ポツンと一人で職場の机に座っている。
昨日までの喧騒が嘘のような静けさだ。
とりあえずタバコでも吸おうかと思うも、異世界では貴重品だという事を思い出して躊躇する。
貧乏性なのだ。
昨日までの事を少しだけ振り返る。
異世界への人事異動が決まった時は茫然と事態をとらえていたが、いざ生活が始まると思えば苦労しかなかった。
まず部屋をどうやって借りていいのかすらわからなかった。
当然ながら異世界の不動産のシステムがどうなっているかすら知らない。
日本に一度帰国し住民票だの何だのと行政手続きをバタバタと終わらせて、向こうでの部屋探しはそれからにした。
シオナンベ、という名の街だ。
潮灘辺とでも書くのだろうか。人口3000人ほどの港町だ。
主要な住民は鱗人で、残りは獣人と鬼人の船乗りで構成されている。
それにしてもなぜ陸地に支社を構えたのだろうか。
ミズハミシマならば、普通は海中都市のほうに居を構えるのが筋ではなかろうか。
とりあえず着の身着のままで再びミズハミシマに来て、手荷物一つで宿探し。
なんとか安宿を見つけてその日はバタンと寝てしまった。
あくる日からミズハミシマ支店での業務が始まるので出社する。
いざ出社してみると、そこには地球人の支店長が一人と、事務・経理の
ゴブリンが一人、受付と雑務の魚人が一人いるだけだった。
支店長は葛城英守(カツラギヒデモリ)氏。太り気味で冴えない中年男性だ。
汗がとめどなく吹き出て、ひたすらハンカチでぬぐい取っている。
経理のゴブリンはロブデ・コルテという女性で、銀髪、赤肌、片眼鏡、尖った耳に、ツンとした鼻、低身長で年齢不詳と
おおよそゴブリンの女性たるやこうあるだろうという特徴をおおむねクリアしている。
最初の挨拶もそうそうに算盤を弾きはじめ、話しかけないで頂戴オーラをただよわせている。
受付及び雑務の魚人はアユと名乗った。普通といえばあまりに普通の魚人女性だ。
アルバイト(異世界でどう言うのかは不明だ)で来ているらしい。
支店長が彼女をアユさんと呼ぶので、あわせてアユさんと呼ぶことにする。
それにしても空気が重苦しい。ロブデ・コルテ女史の醸し出す空気の重さではなかろうか。
アユ嬢は海水で煎れたとしか思えない、塩っ辛いお茶をニコニコ笑顔で皆に出している。
自分はとりあえず何をしたものかと考えていると、支店長から業務命令が出た。
しょせんはしがない3流旅行代理店の我が社だが、異世界観光に活路を見出したらしい。
そこで、大手では行えないニッチなところを狙ってツアーを実施したいようだ。
それが出来るならまず日本でやれ、そう思いつつ話を聞いていると、一つ目途がついているらしい。
ここから竜馬で3日ほど先にあるウマハレという街に、観光名所になりそうなものがあるというのだ。
予想通りではあったが、要はそこを調べてこいとの事だった。
気楽な一人旅ですね。思わずそう呟くと、ロブデ・コルテ女史から遊び気分とは何事かと叱責をうけた。
そして何より、ウマハレには彼女も同行するのだという。
明日の早朝に出発するというので、それまでは旅の準備をする事となった。
何より自分の部屋を決めていないのだ。
どこかにあては無いものかと支店長に尋ねてみると「異世界の事はちょっとわからんね」と言われる。
途方に暮れていると、アユさんがニコニコと書棚を開けて何冊か綴じ書を放り出し、それをもの凄い速度でロブデ・コルテ女史がめくりはじめた。
一体何が始まったのかとジッとみていると、ロブデ・コルテ女史が険悪な目つきで綴じ書の一冊を手渡してきた。
そこにはシオナンベを含む近隣一帯を管轄するミズハミシマ行政府あての移住申請書の書式と、
下宿屋『転ばぬ先のヒレふたつ』の連絡先が記されていた。
「大家とは知り合いです。空室があるからそこで宜しいのでは?」
相変わらず機嫌の悪そうな様子で、ロブデ・コルテ女史は答えた。
思うところは山ほどあるが、考えても仕方がない。
移住申請書に必要事項を記入して、まずはミズハミシマ行政府の出先機関へと足を向けた。
通称『役場(ヤクバ)』と呼ばれるソレは、街の中心部にあった。
イメージしていた石造りの頑強そうな建物は無く、木材で造られた番屋のようなものだった。
日本で言う土間を思わせる玄関先から履物を脱いで建物の中に入り、板敷きの廊下を少し歩く。
奥には40畳ほどの板の間があり、どうもそこで手続きをするようだ。
ウロウロしていると小さな机の前に座った鱗人が手招きした。
まるでイモリか何かのように見えるが、性別すら良く分からない。
移住申請書を手渡すと、イモリはしきりに書面と手元の分厚い本とを見比べて最後に巨大な印鑑をベタンと押した。
「シオナンベに住むチキュージンは、アナタが2人目です」
ここにはウチの会社の人間しか地球人は居ないって事か。
役場で下宿屋『転ばぬ先のヒレふたつ』の場所を教えてもらい、そちらへと向かう。
明治か大正かといった風情のボロ屋だったが、周囲もおおよそそれくらいの建物なので贅沢は言えない。
大家は歳かさの女性ゴブリンだった。
かつてはドニー・ドニーの海賊として海で生きていたという話だ。
さっそく部屋に案内してもらう。そこは12畳間くらいのフローリングの部屋だった。
窓は一つだけ。しかもガラスは粗末なもので表面がデコボコとしていたが、逆にそれがキレイに見えた。
電気も無く風呂やトイレは共通のようだが、この部屋は少しだけ気に入った。
夕食は歓迎の意味も込められて、大家のゴブリンが腕によりをかけて作った海賊鍋だった。
海産物が山盛り入っているが、どんな生物なのかは分からない。
今くちの中に入っているエビらしき食材は、本当にエビなのだろうか。
おっかなびっくり食べているのを、同席していた下宿人の亜人たちは指をさして笑っていた。
ロブデ・コルテ女史だけは冷ややかな目で見つけていた。
食事の時に知ったのだが、彼女もこの下宿の住人だということだ。
さらに後に知った事だが、大家との提携にて新規利用者を紹介すると家賃1ヶ月半額になるのだとか。
ゴブリンの商魂の逞しさをあらためて思い知ったのである。
あくる朝、旅の準備を整えてから街のはずれへと向かう。
陸式亀竜というのが長旅に良いというので、貸竜屋から1頭借りる。
しばらく待つと、地球人にわかりやすい表現で言うとワゴン車とほぼ同じ大きさの竜がつれられてきた。
手綱の使い方を再確認し、ロブデ・コルテ女史と共にウマハレへと出発する。
会話はまったく続かなく重苦しい雰囲気だったが、次々と変わる異世界の風景が心を癒してくれた。
旅路の大半は雨か霧だった。ミズハミシマ陸地でも、特にこのあたりは雨が降り続けるそうだ。
「この辺り一帯は、大昔にタニノ氏という領主が支配していたということだ。
あっちの遠くに雪が積もった山がうっすらと見えるだろう。タニノ氏は銀嶺公とも呼ばれていたそうだ。
長雨が続き作物も育たず、河川は氾濫しがちで海も濁り、民は苦しい生活をしていたようだな。
あれが魚塚岬だ。神殿が建っているのが分かるか。
あそこに祭られている御神体の石造が動き出して、大海蛇や巨人族をことごとく食らい尽くした・・・
なんていう昔話も伝わってはいるな。
おおかた大岩を海に落として潮流を変えて漁をしやすくした逸話がねじれた結果だろうがね」
土地の話も確かに面白かったが、それまで黙っていたロブデ・コルテ女史が急に饒舌になるのがおかしかった。
ついつい笑ってしまうと、ロブデ・コルテ女史はまた不機嫌そうに押し黙ってしまった。
宿をとりつつ、ひたすらウマハレを目指す。
予定通りの3日目、まるで陸に生えたコンブのような樹の生えた樹海を抜けると、ウマハレの街が見えた。
まずは宿を、そう思っていたが、ロブデ・コルテ女史が高台に向かうよう指示を出してきた。
一番高そうな丘に亀竜を向けると、雨でけぶりつつも街全体が見渡せた。
「あの入り江、雨龍入江という名前でな。かつては雨龍という亜神が巣食っていたという昔話がある。
雨龍入江の館にて、シセルク・トー、売る夢見るままに待ちいたり。
伝説のゴブリン商人シセルク・トーは、あの入江を眺望できる自分の館で、夢の中まで商売に浸かっていた。そんな昔話だ」
ロブデ・コルテ女史がなぜそんな話をし出したのか一瞬理解できなかった。
が、今回の旅はウマハレにある観光名所になりそうなもの探しだった。
支店長が言っていたのは、このことだったのだろうか。
「違うぞ。蛇言(ダゴン)教の古い寺院があるから、それを名所にしようと思っている」
あっさりと否定された。
では何故こんな丘まで来なければならなかったのか。
「一度くらいはシセルク様が愛した風景を自分の目で見てみたかっただけだ。
館のあった場所は、この丘だよ」
ロブデ・コルテ女史はそう言いつつ、少しだけ微笑んだ。お前、気づかなかっただろう?そんな悪戯っぽい笑みだ。
蛇言教の寺院をスケッチして、ウマハレにて1泊してからシオナンベに戻る。
ウマハレへの道は、雨の道だった。
- そして何より、ウマハレには彼女も同行するのだという。 という一行に頭を抱えた破壊力。異動先の住居は自分で探してねというのは何ともすごい会社だと思ったけど実は下宿宿を紹介するまでちゃっかり仕組まれていた? -- (としあき) 2013-08-18 21:37:30
- 異世界交流時代においてとても現実的な社会人としての経過が丁寧に表現されていて想像が膨らみました。異世界ならではの要素を持った名所とそこに馳せる思いもいいですね -- (名無しさん) 2017-02-12 20:07:39
最終更新:2014年08月31日 02:11