長田秀三(ながたしゅうぞう)〈1900年5月ー1983年7月〉は、日本の内務官僚、政治家、政治学者(地方自治)。
経歴
幼少期・青年期
1900年5月、兵庫県出身。父はたたき上げで
兵庫県警察部長を歴任した邏卒出身、日本で初めて邏卒になった1000人の内の1人。
第三高等学校、
京都帝国大学にそれぞれ進学。京都帝大では、かねてから希望を出していた経済学部の試験に落ち、当時
京都府庁に勤務していた兄の勧めで法学部に進学。法学部では、もっぱら地方自治に関する研究を専攻。ドイツ人女性学者である
シュタイン・ベルガーの「都市自治の変革と未来」を研究論題とし、世界的潮流に逆行した住民参加型都市自治の日本版を提唱した。大学在学中に
高文に合格したものの、入省時期を1年延期して大学に残ることとした。大学では、
地方自治法に関する研究を続けるために期限付きの研究助手に着任。指導教官の
渡辺明雄(京都帝大准教授、ドイツ法・欧州制民主主義を専攻)とともに、「都市自治の変革と未来」の日本語訳を完成させることとなる。
官僚時代
京都帝大の1年間にわたる研究生活を経て、1924年4月
内務庁へ入庁。大学時代の経験などを考慮されて、地方自治や政策立案に関する業務に従事。
自治局府県課に在職。
地方財政局課税課、資材課を経て地方庁舎に出向。
大阪財務部管財課長、
奈良財務部銀行課長、
三重内務部内務庁では、地方への出向も経験しながら、地方の実情を学ぶこととなった。本庁に復帰してから、1932年、
衆院選出馬を目指して
内務庁を退官。
政界進出
1932年、
内務庁の先輩を通じて推薦されたために、当時の挙国一致政党である
東亜同盟に参加。東亜同盟事務局で法案成立の事務を務める。1934年の
第10回衆議院総選挙で
兵庫1区から初当選を飾る。この選挙で4位当選となるが、
推薦議員としては最下位での当選となった。初登院したその日、自らの愛人だった
鹿島ゆきこが多摩川で水死体で発見された。これは、長田の選挙活動員が行ったとされて裁判にかけられるが無罪で確定された。この裁判では、多くの司法取引が行われたとされており、後に長田の政治生命を終焉に向かわせる小説「
多摩川入水」のモデルとなった。
衆議院では、自治行政をメインとした立法提案を勧めた。当時、東亜同盟の中で頭角を現していた政党人出身の
大峰義人と懇意になる。党内派閥として組織された東亜同盟
麦の会は、大峰らの対中強硬論者を中心に組織された。
1948年1月、
社会新党の中道左派である
浅岡夢二とともに民主党を結党。当初、
協同共和党の
大路晴雄(
内閣総理大臣・総裁)に気脈を通じ、大路内閣を継続することを条件に党の合併を目指していたが、
保守党からの圧力で頓挫。1948年1月、
衆議院において129議席を獲得したことで比較第一党となる。合流に対して前向きな
協同共和党との協議を経て、代表の長田が首班指名を受けて、
第1次長田内閣を組閣する。組閣当初から、早期解散を主張していたものの、
協同共和党との協議が長引き失敗。
駿河湾台風、
中四国集中豪雨の震災対応に迫られて、解散時期が遠のき、1949年にやっと衆議院を解散。
第15回衆議院総選挙において、203議席を獲得する大勝。
協同共和党との震災復興計画で折り合いが悪かったことなどを理由に院内連携体制を解消。
第2次長田内閣を組閣する。この時期から、
浅岡夢二が率いていた左派議員を党の中枢から外して、中央右派政党への脱皮を図る。このことに業を煮やした旧
社会新党系の議員らから、退陣要求が出されるなど党内が分裂。5月に発覚し、その後対応に追われた
鐘ヶ淵疑獄などの責任から、8月ごろに党の崩壊が始まり、年内中に内閣総辞職を行うことを決定。12月中に
内閣総辞職を行い、翌年の
通常会において
田中内閣が組閣される。
1955年6月、
森野三郎が
両院議員総会による退陣意向に従う形で総裁選任投票を行うことを決定した。結局、森野との一騎打ちを制して保守党総裁に就任。こののち、「長田新体制」と呼ばれる保守党の党内体制を敷くことになる。総裁就任後、これまで支持母体として重用してきた
日本学生連合などの右翼団体への政治的支援を打ち切りを断行。
共和党との連携体制を強化するために、
国会対策委員会に力を入れて「国対政治」を進める。一方、
八尾育四郎などの
大峰義人支持者らによって結成された
八政会との派閥政治も展開された。
1958年6月、
1961年6月とそれぞれ勝利し党内の長田独裁体制と呼ばれる政治体制が確立。中道右派から右にかけての
国政政党としての地位を確保する。
党の長老・復活
1964年6月、
東京五輪の開催などを迎えることなく3期満了に伴って総裁を辞任。
政風会内部に後任の総裁選挙立候補者を求めるが、3名が手を挙げることになる。結果的に幹事長の
深室慎太郎が派内候補者に決定。
総裁選では、
八政会の
八尾育四郎が立候補するが、
深室慎太郎が当選。しかし、1967年6月にふたたび
総裁選への立候補の意向を表明。4期目の保守党総裁に輝く。しかし、総裁当選後の1968年に、
城野洸太郎による小説『
多摩川入水』が発表されると、政治的スキャンダルに発展。道徳的・倫理的問題として党内からも退陣の声が響くようになる。特に、
政風会内部からは、「無理矢理にも総裁に就きたい」「恥ずかしい」との非難の声が上がり、1968年12月に総裁を退任。
離党
経歴
1900年 |
5月 |
兵庫県・出身 |
1919年 |
3月 |
旧制第三高等学校・卒 |
1923年 |
3月 |
京都大学法学部政治学科・卒 |
|
4月 |
京都大学・入職 |
|
|
法学部研究助手 |
1924年 |
4月 |
内務庁・入庁 |
|
|
自治局府県課 |
1926年 |
4月 |
地方財政局課税課・主務 |
1927年 |
4月 |
大阪財務部管財課長 |
1928年 |
10月 |
奈良財務部銀行課長 |
1930年 |
4月 |
三重内務部行政課長 |
1931年 |
10月 |
自治局府県課・課長補佐 |
1932年 |
3月 |
退官 |
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東亜同盟へ参加 |
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4月 |
東亜同盟事務局・立法事務員 |
1934年 |
8月 |
第10回衆議院総選挙において兵庫1区から初当選 |
1939年 |
2月 |
大日本政治会へ参加 |
1945年 |
10月 |
保守党へ参加 |
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12月 |
党国対委員長 |
1948年 |
1月 |
民主党へ参加 |
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|
民主党代表 |
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|
内閣総理大臣(第1次長田内閣・第2次長田内閣) |
1952年 |
1月 |
保守党へ復党 |
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5月 |
幹事長(54年8月まで) |
1955年 |
6月 |
保守党総裁 |
1964年 |
6月 |
保守党最高顧問 |
1967年 |
6月 |
保守党総裁(68年12月まで) |
1969年 |
8月 |
離党 |
1970年 |
4月 |
国政引退 |
1972年 |
1月 |
長野政友会結党 |
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|
長野政友会代表 |
1975年 |
12月 |
政界引退 |
1983年 |
7月 |
逝去 |
選挙歴
最終更新:2025年07月30日 09:55