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深山宮院露人

深山宮院露人(みやまいんろじん、1878年4月19日~1961年9月)は、文筆家、芸術家、作家、劇作家、料理家、美食家。日本を代表する文化人の1人で、政財界や文化界のお歴々とも近しい大人物である。戦後日本における政界のフィクサーの1人とされる。
生誕 1878年4月19日
京都府京都市
逝去 1961年9月
奈良県五條市
親族 父-深山貞郎 1851年8月、京都市議
母-園部カヨコ 1847年1月、京都の名門園部家出身
妻-沖田カエ 1883年9月、旧沖田宮家出身
長男-深山寿好 1916年2月、作家
長孫-深山幸利 1943年8月、京都市長
次孫-深山武太郎 1945年9月、学校法人京都家政学園理事長
玄孫-深山琉莉 2000年1月、民謡歌手、日本民謡協会役員
次男-深山徳豊 1920年8月、男爵衆議院議員労働大臣
岳父-沖田由吉 1852年9月、大村藩知事・初代長崎県知事
祖父-深山石郎 1822年9月、大学寮/律令方主教授
祖父-11代目園部竹吉兵衛 1818年3月、園部藩園部家最後の当主
深山宮院事務所代表、東京料亭連合名誉会長、日本著作家協会会長、東京劇作家組合会長。学校法人東邦グループ名誉会長、会長。

来歴

1878年4月19日、京都府京都市に生まれる。1600年代に宮号を下賜された宮家の1つである深山宮家の本流の生まれとなる。

旧制京都二条高校(現・京都府立上二条高等学校)卒業後、東京大学文学部において、ロシア文学を専攻した。大学卒業後、学館社へ入社し、文芸編集者の経験を積む。担当作家には、深松大門伊藤雪史郎村上四五朗などがいた。
また、劇作家である上田マサヒロに学び、帝国劇場大阪万覧劇場などに劇脚本を上程した。

1917年、学館社翻訳部長に就任し、ロシア文学の日本語訳本出版を進めた。名作ロシア文学である「灰色の大地を歩む者」「雪原に落ちた最後の影」「冬を抱く小さな村」を日本に紹介した露人の功績は大きい。
1925年、学館社を退職。

著作家として

1924年、学館社に籍を置きながら、作家深松大門の個人的秘書として、著作活動をサポートする傍ら、執筆活動を進める。1925年に学館社を退職すると、奈良県生駒市の山中に小さな家を買い、週の半分をそこで過ごして執筆に充てる。1927年に、処女作「松の木陰」を発表し、文壇の一員となる。1928年から家族で奈良県に移住し、著作家として独立。1930年から「文芸誌・霧の句」の連載作家となり、1932年の廃刊までの2年間連載した。この連載作品は、1935年に「望月の夜声」として世に送り出され、同年に伊原文学賞を受賞した。

1934年に、奈良県で料亭を営んでいた五味逸郎の指南を受けて食文化研究を始め、その弟子である大原育太郎を料理長とする会員制食堂の「深山荘」を開業し、戦時中における料亭政治を支える存在となる。
1945年に終戦を迎えると、学館社社長であった前田哲郎(前衆議院議員)から乞われて上京する。学館社ビルの1階に個人事務所「深山宮院事務所」を構えた。また、学館社取締役に就任する。

料理家として

1947年、東京赤坂の名門料亭である「木村庵」を買い取り自ら庵主として、各界の著名人を招いた。内閣総理大臣を務めた海堂武臣葉山専七郎は上客中の上客として知られ、対米交渉などの舞台となった。1953年の日中繊維貿易交渉、1955年の日比国交正常化交渉などの政治的舞台である。
葉山首相の書生を務めたこともある、棋士の宇佐島康信将棋名人位を初めて獲得したのは、木村庵で開催された「1953年将棋名人位・第4戦」であった。

木村庵の上客として訪問した学校法人東邦グループ理事長の奥村久人の要望で、1953年に法人会長に就任する。しばらくしたのち、1959年から名誉会長に就任した。

人物

好角家

露人は、大の相撲好きとして知られ、自らのお抱えとして北嶺山清之助(雷門部屋)、難波川宗吉(春日野部屋)などを召し上げた。1949年の日本相撲協会設立に際して、新設された横綱審議会委員などを歴任した。戦後は、雷門部屋のパトロンとなるも、1955年に解散した。

将棋

日本将棋協会が1918年に設立した際のメインスポンサーだった学館社で、当時部長の地域あった露人は、
最終更新:2026年04月02日 23:07