(いくたぜんじろう、1915年10月-1995年6月)は、日本の実業家、経営者。生田殖産社長、経済団体連盟会長、日本繊維産業協同組合最高顧問。

来歴

父は、生田譲吉生田海運社長、生田殖産社長兼会長)。叔母は、生田東子早稲田大学教授、女性の国際政治学者)。

1915年10月、兵庫県神戸市出身。生田財閥の長男として、祖父である生田恭三郎の下で帝王学を叩き込まれる。乳母の佐藤ユキや藤岡義雄とともに、神奈川県で少年期を過ごす。旧制一高(現在の東京大学付属高等学校)と旧制神奈川(現在の神奈川県立湘浜高等学校)の両方に合格し、旧制神奈川を選んだ。高校を下から10番目程度の成績で卒業し、東京大学への進学もかなわなかった。仕方なく、父が評議員を務めていた早稲田大学へ進学。

大学卒業後、生田殖産へ入社。米国事業拡大のために渡米。渡米の際には、当時大学生であった宇津村忠男と親交を深める。高校の後輩で友人の宇津村が運営していたコロンビアホテルの経営にも協力した。
1956年、生田譲吉の社長兼会長退任に伴って、社長に就任。社長就任に伴って、経団連副会長/教育・人材育成委員長、日本繊維産業協同組合最高顧問に就任。1975年、病気によって社長退任を考えていたが、遺留されたため形式的な社長職を続け、会長の職を退いた。この時期、長女の生田正子を正統後継者とすることを決定。正式的には、1988年4月に、娘である生田正子へ、名誉職だった社長職を譲った。

経団連

1956年の社長就任に伴って、経済団体連盟副会長に就任する。これは、父の生田譲吉の役職を受け継いだということになる。1964年より、2代目会長に就任。10年を目安に退くように求められていたため、1975年の病気を理由に退陣を申し入れるも、副会長会議で決議に至らず留保されたまま、1977年に後*任の大隈繁太郎が決定したため退陣する。

親類

経歴

1915年 10月 兵庫県神戸市出身
1934年 3月 旧制神奈川高等学校・卒
1938年 3月 早稲田大学政治経済学部・卒
4月 生田殖産・入社
米国支社コロンビア営業所
1940年 10月 米国支社コロンビア営業所・課長補佐
1943年 4月 営業本部営業部二課・課長補佐
1945年 8月 営業本部営業部二課長
1951年 4月 東京支社神奈川営業所・副所長
10月 東京支社神奈川営業所長
1953年 4月 取締役・東京支社長
1956年 9月 代表取締役・社長・会長
1975年 4月 代表取締役・社長
1988年 3月 退任
最終更新:2025年07月28日 08:33