概説
大衆社会党の組織拡大に伴って、党名を社会党へ変更。日本における本格的な革新政党である。平和主義、社会主義、労働者の権利擁護を掲げて、新しい政治の実現を目指した。日本の
三極政治、
二大政党制時代において、その左派政党として勢力を維持した。社会運動家や活動家、文化人など多くの著名人を巻き込んだ大衆型政党であった。
その歴史を紐解くと、初期の社会党は、
渡辺幹太、
上之章太、
片山明彦という三代続く極左政治家を党委員長に迎えて党勢を拡大。一時期は、保守系の右派政党を凌いで政権与党の地位を築いた。その後、緩やかな右傾化によって、革命を訴える極左政党から、国民に寄り添う福祉型政党に移行する。
党組織
- 筆頭副幹事長
- 副幹事長(2名)
- 政策調査局
- 人事局
- 本部長
- 次長
- 選挙対策局
- 情勢調査局
- 団体連絡局
- 第二事務局
党内監査委員会
党内における問題事案の対処と処分を行うための特別組織。
議席
議席変動
日付 |
衆 |
参 |
± |
備考 |
1955.5 |
192 |
96 |
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選挙結果
党史
党名変更
大衆社会党は、1955年5月に
第17回衆議院総選挙の合わせる形で党名を「社会党」に変更した。初期の社会党は、
戦後革命運動に端を発して革命を訴えるゴリゴリの極左政党である。そのため、左派政治家と
学生運動、
戦後革命運動の三本の矢は、初期における最大の政治的武器であった。
三極政治の中で、国民の大多数を占めていた改革勢力を基盤とし最も政権党を担当した。1967年、4代目
社会党委員長の
川村信次郎が、革命路線から福祉型社会主義への路線変更を目指して政権綱領を大幅に書き換える(社会党春の時代)。福祉型民主主義・社会福祉路線を標榜、福祉国家の実現を目指した。また、三極政治において円滑な政治的合意を勧めた三党合意の発案者は、意外にも社会党であり、他党との連携による信頼の
草の根民主主義を目指した政党でもあった。
福祉国家化による大増税時代の到来に対して、国民は明確な「NO」を突き付けた。1975年4月、
共和党と
保守党の合併による
自由党の設立によって二大政党制時代の到来により、国民の多くから支持を失うことになる。時の社会党は、福祉型民主主義路線だけでの議席保持が難しくなり、次世代型革新的社会主義を掲げた政党へと変化。日本で初めての女性リーダーを擁した
国政政党として再出発を目指す。女性初の与党党首を実現した
藤沢玲奈委員長時代、世界に先駆ける
ジェンダー平等、
フェミニズム型女性社会の実現を目指して革命勢力との決別を宣言するが最終的には失敗。しかし、1980年代のフェミニズム運動に繋がっていく。
福祉の社会党
1980年代以降、急激に変化する社会構造の中で、経済の
自由党・福祉の社会党として政局の地図を構築した。
足立孝標、
高橋健二ら2代続く委員長の下で、極左団体との関係断絶を宣言。福祉政党に変化を遂げる。1990年には、
アジア社会党会議に初期加盟を発表。しかしながら、国難と呼ばれた
バブル崩壊に対応した経済政策で成功を収めた自由党政権に対して、突破力を持つことができず政権から遠ざかった。
ポスト構造主義社会
2000年代を目前に、若きリーダーとして
佐々木智也社会党委員長の下で、
新社会主義を提唱。バブル経済を突破した自由党政権に対して、
新社会主義の根幹とした
ポスト構造主義を提唱する。2009年に「新構造」を政策の論点として、「
第35回衆議院総選挙」で念願の政権奪取。しかし、その後の自由党の分裂を見守りながらも党勢は縮小。2010年代には、宝福の時代の社会主義を目指したが
自由主義による物質精神の前で党勢拡大を諦め分裂しながら主張を守る緩やかな連合体になるべく党体制を解体。世界的に存在力を低下し続ける左派政党でありながら、幾度となく路線変更を迫られ時代に適応した政党という面を評価しなければならない。遂に、2031年7月、最後に残った所属国会議員が
社会民主党に移籍したことで、政界の地図から姿を消した。
社会党の支持組織
- 全国労働組合総評議会(総評)
- 官公庁労働者全国組合連合会(官公労)
- 日本平和協会
- 青年民主運動会議
- 全国農民組合会議(全農)
- 全国福祉促進会
- 労働者教育連合
- 全国公務員連盟
- 環境保護市民協議会
- 被爆者支援全国ネットワーク
最終更新:2025年03月20日 16:45