益川秀男(ますかわひでお、1880年4月-1958年4月)は、日本の医師、政治家。
来歴
生い立ち
研究者時代
1834年、兄が代表を務める
医療法人越後医会の新病院を
品川に開業するため退官。
越後医会品川病院院長に就任。この時期、元軍人で、政界に転身していた
卯月千季の主宰していた「
シベリア鉄道戦争復員兵の会」の事務局長を務めた縁で、前首相の
松井義人を紹介されてかかりつけ医となる。松井は、腎臓に持病を持っていたため、腎臓の基礎研究を行っていた益川が適任として紹介された。この縁がはじめとなり、
東亜同盟の要職にあった政治家と交流を重ねることになる。のちの有用となる政治人脈はこの時期に形成される。1941年12月、
卯月内閣の組閣後、総理の個人的諮問機関である「
一朝会」のメンバーとなる。ほかのメンバーも、軍人出身で政財界に実績を残していた政府系の要人が充てられた。卯月内閣は、基本的に最右翼政権と呼ばれるほど軍拡路線を主張していたが、益川や
高木有人(
東都東京新聞社記者・後の社主)は、早期の戦争終結による優位な形での講和条件締結を進めていた。1944年3月の
東京大空襲で、病院が焼け落ちると、跡地で診療所を開業。医療費を取らず、
青空病院の先駆けとなる。
政府の要人
1945年12月、
閣議において、戦前戦中において存在していた
帝国医師倶楽部や
全国医業統制会などの医師関連諸団体を統合させるべきであるとして、「日本医師会設立準議会」会長に就任。前身の諸団体会長らが新生組織幹部への意欲を見せていたが、政界への根はりが強い益川ならではの登用となった。特に、戦中一貫して帝国医師倶楽部会長を務めていた
松平人鐘(後に
公職追放)は、益川の会長就任を拒絶。医師としての経験の薄さを指摘したものだった。1946年4月、
日本医師会初代会長に就任。
海軍軍人記念会館を仮住まいとして
日本医師会事務局を設置。同会館の舞踏室で設立記念パーティーを厳かに開催した。この会には、
松井義人や
卯月千季などの首相経験者などを中心に政財界の重鎮が出席。同会は、医療の憲法と呼ばれる
医師法をはじめ、
医療従事者法、
医学教育法、
医師国家試験法などの重要法案を立て続けに成立させた。1947年の年初、
過度経済力集中排除法の影響で、
東都東京新聞社の経営幹部が軒並み首を切られ、旧友で
東都ビル副社長に過ぎなかった
高木有人が取締役副社主に就任。1948年に発行を開始した、月刊誌の「
医療と社会」は、
東都書院出版社が行うこととなった。また、
東都新聞の紙面で医師会批判は起こらないことが常態化する起源もここにある。1950年3月、1任期4年という内規に基づき、医師会会長を退任。2代目会長に、東大医学部長を退官したばかりの
芝山顕正が就任する。
1948年1月、
参議院の開院が決定され、当時すでに政界を引退し、
公職追放の最中にあった
柴里喜一郎が自身の選挙区が含まれていた
栃木県から
無所属での参院への出馬を要請。出馬の条件として、選挙戦略を担当する人員や選挙事務所人員をすべて柴里らが準備することなどを挙げて出馬を決意。同年6月13日には、
第1回参議院通常選挙・
北関東選挙区から全体1位で初当選となる。
参議院議員は、半数の上位当選者を任期6年、半数の下位当選者を任期3年と定めた。この決定により、1954年6月満期まで
参議院議員を務める。
1958年4月、潰瘍の悪化、腎臓の悪性腫瘍などを併発し、自らが代表を務めていた
越後医会品川病院で息をひきとる。
経歴
最終更新:2025年09月10日 10:58