民主党

民主党(みんしゅとう)は、かつて存在した日本の国政政党
日本で初となる本格的な政治的中道の巨大政党を目指したが、保守色を薄めることに失敗。最終的には、それぞれが古巣に戻ることで消滅した。
設立年月日 1948年1月
前進政党 保守党協同共和党大衆党社会新党
解散年月日 1952年1月1日(法規的には1月6日)
解散理由 党分裂による保守党への合流
後継政党 保守党共和党大衆社会党
政治思想 中道右派、中道左派、堅実保守路線、中道革命、現実的改革路線

概説

設立発起人となったのが、かねてから「大規模与党の形成を目指していた保守党長田秀三であった。この大規模与党という構想は、政治的な思想に関わらず共同体として連携することで、党内における擬似的な政権交代を起こすことを目的としていた。当時の日本政界は、再編待った無しといった機運にあった。戦後の混乱期を一応乗り越えた先の永続的な発展のためには、なんとしてでも政権交代をしながら発展していく先進諸国的な政治体系が求められていたのである。この長田と政治思想を異にするものの、同じように大規模な与党による現実的な政策拡充を図っていったのが、社会新党浅岡夢二であった。浅岡の考える政治的な改革、弱者による日本政治の実現は、必ず与党による改革でなければならなかった。
上記の理由において、党内での政策決着ができず、議論は延長、政策は未決という事態が相次いだ。特に、党内での政策調整ができなかったこと、機能が不十分であったことは否めず、党の分裂を誘引した。最終的に、党の首脳陣を保守党出身者らによって固めたことで党全体の保守色が強くなり、左派の論陣を張る議員を排除していったことが決定打となり党は完全に空中分解。議席数でわずかに与党を形成したものの最終的に、党の形を残すことも困難であったため解散することとなった。
一方、復党した保守党で党首に上り詰めた長田秀三や共和党の副総裁になった浅岡夢二らは、それぞれに大規模与党構想を持ち続けることになる。最終的に、その思想を継承した後輩議員らによって実質的な大規模与党である自由党を形成した。彼らの政治的な構想は、思想的な対立を放棄すれば非常に効果的なものであった。ただ一つ、当時の日本にとって異常な程に早すぎる政治的構想であったことは間違いない。

組織

役職 就任 後職 備考
党代表 長田秀三 48年1月
政策担当副代表 浅岡夢二 48年1月
組織担当副代表

政策フォーラム20(1949年12月設立)

理事長 西田幸平 49年12月 大衆党総務局長
  • 地方組織調整本部(本部長・副本部長・本部次長)

議席

議席変動

日付 ± 備考
1948.1 129 民主党結党
1948.6.13 129 89 第1回参議院通常選挙
1949.10.9 203 89 +74 第15回衆議院総選挙
1951.6.10 203 41(85) -4 第2回参議院通常選挙・41名当選
1951.8 189 85 -14 長田秀三を中心に離党、衆議院院内会派ともに革新を設立
1951.10 189 84 -1 (参議院議員)が離党
1951.12 138 51 -84 共和党へ参加(衆51・参33)
1952.1 74 42 -73 大衆社会党へ参加(衆64・参9)
64 41 -11 離党し無所属へ(衆10・参1)
0 0 -105 保守党へ合併(衆64・参41)

選挙結果

選挙名 投開票日 党代表 議席
第1回参議院通常選挙 48年6月13日 長田秀三 89
第15回衆議院総選挙 49年10月9日 長田秀三 203
第2回参議院通常選挙 51年6月10日 長田秀三 41(85)

党史

立党

現有政党であった協同共和党保守党大衆党社会新党から参加議員を募り結集した129議席を有する一大政党。保守党の「傍流」長田秀三や社会新党の「中道左派」浅岡夢二を中心に中道左派から右派勢力にかけた幅広政治的路線の巨大政党として成立した。立党の一時期、協同共和党は全面合流に舵を切る予定であったが、他党の反発に会い頓挫。院内連携を図る方針を協議することになった。合併時における衆議院の議席は、協同共和党の128議席を超えて比較第一党に躍進。協同共和党との協議を経て、第1次長田内閣を組閣。政局に大きな起爆剤となった。

早期解散

結党後にすぐ組閣したため、「早い段階で国民の真を問う」として、早期解散を主張。6月に迫っていた第1回参議院通常選挙との同日選挙も一案であったが、協同共和党側からの反対により流れる。参院選では、89議席を獲得して両院での比較第1党を形成。連携相手の参院選苦戦で発言力を持ったため、秋口解散を匂わせていたが、1948年10月の駿河湾台風中四国集中豪雨という歴史的天災により軒並み危機対応に時間が割かれ、衆院解散を延期。1949年の通常国会を年初開会から時間をずらしたことで、自然と衆院解散の時期も先送りになる。最終的に、与野党党務代表者級会談により、1949年夏から初秋の衆院解散を文書により締結。決定権を持つ長田首相が、1949年10月に第15回衆議院総選挙を行った。

信託

衆院選後、戦後初めて単独政党で200議席を超え、203議席を確保して単独与党を形成。共和党との院内連携体制を解消した。第2次長田内閣では、保守カラーを押し出した堅実保守路線に転換。中道以降の左派勢力が軒並み要職を外れることになる。1951年2月の国会会期中、浅岡夢二(党地方組織調整本部長)を中心に民主党の左派系議員が離党。衆院院内会派「ともに革新」として、14名の衆院議員が所属することになった。1951年12月、党内体制が崩壊。衆議院51名と参議院33名が、共和党に参加。翌年1月1日に、「深い反省」と題した論文を発表した長田秀三(民主党代表)を中心に、出身母体である保守党へ、衆議院64名・参議院41名が参加。大衆社会党に衆院64名と参院9名がそれぞれ参加。無所属議員として、衆院に10名、参院に1名が分かれたため、最終的に党は完全に姿を失した。民主党のその後は、各国政政党の中枢に進んだ人物を多く輩出した。日本政治の理想郷とされた民主党政治は、政界再編の荒波に揉まれて消え去った。
最終更新:2025年07月15日 12:51