芝山顕正

芝山顕正(しばやまけんせい、1887年4月-1962年12月)は、日本の医師、教育者。日本医師会会長(2代目)、日本医学会会長(初代)、東京大学医学部長・病院長、城東医科大学理事長・病院長。

来歴

1887年4月、青森県出身。実父は、芝山鷹居(初代・2代・3代官選青森県知事、5代官選宮城県知事内務官僚)。父が内閣審議会の司政官として、津軽藩庁に赴任していた1887年に出生。
父は、全国最年少の官選知事として1895年より青森県知事を12年間務める。青森県の小学校を卒業後、旧制弘前高等学校(現弘前中学校・高等学校)。東京大学医学部を経て、1911年4月より東京大学病院第一外科医局員補(熱海成郎講座)。

熱海成郎の下、近代日本外科学の発展に貢献。1914年より前尾行平(後の日本医師会会長)と同僚の関係となる。1922年には、日本人としては有明八郎以来の二人目としてハーバード大学医学系研究科に留学。5年間で医学博士を取得するまで至り、アジア人初の快挙を達成する。帰国後、東京大学医学部特任講師となるが、そののち准教授に着任。退官していた熱海成郎に代わって、福山東人に教えを求める。しかしその後、日本での講義経験が少ないながらも、1929年に教授に昇進したことから仲がこじれ地方医局を転々とする。1935年4月に、原田美広が理事長を務める城東医科大学に教授として招聘されたため、東京大学を退官。日本初の本格的な医科系単科大学として、私立医学教育の基軸を形成した。1924年より城東医科大学病院病院長を務めると、空襲などの被災者を無償で受け入れるように病院方針を展開。

1944年10月、先任の東京大学病院病院長である北条慶秋東京大学を退官し、後継候補者として指名を受けたために東京大学へ教授として帰任。東京大学病院長に就任する。東京大空襲による病院の焼失、医局員の負傷によって甚大な被害が発生。1945年の終戦に伴って、廃墟となった病院跡地に、「青空病院」として診療機関を開設。多くの都民を受け入れるように、無償での医療提携を発表した。

1946年より、日本医師会日本医学会がそれぞれ設立される。日本医学研究の最高指導者として日本医学会会長(初代)に就任。1950年3月に、東京大学を退官すると、日本医師会会長(2代)に就任する。

経歴

1911 3 東京大学医学部医学科卒業
4 東京大学病院外科・入局
第一外科医局員補(熱海成郎講座)
1913 4 第一外科医局員(熱海成郎講座)
1920 4 第一外科医局長(熱海成郎講座)
1922 10 ハーバード大学医学系研究科・留学
1927 5 ハーバード大学医学系研究科・修了
医学博士号取得
6 東京大学医学部特任講師・医学教育部常勤
10 第三外科副部長・准教授(福山東人講座)
1929 4 東京大学千葉病院外科部長・准教授
1932 4 東京大学埼玉中央病院外科部長・教授
1935 3 東京大学・退官
4 城東医科大学医学部第一外科教授
1938 4 城東医科大学病院第一外科部長・教授
1942 4 病院長・教授
1944 9 城東医科大学・退官
10 東京大学病院病院長・教授
1945 9 医学部長・第一外科部長・教授・青空病院長
1950 3 退官

役職歴

  • 日本医師会会長(2代)(1950年4月-1954年3月)
  • 日本医師会副会長(1946年4月-1950年3月)
  • 日本医学会会長(初代)(1946年4月-1950年3月)
  • 城東医科大学理事長(1952年10月-1960年3月)
  • 城東医科大学理事(1950年4月-1952年3月)
最終更新:2025年05月23日 13:56