「赤字なのだわ・・・」
牧場にある事務所で最新式のソロバンを弾きながら、彼女は大きなため息をついた。
「この世には神もホトケも無いのだわ」
ちなみに11門世界と呼ばれるこの世界には、神は実在する。
彼女の暮らすこのミズハミシマには龍神が実在する。
また、彼女の種族であるゴブリンが数多く暮らす
ドニー・ドニーには、戦神が実在する。
神は居るのである。
しかしながら彼女はそんな神々を奉ってはいない。
彼女の一族は戦神「
ウルサ」に祈りを捧げても、銅貨一枚も儲からないと切って捨て、独自の神を祀っているのである。
今いる神々よりもっと古い神である「名も伝わらぬ幣神」をモデルとして、貨幣流通の象徴として擬神化されたものだ。
それを拝貨教と勝手に名付けた独自の宗教観で拝み倒している。
彼女自身は、それを拝んだところでやはり銅貨1枚も儲かることは無いだろうと思っているのだが、
ゴブリンの論理からすれば「ウルサ」を祀る神殿に流れるお布施分は回収できているという事になる。
それがわからぬから、いつまでも低っ鼻扱いなのである。
ゴブリンの有名なことわざに「鼻の高い者は銭の臭いをよく嗅ぐ」というものがある。
身体的特徴として鼻の高い者の多いゴブリン種族の守銭奴っぷりをよく表わしたことわざであるが、
裏を返せば鼻の低い者は、ゆえなくとも商売下手と馬鹿にされる下地があるということでもある。
生まれつき鼻の低いアリョーシャは(と言っても地球人と大差ないほどには高い)ことあるごとに馬鹿にされていた。
そして難儀なことに、商売もあまり上手くなかったのである。
ちなみにホトケとは。
「いやーまいったまいった。でも地獄にホトケってのはこういうコトなのかもなー」
赤字に次ぐ赤字でこの世の終わりのような表情をしていたアリョーシャに比べ
この世の春を謳歌するにも程があるニヤケ顔で、一人の地球人男性が事務所に入ってきた。
笛野瑪瑙(フエノメノー)である。一言で言えばアリョーシャの苦悩はこの男のせいなのである。
泥だらけの騎竜着(ドラゴネアジャケット)をグチャグチャに脱ぎ捨て、遠慮なしに竜靴も脱ぎ散らかす。
そしてドサッとソファに座り「アリョー。お茶ちょうだい」と言い放った。
もし仮にこの世界に生きる人を「ダイスの数で表わす」ことが出来るとしたら、
メノーの数値は幸運値が常人をはるかに振り切っているのだろうとアリョーシャは考えている。
そうでなければ説明がつかないことが多いのである。
客観的に見て、彼はただのチキュージンだ。
にもかかわらず、希少種のフェザーワイバーンの卵を得て孵化させて乗騎にし、少年時代から冒険者ギルドに所属して
実に20を越えるクエストを達成し、あまつさえそのうちの一つは「蛇神教団の壊滅」なのである。
アリョーシャは、ホトケというのはメノーに憑りついた他者の運を吸い取る邪悪な精霊だと考えている。
喩えるならば、縁日屋台で売っている『幸運の卵』が真実それであり、その化身とも言うべき存在なのだ。
『幸運の卵』なんてそこらの鳥の卵に絵具で色を塗っただけのものなのに、だ。
何より忌むべきなのは、そのクエストの内の一つに、彼女は命を救われた経験があるのだ。頭があがらないのである。
そんな弱みにつけこまれて、彼女はこの飛竜の牧場を営んでいるのである。
「今は忙しいから自分でお茶を淹れて飲めばいいのだわ」
わざとつっけんどんに言ってやる。ところがメノーは特に気にせず、火精霊のグリルにヤカンを乗せ、湯を沸かし始めた。
「まあ勝手知ったるなんとやらってヤツだなー
っつーかクロとかシロとかどこに行ったんだよ」
クロとはクローエという名の山羊人である。シロはシーロッカという名の、やはり山羊人である。
2人とも出身は
クルスベルグの山麓で、牧童として雇用しているのだ。
「牧場で仕事に決まっているのだわ。ヒマなのはメノーだけなのだわ」
直後に細身でクセ毛の
エルフが事務所に入ってきた。ただのエルフではない。旅エルフと呼ばれる種族だ。
「こら!メノー!子供じゃないんだから、脱いだ服はちゃんと片付けなよ!」
そう言いつつも自分でメノーの脱いだジャケットをてきぱきと回収して畳んでいる。
イスズ・サレンスカである。旅エルフゆえに男性でも女性でもなく、両性具有の存在だ。
とはいえ、諸々の経緯があり今はほとんど女性だ。
スポーツ選手のように引き締まった肉体と、まあ若干残念な胸の膨らみと、ハスキーな声になごりを残すのみだ。
イスズは風車洗濯へ汚れた衣類を放り込み、しばらくして戻ってきた。
「これからちょっと忙しくなるかも
さっきメノーが港の食堂でケンカしていた船乗りの鬼の仲裁に入って大ゲンカになって
お店の食器とか相当壊れたから弁償しなくちゃならなくなったんだ」
「はぁぁ!?つい先日もそんなザマだったのだわ!
あの時一体いくらかかったのかわかってんのかだわ!」
「ちなみに今回は金貨1枚の請求がきてるよ。
オーガの足をひっかけてガラス窓を割ったのが痛かったね」
「イスズも何で止めないのだわ」
「そりゃあ、オーガの足をひっかけたのはイスズだからだぞ。
俺はあくまでもケンカの仲裁までだった。
ほら、地球からコーヒー持ち込んだからアリョも飲んどけ」
そう言うとメノーは3人分のコーヒーを注ぎはじめた。
「だってお尻触るんだもん」
ぷうと頬を膨らませてイスズが言う。
「・・・で、どうするつもりなのだわ」
ソロバンをカチャカチャと鳴らしてアリョーシャがすごむ。
ゴブリンが最も許せない行為がある。それは無駄な出費である。
一般にケチとされる種族ではあるが、意外にも必要な経費や投資にはちゃんとお金を使う。
この辺りはもうひとつの守銭奴種族であるホビットと決定的に異なる部分だ。
しかし、無駄は許さないのだ。
「まあまあ。ここからが地獄にホトケで渡りにフネってヤツでさ。
じゃじゃーん。ギルドの探索クエストー」
メノーがおどけながら懐からスクロールを取り出した。
確かに冒険者ギルドの探索クエストが記載されている。
成功報酬はなんと破格の
ラ・ムール金貨3枚とある。
言うまでも無くラ・ムール金貨は、この世界で流通する貨幣の中で最も信頼されているものだ。
ちなみに冒険者ギルドと言えば随分大仰に聞こえるかもしれないが、
ハローワークに役所のボランティア係と観光案内所がくっついたような組織だと思えば、おおよそ正解だ。
「・・・で、何の探索なのだわ」
アリョーシャがスクロールを広げると、そこには『求ム!ファイヤドラゴンの鱗』とあった。
「いい加減にするのだわ!何を考えてるのだわ。
火竜の卵を獲りに行った時、死にかけたのを忘れたのかなのだわ」
「いやでもほら、その時だって結果オーライだったし。
それに借金も返さなきゃダメだしさ」
「それに、久しぶりに3人で冒険に出たいし。ね?」
激怒していたアリョーシャは、イスズのその一言に一瞬黙ってしまった。
「は?3人?」
「そりゃそうだろ。長旅になったら俺ら金勘定できねぇもの」
「ボクはできるけどね。でも、アリョーシャの方が交渉とか得意だしさ。
ね。一緒に行こうよ」
屈託なく笑う2人を見て、ああまた自分は流されているとアリョーシャは絶望した。
「牧場はどうするのだわ」
一応言うだけは言ってみる。
「お任せください姐さーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!」
事務所の入り口で、クロとシロが両手を振り上げて叫んでいた。
「あー!もう!」
アリョーシャはソロバンをバチバチと弾き、しばらくして言った。
「冒険期間は1週間!それ以上は経営の危機なのだわ。
これは脅しでも何でもないのだわ。おわかり?」
ビシッときめたアリョーシャに、4人がおおおと声にならないどよめきを発し、小さく拍手した。