物江和文(もののえわぶん)は、日本の文筆家、小説家、ノンフィクションライター、
内務官僚
来歴
1902年、宮崎県出身。家は、地元の名士で開業医として知られていた。
旧制宮崎高校卒業後、父の勧めから法律を学ぶために上京。
東京商科大学法文学部に進学。法学科で国際法の研究に尽力。大学在学中、
国家公務員一般職採用試験を経て内務庁に合格する。ほかの一般職同様に、本庁での勤務が長かったが、特に地方自治や法制行政に長らく知見を持つことになる。出世の転機となったのは、1934年10月の
選挙法局区割課課長補佐に就任したことに起因する。前任の
太田永江が、
懲罰徴兵にかけられて内務庁を去ったため、急遽代理の役職者として、選挙法局に関連のない人物が選出された。この時、
自治副局長勤めていた
柴田弥平の推薦が大きな力になった。しかし、1939年3月の開戦に伴って立場が一変。地方官吏が徴兵によって次々に人材不足になると、内務庁の職員も多くが出向対象となる。その後、
北海道庁にて、終戦を迎えることになる。この北海道庁では、1945年4月に年次が2カ月足りないとして部長になることができず、臨時代理職として2か月間務めるなど人事的苦労があった。
終戦
終戦を迎えると、翌月に帰任命令が下ったため、課長職として本庁に復帰。しかし翌4月には、大学自治制度の改正を目的とした
教習本部設置に基づいて、
大阪大学に出向。1948年には、
民主党が推進する反ファシズム法に基づく、内務庁解体に関して職員が不足していたため帰任。役職こそついていなかったが、内務庁内部組織の再編を目的として、自由に動き回っていた。最後には、「内務庁を枕に討ち死にする覚悟」として
長田秀三内閣総理大臣に直訴するが受け取ってもらえず、内務庁の解体とともに官僚の世界から離れる。
作家として
大阪大学在任中に、戦前戦中における官僚としての苦悩や熱情を問いただした『同刻の碑文』を発表して、
読物社第1回
新人大賞を受賞。翌々年、内務庁の解体に関して異議を申し立てるとして、『余りある日』を発表。鬱屈とした内務庁内部の状況をレポートした。
1960年から、後に映画化されて大ヒットを記録する『
東京大家族』シリーズを
読物社から出版。
年史
1902 |
9 |
宮崎県出身 |
1921 |
3 |
旧制宮崎高校卒業 |
|
4 |
東京商科大学へ進学 |
1925 |
2 |
内務庁一般職採用試験を合格 |
|
3 |
東京商科大学法文学部法学科を卒業 |
|
4 |
内務庁入庁 |
|
8 |
法律局行政課 |
1928 |
10 |
法律局登録課庶務係 |
1931 |
4 |
自治局情報調査室調査員 |
|
10 |
自治局情報調査室係長 |
1933 |
6 |
(出向)衆議院自治省構想特別調査会事務局員 |
1934 |
1 |
自治省構想特別調査会事務局文書班長 |
1934 |
4 |
(帰任)自治局都政情報室係長 |
|
10 |
選挙法局区割課課長補佐 |
1936 |
4 |
選挙法局管理課課長補佐 |
1939 |
4 |
(出向)北海道庁総務部選挙課長 |
1941 |
4 |
総務部総務文書課長 |
|
10 |
土木部土地不動産収用課長 |
1944 |
4 |
総務部次長 |
1945 |
4 |
総務部長(臨時代理職) |
|
6 |
総務部長 |
|
9 |
(帰任)選挙法局区割課長 |
1946 |
4 |
(出向)大阪大学教習本部次長兼学務副局長(学生自治会制度担当) |
1948 |
4 |
(帰任)選挙法局付(無任所特命事項担当) |
|
8 |
(併任)内務庁再編本部付 |
1949 |
9 |
内務庁退官 |
1953 |
7 |
東海第一銀行監査役(-1960年) |
1955 |
4 |
音響社取締役会長(-1977年) |
1983 |
11 |
逝去 |
作品一覧
受賞作
作品
- 坂のぼお (日本文芸社、東亜文論)
- 成和 (音響社、ものべ百貨)
- 小説内務庁 (音響社)
- 小説北海道庁 (音響社)
- 東京大家族 (読物社)
- 東京大家族・続 (読物社)
- 東京大家族・俗 (読物社)
- 東京大家族・洲 (読物社)
- 東京大家族・衆 (読物社)
- 東京大家族・終 (読物社)
- 映画東京大家族を語る (読物社)
- 小説東京大家族 (読物社)
- 碑文碑文碑文 (音響社)
- 北野由紀日記 (音響社)
- 小説島雄大 (音響社)
- 短編作品集『同担Ⅱ』 (日本文芸社)
最終更新:2025年03月20日 00:17