和島重芳(わじましげよし)〈1920年8月ー2008年10月〉は、日本の政治家、
福岡県庁職員。
来歴
1920年8月、
山梨県甲府市で造り酒屋を営む両親のもと、次男として生まれる。母は、
甲州六家の一角に名を連ねる湯村家の本流出身である。母の兄にあたる叔父は
湯村北野介(
山梨東病院院長)である。地元の小学校を卒業後、高等科への進学を勧められたが、学問を修めたいという希望があって地元の
旧制甲府高校甲州分校に進学。
戦時中
復員
1946年7月、
福岡県庁の委嘱を受けて対馬復員事業所業務班嘱託。1947年4月、
地方公務員試験を経て、福岡県庁に採用。福岡県庁復員局職員・
対馬市役所福利部復員厚生事業担当員。1948年4月から、
自治団体労働組合(自治労)福岡県支部の設立に奔走。翌49年8月、全国自治労総決起集会に福岡県の副代表として出席。福岡自治労の執行本部第二副委員長に就任する。1953年の
国鉄ストへの人員派遣を決めた「
吉村合意」の立役者である。1958年には、
第4回地方統一選挙に伴う
福岡県知事選挙で
社会党公認の
崎田信也(元小倉市長)を福岡自治労で推薦。
自治労中枢へ
当選させられたことを契機に、福岡自治労執行委員長に就任。1961年には、
吉村忠直(自治労中央執行委員長)が全国に発布した「
1962年の全国活動報告」では、臨時編集担当局長を務めた。1964年、
福岡県庁を退官し、自治労中央本部事務総長に就任。翌々年に、自治労中央本部活動記録局長に就任。この活動記録局は吉村委員長の肝いりの密命を受けて、全国の自治労支部を管理強化する目的で、委員長直属機関として設立された。吉岡体制の下で、順調に力をつけると1969年7月の全国自治労集会で第一議長に就任。差配することになる。12月に自治労中央本部中央執行委員会第一副委員長に就任。
政界進出
1970年の初頭、
社会党は、「
社会党全国選挙運動」の実現を目指すため、国内の全選挙区に候補者を擁立する必要があった。そのため、前任の公認候補者が引退を表明した
鹿児島1区の公認候補者を
自治労から求めていた。自治労中央本部は、吉岡委員長の勅命を受けて和島重芳を擁立することを決定。社会党公認候補として、社会党
鹿児島県連合衆議院1区総支部長に任命される。1970年3月に
衆議院が解散すると、社会党から正式に候補者として擁立を受ける。自治労の他、
国鉄中央労連や
消防自治連の推薦を受けた。選挙には顔を出さないと言われていた
吉岡忠直(自治労中央執行委員長)が、自らマイクを握って応援する姿が全国的にも注目を集めた。
初当選から
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最終更新:2025年07月19日 19:10