笠傘史

笠傘史(りゅうかさふみ)〈1930年11月ー2002年7月〉は、日本の活動家、実業家。

来歴

1930年11月、埼玉県秩父市出身。1943年4月に召集を受けて、陸軍第7師団第48歩兵連隊に配属。1945年8月、陸軍上等兵としてフィリピンで終戦を迎えた。

活動家・活動員

終戦後、夜間中学校、夜間高校で教育を受け、1952年4月に東京法科大学法学部に進学。大学入学前から全国学生連合の活動に関心を寄せ、大学入学後は学生運動に傾倒。全学連東京法科大学運動本部長、同執行副委員長、同執行委員長、全学連全国行動部長など、学生運動における要職を歴任。1960年3月に、8年間通った大学を中退。
1960年には、世界大衆平和連合に加盟。専従活動家として、戦後革命運動の一端を担うことになる。ベトナム解放デモアメリカ大使館包囲デモ浅間山活動家拠点襲撃事件東京港貨物倉庫襲撃事件などへも関与。1967年には殺人教唆の罪で拘留されるも、不起訴となる。

ホテルマン

1969年、センチュリーホテルへ入社。同社は、全国学生連合の出身者を多く受け入れる、企業として著名であった。鹿児島センチュリーホテル、岐阜駅前センチュリーホテルでの客室係勤務を経て、本社営業部を経験。東京ベイシティ関連事業室を経て、ホテル開発部営繕企画課長、本社営業部長付、仙台センチュリーホテル営業担当副支配人、札幌営業部長兼札幌ホテル開発室長、静岡センチュリーホテル副支配人を歴任。1982年から同ホテル支配人に就任。

1984年6月に発生した静岡空港封鎖事件への資金的協力を行ったため、内乱罪の適用を受けて検挙される。3年4か月の裁判の末に懲役3年・執行猶予5年の判決を受け入れた。判決後、センチュリーホテルを退職。

日本観光業従事者同盟・専従活動家

日本労働組合協議会の正加盟団体の1つである、日本観光業従事者同盟に専従活動家として参加。センチュリーホテルは、日観同の有力な支持を表明していた。1990年3月、日観同副会長・交渉本部長に就任。1993年4月から、センチュリーホテル社外取締役を労使交渉を担当するために兼任。1995年4月、日観同を離れて、岐阜県高山市で、陶芸家の道に進む。1998年の勤労者同盟全国美術展において、自身の陶芸作品80点を発表した。2002年、土の配達に訪れた宅配便の運転手によって、死亡している姿が発見された。
最終更新:2025年10月09日 18:44