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益川秀男

益川秀男(ますかわひでお、1880年4月-1958年4月)は、日本の医師、政治家。

来歴

生い立ち

1880年4月、新潟藩の藩医の家系に生まれる。父は、新潟藩療養所医務方として勤務していた父の下、六男として出生。幼いころから医者を志し、兄たちもその道に進んだ。旧制長岡高等学校(現新潟県立長岡高等学校)、東京大学へそれぞれ進学。東大医学部在学中、大学公費留学の先駆けとして、1902年開学のニュージーランド連邦大学オークランド校にて人体基礎医学の研究を行う。1年の留学から帰国し、1906年3月に東京大学医学部を卒業。卒業と同時に、医局員補として東京大学病院に勤務。2年を経て、1908年の国費留学生(第49期)に採用。2度目の留学先は、アメリカカリフォルニア州立大学オークランド校となり、人体医学の病理実験などに従事。

研究者時代

アメリカでの3年の留学期間を経て、1911年8月から陸軍軍医学校研究員となる。専攻は、基礎病理学となり、軍事病理学と呼ばれる人体構造の解明などに従事する。第1次世界大戦シベリア鉄道戦争などへの海外派兵も経験。1920年より、研究フィールドを出身校である東京大学に移し、大高雪比古教授の下で、病理学講座の講師となる。1926年4月より准教授に昇任。

医療法人越後医会

1834年、兄が代表を務める医療法人越後医会の新病院を品川に開業するため退官。越後医会品川病院院長に就任。この時期、元軍人で、政界に転身していた卯月千季の主宰していた「シベリア鉄道戦争復員兵の会」の事務局長を務めた縁で、前首相の松井義人を紹介されてかかりつけ医となる。松井は、腎臓に持病を持っていたため、腎臓の基礎研究を行っていた益川が適任として紹介された。この縁がはじめとなり、東亜同盟の要職にあった政治家と交流を重ねることになる。のちの有用となる政治人脈はこの時期に形成される。1941年12月、卯月内閣の組閣後、総理の個人的諮問機関である「一朝会」のメンバーとなる。ほかのメンバーも、軍人出身で政財界に実績を残していた政府系の要人が充てられた。卯月内閣は、基本的に最右翼政権と呼ばれるほど軍拡路線を主張していたが、益川や高木有人東都東京新聞社記者・後の社主)は、早期の戦争終結による優位な形での講和条件締結を進めていた。1944年3月の東京大空襲で、病院が焼け落ちると、跡地で診療所を開業。医療費を取らず、青空病院の先駆けとなる。

政府の要人

1945年1月より、柴里嘉一郎の個人的な縁で、首相秘書官に就任。1945年8月の終戦決定などに直面。同月末に設置された終戦講和団に勅使の1人として参加。1945年9月5日のハワイ宣言調印を最前線で見届ける。戦後、内閣顧問労働省顧問の肩書で、終戦連絡会議メンバーとなる。今般の問題としていた青空病院闇病院を解決するため、医療法人法病院再建特例法の成立を主導。

日本医師会発足

1945年12月、閣議において、戦前戦中において存在していた帝国医師倶楽部全国医業統制会などの医師関連諸団体を統合させるべきであるとして、「日本医師会設立準議会」会長に就任。前身の諸団体会長らが新生組織幹部への意欲を見せていたが、政界への根はりが強い益川ならではの登用となった。特に、戦中一貫して帝国医師倶楽部会長を務めていた松平人鐘(後に公職追放)は、益川の会長就任を拒絶。医師としての経験の薄さを指摘したものだった。1946年4月、日本医師会初代会長に就任。海軍軍人記念会館を仮住まいとして日本医師会事務局を設置。同会館の舞踏室で設立記念パーティーを厳かに開催した。この会には、松井義人卯月千季などの首相経験者などを中心に政財界の重鎮が出席。同会は、医療の憲法と呼ばれる医師法をはじめ、医療従事者法医学教育法医師国家試験法などの重要法案を立て続けに成立させた。1947年の年初、過度経済力集中排除法の影響で、東都東京新聞社の経営幹部が軒並み首を切られ、旧友で東都ビル副社長に過ぎなかった高木有人が取締役副社主に就任。1948年に発行を開始した、月刊誌の「医療と社会」は、東都書院出版社が行うこととなった。また、東都新聞の紙面で医師会批判は起こらないことが常態化する起源もここにある。1950年3月、1任期4年という内規に基づき、医師会会長を退任。2代目会長に、東大医学部長を退官したばかりの芝山顕正が就任する。

第1回参議院通常選挙

1948年1月、参議院の開院が決定され、当時すでに政界を引退し、公職追放の最中にあった柴里喜一郎が自身の選挙区が含まれていた栃木県から無所属での参院への出馬を要請。出馬の条件として、選挙戦略を担当する人員や選挙事務所人員をすべて柴里らが準備することなどを挙げて出馬を決意。同年6月13日には、第1回参議院通常選挙北関東選挙区から全体1位で初当選となる。参議院議員は、半数の上位当選者を任期6年、半数の下位当選者を任期3年と定めた。この決定により、1954年6月満期まで参議院議員を務める。
1958年4月、潰瘍の悪化、腎臓の悪性腫瘍などを併発し、自らが代表を務めていた越後医会品川病院で息をひきとる。

経歴

1880年4月_新潟藩・出身
1899年3月_旧制長岡高等学校・卒
1899年4月_東京大学医学部・進学
1904年8月_大学公費留学ニュージーランド連邦大学オークランド校へ留学(-1905.9)
1906年3月_東京大学医学部医学科・卒
1906年4月_東京大学病院第1外科・医局員補丘珠慎太講座)
1908年4月_第49期国費留学生カリフォルニア州立大学オークランド校へ留学(-1911.6)
1911年8月_陸軍軍医学校研究員(軍事病理学)
1920年10月_東大医学部病理学講座・講師大高雪比古講座)
1926年4月_東大医学部病理学講座・准教授勝室彌八講座)
1932年2月_シベリア鉄道戦争復員兵の会・事務局長(-1941.4)
1934年11月_医療法人越後医会理事・越後医会品川病院病院長(-1955.8)
1945年1月_首相秘書官柴里内閣
1945年8月_終戦講和団・勅使
1945年9月_終戦連絡会議メンバー・内閣顧問厚生省顧問
1945年12月_日本医師会設立準備会会長(-1946.3)
1946年4月_日本医師会会長(初代)
1948年6月_第1回参議院通常選挙北関東選挙区から無所属で立候補し1位当選
1958年4月_逝去

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東京大学
最終更新:2025年09月10日 10:58