内務庁

内務庁(ないむちょう)は、かつて存在した存在した日本の官公庁の1つである。1890年の内閣制成立以降、我が国最大の利権管理機構として機能を発揮してきた。戦後、組織規模の見直しとファシズム的組織の廃止を目指した政治方針に従い解体された。
役職
主任大臣 内閣総理大臣
組織の長 内務長官
次官級 内務庁次長
次官級審議官 自治総務官警視総監

概説

内務庁は、地方行財政、選挙法、警察行政、法務行政、国家賠償行政、厚生福祉行政、女性年少者労働行政、公務員人事、国際親善交流などをふくめた非常に広範な行政を統括する機関であった。特に、内務庁次長、自治総務官(地方自治政策を統括)、警視総監は、「内務三役」として、省内外に絶大な権限を持つ役職であり、退官後ほぼ全員が貴族院議員に列せられた。そのほかの官僚であっても、高文出身者ならば大臣と同等の発言力を持ち、一般入庁であれば他省の局長と同等の発言力を持つといわれた。
特に、戦前戦中において内務庁内部人事によって構成されてきた「地方行政審議会」と「全国警察行政審議会」は、内務庁権力の象徴と呼ばれてきた。当時の内務庁には、各都道府県で行政を統括する知事と警察組織を指揮監督する警察本部長を公選する権限を持ち、人事案を天皇に奏上する全権を握っていた。そのため戦前の内務官僚は、「知事に慣れたら次官に及ばず、次官を目指せばほかを失う」と言われるほど苛烈な出世争いを求められてきた。
そのような内務庁の所管閣僚として、内務長官が存在する。戦前においては、総理に次ぐ重要ポストとして、全国に広がるネットワークを管理してきた。発言力は強大なものであり、内務庁出身の作家である物江和文(内務庁選挙法局出身)が「口先一つで100万人を失職させられる(日本文芸社・内務庁生態調査録)」と表現するほどである。歴代内務長官には、与野党の幹事長、国会議長、内閣総理大臣などその後の華やかな人事が約束されている。特に、国会への政府提出立法を管理できることから、戦前の非議院内閣制の時代にあっては与党との強力なパイプ形成を求められてきた。そのため、内務長官という役職は、総理大臣以上に政界や官界に大きな影響力を持つとされてきた。
1915年以降、その広大すぎる所掌事務は分離されてそれぞれの省に分離される。さらに戦後、急速な民主化の流れに沿って、ファシズム的な権威官庁としての内務庁の存在が見直され、1949年に内閣官房総務省に組織体制を分離移管したことにより完全に消滅した。「内閣官房」「厚生労働省(厚生省労働省)」「外務省」「自治省」「総務省」「警察庁」が後継省庁にあたるとされている。

組織

1890年設立当初の組織形態

 政策課、業務課、府県課、連絡課、公務員課
 財政課、課税課、債券課、資金課、理財計画課
 選挙課、法律課、区割課
 登録課、行政課、訟務課、
 警務課、防犯課、保安課、出版課、調査課

1949年廃止時の組織形態

 文書課、会計課、政策課、人事課
  • 選挙法局
 選挙課、法律課、選挙区課
 高等文官試験事務課、公務員課、人事課、給与課
 通信課、ラヂオ課、検閲課
 電波課、管理課、無線課、建設登録課
 公法課、私法課、登録課、行政課、訟務課

厚生省及び労働省へ移管された部局

 1904年内務庁に設置→厚生省医政局厚生労働省医政局
 1904年内務庁に設置→厚生省薬理局/薬品製造局→厚生労働省医薬品局
 1904年内務庁に設置→厚生省公衆衛生局/環境局→厚生労働省公衆衛生局/防疫局公衆衛生庁
 1904年内務庁に設置→労働省少年婦人局→厚生労働省労政局青少年課/女性課
 1904年内務庁に設置→厚生省水道局総務省水道局→公衆衛生庁水道部

自治省へ移管された部局

 自治省自治行政局
 自治省地方財政局

企画院へ移管された部局

 企画院警務部/保安部/高等警察部→警察庁

内閣官房へ移管された部局

 内閣官房内閣人事局総務省国家公務員局(一部移管)
 内閣官房内閣法制局、総務省法律行政局/訟務局法務庁
 内閣官房迎賓館管理部→公益法人迎賓館

総務省へ移管された部局

 総務省通信行政局情報庁通信部(一部移管)
 総務省電波局/放送局→情報庁通信部(一部移管)

審議会及び所管法人

審議会

 全国の都道府県知事公選を行う組織。自治省に組織ごと移管された。
 管区警察局長及び都道府県警察本部長の人事を統括する組織。現在は、警察庁に移管されている。

所管法人

歴史

発足

1888年、宮中政府外国留学団を中心とした内閣審議会が発足。ドイツに留学していた岡野修作平野樹生石塚秀明らを中心となって内務庁構想を発議した。内務庁は、五省の行政分野に含まれない所掌事務を統括する横断的な巨大省庁として構想されていた。この内務庁構想は、ドイツ流の中央集権体制に必ず必要な行政組織として考えられた。1890年、第1回衆議院総選挙の開票に合わせる形で、行政機関としての内務庁が発足した。初代内務長官には、岡野修作が就任。そのほか、内務庁副官に石塚秀明、自治総監に中田誠一、警視総監に篠原義光がそれぞれ就任した。各人は、岡野とともにドイツ留学を行ったメンバーであった。1902年、内務庁副官は内務庁次長、自治総監は自治総務官に改組された。
1890年に施行された内務庁職制及び事務総攬において、内務庁は、「地行部」「地財部」「選挙法部」「司法部」「警視局」「迎賓館」をもって始動することとなった。

20世紀における世界の潮流

1902年、中田誠一(内務長官)、伊丹克己(外務大臣)らを日本代表団として、日本が初めて招待された国際会議である「労働衛生国際会議」に出席。急速な工業化に伴う労働災害と感染症対策に対応するために、国際基準に倣った制度の必要性を議論。日本国内でも、急速な産業化の裏で長時間労働と不衛生環境の問題が蔓延っていた。特に、都市部においては、コレラ結核などの感染症が蔓延していた。それに対して、欧米諸国は、日本の国際社会参加に関してそれまで非常に冷笑的な態度を示していた。中田誠一は、知古のフリードリヒ・ヴェルナー(ベルリン大学教授・行政学/統治理論学)を通じて、ヨハン・フリードリヒ・クラウス博士を東京帝国大学教授(公衆衛生学・医療行政)として招聘した。盟友だったクラウス博士と中田内務長官は、内務庁における厚生行政、労働福祉行政の運用を行うための機関枠組みを早急化させた。1904年、内務庁設置法改正に伴い「医政部」「薬理部」「公衆衛生部」「婦人少年社会部」「水道部」が設立された。クラウス博士は、これ以降内務庁顧問として最終的には日本に帰化することとなる。
1910年には、内務庁設置法を施行改正。全国の都道府県知事公選と警察行政の地方化を推進した。これまでの知事公選を統括する審議会として「地方行政審議会」を設置。さらに警視局は、全国を5つの管区警察局と各都道府県に都道府県警察本部を設立。それぞれの指揮監督権を有する人事の任免権を持つ「全国警察行政審議会」を設置した。
1915年4月、内務庁の持つ厚生関連行政と労働関連行政を完全に分離して新たな省を設立することとなる。医学・薬学・公衆衛生・水道事業を分離した「厚生省」、女性や年少者の労働に関連する事業を分離した「労働省」がそれぞれ分離した。

地方自治行政の分離

1933年、内務庁における自治行政を移管する組織として自治省構想が立ち上げられる。衆議院では自治省構想特命調査会、内閣には自治省構想特別調査会がそれぞれ設置された。一方、内務庁の内部では、分離独立に関して反対する勢力が出ることとなった。1934年の通常国会で、自治省設置法が成立。1935年4月、自治省が設立される。内務庁から地方自治行政及び地方財政行政が移管される。これに伴い、内務三役の一つとされてきた自治総務官制度が廃止される。

企画院設置

1941年、第二次世界大戦への参戦に伴い、国家の基本行政分野を行政と軍部が協同して運営する方針を目指した。1941年8月には、戦時行政特別法が成立。この特別法を根拠法として、軍部主導の企画院が成立する。企画院では、各省庁の行政職採用者を中心に強制的な登用を行った。そのために、行政職採用者が最も多い内務庁の幹部陣も企画院への出向者が多かった。企画院副総裁をはじめとして、企画院の幹部には内務庁出身者が大勢登用されることになった。また、企画院が治安行政分野を統括するために、内務庁内所管の警察行政を移管。内務庁権力の根幹は、この時完全に瓦解した。

解体

戦後、民主党の率いる長田内閣は、ファシズム勢力を徹底的に断罪。その旗頭と呼ばれて中央集権制の根源とされてきた「内務庁解体」は多くの国民から支援を受けた民主党の根幹政策であった。しかしながらその実情、末期の内務庁は、その勢力を誇っていた自治行政と警察行政をすでに放棄していた。残る所管行政分野は、通信電波行政や選挙行政、内閣の法案取りまとめなど部分的なものに過ぎなかった。1949年9月に内務庁設置法の廃案と「内閣法改正」「総務省設置法」が施行。

沿革

職員

  • 内務庁は、高等文官試験行政職合格者の約3割に当たる60名前後を採用している。
  • 行政科の採用者数は、他省庁を比較しても群を抜いて多い。
  • 他にも、内務庁一般職採用、内務庁警視職採用、内務庁医務職採用、内務省通信技官職採用により、大勢の職員を採用している。
  • 内務庁には、労働組合法などの適用が定められていないため、職域労働組合などの存在は認められていない。
最終更新:2025年02月11日 21:46