朱き帝國閑話①
1941年8月16日 11:00
モラヴィア王国 グレキア半島東部 都市リンゼン
モラヴィア東部属州のなかで最も東に位置する人口2万人弱の小都市。
白煉瓦の瀟洒な街並みと郊外に広がる家畜の放牧地は、平時であれば長閑な雰囲気を醸し出していることだろう。
だが現在、街を歩く人々の顔には不安の色が濃い。
彼らは時折、怯えるように街の中央―――リンゼンの地方行政を所掌する政庁に向けられる。
このリンゼンに存在する建築物の中で最も広大な面積を敷地面積を有するその城館の前。数日前まで、そこにはリンゼン知事を務めていた子爵家の紋章旗、そしてモラヴィア王国の国旗が掲げられていた。
現在そこに掲げられているのは赤地に鎌と鎚の意匠が縫いこまれた異世界軍の旗だ。
そして、城館を時折出入りする人々の殆どはカーキ色の軍服に青帽子を被った男たちだ。
街の主要街道である石畳を歩いていた青年が、ふと後ろの方から聞こえてきた耳障りな音に、ぎょっと表情を引き攣らせて路の端に寄る。
端に寄った青年の目の前を、何やら車輪の付いた奇妙な鉄製のゴーレムが、後部のパイプから煙を吐き出しながら走り抜けていく。
すれ違いざま、ゴーレムに備え付けられた座席に掛けている青い帽子を被った異界の将校と一瞬目が合い、青年は怯えるように目を逸した。
そのまま走り去っていくゴーレム――――ソ連においてGAZ-61と呼ばれている車は市街を走り抜け、街の中心に建つ政庁に向かうようだった。
、
道路の凸凹を車輪が乗り越える度にガクガクと上下に身体を揺られながら、ユーリー・ステパーノヴィッチ・ルーキン保安少佐は先ほどすれ違った住民の青年の視線に含まれた感情について考えを巡らし、小さくため息をついた。
ルーキンは今年で30を迎えたばかり。この歳で少佐というのは、他国でいえば相当なスピード出世だ。
しかし、将校全体の平均年齢が異常に若いソ連にあってはそこまで珍しい存在というわけでもなかった。
NKVD作戦グループ要員として任務につく彼は、この先の任務の難しさを思い遣って再び嘆息した。
―――魔法王国と呼ばれるモラヴィアにあっても、魔術を扱える人間というのは限られている。
この世界の人間は誰もが大なり小なり魔力という魔法の動力源、或いはマナを汲み上げる際の鍵となるエネルギーを体内で生成できるようだが、実際に、手から火の玉を飛ばしたり、土塊から巨人のような人形―――ゴーレムを作り出して人を襲わせたりできるのは100人に一人もいればいいほうだ。
モラヴィア領侵攻作戦が開始される以前より、正確には捕虜からの情報により魔術という技術の存在を知ってからになるが、NKVDではモラヴィアの魔道技術を解析するためのセクションが立ち上げられており、今回の作戦でも、侵攻軍が制圧した地域・都市にはNKVDの作戦グループが展開し、モラヴィア魔術師の狩り出しと、技術情報の確保に当たっている。
このために現地には既に1000名を超える専任のNKVD職員が入り込んでいるほか、内務人民委員部隷下のNKVD軍が3個旅団(各方面軍に1旅団)投入されており、これらを統括する方面軍作戦トロイカが占領地の治安維持も含めて後方の面倒を見ることになる。
このリンゼンを含む北部方面軍占領地域を統括する作戦トロイカはモスクワ及びレニングラードNKVDが主体となっており、イヴァン・セロフ保安大将がその議長を務める。
トロイカと名がつく通り、その執行委員は3名から成り、トロイカ議長のセロフのほか、方面軍政治部長、実行部隊であるNKVD旅団長がそのメンバーとなる。
「どうしました少佐。心配事でも?」
「いや……そうだな。会戦後に捕えた連中の移送もほぼ終わったことだし、そろそろ我々にも移動命令が来る頃じゃないか?」
上官の浮かない様子を目ざとく見とがめた運転手―――アジア系らしい彫りの浅い顔立ちのNKVD中尉の問いかけに、ルーキンは一瞬何と答えたものかと言葉を濁し、ややあって当たり障りのない返事を返した
「また引越しですか。たまりませんなぁ……書類の梱包だけでも大仕事だ」
大げさに首を振る中尉を横目に捉えつつ、ルーキンは苦笑を漏らした。
赤軍占領地において魔術師捕縛に血道を上げているNKVDだが、全部隊合わせて3万近い人員を抱える国内軍3個旅団は主に治安維持部隊であり、捜査官としての役割を担うのは各方面軍に300名程度配置されているルーキン達のような作戦グループだ。
この長閑な街でルーキン達作戦グループが行っているのは言うなれば人狩りだ。
魔術を扱う事のできるもの。魔術について知識を有する者。そういった『技術者』たちを捕縛し、ソヴィエト本国に移送する―――それも軍属・民間人問わずだ。
占領地にあっては降伏した現地行政機関への指揮・命令権を有し、さらには言葉の壁という厄介なものが無いこともあり、移送作業は滞りなく進んでいるといってよい。
既に、このリンゼンでは500人近い魔術技能者を拘束しており、そのうち軍属及び高度技術者―――導師と呼ばれる者たち―――と見られる60名程が既にモスクワに送られている。
ZISトラックに押し込められて東のソ連領に向かって連れ去られていく魔術師達。
日々繰り返されるその光景は、リンゼン市民の心理を恐怖で染め上げた。
(まぁ、魔術だの魔法だの魔獣だのと、訳がわからんものを怖がるのもわかるがね)
本国のお偉方の気持ちも分からなくはないが、やりすぎて現地住民がパルチザン化でもしようものならえらいことだ。
少なくとも自分たちが居るうちにそんな事態にはなってほしくないものだが……
と、同乗の中尉も似たような感想を抱いたらしい。
「……そのうち矢玉でも飛んできそうですな」
「パーシャ。本当に飛んできそうだから止めてくれ」
縁起でもないことを言う中尉に軽く睨みをいれる。
戦場から、あるいはモラヴィアの本国からどんな形でソヴィエトについての情報が流れてきているのか?
ここに来て初めて聞いた情報によれば、我々ロシア人は異世界から召喚された魔王の軍勢らしい。
炎の魔神を現世に呼び出し、10万の軍勢を一瞬にして焼き払ったとか……そんなものが本当にロシアに居るなら是非お目にかかりたいところだが。
加えて郊外の小さな村落を訪れた際、村長を名乗る男が着飾った若い娘達を連れてきて生贄ですと宣ったときは頭を抱えたくなった。
そう、モラヴィアのようなこの世界の列強国でさえ、辺境に行けばこの程度の文化・知識レベルなのだ。
(――――いや、魔法や魔獣が存在する以上、我々が知らないだけで魔王とやらも実在しているのかもしれないが…)
ふと、そんな厭すぎる想像が浮かび上がり、ルーキンは頭痛を堪えるようにこめかみを指で揉み解す。
実際、妖精や魔獣などの御伽噺のような存在が堂々と闊歩する世界であるだけに、一概に荒唐無稽な流言とも言い切れないのだ。
彼は座席にもたれかかり、深い溜息を吐いた。
懐から紙巻き煙草を取り出し、火を点けながら車窓から見える異世界の風景を何となしに眺める。
この街に拠点を構えてから既に4日。本国に移送するのも今日のグループが最後になる。
数日中には次の任地について通達があるだろう。
手元の鞄から書類を挟み込んだバインダーを取り出し、表紙を1枚めくる。
そこにはびっしりと隙間なく人名が羅列されており、既に大部分が二重線で消されている。
「今日の7人で最後、か。将校2名に……鍛冶師?そんな者まで魔術師か」
「後でそれ、私にも見せてもらえますか」
「すぐに直に見ることになる。そこ、左折だ」
運転手に指示を出しつつ、さらに書類を一枚めくる。
2枚目以降は魔術師一人ひとりについての詳細な情報だ。
降伏した都市行政機関から吸い上げた情報がそこに記載されている。
(ふむ…国家規模で魔術師を管理しているだけあって徹底してるな)
軍からの投降者に関しては情報の無い者もいるが、リンゼン出身者に関しては家族構成・履歴に至るまで詳細な情報が書き込まれている。
それを流し読みつつ、ルーキンは目的地への到着を待った。
市街の中心に舗装された街道を曲がり、駐留部隊の司令部が置かれている旧市庁舎に向かう。
小都市の割には随分と立派な庁舎は遠目にもすぐにわかる。
庁舎前のコンコースには6台程のZIS5トラックとBA27-M装甲車が3台停車している。
臨時に設けられた駐車場に車を止め、運転手を務めていたパーシャ・コクンコ保安中尉とともに車から降り立ったルーキンを、大尉の階級章をつけたNKVD士官が出迎えた。
リンデンに駐留する国内軍旅団分遣隊の将校で、任務の都合上こちらに何度も顔を出しているルーキンとは顔見知りだ。
「ああ…ちょうどよかった。少佐殿、実はいま本国から派遣されてきたモスクワ本部の大佐が施設を視察中でして」
ほっとしたような表情で告げる大尉に、ルーキンは微かに眉を顰める。
「所属はどちらに?」
「……3課です」
ルーキンは心底嫌そうに表情を歪めた。
ルーキン自身が所属している国家保安総局第3課はNKVDの対諜活動を所掌する部門の中でも最大の規模を誇る部局であり、抱える人員も膨大だ。
その職域・権能は非常に多岐にわたる。そこは対内保安を司る部局であり、その守備範囲には外国人・外国人ビジネス駐在員・各国大使館及び大使館員の身辺調査、国外に逃亡したソ連国籍保持者や収容所脱走者の追跡・捕縛、ブラックマーケットの手入れ、そしてソ連領内に潜伏する敵国工作員や反体制主義者の摘発が含まれる。
元々がモスクワ勤務のルーキンからすれば自身の古巣であり、実際、親しい同僚だっている。
が、本部の3課に所属する大佐クラスと聞くと、思い浮かぶのはロクでもない連中ばかりだ。
そこはベリヤの懐刀にしてグルジア共産党時代からの相棒であるフセヴォロド・メルクーロフの膝元であり、その幹部クラスは尽くベリヤの忠実な子飼いばかりだ。
ルーキンは決してベリヤを無能とは思っていないし、その配下の連中にしたところで大概は情報官・工作担当官として相応の能力を持っている。
が、その人間性に関しては毛ほども尊敬はしていない。
課内では公然の秘密として扱われているベリヤのおぞましい性的嗜好云々に至っては触れたくもない。
「……で、こちらに来ているのは誰なんだ?」
「グレナジー・クラシュキン大佐です」
後ろを振り返り、パーシャを見ると、苦い薬を飲んだような顔をしていた。
嫌な予感はよく当たる。先ほど思い浮かべた能力はあるロクデナシの一人だ。
「車で待っていましょうか?」
「貴様、ふざけるなよ」
歯をむき出して睨みつけるとパーシャは力なく肩を落とした。
ふん、と面白くもなさそうに鼻を鳴らすと、大尉に向き直る。
「今は館内を回ってるのか?」
「いえ、旅団長と応接室でお話中です」
「よし。いらん口を挟まれる前に、さっさと仕事を終わらせるぞ。パーシャ、来い」
足早に館内に向かうルーキンを、パーシャが慌てて追う。
目的の場所に向かって歩きながら、ルーキンは先ほど車内で見ていたバインダーを取り出す。
(最初の一人は……女か)
面倒が起きる前にさっさと終わらせたほうがいい。
ルーキンは無言で歩みを早めた。
書類には戦地で撮影したらしいモノクロの顔写真とともに、魔術師の情報が書き込まれている。
最初一枚に書かれていたのは、憔悴しているものの育ちの良さそうな雰囲気のブルネットの女性将校、氏名欄にはクラリッサ・クローデンと書かれていた。
重厚な木製の扉を開けて入室してきた異世界人将校の姿に、クラリッサは反射的に身をこわばらせた。
守備隊の屯所を接収した臨時の捕虜収容所から引き出され、政庁に連れてこられてから、かれこれ半刻近く。
緊張と不安で気が参りかけていたところでの来客である。
入室してきたのは二人組だった。
ひとりは中肉中背の、どこか怜悧な雰囲気を身に纏った長身の将校。続いて入ってきたのは西方の騎馬民族にも似た彫りの浅い顔立ちの男で、こちらは先に入ってきた将校の部下だろう。クラリッサに細い目で軽く一瞥をくれただけで、そのままドアの傍らで休めの姿勢で待機する。
「待たせたようで済まないね、クラリッサ・クローデン大尉。」
笑みこそ浮かべていないものの至極穏やかな調子でそういうと、将校は簡素な木組みの机を間に挟んだクラリッサの対面の椅子に腰を下ろした。
「まずは自己紹介をさせてもらおうか。私はユーリー・ルーキン少佐、そちらに立っているのは部下のコクンコ中尉だ。…突然呼び立ててすまないね。お茶はいるかな?珈琲でも良いが」
「……結構だ」
微かに戸惑った様子でクラリッサが答えると、ルーキンはやれやれといったふうに肩を大袈裟に竦めた。
「私の勧めを受け入れたら自分の弱みになる、などと思っているならそれはとんだ勘違いだぞ?……まぁ、君の立場からすれば戸惑うのも無理のないことか」
最後の方はひとりごちるように呟くルーキンに、クラリッサは困惑することしきりだった。
困惑の原因はソ連の捕虜に対する扱いにある。
まず、この世界において、前世界におけるハーグ条約のような戦争捕虜の取扱いに関する明文化された条約は存在しない。
捕虜の取り扱いは各々の国家・文明圏によってまちまちであり、大概の場合、それは人道などというものからはかけ離れたものになる。
例えばモラヴィア軍の場合、投降してきたロシア人捕虜に関しては傷病兵は殆どがその場で処刑され、健常なものは奴隷として使い潰されるのが当たり前だ。
これはモラヴィアからすれば、ソ連自体が自国の手で召び出した被召喚物にすぎず、対等な国家とは認めていないからでもある。
いわんやロシア人など自分たちが新たに所有するべき土地を【不当に占拠している】蛮族でしかない。例外は将校だが、こちらも情報源としての役割が済めば待っているのは死だ。
実際、転移直後のレニングラード・沿バルト攻防戦において、占領下に置いた都市でモラヴィア魔道軍が振るった蛮行の数々はロシア人をして顔色をなくす程に凄惨なものだった。
ではモラヴィア以外の国はどうか?
これがもし、同一の文化・文明圏の国同士であれば、捕虜の待遇や交換について協定を定めている国も一部にはある。
例えばネウストリアを中心とした精霊神教国などがそれだ。
しかし、そのネウストリアであっても、協定を結んでいない国や邪教蔓延るモラヴィア軍が相手では捕虜の扱いも過酷なものになることが多い。
ことが宗教問題でもあるだけに、大陸各国を巻き込んだ大規模な条約などなかなか結べるものでもないのだ。
こういった事情から、モラヴィア軍人にとって、投降というのは【死よりはマシ】という程度の行為であり、クラリッサにしたところで最悪蛮人の慰みものになったあげく殺されるのがオチだろうと半ば考えていたほどだ。
むろん、そのときには自身の持てる力を駆使して最後まで抵抗するつもりだった。
だが、実際にはどうか。拘束されてこそいるものの、食事は一日三度供され、恐れていた過酷な拷問もない。そして、ある日突然政庁に連れてこられたかと思えば、この待遇である。
寝返りでも促されているのだろうか?だが、たかが一大尉にそこまでするものなのか。
ソ連側の意図が読めず、押し黙って様子を伺うクラリッサに、ルーキンは微かに口の端に苦笑めいたものを浮かべた。
「君を呼んだのはほかでもない。ひとつ提案したいことがあってね」
そういうと、一枚の紙をクラリッサの前に滑らせる。
「君たちの国の言葉に翻訳してあるから読めるだろう。……何と言うか…通訳がいらんのは助かるが、こういうときは少々不便に感じるな」
召喚時の魔術の影響か、話し言葉が自動的に翻訳されてしまうために、会話する上での意思疎通には問題はない。
だが、ヒヤリングは問題なくとも文章の読解にはこの恩恵がないらしく、占領地の軍事・行政を掌握する際の大きな障害となっていた。
モラヴィア王国との最初の接触から未だ二月足らず。通訳の育成はネウストリアの支援のもとで行われているものの、未だ実用に耐え得るものではなく、現状ではモラヴィア側の書物の解読には現地人を徴用して行わせている状態なのだ。
加えて言うなら、読み解くのが高度な技術資料―――魔術書ともなると現状では完全にお手上げである。
モノがモノだけに、こればかりはネウストリアの人間に任せられるものでもなく、ソ連としてはモラヴィア占領地域で狩り出している魔術師を自国に協力者として取り込む必要があった。
そして、今回の面談はまさにその問題に直結したものだった。
紙面に書かれた文字を読み進めていくうちに、困惑に彩られていたクラリッサの表情が冷ややかなものに変わっていく。
やがて、読み終えたクラリッサは机に紙を置くとルーキンを正面から睨みつけた。
「ふざけないでもらおう。故国を裏切るなど、万に一つもありえぬことだ」
吐き捨てるように言う。それは誓約書だった。党への忠誠と人民への奉仕を誓いソ連邦に帰化するための。
クラリッサの反応は予想済みだったのか、ルーキンは気分を害した様子もなく、ただ肩を竦めた。
「立派な心がけだ」
それだけではなく、クラリッサを讃えるかのように笑みさえ浮かべた。
今度こそ完全に混乱したクラリッサの表情の変化を見ながら、ルーキンは「失礼」と一言ことわると懐から紙巻き煙草を取り出して咥え、マッチで火をつけた。
吐き出される紫煙が鼻についたのか、クラリッサは微かに眉を顰める。
ルーキンはまるで世間話でもするかのように語りだした。
「今のはあくまで提案だ。強制はしない。が、申し出を受ける受けないに関わらず、君はこの後ソヴィエト本国に移送されることになる。きみの祖国への忠誠心は賞賛されてしかるべきものだが、君自身のためにもこの提案は受けておくべきだと、私は思うよ」
ルーキンは生粋の防諜将校らしい相手の内面までを見透かそうとするような目でクラリッサをじっと見る。
恫喝されたわけでもないというのに、クラリッサは気圧されたように押黙った。
「ここに来るまで、君が何を警戒していたかは大体想像がつく。女性軍人が捕虜になって、真っ先に考えることだろう。実際、君の泣き叫ぶ姿に快感を覚えるような連中もここにはいる」
「……脅しか?」
「いや、案じているだけだ。君の立ち居振る舞いを見させてもらったが、拷問などに対して訓練を受けているようには見えなかったのでね」
拷問、という言葉にクラリッサの顔から血の気が引く。
「…まぁ、訓練など大した問題ではないがね。していようがいまいが、結局のところ人間は継続して与えられる苦痛には耐えられるものじゃない。そこに至る経過が異なるだけで、君が選びとることの出来る選択肢は一つしかないんだ。……申し訳ないがね」
そういうと、ルーキンは誓約書を机の上に置いたまま、席から立ち上がった。
顔を青くしながらも必死にルーキンを睨みつけるクラリッサに、彼女の抵抗心を打ち砕く言葉を放った。
「既に、我が軍はモラヴィア東部の州都ブルーノに手をかけつつある」
「――――――な…」
クラリッサは完全に絶句した。
東部属州の州都ブルーノはモラヴィア本国と東部をつなぐ交通の結節点であり、政軍の中枢。
それだけではない。モラヴィア王国の最も有力な穀倉地帯は西部から中西部にかけて集中しており、貿易都市ブルーノはそこから食糧を、また王都を含むモラヴィア中央から軽工業品や高度な魔術工芸品等をモラヴィア東部へと流し込む物流の大動脈であり、物資の集積拠点でもあるのだ。
ここを落とされた場合、士気の面での影響はもちろんのこと、兵站面においてもモラヴィア地方軍は深刻な危機に陥る
この世界の軍は魔術を運用しているだけに、一部においては非常に先進的なドクトリン・軍編成を取っているが、その科学技術はあくまで近代以前のレベルに過ぎない。
兵器・弾薬・燃料等の補給面での負担は機械化されたソ連赤軍に比べれば格段に軽いと言えるが、それでも食料の供給を絶たれれば立ち枯れるほかない。
元々、大陸北限を占めるモラヴィア北東部はそこまで肥沃な土地というわけではないし、同時に東部から中部にかけて数多く存在する遺跡や魔術研究都市でのマナ乱獲が祟って砂漠化が一際進んだ土地柄でもあり、食糧生産高は王国領内で最も低い。
人口が少ないこともあって、元からの住民の食糧分程度は自給可能だが、対ソ戦に備えて集結中の地方軍の分はどうか?
ブルーノの陥落。それはモラヴィア東部属州の失陥にほかならないのだ。
「馬鹿な!東グレキア平原の会戦から一週間…そんな短期間で―――」
その先は言葉にならない。
あの煉獄のような戦場で見た光景が、その先を言わせない。
不可能。本当に?
モラヴィア魔道軍の精華を、まるで卵の殻を踏みくだくように粉砕してしまった鋼の大軍勢。
あの黙示録の軍勢が、モラヴィアの諸都市を焔に沈めていく光景が、まざまざと脳裏に浮かぶ。
「モラヴィア全土に赤旗が翻るまで、どれほどかかるものか……君にも祖国に守りたい人間がいるんじゃないか?そこもふくめて、今一度この申し出について考えてみてくれ。それがきみのためだ」
死人のように青ざめた顔色で顔を伏せるクラリッサ。その耳元で囁かれたルーキンの言葉は、悪魔の囁きのように彼女の意識に滑り込んで行った。
部屋を出たルーキンは直ぐに腕時計を確認する。
残り6人の魔術師との面談を今日中に終わらせた上で、報告をまとめなくてはならない。
捕虜の移送は国内軍分遣隊に引き継ぐ形になるだろう。
小脇に抱え持っていたバインダーの書類を1枚めくり、先ほどの女性将校の面談記録に自身のサインを書き込む。
そのまま次の部屋に向かおうとしたところで、後方から聞こえてくる規則正しい靴音が耳に入り、ルーキンは振り返った。
足音の主を見て、サッと姿勢を正して敬礼する。
ルーキンに少しばかり遅れて、パーシャも続くように敬礼した。
「順調かな、ルーキン」
一人のNKVD将校が微笑を浮かべながら歩いてきた。
何かの傷痕のようにも見える皺の深い顔に、やや薄くなりかけたくすんだ金髪。
歳は50代半ばということだが、顔つきだけ見れば70過ぎの老人のようにも見える。しかしその動きは矍鑠(かくしゃく)とし、軍人らしく隙のないものだ。
磨きあげられた軍靴。皺ひとつないプレスされた制服の襟元には大佐の階級章が縫い込まれている。
「君と顔を合わせるのも半月ぶりか。何か問題や心配事はあるかね?」
「いえ、万事順調です同志。既にこの地区の魔術師に関しては本日中にモスクワへの移送手続きを完了する見込みですので」
「ほぉ、それは素晴らしい。」
皺だらけの顔に浮かべた微笑をさらに深め、グレナジー・クラシュキン大佐は満足げにうなずいた。
クラシュキンは革命期以降20年以上のキャリアを持つ古参のNKVD幹部職員であり、同時に、NKVDにおける魔道技術収集のための特別セクションの責任将校でもある。
ベリヤの直属であり、彼が報告をあげるのは直属の上司であるベリヤか、ヨシフ・スターリンの二人だけだ。
ルーキンは先ほど書き込んでいたバインダーをクラシュキンに手渡す。
表紙の名簿と進行表をざっと眺めると、クラシュキンは破顔した。
「相変わらず仕事が早いな、ユーリー・ステパーノヴィッチ。この手の仕事では、やはり君が頭ひとつ抜けているようだ」
「恐れ入ります」
クラシュキンは笑みを大きくしてルーキンの肩を叩いて称揚するが、ルーキンの表情は今ひとつ晴れない。
見た目は知性的・理性的な大佐であり、保安将校としての能力も十二分にある。
が、同時に執念深く、許すことも忘れることも決してない男であり、必要とあればどんな汚れ仕事も眉ひとつ動かさずにやってのける冷酷さも合わせ持っている。
革命期における白軍将兵やその家族。粛清期における己の同僚、はては女子供にいたるまで、彼が手にかけた人間は数知れない。
「これなら次の任務にも期待が持てそうだ」
そういってクラシュキンは親指を立てるとくいっと後ろに向け、先程ルーキンが出てきたのとは、また別の一室を指差した。
「そこまで付き合え。込み入った話になる。――ああ、来るのは君だけでいい」
ルーキンは後ろを振り返り、、パーシャに先に行けと言うとクラシュキンに従った。
木製の扉を開けて部屋に入る。
先ほどの面談に使用した部屋より一回り大きなそこは応接室か何かのようで、設えてある家具なども見たところではそこそこ値の張りそうな物が揃っていた。
うち一つのソファにクラシュキンは無遠慮に腰を下ろし、顎をしゃくってルーキンにも座るように無言で促す。
ルーキンが無言で従うと、クラシュキンはおもむろに口を開いた。
「さてルーキン。お互い忙しい身だ。下らんお喋りはなしにして、早速本題に入るぞ」
ルーキンにしてもそれは望むところである。
「まず、今後についてだが、君と君のグループは今後しばらく私の直属として動いてもらうことになる。君を我が3課きっての防諜将校と見込んでの抜擢だ」
うれしかろう?とでもいいたげな口調で話すクラシュキンに、ルーキンは内心でげんなりしながらも、表情は何とか取り繕って「光栄です」と答えた。
ルーキンの内心を見透かしたように、薄笑いを浮かべるクラシュキンだったが、直ぐに笑みを消すと手元のマニラフォルダから何枚かの書類を取り出した。
それを枚数を確認するようにパラパラと捲りつつ、クラシュキンは話し始めた。
「…今から二日前になるがな。ブルーノへの接近路、南西200キロの地点に展開していた西部軍の師団が奇妙な集団に襲われ、壊乱した」
「―――奇妙、ですか」
「ああ。こちらの哨戒網・歩哨線をどうやってか擦り抜けて、193師団の宿営地を急襲されたそうだ。混戦になって僅か数時間の戦闘の後、士気崩壊を起こして師団は潰走した」
「それは……」
尋常な事態ではない。師団規模の赤軍部隊が潰走するなど、クトゥーゾフ作戦発動以降ではこれが初めてのはずだ。
まして小隊・中隊程度ならいざ知らず、大規模な会戦があったわけでもないというのに師団規模の軍が数時間で潰走するなど聞いたこともない。
「士気崩壊を起こして、と言われましたが」
「ああ、混乱の中で師団司令部が襲われた。師団長以下、司令部は全滅。加えて、襲ってきた相手が問題だった」
「相手、ですか」
ルーキンは内心で首を傾げた。説明の内容が断片的過ぎて、現地で何が起きたのかがさっぱり掴めない。
また、今ひとつ要領を得ないクラシュキンの話し方もひっかかる。
幾つもの疑問が脳裏を渦巻くが、ややあってルーキンは最初の疑問を口にした。
「モラヴィアの魔道軍でしょうか」
「かもな。だが、少なくとも人間ではない」
「どういうことでしょう」
クラシュキンは口の端を微かに釣り上げて答えた。
「死体だよ」
「は?」
ルーキンはあんぐりと口を開けて固まった。
「死霊魔術……ネクロマンシーというそうだがな。」
そこで言葉を切ると、クラシュキンは捲っていた書類をまたマニラフォルダに戻し、ルーキンに放って寄越した。
「まずはそいつを読め。話の続きはそれからだ」
それまで大佐の顔に張り付いていたニヤついた笑みは、いつの間にか消えていた。
1941年8月16日 11:00
モラヴィア王国 グレキア半島東部 都市リンゼン
モラヴィア東部属州のなかで最も東に位置する人口2万人弱の小都市。
白煉瓦の瀟洒な街並みと郊外に広がる家畜の放牧地は、平時であれば長閑な雰囲気を醸し出していることだろう。
だが現在、街を歩く人々の顔には不安の色が濃い。
彼らは時折、怯えるように街の中央―――リンゼンの地方行政を所掌する政庁に向けられる。
このリンゼンに存在する建築物の中で最も広大な面積を敷地面積を有するその城館の前。数日前まで、そこにはリンゼン知事を務めていた子爵家の紋章旗、そしてモラヴィア王国の国旗が掲げられていた。
現在そこに掲げられているのは赤地に鎌と鎚の意匠が縫いこまれた異世界軍の旗だ。
そして、城館を時折出入りする人々の殆どはカーキ色の軍服に青帽子を被った男たちだ。
街の主要街道である石畳を歩いていた青年が、ふと後ろの方から聞こえてきた耳障りな音に、ぎょっと表情を引き攣らせて路の端に寄る。
端に寄った青年の目の前を、何やら車輪の付いた奇妙な鉄製のゴーレムが、後部のパイプから煙を吐き出しながら走り抜けていく。
すれ違いざま、ゴーレムに備え付けられた座席に掛けている青い帽子を被った異界の将校と一瞬目が合い、青年は怯えるように目を逸した。
そのまま走り去っていくゴーレム――――ソ連においてGAZ-61と呼ばれている車は市街を走り抜け、街の中心に建つ政庁に向かうようだった。
、
道路の凸凹を車輪が乗り越える度にガクガクと上下に身体を揺られながら、ユーリー・ステパーノヴィッチ・ルーキン保安少佐は先ほどすれ違った住民の青年の視線に含まれた感情について考えを巡らし、小さくため息をついた。
ルーキンは今年で30を迎えたばかり。この歳で少佐というのは、他国でいえば相当なスピード出世だ。
しかし、将校全体の平均年齢が異常に若いソ連にあってはそこまで珍しい存在というわけでもなかった。
NKVD作戦グループ要員として任務につく彼は、この先の任務の難しさを思い遣って再び嘆息した。
―――魔法王国と呼ばれるモラヴィアにあっても、魔術を扱える人間というのは限られている。
この世界の人間は誰もが大なり小なり魔力という魔法の動力源、或いはマナを汲み上げる際の鍵となるエネルギーを体内で生成できるようだが、実際に、手から火の玉を飛ばしたり、土塊から巨人のような人形―――ゴーレムを作り出して人を襲わせたりできるのは100人に一人もいればいいほうだ。
モラヴィア領侵攻作戦が開始される以前より、正確には捕虜からの情報により魔術という技術の存在を知ってからになるが、NKVDではモラヴィアの魔道技術を解析するためのセクションが立ち上げられており、今回の作戦でも、侵攻軍が制圧した地域・都市にはNKVDの作戦グループが展開し、モラヴィア魔術師の狩り出しと、技術情報の確保に当たっている。
このために現地には既に1000名を超える専任のNKVD職員が入り込んでいるほか、内務人民委員部隷下のNKVD軍が3個旅団(各方面軍に1旅団)投入されており、これらを統括する方面軍作戦トロイカが占領地の治安維持も含めて後方の面倒を見ることになる。
このリンゼンを含む北部方面軍占領地域を統括する作戦トロイカはモスクワ及びレニングラードNKVDが主体となっており、イヴァン・セロフ保安大将がその議長を務める。
トロイカと名がつく通り、その執行委員は3名から成り、トロイカ議長のセロフのほか、方面軍政治部長、実行部隊であるNKVD旅団長がそのメンバーとなる。
「どうしました少佐。心配事でも?」
「いや……そうだな。会戦後に捕えた連中の移送もほぼ終わったことだし、そろそろ我々にも移動命令が来る頃じゃないか?」
上官の浮かない様子を目ざとく見とがめた運転手―――アジア系らしい彫りの浅い顔立ちのNKVD中尉の問いかけに、ルーキンは一瞬何と答えたものかと言葉を濁し、ややあって当たり障りのない返事を返した
「また引越しですか。たまりませんなぁ……書類の梱包だけでも大仕事だ」
大げさに首を振る中尉を横目に捉えつつ、ルーキンは苦笑を漏らした。
赤軍占領地において魔術師捕縛に血道を上げているNKVDだが、全部隊合わせて3万近い人員を抱える国内軍3個旅団は主に治安維持部隊であり、捜査官としての役割を担うのは各方面軍に300名程度配置されているルーキン達のような作戦グループだ。
この長閑な街でルーキン達作戦グループが行っているのは言うなれば人狩りだ。
魔術を扱う事のできるもの。魔術について知識を有する者。そういった『技術者』たちを捕縛し、ソヴィエト本国に移送する―――それも軍属・民間人問わずだ。
占領地にあっては降伏した現地行政機関への指揮・命令権を有し、さらには言葉の壁という厄介なものが無いこともあり、移送作業は滞りなく進んでいるといってよい。
既に、このリンゼンでは500人近い魔術技能者を拘束しており、そのうち軍属及び高度技術者―――導師と呼ばれる者たち―――と見られる60名程が既にモスクワに送られている。
ZISトラックに押し込められて東のソ連領に向かって連れ去られていく魔術師達。
日々繰り返されるその光景は、リンゼン市民の心理を恐怖で染め上げた。
(まぁ、魔術だの魔法だの魔獣だのと、訳がわからんものを怖がるのもわかるがね)
本国のお偉方の気持ちも分からなくはないが、やりすぎて現地住民がパルチザン化でもしようものならえらいことだ。
少なくとも自分たちが居るうちにそんな事態にはなってほしくないものだが……
と、同乗の中尉も似たような感想を抱いたらしい。
「……そのうち矢玉でも飛んできそうですな」
「パーシャ。本当に飛んできそうだから止めてくれ」
縁起でもないことを言う中尉に軽く睨みをいれる。
戦場から、あるいはモラヴィアの本国からどんな形でソヴィエトについての情報が流れてきているのか?
ここに来て初めて聞いた情報によれば、我々ロシア人は異世界から召喚された魔王の軍勢らしい。
炎の魔神を現世に呼び出し、10万の軍勢を一瞬にして焼き払ったとか……そんなものが本当にロシアに居るなら是非お目にかかりたいところだが。
加えて郊外の小さな村落を訪れた際、村長を名乗る男が着飾った若い娘達を連れてきて生贄ですと宣ったときは頭を抱えたくなった。
そう、モラヴィアのようなこの世界の列強国でさえ、辺境に行けばこの程度の文化・知識レベルなのだ。
(――――いや、魔法や魔獣が存在する以上、我々が知らないだけで魔王とやらも実在しているのかもしれないが…)
ふと、そんな厭すぎる想像が浮かび上がり、ルーキンは頭痛を堪えるようにこめかみを指で揉み解す。
実際、妖精や魔獣などの御伽噺のような存在が堂々と闊歩する世界であるだけに、一概に荒唐無稽な流言とも言い切れないのだ。
彼は座席にもたれかかり、深い溜息を吐いた。
懐から紙巻き煙草を取り出し、火を点けながら車窓から見える異世界の風景を何となしに眺める。
この街に拠点を構えてから既に4日。本国に移送するのも今日のグループが最後になる。
数日中には次の任地について通達があるだろう。
手元の鞄から書類を挟み込んだバインダーを取り出し、表紙を1枚めくる。
そこにはびっしりと隙間なく人名が羅列されており、既に大部分が二重線で消されている。
「今日の7人で最後、か。将校2名に……鍛冶師?そんな者まで魔術師か」
「後でそれ、私にも見せてもらえますか」
「すぐに直に見ることになる。そこ、左折だ」
運転手に指示を出しつつ、さらに書類を一枚めくる。
2枚目以降は魔術師一人ひとりについての詳細な情報だ。
降伏した都市行政機関から吸い上げた情報がそこに記載されている。
(ふむ…国家規模で魔術師を管理しているだけあって徹底してるな)
軍からの投降者に関しては情報の無い者もいるが、リンゼン出身者に関しては家族構成・履歴に至るまで詳細な情報が書き込まれている。
それを流し読みつつ、ルーキンは目的地への到着を待った。
市街の中心に舗装された街道を曲がり、駐留部隊の司令部が置かれている旧市庁舎に向かう。
小都市の割には随分と立派な庁舎は遠目にもすぐにわかる。
庁舎前のコンコースには6台程のZIS5トラックとBA27-M装甲車が3台停車している。
臨時に設けられた駐車場に車を止め、運転手を務めていたパーシャ・コクンコ保安中尉とともに車から降り立ったルーキンを、大尉の階級章をつけたNKVD士官が出迎えた。
リンデンに駐留する国内軍旅団分遣隊の将校で、任務の都合上こちらに何度も顔を出しているルーキンとは顔見知りだ。
「ああ…ちょうどよかった。少佐殿、実はいま本国から派遣されてきたモスクワ本部の大佐が施設を視察中でして」
ほっとしたような表情で告げる大尉に、ルーキンは微かに眉を顰める。
「所属はどちらに?」
「……3課です」
ルーキンは心底嫌そうに表情を歪めた。
ルーキン自身が所属している国家保安総局第3課はNKVDの対諜活動を所掌する部門の中でも最大の規模を誇る部局であり、抱える人員も膨大だ。
その職域・権能は非常に多岐にわたる。そこは対内保安を司る部局であり、その守備範囲には外国人・外国人ビジネス駐在員・各国大使館及び大使館員の身辺調査、国外に逃亡したソ連国籍保持者や収容所脱走者の追跡・捕縛、ブラックマーケットの手入れ、そしてソ連領内に潜伏する敵国工作員や反体制主義者の摘発が含まれる。
元々がモスクワ勤務のルーキンからすれば自身の古巣であり、実際、親しい同僚だっている。
が、本部の3課に所属する大佐クラスと聞くと、思い浮かぶのはロクでもない連中ばかりだ。
そこはベリヤの懐刀にしてグルジア共産党時代からの相棒であるフセヴォロド・メルクーロフの膝元であり、その幹部クラスは尽くベリヤの忠実な子飼いばかりだ。
ルーキンは決してベリヤを無能とは思っていないし、その配下の連中にしたところで大概は情報官・工作担当官として相応の能力を持っている。
が、その人間性に関しては毛ほども尊敬はしていない。
課内では公然の秘密として扱われているベリヤのおぞましい性的嗜好云々に至っては触れたくもない。
「……で、こちらに来ているのは誰なんだ?」
「グレナジー・クラシュキン大佐です」
後ろを振り返り、パーシャを見ると、苦い薬を飲んだような顔をしていた。
嫌な予感はよく当たる。先ほど思い浮かべた能力はあるロクデナシの一人だ。
「車で待っていましょうか?」
「貴様、ふざけるなよ」
歯をむき出して睨みつけるとパーシャは力なく肩を落とした。
ふん、と面白くもなさそうに鼻を鳴らすと、大尉に向き直る。
「今は館内を回ってるのか?」
「いえ、旅団長と応接室でお話中です」
「よし。いらん口を挟まれる前に、さっさと仕事を終わらせるぞ。パーシャ、来い」
足早に館内に向かうルーキンを、パーシャが慌てて追う。
目的の場所に向かって歩きながら、ルーキンは先ほど車内で見ていたバインダーを取り出す。
(最初の一人は……女か)
面倒が起きる前にさっさと終わらせたほうがいい。
ルーキンは無言で歩みを早めた。
書類には戦地で撮影したらしいモノクロの顔写真とともに、魔術師の情報が書き込まれている。
最初一枚に書かれていたのは、憔悴しているものの育ちの良さそうな雰囲気のブルネットの女性将校、氏名欄にはクラリッサ・クローデンと書かれていた。
重厚な木製の扉を開けて入室してきた異世界人将校の姿に、クラリッサは反射的に身をこわばらせた。
守備隊の屯所を接収した臨時の捕虜収容所から引き出され、政庁に連れてこられてから、かれこれ半刻近く。
緊張と不安で気が参りかけていたところでの来客である。
入室してきたのは二人組だった。
ひとりは中肉中背の、どこか怜悧な雰囲気を身に纏った長身の将校。続いて入ってきたのは西方の騎馬民族にも似た彫りの浅い顔立ちの男で、こちらは先に入ってきた将校の部下だろう。クラリッサに細い目で軽く一瞥をくれただけで、そのままドアの傍らで休めの姿勢で待機する。
「待たせたようで済まないね、クラリッサ・クローデン大尉。」
笑みこそ浮かべていないものの至極穏やかな調子でそういうと、将校は簡素な木組みの机を間に挟んだクラリッサの対面の椅子に腰を下ろした。
「まずは自己紹介をさせてもらおうか。私はユーリー・ルーキン少佐、そちらに立っているのは部下のコクンコ中尉だ。…突然呼び立ててすまないね。お茶はいるかな?珈琲でも良いが」
「……結構だ」
微かに戸惑った様子でクラリッサが答えると、ルーキンはやれやれといったふうに肩を大袈裟に竦めた。
「私の勧めを受け入れたら自分の弱みになる、などと思っているならそれはとんだ勘違いだぞ?……まぁ、君の立場からすれば戸惑うのも無理のないことか」
最後の方はひとりごちるように呟くルーキンに、クラリッサは困惑することしきりだった。
困惑の原因はソ連の捕虜に対する扱いにある。
まず、この世界において、前世界におけるハーグ条約のような戦争捕虜の取扱いに関する明文化された条約は存在しない。
捕虜の取り扱いは各々の国家・文明圏によってまちまちであり、大概の場合、それは人道などというものからはかけ離れたものになる。
例えばモラヴィア軍の場合、投降してきたロシア人捕虜に関しては傷病兵は殆どがその場で処刑され、健常なものは奴隷として使い潰されるのが当たり前だ。
これはモラヴィアからすれば、ソ連自体が自国の手で召び出した被召喚物にすぎず、対等な国家とは認めていないからでもある。
いわんやロシア人など自分たちが新たに所有するべき土地を【不当に占拠している】蛮族でしかない。例外は将校だが、こちらも情報源としての役割が済めば待っているのは死だ。
実際、転移直後のレニングラード・沿バルト攻防戦において、占領下に置いた都市でモラヴィア魔道軍が振るった蛮行の数々はロシア人をして顔色をなくす程に凄惨なものだった。
ではモラヴィア以外の国はどうか?
これがもし、同一の文化・文明圏の国同士であれば、捕虜の待遇や交換について協定を定めている国も一部にはある。
例えばネウストリアを中心とした精霊神教国などがそれだ。
しかし、そのネウストリアであっても、協定を結んでいない国や邪教蔓延るモラヴィア軍が相手では捕虜の扱いも過酷なものになることが多い。
ことが宗教問題でもあるだけに、大陸各国を巻き込んだ大規模な条約などなかなか結べるものでもないのだ。
こういった事情から、モラヴィア軍人にとって、投降というのは【死よりはマシ】という程度の行為であり、クラリッサにしたところで最悪蛮人の慰みものになったあげく殺されるのがオチだろうと半ば考えていたほどだ。
むろん、そのときには自身の持てる力を駆使して最後まで抵抗するつもりだった。
だが、実際にはどうか。拘束されてこそいるものの、食事は一日三度供され、恐れていた過酷な拷問もない。そして、ある日突然政庁に連れてこられたかと思えば、この待遇である。
寝返りでも促されているのだろうか?だが、たかが一大尉にそこまでするものなのか。
ソ連側の意図が読めず、押し黙って様子を伺うクラリッサに、ルーキンは微かに口の端に苦笑めいたものを浮かべた。
「君を呼んだのはほかでもない。ひとつ提案したいことがあってね」
そういうと、一枚の紙をクラリッサの前に滑らせる。
「君たちの国の言葉に翻訳してあるから読めるだろう。……何と言うか…通訳がいらんのは助かるが、こういうときは少々不便に感じるな」
召喚時の魔術の影響か、話し言葉が自動的に翻訳されてしまうために、会話する上での意思疎通には問題はない。
だが、ヒヤリングは問題なくとも文章の読解にはこの恩恵がないらしく、占領地の軍事・行政を掌握する際の大きな障害となっていた。
モラヴィア王国との最初の接触から未だ二月足らず。通訳の育成はネウストリアの支援のもとで行われているものの、未だ実用に耐え得るものではなく、現状ではモラヴィア側の書物の解読には現地人を徴用して行わせている状態なのだ。
加えて言うなら、読み解くのが高度な技術資料―――魔術書ともなると現状では完全にお手上げである。
モノがモノだけに、こればかりはネウストリアの人間に任せられるものでもなく、ソ連としてはモラヴィア占領地域で狩り出している魔術師を自国に協力者として取り込む必要があった。
そして、今回の面談はまさにその問題に直結したものだった。
紙面に書かれた文字を読み進めていくうちに、困惑に彩られていたクラリッサの表情が冷ややかなものに変わっていく。
やがて、読み終えたクラリッサは机に紙を置くとルーキンを正面から睨みつけた。
「ふざけないでもらおう。故国を裏切るなど、万に一つもありえぬことだ」
吐き捨てるように言う。それは誓約書だった。党への忠誠と人民への奉仕を誓いソ連邦に帰化するための。
クラリッサの反応は予想済みだったのか、ルーキンは気分を害した様子もなく、ただ肩を竦めた。
「立派な心がけだ」
それだけではなく、クラリッサを讃えるかのように笑みさえ浮かべた。
今度こそ完全に混乱したクラリッサの表情の変化を見ながら、ルーキンは「失礼」と一言ことわると懐から紙巻き煙草を取り出して咥え、マッチで火をつけた。
吐き出される紫煙が鼻についたのか、クラリッサは微かに眉を顰める。
ルーキンはまるで世間話でもするかのように語りだした。
「今のはあくまで提案だ。強制はしない。が、申し出を受ける受けないに関わらず、君はこの後ソヴィエト本国に移送されることになる。きみの祖国への忠誠心は賞賛されてしかるべきものだが、君自身のためにもこの提案は受けておくべきだと、私は思うよ」
ルーキンは生粋の防諜将校らしい相手の内面までを見透かそうとするような目でクラリッサをじっと見る。
恫喝されたわけでもないというのに、クラリッサは気圧されたように押黙った。
「ここに来るまで、君が何を警戒していたかは大体想像がつく。女性軍人が捕虜になって、真っ先に考えることだろう。実際、君の泣き叫ぶ姿に快感を覚えるような連中もここにはいる」
「……脅しか?」
「いや、案じているだけだ。君の立ち居振る舞いを見させてもらったが、拷問などに対して訓練を受けているようには見えなかったのでね」
拷問、という言葉にクラリッサの顔から血の気が引く。
「…まぁ、訓練など大した問題ではないがね。していようがいまいが、結局のところ人間は継続して与えられる苦痛には耐えられるものじゃない。そこに至る経過が異なるだけで、君が選びとることの出来る選択肢は一つしかないんだ。……申し訳ないがね」
そういうと、ルーキンは誓約書を机の上に置いたまま、席から立ち上がった。
顔を青くしながらも必死にルーキンを睨みつけるクラリッサに、彼女の抵抗心を打ち砕く言葉を放った。
「既に、我が軍はモラヴィア東部の州都ブルーノに手をかけつつある」
「――――――な…」
クラリッサは完全に絶句した。
東部属州の州都ブルーノはモラヴィア本国と東部をつなぐ交通の結節点であり、政軍の中枢。
それだけではない。モラヴィア王国の最も有力な穀倉地帯は西部から中西部にかけて集中しており、貿易都市ブルーノはそこから食糧を、また王都を含むモラヴィア中央から軽工業品や高度な魔術工芸品等をモラヴィア東部へと流し込む物流の大動脈であり、物資の集積拠点でもあるのだ。
ここを落とされた場合、士気の面での影響はもちろんのこと、兵站面においてもモラヴィア地方軍は深刻な危機に陥る
この世界の軍は魔術を運用しているだけに、一部においては非常に先進的なドクトリン・軍編成を取っているが、その科学技術はあくまで近代以前のレベルに過ぎない。
兵器・弾薬・燃料等の補給面での負担は機械化されたソ連赤軍に比べれば格段に軽いと言えるが、それでも食料の供給を絶たれれば立ち枯れるほかない。
元々、大陸北限を占めるモラヴィア北東部はそこまで肥沃な土地というわけではないし、同時に東部から中部にかけて数多く存在する遺跡や魔術研究都市でのマナ乱獲が祟って砂漠化が一際進んだ土地柄でもあり、食糧生産高は王国領内で最も低い。
人口が少ないこともあって、元からの住民の食糧分程度は自給可能だが、対ソ戦に備えて集結中の地方軍の分はどうか?
ブルーノの陥落。それはモラヴィア東部属州の失陥にほかならないのだ。
「馬鹿な!東グレキア平原の会戦から一週間…そんな短期間で―――」
その先は言葉にならない。
あの煉獄のような戦場で見た光景が、その先を言わせない。
不可能。本当に?
モラヴィア魔道軍の精華を、まるで卵の殻を踏みくだくように粉砕してしまった鋼の大軍勢。
あの黙示録の軍勢が、モラヴィアの諸都市を焔に沈めていく光景が、まざまざと脳裏に浮かぶ。
「モラヴィア全土に赤旗が翻るまで、どれほどかかるものか……君にも祖国に守りたい人間がいるんじゃないか?そこもふくめて、今一度この申し出について考えてみてくれ。それがきみのためだ」
死人のように青ざめた顔色で顔を伏せるクラリッサ。その耳元で囁かれたルーキンの言葉は、悪魔の囁きのように彼女の意識に滑り込んで行った。
部屋を出たルーキンは直ぐに腕時計を確認する。
残り6人の魔術師との面談を今日中に終わらせた上で、報告をまとめなくてはならない。
捕虜の移送は国内軍分遣隊に引き継ぐ形になるだろう。
小脇に抱え持っていたバインダーの書類を1枚めくり、先ほどの女性将校の面談記録に自身のサインを書き込む。
そのまま次の部屋に向かおうとしたところで、後方から聞こえてくる規則正しい靴音が耳に入り、ルーキンは振り返った。
足音の主を見て、サッと姿勢を正して敬礼する。
ルーキンに少しばかり遅れて、パーシャも続くように敬礼した。
「順調かな、ルーキン」
一人のNKVD将校が微笑を浮かべながら歩いてきた。
何かの傷痕のようにも見える皺の深い顔に、やや薄くなりかけたくすんだ金髪。
歳は50代半ばということだが、顔つきだけ見れば70過ぎの老人のようにも見える。しかしその動きは矍鑠(かくしゃく)とし、軍人らしく隙のないものだ。
磨きあげられた軍靴。皺ひとつないプレスされた制服の襟元には大佐の階級章が縫い込まれている。
「君と顔を合わせるのも半月ぶりか。何か問題や心配事はあるかね?」
「いえ、万事順調です同志。既にこの地区の魔術師に関しては本日中にモスクワへの移送手続きを完了する見込みですので」
「ほぉ、それは素晴らしい。」
皺だらけの顔に浮かべた微笑をさらに深め、グレナジー・クラシュキン大佐は満足げにうなずいた。
クラシュキンは革命期以降20年以上のキャリアを持つ古参のNKVD幹部職員であり、同時に、NKVDにおける魔道技術収集のための特別セクションの責任将校でもある。
ベリヤの直属であり、彼が報告をあげるのは直属の上司であるベリヤか、ヨシフ・スターリンの二人だけだ。
ルーキンは先ほど書き込んでいたバインダーをクラシュキンに手渡す。
表紙の名簿と進行表をざっと眺めると、クラシュキンは破顔した。
「相変わらず仕事が早いな、ユーリー・ステパーノヴィッチ。この手の仕事では、やはり君が頭ひとつ抜けているようだ」
「恐れ入ります」
クラシュキンは笑みを大きくしてルーキンの肩を叩いて称揚するが、ルーキンの表情は今ひとつ晴れない。
見た目は知性的・理性的な大佐であり、保安将校としての能力も十二分にある。
が、同時に執念深く、許すことも忘れることも決してない男であり、必要とあればどんな汚れ仕事も眉ひとつ動かさずにやってのける冷酷さも合わせ持っている。
革命期における白軍将兵やその家族。粛清期における己の同僚、はては女子供にいたるまで、彼が手にかけた人間は数知れない。
「これなら次の任務にも期待が持てそうだ」
そういってクラシュキンは親指を立てるとくいっと後ろに向け、先程ルーキンが出てきたのとは、また別の一室を指差した。
「そこまで付き合え。込み入った話になる。――ああ、来るのは君だけでいい」
ルーキンは後ろを振り返り、、パーシャに先に行けと言うとクラシュキンに従った。
木製の扉を開けて部屋に入る。
先ほどの面談に使用した部屋より一回り大きなそこは応接室か何かのようで、設えてある家具なども見たところではそこそこ値の張りそうな物が揃っていた。
うち一つのソファにクラシュキンは無遠慮に腰を下ろし、顎をしゃくってルーキンにも座るように無言で促す。
ルーキンが無言で従うと、クラシュキンはおもむろに口を開いた。
「さてルーキン。お互い忙しい身だ。下らんお喋りはなしにして、早速本題に入るぞ」
ルーキンにしてもそれは望むところである。
「まず、今後についてだが、君と君のグループは今後しばらく私の直属として動いてもらうことになる。君を我が3課きっての防諜将校と見込んでの抜擢だ」
うれしかろう?とでもいいたげな口調で話すクラシュキンに、ルーキンは内心でげんなりしながらも、表情は何とか取り繕って「光栄です」と答えた。
ルーキンの内心を見透かしたように、薄笑いを浮かべるクラシュキンだったが、直ぐに笑みを消すと手元のマニラフォルダから何枚かの書類を取り出した。
それを枚数を確認するようにパラパラと捲りつつ、クラシュキンは話し始めた。
「…今から二日前になるがな。ブルーノへの接近路、南西200キロの地点に展開していた西部軍の師団が奇妙な集団に襲われ、壊乱した」
「―――奇妙、ですか」
「ああ。こちらの哨戒網・歩哨線をどうやってか擦り抜けて、193師団の宿営地を急襲されたそうだ。混戦になって僅か数時間の戦闘の後、士気崩壊を起こして師団は潰走した」
「それは……」
尋常な事態ではない。師団規模の赤軍部隊が潰走するなど、クトゥーゾフ作戦発動以降ではこれが初めてのはずだ。
まして小隊・中隊程度ならいざ知らず、大規模な会戦があったわけでもないというのに師団規模の軍が数時間で潰走するなど聞いたこともない。
「士気崩壊を起こして、と言われましたが」
「ああ、混乱の中で師団司令部が襲われた。師団長以下、司令部は全滅。加えて、襲ってきた相手が問題だった」
「相手、ですか」
ルーキンは内心で首を傾げた。説明の内容が断片的過ぎて、現地で何が起きたのかがさっぱり掴めない。
また、今ひとつ要領を得ないクラシュキンの話し方もひっかかる。
幾つもの疑問が脳裏を渦巻くが、ややあってルーキンは最初の疑問を口にした。
「モラヴィアの魔道軍でしょうか」
「かもな。だが、少なくとも人間ではない」
「どういうことでしょう」
クラシュキンは口の端を微かに釣り上げて答えた。
「死体だよ」
「は?」
ルーキンはあんぐりと口を開けて固まった。
「死霊魔術……ネクロマンシーというそうだがな。」
そこで言葉を切ると、クラシュキンは捲っていた書類をまたマニラフォルダに戻し、ルーキンに放って寄越した。
「まずはそいつを読め。話の続きはそれからだ」
それまで大佐の顔に張り付いていたニヤついた笑みは、いつの間にか消えていた。