【あしの行く末】

「退屈ねぇ……」
「……姐さん」
困った顔をする猫人の娘に彼女は盃をさも面倒くさげに突き出した。
諦めたような顔を浮かべた猫人によって盃は酒で満たされていく。
エリスタリアの方面で作られる緋酒、一般人が買えば目が飛び出るほどの逸品だ。しかし彼女は安酒に口をつけるかのような気軽さで盃の淵を舐めた。
そして言う。
「退屈ねぇ………」
「……」
猫人の娘はそれ以上何も言わないことにした。
全身で倦怠感を示す彼女。しかし、それでも美しい。
浴槽の縁にだらしなくしだれかかり、もうもうと湧き上がる湯気に揺らめくその姿は異形。しかし、それでもなお美しい。
さほど礼についてとやかく言わないのはこの集団、ひいてはこの当人の方針だ。あまり遠慮することなく娘は主人の顔を伺った。
彼女の美しさを語るならば、それはこう言える。『ひどく不安になる』と。
深みを帯びた藍色。それが肩を過ぎたあたりまで緩やかに曲線を描きつつ伸びている。いわくつきの髪だ。切り取った束を豪商に見せたら『素晴らしい染物です』と、仕入れられるなら金貨を積むとまで言わせたことがあるらしい。
肌は触れればどろりと溶けてしまいそうな極上の糖蜜色。同じような肌色を持つダークエルフといえどこうまで艶やかな色は出せないだろう。あるいは舐めれば本当にくらくらするほど甘いのではないかと思わせる。
体を彩る色彩がそうであるならば、パーツもまた完璧な配置だ。整った睫、厚い唇、物憂げに伏せられた瞳、筋の通った鼻梁、扇情的な泣き黒子。名うての絵描きとて彼女自身の顔立ちを美しさそのままに写し取ることはできまい。
加えて崩れなき均整とれた体つき、豊かに蓄えられた乳房。女の美とはこうありたいという粋を集めたような肉体は、しかし上半身から下はその趣を変える。
ドニー・ドニーにかかる薄雲のごとき儚い灰色へ色を変えた下半身は八本の足を持っている。
今は湯船の中を気だるげに脱力し浮遊する足たちはとても柔らかく、しなやかだ。足の腹には吸盤がつき、足先までずらりと並んでいる。絡めとられればきっと逃げることは敵わないだろう…否、敵わない。娘はそれを身をもって知っていた。
そう、それはまさに――――蛸の足としか言いようがない。
「マールー。何かこう…楽しげな話題は無いのかしらぁ…」
「そうですねぇ…」
マールーと呼ばれた猫人の娘は言われたまま記憶を反芻する。
しかし主人を喜ばせられそうなスキャンダルなどは彼女の秘書の一人を務めるマールーでも掘り当てることはできなかった。
目が合った主人は早く言えという意思を視線に乗せてくる。仕方なく、耳に挟んだ時事をマールーは口にした。
「…スラヴィアから幽霊船団がまたやってきて好き勝手したそうです。姫のところが被害を被ってご立腹だとか」
「もう知ってるわよ。既に手も打ってるし…全然楽しくないわぁ、やる気出しなさいマールー…」
「とは言っても……」
この主人の悪い癖だ。
退屈は美容の敵とばかりに常に刺激を求めている。子供のように興味のあることに食いつき、周囲なんてお構いなしに振り回す。
そうして飽きたところでまた退屈だと言い出すのだ。
マールーは秘書として彼女の横にいる間、一日とて欠かすことなく彼女の『退屈』という呟きを聞いてきた。
裸身を浴槽の縁に預けたまま彼女は行儀悪く酒盃を口に含む。
「…マールー、そういえばぁ…あの子は、そろそろ帰ってくるころかしらぁ…」
「あぁ、そうですね。出発したのが昨日の昼…いつもの通りなら今ごろ出発した頃でしょうか」
「情報が古いわぁマールー、あの子が出たのは今日の朝で小一時間前にはこの近くまで戻ってるっていう話よ…」
え?と、マールーが聞き返そうとしたその時だった。
床が、船が、軽く揺れる。
それまで怠惰をありありと浮かべていた彼女の顔にゆらりと笑みが滲む。
マールーもその揺れで誰が船に乗ったか、いや帰ってきたか理解ができた。いよいよ慣れたものだ。もうこの揺れに驚かなくなって久しい。
最初の揺れからしばらくして、微細な振動が徐々に大きくなりつつ近づいてくる。
やがてこの豪奢で巨大な浴場の前までやってきたその振動は、がらりと騒々しい音を立てて一気に扉を開いた。
外に逃げていく湯気と共に浴場へ入ってくるその体が視界に膨らんで、膨らんで、際限なく、膨らんで――――膨らみきった。
「た、ただいま。おねーちゃん、マールーさんっ」
「あらぁ…女の子はそんなにのしのしと歩いちゃあ駄目よぉ…?おしとやかに歩かなきゃあ」
「そ、そうかな?ごめんなさい、おねーちゃん」
「いいのよ…元気があるのも、それはそれでいいことだわ…お帰りなさい、ノンノ」
「うん!」
自分の遥か頭上に浮かぶ無邪気な少女の笑顔に思わずマールーも笑みがこぼれる。
この元気な巨体の"少女"をここで預かるようになってどれだけ経ったろうか?すっかり思い出せないほどには経過したろう。
身の丈およそ3.6メトル。垢抜けないあどけない顔つきとかわいらしい声には似つかない、トロルもかくやといった体つきはしかし、その下半身で否定される。
10本のうち特に太い8本の触腕をノンノというこの娘は器用に2本ずつまとめ4本足となって地上を歩く。残りの細長い2本の触腕は腰から伸びる二対目の腕代わりだ。
そう、この大きな体でもノンノはれっきとした人魚だ。あまりに巨大すぎるその体はかの有名なクラーケンとの間の子ではないかだの、戦神ウルサの使徒ではないかだの、噂は山とあるが全て定かではない。
「ノンノ…それで、ちゃんとお使いはできた…?ラウダフルはちゃんと優しくしてくれたかしらぁ…?」
「うんっ。おじさんね、ノンノにとってもよくしてくれるよ?荷物、全部運べたよ?海賊団のみんなもノンノに優しくしてくれるよ?」
「そう…あの大男、ノンノには甘いからねぇ…」
艶然と、しかしどこか慈母の雰囲気が混じった微笑で彼女はノンノの話に相槌を打っている。
他人のことを言えたものではない。この人もノンノに甘い者の一人だろうにと内心マールーは思う。しかしそれだけの愛嬌のある子だ。
亜麻色の髪をノンノはいつも編み込んでアップにしているが、つけている花を象った控えめな髪飾りは特注の大きさだ。ノンノの誕生日にここの者たちが全員で送ったのだ。船大工ギルドのドワーフたちにかなり無理を言って頼んだものだった。
風呂場のにいる今でこそ純白の雪を体現したような上も下も白い裸体を晒しているが、ついこの前は件のラウダフルからこれまた特注の服を貰っていたか。あの海賊王はノンノを孫のように可愛がっている。
粗暴者の多いオルチの海賊団の連中ですら同胞たる人魚のノンノを手酷く扱う者はそういない。ノンノは人に愛される才能を持った子だった。
この娘の下半身の白にはうっすら金箔をまぶしたかのように金色が走る。その足をもじもじと動かせ、白い裸体をほんのり朱に染めてノンノは恥ずかしそうに言った。
「でね?でね?ノンノ、頑張ったよ…?」
「ええ…話はもう聞いてるわ…完璧な仕事だったわねぇ…」
「そ、そう?わぁい!褒めて、褒めて!」
浴槽の縁に近づけたノンノの頭を彼女は浴槽から体を浮かせると優しく撫でる。そこから彼女は世間話でもするかのように切り出した。
「ノンノ…ラウダフルのところ…何をしていたかしら…?忙しそうだったでしょう…?」
「え?う、うん。なんでおねーちゃん知ってるの?なんだかね、すっごくばたばたしてたよ?ノンノ、お邪魔かなって今日の朝出てきちゃったよ?ちゃんとお礼言ったよ?」
「そう……それじゃ、私も多少は動くべきかしらねぇ……マールー」
「………え?あ、はい!」
「何を呆けてるの…」
ノンノと彼女のふたりの会話に気を取られていたマールーはいきなり話を振られて思わず聞き返してしまった。
縁に体をあずけた姿勢のまま流し目を彼女は送ってくる。
「…船の進路を『スキュラ』にとって頂戴。ネモチーにコンタクトを取るわ…」
「それは、その」
「今回は商談よぉ」
それで話は十分、とばかりに彼女は湯船から立ち上がった。まるで海に現れた陽炎のようにゆったりとした仕草で。
先ほどの怠惰な雰囲気に少しだけやる気が混じっている。浴槽から出て艶やかな裸身がようやっとその全貌を明らかにした。
身長はドニー・ドニーの中では決して高いというわけではない1メトル90サンチほど。それでも下半身の大きさから目の前にするとかなり圧迫感がある。
腹部、人体でいう子宮のあたりに怪しげな紋様の刺青を入れている。そこから揺らめく炎のような細い刺青が乳房まで伸びていた。
ぴたぴたと吸盤が床に吸い付く微かな音を立てながらノンノに顔を向けて彼女は言った。
「ノンノ…長いおつかいだったのだから、ちゃんと水の精霊に体を洗ってもらうのよ…?」
「う、うんっ。ちゃんと御礼も言うよ?」
「よろしい……風呂から出たら、悪いけれどまたお使いを頼めるかしら…?私は、これからお仕事だから…マールー、来なさい」
薄く口の端に笑みを浮かべ、そのまま振り返ることなく出口へ向かっていく。
少し寂しそうなノンノだったが無理を言えぬことが分かるくらいに聡い子だ。それじゃ後でね、と手を上げてマールーは彼女が出て行った扉の先を追った。
ノンノを磨く水流が発する滝のような音を背に扉を閉めれば、そこは浴場と同じくらい天井が高く設えられた更衣室。風呂場の絢爛さとはうって変わって簡素な作りだが、ところどころの彫刻が品の高さを感じさせる。
こんなに天井が高く作ってあるのもノンノのためだけではない。この船の主、彼女の趣味によるところが大きい。
そんな無茶を出来るだけの力が彼女にはある。
当の本人を探せば、今まさに髪をかきあげて水滴を飛ばしているところだった。
そこにあって佇む姿は黒百合のごとく。引力が働いている錯覚を受けるほどにその存在感は怪しく、得体が知れない。男女を問わず惑わし惹きつけ、食らう女。
燃え上がるような赤銅色の瞳がマールーを見つめている。
「仕度を…手伝ってくれるかしらぁ…?」
「…はい、パルジェリラ姐さん」
ドニー・ドニーに名を馳せる七大海賊、そのうちのひとつ。「八首海賊団」。
その首領であり八首海賊団の全ての女の頂点に立つ者"毒婦"パルジェリラは淫猥に微笑んだ。


報告を受けて双眼鏡で窓の外を見たネモチーが「げぇ」とすっとんきょうな声を上げたのと、当然同室にいた者たちが彼を見たのはほとんど同じタイミングだった。
苦い顔でネモチーは唸るように言う。
「……パル大姐だ」
海賊王ラウダフルが操る巨大船ラウラハヴを除けば、この海で最も大きい船のひとつ『ウィルヴァルディ号』通称"御殿"の船影を見間違えようはずもない。
ネモチーと同じ七大海賊団の一席、ドニー・ドニー中の娼館に女を供給するという八首海賊団がここを目指しているのは明白だった。なにせ、彼女はこの『スキュラ』の船自体の保有者だ。
ちょうどネモチーは『スキュラ』の事務室を視察に来ていたところだったが、室内のほとんどの作業員が瞬時になんとも言えない表情になったのは彼女とネモチーの関係をよく知る者たちだったからだろう。
「いいから仕入れの手は止めるな、スラヴィアの暇人どもが今撒き散らしている災難は俺たちには儲けのチャンスなんだからな」
―――――まぁ、その暇人どもの様子が少しだけおかしいのは気になるが。
パル大姐は俺が相手しなきゃならんだろう、とだけ残して足早にネモチーは部屋の外に出た。どこか気遣うような複数の了解の意だけ後ろ髪に聞く。
今の騒動に関係しての来訪なら相変わらず耳が早すぎる。あの女に見通せぬものなどないのではないかと思わせる程に。
しかし、こう――――
「……来るなら来るで、一言くらいあっていいだろうに」
いつも大姐は唐突にやってくる。嵐というには益にならないことはしない女だが、心臓に悪い。
この海の中でもパルジェリラはネモチーにとって数少ない『どうにも頭の上がらない女』だった。
「ネモチー!またあのタコ女が来るんですって!?大丈夫!ネモチーの頭痛の種はあたしが消してやるから!」
「やめとけスーストラ、だいぶ前にお前パル大姐に踊りかかって3日3晩寝込んだの覚えてないのか?」
鼻息荒く横合いの通路からやってきた灰毛のハーピィの女をどうどうとネモチーはいなす。
スーストラは『黄金の杯』の中でも新入りの方ながらいっとう腕の立つ女だが、少々血の気が多いのが玉に瑕だ。それに、さすがに相手が悪い。
「ち……ちょっとぴりぴり痺れただけよ!次は絶対仕留めてやるんだから!」
「駄目だ。次そんなことをしたら本当に殺されちまうぞ?パル大姐の毒は一瞬で死ねるようにも七晩苦しみぬいて死ねるようにもできるんだぜ。スーストラ、俺はお前がそんな目に会って欲しくねぇな」
「ネモチー……」
立ち止まったネモチーはさりげない仕草でスーストラの首筋に手を伸ばし、顎に触れる。
どぎまぎと顔を赤らめる彼女に囁くようネモチーは言った。
「お前が俺のことを大切に思ってくれてるのは分かっている。パル大姐はちょいと茶目っ気があるだけさ。お前の七大海賊にも喧嘩を売れる度胸は買ってるんだ、無駄死にだけは俺がさせねぇからな。これは命令だぞ?」
「う、うん」
「分かったらこれからは絶対にああいうことはナシだ。言ったろ?お前のナイフを振るう奴は俺が決めてやるってな。愛してるぜスーストラ」
しおらしくごめんと言うスーストラの頭を撫でて別れを告げ、ネモチーは私室へと急ぐ。
さすがに普段着というままにはいかない。それなりの礼服に着替える必要がある。
「しかし…スーストラ、本当にわかってるんだろうな?」
ラ・ムールの剣闘士として戦っていたのを身請けして早何ヶ月か。血気盛んな上に常識知らずでたまにああいう無茶をやらかす。パルジェリラにからかわれているのにキレて襲いかかったときはさすがに肝が冷えたものだ。
つまらんことで死んでくれるなというのは本心から出た言葉だ。
「根は優しい、いい女なんだがなぁ……」
ぼやきつつネモチーは私室の扉を開いた。


「ネモチー。この前の元気なコは今日は連れてないのかしらぁ…?」
応接室にはいったネモチーに対し、開口一番がそれだった。辟易とした顔をするネモチーを誰が責められただろう。
当の本人はすました顔で応接室に一人、迎え酒を煽っている。緋酒はこの女の趣味で、好んで飲む。
生き血をすすっているようだ……とは、若い頃からネモチーがずっと思うこと。
「スーストラか。もうあんなことはしないよう、きつく言っておいた。あのときはすまなかったと言っただろう?」
「別に責めてないわよぉ…可愛いコだったわね…。美味しそうだったわ。ああいうコ、好きよ…」
ぺろり、と唇を舐める舌の赤が目を引く。
パルジェリラの悪い趣味だ。女は"玩具"にしてしまう。ネモチーは何度か御殿で現場に遭遇したことがある。
精密に彼女の体内で調合された毒によって感覚を狂わされて完全に正気を失い、8本の触手によって体を苛め抜かれていた。あるいは本当に生気でも吸っているんじゃなかろうか。
女はあくまで優しく抱くものだ。ことこの話に関してはいくらパルジェリラといえどネモチーは下がれない。
「悪いが、スーストラは俺の女だ。パル大姐でも渡せやしないね」
「あら。あなたの女を壊しちゃおうとまでは思ってないわよぉ…自分から言ってきたら別だけど…。そこは約束したげる…」
「本当かい」
「ネモチー…。私があなたとの約束を破った覚え…あるかしらぁ…?」
そういう根っこのところはこの女もドニー・ドニーの海賊であるのはネモチーも理解していることだった。
もはや商売を始めた頃からの長い付き合いだが、記憶にある中でこの女が約束を破ったのはわけありとはいえただの一度だけだった。
ふと背後に気配を感じる。ネモチーが軽く振り返ると、浅黒い肌の美人がまるでネモチー自身の影から這い出たように立っている。エイラ、ネモチー一番の秘書だ。
それで気を取り直した彼はエイラに自分の後ろに控えるよう目線で指示すると、パルジェリラの対面の席を引いてどっかと腰を下ろした。
「そうだなパル大姐。そしてあんたは意味のないこともしない人だ。どうせあんたのことだから、もう事態は掴んでるんだろう?手短に行こうぜ」
「……はぁ。あなたはいい男だと思うけれどぉ…ちょっと出来が良すぎね。ほかの女にはしている…遠慮というものは私にはないのかしらぁ…?」
「無いね」
即答した。
「俺は女には紳士的であろうっていうのが信条だが、あんただけは別だ。下手に出れば食われちまう。これでも精一杯虚勢を張ってるんだぜ?」
「嘘おっしゃい。ふふ…ま、いいわぁ…」
それまでちびちびと酒盃を舐めていたパルジェリラの雰囲気が、杯を机に置いた瞬間がらりと変わった。
表情も仕草も変わってはいない。ただ、だらだらと怠惰を含ませた態度から一気に七大海賊の頭として、利を考える者の空気を身に纏わせたのは肌で感じ取れた。
相変わらず食えない女だ。ネモチーは姿勢を正した。
「ま…今はどこも忙しいし、他が忙しいということはあなたは人一倍忙しいということだからぁ…"面倒な来客"はとっととお帰り願いたいのも分かるわ。早速本題に入りましょうか…」
「スラヴィアンどもの余興についてだな?」
「そう」
末端の方にはまだ噂話程度にしか伝わっていないが、現在ドニー・ドニーにはスラヴィアの幽霊船が複数『遊びに来ている』ことが確認されている。
存在理由が"暇を潰すこと"に集約しているあのはた迷惑な連中は隣国のドニー・ドニーにちょっかいを出しに来ることがしばしばある。
勝手な理由をつけてかなり遠慮なく『遊んでいく』ので、ちゃんと対策を立てていないと海運船の積荷と船員をすべて持って行かれたなどよく聞く話だ。
既にイツクシモ姫の一味が被害を受けており、怒髪天を衝く勢いで追い回しているらしい。他の高名な海賊たちも対策を取りに動いている。どこも忙しいのはそれが理由だ。
だが、ネモチーにとってはピンチはチャンスに他ならない。
「その調子じゃあ、もう始めてるんでしょうけれどぉ…当然、根回しは終わってるのよね…?」
「当たり前だろう?この『黄金の杯』の首領がこんな儲けどきを逃すものかい。だいたい、いの一番に光精霊への捧げ物をうちに買い付けてきたのはあんたじゃないか」
幽霊船対策に必須なのはなんといっても光精霊の存在だ。
日中闇精霊や濃霧に紛れて襲って来ることもあるが、やはり幽霊船で一番警戒すべきなのは夜戦だ。海賊といえど決して夜目が効く者ばかりではない。
しかし、夜は大人しい光精霊を働かせようとするとなかなかご機嫌取りが難しい。そこで、光精霊が好むものでおびき寄せ機嫌をとり目を覚まさせるのだ。
普段はあまり使いようのないものだけに在庫を抱えるネモチーのところには買い付けが相次いでいた。
それだけにとどまらず武具の発注、船の保険、物品の保険、船員の保険……取り仕切る『黄金の杯』には今働けば働いた分だけ金が転がり込んできている。
「パル大姐のところが鏡石を山と注文してきたところで俺もスラヴィアンどもが来ているのは間違いねぇと確信したさ。この海で一番の地獄耳はパル大姐だからな」
「あら…そんなに噂好きの女に見えるかしらぁ…?」
「今更よく言うぜ。しかし、そうなると」
わざわざやってきた理由が分からない。
ネモチー自身このドニー・ドニーでも相当な情報通であると自負をしているが、このパルジェリラはその上を行く。
恐ろしく広い情報網を持っていておそらくそれは国外にまで及んでいる。八首海賊団が不可解な行動をとっていたらそれはたいてい未来への先行投資だ。"女"の武器を宝刀とするかの海賊団の首領は伊達ではない。
ネモチーが今この場にいるのもこの女がその良すぎる耳で『30年前に』ネモチーの噂を聞きつけたのが一因なのだ。あの時まるで海の上で金稼ぎをする気はなかったネモチーを強引に海へ招待したのがこのパルジェリラという女。
以来、30年の月日が経とうともこの女だけはまるで歳を取らず女盛りを保っているよう見えるのはなにかの妖術なのか。
先の通り、意味のないままに人を振り回す女ではない。パルジェリラの来訪の意図を読んだネモチーは、やがてひとつの答えを考えついた。
「………まさか、"提督"までこのゲームに関わってるっていうのか?」
淀みもなく、しかし油断もなくその名を口にしたネモチーにパルジェリラは感情の読めない微笑を差し向ける。
「ネモチー……あなた、それは私の口に喋らせるには金貨がいる話よぉ…?」
「その情報なら言い値で買うさ」
幽霊船団提督アドミラ・レイス。存在そのものが災害。スラヴィア最古の貴族の一人だ。
最近はあまり噂を聞かず、半隠居したものかと思っていたが……。パルジェリラの地獄耳ならばいち早く動向を聞きつけていても不思議ではない。
あれが来ているならこんな悠長に構えている場合ではない。決然とした表情でネモチーはパルジェリラの目を真っ直ぐに見つめた。
「俺は俺の女たちとついでに野郎どもが守れるなら全ての金貨を失ったとしても惜しくはねぇ」
微妙に緊張感が漂う。背後で小揺るぎもしないエイラの黒い影がネモチーには頼もしかった。
「……………ふぅ」
しばし無言を貫いたパルジェリラはやがてひとつため息を漏らした。とても楽しげに。
「あなたのそういうところ、大好きよぉ…。深読みしすぎ、ネモチー。あのおんぼろ提督なら今頃領地で骨董にハマってるっていう話よ…安心なさい」
「そうかい、あんたがそう言うなら安心だ。それなら、今日はどうしてここに?まさかこんな真昼間から俺とベッドの中で一緒に過ごしたいってわけじゃないだろう」
「そうねぇ、それもいいけれど……残念、強いて言うなら商売かしらぁ…。風呂場の装飾、増やしたくてねぇ…。あなた、灰糞を買う気はない…?」
「灰糞…?」
灰糞とは闇精霊が好む柔らかい石ころのことだ。深海の底深くに転がっていて、その様子が曰く灰色の馬の糞がたくさん転がっているようであることからそういう名前がついている。
時折鮮やかなピンク色をしたものがありこれは宝石として珍重されている。だが……。
「今は光精霊の話だろ?スラヴィアンの連中に灰糞は売れねぇぜ。なにせあいつらこちらに来るときは海の底を通るついでにゴマンと拾っていくんだから」
「そうねぇ、いつもの通りならねぇ…」
「『いつもの』?」
怪訝な声音で聞き返したネモチーを遮るように突如外で物凄い音が轟いた。
大波の音だ。目を剥いたネモチーが窓の外を見ると、海を割って何か巨大なものが現れようとしている。
すわクラーケンか何かかと思わせるほどの大きさだが、身構えたエイラをネモチーは片手で制した。正体を把握したからだ。
波の中から現れたのは白の巨体。
「おねーちゃーん!持ってきたよぉ?あ、ネモチーおじさんこんにちわぁ」
化物と呼ぶにはあまりに可愛らしい声でパルジェリラを呼ぶそのあまりに大きな人魚―――ノンノは、肩に帆船の帆に使えそうなほどの大袋を軽々と担いでいた。
ずっしりと重いのか、海面へ向けて袋が垂れ下がっている。小さな海運船なら載せただけで沈んでしまいそうだ。
ひらひらと手を振ったパルジェリラは、ネモチーに向き直って言った。
「ラ・ムールじゃあ今ラーがご機嫌斜めで困ってるらしいわぁ…『よその国に迷惑をかけていたとしても、ま、不思議じゃないわねぇ』」
意味ありげにゆっくりと言ったパルジェリラの言葉でネモチーはすべてを察した。
否、このドニー・ドニーに関わる者たちの状況やバランスを知り得るネモチーだからこそ察し得た。
やはり、この女の地獄耳は末恐ろしい。
「ひどい押し売りもあったもんだなパル大姐。………買わせてもらうぜ。光精霊への貢物もそろそろ切り上げなきゃならねぇな。ついでにノンノにお土産を持たせてやっても構わねぇな?」
「あなたも好きねぇ」
パルジェリラにしては珍しく、邪気の無い呆れたような笑い顔を浮かべた。


「結局なんだったのです?パル姐さん。ノンノに私たちが備蓄していた灰糞すべて持って行かせて、本当に売れるのかなと思ってましたけど……」
「あぁ、アレ?」
夜。
御殿へと戻ったパルジェリラが自慢の風呂場でいつもみたくだらだらとしていたところで、マールーは彼女の背中を流しながら聞いた。ずっと気になっていたのだ。
退屈そうに欠伸をしていたパルジェリラは、そうねぇと一言開けて喋りだした。
「《アフド・クラジニー》は知ってるわよね?」
「地上の太陽ですね」
かつてのラ・ムールの英雄"獅子王"がスラフ戦役において没した場所であり、彼が太陽となって今も昼夜問わず輝きを放っている場所のことである。
かの地ではスラヴィアの領土でありながらラーの神気に満ち満ちており、スラヴィアンたちは今なお立ち入ることさえできない。アンデッドにとっては目の上のたんこぶのような土地だ。
「その《アフド・クラジニー》が、どうかしたのですか?」
「今ねぇ。『お外』の"げぇむ"がクリアできなかったせいで…ラーがご機嫌斜めらしくてねぇ。八つ当たりで神力が膨らんでるせいで《アフド・クラジニー》の影響範囲が広がっているみたいなのよ」
「はぁ」
「慌てたのはドニー・ドニーに遊びに来た幽霊船団の連中…。なにせ意気揚々と凱旋に使うはずだった航路が軒並み御釈迦よ…。これ以上《アフド・クラジニー》が広がる前に逃げ帰る算段なわけ…で、日中大きく迂回するには闇精霊のご機嫌取りに使う灰糞が足りないと」
いい気味よねぇ、とパルジェリラ。
「ここから先、光妖精が必要なのはイツクシモ姫のところだけじゃないかしらぁ…?あの子たち、大事な積荷を取られたらしくてかんかんだから…。まぁ、そこらへんの調整はネモチーなら完璧にこなすでしょう…私は余っていた灰糞を全部売っぱらえて大儲け、ネモチーは察知した情報で金融を転がしてさらに大儲けって寸法よ…」
「ネモチー、黄金の杯海賊団はうまくやるでしょうか?」
「当然よぉ…。あの子は私が認めた数少ない出来る男…。今回も様子がおかしいことには薄々気づいてたみたいだし、このくらいは小手先よ…ああ、ときめいちゃうわねぇ…♪」
くすくすと宝石箱の中身を開けるのが楽しみでしょうがないといったふうに笑うパルジェリラにマールーは別の感想を抱いていた。
この人はいつそんなことに気づいていたのだろう。秘書のひとりたる自分ですら知り得なかったのに。
「いつもパル姐さんの耳の早さには驚きます。ドニー・ドニー内のことならともかく、スラヴィアのことまでなんて」
「馬鹿ねぇ…。世界には男と女がいるのよ…?女が世界中にいる以上、私の耳は世界中にあるようなもの…」
得体の知れない表情でパルジェリラが横顔をマールーに向ける。背筋が寒くなった。
ドニー・ドニーにはこんなことわざがある。『八首の頭領の足はドニーの男共の首にいつでも絡みついている』。
マールーはパルジェリラの無数の足がこの船から世界中に伸びているのを想像した。そうして伸ばした足の先で毒を盛るのだ。
「……パル姐さんは怖いお方です」
「怖くないわよぉ…?むしろ、とぉぉっても優しいわぁ…優しさの行く先がどこかまでは別の話だけどねぇ……」
風呂場のむせるような湯気の中、夢幻のように八首海賊団船長の声が響く。
また普段通りの面倒くさそうな欠伸をふわぁとするとパルジェリラは突然マールーの前に向き直った。
「マールー、そういえば…ノンノはどうしたかしらぁ…?」
「え?ノンノですか?昼間頑張って疲れたみたいで、もうぐっすりと…」
「そう。なら好都合ねぇ……」
「えっ」
嫌な予感を感じて後ずさったが、既にマールーの足にはパルジェリラの足が絡みついている。
足を取られ、勢い余って尻餅をついたマールーにパルジェリラがゆっくりと迫る。
その下半身はだんだんと紋様が浮かび上がり始めていた。瑠璃色の鮮やかな斑紋がくっきりとその存在感を示し始める。
何も知らない者が見ればパルジェリラの美しさがさらに際立つ光景に目を奪われるだろうが、しかし、これは。
「か、勘弁してください!」
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない…?気持ちいいだけよぉ…知ってるでしょう?」
「いや!でも!その『気持ちいい』は!」
この紋様が浮かび上がるのはパルジェリラが毒を操る時のシグナルだ。どういうレベルかというと、猛毒と呼ばれる繁殖期以外のダークエルフの体液を真水のように飲み干し、逆にぐちゃぐちゃに乱れ狂う玩具にしてしまうほど。
複数の毒を注入されて理性が一晩吹き飛ぶ!
足首にちくりとした感覚が走ったのをマールーは絶望とともに味わった。
「暇つぶしに付き合って頂戴……ふふふ……」
「あ………あ…………あ…………!?」
早くも体が疼き始め、目の端に涙を浮かべながらマールーは心の中で叫んだ。
この人の気まぐれにはついていけない!


  • 一気に立たせてきたというか描写が細かくて分かりやすエロいキャラでした。ネモチーがちょっと勢力として強くなりすぎていないかな?とバランスをふと考えたりも -- (とっしー) 2013-12-11 21:15:12
  • 一発でスキュラ海賊団のキャラが立った! -- (名無しさん) 2013-12-11 22:51:56
  • キャラ立ちは毎度秀逸と感心する。色んな戦闘で強キャラですねパルジェリラ! -- (名無しさん) 2013-12-12 22:37:08
  • 美人も巨体も触手面白い。物欲じゃなくて心の欲を満たしたいってのが並みの海賊より一歩先に進んだオーラある -- (名無しさん) 2014-06-16 08:21:32
  • 有閑妖艶事情通海賊触手女船長!盛りすぎなのに破綻してないエロ面白い -- (名無しさん) 2014-07-15 23:25:13
  • 美しく妖しく艶やかであり続けることがこの海賊団の力なんだろうなと -- (名無しさん) 2015-10-06 21:57:08
  • 様々な登場人物と緻密な舞台背景が栄える話でした。有閑マダムの様相ながらも確かに強者と思わせるパルを軸にドニー以外の国も絡めての構成は素晴らしいの一言でした。コミカルながらもビジネスとパワーバランスなどしっかり描写されていて緊張感がありました -- (名無しさん) 2018-10-07 18:46:40
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最終更新:2013年12月11日 21:13