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戦後革命運動

戦後革命運動(せんごかくめいうんどう)は、1946年から1980年にかけて第2次世界大戦以後の日本における民衆意思醸成の長い過程を指すものである。

概要

1946年8月に成立した日本国憲法をめぐり、憲法歓迎運動を展開した日本自由会議と、憲法排斥全国運動を展開した解放同盟が、自由主義をめぐるの意見分立によって対立。日本の戦後革命運動の発端となった。

抗日運動への参加

1980年を超えると、日本国内での戦後革命運動は一旦の収束を見せ、アジア諸国に拠点を移した抗日運動に姿を変える。「第2次世界大戦への深い憎悪と母国日本に対する常人ならざる嫌悪」に支えられた抗日運動は、「武力による世界平和」を常に希求するものとなった。

憲法歓迎運動

1946年8月、日本国憲法の制定を巡って、憲法に賛同する思想家や文化人らが日本自由会議を立ち上げた。日本自由会議は、急速な自由主義の流れに追いつくような形で、親米的な国際開放路線を主張した。保守党にみられるような急進的右派政党の精神的主柱となり、1950年8月15日に右派学生の総本山とされる日本学生連合を立ち上げた。

古典右翼の流れ

1953年に発生した日学連新京大学紛争の影響から、日学連内部での思想対立が激化。急激な社会情勢の変化に反対し、反共右翼の中心的存在として頭角を現した日学連森派は、新日本愛国者党(1956年ー1973年)や永田勤王党(1958年ー1970年)などの政治結社を展開することになる。一方では、極右思想の中でも天皇陛下という唯物史観に支えられた日学連戦記派などが右翼の大御所坂東公毅などの知遇を受けて文化界に進出することになる。一方、緩やかな自由主義開放路線を謡う日学連本派などが中心となり日本大衆会(1955年ー1983年)などを展開することになる。
全学連内部でも、新アジア思想に傾倒する新館良一率いる、新華社などが中華民国などの政治クーデターに加担するようになる。

新右翼の台頭

既存の反共右翼活動が下火となる1960年代には、「新右翼」と呼ばれる思想が発現する。特に、反米独立を提唱する、統一武装戦線(1966年ー2003年)や一洋社(1967年・設立)が中心的な活動を行う。1973年には、新生国立大学への転換を求める政府の流れを汲んで、憲法大学設立闘争が全国的に展開される。この闘争によって、左傾化した大学自治を行っている全国の国立大学で学生闘争が本格化する。この時、日本学生連合の中心的役割を担った森本耕三などを中心に、「日学連改革三文書」が公布され、日学連は本格的な「右派自由主義・国際開放路線」を明確に提示することとなる。
1978年、歌川武公を委員長に迎えた大阪学生連合が、日学連からの公式な脱退を宣言。歌川派と呼ばれる過激な自主独立思想が蔓延したことから東西対抗が軸に歴史が進むこととなる。1980年には、歌川らを中心とする大阪学舎が発足し、反響右翼活動の中核的存在となる。

憲法排斥全国運動

戦前からの社会主義者であり、反ファシズムの代表的思想家であった前川時久郎は、自由主義の根源とされる日本国憲法に反対する全国の平民階級を中心に、1947年の憲法排斥全国運動を主宰する。この活動を組織化させる目的で、1947年に解放同盟を設立する。

全国学生連合の流れ

1948年、全国で設立され始めた大学自治の中核的組織である学生自治同盟に活動の軸を置くため、西側世界最大となる左派学生組織全国学生連合(1948年ー1977年)を設立する。この運営に中核的な役割を果たすのが、「自由は血と汗からなる」を標榜していた解放同盟中央派であった。
全学連は、大学自治から派生した「真に自由な学生教育」を最高の理想とした。その後、全国学生連合の思想は、共産主義の人民戦線(1952年ー1979年)、反米アジア中心主義の世界大衆平和連合(1958年ー1969年)に集結する。人民戦線は、その後肥大化し、「血と汗の革命」を謳った青年民主同盟(1953年ー1977年)、「対話と協調」を軸とした穏健派の全国青年委員会(1961年ー1992年)がそれぞれ分派する。
1950年代の急激な暴力思想によって埋め尽くされていた全学連の中で、穏健主義に徹すべしという思想を標榜した早稲田全学連委員長の白市藤吉を中心に「白市運動」が展開され、この運動から派生した明六社(1952年ー1967年)は、大学の自由自治を最高の達成目標と位置づけ、左翼中心主義を提唱した。六明社の流れを汲んだ労働組合として「統一性のない社会党支持」を標榜する日本労働組合協議会などが立ち上がっていった。

全国学生共闘会議の流れ

戦後間もない1946年から、近代革命思想を原動力とした全国共同闘争が全国の大学で勃発する。1948年には、大学内部における生活協同組合反対を旗印に掲げた、九州大学共同闘争が勃発。これに目を付けたのが、解放同盟立川前線本部での活動を基軸とする解放同盟立川派と呼ばれる一派であった。
解放立川は、1958年に解放同盟から完全に独立する形で、革命的社会連合を発足。その後、革社連副議長の大森忠彦が主張した「一握の左翼論」実現を目指す革社連前衛派、ドイツの啓蒙的思想家アリアス・ランドスキンに近く「背後の一突き理論」を主張した革社連黎明派に分裂していく。
全共闘運動を母体とする学生主体の全国組織として全国学生共闘会議(1949年ー1969年)が成立する。全共闘運動は、早稲田全共闘宇和川時三郎委員長を中心に、日本すべて排斥してからの新国日本建国を掲げる革新社大阪大学足立孝標によって「思想型学生運動の本丸」と呼ばれるまでに急拡大をみせた全共闘思想派といった分派を育てた。全共闘思想派は、思想研究の流れに入り、1963年に思想工学研究所を立ち上げた。
その後全国学生共闘会議は、社会党の支持母体に収まり、全日本労働組合総評議会への人員供給に多大な貢献を果たした。

解放同盟本体

分派の拡大によって勢力を失っていた前川時久郎は、草の根社会主義に拠り所を求めて農民会議(1958年ー2001年)、農村義勇隊(1964年ー1981年)などの実力部隊育成に力を注ぐ。この流れは、戦う農民の代表的な広告塔であったが、その実は、東側諸国に連なる革命戦士養成機関と変わっていく。
最終更新:2026年07月16日 19:59