「いらっしゃるのでしたら文の一つも頂ければ良かったのに」
「わしゃ気紛れ故のう。急にここの摘みが欲しくなったんじゃ」
場所は延の都中心部にある宮殿の奥、皇帝と神である金羅と極少数のお側役しか立ち入る事の許されない部屋。
その特別の部屋に金羅と赤ら顔で酒を呷る小汚い爺様が居た。
爺様は部屋にある豪奢な椅子には腰掛けず、床に胡坐をかいて酒瓶片手に目の前に置かれた延名産の干し肉の摘みをかっ喰らってる。
思いがけない相手のあまりに突然の訪問に、金羅は対応しようとした朱王・クウリさえ引っ込め自ら対応しているのだ。
目の前に酔いどれ爺様にどれ程の価値があるのか……普段は比較的チャランポランでミーハーな態度を取っている金羅でも、それをよく理解していた。
理解していたが故に、本当に目の前の爺様――『酒神』或いは『貴腐神』とも呼ばれる――が「摘みが食べたくなった」と言う理由だけでアポも無しに訪れたのか。その真意を計りかねているのだ。
「本当にそれだけでございますか?」
「はて? それ以外に何か理由が必要かのぅ」
異世界の神は自由だ。
ある神は食道楽に過ごし、ある神は命を弄んで遊び、またある神は戦いに明け暮れる。
それぞれ俗っぽかったり人間離れしていたりするが、この酒神は違った。俗っぽさが半端無いのだ。
女と酒と食と寝る事。それしか頭に無いのかと言うような、普段はどうしようもない酔いどれエロ爺なのだ。彼を知らない者が彼を見ても、誰も神と気付くまい。
しかしこの神がそれだけの神でない事は、この世界の神々なら誰でも知っている事だった。
「お惚けにならないで下さい。私も国産みの神の一柱ですよ?」
「ほっほっほ、まぁ飲め。まずは飲んでから話そう」
そう言って勧められた酒瓶を手に取り、金羅も負けじと酒を呷った。
「どうじゃ? 上手い酒じゃろう」
「えぇ本当に……ヒックッ、美味しゅうございます。 ヒック」
酒神が来た時と変わらぬ赤ら顔で訊ねた時、金羅は真っ赤な顔で床にほぼ寝そべるような体勢でそこにいた。
目は虚ろに開かれ焦点が定まらない様子だ。まさに「ぐだ~」と言う擬音がピッタリ当てはまる様相だ。
金羅程の者がこのヘベレケ状態になるには一体どれ程の量の酒を飲めば良いのか。
その答えは二人の居る場所以外、部屋の床全てを埋め尽くす酒瓶の山が物語っているだろう。
何れにせよ金羅はほぼ行動不能前後不覚と言う珍しい状態となっていたのだった。
「さて、金羅ちゃんが程よく酔いつぶれた所でわしの長年の夢を叶えて貰おうかのぅ」
そう言って徐に伸ばされた酒神の右手は金羅のふくよか、と言うよりわがままといった方が近い大きな乳房を触っていた。
「キャア!」
突然の感触にまるで初心な乙女のように悲鳴を上げてしまった金羅。
酔い潰れてもう動けないかと思われた体は、思いがけないセクハラに拒絶のビンタで反応した。
「なんじゃ、まだそんなに力が残っとったんかい」
「ふざけないで下さい!」
セクハラで一気に意識を覚醒した金羅が胸元を隠しながら怒りを表明する。
そのセクシーボディと色気むんむんな態度から彼女を痴女の様に思っている者もいるようだが、金羅は心を許した相手には全て許すだけで、他の男には意外と身持ちが堅いのだ。
普段の態度に反した金羅の乙女な性格を知っているが故の「良い潰し作戦」だったようだが、酒神の目論見は呆気無く潰えたのである。
「悪い悪い、目の前に山があったから登りたくなっただけじゃ。さて……」
「?」
叩かれた手を摩りながら酒神は懐から何やら一切れの紙を取り出した。
開きかけの紙には躍字が踊っているのが見て取れる。
「わしが帰ったてからこの文を開けて読んでくれ。大切な事が書いてある」
「大切な……事……」
そう、酒神はやはりただセクハラをしに来ただけではなかったのだ。
躍字が躍る一枚の紙を綺麗に折りたたみ直して金羅に渡す酒神。その顔は酒の赤みが抜け、威厳と威圧感溢れる顔になっていた。
金羅はそれを受け取り胸元で大事そうに握り締める。
「ではわしはもう行くでな。人と共に達者で暮らせよ」
「酒神様……はい。金羅は幸せです」
置き台詞を残し酒神はふらりと扉を潜って行った。
宮廷からは何も聞こえてこない。入った時と同じで酒神と言う侵入者に誰も気付いていないようだ。
酒神はどこにでもこうして現れるが、一体どうやって出入りしているのか――それは金羅にも解らなかった。
「モールテちゃん。あーそびーましょー」
「誰だい? 気色の悪い声で僕を呼ぶのは」
スラヴィアの王城――いくつも建ち並ぶ尖塔の一つ、一際高くそびえるその頂点に二人の声が響いた。
窓から差し込む月光と星明りは深い闇を湛える部屋の輪郭を顕にしたが、その全てを曝け出すには至っていない。
濃厚な闇のカーテンに隠された深淵から、一人の少女の姿をした神が姿を現した。
「っ!? これはこれは……貴腐神の爺様じゃないか」
「久ぶりじゃのう」
死神
モルテ。地球との
ゲートを開き異世界同士を繋ぐ事を提案した神だ。
その特性は享楽的で気紛れで、悪意を悪意と認識しないある意味最も純粋で澱んだ心を持つ神。
他人の言う事など聞く筈のないこの神の前に、金羅との対談を終えた爺様は訪れていた。
「もう一人のお嬢さんは居らんのか? ついでに犬っころも」
「サミュラは仕事してるよ。犬畜生の事は知らないね」
窓から射す二つの夜の明かりの中、社交辞令とも言うべき言葉を言い、酒神は豊かに蓄えたあご髭を一摩りした。
「まぁ、おぬしだけでも良いか。今日は大切な話しがあって参った」
「いつもおふざけの爺様がその様子だと、どうやら本当に大切な事みたいだね。聞いてあげるよ」
「と言う訳なのじゃ」
「へぇ……どうも出自がおかしいと思ってたけど、あいつそんな大それた神だったんだ」
この老人が月明かりと星明りの中、その話をするのには訳があった。
天の星は全て星神の目だ。そして天の月は
月の三女神そのものでもある。
夜空に輝く光の下、言葉にすれば全て伝わる。モルテもその事が解っている為、老人の話の最中、決して闇の中を出る事はなかった。
「奴は今やお主ら国産みの神と比肩する程までに成長しておる。神霊、邪霊、あらゆる者を取り込んで今尚力を求める有様じゃ」
「かつての力を取り戻したらちょっと危険かもね。でもその時は爺様達が居るじゃないか」
ふざけるモルテに酒神は「油断してはならぬ」と言った。
その顔に刻まれた深い皺の数だけ、この神もまた世界を見続けてきている。そう、遥か神話の時代――創世の時からずっとである。
「わしらとてかつての力は無い。今はお主らがこの世界の主神なのじゃ。その事、努々忘れるでないぞ」
「結局お説教かぁ。やっぱり爺様はつまらないや」
その天地開闢の神に対して国産みの神はつまらないと言い放ちベッドにごろりと体を投げ出した。
無礼、と言う概念は神々には無い。
神とはただ『我』があるだけ。その我を押し付ける事は合っても引っ込める事などありはしない。
『我』がぶつかる事になれば争いが起こり、そしてどちらかが滅ぶだけなのだ。そう、かつて戦神と鬼神がぶつかった様に……。
「この世界の事なんて関係ないね。僕は僕が楽しければそれで良いのさ」
「ゲートを開けた時のように……か?」
「フッ……」
死神の答えは寂しいものだった。
どこまでも我欲に正直であり続ける。それが答えだったからだ。通常の者ならこの時点で諦めている事だろう。だが酒神はその向こうにある更なる答えを見据えていた。
クレバーに、それで居て自然に、死神の口から望む答えが返ってくるよう、酒神は言葉と態度を選んだ。
「現に世界は面白くなったじゃない。色々なモノが入ってきてさ」
酒神はこの死神が繰り返してきた凶状を知っていた。普通ならとても彼の目的に協力するような神ではない。
だが酒神はそれで良い、と思っていた。
死を司り、悪戯に生命の死と不死とを弄ぶ大神。その行動は全てエゴに起因する。
その神のエゴのベクトルが、ただ自分と同じ方向を向けば良い。老人はそう考えていたのである。それだけが死神を、死神の力を利用する唯一つの方法。
「ま、この愉快で残酷な世界を弄ろうとする奴が居るなら……死の神が直々に死を与えるまでだけどね」
「それを聞いて安心したわい」
酒神は目的を達成し額に寄った皺を戻した。
その解かれた緊張を見て、死神は自分が乗せられた事に気付き一瞬舌打ちをしたが、すぐにそれさえも楽しもうと言う笑みを残して再び宵闇の中へと戻っていった。
「何だ何だ、急にどうしたってんだジジイ?」
場所は変わりドニードニー喜びの野、戦神宮に酒神の姿はあった。
出迎えたのは半裸に近いラフな格好の戦神
ウルサ自身。戦いの無い時のウルサは基本酒と快楽に溺れる享楽家なのだ。
「急に俺と飲み比べたいなんてよぉ。勝負となればこの戦神、例えあんたでも容赦しないぜ」
「結構結構。見事この酒神に勝って世界一の酒豪の称号、手に入れてみせよ」
酒神はそう言い持参した酒瓶を掲げて見せる。その酒瓶は注いでも注いでも中身の減らない魔法の酒瓶。
これから戦神と酒神の対談が始まる。
戦の神と酒の神による、どちらが酒に強いか勝負を兼ねた対談が。
「っぷはぁ~~~! 上っ手いねぇ~この酒最高じゃねーか!」
「そうじゃろそうじゃろ。わし自ら育てた実から作った極上の酒じゃ」
「おぅ、
アグール! 摘み持って来い摘み!」
「はいっ、ただいま」
対談の場は戦神宮戦神の間。石の床の上に豪奢な絨毯が敷かれており、その上にウルサは寝そべるようにして酒を飲んでいた。
その横に正座で待っていた鬼神アグールは、主人の命を受けてパタパタとドニードニー特産のお摘みを取りに行った。
酒の神が手づから作った酒は神酒――ではなくて、たんにとても美味な最高級の酒だったが、戦神を唸らせるには十分な一品である。
互いに魔法の酒瓶から一杯ずつ酒を取り、それを一気飲みしてまた次の酒を注ぐ。
そんな互いに一歩も譲らない攻防?が、かれこれも半刻も続いていた。
「アグールちゃんますます色っぽくなったのぉ~。おかわり……おっと手が滑ったわい」
「キャ~!」
「このジジイ!」
「痛っ!」
時々酔った振りをしてアグールにセクハラする酒神をどつきながら、戦神は酒神に酒の戦いを挑み続ける。
そして酒対決を続けながら、隙あらばアグールにセクハラしようとするジジイから最高の戦利品を守る戦いも続けている。
終ぞ記憶にある限りここ百年余り苦戦をした事が無いウルサは、酒神を相手に酒で争うと言う、このどうしようもなく不利な勝負に正直な所酒神の美酒よりも酔っていた。
「女は他にいくらでも居るだろうが! アグールにだけは手を出すなよ!」
「何じゃケチンボじゃのー。アグールちゃんのおっぱい触りたい」
「あ、あの……」
だんだん自らの欲望を隠さなくなってきた酒神に、アグールは神力を行使する事無く耐えている。
狙われた豊かな胸を手で隠し、それでも逃げる事も起こる事も無く戦神の近くに居続けるのだから大したものだ。
奇妙な表現だがもしかしたら、神の中で一番人間が出来ているのはアグールかもしれない。
「キモいんだよジジイっ!!」
「痛い!」
こうして何度目かのパンチをくらった酒神は、尚も戦神と酒の戦いを続けるのだった。
そして数時間後――
「どうじゃ? そろそろ降参するか?」
「まだまだ……俺は飲み足りねぇぞ……」
普通の一口が杯の一気飲みと言う異常な酒の飲み方をし続けたウルサは、量にして酒樽数個分と言うこれまた異常な量の酒を飲みやっとグダングダンの様相となってきていた。
限界なのは誰の目にも明らかだった。それでも決して負けを認めない。死ぬまで勝負を諦めない性分は流石は戦の神と言った所だろうか。
土台酒の神に対して酒で勝負を挑んでいる時点で勝ち目など鼻から無い訳だが、戦いの神はそんな事は気にしないのだ。
そんな無鉄砲極まりないウルサを見かねて、酒神はついに自分がウルサに自信を持って勝負を持ちかけた理由を明かそうと思ったのだった。
「はぁ、呆れた負けず嫌いじゃの。仕方ない、ほれアグールちゃん、わしのとウルサ坊の酒飲み比べてみぃ」
「は、はい……あっ!」
そう言われて二つの魔法の酒瓶から注がれた酒を交互に飲んだアグールが驚きの表情を見せる。
その表情に怪訝そうな顔を向けるウルサに、自分が今知りえた事を言ってしまって良いものか。アグールは一瞬の躊躇いの後、敢えて驚きの表情を作りながらこう言った。
「これ、ウルサ様の方が数倍強いお酒ですよ!? 見た目も臭いも変わらないのに!」
「なぁにぃ~!?」
そう、酒神が用意した二本の酒は、見た目も臭いも何もかもそっくりだが、アルコール度数がビールとウォッカくらい違う全く別の酒だった。
酒神は例え自分が酒の神でも、戦神とまともに戦り合えば必勝は難しいと踏んで初めから策を弄していたのだ。
それを知った戦神は、鬼神の心配通り激怒して酒神に掴みかかっていった。
「てめぇジジイ! イカサマしてやがったのか!」
「作戦と言って欲しいのぅ」
グダグダに酔い潰れた体のどこにそんな力があるのか、ウルサは酒神の胸倉を掴んで持ち上げてしまう。
世界最強の力を持つ戦神にこんな事をされれば普通、恐怖で気絶する者さえ居るだろう。だがこの爺様はそんな状況で尚、飄々と怒りを受け流していた。
「ま、どんなに力が強くとも頭を使わなければ出し抜かれると言う事じゃ。これ即ち兵法の基本なり。肝に銘じたかの?」
「うがぁ~~~!! 納得いかねぇ! もっぺん勝負しろジジイ!」
「また今度やってやるわい。そう焦るな」
兵法と言う単語を出された事によって、戦いを司る神は自分の負けを認めざるを得ない事になり、行き場の無い怒りを周囲の調度品にぶつけ始めた。
戦いの神は純粋に勝負を楽しむ者でもある。勝負は常にイコールコンディションの下公平公正に行う事を好むものだ。故に最後には必ず勝ってきたものの、それに至るまでに幾度かの敗北を経験してきた事があるのもまた事実だ。
しかし戦場には不公平や理不尽、不条理の方が遥かに多い事は理解している。そして不利な戦いさえも楽しむ度量をこの神は持ち合わせている。
だがそれでもやはり、勝負に負けて悔しいものは悔しいのだ。
ずるい手を使われてそれを見抜けぬまま敗北に至った己の失策にキレまくる戦神を見て、酒神は「なるほど、強くなるわけだ」と内心納得した。
「流石老獪でいらっしゃいますね。酒神様」
「なぁに、長く生きた分ズルイだけじゃて」
「フフッ」
そんな主人の暴れっぷりにはもう慣れっこと言わんばかりの落ち着きようを見せているのは、同じ神でありながらウルサに仕える鬼神アグール。
周囲で慌てる英霊達を尻目に、彼女は主人に代わり酒神が訪れた本当の理由を聞く事にしたのだ。
「ちくしょーーー! 誰か俺と戦えぇ~!」
「えぇー!? 無茶ですよウルサ様ー!」
「俺ら死んじゃいますって!」
「いーからまとめてかかってこーい!!」
『ひぇ~!』
後ろで繰り広げられる大乱闘を無視して、酒神は鬼神に事の次第を説明しだしたのだった。
「そうですか……そのような事が……」
説明が終わりアグールは表情を曇らせていた。
自分は戦いに負けて今の世界では戦神に仕える二流神のような存在だが、それでもまだ彼女を信奉し力の源としてくれている種族が居る。
その世界が望まぬ方向に変わってしまうのは我慢なら無い。そしてそれは彼女の主人、戦神ウルサも望む所ではないだろう。
戦神はその性質上他と強調して行動する事はあまり望めない。だが鬼神アグールが居ればその限りではない。
そう踏んで貴腐神はわざわざウルサに勝負を持ちかけ、負かした後にアグールに話をしたのだった。そしてその目論見は恐らく上手く言ったようだった。
「わしは心配なのじゃ。お主は昔から優しすぎる故のう。ウルサはあの通りの性格じゃし、お主がしっかり手綱を握ってやらねばただの鉄砲玉じゃ」
「そんな事は無いですよ。あの方はあぁ見えてやる時はしっかりやってくれます」
「負けて従わされとる者のセリフとは思えんのう」
「だってあの方、私が居ないとダメですから」
「前言撤回じゃ。お主が居れば安心じゃな」
「フフッ」
そう言って笑うアグールの笑顔は、状況や境遇に反してどこか安心しているような、そんな明るい笑顔だった。
ワイワイガヤガヤ。そんな擬音が似合う
新天地の酒場に酒神はいた。
ドニードニーの地を去った後、
ミズハミシマ、エリスタリア、
マセ・バズーク、オルニト、
セダル・ヌダの居る空間等を廻り、ようやく今世話になっている酒場に戻って来た所なのだ。
「一ヶ月間もお爺さんどこ行ってたんですか? 心配してたんですよ?」
「なぁに、ちょいと野暮用って奴じゃ」
猫人のウェイトレスが忙しそうに酒神の横を通りながら話しかける。
酒神は自分の事を酒神と名乗った上でこの店に居候していた。家賃は酒神の作る極上の酒と、注いでも注いでも中身の減らない魔法の酒瓶だ。
だがそれ以上の事はしていない。
自分がかつて世界創造の際、体の一粒を残して世界法則になった神の一柱である事までは話していなかった。
故にこの娘と両親で切り盛りするこの酒屋の従業員達は、皆酒神の事を「居るとご利益のある弱小神様」程度にしか思っていないのである。
それでも酒神はここを居心地良く感じていた。元々拝まれるのは苦手だったし、フレンドリーに接してくれるここの娘との関係が心地良かったからだ。
だからこの新天地を、今ある世界を守りたいと願ったのだ。
酒神の指定席はカウンターの一番奥、証明の届き辛い暗い寂しい位置だ。そこから酒神は店をボゥと眺めていた。
話し声と笑い声とが渦巻くこの酒場で、猫人の娘がテーブルを忙しなく渡り歩く姿は、まるで花を渡り歩くミツバチのようだ。などと考えていたその時それは起こった。
「全員伏せろぉ!!」
「えっ――」
酒神が突然五月蝿い酒場中に響き渡るような大声を上げてそう叫んだのだ。
多くの者は呆気に取られて伏せられなかったが、そんな者も一瞬にして酒神の力で無理やり地に伏せる事となった。
そして次の瞬間――店を横一文字に切り裂く白金の光と共に、酒場は突然崩壊したのだ。
「ごほっ! ごほっ! あっ! ニャァ~~~~~!? 私の家がぁ!」
「よいしょ……ふぅ、ジジイにゃ応えるわい」
崩壊した店の瓦礫の中から客や従業員、そして娘が次々と顔を出す光景を見て、酒神は一先ずは皆の無事を喜んだ。
「お爺さん大丈夫ですか!? 怪我は?」
「これしきの事大丈夫じゃ。それより……」
そう、それより問題はこの店をこんなにした者の方だ。
貴腐神が店のあった場所の北西方向を見ると、そこには白銀に光る鞭のような剣を持った
ケンタウロスが剣をしまいながら構えていた。
柔らかく硬いと言う矛盾した特性を持ったこの武器で、目の前の重騎士はあろう事か酒場一件分横一文字に両断して潰したのだ。
それは隕鉄から鍛え上げた剣――『星剣』の一振り。
イストモスに伝わる伝説の武具の一つだった。
「お嬢さん方は下がっとった方がええのう。どうやら狙いはわしだけのようじゃ」
「貴腐神ですね。あなたに怨みはありませんが……愛の為、死んでもらいます」
言っている事はめちゃくちゃだが尋常な強さではない事は第一撃目からしても明らかだった。
店に居た客や従業員は一目散に逃げ出し、ケンタウロスはそれら一人一人を全く水に全員見逃す。
『逃げろー!』
『まともじゃねぇ!ずらかれ!』
ドタバタとした喧騒とホコリの中、爺様は考えていた。
この重騎士の恐るべき所は星剣を持っている所でも一撃目から想像される総戦力の大きさでもない。
最も恐るべきはたった一人、自分を狙う為に何人居るかも判らない客全ての命を全く意に返さず攻撃してきたと言う点だった。
今もターゲット以外は見向きもせず、虚ろな瞳をじっと酒神に向けるばかりである。
最早この重騎士はまともな心を残して居まい……そう思った貴腐神は、襲ってきた敵さえも哀れんで瞼を閉じた。
「あ、あわわわわわ……」
「洗脳されとるのか。哀れな……お?」
そんな酒神の小さな体を抱きしめる者があった。
目を開けてみると、それは酒神をお爺さんと呼んで慕う店の娘だったのだ。
「何しとるんじゃ。さっさと逃げんか」
「お爺さんを残してなんか逃げられません」
「わしなら大丈夫じゃから早くお主も――」
優しすぎる娘に退去を勧め様としたその時、再び鞭の剣が二人を襲った。死を予感して叫ぶ娘。
だがその刃は二人の所に届く前に、虚空に存在する何かの力に阻まれてその軌跡を大きく逸らして着刃した。
「キャー!」
「これは――!?」
攻撃を防がれた事に驚くケンタウロスの重騎士。鉄の武具さえも切り裂く星剣の攻撃を防がれたのはこれが始めての事だったのだ。
抱き着く娘を名残惜しそうに引き離し、自分から離れるよう再び言った先神は、徐にボロボロの服の袖をまくり人の敵と正面から相対してこう言った。
「やれやれ、久しぶりにちょいと本気出すかのう」
「ぜぁぁぁぁあ!!」
「よっ、はっ、ほっ、ちょい」
「キャー! 危ない! キャー! キャー!」
鞭の剣が通じないと踏んだケンタウロスの重騎士は、戦法を接近戦に切り替えて酒神に攻撃を加えていた。
攻撃は苛烈を極め瞬きする暇も無い程の連撃が老神を襲う。しかしその全てを素手だけで、その外見からは想像出来ない流麗な動きで裁き切っていた。
初めは槍、それが砕かれるとハルバード、それも砕かれると今度は剣を手にし、それが砕かれても更にナイフで攻撃を繰り返す。
鉄の武器は尽くが腐るように錆付き、そして砕けていた。
貴腐神の力は酒を醗酵、熟成させるだけに止まらず、鉄までも瞬時に腐敗させてしまう力を持っていたのだ。
それを知ってケンタウロスの重騎士は一旦距離をとり、二本目の星剣――ホーミングブーメランであるバル・バラを酒神に向かって投擲した。
「これが貴腐神の力かぁ! ならこれはどうだっ!」
「むっ!?」
テミランの力の宿った隕鉄の武器までは、今の弱体化した酒神では腐敗させられない。
防御出来ない――そう判断した時、酒神はまた少しだけ力を使う事を選んだ。
――ムニュ――
「キャン!」
「パイタッチ成功じゃ」
何と距離を取りバル・バラを投げた筈の相手が、一瞬にしてまるで瞬間移動したが如く重騎士の眼前に現れたのだ。
「貴様――なっ!?」
ケンタウロスの重騎士――月影の騎士(セレネスリッター)アンジェリカ・マイヤードは、頭に血が上り背中のバスターソードに手を掛けた時、その違和感に気付いた。
鉄のフルプレートメイルを纏う筈の自分が何故胸を触られると言う事態に陥るのか?
その答えは簡単である。鉄の鎧は既に先程の一瞬で、貴腐神の力により酸化崩壊させられていたからだった。
そしてその事で冷静になった重騎士アンジェは思う。
この神は教えられた通りのただの弱小神ではない。物を腐らせるだけではない、もっと深遠なる力を秘めている、と。
「おぬしの負けじゃよケンタウロスの娘さん。まだやると言うなら次は直におっぱい揉ませてもらうぞい」
「貴様よくも……!」
直接触れておきながら鎧を崩壊させるに止めたのは酒神の優しさだった。相手は利用されているだけの女子。
まして神である自分が人を相手に本気で攻めるのは大人気無いと思っての事だった。だがそれは相手を侮辱しているとも取られかねない危険な手加減行動。
その事をアンジェも感じ取り一度手にしたバスターソードに力を込めたが、それを使った所で今までと同じ結果になる事は目に見えていた。
重騎士は剣を収めると踵を返しこう呟く。
「だが、今の装備では勝てない……か。次は殺す!」
撤退を決めたら行動は早い。瞬く間に見えなくなってゆく地上の王者ケンタウロスを見送りながら、貴腐神は遍く全てに存在する自分の欠片に再びの別れを告げた。
「大丈夫じゃったかの? 娘さんや」
「お、お爺さん一体何も――」
後ろで一部始終を見ていた酒場の娘は、酒神の単なる弱小神とは思えない凄さに唖然としながら、その正体を聞こうとした。
だがその口を人差し指で制して酒神――美しく変化し移ろい行く世界、その物質の変化の法則となったかつての天地開闢の神はこう言った。
「惚れたじゃろ?」
「バカッ」
娘は再び小さな爺様に抱きついた。
- 鎮元斎の爺さんっぽい酒神様かっけえ! タグがうまくいってなかったようなので勝手ながらいじっときました -- (名無しさん) 2012-04-08 05:25:13
- 本来から考えれば出力は千分万分の一とかなのにつおい腐れ神カッコイイ!あとやっぱりアグールさんがダメンスにドハマリする感じですよね!実に良い。 -- (名無しさん) 2012-04-08 08:27:51
- タグ修正ありがとうございます。天地開闢の神とか勝手に銘打ってしまったけれど大丈夫だろうか…… -- (筆者) 2012-04-08 12:43:42
- 自由奔放にちょっと神の威厳がピリリと効いて楽しい爺神でした。これでもかというくらいに神や人の味が表現されていて他の作品を読む際の想像にも役立ちそうです -- (名無しさん) 2014-04-20 19:41:50
最終更新:2012年04月08日 05:07