来歴
生い立ち
1908年3月に
東京大学法学部政治学科を卒業。
文部省入省、この選択は父の秘書であり元建設官僚の大塚の勧めだった。文部省では、
高等教育局、
研究局、
芸術局を経て、1923年4月に
教育局国際課長へ就任。芸術局学芸教育課在勤時代には、
メルボルン国際美術コンクールへの出展をめぐる「
芸科戯画論争」で官界側の代弁者として最前線で折衝を担当。芸術教育予算縮小論の第一人者だったが、後に考えを改め、1935年の
日本藝科大学設立に尽力、初代総裁となる。1928年に研究局長に就任。しかし、局長就任の数日後に父が死去。国会における空席が5議席以上になったため、急遽補選が執り行われることとなり、局長就任1ヶ月で文部省を退官。
政界入り
議員討議部長
1935年4月、
小畑正道(党議員討議部長)が、
吉永内閣の新設閣僚である
軍政局長官に就任したことから、副部長の海堂が議員討議部長へ昇任。1935年10月には、旧
外交懇談会のメンバーなど、反戦非改選を訴える議員を中心に
共和派を設立。同派閥の中心的メンバーとなる。また、同派閥には、最高顧問の位置づけで
大塚恒夫や
山崎忠重
第11回衆議院総選挙(1938年8月)で4選目を果たす。しかし、衆院選後の組閣ではなく、軍部からの圧力もあって
大日本政治会の設立後に新内閣を組閣することとなり、新政党の設立に党幹部として尽力。1938年12月に
大日本政治会が設立され、総裁の
山崎忠重がそのまま組閣。この内閣は、
第2次世界大戦の開戦時期を見定めるための内閣とされており、海堂はかねてからの入閣の打診を固辞。しかしながら、父の秘書で先輩議員であった
大塚恒夫の勧めを受けて、
山崎内閣の
農相参与として閣内入り。早期開戦、早期妥結の姿勢を表明していた
松本兼高(
農林大臣)の下、食糧増産体制の確立を目指した。1939年1月の
第2次世界大戦開戦に際して、閣内にありながら最後まで反対していたものの、最終的に内閣が定める
太平洋戦争遂行要領に、「東亜諸民族の解放とアジア地域の主権確立」を盛り込むことで開戦支持に回る。
開戦後、
山崎忠重(
内閣総理大臣)が高齢を理由に退陣。退陣の背景には、重い開戦の責任があったことを閣議で語る。続く内閣には、予想外にも
大塚恒夫が大命降下。1939年3月発足の
大塚内閣では、そのまま
農林大臣に昇格し初入閣を果たす。戦争初期の食糧増産体制確保を中心に食料統制政策を進める。
一方、開戦時の衝突によりライバル関係にあった
卯月千季に要職から外される。1941年12月発足の
卯月内閣では、大日本政治会統制政策立案本部副本部長に降格。しかしその後、同派閥の盟友である
遠藤喜作の下、1942年8月発足の
遠藤内閣で
外務大臣として国際外交の舞台にデビューを果たす。
葉山内閣では、留任の勧めを固辞して大日本政治会議員討議部長へ再任。この間、
共和派系同志会の実質的な代表者となり、次の総理候補としてあげられることになる。この時、派閥設立に際して東奔西走したのが、後に首相となる
鶴田正弘である。また、戦禍の拡大に酷く心を痛め、派閥を介して、終戦工作を進めることとなる。1945年1月発足の
柴里内閣では、大日本政治会副総裁・戦争計画本部長を打診され、政界からの終戦工作に奔走。憲兵に秘書が捕えられるなどさまざまな身の危険をかいくぐった。
1945年7月から新任の
大東亜大臣として入閣。終戦の議論を進めた。
終戦
1945年8月の終戦を間近で実感。
玉音放送の序文に大きな文語的意義があると主張して、その文言策定に貢献。戦後の民主化工作・自主独立路線への立ち直りを進めるため、
終戦連絡事務局の構想を行った。
1945年9月19日、
大路晴雄(
大日本政治会院内幹事長)に担ぎ上げられ、
日本共和党総裁に就任。政党的な後押し支援を受けた内閣として船出に成功。
保守党とともに政権与党として内閣の安定運営に貢献する。一方、憲法制定後に海堂が主張した「
中華民国国交論」などをはじめとする新大陸外交の方針に対して、党が真っ向から対立。1946年8月に、民法改正案の
閣内不一致を発端として内閣総辞職。
大路晴雄を中心とする
協同共和党の独立などを背景として、総理のポストを退くこととした。
政党人として
1946年8月、「一種の政治的テロ」と呼ばれた、閣内不一致の結果から
内閣総理大臣の椅子を明け渡す。担ぎ上げられた
日本共和党総裁の地位は健在であったが、政党の政権方針は、親中、大陸協調外交に絞られた。
第14回衆議院総選挙(1946年12月)、
第1回参議院通常選挙(1948年6月13日)、
第15回衆議院総選挙(1949年10月9日)では、それぞれ党の選挙責任者として手腕を発揮したものの、政策畑での印象が強すぎて選挙では軒並み苦戦。大路内閣が提唱していた、親米路線、新外交路線が国民の評価を得ていただけに統制の失速は加速していった。第15回衆議院総選挙で、8選目を果たしていたものの総裁の地位を
鶴田正弘に譲って第一線を退く。
1950年8月の
共和党合併には参加せず、
日本共和党の解散に伴って
無所属議員となる。無所属でありながら、政界きっての政策通として知られ、教育振興政策への提言、
中央教育審議会設立などに向けた働きかけなどを行う。
通常会会期中の2月に本会議場で転倒したことから、大事をとって入院していたが、転倒がきっかけとなり持病の壊血病が悪化。最終的に、1954年3月に没する。
没後、1955年に
中央教育審議会が「中央教育審議会法」の下に設置され、海堂の懸案であった戦後民主主義教育の歯車は動き始めることになる。
経歴
1885年6月_
東京都出身
1898年3月_延岡
小学校・卒業
1904年3月_第一高等学校(現在の
東京大学附属高等学校)・卒業
1908年3月_
東京大学法学部政治学科・卒業
1908年4月_
文部省入省
1908年7月_
高等教育局大学課
1910年4月_同局専科教育課
1910年10月_同局専科教育課主務
1911年4月_同局総務課主務
1911年10月_
研究局基礎研究課主務
1912年10月_
芸術局学芸教育課主務
1913年4月_同局学芸教育課課長補佐
1915年4月_同局文化振興課課長補佐
1918年4月_同局文化振興課長
1920年4月_同局学芸教育課長
1923年4月_
教育局国際課長
1925年4月_同局教育政策課長
1926年10月_研究局次長
1928年4月_研究局長
1928年5月_文部省退官
1928年6月_
衆議院補欠選挙において
宮崎全県区から初当選(以降8回当選)
1932年5月_
東亜同盟議員討議部座長
1934年9月_東亜同盟議員討議部副部長
1935年4月_東亜同盟議員討議部長
1938年12月_
農相参与(
山崎内閣)
1939年3月_
農林大臣(
大塚内閣)
1939年11月_
文部大臣(
野元内閣)
1940年4月_(兼職)
大東亜大臣(野元内閣)
1941年12月_
大日本政治会統制政策立案本部副本部長
- 政治的ライバルであった卯月千季から要職を外された人事。
1942年8月_
外務大臣(
遠藤内閣)
1944年3月_大日本政治会議員討議部長
1945年1月_大日本政治会副総裁・戦争計画本部長
1945年7月_大東亜大臣(
柴里内閣)
1945年8月_
内閣総理大臣(1946年8月まで)
1945年9月_
日本共和党総裁(1949年10月まで)
最終更新:2025年07月17日 18:09