海堂武臣

海堂武臣(かいどうたけおみ、1885年6月ー1954年3月)は、日本の政治家文部官僚第29代内閣総理大臣

来歴

生い立ち

祖父の海堂延友は、福岡内閣建設大臣内閣審議会造家官として、日本における重点的な都市整備政策の基礎を立案した人物。父の海堂正友は、内務庁の官僚を経て、公党衆議院議員となる。政治家としては、藤村内閣岡部内閣三宅内閣で3代に渡って厚生大臣を務め、政界の長老として立憲党の立党に大きく携わった。
1885年6月に東京都で生まれる。幼くして海堂家のルーツである宮崎県延岡市に、母や兄妹と転居。

東京大学在学中

幼少期を過ごすが、第一高等学校への進学を機に単身で上京。14歳の時、1900年1月の第3回衆議院総選挙衆議院議員に当選した父、その秘書である大塚恒夫とともに3人で生活する。一高卒業後、東京大学へ進学。政治学科を選択し、政治思想形成論の二階部安嗣に師事。1905年に東大新聞部を設立し、初代主筆に就任する。

文部省

1908年3月に東京大学法学部政治学科を卒業。文部省入省、この選択は父の秘書であり元建設官僚の大塚の勧めだった。文部省では、高等教育局研究局芸術局を経て、1923年4月に教育局国際課長へ就任。芸術局学芸教育課在勤時代には、メルボルン国際美術コンクールへの出展をめぐる「芸科戯画論争」で官界側の代弁者として最前線で折衝を担当。芸術教育予算縮小論の第一人者だったが、後に考えを改め、1935年の日本藝科大学設立に尽力、初代総裁となる。1928年に研究局長に就任。しかし、局長就任の数日後に父が死去。国会における空席が5議席以上になったため、急遽補選が執り行われることとなり、局長就任1ヶ月で文部省を退官。

政界入り

1928年5月に文部省を退官。立憲党松井義人幹事長の全面的支援で出馬が決定し、立憲党推薦候補として父の選挙区である宮崎全県区から立候補。帰郷後、1週間で初当選し、再び上京。立憲党所属の衆議院議員として登院を果たす。1928年12月に党内派閥の一つである外交懇談会に参加。第9回衆議院総選挙(1930年8月)で二選目を果たす。1932年5月、挙国一致政党として発足した東亜同盟へ参加。同党の議員討議部座長に就任。第10回衆議院総選挙(1934年8月)で3選目。当選後、議員討議部副部長へ昇進。1934年の特別会で、明確な反戦非開戦路線を目指すものの、最終的に自主軍事宣言に賛成票を投じる。
議員討議部長
1935年4月、小畑正道(党議員討議部長)が、吉永内閣の新設閣僚である軍政局長官に就任したことから、副部長の海堂が議員討議部長へ昇任。1935年10月には、旧外交懇談会のメンバーなど、反戦非改選を訴える議員を中心に共和派を設立。同派閥の中心的メンバーとなる。また、同派閥には、最高顧問の位置づけで大塚恒夫山崎忠重

大日本政治会

第11回衆議院総選挙(1938年8月)で4選目を果たす。しかし、衆院選後の組閣ではなく、軍部からの圧力もあって大日本政治会の設立後に新内閣を組閣することとなり、新政党の設立に党幹部として尽力。1938年12月に大日本政治会が設立され、総裁の山崎忠重がそのまま組閣。この内閣は、第2次世界大戦の開戦時期を見定めるための内閣とされており、海堂はかねてからの入閣の打診を固辞。しかしながら、父の秘書で先輩議員であった大塚恒夫の勧めを受けて、山崎内閣農相参与として閣内入り。早期開戦、早期妥結の姿勢を表明していた松本兼高農林大臣)の下、食糧増産体制の確立を目指した。1939年1月の第2次世界大戦開戦に際して、閣内にありながら最後まで反対していたものの、最終的に内閣が定める太平洋戦争遂行要領に、「東亜諸民族の解放とアジア地域の主権確立」を盛り込むことで開戦支持に回る。
初入閣(大塚内閣
開戦後、山崎忠重内閣総理大臣)が高齢を理由に退陣。退陣の背景には、重い開戦の責任があったことを閣議で語る。続く内閣には、予想外にも大塚恒夫が大命降下。1939年3月発足の大塚内閣では、そのまま農林大臣に昇格し初入閣を果たす。戦争初期の食糧増産体制確保を中心に食料統制政策を進める。
野元内閣
1939年11月、熊本藩藩主、野元家の13代目当主という触れ込みで、政界のお殿様と呼ばれた野元干城が組閣。野元内閣では、文部大臣に横滑り、1940年4月より大東亜大臣を兼務。大日本教育統制会の権力集中を推し進めた。また、自身が設立に携わっていた日本藝科大学などの美術系大学に対して、戦意高揚教育の指導を進める。また、全国の小学校中学校に対して在勤武官の設置を進めたのも野元内閣時代の海堂であった。
左遷人事・遠藤内閣
一方、開戦時の衝突によりライバル関係にあった卯月千季に要職から外される。1941年12月発足の卯月内閣では、大日本政治会統制政策立案本部副本部長に降格。しかしその後、同派閥の盟友である遠藤喜作の下、1942年8月発足の遠藤内閣外務大臣として国際外交の舞台にデビューを果たす。
葉山内閣柴里内閣
葉山内閣では、留任の勧めを固辞して大日本政治会議員討議部長へ再任。この間、共和派系同志会の実質的な代表者となり、次の総理候補としてあげられることになる。この時、派閥設立に際して東奔西走したのが、後に首相となる鶴田正弘である。また、戦禍の拡大に酷く心を痛め、派閥を介して、終戦工作を進めることとなる。1945年1月発足の柴里内閣では、大日本政治会副総裁・戦争計画本部長を打診され、政界からの終戦工作に奔走。憲兵に秘書が捕えられるなどさまざまな身の危険をかいくぐった。
1945年7月から新任の大東亜大臣として入閣。終戦の議論を進めた。

終戦

1945年8月の終戦を間近で実感。玉音放送の序文に大きな文語的意義があると主張して、その文言策定に貢献。戦後の民主化工作・自主独立路線への立ち直りを進めるため、終戦連絡事務局の構想を行った。

組閣・海堂内閣

終戦の翌々日となる1945年8月17日、終戦和平工作への貢献度から組閣の大命が降下。組閣に際して、派閥代表の地位を鶴田正弘に譲る。共和派などの戦時中から反戦を訴えていた主要メンバーを中心に海堂内閣を組閣。終戦連絡事務局局長に、大塚恒夫を配置して閣外からの協力体制も固めた。内閣の基本方針は、自主憲法の制定、米国からの戦争犯罪調査団受け入れであり、戦後復興の足掛かりを作ることであった。
戦後の民主主義のあり方を模索するため、日本型民主主義の代弁者と呼ばれた伊藤寿ヶ東京大学教授内閣顧問を要請。自身が遠藤内閣外務大臣を務めていた際、筆頭局長として対米外交を牽引していた福沢元基(元外務省外交政策局長)や自身の入省同期で農林省に左遷されていた霞が関反戦会元メンバーの金山一心農林省大臣官房特命参与)などの民主系官僚を政府の中枢に配置。
憲法問題調査会日本国憲法
1945年12月、内閣顧問を務める伊藤寿ヶが会長を兼務し、新日本国憲法制定を目的とした調査会が発足。この調査会には、米国からの視点を入れる名目で、戦争犯罪調査団の法律顧問本部長や同副本部長のイーサン・ハーパーノア・ケンドリックが参加する。また、女性として名古屋大学法学部講師伊藤凛子東都経済大学経済学部講師伯太ユキが参加した。この人員配置は、海堂自身の懸案でもあった。同調査会は、アメリカ側からの意向や女性の社会進出など、これまでの日本で触れられなかった社会問題を具体化した問題として明示した。同調査会が発表した憲法草案は、閣議での認識一致の末3度の加筆修正をなされた。1946年の特別会で、内閣提出法案として日本国憲法が政府立法として提出され、8月1日に衆参両院において可決。
日本共和党
1945年9月19日、大路晴雄大日本政治会院内幹事長)に担ぎ上げられ、日本共和党総裁に就任。政党的な後押し支援を受けた内閣として船出に成功。保守党とともに政権与党として内閣の安定運営に貢献する。一方、憲法制定後に海堂が主張した「中華民国国交論」などをはじめとする新大陸外交の方針に対して、党が真っ向から対立。1946年8月に、民法改正案の閣内不一致を発端として内閣総辞職。大路晴雄を中心とする協同共和党の独立などを背景として、総理のポストを退くこととした。

政党人として

1946年8月、「一種の政治的テロ」と呼ばれた、閣内不一致の結果から内閣総理大臣の椅子を明け渡す。担ぎ上げられた日本共和党総裁の地位は健在であったが、政党の政権方針は、親中、大陸協調外交に絞られた。
第14回衆議院総選挙(1946年12月)、第1回参議院通常選挙(1948年6月13日)、第15回衆議院総選挙(1949年10月9日)では、それぞれ党の選挙責任者として手腕を発揮したものの、政策畑での印象が強すぎて選挙では軒並み苦戦。大路内閣が提唱していた、親米路線、新外交路線が国民の評価を得ていただけに統制の失速は加速していった。第15回衆議院総選挙で、8選目を果たしていたものの総裁の地位を鶴田正弘に譲って第一線を退く。

無所属

1950年8月の共和党合併には参加せず、日本共和党の解散に伴って無所属議員となる。無所属でありながら、政界きっての政策通として知られ、教育振興政策への提言、中央教育審議会設立などに向けた働きかけなどを行う。
通常会会期中の2月に本会議場で転倒したことから、大事をとって入院していたが、転倒がきっかけとなり持病の壊血病が悪化。最終的に、1954年3月に没する。
没後、1955年に中央教育審議会が「中央教育審議会法」の下に設置され、海堂の懸案であった戦後民主主義教育の歯車は動き始めることになる。

経歴

1885年6月_東京都出身
1898年3月_延岡小学校・卒業
1904年3月_第一高等学校(現在の東京大学附属高等学校)・卒業
1908年3月_東京大学法学部政治学科・卒業
1908年4月_文部省入省
1908年7月_高等教育局大学課
1910年4月_同局専科教育課
1910年10月_同局専科教育課主務
1911年4月_同局総務課主務
1911年10月_研究局基礎研究課主務
1912年10月_芸術局学芸教育課主務
1913年4月_同局学芸教育課課長補佐
1915年4月_同局文化振興課課長補佐
1918年4月_同局文化振興課長
1920年4月_同局学芸教育課長
1923年4月_教育局国際課長
1925年4月_同局教育政策課長
1926年10月_研究局次長
1928年4月_研究局長
1928年5月_文部省退官
1928年6月_衆議院補欠選挙において宮崎全県区から初当選(以降8回当選)
1932年5月_東亜同盟議員討議部座長
1934年9月_東亜同盟議員討議部副部長
1935年4月_東亜同盟議員討議部長
1938年12月_農相参与山崎内閣
1939年3月_農林大臣大塚内閣
1939年11月_文部大臣野元内閣
1940年4月_(兼職)大東亜大臣(野元内閣)
1941年12月_大日本政治会統制政策立案本部副本部長
  • 政治的ライバルであった卯月千季から要職を外された人事。
1942年8月_外務大臣遠藤内閣
1944年3月_大日本政治会議員討議部長
1945年1月_大日本政治会副総裁・戦争計画本部長
1945年7月_大東亜大臣(柴里内閣
1945年8月_内閣総理大臣(1946年8月まで)
1945年9月_日本共和党総裁(1949年10月まで)
最終更新:2025年07月17日 18:09