海の蒼を引き裂いて降り注ぐ月光があまりにも鮮烈で
思わず俺は海上に顔を出した
黄金の満月を一瞬で切り裂いた影
それが全ての始まりだった ──
久し振りに帰ってきた
ドニー・ドニーで、最近開店したという店を覗いた時、
豊満で隆々なウエイトレスや小さく可愛いウエイトレスではなく、その男の背中だけが目に入ってきた。
「隣、いいですか?」
「別に構わないが…他にも席は空いているだろう?」
海棲鱗族によく見かける滑らかな体表と肌理細やかな黒い鱗が、頭部周辺が特に多く剥げ抜けている。
「…“黒い怪竜(ナイトラグーン)”…!」
思わず口から出たその名に、彼の黒い眼球が反応した。
海運屋から突如、空運屋に鞍替えした海蜥蜴人
常軌を逸した速度での空輸は瞬く間にその名を浮上させた
しかし、鞍替えからそう長くなく彼は仕事の多くを断り
遂には仕事を全く請けなくなった
だが彼は空を駆け続け、そしてある日を境に飛ばなくなった
主に飛ぶのは“夜”だった
そんな彼を運送屋は“黒い怪竜(ナイトラグーン)”と呼んでいた
同じ空を飛ぶ者として聞きたいことは山ほどあるのに、彼の身から圧す空気が口を開かせない。
「少し昔話をしようか…」
彼は依然、グラスの中を見つめたままだが、鈍色の白歯が並ぶ口がゆっくりと動き出す。
美しいとか格好良いとかそういう次元じゃない
俺の奥底から湧き上がる感情が訴えるのさ
あれと同じ領域で飛べよ、と
そう、共感(シンパシー) ──
それまで貯めた金を全て握って飛び込んだ竜卵市場。
怪しげな猫人が広げる棚の上に並ぶ無数の中の一つだけが、俺を惹き付けた。
『飛びたい』
幻聴だろう。聞こえるはずがない。
しかし、俺の耳は確かにその声を聞いた。
ふっかけられた額に返事一つで金を払い、知り合いの空運屋に教えてもらった通りに孵化までこじつけた。
俺の鱗と合いそうな灰色の表皮に角の無い頭部。
『角無しは力の天井が低いんだヨ(笑』
皆はそう言ってはいるが、俺にはそれで良かった。それでなければならないとまで思えた。
それまで一緒にいた水精が取り成してくれた風精は気の良いヤツらばかりだった
俺と竜だけで飛んでいたのなら、半分も空を理解出来なかっただろう
海から空へ、仕事の舞台を移ったことの不安よりも
空を駆けることの面白さの方が大きかった
それでも俺の心には
それでも俺の心の底には、月を裂いた影の姿があった
そんなある日、空運屋の一人が墜落事故を起こした。
事故原因は速度の出し過ぎによる騎手と竜の姿勢制御崩壊だった。
『別に煽られたからとかそういうワケじゃない。 ただ横を抜けて前を飛ぶヤツに追いつきたい一心だった』
ベッドの上で包帯に巻かれた鳥人は、外で安静にしている三本角を申し訳ない眼差しで見やった。
『その速さは、人の身が耐え切れるモノじゃない』
『すれ違う一瞬で見えたのは、白い飛竜とそれに騎乗する白い狼人だった』
『角無しの白竜』
『こっちを一瞥もせずに前だけを見る狼人の眼は、スラヴィアン特有の闇が広がる目だった』
『抜きたくて、抜きたくて。追わずにはいられなかった』
次々とオトされる、いや自墜していく同僚の中で、未だ俺だけがヤツに出会えていなかった。
いや、出会いたくないという気持ちが何処かにあったのだろう。
そんな俺の気持ちを食い消したのは、灰竜のひと鳴きだった。
『行こう』
力強い双眸は、そう俺に訴えかけていた。間違いない。
若竜ながらも空を知り、その肉体は充実し完全に戦闘態勢に入っていた。
夜風が月空へと俺を誘う。
今、飛ぶべきなのだと。
ドニーを飛び立ち、
新天地と
オルニトの鼻先を掠めて
ミズハミシマに至る空路はほとんどが海上だ。
ゆっくり飛ぶには潮風と雲間の風景が心地良い空路。
しかし、一度速度を載せて飛ぶとなると様子は一変する。
新天地から吹く風をパスした後に一際横を殴ってくるオルニトの山脈が生み出すおろし風。
翼をもぎ取る如く、騎手を押し落とす如く。
しかし、ここで少しでも速度を落とせば、その時点で負け。
「…出会えたんですか?」
「ああ、“会いたい”と思っていたからな。 そう思えば会えると確信していたんだ」
鱗が数割剥げ落ちた額を摩る様は、少し赤らめた頬と相俟って少年の可愛らしさを感じた。
風をかわそうと高度を一つ上げようと見上げた空、満月。切り裂いた影。白い軌跡。
まだその場には横風が荒れているのに、白い体躯はそれを撫でるように急降下する。
上昇、下降、譲るなど有り得ない。衝突寸前、高度を保った二竜が並走する。
お互いにほぼ同じ位置を飛んでいるのに、その飛び方には明らかな違いがあった。
風を従い、障害をねじ伏せる力強い飛翔。風群の先頭を飛ぶも、白い孤高。
風と共に、風に推されその上を滑空する。若さを補うための工夫が、集団の中に混ざる灰。
無数に突き出す空気の柱を抜けると、後はもうミズハミシマまで完全に海の上。
かつて
ハピカトルが通り過ぎたその空域は、高高度だと狂った風の流れに巻き込まれて千切れる。
白と灰も流石に高度を落とし、海面に近い低空を飛ぶ。
少し距離が開いたが、まだ追い越せていない。身体一つ前に出ているのはヤツだ。
波立つ海面と水精霊が押し上げる空気が微妙な波を空にも伝播させる。
この波が、この速度域では体勢を崩す障害になる。
現にお互い真っ直ぐにではなく、微妙な左右の振りをつけている。
「どうしても運送屋というのは、使う獣の力が全てって思われがちなんだがな」
「違うんですか?」
「いや、その通りだろうな」
呆気ない応えに気の抜けた相槌でも打とうかと思った。
「しかし、それはあくまで運ぶ最中の話だ。
もしも、普段は出さない速度、限界を超えた挙動、日常では無い領域に入る時、
モノを言うのは獣を操る騎手の腕。大きく関わってくる」
想像以上に“乗れて”いるのは実感していた。
そうでなかったら、目の当たりにしているヤツの速度から離されていただろう。
「アンタはどんな気分なんだ? 俺は一杯一杯で冷や汗が止まらない」
風を読むには直接目で見ないとダメな俺の顔がどんどん削られていく。
汗だろうが一瞬で吹き飛ぶ中で、俺はどうしようもなく心地良かった。
そんな雰囲気じゃないのに、俺達は遊ぶ様に並走(ランデヴー)
手綱と鞍の境界も曖昧に、俺と灰竜の一体感が増していく
教えてくれ、この空に終わりはあるのか
教えてくれ、この夢は醒めるのか
低空から一瞬で高度を上げる。双方の竜が大きく鳴く。
ミズハミシマへと至る空で最難関と言われる雲海空域がその身で俺達を包み込む。
雲を形成する無数の水粒子が全身に纏わり付く。
その中にある風の通り道を狙って飛ぶためか、ヤツに一日の長を感じずにはいられなかった。
こっちは食らい付くのがやっとなのに、悠然と堂々と飛んでいやがる。
相変わらず前を飛んでいるが、危険なほどにお互いの距離は近い。
「付いて来い…というのか? 確かにこれだと皆無茶をしてしまうかもな」
何度も往復した距離感が、もうすぐ雲海を抜けるのだと告げている。
もし、抜けた先で離されていたとしたら残りの体力で追い抜くのは不可能。
一層厚みを増す雲、水の壁。流石にヤツの速度も下がってはいる。
しかし、その条件は俺も同じだった。
「同じ… いや、ここは…」
懐かしい匂いと感触が俺を包み込む。
「さぁ、泳ぐぞ!」
雲海の中の空気の道がヤツのルート。
俺はそこまでの道を探し出せないし、作ることも出来ない。
だが、ここには水精霊がいた。
手を伸ばす。雲間に向けて。
「ヤツをここで抜けるのなら…どうなっても構わない!」
前へと伸びる風の螺旋回廊を、水の壁が滑らかにする。
羽ばたき、回転、風と水が押す力。
「すまない…恩に着る!」
皆の力だが、飛ぶのは俺の我が侭だから、礼を言わせて欲しい。
飛び出した夜空、黒い世界
月光を浴びたのは俺達
何が違っていたのかと言えば、ヤツが完成していて、俺が未熟だったからだろう
それとも、たった二人っきりで飛び続けたヤツが力尽きたのか
一瞬振り返った背後で見えた白狼と白竜は、まるで笑っているように見えた
勘違いでも良い
そうでも思い込まなければ、すぐに塵となって消えた二人が
悲しすぎる
「…と、まぁそんな昔話だ」
「結局その騎手と竜は何者だったんです?」
強面のウエイターが差し出した小グラスを一気に飲み干して、度数の強さを伺わせる吐息を流す。
蜥蜴人が微笑を浮かべる。
「スラヴィアンだったと言うのなら、地ではなく空を駆けたかった狼人かも知れないし
誰よりも速く飛びたかった白い角無しの竜だったのかも知れない。
しかし、そんなことは俺にはどうでも良かった。
あの夜の空だけで俺は満足なのさ」
代金をカウンターの上に置き立ち上がった蜥蜴人にウエイトレスがすぐに明るい声で挨拶する。
「まぁ、あんたみたいな人には縁の無い話さ。御伽噺とでも思ってくれればいい」
「?それってどういう…」
「メノー!ワナヴァンの準備できたよー」
扉の前で擦れ違う
エルフと蜥蜴人。
エルフはカウンターで振り向く男に駆け寄り、立席を促していた。
「守るモノがある奴には…立ち入れない領域なのさ」
ひと時でもそれは確かな現実だった
全てを受け入れる空、どこまでも果てしなく広がる空
そんな空を彩るのは、そこで生まれた数々の伝説(レジェンド)
誰に知られるもので無くても良い
俺だけが、知っているだけで
満足だ ──
- 色んなものが混ざっているけどそれもジャスティス…。飛竜レースはなるほどあるなと思った -- (名無しさん) 2014-01-03 11:50:20
- レーシングラグーンなのか湾岸なのか吹いた。塵になったスラヴィアンの願いは自分より速い者と出会うことだったんだろうか -- (名無しさん) 2014-01-03 20:41:43
- スラヴィアンは本当に劇的。某レーシングRPGのパロだと思っていたらちゃんと異世界してていい意味で裏切りの空 -- (名無しさん) 2014-01-07 23:26:46
- 狙いすぎなのに意味のわからないかっこよさが… -- (名無しさん) 2014-01-24 23:35:35
最終更新:2014年01月03日 03:05