自衛隊がファンタジー世界に召喚されますた@創作発表板・分家

第四章『商都攻防』

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第四章 『商都攻防』

ブンガ・マス・リマ東方4㎞ 
2013年 1月6日 15時03分


 灰色の複合艇が、ビロードのようになめらかな海面を切り裂いて進んでいる。使い込まれ擦り切れた旭日旗が、合成風を受け今にもちぎれそうだ。複合艇は、まるで水切り遊びの小石のように水面を上下に跳ねていた。
 乗員は飛沫を頭からかぶりながら、必死にしがみついている。防弾チョッキの下の作業服は、ぐっしょりと海水に濡れて濃紺に近い色合いになっていた。

 輸送艦〈ゆら〉運用員の安芸英太三等海曹は、ピストンのように激しく上下する複合艇の上で器用に身体を支えながら、手元のM3短機関銃をどうにかして濡らさないよう、努力していた。
「痛ェ! 舌噛んじまった!」
 安芸の隣で、機関科の海士が悲鳴を上げた。その若い海士を含め安芸以外の者はしがみつくので手一杯だ。操縦員と安芸だけが、複合艇の行く手に何があるのかを見ていた。

 美しい海と真っ白な砂浜。青と白と緑のコントラスト。そんな光景が広がっているはずだった。しかし、それはすでに失われていた。
 臨時編成〈ゆら〉陸戦隊12名を載せ、35ノットで陸地へと走る複合艇の行く手には、どす黒い煙が幾筋も立ち昇り、断続的な銃撃の音と喚声が木霊していた。そこには陸上自衛隊マルノーヴ先遣隊の物資集積所が存在していた。
「ひでぇなありゃ……」
 操縦員が思わず呟いた。昨日までは陸揚げされた物資がそれなりの秩序を持って積み上がっていたが、今海岸を支配するのは、怒号と悲鳴であった。
 陸地が近づいたため、複合艇は速力を落とした。エンジン音に包まれていた陸戦隊員の耳に、海岸で繰り広げられる戦場音楽が届き始めた。艇のピッチングが収まりようやく顔を上げた隊員たちは、その様子に顔をひきつらせ、息を呑んだ。

 陸自後方支援隊が管理する物資集積所は、ブンガ・マス・リマの東約4キロの位置にある、適当な広さの海岸に設置されていた。北側に広がる森を抜けると、柘植が率いる偵察隊の前哨陣地がある。
 揚陸適地とされたこの海岸に、自衛隊は輸送艦〈ゆら〉やLCACを用いて、様々な物資を揚陸していた。
 ここが襲撃されたのは約1時間前──自衛隊が戦闘を開始してから約1時間が過ぎた午後2時過ぎのことだった。
 突如森から現れた武装集団の攻撃により陸自後方支援隊長が戦死。物資集積所は包囲されていた。
 後方支援隊と施設隊の隊員たちは、コンテナやパレットに身を隠しつつ必死の防戦を行うとともに、凡そ使用可能なすべてのチャンネルで救援を要請した。不幸なことに既に市全域で交戦状態にあり、速やかに救援可能な陸自部隊は存在しなかった。

 唯一、洋上約2キロの海面に、〈ゆら〉が存在していた。

「もうすぐ着くぞ!」
 操縦員が声を張り上げた。陸戦隊員たちは顔を見合わせた。そして、指揮官である運用士を見る。四十代も後半に差し掛かった運用士は皆の視線を受け、たじろいだ。見かねた安芸がそっと耳打ちする。
「運用士。装備の点検をさせて下さい」
「お、おお。そうだな」
 安芸はすでに装備の点検を終えていた。周囲でおぼつかない手付きで小火器を点検し始めた〈ゆら〉陸戦隊員を見て、安芸は暗澹たる気分になった。
 陸自からの悲鳴のような応援要請を受け、急遽編成された〈ゆら〉陸戦隊は、寄せ集め以外の何物でも無かった。指揮官の運用士は銃よりも釣り竿の扱いの方が何倍も得意な男だったし、そもそも陸戦訓練など艦でしたこともない。
「安芸よぅ。頼りにしてるからな」
 運用士の本心からの言葉だ。特警課程にいた安芸は、自然と頼りにされていた。

 冗談じゃない。俺は基礎課程で落ちたんだ。

 物資があちこちで燃えていた。海岸が近づくにつれ、あちこちに転がる緑色の物体が陸自隊員の死体であることに気付いた。地獄のような景色だった。


 冗談じゃない。そんな地獄に素人ばかりで乗り込むなんて!


 安芸は自然と身を低くかがめ、一番戦闘が激しい地点と、安全に上陸出来そうな地点を探しながら、背筋に冷や汗が流れるのを感じていた。



ブンガ・マス・リマ北方上空
2013年 1月6日 15時05分


 澄み渡った青空の下。緑の絨毯を眼下に収め、這うように南下する複数の物体が存在していた。
 帝國南方征討領軍飛行騎兵団の翼龍騎兵と、有翼蛇の編隊である。翼龍騎兵20騎。彼らの背に分乗した6名の『魔獣遣い』に使役された有翼蛇40頭。
 南瞑同盟会議北方防衛線をフライ・パスし、森の中で再編成した彼らは、地表約20メートルの高度でブンガ・マス・リマ市街地へ向けて、飛翔を開始したのだった。
 もちろん、親善飛行などではない。市街侵攻の尖兵として、重要施設、港湾、守備隊等への襲撃を命じられていた。

「あと半里」
 操獣士が冷静に言い放った。革の飛行帽をかぶった頭を左右に振り、周囲の警戒に余念がない。操獣士の背中を眺めながら、帝國南方征討領軍飛行騎兵団『魔獣遣い』ユーリ・ヴラドレン・エーリンは、整った顔面に笑みを浮かべた。
 鮮やかな『魔獣遣い』の化粧が、妖しげな雰囲気を纏わせている。
 彼の乗る翼龍の前方には、鏃のような隊型を維持した有翼蛇が3頭、身体をうねらせながら飛行していた。エーリンの思念波に従い、翼が触れ合うほどがっちりとした編隊を組んでいる。
 このことは、エーリンが『魔獣遣い』として水準以上の力を持っていることを現していた。
 並みの技量では、3頭もの有翼蛇にここまで緊密な編隊飛行をさせることは出来ない。切れ長の瞳と、真っ白な肌が印象的な『魔獣遣い』は、華奢な見た目に似合わぬ、熟練の遣い手なのだった。
 何しろ彼の後方にはもう3頭の有翼蛇が、彼に従っているのだ。

 エーリンは周囲を見渡した。複数の龍と蛇が空を駆けていた。彼は最前列を飛ぶ15頭の横列を眺め、嘲るように笑った。
(やはり、ふらついている。バクーニンの奴は多頭使役を誇っていたが、あんなに無様な編隊しか組めぬのでは、襲撃機動も大したことはできまいよ)
 右手には、1騎の龍騎兵とひときわ大型の有翼蛇が飛行していた。その機動は鋭い。
(ヴァロフ副長は流石に見事なものだ。だが、だった1頭では火力に不足が出よう)

「やはり、私のように3頭で一個編隊を組むのが、最も優れている」
 エーリンは、持論を呟いた。この戦で自分の正しさが証明されると信じていた。
 南方征討領軍飛行騎兵団は固定編成が定められていない。
 各『魔獣遣い』が、自分の使役する有翼蛇を引き連れて騎兵団に加わっている。このため、一名で15頭を使役するバクーニンのような男から、単騎しか操らないヴァロフのような男まで、多岐に渡っていた。
 彼らの戦いぶりは、逐一報告を義務付けられている。また、後方の翼龍に騎乗する本領軍魔導士により、常に評価を受けていた。エーリンが聞いた話では、その結果は本領軍で編成中の飛行騎兵団に反映されるらしい。

(ならば、良いところを見せねばな)

 眼下の森が切れた。眼前に鮮やかな屋根が並ぶ巨大な都市が飛び込んできた。商都ブンガ・マス・リマ。蛮人どもの生意気な都市。
『バクーニンは街を焼け。エーリンはヴァロフと商館街を叩け』
 騎兵団長の思念波が頭蓋に響く。編隊の半数が高度を上げ、もう半数は低高度を保った。

『突撃』

 帝國軍南方征討領軍飛行騎兵団は、都市への空襲を開始した。



概況

 南瞑同盟会議の本拠地である、商都ブンガ・マス・リマをめぐる攻防は、激しさを増すばかりであった。
 本来都市を護るべき同盟会議軍は、すでに壊滅している。わずかに市警備隊300名が残っていたが、それらは市街地各所に邏卒隊とともに分散配備されており、組織的戦闘を行える戦力ではない。
 アイディン・カサード水軍提督が配下の水夫と撤退してきた敗残兵を再編成し、1000名程度の歩兵部隊をでっち上げようと苦闘していたが、どう考えても間に合いそうになかった。

 一方自衛隊は、現地の混乱に翻弄されつつも、各部隊が臨戦態勢をとりつつあった。
 交易都市ブンガ・マス・リマは、大陸を南北に流れるマワーレド川河口域に広がっている。川幅500メートルに及ぶ大河は、海に注ぐ前に西に支流を分け、本流と支流に挟まれた大三角州を形成していた。
 街は支流の西側、三角州、本流の東側の三つに分けられ、それぞれ『西市街』『中央商館街』『東市街』と呼ばれている。同盟会議の本拠『大商議堂』と中核施設は、『中央商館街』に集中していた。
 つまり、三角州の内側だけは何としてでも守りきらなければならなかった。

 マルノーヴ先遣隊本部が全滅し一時的な混乱に陥った陸自部隊は、偵察隊の柘植一尉が指揮権を掌握した。柘植は現状から全部隊の統一指揮は不可能であると判断した。
 やむを得なかった。彼は市街北東5㎞の地点で戦車に乗っており、全体を指揮するための人員も機材も不足している。柘植は全隊に命じた。
『各地区先任指揮官の判断により防戦に努めよ。帝國軍に対する発砲を許可する』
 この命令により、陸上自衛隊はそれぞれの展開地域で帝國軍との戦闘に突入する事となった。
 それに対して海上自衛隊は、統制を保つことに成功していた。陸自に比べて海自が指揮統制に優れていた訳ではない。ただ単に敵の攻撃がまず陸自に対して行われたからであり、司令部が生き残っていたからであった。
 海自は、ブンガ・マス・リマ沖に展開していた第1掃海隊と派遣輸送隊群に警戒態勢をとらせると共に、ラーイド港に入港中の第1ミサイル艇隊に出港を命じた。


 帝國南方征討領軍は、複数の経路でブンガ・マス・リマに侵攻を開始していた。
 マワーレド川の東岸を南下していたのは、混成義勇兵団を主力とする歩兵部隊である。カルブ自治市軍二個兵団、ソーバーン第四支族、督戦隊ケルド中継都市軍。計2000余。
 これにゴブリンと帝國正規兵を加えた2500からなる部隊は、大街道を南下し東市街に突入する任務を与えられていた。
 マワーレド川西岸の侵攻路を南下するのは、帝國軍主力である。コボルト斥候兵を前衛に、ゴブリン軽装兵約1000、オーク重装歩兵500。さらに、魔獣兵団が無数のヘルハウンドや人喰鬼を従えて続いている。主将サヴェリューハ直率の本営も、西岸を進んでいた。
 さらに複数の部隊が様々な経路から侵入を試みている。その一つが、東の森を抜け海岸線に到達したドフター族の部隊であり、上空から侵入する帝國軍自慢の飛行騎兵団であった。


 そして、1月6日15時現在。
 マワーレド川の東岸と東市街は南瞑同盟会議と自衛隊が確保している。パラン・カラヤ衛士団は全滅したものの、柘植一尉の偵察隊が帝國南方征討領軍侵攻部隊を撃退したからであった。
 柘植一尉は東市街の防備を固めつつ、他地区への増援を図ろうとしている。無線からは各地の不穏な状況が入り始めていた。

 対照的に、マワーレド川西岸は酷い状況になりつつあった。
 西市街を担当する部隊が司令部の壊滅により立ち遅れたこと。さらに侵攻する敵に対して地形的障害が乏しいこと(成長を続ける交易都市には、市壁が存在していなかった)。そして敵がどうやら主力であること。
 どう考えても、突入を阻止できない。
 編成の欠けた一個中隊で西市街を守る普通科中隊長は、市内各地からもたらされる交戦報告を聞きながら、市街戦を覚悟していた。

 中央商館街は泥縄式ながら防備を固めつつある。東西市街と三角州を結ぶ長大な二つの橋に陣地を構築し、一歩も退かぬ構えである。
 とはいうものの、そこに配置された守備兵は精鋭には程遠かった。さらに、帝國軍侵攻の報を受け逃げ惑う市民の群れが全てに遅延をもたらしていた。


 端的に言えば、ブンガ・マス・リマはこの上なく混乱していたのである。



第4章 3


 ラーイド港は、普段とは全く異なる姿を見せていた。大小問わず無数の船が港外へと向かっている。
 いつもなら商品を満載にして入港する交易船がいるのだが、今はいない。交易船を横付けするための長大な桟橋や、交易品を納めるための巨大な倉庫が建ち並ぶラーイド港は、混乱と喧騒に包まれている。

「艇長、〈くまたか〉抜錨しました」
「おう」
 航海長の報告に、第1ミサイル艇隊所属、ミサイル艇〈わかたか〉艇長、来島通夫三佐は、鷹揚に頷いた。口髭をたくわえた厳つい顔面を紅潮させ、爛々と光る瞳は周囲を睥睨していた。
 機嫌は良さそうだな。航海長は思った。

「しかし、ひでぇ有り様だな」
「全くです」
 普段は深緑色の水面は、櫓櫂に掻き乱され巻き上げられた泥で灰色に近い。周囲から聞こえてくるのは、警告。怒号。木材のぶつかる鈍い音。悲鳴。水音。
 あちこちで船同士が衝突しているのだ。運の悪い船はそのまま水底に沈む。まるで沈みゆく船から逃げ出そうとする鼠の群れのように見えた。そして、その表現は現実を端的に表している。

「総員配置につけました。群司令部からは帝國軍との交戦許可が出ました」
「そうか! よし、よし」
 来島は、うんうんと頷いた。
 彼を表す言葉は単純だ。勇猛果敢。見敵必殺。
 演習中、搭載されている対艦ミサイルを打ち尽くした彼が「最大戦速! 敵に突撃する」と命じた結果、護衛艦2隻を相手に近接砲撃戦をやってのけ、判定敵大破を勝ち取ったことは、半ば伝説と化していた。

「全員、気合いは入っとるな?」
 来島三佐の作業服がはちきれそうになる。狭いミサイル艇のブリッジには不似合いな程の巨漢なのだ。
「もちろんです」航海長は、いつもの答えを返す。来島は大いに満足し、窓の外を見やった。

 先祖は瀬戸内辺りの海賊衆だという噂の来島は、その評判に違わぬ心境であった。戦える。前回の〈門〉を巡る戦いで、おあずけをくらった彼は、戦闘の機会が巡ってきたことが嬉しいのだ。彼の指揮下には僚艦の〈くまたか〉が入っている。

 そのとき、来島の耳にかすかな爆音が聞こえてきた。街の方角だ。
「来たか」
 航海長には聞こえなかったようだった。しかし、すぐに見張り員から報告があがる。
「敵味方不明機視認。市街地を爆撃している模様」
 雑多な建物がひしめく市街地から、黒煙が上がっている。来島の視界の中で胡麻粒のようなものが飛び回っていた。彼は有翼蛇だろうと当たりをつけた。陸自からの情報もそれを裏付けていた。

『本日13時頃、市上空ヲ敵味方不明飛行生命体ガ飛翔セリ。同盟会議側ニ該当無シ。形状カラ帝國軍飛行部隊ト推定サレル』

「昼過ぎの奴は偵察だったようですね」
「どうやらそのようだな。陸さんから悲鳴があがっとる。市内は相当叩かれているぞ」
 爆発音は次第に数を増していた。黒煙も数え切れないほどになっている。
 来島は腹に力を込めると、吼えるように命じた。

「機関全力即時待機。対空戦闘用意!」

 海士から渡されたヘルメットと救命胴衣を着込みながら、来島は口角を釣り上げた。
 早くこっちに来い蛇野郎。俺が相手になってやる。



ブンガ・マス・リマ東市街上空
2013年 1月6日 15時19分

 帝國南方征討領軍飛行騎兵団による空襲は、平和な日常を重ねることに慣れきっていたブンガ・マス・リマ市民を恐怖に叩き込んだ。

 5頭の有翼蛇が緩やかな角度で地表に向けて降下する。恐ろしげな鳴き声はまるでサイレンのように鳴り響き、目標とされた建物──広場にある集会所の近くにいた人々を震え上がらせた。
 地表が迫る。有翼蛇は喉を慣らすと、それぞれが焔を吐いた。火の玉は猛烈な勢いで広場へと飛んだ。着弾と同時に有翼蛇の体内で生成された粘液が飛び散る。焔をまとった粘液を浴びたものは全てが燃え上がった。
 建物であれ、人であれ。

「ぐははは、燃えろ燃えろ!」
 5頭編隊を3個──つまり15頭もの有翼蛇を操る『魔獣遣い』バクーニンは、3騎の翼龍騎兵に護衛されながら、高らかに笑った。野性的な顔にサディスティックな笑みを浮かべている。
 眼下では街が焼け、人々が逃げまどっている。いや、野蛮人どもは人にいれなくてもよい。我は掃除をしているだけだ。我が治めるべき土地に湧いた虫けら共をな。

 バクーニンの有翼蛇15頭と、彼の乗龍を含めた4騎の翼龍騎兵は、東市街の空襲を命じられていた。バクーニンは騎兵団一の多頭遣いである。その投射火力は優に一個騎士団を殲滅できる。
 同盟会議にろくな対抗手段が無いことは分かっていた。せいぜい矢を射かけるか、魔術士がライトニングを放つ程度。高みから見下ろす彼には届かない。ゆっくりと丁寧に街を焼くだけの簡単な、楽しい仕事だ。
 野蛮人どもが、建物に逃げ込むのが見えた。少しは頑丈そうな建物だ。多分、邏卒の詰め所あたりだろう。無駄なことだ。
 バクーニンは嘲りを浮かべ、思念波を放った。上空待機していた5頭がわずかに身体を震わせた。すぐに緩降下に入る。
 彼の支配下にある有翼蛇が放った火の玉は、2発が建物に命中し、石造りのそれを燃え上がらせた。外れた3発も無駄にはならない。そこは敵の都市であり、どこに当たろうと必ず敵を破壊するのだった。

「ぐははは、愉快愉快! 我に抗う敵影無し、だな」
 翼龍を操る騎兵が、やかましい便乗者にうんざりしていることにバクーニンは気づいていなかった。だが、それは些細なことだと言って良い。ブンガ・マス・リマ東市街上空は彼の支配下にあったのだから。

 15頭の有翼蛇は街を焼き続け、黒煙は空を覆い隠そうとしていた。



 火の粉が辺りかまわず降り注いでいる。煙は増える一方で、呼吸は苦しくなるばかりだった。
 東市街を担当する第2小隊は、部隊集結地へ移動する途中で、空襲に出くわした。彼らは偵察隊が敵の侵攻を阻止したため、増援兵力として再編成され、苦戦する仲間を助けにいくはずだった。
「化け物、また来ます!」 
 隊員の報告に第2小隊長川島二尉が顔を上げた。石造りの詰め所が見える。逃げ遅れていた女性や子供たちが、警官──邏卒たちの誘導で逃げ込んでいた。有翼蛇はそこに向かっている。
「いかん! 逃げろ!」
 川島が叫んだ。だが間に合うはずもない。有翼蛇の吐いた焔は、詰め所に飛び込み激しく燃え上がった。火達磨になった人々が悲鳴を上げながら転げ出る。彼らは身体を奇妙に縮こませると、動かなくなった。
 川島はうなり声をあげると、部下に救援を命じた。同時に、対空戦闘を準備させる。命令を受けた隊員たちは、凄まじい勢いで駆け出した。身の危険を感じるべき状況だったが、誰も躊躇はしなかった。
 隊員たちは怒っていた。目の前に横たわる黒こげの死体はどれも小さかった。それは、焼けて縮んだからではなかった。


「大丈夫か!」
「あ、あんたら〈ニホン〉の騎士団が? ここはもう駄目だ」
 煤で真っ黒になった邏卒が、絶望した顔つきで言った。俺たちはあの空飛ぶ蛇には何にもできねえ。矢なんか当たらねえ。

「馬鹿野郎、諦めるな。あの蛇は俺たちが殺ってやる。あんたらは民間人を逃がせ」
「一体どうやって?」
 邏卒の問いに、隊員は小銃を掲げた。
「こいつで撃つ」
 邏卒は馬鹿にされたと思った。弦も何もついていないクロスボウで何が出来る。その表情を見た隊員は、さらに言った。

「こいつが効かない相手には、とっておきがある。俺たちには『ハンドアロー』がある」
 『通詞の指輪』は、隊員の言葉を『小さな矢』と訳した。邏卒は、『小さな矢』なんかで何が出来るんだ。と思った。



第4章 第2話

ブンガ・マス・リマ東方4㎞ 陸自物資集積所沖
2013年 1月6日 15時08分

 複合艇が舳先を左に振った。操縦員がスロットルを絞る。あっという間に行き足が止まり、海面が濁った。
「すまんが送りはここまでだ!」
 操縦員が叫んだ。安芸三曹ら〈ゆら〉陸戦隊を運んできた複合艇は、その形状から砂浜に乗り上げることは出来ない。波打ち際まではざっと15メートルはありそうだった。
「仕方ないよ、ちょっと行ってくる。迎えはよろしく!」
「風呂は沸かしておくからな!」
 安芸は操縦員に声をかけると、身軽な動作で海に飛び込んだ。腰まで海水に浸かる。波が穏やかなのが救いだった。
「波打ち際まで走れ! もたもたしてると良い的だぞ」
 指揮官の運用士が叫んだ。緊張しているのだろう。その声は普段より大分甲高く掠れていた。次々と海へ飛び込んだ隊員たちは装備の重さによろめきながら、海水を掻き分け、波打ち際へ向けて歩き出した。
「運用士、右前方に陸自がいます。あそこに上がりましょう!」
「どこだ? 煙でよく見えん……あれか! よし、みんなあっちだ!」
 それとなく安芸が示した先には、辺りの貨物を手当たり次第に積み上げ、必死に戦う陸自隊員たちが見えた。彼らの周囲には次々と矢が降り注いでいる。
 マジで殺し合いだ。近付きたくねぇ。
 安芸は思ったが、この場に留まる訳にはいかない。今は矢も飛んでこないが、海岸の陸自がやられれば、自分たちは的でしかなくなってしまう。
 それを避けるためには、逃げ帰るか、海岸に上がって陸自隊員と一緒に敵と殺し合いをして勝つしかない。安芸たちを逃がしてくれる複合艇はすでに海上へと去っていた。戦うしかなかった。
「みんな銃を濡らすな。海岸に上がったらすぐに身を隠せよ!」
 安芸は不慣れな同僚たちに指示を与えつつ、上半身を左右に振りながら一心に波打ち際を目指した。


 砂浜はやはり地獄だった。火矢でも射かけられたのだろうか、物資が燃える黒煙で極端に視界が悪化している。下手をすれば味方に誤射されかねない。
 一般的に、上陸したばかりの兵士たちはひどく脆弱な存在である。海岸は身を隠すための遮蔽物に乏しく、待ち受ける敵に対して不利な態勢に置かれる。
 さらに、指揮官は必ずといって良いほど、部下の統制に苦労する。上陸時に整然とした隊列を維持できる者など存在しないからだ。統制を失った部隊は、脆弱な一個人の集まりでしかない。
 そして、普通の人間は戦場の過酷さに耐えることが出来ない。


 どうにか波打ち際に上陸した〈ゆら〉陸戦隊だったが、味方の元へと走り出そうとした瞬間、運用士が首に矢を受けて倒れた。左手で首元を押さえるが、口からは血の泡が吹き出し、その場に崩れ落ちる。
「!? 運用士! 畜生やられたぞ」
 次席の三城二曹が慌てて駆け寄る。銃声が響く。
「え? う、うわあああああ」
「な、馬鹿、ぐぁ!」
 運用士の隣を走っていた板野一士が、機関拳銃をめくら撃ちしたのだ。恐怖に駆られた彼は、震える手で安全装置を外し、ろくに狙いも付けずに発砲した。不幸なことに、運用士に駆け寄った三城の身体が、射線を横切っていた。
 三城が、背中に銃弾を受け倒れる。パニックになった板野の肩に、短い矢が刺さる。板野は白目を向いて倒れた。痙攣し口から泡を吹いている。

「撃つな、馬鹿野郎! 姿勢を低くしろ。突っ立っていると殺られるぞ!」
 自ら砂浜に伏せながら安芸は怒鳴った。

 陸戦隊はあっという間に25%の戦力を失った。部隊はパニックに陥りつつある。安芸は、自分より先任が居ないことに愕然とした。彼が指揮をとらなければならない。
 素人ばかりだ。畜生。最悪だ。
 せわしなく視線を走らせる。見通しが利かない。矢の飛来方向には蠢く人影がある。敵が味方かは分からなかった。撃てない。
「クソッ、腰を撃たれた。動けねぇ」
「運用士は駄目だ、死んじゃった」
「板野も泡吹いているぞ」
 毒だ。矢に毒が塗ってある。安芸は倒れた二人の様子から判断した。周囲に軽い音を立てて矢が刺さる。当たったら拙い。
「安芸海曹、ヤバいです。どうしたら?」
「腰の感覚が無いぞ。畜生、板野の馬鹿野郎」
 ここにいたら全滅だ。味方と合流しなければ。
 安芸は決意した。左手を頭上でぐるぐると回し注目を集める。視線が集まったところで、彼は前方で戦う陸自を差した。 
「陸自に合流する。あそこまで走れ!」
「でも、立ち上がったら矢に……」
「ここにいたら死ぬぞ! 三城さんは俺がかつぐ。死んだ二人は置いていく。急げ!」
 安芸は叫ぶと、グリースガンを胸に提げ、腰を負傷した三城二曹を肩にかついだ。装具を含めて80キロ以上の重さが肩に食い込んだ。重みを受けてブーツがきめの細かい砂に沈む。
 だが、安芸は確かな足取りで味方へと走り始めた。それを見た陸戦隊員たちが慌ててあとに続く。
 安芸は基礎課程でかついだ丸太の重さを思い出した。あの時はしごきだとしか思えなかったけど、意味があったな。そう思った。


「輸送艦〈ゆら〉陸戦隊、安芸三曹です! 応援に来ました」
「後方支援隊管理小隊、松井一曹だ。よく来てくれた! 君が先任か?」
「すみません。指揮官の運用士他1名が戦死。1名負傷……現在私が最先任です」
 松井はあからさまに落胆した態度を見せた陸士を視線で黙らせ、労うように言った。
「大変だったな。負傷者はうちの衛生に診させる」
「ありがとうございます」

 〈ゆら〉陸戦隊が転がり込んだ陸自の防御陣地では、20名程の陸自隊員がコンテナやパレット積みの貨物を頼りに、抗戦を続けていた。海を背に概ね半円形をえがいている。
 正体不明の敵に突入された物資集積所では、最大の拠点だった。
 松井と名乗った陸自隊員は、眼鏡に砂をつけたまま、安芸に現状を説明した。かなりの早口だった。

敵は物資集積所に雪崩れ込み、あちこちで陸自隊員と交戦している。不意を突かれた自衛隊側は、ここ以外に数ヶ所で孤立しつつ戦っていた。集積所の隣にある宿営地兼車両整備場は味方が確保していたが、打って出る余裕は無い。
 本来であれば、味方を収容しつつ宿営地で態勢を立て直し、反撃に出るか増援を待つかすべきである。しかし、それは果たせずにいた。

「君たちはここを守ってほしい。あちこちに孤立した味方がいて、収容しないといかんのだが、手が足りない。俺たちが半分ほど抜ける穴を任せたい」
「分かりました。我々は素人です。難しいことは出来ません。陣地に籠もって戦うのが精々です」
「海自さんを引っ張り出しちまってすまんな。敵は毒を使ってくる。気をつけてくれ」
「毒矢で2人殺られました」
「矢だけじゃない。吹き矢にも気をつけろ。奴ら恐ろしく素早いぞ」
 打ち合わせを済ませた安芸は陸戦隊を防御陣地に配置した。BARと64式小銃を持つ隊員に、M3短機関銃や9㎜機関拳銃を装備する隊員を組ませ、半円形に布陣させる。
 船乗りである彼らは陸戦に不慣れなため、固定砲台として戦うしかないと安芸は考えていた。自分はフリーに動き指揮と予備兵力を担当する腹積もりだった。
 戦死した運用士から回収したM3の弾倉をポケットにねじ込む。周囲は乱戦と言うしかない状況だ。弾が尽きればおしまいだ。
「松井一曹、一つ良いですか?」
「おお、なんだ?」
 安芸は疑問を抱いていた。
「幹部はどこに行ったんですか?」
「後方支援隊長は殺られたよ。他の幹部も山ほど死んで残りは分からん」
 松井の目が暗く沈んだ。
「奴らが森から現れた時、敵か味方が判断に困ったんだ。この辺の連中は統一した装備なんかつけちゃいないし、森はリユセのエルフが押さえているって話だった」

 森から現れた集団は武装していたものの、服装は質素な民族衣装であり、軍には見えなかった。しかも、女性や子供らしい姿も見える。後方支援隊長は迷った。リユセ樹冠国の者が居れば正体を掴めたかも知れない。だが、彼女たちは運悪くその場に居なかった。
「奴らは近づくなって言っても聞こえない素振りで来やがった。数が増えてどうにも拙いって所で隊長が出て行った。で、『我々は日本国陸上自衛隊──』そこで殺られたよ」
 その後は訳の分からない内に物資に火を放たれ、乱戦となった。指揮官を殺された自衛隊は、結果として無様な戦いを強いられている。安芸の疑問はますます大きくなった。
「何で撃たなかったんです? 帝國軍の侵攻は知っていたはずなのに」
 松井が胡乱な瞳で安芸を見た。
「俺も、撃てば良かったと思う。でも、出来なかった。部隊行動基準では撃っても良い状況だった。でもな──こっちに来てから今まで部隊行動基準通りにやっていたら、俺たちは南瞑同盟会議側の連中を殺しちまっていたはずだ」

様々な要因があったのだろう。
 マルノーヴ先遣隊には、サマーワにおけるオランダ軍のような味方が居なかった。治安維持の矢面に立った自衛隊が得ていた事前情報はごくわずかで、手探りで物事を進めざるを得なかった。辛うじて帝國軍旗の情報程度は得たものの、未だ分からないことだらけであった。
 さらに現地の友好勢力である南瞑同盟会議は、とても統制がとれているとは言えなかった。
 リユセの妖精族や同盟会議参事会は『〈ニホン〉の騎士団に許可無く近付いてはならない』との布告を出していたものの、物珍しさから集積所を訪れる現地民や行商人は途切れることが無かった。悪いことに、この世界において刀剣や弓で武装することは日常であった。
 彼らは、武装している割に「あれ、まあ。こりゃ見たこともねぇ騎士様たちだなや」「干し菓子はいらんかね? 兵隊さん」などと気安く近寄ってくる。
 部隊行動基準に従い『現地語での警告』『武器の指向』を行っても、そもそも銃を知らない彼らはいまいち反応が鈍かった。結局のところ、彼らは全て善良な現地民で、〈ジエイタイ〉騎士団の風変わりな装具や、不思議な品々を面白がり、土産話を持って帰って行った。
 いつの間にか隊員たちは、部隊行動基準に従い発砲しなかったことを、安堵とともに正しかったと受け止めるようになっていた。一部の隊員はこれが危険な兆候で有ることに気づいたが、具体的な対処は行われなかった。

「俺たちは慣れちまっていたんだ。ゲームに出てくるようなエルフやドワーフがニコニコと話しかけてくることに。今までは何事も無かった」
「でも、今日は」
「違った。奴らは敵だった」

 マルノーヴ派遣以前にも自衛隊はすでに血を見ていた。しかし、それはあくまで国内での戦闘であった。日本国内において、現代人に見えない者はすなわち『異世界からの敵』であり、自衛隊は速やかに対応した。
 それに対してアラム・マルノーヴでは現地民に『敵』と『味方』と『敵味方不明勢力』が混淆していた。軍と民間人の境界も曖昧であった。
 ある意味で、政治によって大切に保護されていた自衛隊が、諸外国軍──アフガンやイラクにおけるアメリカを始めとする多国籍軍と同様の立場に放り込まれた瞬間であった。
 アメリカ軍なら、速やかに発砲していただろう。だが、彼らは〈自衛隊〉であった。

「隊長も俺たちもよく分かっていなかった。いいか、ここは敵地だ。女子供ですら敵かも知れない。それを忘れるな」
 松井一曹の声は、何かを悔いるような響きを含んでいた。彼は89式小銃を腰だめに構えると、部下を率いて走り去った。その姿はすぐに黒煙に紛れて見えなくなった。

 安芸は銃声が響く中、たった一人になったような気分になった。頭を激しく振る。ヘルメットの重みで首の筋肉に痛みが走った。
「全員配置についたか? 敵は素早いぞ、よく狙って撃つんだ。無駄遣いするなよ!」
 安芸は気を取り直すと、意識を防御の為だけに集中することにした。そうしないと余計なことを考えてしまいそうだった。



ブンガ・マス・リマ東方4㎞ 
2013年 1月6日 15時12分


 この敵手、意外に手ごわい。
 ドフター族を率いるバールルィ・リヤジャンは奥歯をぎりりと鳴らした。勇敢な深森の狩人にして、露霊の神官でもある彼は、戦化粧に縁取られた真っ黒な瞳を海岸に向けた。
 壮年にさしかかろうとしている肉体は頑強そのもので、獲物を追って三日三晩森を駆けてもびくともしない。彼らドフター族は狩猟に生きる森林民族である。その群れを率いる男は、肉体は誰よりも強く、そして深森に棲む露霊に近くあるべし、とされていた。
 リヤジャンはその資格を充分に満たしていた。猛々しい心は敵を食い破ることに向けられている。
 傍らの男が言った。
「存外しぶとい」
「ん。はじめは野豚のような間抜けかとみたが」
 いざ当たってみれば、山犬の群れより始末が悪い。リヤジャンは敵の手強さに苛立ちを隠さない。海岸に奇妙な物を積み上げ、たむろっていた異界の兵隊は、当初ドフター族を見ても「近付くな」と言うだけで、何故か攻撃してこなかった。
 あまつさえ位が高いと思われる男が単身でのこのこと現れた。リヤジャンは敵を侮り、誘い込んで射殺した。首領を失った残りはすぐに降ると思った。

 だが、敵は打って変わって猛烈な反撃を加えてきた。
「あの火礫はやっかいだ」
「しかり。矢の届かぬ場所から撃ち抜いてくる。一撃で死ぬ。魔術か」
「あのような魔術はしらぬ。帝國すらもたぬ」
「南瞑にあのようなものどもがいたか?」、
「しらぬ。露霊も囁いてはくれなんだ」
 リヤジャンの目の前では、一族の男女が矢を放ち、飛び回り、火礫に貫かれ倒れる様が繰り広げられていた。射撃戦では分が悪い。森を出て戦うのではなかった。リヤジャンは思った。
「だが〈朝露の〉リヤジャンよ。われは敵を知ったぞ」
「何を知った」
「山犬の群れに恐るる無かれ。剣を構えよ。その腹を裂くべし」
「ふむ。近づけと……敵は剣を持たぬ、か」
 確かに、森の木々のような柄の鎧を纏う敵兵は、その奇妙な鉄の筒から火礫を放つが、他には短剣しか身に帯びていない。リヤジャンの腹心は魔術士に近接戦闘を挑めと言っているのだった。

 多くの者が死ぬな。リヤジャンは覚悟した。
 森という森で獲物を追い、不遜にも森の守護者を気取るリユセの耳長どもと争いながら暮らしてきた彼らは、『帝國』という巨大な暴力の前に膝を屈した。ドフター族は、戦う他に道は無い。

 帝國の猟犬のごとき自らの立場を自嘲しながら、リヤジャンは懐から獣骨で出来た笛を取り出した。物悲しい音が鳴り響く。その音色を耳にした一族の男女は、途端に奇声を上げながら敵陣に突進し始めた。
 矢が降り注ぐ。敵兵が頭を下げる。その隙を突いて、ドフター族の狩人たちは海辺へと突入していった。

「露霊の囁きあれ!」
 リヤジャンはそう唱えると、恐るべき速さで自らも海岸へと駆けていった。



ブンガ・マス・リマ西市街 〈アグニヤー神のスカート〉通り

2013年 1月6日 15時32分


 各地からの交易品を運び込むのに都合が良いように、ブンガ・マス・リマの街路は市外から中心の交易広場に向かって延びている。上空から見れば交易広場を中心に放射状に広がる街路が、まるで太陽の光条のように見えるだろう。
 その中でも最も広く真っ直ぐな道が〈アグニヤー神のスカート〉通りである。大型馬車を4台並べて疾走させられるほどの幅を持つこの通りには、旅籠や雑貨屋、両替商などが軒を並べ、普段は人と荷馬車が途切れることはない。
 人々は目の前でひらひらと揺れる商売のチャンスを、ある者は眺めて楽しみ、ある者はその手に掴もうと手を伸ばした。
 そんなことから名前の付いた〈アグニヤー神のスカート〉通りは交易広場で他の街路と合流すると、そのまま中央商館街に架かる〈ジェスルア大橋〉へと続いていた。

 いま、その街路上を異形の兵たちが進撃している。2メートルはあろうかという巨体を厳つい革の甲冑で固め、手に蛮刀や戦斧を提げた豚頭の妖魔は、帝國南方征討領軍主力のオーク重装歩兵の一隊であった。鬼面を模した大盾が周囲を威圧するかのように並んでいる。
 オークたちは逃げ惑う市民を蹂躙しながら、ひたすらに南瞑同盟会議の本拠地である中洲を目指していた。その突撃は地鳴りを伴い、人の手では止められないと誰もが思った。


 突如、オークの先頭が血しぶきをあげて倒れた。豚頭の妖魔兵たちは鼻息荒く周囲を見渡し、見た目からは想像出来ない素早さで大盾を並べ防御隊型をとる。指揮官は攻撃が街路の左手に建つ商館の二階から加えられたことに気付いた。
 閃光と共に軽快な破裂音が響く。商館からさらなる攻撃がオーク重装歩兵たちに降り注ぐ。ずらりと並んだ鬼面が一瞬で突き破られ、何者にも負けぬとばかりに盾を掲げていたオークもまた、頭蓋や胴を砕かれた。
 怯えたオークが豚の悲鳴に似た警告を発した。
「敵襲! おのれ盾が役に立たぬか。敵はあの商館ぞ。オークを突入させよ!」
 重装歩兵を指揮する帝國騎士が馬上で命令を発した。さすがに妖魔の指揮に長けた南方征討領軍である。下級騎士たちがオークに命じ、妖魔兵の一団が商館に向かって突進する。
 しかし、それは街路の反対側から加えられた新たな攻撃により、粉砕された。横合いからの火礫にオークはバタバタと倒れた。生き残りに動揺が走る。
「くっ、挟み撃ちか──グァッ!」
「指揮官殿!」
 馬上でさらなる命令を発しようとした指揮官が、狙い澄ました一撃を胸に受け落馬した。従者が慌てて駆け寄るがすでに事切れている。敵の魔術士は恐るべき手練れである。従者が愕然とする間にも、今度は下級騎士たちが次々と撃たれていった。
「ブヒイイィイイ」
 指揮官を失ったオークたちは、ただの獣に戻ったかのようだった。敵から逃れようとてんでバラバラの方向に走り出し、挟み込むように加えられた攻撃の前にことごとく打ち倒された。

「よし、いいぞ。やっつけた!」
 オーク重装歩兵に攻撃を加えたのは、西市街を担当する普通科中隊第1小隊第1分隊であった。最も侵攻が容易な街路の左右に火点を構築し、十字砲火でオークの突撃を破砕したのだ。オークの巨体も革鎧も大盾も、5.56㎜小銃弾の前には、紙同然であった。
「小隊長、裏道の敵が背後に回りそうです」
「そうか、くそッ。次の拠点まで下がるぞ。向こうにも伝えろ!」
 小隊長の遊佐二尉が、吐き捨てるように命じた。わずか一個小隊では全ての道を抑えることは出来ない。やむを得ず、重要な道に火点を構築し敵を迎え撃つと共に、包囲を受けそうな状況になるたび、後退を繰り返している。
 遊佐の率いる小銃班は、ぎしぎしと鳴る階段を駆け下りると、〈アグニヤー神のスカート〉通りに飛び出した。反対側の建物からも部下が駆けだしてくる。遊佐は手信号で素早く命ずると、自らも次に目を付けた火点に向けて走り出した。
(もう、幾らも下がれんなぁ)
 帝國軍に多大な出血を強いることに成功している遊佐の小隊であったが、変わりに広大な面積を敵に明け渡していた。あと2回も戦えば、後ろには中央商館街へと通じる〈ジェスルア大橋〉を残すのみとなるだろう。
「それに……ああ、84が使えればなぁ」

 彼らにはそれを使えない理由があった。


「射撃止め! 撃つな撃つな!」
 〈アグニヤー神のスカート〉通りに隣接する街路を担当していた第2分隊の隊員たちは慌てて射撃を止めた。
 30メートルほど先の路上には、犬面の妖魔が蠢いている。遮蔽物に隠れることを知らないようで、射撃を加えれば容易く全滅させることが出来た。
「何で止めるんですかッ!」
 89式小銃を突き出すように構え、頬付けしたままの姿勢で隊員の一人が怒鳴った。
「犬面の向こうに民間人だ。ここから撃つと当たるかも知れん」
「え? ああ、何であんな所に……」
 市民の避難は遅々として進んでいなかった。西市街8万の市民に対して、邏卒と市警備隊はごく僅かで、しかも彼らは絶望的な防衛戦闘に駆り出されている。避難誘導を行う者が存在しなかった。
 結果として、逃げ惑う市民の中を帝國軍の妖魔兵暴れまわっている状況が発生していた。小銃弾は容易く敵兵の身体を貫通するため、流れ弾の危険性は排除出来ない。ましてや、危害半径の大きな火器は使用することすら出来なかった。

「どうします?」銃口を下げた陸士が訊ねる。分隊長は左右を見回し、事も無げに言った。
「お前ら二階に上がれ。俺が囮になって引きつける。撃ち下ろしならなんとかなるだろう」
「分隊長も無茶だな。ヘマして転ばないで下さいよ」
「うるせぇ。お前らこそ外して俺が死んだらぶち殺すからな!」
「了解」

 分隊長は部下たちが木造家屋の二階に登ったのを確認すると、妖魔に向きなおった。軽口を叩いてみせたものの、足は震えていた。
(怖ぇな。だいたい俺は犬好きなんだぞ)

 覚悟を決めた分隊長は両手を振り上げると大声で叫び始めた。


ブンガ・マス・リマ西市街 ジェスルア大橋前交易広場
2013年 1月6日 16時02分


 陸上自衛隊マルノーヴ先遣隊普通科中隊第1小隊長遊佐二尉は、交易広場にでっち上げたバリケードの上で通りの向こうを窺っていた。
 広場に通じる幾本もの広々とした大通りには、家財道具や荷車といった品々が散乱している。それだけではない。かつてここで威勢の良い呼び込みや、楽しげな笑い声を上げていた老若男女だった「もの」も、路上に無惨な姿を晒していた。
 酷い情景だった。ごく平均的な日本人サラリーマン家庭に生まれ、防大を出て任官し、自衛官となった遊佐にとって、目の前の情景は衝撃以上の何かだった。
 凄惨な光景を前にした彼の戦意に陰りは無い。しかし、隣で彼を補佐する小隊陸曹は薄々気付いていた。遊佐の行動には、必要以上に我が身を危険に曝す傾向が出始めている。 
 小隊陸曹は僅かな危惧を持ったが、戦意を失うよりはましだろうと、取り敢えず無視することに決めていた。
 遊佐は顔中に異様な量の脂汗を浮かべ言った。
「ここで食い止める。曹長、準備は?」
「各班配置に付きました。敵を火制区域に誘い込み十字砲火を浴びせられます」
 遊佐は大きくうなずいた。歯をむき出し、つぶやく。
「外道どもめ。早く来い。今度こそ殲滅してやるぞ」
 彼の第1小隊は、大きく戦力を減じていた。戦闘による直接的な被害は少ない。しかし、後退に次ぐ後退で一個分隊が分断され現在地不明。さらに一個分隊が敵に包囲された神殿に立てこもる邏卒隊と市民の救援に分派されていた。
 現状遊佐が指揮するのは、消耗した二個小銃分隊約20名であった。彼はその大部分を広場の周囲に潜ませた。正面を守るのは彼を含め数名でしかない。
 大変に度胸のいる配置である。広々とした交易広場に申し訳程度に築かれたバリケードは、オーク重装歩兵の突撃を受ければ、濡れた半紙のように容易く打ち破られるだろう。
 だが遊佐はあえてそう配置した。敵がこちらを侮って突撃したところを左右からの射撃で叩くつもりだった。
 彼の背後は中洲に通じる〈ジェスルア大橋〉である。ここを抜かれれば本拠地が戦火に曝される。通すわけには行かなかった。
(相当叩いたのに、次から次へと湧いて出てきやがる。三好一佐、恨みますよ……)
 遊佐は敵の数と戦意に舌を巻いていた。火力も陣地構築も足りていない。結果として博打のような作戦を採らざるを得ない。だせぇ戦い方だぜ。彼は密かに自嘲した。


 金属の擦れ合う音が、細波のように空気を震わせ、隊員たちに届いた。すぐに正面の〈アグニヤー神のスカート〉通りに、敵影が現れた。禍々しさを感じさせる黒の革鎧に身を固めた軍勢が、鬼面の盾を掲げつつ隊列を組んで前進してくる。
 歩調はとれていないが、戦意に不足は無いようだ。兵士に指示を出す下士官の怒鳴り声が、数百の足音と混ざって隊員たちを威嚇する。
 さらに左右の通りにも敵が見えた。建物から建物へ、遮蔽物を盾にして迫るのは犬面──コボルト斥候兵の群れだろう。戦闘力は低いが、高い機動力で都市に浸透するコボルトは侮れない相手だった。
 さらに背の低いゴブリンの姿も見えた。蛙にも似た醜い声が通りを埋める。粗末な鎧にバラバラの武器を携えたゴブリンたちは、多くがその武器や身体に血痕をこびりつかせていた。89式小銃を構えた若い隊員が、奥歯を噛み締める。
 広場に通じる通りという通りから、敵兵が押し寄せてきていた。その全てが橋を奪おうとしていた。

「射撃始め」
 遊佐は小さく命じた。バリケードから散発的な発砲が始まる。微かな硝煙を残して放たれた5.56㎜小銃弾は、確実に敵を撃ち倒していく。しかし、敵の数に比してそれはあまりにも少ない。
 銃弾に戦友を撃ち倒されながらも、帝國軍はじりじりと前進した。経験豊富な南方征討領軍の騎士たちは、恐るべき威力の攻撃に驚きながらもその数の少なさを看破していた。距離が確実に詰まっていく。その距離は100メートルを切った。
「各班射撃用意」
 遊佐が小隊陸曹に言った。
「各班用意よし」
 小隊陸曹から間髪入れず答えが返ってくる。遊佐はうなずくと〈アグニヤー神のスカート〉通りを見た。敵兵で埋まる大路。倒れ伏す市民の死体。生きているものは帝國軍だけだった。
「敵が火制区域に入り次第、令なく射撃開始。カールグスタフ用意。敵が突撃に移ったら榴弾を叩き込め」
「装填よし」

 今まさに、自衛隊によって西市街最後の防衛線に仕組まれた罠が準備を整え、帝國軍に牙を剥かんとしていた。

 最前列のオークが血煙を上げ、どぅと倒れた。胸に空いた傷口は小さいが、背中から大量の血を流してそのオークは死んだ。敵の魔法は分厚い鉄張りの盾も鎧も、その下の脂肪と筋肉も容易く撃ち抜いていく。信じられない威力だった。
 まだ、およそ百五十歩の距離があるにも関わらず、敵は致死の光矢を撃ち込んでくる。
「たかが南瞑の蛮族風情がここまでの手練れを揃えているというのか? あれだけ軍を叩かれて?」
 帝國南方征討領軍歩兵団長レフ・エギンは顔の下半分を埋める豊かな髭を震わせた。獅子を想わせるがっしりとした体躯を、機能一点張りの黒鋼製板金鎧で固めた姿は、戦場の将帥に求められる風格を十二分に備えている。
 ヘルムの下から覗く瞳は、その言葉ほど興奮してはいない。むしろ口に出すことで現状を整理しようという意図さえ見えた。
 南方征討領軍先遣兵団主力を預かる彼は外道を用いる立場ながら、常道の将軍でもある。
 彼は経験豊富な指揮官らしく斥候兵による入念な索敵ののち、遊撃隊としてゴブリンを街に侵入させるとともに、主力のオーク重装歩兵を押し立ててひたすら中洲を目指した。
 彼に与えられた任務は「敵本拠の攻略」であり、そのためには中洲へとつながる〈ジェスルア大橋〉を速やかに打通する必要がある。彼は奇をてらわず堂々と主力を前進させた。
 街にろくな守備兵は残っていない。それは、西市街の大部分をあっさりと自軍が蹂躙していることが証明している。しかし、彼の元には快進撃を遂げる報告とともに、異様なまでの損耗報告が伝えられていた。
「すでにゴブリン軽装歩兵隊の二割が喪われました。コボルト斥候兵も有力な敵に遭遇し、崩れるもの多く──」
「先陣のオーク重装歩兵が壊滅、騎士 殿敵陣にて討死」
「敵守備隊は退いた模様。退き陣は素早く捕らえられません」
「敵は、少数なれど強力な魔術士が多く在るものと思われます」
 散発的に伝令がもたらす報告は、時系列が入り乱れている。しかし、そのどれもが少数ながら強力な敵部隊の存在を示していた。

「どう見る?」
 エギンは傍らの参謀魔導師に尋ねた。どう考えても尋常ではないと感じている。我の進撃速度が速いのは敵が素早い後退を行っているおかげだと、彼は検討をつけていた。 
 魔導師のローブに地位を示す徽章をつけた参謀は血色の悪い顔面をさらにどす黒い色に染め、重々しい口調で答えた。
「恐らくは……同盟会議の冒険者ギルド子飼いの精鋭でありましょう。手練れの冒険者ならばあれほどの魔術多用も考えられます」
「敵に後備はあるか?」
「こちら岸にはもはやありますまい。しかし、橋の守備があれだけとは思えませぬ」
 さらに一頭、前衛のオークが倒れる。しかし、すぐさま後列が間隙を埋め重装歩兵の横陣は着実に歩みを進めていく。
「放てェ!」
 後方から、弓手頭の号令に続いて弓鳴りの音がした。ザァという音を残して敵陣に矢が降り注ぐ。敵陣からの反撃は力を弱めた。弓隊による援護が敵兵の頭を抑えている。

「敵には罠があるというのだな」
「御意」
「だが、それを探る手間はかけられん。儂の手勢はひたすら押し出し、橋を打通する。サヴェリューハ閣下の魔獣兵団は敵本陣への切り札だからな」
「では?」

 参謀の問いに、エギンは大音声で言った。

「我、南方征討領軍歩兵団長レフ・エギンの名の下に命ずる。全隊、突撃発起点に着き次第、敵陣にかかれ! 対岸まで止まることを許さず。敵魔術士を討ち取り誉とせよ!」
 命令を受けた本陣付き軍太鼓が乱打を始めた。太鼓のリズムに合わせるように重装歩兵の歩みが早まり、地鳴りのような音を立てる。興奮したオークが唸り声を響かせ、それはあっという間に全隊に伝播した。
 過去、幾多の敵勢を怯ませてきた獣の雄叫びである。
 エギンは、敵陣に向けて駆け出した手勢を見ながら、参謀に言った。

「罠は〈悪疫〉どもがどうにかするだろう」
「御意」


ブンガ・マス・リマ西市街 交易広場 自衛隊特火点 
同時刻


「敵主力突撃に移行。左右の助攻部隊も前進を開始した」
 MINIMI軽機関銃に据えられたスコープを覗きながら、機関銃手が報告した。特火点の機関銃班を指揮する高倉二曹は、静かに前方に視線を送る。
 そこには〈ジェスルア大橋〉の手前に設けられた貧弱な防御陣地に向けて突撃を開始した、異形の軍勢の姿があった。
 正面の〈アグニヤー神のスカート〉通りから、豚頭の重歩兵一個中隊規模が、雄叫びを上げながら迫っている。その左右の路地からは、犬面とゴブリンが隊列も組まず、跳ねるように駆けている。合わせると一個大隊規模に迫りそうだった。
 打ち捨てられた積荷からこぼれ出た穀物が埃とともに舞い上げられ、敵兵の姿を曖昧にする。見る者の心臓を締め上げるような恐ろしい光景だった。
「火制区域に入り次第、やるぞ。射撃用意」
 だが高倉は冷静だった。自分の機関銃班が配置された特火点は、敵の侵攻経路をきれいに見下ろす旅籠の二階に位置している。さらに広場の反対側にも同様の特火点が設けられていた。
 あらかじめ調定された火制区域に対し完璧な十字砲火を可能とする配置である。
 調子に乗った化物連中は、俺と向こうの突撃破砕射撃で粉々にしてやる。
 高倉は部下を見た。旅籠の窓から広場を狙う軽機関銃は3丁。さらに89式小銃がこれに加わる。敵の突撃を打ち砕くには十分な火力だ。さらに鉄条網とクレイモア等を組み合わせた対人障害を構築したいところであったが、それは叶わなかった。
 慎重な性格の彼は、部屋の出入口を警戒する隊員も確認する。異状なし。隊員は親指を立てて報告した。

 怒号が広場に満ちた。敵が街路から溢れ出す。手に手に武器を携えた化物が、自分たちを殺すために押し寄せてくる。高倉は小隊長の感じているであろう恐怖を想像し、身震いした。小隊長をやらせるわけにはいかん。
 敵集団の先頭が火制区域に差し掛かる。

 轟、という音とともに広場の陣地から白煙が伸びた。次の瞬間、敵主力の前面で炎と土煙が発生し、強烈な爆音が鳴り響いた。
 カールグスタフ──84ミリ無反動砲が射撃を開始したのだ。発射された多目的榴弾は、鎧甲で固めた敵兵の真ん中に命中し、彼らをまるでプリンのように吹き飛ばした。

「射撃始め! やつらを吹き飛ばせ!」

 高倉が命じた。途端に旅籠の狭い客室が発砲音で満たされた。それは、耳栓をしていてすら頭蓋に響く音だった。だが、不快なはずの轟音を、高倉は心地良く感じている。銃弾は助攻部隊のゴブリンを斜め上方から面白いように切り裂いた。
 突如異方向から浴びせられた銃撃に、敵は大混乱に陥っている。突撃の勢いはみるみるうちに衰えつつあった。
 高倉も、小銃を構え発砲する。混乱を収めようとする下級指揮官らしい騎士を狙った。発砲。騎士がもんどりうって倒れる。いいぞ。このまま撃ちまくれば──。

 だが、部屋に響く射撃音が急に小さくなった。高倉はしばらくそれに気付かなかった。射撃に集中し過ぎたのだ。それは、致命的な誤りだった。

 高倉の顔にパタパタと水が降り注いだ。妙に生温かい。高倉はとっさに雨だと思った。ぬるりとした水滴が頬を伝う。
(──雨? 馬鹿な、ここは屋内だぞ。それに射撃が止んでいる、どうした?)

「おい、故障でもしたの──」
 訝しんだ彼が左を向くと、そこには首筋を切り裂かれ噴水のように血を噴き上げる機関銃手の姿があった。慌てて飛び退く。出入口を警戒していたはずの隊員が、目を見開いて事切れている。他も皆倒れていた。

 部屋には彼の他に動く者は誰もいない。

「な、なんで? 何なんだ?」
 高倉はパニックになりながらも小銃を室内に向けようとした。その時、目の前の空間が微かに揺らいだ気がした。

 ふわり。

 甘い匂いが、高倉の鼻を掠める。蠱惑的な匂い。女の匂いだ。戦場に何故? 高倉は反射的にそう思った。
 次の瞬間。耳元に濃い体臭と温かな体温を感じた彼は、その数百倍もの熱さを下腹部に覚えた。下を見る。鋭利な刃が彼の腹を切り裂いていた。あっという間に膝から力が抜ける。無意識に吐息が洩れた。

「あ、ああああぁぁぁ……」

 寒い。畜生。小隊長、すみませ──。
 薄れゆく視界の中、高倉は刃に着いた血を払う褐色の女の姿を見たような気がした。


「特火点、沈黙しました。通信途絶」
「馬鹿な」
 遊佐は呆然とつぶやいた。左右の特火点は沈黙し、連絡も取れない。やられたとしか考えられなかった。十分な戦力を配置したはずなのに。何故。
 轟音。白煙を引いて無反動砲弾が敵に向かう。至近距離で爆発。熱風が頬を叩く。もう、そんな距離なのだった。
「小隊長、無理です。食い止められません!」
 小隊陸曹が悲鳴のような叫びを上げた。遊佐は普段は巌の如く揺るがない陸曹長の、そんな声を初めて聞いた。
(全くその通りだ。もはや敵を防ぐことは不可能だ)
 敵はすでに顔が判別出来る距離に来ていた。陣地の隊員は7名。敵は数百はいるだろう。
「つ、着け剣。白兵に備え」
 遊佐は震える声で命じると、小銃に銃剣を装着した。逃げる? 冗談じゃない。あんな外道に背中を見せられるか! 女子供を殺したやつらに。俺の部下を殺したやつらに! 沸々と怒りが沸いてきた。
「可能な限り、食い止める!」遊佐は決然と言い放った。
「……降伏しても無理でしょうなぁ」それを聞いた小隊陸曹が悟ったような声で言った。
 目と鼻の先に醜悪な敵兵が迫っていた。
「手榴弾!」
 遊佐が叫ぶ。隊員たちは一斉にピンを抜くと、対人手榴弾を投擲した。くぐもった爆発音が敵兵の真ん中で起きた。土煙が上がり、飛散した破片が敵兵を切り裂いた。ゴブリンが悲鳴を上げて地面を転がる。正面の敵が一瞬怯む。だが、左右から敵兵が押し寄せる。
 無反動砲手が機関拳銃を乱射した。犬面の兵が薙ぎ倒される。ボルトが鋭い金属音を立てて停止する。反対側から投擲された手槍が、弾倉を交換しようとした無反動砲手に突き立った。砲手は口から血を吐き、地面に崩れ落ちた。
 正面の敵も態勢を立て直し陣地に迫っている。発砲。弾倉交換。発砲。誰かが倒れる。おかあさん。悲鳴が上がる。

 遂に敵が雪崩込んできた。小隊陸曹が銃剣付の89式小銃を手槍のように扱い、瞬く間に三名の敵を突き倒した。しかし、直後に躍り掛かって来たオーク重装歩兵の蛮刀を受ける。防弾チョッキの肩口を深々と斬り下ろされ、小隊陸曹は仰向けに倒れた。地面に血だまりが広がる。
 遊佐は銃床でゴブリンの顎を横凪に砕きながら、周囲の隊員が次々と倒れる様を見ていた。無音の景色がまるでスローモーションのようにゆっくりと流れた。
 なんてこった。俺の小隊が。よりによって玉砕かよ。



「〈ジェスルア大橋〉を確保致しました。手勢を立て直し、三角州へ進軍いたします」
 勝利にもかかわらず、参謀の報告はどこか陰鬱な響きを含んでいた。
「いかほど討たれた?」
「オーク重装歩兵は残兵二百余り。ゴブリンとコボルトは半数が討死にか逃散。まことに恐ろしいことで……」
「敵は僅か20名程だったというのは真か? 信じられん」
 エギンは、足元に転がる敵兵の死骸を見下ろした。緑の斑模様の鎧をまとったその兵は、首が無かった。威風や儀礼を無視した異様な軍装は、軍の紋章官も参謀も全く見覚えが無かった。彼らの常識で言えば、野盗の姿に近い。
「こやつら全てが魔術士というのか? あの爆炎。魔導師並の術だぞ」
「此奴等の他に敵の姿は有りませぬ故、相違ないかと……」


「その割に、我らの隠行には気付きもせなんだが?」

 ふわり。風が吹いた。周囲を固める衛兵の半数は何も気付かなかった。残り半数と参謀魔導師、そしてエギンはその存在に気付き、視線を向けた。一部の衛兵は悪霊にでも出くわしたかのような表情で、腰の長剣に手を伸ばしている。
 彼らの視線の先には、艶やかな褐色の肌と、壮麗であるが同時に不吉さを併せ持つ豊かな銀髪を持つ女が、敵兵の死骸に片足を乗せ、立っていた。むき出しにされた肉感的な太ももと、厳つい革製の長靴が対照的で、見るものに冒涜的な印象を与えている。背は高い。
 幅広のベルトで締められた腰には湾曲した片刃の短剣を下げ、胸は呪文のような縁取りで飾られた胸甲で守られている。だが、胸甲越しでもわかる豊満なその肉体は匂い立つような色気を放ち、周囲の兵を刺激していた。

 「貴様か。隠行に気付かなかったとは?」

  エギンの問いに、女は切れ長の闇夜のような瞳にいやらしい笑みを浮かべ、侮蔑するように言った。
「くふふ。まことに気付かなかったのだ。こやつらは。初歩の魔法感知すら、唱えた様子は無かったぞ。愚かよの」
 女は卑しい表情にもかかわらず美しかった。ぽってりとした唇が大きく歪み、ぬるりと光る。

「ちぐはぐな術師よ。まことに面妖な敵。我らはたやすくそのそばに忍び寄り、その命を刈り取った」
 楽しかったぞ。そう言って女は小首を傾げた。銀髪がサラサラと流れ、長く尖った耳が表れた。参謀魔導師が主将を守るかのように一歩進み出た。
「と、とにかく御苦労だった。敵兵の装具は我らが回収し──」
「黙れ小僧。我はエギン殿と話しておる。賢しらに口を挟むな」
「ぐっ……」
 ぴしゃりと断じられ、参謀魔導師は忌々しげに口をつぐんだ。気が付けば同じ様な軍装をまとった、やはり同じく耳の尖った美しい女兵士たちが、本陣周辺に現れていた。

「うちの参謀を苛めるな」エギンが言った。
「くふ。エギン殿は部下に優しいのだな。今宵天幕に忍んでみるのもよいかもしれん」
 女は蠱惑的な笑みを浮かべ、誘うように言った。 
「莫迦を言え。いくら儂の肝が太くても、特務と寝る気は無いわ。そろそろ真面目な話に戻すぞ──この後〈悪疫〉はどう動く?」
 女は「つれないのう」とぼやくと、細く形のよい顎をくいっと持ち上げ、三角州の方角を見た。
「〈悪疫〉は、人の在るところどこにでも忍び寄る。早よう攻め落とさんと、我らが南瞑の男どもを喰ってしまうぞ」
「ふん。南瞑のギルドマスターは、隠行程度では誤魔化せんぞ。貴様等日陰のものはせいぜい分を守れ」
 その時、三角州の方角に光が迸った。その後、鈍い爆音が響き、地面が揺れる。三角州に目をやると商館街の瀟洒な建物が並ぶ辺りから黒煙が濛々と上がっていた。上空をワイアームの編隊が飛び去っていくのが見える。
「くふふ」
 女が笑った。

「む」
 気が付くと、女たちは消えていた。

「あれが〈悪疫〉の長、ズラトゥシュカですか。何とも据わりの悪い気分にさらせられますな」
 参謀魔導師が、忌々しげに言った。
「特務、だからな。黒妖精だ。ああ見えて儂より三倍は歳を喰っとる。張り合おうと思うなよ。あれは別の世界で生きている」
「……御意」

 エギンは、指揮下の部隊に意識を戻した。配下の騎士たちの努力により再編成がようやく成ろうとしていた。〈ジェスルア大橋〉にはすでに先手のコボルトが進軍を開始していた。

「さあ、サヴェリューハ閣下が来られる前に、橋を奪うのだ。兵を奮い立たせよ。旗を掲げ前進するぞ!」

 本陣に漂った仄い影を振り払うかのように、エギンは努めて快活に部下に下知を下した。



ブンガ・マス・リマ東方4㎞ 陸自物資集積所

2013年 1月6日 16時08分


 熱帯特有の茹だるような熱気が辺りを包んでいる。太陽はようやく傾き始めたものの、日差しは弱まる気配を見せず、必死の防戦を続ける自衛隊員たちの体力をじりじりと奪い続けていた。
 陸上自衛隊が海岸に設置した物資集積所は帝國軍義勇兵団ドフター族の攻撃を受け続けている。
 積み上げられた物資や資材が視界を妨げる中、陸海の自衛隊員たちは手近な資材を用いて防御陣地を構築していた。かろうじて相互支援可能な位置に複数の火点が設けられ、黒煙の中を見え隠れする敵兵に射撃を行っていた。



 騒々しい銃声が空気を切り裂いた。
 〈ゆら〉陸戦隊の装備するBARの射撃音だ。即席の射手がその強烈な反動を抑えかねた結果、何発かの銃弾が明後日の方向にばらまかれた。それでも銃弾は正面から陣地に迫っていたドフター族の周囲に着弾し、彼らは慌ててコンテナに身を隠した。
 しかし、その左右では恐ろしく素早いドフター族の戦士たちが、物資の山を盾にしながら陣地に迫りつつあった。
 〈ゆら〉陸戦隊員、安芸英太三等海曹は、ひたひたと陣地に近づく敵の姿に気付くと、中腰の姿勢で味方の側へと向かった。陣地に突入される前に撃退しなければならない。
「畜生、敵はどこだ! コンテナが邪魔でよく見えねえぞ」
「上手く入らない。入らない……」
 射手は半泣きで射撃をし続けていた。相棒は土嚢の陰にうずくまり、必死に機関拳銃の弾倉を交換しようとしている。
 安芸はひとつ舌打ちすると砂を蹴飛ばしながら走った。左右の砂に矢が刺さる乾いた音が鳴る。彼はそれを無視した。敵は山刀を逆手に構え、陣地のすぐ側まで忍び寄っていた。
「しっかりしろ! 助けに来たぞ」
 安芸は土嚢の陰に滑り込んだ。
 M3A1短機関銃を構える。敵は3名。左の毛皮をまとった男を狙う。銃口から派手な発砲炎が煌めく。胴体に向けて指切りで3発。銃弾を受けた敵が吹き飛ぶのを横目で確認しながら、素早く銃口を右に振った。
 反対側からギリースーツのようなものを纏った敵兵が2人迫っていた。発砲。1人に命中し胴体に穴が開いた。小さく銃口を動かす。
 「ゆっくりは滑らか。滑らかは早い」呟きながら胴体に短連射。跳ね上がる銃口を腕と背筋で押さえ込む。血飛沫が散り、敵は崩れるように倒れた。
 すぐに土嚢に隠れる。数秒前まで安芸の頭が有ったあたりを、何か小さなものが貫いて行った。


 安芸は呆気にとられる隊員の肩をポンと叩くと、汗まみれの紅潮した顔で言った。
「落ち着け。弾倉が前後逆だよ」
「お、お前スゲェな。怖くないの?」
 短機関銃の弾倉を交換しながら、安芸はちらりとその隊員を見て、少しキツい口調で答えた。
「馬鹿、俺も怖えよ。でも、戦わねえと死んじゃうだろ!」
「ごめん」
「いいよ。それより左右から敵が来るから、ちゃんと守れ。あと、バラまいても当たんないから、短連射にしろよ。そっちのBARもだよ。すぐ弾切れになるぞ」
「わ、分かった」
 BARの射手のヘルメットを小突く。射手はようやく落ち着いたようだ。ここはしばらく大丈夫かな。そう考えながら周囲を確認した安芸は、左翼で敵に突入されそうな味方の陣地を見つけた。
 キリがないな。
 うんざりだが行かないわけにはいかない。安芸は短機関銃を構えると、仲間を助けるために駆け出した。滑るように、とは行かなかった。砂に足をとられる。さっきよりも短機関銃が重く感じた。

 当初、どうにか敵を食い止めていた即席守備隊による防御戦闘は、帝國軍の動きが変化したことにより、その流れを変えた。
 帝國軍は射撃主体の戦い方を変え、海自隊員による火線をかい潜り近接戦闘を挑むことに決めたようだった。
 全く妥当な判断だった。彼らは遮蔽物を活用し、黒煙に紛れて陣地に迫った。自衛隊の敵手であるドフター族は単に射撃では勝てないと判断しただけであったが、結果として自衛隊は自らの優位を失いつつあった。
 整理された防御正面はあっという間に崩れ、彼方此方で敵味方が入り乱れる乱戦となった。
 安芸三曹と、数名の陸自隊員が予備班として守備の綻びをカバーし続けていたものの、時間の経過と共に混乱は拡大し、次第に手に負えなくなってきている。



 物資が燃えている。黒煙の隙間を縫うようにして現れる敵兵はまるで無限に湧いて出るように、安芸には感じられた。
「もう、いくらも持たんぞ!」
 誰かが弱音を吐いた。それは多分に真実を含んでいた。すでに〈ゆら〉陸戦隊の半数が負傷し、後方に下がっている。陸自も同じ様なものだった。予備班が駆けずり回りどうにか戦線を維持していたものの、このまま敵の攻勢が続けば何時かは限界が訪れるだろう。
「また来たぞ!」
「撃て撃て! 敵を近付けるな!」
 あれだけ撃ち倒されても、敵は恐怖をどこかに置き忘れてきたかのように突撃を敢行する。手に山刀や槍を構え、跳ねるように陣地に迫った。
 安芸の右後方で悲鳴が上がる。予備班の陸自隊員が流れ矢を食らい、ひっくり返っていた。間の悪いことに安芸は弾倉交換中だった。射撃密度が低下し、正面の敵兵が急速に近づく。

 浮き足立つ仲間を視界の隅に捉えた安芸は、M3A1短機関銃の残弾を確認した。残り2弾倉。あとは、シーナイフしかない。敵はすでに血走った白眼が見える距離だ。おそらく酷いことになる。下手をすれば俺もみんなもここで死ぬ。冗談じゃない。


 そして、10名を超える敵がバリケード代わりの貨物パレットを乗り越えようとしたときだった。

 突然、いくつもの眩い光が敵兵の眼前に現れた。手槍を振りかざした敵が雷に打たれたように痙攣する。足が止まった。
 何だ? 
 驚いて目を見張った安芸の耳が小さな擦過音を捉えた。次の瞬間には足を止めた敵兵に次々と矢が突き立っていた。極彩色の矢羽が美しい。ドフター族の用いる短い矢とは明らかに異なる。もちろん自衛隊は弓矢を使わない。

「遅れて済まない、異界の戦士よ」

 凜とした声が背後から聞こえた。女性だった。安芸は戦場だというのに、つい背後を振り向いてしまった。

「リユセ樹冠国西の一統、ヒラギ枝隊長、エリサ・ヤラヴァ百葉長だ。遅ればせながら貴殿等の後詰めに参上した」

 呆気にとられた安芸の目の前には、美しいエルフの女性が立っていた。長い金髪を海風になびかせたその姿は、血と黒煙に支配された戦場に全く似つかわしくなかった。
 エリサと名乗る妖精族は、萌黄色の短衣とズボンの上に革製の胸甲を着け、腰には細身の直刃剣を提げていた。胸元に飾られた木の葉を象った飾りは、彼女の地位を表しているようだった。隣に立つ小柄な少女のそれは、エリサのものよりシンプルな意匠をしている。
 エルフの女性たちが、矢継ぎ早に矢を放ち、呪文を詠唱している。彼女たちはエリサを中心に布陣していた。エリサが指揮官だと安芸は思った。

「日本国海上自衛隊、輸送艦〈ゆら〉所属、三等海曹安芸英太です。救援に感謝します──でも、そこ危ないですよ!」
「ん、ああ」
 エリサは背筋を真っ直ぐに伸ばし、戦場で直立していた。スレンダーなその姿は、くっきりとした眉と、意志の力を感じさせる瞳を持った顔立ちと相まって、静かな威厳を感じさせるものだった。
(でも、自殺行為だ)
 安芸は彼女の身を案じた。彼は、戦場で突っ立っている奴は『死にたがり』の大馬鹿野郎だと、江田島の教官たちから叩き込まれていた。目の前の美しいエルフもその一人だと思った。

「大丈夫だ、アギ殿」
 エリサは安芸を真っ直ぐ見つめ、微笑んだ。
 その直後、彼女に向けて数本の矢が襲いかかった。ドフター族の手練れが放った矢は彼女の頭部と胴体に容赦なく──。

「ふむ」
「……はぁ!?」

 刺さらなかった。

 矢は見えない手に弾かれたかのように彼女を逸れ、見当違いの方向に飛んでいったのだった。確かに当たる軌道だったのに? 安芸はなにが起きたのかさっぱり分からず、間抜けな表情でエリサを見上げてしまった。

「何という顔をしているのだ? 矢除けの精霊魔術くらい見たことはあるだろう?」
「いや、ない……ありませんよ」
 安芸は間髪入れず断言した。エリサは不思議そうな表情で言う。
「まことか? 貴殿程の手練れが、風の精霊の加護を知らぬと? 貴殿ら『ジエータイ』の戦士たちは、扱う魔術の威力の割に、素人じみた動きの者が多いように見受けられたが、貴殿はその中でなかなかの動きをしていた。それなのに初歩の精霊魔術を知らぬと申すか」
「はい。大体俺は魔法なんて使えません」
「異なことを言う。その鉄の杖から放ったものが魔術でなくて何だと言うのだ。そうであろう? 貴国の軍官から確かにそう聞いたが」
「何かの間違いです。こいつはM3A1短機関銃。使い方さえ習えば──」
「ヤラヴァ百葉長! 敵が崩れます」
 答えかけた安芸の言葉を遮って、エルフの戦士が叫んだ。正面から突入を企図していたドフター族は、エルフの放つ矢と光球に撃退されつつあった。

「とにかく、ありがとうございました。助かりました」
 陣地は窮地を脱しつつあるように思えた。安芸は安堵のため息をつくと立ち上がり、目の前の不思議なエルフに礼を言った。
「うむ──怪我をしている者がいるな。ラウラ! 彼らを看てあげなさい」
「はい」
 傍らに控えていた小柄な少女が、控えめに頷いた。

ドフター族の戦士であるボリゾンとキコイロは、10名程の若者を連れ敵陣側まで忍び寄っていた。彼らは大角鹿を狩る時の如く風下に伏せ、辺りを覆う黒煙に紛れ僅かずつ前進した。
正直なところ恐ろしくてたまらない。彼らは戦士だが同時に狩人でもある。未知の獣の恐ろしさをよく知っていた。彼らにとって目の前の砂浜に奇妙な荷を積み上げ、鉄の杖から火礫を放つ敵の魔術士の姿は、悪魔のように映っていた。

「キコイロ、ついてきているか?」
「うむ。どうにか命を繋いでおるよ」
「あ奴らは何者じゃろうか?」
「きっと南瞑海の更に南よりいで来たる、禁忌の民ではないか?」
「よせ。悪霊が言の葉に宿る」
「すまん。……おお、あれはリユセの耳長どもか。おのれ!」
 彼らが襲撃を行おうとする陣前では、すでに猛烈な火礫と妖精族の放つ矢によってドフター族の仲間たちが撃ち倒され、砂浜を血で染め上げていた。
「許せぬ。何であろうと腹を裂いてやらねば!」
 大柄なボリゾンが憤怒の表情で言うと、小兵のキコイロと彼に続く若者たちも戦意を漲らせた表情で頷いた。

「あ奴らは矢除けの精霊魔術を使うぞ」
「儂が目を潰す。おぬしらはその隙に斬り込め」
 精霊遣いのキコイロが告げた。ドフター族の戦士たちが力強く頷く。
「うむ。皆に露霊の囁きあれ」
「耳長を倒せ」
「悪魔を殺せ」


 エルフたちが周囲を警戒し、癒し手と衛生員が負傷者を手当てしている。
 安芸はエリサに尋ねた。
「ヤラヴァ百葉長。ひとつ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「いくら矢除けの魔術が有るといっても、そうやって身を曝すのは怖くないですか?」
 安芸の問いに、エリサは胸を張って答えた。そうすると彼女は安芸より頭一つ背が高かった。

「指揮官たるものが戦場において勇を示さずして、どうして部下を統率できる?」
 エリサはそこまで言うと、生真面目そうな表情をわずかに崩し、片目を瞑った。

「正直なところ、やせ我慢だな。貴殿も心当たりはあるだろう?」



 その時だった。全ては同時に起こった。

 エリサたちの周囲に浮かんでいた光の球が突然爆ぜた。それは瞬間的に眩い光を放ち、周囲のエルフと自衛隊員たちの視力を奪った。
「シェイド!? 精霊遣いがいる!」
「敵襲!」
 リユセのエルフたちは素早く反応したが、光の球を破壊した『何か』は、暗闇を辺りにもたらした。自衛隊員に動揺が広がった。
「急に真っ暗になったぞ! 何がどうなってやがる」
 安芸は素早く遮蔽物に身を隠すと、周囲を見回した。陸海の自衛隊員たちは突然の出来事に身を固くして動けずにいる。安芸だけが、襲撃を予期して動いていた。光を直視しなかったのは彼だけだった。


「闇の精霊だ。再度光精を召喚せよ」
 エリサが指示を飛ばす。声には先程までは無かった焦燥の響きがある。その指示に配下のエルフたちが動き出す前に、ボリゾンたちが陣地に襲いかかった。

 闇の精霊が作り出した暗闇に戸惑う守備隊とエルフたちに、手槍が投げ込まれた。優れた膂力の戦士たちによって投擲された手槍の穂先を喰らい、数人のエルフが砂浜に倒れた。
 その混乱を突いて、ドフター族が突撃する。数人のエルフが細身の剣を抜き迎え撃った。何人かは食い止められたが、全てでは無い。

 安芸の眼前に2人のドフター族が迫った。腰だめにしたグリースガンを撃つ。1人を倒し、もう1人も銃弾を喰らい血飛沫をあげたが、驚くべきことにその敵はそのまま体ごとぶつかってきた。
「マジかよ!」
 ドフター族が力任せに振り下ろした山刀をグリースガンで受け止める。金属同士がぶつかる音が響き、手が痺れた。
 銃身が曲がったか? こいつ!
 安芸は左足を引き敵の勢いを受け流した。体勢を崩した相手の横面に銃把を叩き込む。ドフター族は膝を着いた。真っ赤な鮮血が砂浜に広がる。
 安芸が前蹴りを叩き込むと、その敵兵は仰向けにひっくり返り、倒れた。安芸の左足に鈍い痛みが走った。

「やるではないか、アキ殿!」
 エリサが、負傷した海自隊員に止めを刺そうとしていたドフター族を斬り捨てながら言った。

 すぐそばで悲鳴が上がる。砂浜に座り込んだ癒し手のラウラが襲われていた。エリサが素早く反応する。細剣を水平に構え滑るように敵兵に駆け寄る。疾風のような刺突がドフター族の背中を貫く。
 だが、2名斬り捨てたところで、堂々とした体躯のドフター族が長大な山刀で彼女に襲いかかった。

「呪われた耳長め! 死ね!」
「ドフター族か! しつこいぞ」
 エリサは、唸りを上げる山刀の斬撃をまともに受けることはしなかった。しなやかな動きで横にかわし、鋭い突きを放つ。しかし、相手の巨漢もその体に似合わない素早さで受けて立った。
 二人は互角に切り結んでいる。


「食らえ悪魔め!」
 数メートル離れたところにいた男が叫んだ。砂浜が突然隆起する。その上にはエリサがいた。足を取られた彼女の肩を巨漢の山刀が浅く切り裂いた。
 負傷したエリサは砂浜に倒れた。ボリゾンは彼女の細剣を弾き飛ばすと、丸太のような足でエリサを蹴り上げた。エリサは腹部に重い蹴りを受け、肺の空気を全て吐き出し呻いた。

「この野郎!」
 安芸の体は自然と動いていた。目の前の巨漢に横合いから体当たりをかける。岩にぶつかったような感触。だが、何とかエリサの窮地には間に合った。もつれ合うように二人は砂浜に転がった。
 巨漢が腕を振るう。とっさにガードした両腕を通して安芸の頭蓋に衝撃が走る。何て馬鹿力だ。目の前に火花が散って、安芸はエリサとラウラが倒れるそばに吹き飛ばされた。
「悪魔どもめ。露霊ドフターの名において貴様等を殺す」
 巨漢が山刀を構えた。油断一つない構えだ。安芸は立ち上がろうとした。
 だが、立てなかった。

「畜生、こんなときにッ!」
 左足が痺れている。膝に力が入らない。特警基礎課程で負った怪我がその原因だった。彼の夢を断ったのは、ごくまれに現れるこの後遺症だった。

 目の前には山刀を構えた敵兵。自分は立つことすら出来ない。周囲では仲間が次々と傷つき倒れていた。自分たちを助けに来てくれた者たちも、殺されようとしている。
 死んだ運用士を思い出した。釣り好きのいいオヤジだった。腐った態度の自分を気にかけてくれていた。
 板野は普通のガキだった。『今度日本に戻ったら、コンサートに行くんです。こないだチケットの当選通知が来たんですよ』と言って笑っていた。あいつも死なせてしまった。
 もう、駄目なんだ。誰かが囁いた。
 特警隊にもなれなかった。怪我をしたんだ。仕方がない。お前はよく頑張ったよ。もう、あきらめろ──。

 それは甘美な囁きだった。あきらめれば楽になれる。

 嫌だ。

 安芸の腹の奥底にある何かが叫んだ。

 ふざけるな。こんな所であきらめたらどうなる。『安芸英太は最期に戦うのを止めて死んだ』なんて、嫌だ。
 相変わらず足は言うことを聞かない。安芸はグリースガンを杖代わりにどうにか立ち上がった。そして、吼えた。

「きやがれこの野郎! 腕の一本くらいは覚悟しろよ!」

 だが、安芸の体はまともに動かず、敵兵に油断はない。どう考えても、死を免れることは出来そうに無かった。
 背後に負傷したエルフを庇う安芸に、ドフター族の巨漢が襲いかかった。暴風のような勢いだ。棍棒代わりのグリースガンじゃあ、5秒と持たないだろうな。それでも安芸は最後まで受けて立つ覚悟を決めた。

 安芸の耳にとても戦場には似つかわしくないのんびりとした声が届いたのは、そんな瞬間だった。


「良いですね、安芸三曹。とても良い」

 その声は嬉しそうに、そう言った。



ブンガ・マス・リマ中央商館街 大商議堂
2013年 1月6日 16時25分


 白亜の大商議堂は、騒然としていた。数多くの男女が行き交い、ぶつかり合い、怒鳴り合っていた。全ての人々の顔面には恐怖が滲んでいた。破産の憂き目にあった商会の夜逃げなどとは比べものにならない程の混乱振りだった。
 当然か。比べる方がおかしいな。俺も平常心では無いと言うことか。
 ブンガ・マス・リマ冒険者ギルド長、ヘクター・アシュクロフトはその顔に皮肉な笑みを浮かべた。愛用の武具に身を固めた彼は、防衛に関する指示を終え一息ついたところだった。

 戦火はこの中央商館街にまで及ぼうとしていた。伝令が伝える戦況は、救いがない。
 東市街は帝國軍の有翼蛇の攻撃を受け、市民と市街の被害は増え続ける一方であった。
 西市街はさらに悪い。わずかに残っていた守備隊と邏卒隊、さらには異界から来た『ジエイタイ』が帝國軍に敗退したという報が入っている。重装歩兵を前面に押し立てた敵は〈ジェスルア大橋〉を中洲に向けて進軍し始めていた。


 どこからか甲高い動物の鳴き声が聞こえた。衝撃が走る。磨き上げられた大理石の床が震え、天井に貼られた化粧板の破片がパラパラと降ってきた。悲鳴が上がる。
 アシュクロフトは、それが帝國軍の空襲であることに気付いた。ついに本拠まで攻撃を受け始めたのだ。
 全く始末に負えない。敵がこのような兵種を整備していたとは。


 南瞑同盟会議が帝國軍の侵攻を受けるまで、有翼蛇を組織的に運用する戦術は世に知られていなかった。『魔獣遣い』の存在は、帝國の外にはほとんど知られておらず、帝國もそれを秘匿していた可能性が高い。
 今までの帝國は、外部への遠征は主に西方諸侯が主力を担い、商取引も同様に西方諸侯の御用商人が前面に出ていた。そのため、冒険商人のネットワークも、この新兵種を掴むことは出来なかった。
 それだけではない。情報を統合すると〈帝國南方征討領軍〉なる軍は、新たに編制された軍団らしかった。
 帝國西方に封土を持つ領主たちからなる西方諸侯領軍とは異なり、〈南方征討領軍〉は帝國内で虐げられていた民族や、罪を問われて地位を失った者たちでつくられているらしい。
 つまり、〈征討領〉とは南瞑同盟会議を指すのだ。『生きる土地が欲しければ、戦って勝ち取れ』ということであった。
 リユセの耳は何らかの兆候を掴んでいたようだが、それを形にする前に侵攻が始まったため、全てが後手に回っている。

 その結果が、このザマだ。

 ブンガ・マス・リマは陥落の危機に立たされていた。それは商業同盟としての南瞑同盟会議の敗北を意味する。自警軍は壊滅し、商人の半数は逃げ出していた。
 最後に残った僅かな戦力の指揮を任されたアシュクロフトは、悪足掻きにも似た防衛戦闘に臨んでいるのだった。

 幸い、東市街はどういうわけか敵の侵入をまだ受けていない。アシュクロフトは残った守備隊を〈ジェスルア大橋〉の防衛に投入することが出来た。
 とはいえ、その内実は悲惨なものだった。
 『ブンガ・マス・リマ義勇防衛隊』と名付けられた200名程の部隊は、一握りの冒険者を除けば、商会や有力者の使用人、丁稚、小間使いなどをかき集めた素人集団に過ぎない。その中には年端もいかぬ子供が多く含まれていた。


 俺は、子供たちを駆り立て、オークや有翼蛇と戦わせている。カサード水軍総督の部隊が整うまでの捨て石として。最後の『救い』が訪れるまでの時間稼ぎのために、死ねと命じているのだ。

 アシュクロフトは耐えられない何かを感じ、天井を見上げた。陣頭指揮は参事会に固く禁じられている。彼は戦って死ぬことすら、許されない。

「あ奴ら、まだいるのか」
 ある参事が吐き捨てた言葉が、アシュクロフトの耳朶を打った。その言葉の示す者たちは、会議場の片隅に机と椅子を持ち込んで、何かよくわからない箱を積み上げていた。
 〈ニホン〉の使節団である。当初は救世主のように思われていたが、帝國軍の侵攻を受けても頑なに参戦を拒絶する態度に加え、戦闘に巻き込まれた〈ジエイタイ〉の小部隊があえなく壊滅したとの報告が入ったことで、同盟会議の半数からは厄介者として侮られ、扱われていた。
 もう残り半分(水軍やリユセ樹冠国といった者たち)はといえば、〈ニホン〉国に好意的な態度を維持していたものの、帝國軍への対応で手一杯といった状況だった。

 好意的な態度をとる側の一人であったアシュクロフトは、〈ニホン〉の使節団に歩み寄ると柔らかな口調で声をかけた。
「〈ニホン〉国使節団長閣下。残念ながらこの大商議堂も安全とはいかなくなりました。貴国の軍船へ御退きなさっては如何か?」
 それは心からの言葉だった。間違いなく文官であるムライという名の使節団長の身を案じていた。今なら洋上の軍船に逃げることも可能だろう。厄介な戦に巻き込んでしまって申しわけない、という想いからの言葉だった。
「これはアシュクロフト殿、温かい御言葉痛み入ります。ですが、いささか心外ですな」
 好好爺然とした使節団長は、にこやかに答えた。周囲を濃紺色の鎧と透明な大盾(一体何で出来ているのだろう?)で身を固めた重装歩兵に守られている。
「心外、とは? 何かお気に障りましたか?」
「今、このブンガ・マス・リマは苦難の時にあります。そのような時に私だけ安全な場所に避難して、どうしてあなた方の信頼を得られましょうか」
「しかし、〈ニホン〉国は執政府の許しが無く、参戦出来ぬと伺っております。恥ずかしながら我らの力及ばず、帝國軍を止めること能わずというのが現状です。ことによればムライ閣下の身に危害が加わるやもしれません」

 地響きが鳴り、商議堂が揺れた。どこかでステンドグラスの割れる音がした。アシュクロフトとムライはそれぞれ天井を見やり、その後互いの視線を合わせた。
「その件については、ずいぶんと気を揉まれたことでしょう。ですが、すでに我が国は当事者となっております」
 その時、会議場に〈ニホン〉の武人が駆け込んできた。緑色を基調とした斑の鎧は兵と将の区別がつきにくい奇妙な物だ。武人はムライに耳打ちすると、そのまま彼の背後に立った。
 ムライは頷くと、まっすぐにアシュクロフトを見つめた。柔和な印象の丸顔に配置された小ぶりな瞳には、何故か少年のような光があった。
 アシュクロフトは、場違いなその表情をいぶかしんだ。

「ムライ閣下、どうかされましたか?」


「ええ。ようやく準備が整ったようです。アシュクロフト殿」



ブンガ・マス・リマ東方4㎞ 陸自物資集積所
2013年 1月6日 16時27分


「良いですね、安芸三曹。とても良い」

 ひどく乾いた咳込むような短い銃声が、驚くほど近くで響いた。目の前の巨漢の胸の中央に赤い染みが生まれる。憤怒の表情を浮かべたドフター族は、胸に受けた衝撃にぐらつきながらも前へ進もうとしていた。しかし、その直後に彼の右目付近は石榴のように爆ぜた。
 この時になって安芸はようやく背後を振り返った。負傷したエリサが座り込む向こうに、風にそよぐ柳のような印象の男がM4カービンを構えていた。ツーマンセルを組む隊員と油断無く周囲を警戒し、安芸たちを援護できる位置に着く。
 周囲ではやはりM4カービンを構えた隊員たちが、陣地に突入してきたドフター族を駆逐し始めている。その動きは完全に統率されており、澱みも迷いも無かった。慌てふためき逃げ出そうとしたドフター族が、額を撃ち抜かれて倒れる。どこかに狙撃手がいるらしい。

「何とか間に合いましたね。よく頑張りました」
 安芸はその声に覚えがあった。ただ記憶の中にある声の主と、目の前の男が同一人物だとは到底思えず、安芸は目を白黒させた。
「す、鈴木二尉?」
「正解です」

 ブーニーハットのつばの下、ドーランで擬装されたその顔は、確かに陸自通信教導隊所属を名乗って〈ゆら〉に乗艦していた鈴木二尉のものだった。糸のように細められたその瞳は穏やかな光を讃えている。
 柔らかな物腰は〈ゆら〉の甲板で話したときのままであったが、安芸の細胞内に刻み込まれた訓練の記憶が目の前の男の本性を敏感に察知していた。

「……特戦群だったんですね」
「君のその反応を見るに、我々の擬装もなかなかのものだったようです」
 鈴木二尉たちは、通常の隊員とは明らかに異なる装備を身に着けている。彼らが迷彩服3型の上にプレートキャリアを装着し、構える小銃が89式小銃ではなくカスタムされたM4カービンである時点で、安芸はその正体の見当をつけていた。
 陸上自衛隊特殊作戦群──陸上自衛隊員16万人の中から選りすぐられた最精鋭の特殊部隊である。第1空挺団を始めとする猛者ぞろいの習志野駐屯地内においても一際異彩を放つこの集団は、1998年の研究開始から現在に至るまで、日本国内外で密かに刃を研ぎ続けていた。
 その任務の性質上、部隊の詳細は秘密のベールに包まれ、噂話が僅かに漏れ聞こえる程度である。だが、安芸は確信した。目の前の男は、間違いなくその一員であった。
 何より彼らの戦いぶりが証拠だった。へたり込んだ安芸の目の前で、いとも容易く──それこそ朝のゴミ出し程度の仕事であるかのように──彼らは次々と敵を屠っていった。
 一人一人が優れた狩人にして戦士であるドフター族にとって、それは悪夢のような出来事であった。

突如現れた敵兵は恐るべき兵たちだった。猪を絞め殺すほどの力を誇ったドフター族の戦士、ボリゾンは頭を吹き飛ばされ死んだ。周囲の同族たちもまた次々と殺されている。
 キコイロに打つ手は無かった。
 敵は誰一人として一人では無かった。常に仲間同士で互いの死角を守り、一つ処に止まらず、ドフター族の戦士たちを押し包むように動いていた。キコイロたちの抵抗を嘲笑うかのように敵は攻撃を加え、その呪具(彼にはそう見えた)が火を吐く度に仲間が倒れていった。

 奴らは繋がっている。キコイロは戦慄した。まるで巨大なヒュドラを相手にしているようだ。信じられん。元々陣を守っていた連中とは格が違う。やはり悪魔に違いない。
 それでも、諦めを知らない狩人である彼が新たなシェイドを召喚しようと印を組んだその時、目の前に敵兵が現れた。砂浜にもかかわらず、全く上半身をぶらさずスルスルと迫るその姿は、まるで森の化身のような緑の斑色をしていた。
 キコイロは己を殺すであろう敵兵の顔を見た。黒土色のその顔は、奇妙に平坦で輪郭がはっきりしなかった。眼光だけがキコイロを射抜いている。そこに、如何なる感情も見出すことが出来なかった。およそ人とは思えない。
 もしや、こやつらは露霊ドフターの化身ではないのか? なれば我らが敵わぬのも道理。愚かなことをしたものだ。

 そこまで考えたキコイロは、胸に激しい熱を覚えた。視界が赤く染まり、地面が消え失せた。



「集積所内の敵兵、掃討完了」
「了解。損害は?」
「無し。守備隊の負傷者を収容しました」
「外縁部に警戒線を構築。警戒に当たれ」

 鈴木二尉は手短に命令を下すと、安芸の傍らに片膝をついた。もとより細い目を糸のようにして笑う。そうすると、さっきまで纏っていた鋭い古刀のような殺気がスッと消え去った。

「物資集積所が攻撃を受けたという無線を受けてすぐに引き返したんですが、会敵を避けながらだったので少々時間がかかってしまいました。危ないところでしたね」
「危うく全滅する勢いでした。そういえば陸自管理小隊の松井一曹は無事ですか?」
「ええ。周辺の味方は全て救出しました。敵はどうやら狩猟民のようですが──」
 鈴木の言葉を受けて、隣でラウラから肩の治療を受けていたエリサが口を開いた。

「ドフター族だ。森の露霊を崇める瓢悍な部族だ。我らとは仲が良いとは言えぬ。やっかいなことだが、奴らの精霊魔術は侮れん」
「では、先ほどの『暗闇』も?」
「闇の精霊を喚んだのだろう。あそこに遣い手が転がっている」
 エリサが視線を向けた先には、小柄な男が目を見開いたまま倒れていた。
「なるほど。敵情にあった『義勇兵団』ですかね……」
 鈴木は何か思案するような表情を浮かべた。エリサが背筋を伸ばし、そんな彼を真っ直ぐ見つめながら言った。

「スズキ殿。救援感謝する。貴殿らの後詰めなければ我らはここで果てていた……それにしても貴殿の隊は恐るべき手練れ揃いだな」
 エリサは感心したように言った。安芸は心中で(そりゃそうだ。特戦群だぜ)とつぶやいた。
「いえいえ。我々もまだ未熟です。同業者のトップに追いつくには、やることも多い」
「ふむ。謙遜も度が過ぎると嫌味だぞ」

 そう言ってエリサが笑った。その笑みには敬意と感謝が表れている。鈴木二尉も笑っていた。それは、とても自然な笑顔で、安芸は少しだけ面白くないと思った。どうしてだろう? 
 彼は自分の中に生まれた感情に戸惑っていた。嫉妬? いや、何か違う。そんな感情じゃあない。俺は……。
 そんな時だった。

「アキ殿。貴殿にも感謝を」
 安芸は意表を突かれた。慌てて顔を向けると、そこには朗らかに笑うエリサの整った顔があった。
「い、いや……結局俺じゃあ守りきれなかったわけだし、感謝されることもない、です」
「わたしは確かに貴殿に救われた。それに、結果が問題ではない。その心映えに礼を言いたいのだ、わたしは」
 安芸は顔が熱くなるのを感じた。くすぐったいような、嬉しいような、そんな気分だ。
 にこにこと笑いながら、鈴木二尉が後を受ける。
「そうですよ、安芸三曹。窮地においてあきらめないこと、それが大切なのです。君にはそれがあった」
 鈴木二尉の言葉を聞いた途端、今度は安芸の身体の真ん中が熱くなるのを感じた。久しく無かった感覚だった。
「ただし、まだまだです。足が動かないくらいで考えるのを止めてはいけません。最期の最期まで、全てを用いて敵を倒し生き残ることを考え、行動しなさい」
「はいッ!」
 諭すような鈴木の言葉に、安芸は年齢相応の初々しい調子で返事を返した。エリサはその様子を穏やかな表情で見ている。

「さて、我々は出発します。ようやく味方が反撃に出るようです。この周囲はもう大丈夫でしょう。君は海自隊員をまとめて、態勢を整えなければなりません。母艦の皆さんも心配している」
 北西の方角から73式装甲車が砂塵を巻き上げながら走って来ていた。陸自の救援部隊らしい。態勢を立て直した後方支援隊の隊員も、周囲に展開を始めている。
 安芸は鈴木二尉に尋ねた。

「どこへ行くんですか?」

 その問いに鈴木はニヤリと笑った。
「私たちは通信教導隊ですからね。そりゃあ、広域通信設備の適地を探しに行く。そういうことにしておいて下さい」
 全く白々しい口調だった。奥地に入っていくことに間違いはないのだろう。しかし、それは通信設備の適地探しなどという任務では有り得ない。後方攪乱や長距離偵察、もしかしたら人心獲得作戦に就くのかも知れない。
 安芸はそれがあまりに過酷な任務であることを思い、身震いした。ここは地球上ですらないのだ。

 思わず背筋が伸びる。
「了解しました。どうかお気をつけて!」
「ありがとう。将来、君がこちら側に来ることを期待していますよ。じゃあ、行って来ます」

 鈴木は事も無げにそう言うと、高機動車に乗り込みあっという間に森の向こうへと消えていった。集積所の周囲を一分の隙もなく固めていた他の隊員も、いつの間にか居なくなっている。その手際が鮮やか過ぎて、安芸は思わず吹き出してしまった。
 鈴木の言葉に想いを馳せ、苦い笑いを漏らす。森の方角を見つめる。安芸は思った。
 俺はもう『そちら側』には行けないんですよ、鈴木二尉。


「何という根腐れ顔をしているのだ」
 ドスン。結構な勢いで背中をどやされ息が詰まった。エリサの掌だ。負傷していたはずだが、すっかり治ってしまっている。戦衣は破れ真っ白な肩が覗いていたが、傷痕はどこにも見当たらない。
「ん? これか? ラウラは枝隊一の癒し手だ。我ら西の一統を見渡しても、なかなかのものだぞ。そういえばアキ殿も怪我をしていたな。見てもらうといい──ラウラ」
「はい、ヤラヴァ百葉長」
 エリサに呼ばれ、控え目な印象の少女がしずしずと前に進み出た。そのまま安芸の身体に手をかざし、何かを唱え始める。安芸は居心地悪そうに固まるほか無かった。

 密かに彼の腰は抜けていたのだった。張り詰めていたものが途切れたからだろう。どうやっても立ち上がれそうにない。情けない限りだったが、どうしようもない。
 安芸は祈った。どうか皆が気付きませんように。だが──


「ふむ。アキ殿はまだまだ苗木だな」

 どうやら、この辺りに安芸英太3曹の願いを聞いてくれそうな神様はいないようだ。安芸はエリサの意地悪い笑い声を聞きながら思った。
 八百万の神様もサポート圏外か。そりゃ、ここは異世界アラム・マルノーヴだもんな。



ブンガ・マス・リマ東市街
2013年 1月6日 16時15分

 『魔獣遣い』バクーニンは、苛立っていた。顔に当たる合成風すら気に入らない。彼は蛮都ブンガ・マス・リマの上空を翔る翼龍の背で、地表を逃げ回る小癪な蛮族どもを追い立てていた。
 鈍い痛みがこめかみに響く。頭が重く目の焦点も乱れがちであることをバクーニンは自覚している。彼は腹に力を込めると、強引にそれを無視した。理由は分かっていた。
「ちょろちょろと逃げ回りよって! いい加減観念せぬかッ!」
 彼の追っている蛮族どもは、商都の路地を無様に逃げ回っている。ワイアームの圧倒的火力の前にそれは当然のことなのだが、問題はなかなか止めを刺せないことであった。
 やたらと早く動く馬車を用いる敵は、巧妙にワイアームの火焔攻撃を避けながら、光る飛礫を打ち上げてくる。
 思わぬ反撃を受けたワイアームは、当初の三個編隊15頭から、1頭が墜とされ2頭が彼の支配下を離れてしまっていた。
 屈辱という他はない。

 『魔獣遣い』は、特殊な魔術を用いて通常は御する事が不可能な魔獣を使役する者を指す。彼らが使役する魔獣は多岐に渡っている。戦場での有用性に目を付けた帝國本領では今も様々な試験が行われていた。
 剣歯虎やヘルハウンド、人喰鬼に並ぶ帝國南方征討領軍主力としての地位を誇るのが、バクーニンたちの操るワイアーム(有翼蛇)である。
 魔獣と『魔獣遣い』は思念波で繋がっている。魔獣は『魔獣遣い』の送る思念波の支配を受け行動する。その数や巧拙、思念波の到達範囲などは全て『魔獣遣い』本人の能力に依存する。
 よって、技量卓越した『魔獣遣い』に操られた魔獣は、恐るべき兵器となった。
 しかし、欠点も存在する。有る程度の感覚を共有することが出来る(彼らは使役する魔獣の視覚から情報を得られた)ことは、利点でもあったが彼らに大きな負担を強いた。
 二つの感覚は人間を容易く疲労させる。そして、使役される魔獣に危害が加えられると、その際に魔獣が発する『悲鳴』が、『魔獣遣い』本人にフィードバックされてしまうのだった。
 この感覚は『魔獣遣い』大いに不快な感覚であり、場合によっては彼らに積極的な交戦を厭わせる要因にもなっていた。
 バクーニンは、蛇に幾度も襲撃機動をとらせていることによる疲労に加え、蛮族の反撃による被害に頭蓋を痛めつけられていたのだった。

「どうだ! やったか!?」

 大路を逃げる蛮族に緩降下攻撃を終了した4頭編隊が上昇に移る。細長い胴体をくねらせて飛ぶワイアームの下の路上では、火災が広がっていた。その様子を斜め上方から見下ろすバクーニンは、先程までとは異なる手応えを感じていた。
(此度は敵のかなり近くに弾着したぞ)ワイアームのガラス玉のような瞳を通して伝わった映像では、火焔弾が敵の車列のすぐそばに降り注いだように見えていた。
 ワイアームが左に旋回し、高度を稼ぎ始めた。彼はその編隊に到達すべき高さを念じた後、上空で待機中の蛇に意識を向けた。火災が起きている辺りを見下ろす。路上で馬車が燃えているように見えた。横転した車のようなものも見える。
 ええい、煙が邪魔でよく見えん。バクーニンはもどかしさに苛立ちを強めた。
「おい、高度をさげろ!」
 バクーニンは勢い込んで叫んだ。前の鞍に跨がる翼龍騎兵が革製外衣で着膨れた身体をひねった。
「バクーニン殿。それは危険です。敵の飛礫が届きます」
「莫迦者! それぐらいは分かっている。上手く加減せよ。この位置では遠すぎて敵が見えぬと言っているのだ」
「は、しかし……」
 バクーニンは激昂した。翼龍騎兵の耳元で怒鳴る。
「貴様等、何のための護衛か! 我に仇なす敵を屠るのが役目では無いのか! 臆したか!」
 辛辣な言葉に騎兵の顔色がさっと紅潮した。
「そこまで言われては、翼龍騎兵の面目が立たぬ。我らが臆病者でないことをお見せする!」
 言うやいなや、翼龍騎兵は手綱を引いた。翼龍はひと鳴きすると、薄く大きな翼を縮めると左へ胴を傾ける。バクーニンの顔に当たる合成風の勢いが増し、耳当てを突き通してひゅうひゅうと風の音が耳に響いた。
 バクーニンの乗騎を中心に綺麗な陣形を組んだ翼龍騎兵たちは、見事な機動を描いて燃え盛る商都へ高度を下げ始めた。
(つべこべ言わずやればよいのだ。莫迦め)
 バクーニンは心中で騎兵を罵りながら、ワイアームに思念波を送った。彼は尊大で傲慢な漢だが、直接地表近くを飛ぶような莫迦ではない。待機中の編隊に大路を低空で飛ぶよう指示を出す。
 それは地球側の戦術で言えば、ガンカメラによる戦果確認に相当するだろう。もちろん、戦果不十分であれば、そのまま襲撃を実行すればよい。バクーニンはそう考えた。



 炎を激しく吹き上げながら、高機動車が鉄くずに変わりつつあった。火焔弾の直撃を喰らい、荷台が溶けている。右タイヤが熱でパンクを起こし、車体が大きく傾いでいた。
 路上は敗北を絵に描いたような有り様であった。高機動車の前方には、放置された荷物に乗り上げ横倒しになった軽装甲機動車があった。バクーニンが有翼蛇の視界越しに確認したのはこの風景である。周囲には人影が点々と倒れていた。
 軽装甲機動車から数メートル先の民家が大きく傾いでいる。一階の商店部分が何か大きなものが突っ込んだのだろう。酷く壊れていた。その、一階部分で何かが動いた。

「──行ったか?」
「大丈夫です、やり過ごしました」
「ヤバかったな」
 慎重な態度を崩さないまま、ひとりの男が顔を出した。迷彩柄の88式鉄帽が左に傾いていた。彼──権藤二曹はもう一度周囲を確認すると、ようやくがれきの中から這い出した。
 右手をあげる。そうすると、周囲の民家やがれきの中から、ぞろぞろと陸自隊員が現れた。炎上する高機動車や、軽装甲機動車に乗っていたはずの男たちである。

「畜生、燃えちまった」
 陸士のひとりが幌のあらかた焼け落ちた車体を見て言った。
「仕方ねぇよ」別の隊員が渋い顔をする。
 彼らは、小隊長川島二尉の指示で、あらかじめ車両を放棄し、民家に退避していたのだ。そのおかげで彼らの体と必要な装備は無事であった。しかし、彼らの周囲には命を落とした民衆の無残な姿がある。助かったことを素直に喜ぶ者は誰一人としていない。

「おい、感傷は後にしろ。小隊長が囮になっているんだ。時間がない」

 権藤が部下をどやしつける。隊員たちは埃まみれの体を払うひまもなく、崩壊しかけた商店に駆け寄った。商店を破壊したのは敵の有翼蛇ではなかった。
 そこには96式装輪装甲車がめり込んでいた。丁寧な擬装を行う余裕を失った彼らは、家屋にめり込ませることで有翼蛇の目を逃れたのだった。
 後部ハッチが開けられ、中から筒状の装備が引っ張り出される。合計で3本が取り出され、隊員たちがごそごそと操作を始めた。
「権藤二曹。準備出来ました」
 彼らが準備したものは、91式携帯地対空誘導弾であった。電源が投入され、シーカーが冷却を完了する。
 91式携帯地対空誘導弾は、国産の携帯式防空ミサイルシステムである。赤外線パッシブ誘導と可視光画像認識を組み合わせた意欲的なミサイルシステムで、普通科や機甲科の自衛用対空火器として装備されている。 
 防空火力に乏しいマルノーヴ先遣隊におけるささやかな『傘』であった。

 権藤は黒煙の向こうにあるはずの青空へ双眼鏡を構えた。肉眼では小さな点だが、拡大された画像では羽根を持つ生き物とその背に跨がる人間の姿が確認できる。
 川島二尉と権藤二曹は、敵の有翼蛇は何らかの手段で誘導を受けていると推測していた。そして、おそらくそれは戦場の遙か上空を旋回する何者かによるものであろう。彼らの意見は一致している。
 権藤は傍らの若い陸曹に尋ねた。小隊一射撃が得意な男だ。
「殺れるか?」
「機関銃は無理ですね。当たりません。PSAMなら届きますが、奴らかなり機動性が高いです。かわされるかも知れません」
「かわされたら、反撃がくるな。そうなったら全滅だ」
 権藤は唸った。射手の意見は正しいように思えた。彫りの深いくっきりとした顔立ちを歪め思案する。あと一手。敵の意表を突くための何かが必要だ。91式の性能に不安は無い。だが、敵の能力も分からない。
 権藤は無線手を傍らに呼び、隊内系で囮役を買って出た上官を呼び出した。歪んだ音声が返ってきた。揺れる車内のエンジン音と運転手の罵声が聞こえる。信じられないことに声色は楽しげだった。驚いた。えらくハイな状態だ。何考えてやがる?

『おう! どうだ?』
「小隊長! このままじゃ撃てませんよ」
『分かって──こらそこ右だ右! すぐ後ろについてんぞ! 状況はわかっている。確実に当てんとな』
「どうするんです?」
 何かが壊れる音が無線機の向こうで聞こえた。権藤は流石に心配になった。
『あと、五分待て。奴らをびっくりさせてやる。……権藤二曹、敵に指揮官らしい奴はいたか?』
「おそらくそうだろうという奴なら」
『よし。敵が乱れたら3基とも撃て! 成功ならよし。失敗ならその場からにげること!──よし、おいあそこだ! あそこに突っ込め! ビビるなよッ、お前族上がりだろうが!』爆発音。
「小隊長?」
『……敵が乱れたら撃てよ! 頼むぞ権藤、終ワリ!』

 頼むぞってなぁ。小隊長あんたどうやって敵を驚かせるつもりなんだ?
 権藤は半ば呆れる思いだった。しかし、他の隊員と同様に真面目で人並みに優しい男である彼は、街を襲い続ける敵を倒すために手を抜く訳にはいかなかった。長年の勤務で鍛えた大声で部下を動かす。
「五分後に敵を撃つぞ! 携SAM射手は向かいの屋根に上がれ。他は周辺警戒。もたもたするな! 小隊長を殺す気か! 装甲車はまだ動かすな。建物が崩れちまう」

 権藤二曹に怒鳴られた隊員たちは、大急ぎで射撃準備を整えた。

 第2小隊長川島二尉は、揺れる73式小型トラックの車内で、端から見ればこれはどうかと思われるほどの明るい態度で指示を飛ばしていた。
 後方確認のため幌を取り外したことで、彼の目からは迫り来る有翼蛇がよく見える。73式の後ろには高機動車がタイヤを鳴らしながら続いていた。
「来たぞ来た来たッ! よし逃げろ逃げろ!」
 川島は右腕を振り回しながら運転手を急かした。運転手は半ばハンドルにかじりつくような姿で、前方を見つめている。商都の路上は整地されてはいたもののあちこちに物が散乱していて、気を抜けばたちまち横転だ。
 運転手の血走った瞳は大きく見開かれ、口からは「もういやだ、もう沢山だ……」という呪詛に似た呟きが漏れていた。
 有翼蛇の編隊は、20メートル程の高度を背後から迫っていた。不気味にうねる姿が急速に大きくなる。川島は慎重に距離を測ると前を向いた。道が左右に分かれている。左の先はちょっとした広場になっていた。
「もっと発煙筒焚け! 発煙筒!」
 川島が手振りで示すと、高機動車の隊員が荷台で手持ちの発煙筒を点火させた。幌の隙間から赤い煙が濛々と立ち上る。僅かでも視界を誤魔化せられれば。川島は願った。敵が光学系による誘導をしているかどうかも不明だったが、やれることは全てやるつもりだった。
「左へ行け!」
 半ばヤケクソ気味に運転手がハンドルを切り、車体が大きく右に傾いだ。有翼蛇はすぐそこだ。金切り声が響き、くぐもった飛来音が聞こえた。
 来た! 彼がそう認識するのと同時に熱風を伴った赤い光が頭のすぐ上を通過し、73式小型トラックの前方5メートルに炎の柱が起立した。
「ひいぃいい!」
 運転手が情けない悲鳴をあげる。黒煙混じりの火柱は炎の壁となって73式小型トラックを包む。フロントガラスが赤熱し、ゴムの溶ける焦げた臭いが鼻腔を突いた。肌が焼ける感覚が、彼の焦燥感と奇妙にシンクロしていた。
 このまま逃げ切れる筈も無い。それは分かっている。炎の壁を抜けるのと同時に一瞬空が暗くなった。手の届きそうな高さを、有翼蛇が追い越していく。ぬめるような光沢の鱗が川島の原初的な嫌悪感を喚起した。

 車体の振動が激しくなった。それも、不規則な揺れに変わっている。
「タイヤをやられました。この速度では走れません、小隊長!」
 煤で真っ黒になった運転手が悲鳴のような報告をあげた。前方には広場。有翼蛇は? くそ、また引き返してくるつもりだ。余程しつこい奴だな、操っている野郎は。

 仕方ない。いい加減覚悟ってやつを決めるか。


 川島の73式小型トラックと高機動車は、広場に進入するとよたよたと停止した。車内から慌てて隊員が飛び出でてくる。パンクした車両は、捕食者から逃げるのに疲れ生きるのを諦めた草食動物の姿に見えた。
 バクーニンに操られた有翼蛇の編隊は、第2撃目の4頭が進入経路に乗りつつある。もう編隊と呼ぶに値しない程乱れた横陣ではあったが、地上を焼き払うのには充分だった。地上からの反撃は無い。


 川島は、傾いた73式小型トラックの荷台に立ち、自分に向けて突っ込んでくる有翼蛇を睨んでいる。足が震えるのが分かる。
 奴らの吐く炎はナパーム弾──油脂燃料焼夷弾のように全てを燃やしてしまう。邏卒詰め所で焼かれた子供たちの姿が脳裏に浮かぶ。
 さっきまでのハイな気分はどこかに吹き飛んでしまっている。
「小隊長! 装填よし! 早く逃げてください」
 高機動車を逃れた隊員が建物の陰から叫んだ。いや、未だ駄目だ。
「よし、俺の号令で撃て!」
 川島の瞳はすでに有翼蛇しか捉えてはいない。慎重に距離を読む。彼は隊内系無線機の送話器を掴むと、密かに準備を整えている筈の権藤二曹に呼びかけた。
「権藤、仕込みは終わったぞ」
『小隊長、いつでもいけます。種明かしは無しですか?』
「すぐに分かるよ」
 川島は唾を飲み込もうとした。口内はカラカラに渇いていて、喉が変な音を立てただけだった。



蛇の視界が広場に停車した敵の馬車と、その上に立つ蛮族の姿をバクーニンに伝えていた。観念したか。彼は嘲りを浮かべると、必中を期して思念を集中した。単一色で描かれた街と敵兵が、彼に焼き払われるのを待っていた。
 あとは、火焔を放つタイミングだけだった。あいつを吹き飛ばしたら次は港の船だ。バクーニンの乗る翼龍は3騎の護衛を従え、青空に大きな螺旋を描いた。


 青空に浮かんだ染みは、少しずつその輪郭を明らかにした。紐のような胴体に一対の羽。蝙蝠のような形のそれはゆったりと羽ばたいている。川島から見た有翼蛇の編隊は、歪な傘型を描いて真っ直ぐ彼に近付いていた。
 神様仏様、どうか俺の目測が正しい値でありますように。
 川島は心中で唱えると、有翼蛇の距離を読む。500メートル。彼は決心した。

「ハチヨン、撃て!」

 くぐもった発射音が、広場脇の建物そばで響いた。盛大に噴き出したバックブラストが背後の地面を叩き、土煙が派手に舞う。仰角をつけて発射された口径84㎜の弾丸は秒速260mで有翼蛇へと突進した。
 約1.2秒後。時速約300㎞で飛行する有翼蛇の前方約52メートル付近で、あらかじめ調定された弾頭が点火した。


「がぁッ!?」
 バクーニンは眼球の奥に強い痛みを覚え、思わず顔を背けた。白と黒、その濃淡で輪郭を明らかにしていたワイアームからの画像が、全て白色で染められたのだった。
 彼本来の視覚は、支配下の有翼蛇たちが向かった先にまるで小さな太陽の如き光が生まれたのを見ている。65万カンデラのその光は、彼をはじめとする飛行騎兵団の男たちを圧倒するに十分であった。
 まして、鼻先で暴力的なまでの光を叩きつけられたワイアームたちは、狼狽というレベルに収まらない。生物としての本能が、瞬間的にバクーニンの統制を打ち破る。その結果は、様々なものであった。
 最左翼の蛇は光から逃れようと高度を下げた結果、商家の二階にその身体を叩きつけ、グシャグシャの肉塊と化した。中央の2頭は上昇を選んだ。それは、多大な労力を必要とする機動で、ワイアームは襲撃の針路を完全に外れてしまった。

 最右翼の1頭は、防衛本能が最も攻撃的に働いた。そのワイアームは眼前に現れた光の球を敵と認識し、喉をごろりと鳴らすと火焔弾を立て続けに放ったのだった。
 火焔弾はパラシュートにぶら下がり降下するILLUM545照明弾の脇をすり抜け、広場に停まる73式小型トラックへと飛翔した。

「な、何事だ!? 何が起きた!?」
 目元を押さえて喚くバクーニンが、支配下のワイアーム全てが混乱し、てんでバラバラな動きを行っていることに気付いたのは、照明弾が路上に落下した後のことだった。時間にして僅か数秒。だがそれは、致命的な数秒であった。

 連続した電子音が鳴り続けている。91式携帯地対空誘導弾が、食らいつくべき敵を捕まえた知らせだった。十分に冷却されたシーカーが目標をロックオンしていた。
 川島二尉が言ったとおり、敵は混乱している。今以上の好機はおそらく無かった。川島二尉の献身により万全の準備でそのときを迎えた3基の91式携SAMは、号令を待つばかりだった。そして、権藤二曹にむやみやたらと勿体ぶる癖は無い。

「目標敵──飛行生物。撃て!」

 射出音と共にランチャーから細身の弾体が次々と飛び出した。ミサイルは射手から十分な距離が離れた時点でロケットモーターに点火。微かな白煙をひきながら猛烈な速度で赤外線シーカーが導く敵の元へ大空を駆け上がっていった。
 権藤は、祈るような気持ちでそれを見送った。

 翼龍騎兵の一人がそれを見つけることが出来たのは、厳しい訓練の賜物であったのだろう。彼は自分の見ているものが何なのか少しも理解出来なかった。
 だが、大空においてとてつもない速さで己に向かってくる物体がなんであれ、それが危険極まりない存在であることは容易に理解出来た。

「回避! 回避!」

 鋭い警告の叫びを受け、4騎の翼龍騎兵は愛龍と共に思い思いの回避機動を取った。編隊を維持する余裕は無かった。
 最も未熟な騎兵は、距離をとろうと慌てて上昇に移った。だがそれは最悪の選択だった。重力に逆らいいくらかの高度を稼ぐ代わりに、彼の乗騎は貴重な速度エネルギーを失った。
「な、何だ!?」
 正体を見極めることも出来ぬまま、誘導弾を翼龍の腹に食らった騎兵は、作動した着発信管が生み出す破片と爆風に全身を吹き飛ばされた。

 もう一頭は翼龍の機動性に賭けた。巧みに手綱を操作し、小さな旋回径で水平斜め下方に宙返りを試みる。高度を速度に変換し、敵を振り切るこの機動に彼は自信を持っていた。
「何……だと? 振り切れない!」
 だが、謎の物体は軽々と彼の翼龍に追従すると、左の翼を撃ち抜いた。翼龍が哀しげな悲鳴をあげ、錐揉み状態で石のように落下した。
 その翼龍騎兵は信じられぬ思いを抱えたままで、地面に激突して死んだ。

 最も手練れの翼龍騎兵であるバクーニン乗騎とその列騎は、警告が聞こえた瞬間急降下に入った。翼を畳み鏃のように高度を下げる。彼らは地表スレスレを掠めることで、正体不明の敵から回避を試みようとした。
 位置エネルギーが速度に変換され、2騎の翼龍騎兵は可能な限りの敏捷さで逃走に移る。それは、並みの魔術士程度では目で追うことすら困難な機動であった。

「ふ、振り切れない!」
 バクーニンは確かにその声を聞いた。猛烈な重力と合成風に圧せられ、流石のバクーニンもしがみつくことしか出来ない。その状況で聞く騎兵の悲鳴は、死神の囁きに等しかった。
 彼らを追っていたのは魔術士ではなかった。それどころか人ではない。誘導弾頭に備えられた電子の目が彼らの発する電磁波を捉え、解析し、追尾している。彼らの機動がいくら手練れの業であろうとも、人ならぬモノには敵うはずもない。

 莫迦な。たかが蛮族如きが俺を殺すというのか? ただ逃げ惑うだけのゴミどもが? このバクーニンを? あり得ぬ。あり得ぬ。
 彼の乗騎を残して列騎が離脱に成功しつつあった。追ってくる矢は残り一本。バクーニンが乗っている分、彼の乗騎は鈍重だ。追いつかれるのがどちらかは明らかだった。
 俺が死ぬ? 嫌だ! まだ何の栄達も掴んじゃいないんだぞ。

 バクーニンは翼龍騎兵の指示を破り、背後を見た。そこには〈小さな矢〉が薄い白煙を曳いて彼に追いすがる姿があった。とてもあんなものに墜とされるとは信じがたかった。小さかった矢は気がつけば重騎兵のランスのような大きさになっていた。

 愛騎にしがみついて必死に逃走する翼龍騎兵は、背後から響く爆発音と魂を散らす絶叫を聞いた。彼は残る最後の矢がバクーニンに命中したことを知った。しかし、それでも彼は振り返る気にならなかった。振り返れば未だ自分を追う悪魔のような鏃がいるような気がしたのだ。
 早く本営にお伝えせねば。
 それは明らかな言い訳でしかなかったが、指揮官騎を見捨てた騎兵はただ生き残るために逃走する事を止めようとはしなかった。
 上空では、支配者を失った有翼蛇の生き残りが、統制を失い生き物としての地金を晒していた。その内の一部はラーイド港の方角へバラバラと飛び去っていった。



「敵3機撃墜を確認。もう1機は逃走に移りました」
「蛇型飛行生物の編隊は、四散しました。一部がラーイド港へ向かいます!」
 双眼鏡を構えた隊員の報告に、権藤二曹は満足げに頷いた。
「やはり、あいつ等が操っていたらしいな。撃墜した途端バラバラになりやがった」
「ラジコンみたいなもんですか?」
 権藤は、目尻に皺を寄せた。声に出して笑う。
「あんな危ねぇラジコンがあるか! ま、調子に乗った敵さんにはいい薬だったな。薬は注射に限るぜ」
「ケツにぶっといやつ突き刺してやれば、どんな野郎でもイチコロでしょうよ」
 おどけた部下の言葉に、権藤は顔をしかめた。
「下品な冗談だな、おい。ところで小隊長は無事か?」



「小隊長! 小隊長! 返事をしてください!」
 有翼蛇の火焔弾が着弾し、地面が激しく燃え上がっている。炎は73式小型トラックのボンネットを舐め、今にもガソリンに引火しかねない。物陰を飛び出した運転手は、爆風に吹き飛んだ川島二尉の姿を必死に探していた。
 きっともうバラバラになっちまったんだ。運転手がそう思い始めた頃、車体の後部下からうめき声が聞こえた。

「……ぐぅ……ここだ。イテテ……」
「小隊長! 無事ですか?」
 迷彩服のあちこちが破れ、真っ黒に煤けた川島が顔を出した。左腕がだらりと下がっている。
「無事、とは言い難いが生きてるよ。敵はどうなった?」
 痛みに顔をしかめた川島は、運転手に尋ねた。空を見上げる。そこには数時間前から我が物顔で乱舞していた有翼蛇も翼龍もいなかった。彼はそれで全てを理解した。
「権藤二曹から敵を撃墜したと報告が入りました。やりましたね!」

「そうか……」
 川島の賭けはいい目が出たようだった。何とか生き延びられたし、敵は撃退出来た。
「賭け、賭けなんだよな。俺たちは賭けに勝ったんだ」
 運転手が笑顔で応える。
「勝ったんです!」
 川島は途端に苦い顔をした。左腕が熱を持ってシクシクと痛み出した。真っ黒に煤けた顔面は火傷のせいでヒリヒリと痛む。ボロボロだ。自分も部隊も。

「俺たちはこんな戦争していちゃあ駄目だ! 知恵と勇気で大逆転? そんなもん下の下だぞ? 物量と火力で押し潰すような戦争こそが至高なんだよ!」
 川島は叫んだ。その瞬間、73式のボンネットが音を立てて吹き飛び、エンジンから炎を噴き上げた。

 腰を抜かした運転手は、燃え盛る車体を背後に怒り狂う小隊長の姿を呆然と眺めるだけだった。



ブンガ・マス・リマ ラーイド港区 
2013年 1月6日 16時42分


 長大な弧を描く入江に抱かれ、東西を南に突き出た岬に守られたラーイド港区の至る所で、大小無数の船舶が息絶えている。
 彼女たちは直接帝國軍の手にかかったわけでは無かった。帝國軍侵攻の報を受けた商人たちが、てんでバラバラに港外へ逃れようとした結果港内の彼方此方で衝突事故が発生したのだった。
 大桟橋近くの水面には転覆した小型の交通船や漁船が腹を見せて漂っていた。慌てて積み込んだのであろう。辺りには家財や衣服が大量に浮かんでいる。それらの船の姿は死病に冒された魚の死骸を思わせた。
 一方、港出口には他船に船腹を破られ沈んだ大型交易船のメインマストが、溺れる者の差し出す腕のように海面に突き出ていた。

 まさに、敗亡の都市の姿であった。

 その中で、未だ尽きぬ戦意を漲らせる艦艇がある。海上自衛隊第1ミサイル艇隊所属、ミサイル艇〈わかたか〉〈くまたか〉はその船体を港区内に留め、一歩も退かぬ構えだ。
 彼女たちのことをカサード提督配下の水夫は〈舶刀(カトラス)〉と呼ぶ。その異名の如く、抜き身のカトラスを思わせる灰色の高速ミサイル艇は戦闘態勢を整え、命令を待っていた。


「艇長。西市街の陸自より入電『有翼蛇複数、ラーイド港区方面ヘ向カウ』以上です」
「見えとる。それより、南瞑からの返事はまだか!」
 航海長の報告に〈わかたか〉艇長来島通夫三佐は苛立ちを隠さない。ただでさえ狭苦しいブリッジが、巨漢である彼のせいで息苦しさを覚えるほどだった。来島の救命胴衣は前が開いたままである。彼がだらしない訳ではない。厚すぎる胸板のせいで締まらないのだった。
 航海長は平坦な口振りで答えた。来島と付き合いの長い彼は、上司の性格を良く知っていた。興奮しているように見えて、これで結構冷静なんだよな、この人は。
「まだ、返事はありません」
「遅い! カサード提督はいい奴だが、他はグズグズし過ぎる」

 第1ミサイル艇隊の2艇は派遣群司令部よりラーイド港区防衛を命じられていた。交戦許可も下りている。しかし、肝心のROE(部隊行動基準)を満たすことができていない。
 有視界戦闘が基本の異世界アラム・マルノーヴという戦場が、圧倒的なアドバンテージを持つはずの自衛隊を悩ませていた。

「敵も味方もIFFなんか有りませんからね……」
 そう言って航海長は双眼鏡を覗き込んだ。朝に比べて各段に視程の低下した空が広がっている。あちこちで立ち上る黒煙のせいだ。

 自衛隊が運用しているIFF(敵味方識別装置)の原理は単純である。敵味方不明の目標に対し、ある特定の電波信号を送信し、規定の応答があれば味方と識別する。合い言葉や発光信号を用いていた時代と用いるものが変わっただけのシンプルな仕組みであった。
 それだけに効果的な仕組みでもある。
 視界の遥か外から敵味方を識別出来るこのシステム無しでは、恐るべき速度で進行する現代戦を戦うことは不可能なのだ。

  だが、当然のことながら剣と魔法の異世界に、IFFは存在しない。
 派遣部隊が、空を飛ぶ蛇や龍それ以外のあらゆる物体が敵なのか味方なのかの判断を行うためには、確実に視認し、かつその外見上の特徴から敵味方を見分けなければならなかった。
 それゆえに、16㎞にも及ぶ射程を誇る62口径76ミリ速射砲を装備し、レーダーと射撃指揮装置で目標を早々に追尾しながらも、〈わかたか〉〈くまたか〉は射撃を開始していない。
 槍の穂先にも似た砲身を機影に向けて突き出し命令を待っている。その命令を下すべき来島三佐は、肉眼での識別を待っている。

 それは喜劇的な光景であり、当事者にしてみれば『冗談じゃない!』と叫びたくなるような状況だった。

「冗談じゃない! 見張り、まだわからんか?」
「……識別できません」
「目標方位010から060、距離2000。さらに近付く」
「おい、航海長! まだか!」

 来島は派遣調査団本部を通じ、南瞑同盟会議に『貴軍ニ飛行兵力ハ有リヤ』という問い合わせを送っていた。その結果、加盟都市の一部が、僅かに翼龍や大型鳥類を運用していることが分かっている。
 しかし、周辺にその航空兵力が存在するかどうかの返答は無かった。このままでは冗談で済まんぞ。来島は頭を抱えてた。 
 敵味方不明のまま射撃を開始するという選択はあったが、おいそれと行える判断では無い。部隊行動基準というものは大変重いものであるし、この状況下で同士討ちが発生すれば、南瞑同盟会議との関係は取り返しのつかないことになりかねない。


 各所で噴出する日本国と南瞑同盟会議の連携の悪さが、ここでも現場部隊の手足を縛っていた。敵は高度も速度もバラバラで統一された戦闘行動を取っているようには見えないが、このままでは最悪の事態も起こり得る。
 来島の脳内で、艇長の権限をもって射撃を命令すべきかどうかの葛藤が渦巻いていた。目標との距離は縮まるばかりだ。有翼蛇の攻撃は侮りがたい。どうする? 畜生め、俺たちはいつも後手に回る……。
 来島が、やむを得ず警告射撃を命じようとしたときだった。

「艇長! 本部より入電! 『ぶんが・ます・りま周辺ニ展開スル南瞑同盟会議軍ニ飛行兵力ナシ』今飛んでいる奴は全部敵です!」


 報告した航海長の目には、ただでさえ分厚い来島の胸板が1.5倍に膨れ上がったように見えた。巨漢の艇長は瞳を爛々と輝かせ、大きく息を吸い込んでいた。
 耳を塞がねば。そんな考えが一瞬頭をよぎる。しかし彼がその考えを実行に移す前に、来島の大音声の命令が狭苦しいブリッジの空気を震わせた。それは、200ヤード程離れた〈くまたか〉に聞こえるほどだった。

「右対空戦闘! 主砲打ち方始めェ!」

 今か今かと待ち構えていた〈わかたか〉〈くまたか〉の反応は素早かった。射撃管制員は目標の針路、速度、高度その他の要素から脅威度を判定、優先順位を決めた。彼は最も危険と判断した目標に対し、FCSを割り振った。
 構造物上構に据えられたFCSー2ー31射撃指揮装置が、白い皿のようなアンテナを敵に指向する。それに連動して76ミリ速射砲が仰角をかけた。諸元はすでに入力されている。そして、命令は発せられていた。

「打ェ!」

 引き金が引かれ、76ミリ速射砲が甲高い砲声を放った。砲塔直下の給弾ドラムから金属音が響く。砲弾は規則的に給弾され、砲煙が周囲の大気を汚す。〈わかたか〉の甲板上はあっという間に金色の薬莢で埋まった。

 突如、硬質な破裂音と閃光、そして砲煙を上げ始めたミサイル艇の様子に、周囲の海面をのろのろと港外に向かっていた市民たちは、半ばパニックに陥った。ある者は灰色船が敵の攻撃を受けて燃え上がったと勘違いし、ある者は驚くあまり海に転落した。
 家財と共に海面に落下し、必死の思いで船縁にしがみついた中年男は、拳を振り上げて抗議した。悪し様に罵る声は彼だけではない。

「驚かすな! この腰抜けニホン人!」
「でかい図体して、なにやってやがる!」
「疫病神め」

 パラン・カラヤ衛士団との確執が伝わり、この時期のブンガ・マス・リマ市民の対自衛隊感情は良好とは言い難い。周囲の舟からも非難の視線が〈わかたか〉に向いていた。
 しかしそんな中、港の治安維持に当たっていたカサード提督配下の水兵たちだけは、躍り上がって喜んだ。彼らはその光景を見たことがあるのだった。
「〈舶刀〉が天雷を放ったぞ!」
「……これで俺たちは助かるかも知れねぇ」
「だから俺が言ったじゃねえか。ニホン人は臆病者なんかじゃねえって。きっと何か理由があったに違いねえ」

 彼らは知っていた。突き出された槍の穂先から放たれる、不可視の矢の威力を。


 最初に狙われたのは市街方面からラーイド港区へ進入しつつあった有翼蛇の集団であった。その有翼蛇たちはバクーニンという主人を喪い、最後に受けた思念波の残滓に導かれて飛んでいた。
 そこに明確な意思はなかった。偶然その針路がミサイル艇を目指していたことが、彼らの不運であった。


 射撃管制レーダーにより照準された76ミリ調整破片榴弾は、毎分85発の速度で大空へと放たれ、有翼蛇の前方に黒色の花を咲かせた。花弁の代わりに破片が飛散する。
 高速で飛来する航空機や誘導弾を迎撃するために作られた弾幕に、有翼蛇は抗堪出来なかった。黒色の花弁に包みこまれた有翼蛇は、たちまち翼を切り裂かれ、胴から血を流して石のように落下した。
 7頭の有翼蛇たちは、自分たちに何が起きたのか分からぬまま、悲鳴を上げて墜落し、全滅した。


「第1集団、全機撃墜。……目標探知、方位010、6000ヤード。高度300フィート」
 凱歌をあげる間もなく、ラーイド港区には次の敵が進入してきていた。来島はレーダー画面を確認した。鼻息が荒い。後頭部にそれを浴びた射撃管制員はわずかに嫌な顔をした。
「編隊を組んどるな」
「さっきの連中とは違うようです」
 来島の声に警戒の色が浮かぶ。統制のとれた敵は怖い。見張り員がレーダー情報を元に敵機を発見した。

「目標視認! 有翼蛇らしきもの4、翼龍らしきもの2、真っ直ぐ突っ込んでくる」
「〈くまたか〉発砲」
「やるじゃねえか──こっちも負けるな! 新目標、打ち方始め!」
 2艇は競うように、新たに探知した敵に対して射撃を開始した。



「一体、何が起きているのだ?」

 帝國南方征討領軍飛行騎兵団所属の若い『魔獣遣い』は、不安を覚えつつ配下の有翼蛇4頭と共にラーイド港区へ進入しつつあった。彼の乗る翼龍とその護衛騎を守るように、傘型陣形を組んでいる。
 眼下には巨大としか言いようがない蛮族の港が広がっていた。帝國の山岳地帯に生まれた彼は、初めて見た海に圧倒されていた。
 他のベテランに比べて経験と技量に劣るため、彼は比較的安全と考えられた港の攻撃任務を与えられていた。熟練者なら遠方から有翼蛇を誘導するのだが、彼の技量では不可能であるため、共に編隊を組んでいる。
 数分前、彼は誰にも支配を受けていない有翼蛇の群れがふらふらとラーイド港区へ向けて飛んでいるのを目撃していた。有翼蛇の胴体に描かれた識別記号は、それがバクーニンの蛇であることを示していた。
 しかし、バクーニンはどこにもいなかった。それどころか、思念波が消えている。
 尊大で粗暴なバクーニンのことを彼は嫌っていたが、その技量は認めざるを得なかった。それゆえに、彼はバクーニンが撃墜された可能性を思いつくことができなかった。
(あの蛇どもは一体どこに行ったのだろう?)
 頭をひねりながらラーイド港区上空へ到達した彼は、先ほど目撃した有翼蛇の群れがどこにもいないことに気付き、さらに疑問を抱えることになった。
 強い合成風に逆らい周囲を見回したが、青空のどこにも蛇はいない。市街地と異なり地表はどこも燃えておらず、それなのに奇妙な黒煙の塊が、空の所々にわだかまっていた。

「まもなく港上空に入る。考え事はあとにして何を叩くか指示をくれ」

 操獣士がじれたように言った。その言葉に『魔獣遣い』は我に返った。眼下には建ち並ぶ倉庫街が見えている──そうだ。まずは役目を果たさねば。ここで功を上げ、恩賞を貰うのだ。
 彼は港を見回した。有翼蛇と共に飛ぶからにはまず敵を叩かねば危ない。
 滅多に有ることでは無いが、敵に魔術士や弓兵部隊が存在した場合、これを放置することは危険だった。対地攻撃部隊の指揮官として、彼はまず対空火力を潰すことを考えた。港においてそれは軍船に存在する可能性が高い。

「まず船を叩こう。軍船を探してくれ」
「承知」
 『魔獣遣い』は港に目を凝らした。無秩序に木の葉をばらまいたように大小様々な船が浮かんでいた。その中にひときわ目立つ大きな船が二隻あった。

「あいつは軍船じゃないか? 見えるかい?」
「いや、まだ遠い。しかし、大きいな」
「そうか、何だろうな? とにかく味方はいない。まずあれを沈──なんだ?」

 彼が全ての言葉を口に出す前に、その船が光を放った。船が勝手に爆発した? 蛮族が火の不始末でもやったのか。
 そう思った彼は、まだニキビの残る顔面に笑顔を浮かべようとした。

 ミサイル艇が放った砲弾は、高度300フィートを飛行する編隊の前方で、信管を次々と作動させた。大気を鈍い破裂音が震わせ、破片が飛散する。有翼蛇と翼龍は、何が起きているのか理解せぬまま、有効範囲内に突入した。

「!」
 突然、前方を飛行する有翼蛇が空中でのた打ち始めた。『魔獣遣い』が目を向けると、血飛沫が霧のように辺りに飛び散っていた。
 気がつけば妙な臭いが辺りに立ち込めている。視界のあちこちに黒い雲がかかっていた。彼はそれが何を意味するのか分からなかった。
 4頭の有翼蛇は見えない刃によって次々と切り裂かれ、墜ちていった。鋭い痛みが頭の中を貫く。
(ああ、蛇がやられているのか。でも、何で?)
 ぼんやりとした彼の目の前で、やはり破片に切り裂かれながら操獣士が必死に愛龍を御そうとしていた。必死の形相で振り向き、何かをわめいている。何を言っているのか分からない。聞こえない。気がつけば列騎はどこにもいなかった。
 彼は真っ赤に染まり、やたらと狭まった視界の中に、目標としていた軍船を捉えた。船は相変わらず光を放っている。場違いな感想が彼の脳裏に浮かんだ。

──きれいだ。

 次の瞬間、砲撃により聴力を失っていた『魔獣遣い』を乗せた翼龍は、76ミリ調整破片榴弾の直撃を受け、四散した。


 ラーイド港区に対する2波の空襲部隊(最初のそれはただ飛んでいただけだったが)は、合わせて有翼蛇11頭、翼龍2騎。まともに運用されていれば一個騎士団をたやすく撃破可能な戦力であった。
 しかし、海上自衛隊第1ミサイル艇隊の射撃は、わずかな時間でこれを全滅させた。
 当初、周囲で悪し様に罵っていたマルノーヴの民は空から迫る恐ろしい有翼蛇の群れを叩き落としたのが、目の前の灰色船であることを理解しつつあった。
「あの、ふねにはとんでもない魔導師様が乗っている」
「あそこなら安全だ」
 彼らがそう考えるのも無理は無かった。寄る辺なく逃げ惑っていた民衆が、大小様々な船を操り、もはや彼らにとって軍神の遣わした戦船のように見える〈わかたか〉〈くまたか〉の元へ集まっていったのも、当然の出来事であった。

 そうこうしているうちに、第3波が襲来した。



「エーリン殿、あれはいったい……」
 呆然とつぶやく操獣士の横顔は、高空を飛んでいるときよりも白く、血の気が失せていた。操獣士の動揺を感じ取ったのだろう。『魔獣遣い』ユーリ・ヴラドレン・エーリンが体を預ける翼龍は、わずかにふらついていた。

「うろたえるな──敵の攻撃に間違いない。うろたえていては、やられるだけだ」

 エーリンのもとより白いその顔は、もはや青ざめて死人のようであったが、その瞳にはまだ闘志があった。飛行帽を目深にかぶり直すと、粟立った心を落ち着かせようとする。
 驚愕したことによる影響は失せたわけではなかったが、少なくとも彼の試みは一定の効果を得た。化粧の施された顔を引き締め、操獣士に指示する。
「高度を下げよ。やつらに見つかるな」

 彼の編隊──翼龍3騎、有翼蛇6騎は、先に進入した友軍が四散するのを目撃した後速やかに高度を下げ、ラーイド港区北方の市街地上空で低空周回機動に入った。

 エーリンは、直前まで中央商館街を攻撃していた。白亜の大商議堂を始め、交易で得た財力を惜しみなくつぎ込んで建てられた蛮族の本拠地を、彼と副隊長ヴァロフは反復して叩いていたのだ。
 事前の計画では彼らはそのまま敵の本拠地を瓦礫の山に変えるまで攻撃を続行するはずであった。
 しかし、そこに統制を失ったバクーニンの蛇が現れた。群れはそのまま中洲上空を西へ飛び去り、ラーイド港区付近で突然消え去った。異常な事態である。
 群れが統制を失っていたということは、主たるバクーニンに何かがあった証拠であり、また、ラーイド港区付近で群れが消えたことは、そこに何かが有るということであった。
 飛行騎兵団団長シュヴェーリン男爵は、エーリンにラーイド港区の調査──
「群れが消えた原因を調べ、敵ならば撃滅せよ。ん? 港の攻撃はすでに命じられた者がいる? ああ、アイツはまだヒヨッコだ。当てにならん。貴様がやれ」
──を命令した。

 エーリンは団長の命令に従い、後ろ髪引かれる思いで(中洲にはまだまだ破壊すべき対象は無数に存在していた)、ラーイド港区へと飛んだ。

 そして、出くわしたのだった。そこには港内に遊弋する敵の軍船から放たれた『何か』によって、ほんの僅かの間に叩き落とされる味方編隊の姿があった。彼の常識はあのような距離で空を飛ぶ敵を攻撃できる兵器も魔法も存在しないと言っていた。
 しかし、彼の『魔獣遣い』としての研ぎ澄まされた感覚は、あの軍船が攻撃したのだと確信していた。彼は感覚を信じることにした。事実仲間の『魔獣遣い』と飛行騎兵は撃墜されたのだから。

 どうする? 彼は周回機動を続ける翼龍の背で考えた。逃げ帰ることは、はなから考えていない。
 全ての有翼蛇を高みから一斉に突入させる。
 ──駄目だ。敵の光が攻撃の一手一手だとしたら、一呼吸の間に数回撃ってくる。射点につく前にやられる。
 低空から突入させる。低高度からなら見つかりにくいはずだ。
 ──まだ、足りぬ。あの船を殺るには足りぬ。
 エーリンは周囲の地形と敵の軍船を確認した。我の編隊は北側の陸地上空にある。敵の軍船は湾の中央付近にいる。湾の左右は岬が張り出している。よし、あれを利用しよう。
 エーリンは素早く決断すると、一頭の有翼蛇を犠牲に捧げることにした。彼には空を往くもの特有の思い切りの良さがあった。

 エーリンの思念波を受けた有翼蛇たちは、もとより低い高度をさらに下げると、2頭が東の岬の陰へ、3頭が西の岬へと別れていった。エーリンの眉間に深い皺が刻まれる。脂汗が額を伝い、彼は苦しげなうめきを漏らした。
 その様子に、翼龍を操る操獣士は半ば呆れると共に、大きな尊敬の念を抱いた。
(この若き『魔獣遣い』大した漢よ。ただでさえ6頭もの蛇を操ること至難の業であるところ、さらに二手に分けるとは……)

 だが、操獣士は間違っていた。エーリンは残りの1頭を海面スレスレの高度まで下げると、敵の軍船に向けて真っ直ぐに放ったのだった。


 その蛇はすぐに探知された。はやぶさ型ミサイル艇のOPSー18ー3対水上レーダーは、低高度の航空機探知能力を持っている。レーダー員が目標シンボルを敵機に変更する。
「目標は1機」
「今度は低いな。海面をなめるような奴だ。他に探知無いか?」
「有りません」
 来島はひとまず安心した。突如陸地から現れた敵機は、まるでシースキマーミサイルのような高さを飛来していた。迎撃は可能だったが、複数来られるとやっかいだと思った。
 主砲がきびきびとした動きで旋回し、狙いを定めた。射撃準備完了が報告される。来島は速やかに撃墜を命じた。発砲。乗員に安心感を与える砲声と衝撃。

「目標変針! 蛇行しています」
「何だと?」
 ブリッジ内に主砲発射音が響き渡る中、射撃管制員から報告が上がった。低空に広がる炸裂煙の中を豆粒のような敵機が飛んでいた。来島はコンソールのディスプレイを覗き込んだ。シンボルは確かに変針を繰り返している。
 戦闘機や攻撃機がプロペラを回して飛んでいた懐かしき時代──VT信管が実用化された第二次大戦期に比べて、射撃管制レーダーや対空信管の性能は飛躍的に向上したものの、やはり対空射撃は一発必中とはいかない。
 高速で近付く対空目標に対しては手数を撃って公算を高めることが必要とされていた。当然、それを逃れるための手段も昔からある手管が未だに有効だった。


 ただ1頭の有翼蛇は、エーリンの思念波を受け体をくねらせると、針路をこまめに変更し、破片と爆炎を撒き散らす砲弾の雨の中を飛行していた。
 充血した瞳を見開いたエーリンの脳裏に、有翼蛇からの映像が重なる。白と黒で描かれたその世界には、次第に大きくなる敵の軍船の姿が見えていた。
 もう少し。いま少し近付き、敵の姿を我に見せよ。
 エーリンは祈るような気持ちで蛇を操る。攻撃のためには、軍船の情報が必要だった。撃墜を覚悟で蛇を突入させたのはそのためだ。三手に分けた蛇を操ることは、エーリンの限界を超える業であったが、彼は執念でそれを為している。
 敵の軍船の姿が次第にはっきりする。いかにも精悍な船体。帆の無い傾いだ檣。用途のよく分からぬ箱。そして──前の甲板にそびえる筒。エーリンはその光と煙を絶えず放つ筒こそが敵の武器であると確信した。
「うッ!」
 次の瞬間。鋭い痛みと共に、映像が途絶えた。一瞬、悲しみに似た何かが頭をよぎる。エーリンは有翼蛇が墜とされたことを理解した。
「よくやった。貴様の犠牲、無駄にはしない」
 エーリンは頭蓋の痛みを無視すると、東西に放った有翼蛇に意識を向け、新たな思念波を放った。彼の鼻から一筋の鮮血が流れ落ち、空に散った。
 思念波を受けた有翼蛇たちは、主の闘志を体現するかのような鋭い機動で旋回し、仲間を撃墜した軍船に向けて突撃を開始した。

 その時、〈わかたか〉〈くまたか〉は艇首を北に向け、湾の中央付近に遊弋していた。〈わかたか〉が西側、〈くまたか〉が東側に位置している。
 一方、エーリン隊の有翼蛇は東西2隊に別れ、それぞれが低空で岬を大きく迂回し、南側へ回り込もうとしていた。
 西の岬に据えられた灯台の灯台守は、小高い丘の上に立つ己の持ち場の遥か下、海面に翼が触れようかという位置を飛ぶ有翼蛇の編隊を発見した。彼はこれが帝國軍のものであることを看破し、すぐさま『敵影ミユ』の狼煙を上げたが、この情報は自衛隊には伝わらなかった。
 蛇がミサイル艇の発するレーダー波を浴びたのは、岬の陰から飛び出たあとであった。さらに、その輻射波が〈わかたか〉のコンソールに光点を映し出すまでには、数秒の時間を必要とした。


「艇長、周囲に民間船が集まってきています」
「どういうことだ?」
「おそらく、我々が敵を撃退しつつあるので、庇護を求めて来ていると思われます。このままいきますと……」
「おう。良くないな」
 敵の襲撃が一息ついたと思われた頃、航海長が思案顔で報告した。確かに周りには無数の船舶が集まってきていた。来島は、口髭を震わせた。小舟をひっくり返さないよう慎重に移動するつもりだった。
 レーダー員の叫びがブリッジに響いたのは、そんなタイミングであった。

「レーダーに反応あり! 方位285及び075距離3000。高速で南下中!」
「目標視認! 帝國軍の蛇と思われる! 艇尾方向へ回り込もうとしています!」

 来島はこめかみに血管を浮き立たせると、叩きつけるように命じた。

「左とっさ砲戦。回り込まれる前に撃ち落とせ! 〈くまたか〉に東側を叩かせろ!」
 前甲板の76ミリ速射砲がモーター音を響かせ、左舷を向いた。速やかに発砲。すでに薬莢で埋まる甲板上に新たな薬莢が排出され、そのまま海中に落下した。
 主砲は艇尾方向へ回り込もうとする有翼蛇を追って、少しずつ砲身を左に振る。発射された砲弾が空中で炸裂し、有翼蛇を絡め捕ろうとした。
 有翼蛇は最大速力で南下し主砲の死角に入ろうとしていた。エーリンは、ミサイル艇の主砲が前甲板に装備されているのを見た。そして、驚くべき洞察力をもって、その死角が背後にあると予想したのだった。彼の蛇は2艇を左右から挟撃しようとしていた。

 港内の平穏な水面を、有翼蛇の翼が騒がせる。高度は5メートルも無い。わずかな雑念がたちまち墜落に繋がる高度だ。エーリンは鼻血を出しながら、計5頭を操り続けた。艇尾方向──南西及び南東から低空襲撃をかける。これが彼の採った戦術であった。
 西を飛ぶ1頭が、破片を浴びてバランスを崩した。派手な水柱が立つ。墜落した有翼蛇はたちまち海中に没した。

「1機撃墜。残り2機は間もなく主砲の死角に入ります!」
「航海長、動けるか?」
「ゆっくりであれば」
 辺りは小舟で埋まっている。来島は慎重に命じた。
「取舵一杯。前進微速。見張り周囲の船舶に気をつけろ!」
「とーりかーじ。宜候」
 操舵員がハンドルを切ると艇首が徐々に左を向いた。主砲は絶え間なく火を吹いた。ブリッジ後方に備えられた12.7ミリ重機関銃も、敵に向けて射撃を開始している。
 この分なら、何とか撃墜できるか。そう来島が見積もった時だった。

「対空砲弾、残弾無し!」
「何だと!?」
 盲点であった。そもそも小型のミサイル艇には護衛艦程の弾薬は搭載されていない。さらにその全てが対空用の調整破片榴弾というわけではなく、通常の榴弾等も搭載されていた。ラーイド港区で繰り広げられていた対空戦闘は、事前の想定を超えるものであった。

「どうしますか?」
 射撃管制員が不安げに言った。来島は即断した。ぶつけられるものは何でも浴びせてやる。
「主砲弾種榴弾! 敵前方の海面を狙え!」
「了解!」

 砲身がわずかに俯角をかけた。給弾ドラムに新たな弾薬が装填されるまで十数秒、主砲が沈黙する。重機関銃が狂ったように発砲する音が響く。有翼蛇は距離2000付近で大きくバンクし、こちらを指向した。
 発砲。今度は炸裂煙は発生しない。迫る有翼蛇の手前の海面が白く盛り上がる。細い水柱がまるで竹林のように林立し、有翼蛇の行く手を阻んだ。

 エーリン隊の前方に白い柱が盛り上がる。敵がこちらを邪魔しようとしていることは分かった。しかし、それにしては高さが足りない。海面スレスレとはいえ、水柱は有翼蛇を捉えられなかった。
 行けるぞ。あと少しで火焔が届く。
 敵の軍船は周りを舟に囲まれて動きが鈍かった。横腹をこちらに見せている。
 そこで、もう1頭が頭を吹き飛ばされた。偶然海面で跳ね上がった反跳弾が、西から突入する有翼蛇に直撃したのだった。痛み。暗転。そして、瞬時に切り替わり復活する光景。
 敵はもう目の前だった。
 軍船の放つ不可視の矢も、魔術士が猛然と打ち上げてくる細い光弾も、彼の有翼蛇を止めることはもはや不可能だ。

「喰らえ、蛮族!」

 エーリンの思念波が裂帛の気合いとともに、有翼蛇に伝達された。


 ミサイル艇〈くまたか〉は、東側から突入を図る有翼蛇2頭の撃墜に成功していた。艇長得居三佐は、怜悧な印象を与える外見そのままの声で射撃管制員に尋ねた。
「主砲、〈わかたか〉を援護できるか?」
「射線上に〈わかたか〉がいます。現在位置では不可能です」
「了解。航海長、動けるか?」
「周囲の船舶が予想以上に集まってきています。呼びかけを続行中ですが、まだ経路は開かず移動は困難です」
「……抜かったな」
 得居三佐は〈わかたか〉に突入する有翼蛇に目をやった。大日本帝国海軍第一航空戦隊赤城艦攻隊でもやっていけそうなほどの、見事な突撃だと思った。

 〈わかたか〉に突撃を敢行した有翼蛇は、距離100ヤードで火焔弾を連続投射した。〈わかたか〉は全力で回避を試みた。やむを得ず出力を上げたウォータージェットノズルが猛烈な水流を巻き起こし、舳先が左に回る。
 ようやく事態を理解し逃げ出そうとしていた数隻の小舟が煽られ、転覆した。
 火焔弾はそのただ中に飛び込んだ。


 轟音がブリッジに響いた。開け放たれたドアから熱風が吹き込む。見張り員と機銃員の悲鳴が聞こえている。来島が叫んだ。
「被害確認!」
 航海長が左舷ウィングに走り出た。口元を腕で覆いながら艇尾を見ている。彼のヘルメットと救命胴衣は照り返しで赤く染まっていた。
「左舷後部至近弾! 火災発生! 機銃員と見張り員負傷の模様!」
「応急班後部に急げ! 負傷者を収容しろ! 敵機はどこだ?」

 あっという間に〈わかたか〉甲板上は鉄火場となった。火焔弾は〈わかたか〉の左舷後部海面に着弾。猛烈な水蒸気と焔の粘液を飛散させ、それが構造物に引火していた。
 来島の命令で、防火衣を着込んだ隊員がCO2消火器を抱えて後部に走る。火の粉を浴びて転がった機銃員が、救護員に抱えられていた。
 〈わかたか〉を攻撃した有翼蛇は、逃走にかかっている。海面スレスレの高度を維持したまま、全速力で逃げていた。罵声が右舷から聞こえた。右舷機銃員が追いすがるように射撃を開始したのだった。
 機銃弾は有翼蛇の細い体めがけて光線を描く。しかし、思うように命中しなかった。

 畜生、やられた! 蛇ごときに。まったく……架台にSSMがあったら撃沈されていたぞ。
 来島は怒りと安堵の入り混じった感情を胸の内に暴れさせたまま、応急指揮を執った。幸い小破以下で済みそうだった。
 だが──
「……て、艇長」
 航海長の震える声を聞いた来島は、いぶかしんだ。いつも飄々としている男のこんな声は聞いたことが無い。何に怯えているんだ?
 そこで来島はようやく周囲が赤く染まり、ブリッジの中に絶えず悲鳴が聞こえてくることに気付いた。彼が、それが何を意味するのかを理解するまで数秒かかった。

「なんてこった……」

 敵の有翼蛇は撃てるだけの火焔弾を乱射していった。〈わかたか〉は回避運動が功を奏し、直撃弾を避けることに成功した。
 しかし、その周囲にいた大小の船舶は〈わかたか〉ほど幸運では無かった。ボートのような小舟から中東のダウ船に似た交易船まで、様々な船が炎に包まれていた。
 それは船上だけに留まらない。辺り一面の海が炎上し、人々の悲鳴が木霊していたのだった。〈わかたか〉はまるで炎熱地獄のただ中にあるかのようだった。責め苦に苛まれる人々の叫びに、海上自衛官たちは衝撃を受けた。
 天災では無い、戦争が生んだ死傷者。それを守れなかったのは自分たちであるという現実がそこにはあった。〈わかたか〉の乗員は、初めて戦争を知った。たとえその死に逝く人々が日本国民ではなかったとしても。

 そして、彼らにとってこの日最後の攻撃が加えられた。

 それは離脱を試みていた最後の有翼蛇を撃墜した次の瞬間だった。
「高速目標探知! 後方から近付く! 距離1000!」
 奇襲としか言いようが無かった。打ち方止めを令した直後、飛行騎兵団副長ヴァロフ子爵が自ら手綱を握る翼龍とその支配下の有翼蛇が、低空から突入を図ったのだ。目標は〈くまたか〉である。
 エーリン隊の戦闘を観察しタイミングを見定めたヴァロフは、大型の有翼蛇と共にミサイル艇の死角を突いた。高度3メートル。龍の脚が海面を掠める勢いだった。

「面舵一杯! 右対空戦闘!」
「左右ともに民間船あり! いま舵を取れば衝突します!」
「チィッ──回頭まて、舵中央! 第1戦速!」
 得居三佐は一瞬の逡巡の後命令を下した。彼の性格が、そしてこれまでの自衛官としての歩みが、民間船を犠牲にするという選択肢を彼にとらせなかった。
 〈くまたか〉は蹴飛ばされたかのような勢いで前へ進もうとした。左右の船をかわし、右へ回頭できれば、敵を射界に捉えられる。
 だが、それは間に合わないだろうな。
 得居三佐は冷静に現状を認識していた。敵は今までの蛇を遥かに超える速度と、機動力だった。こちらが回頭を終える前に、射点につくだろう。これが俺の限界か──

「敵発砲!」

 見張り員が悲鳴のような叫びで、火焔弾が迫り来ることを伝えた。得居は自分を出し抜いた敵がどんな奴なのか見てやろうと、強化ガラスの外に視線を向けた。
 轟音。衝撃が〈くまたか〉を激しく揺さぶった。艤装品の破壊される音が聞こえ、赤い炎と熱風が彼を襲う。
(嗤ってやがる)
 赤熱する視界の向こうで、大きな翼龍に跨がった騎士がこちらを見ていた。


「〈くまたか〉被弾! ブリッジがやられました! 火災発生!」
 大型翼龍と有翼蛇がフライパスしていく真下で、〈くまたか〉の構造物が炎上していた。見張り員が吹き飛ばされ海中に落下する。
「得居! 畜生め、重機関銃は敵を撃て! 〈くまたか〉に寄せろ、溺者救助用意!」
 どうみても〈くまたか〉は中破以上の被害を受けていた。消火に失敗すれば沈没も有り得る。矢継ぎ早に指示を出す来島は敗北感に包まれていた。
 撃墜した有翼蛇と翼龍は20機に迫ったが、そんなことは何の慰めにもならなかった。


『よくやった、エーリン。一時帰投するぞ』
『ハッ。しかし……』
『貴様の有翼蛇は全滅だ。あの軍船は化け物だな。だが一隻は潰した。この戦訓持ち帰るぞ。復仇の機会は与えてやる』
『承知しました……』
 エーリンもまた、来島と同様に敗北感にさいなまれていた。渾身の異方向低空襲撃はほぼ全滅。彼の蛇は敵にかすり傷を与えたに過ぎない。
 恐るべき相手だった。数浬の先から桁外れの威力で攻撃を加えてくる。しかも驚異的な命中率だ。そして、エーリンは何よりも、いくら工夫しても必ずこちらを見つけるその力に畏れを感じた。いかなる異能か? 
 そもそも、あ奴らは何者なのか? 誓って南瞑の蛮族では無い。エーリンは確信していた。
 必ず次は沈めてやる。エーリンはそう誓うと精神力の限界を迎え、翼龍の背で気を失った。


 ラーイド港区を巡る戦闘は、日が傾き始めると同時に終結した。自衛隊の防戦により港区の破壊は阻止されたが、双方に多大な損害が生じている。

『帝國南方征討領軍飛行騎兵団』損害
 人員  死者3名
 翼龍  2騎撃墜
 有翼蛇 17騎撃墜

『海上自衛隊第1ミサイル艇隊』損害
 人員  死者〈くまたか〉艇長、得居三佐他4名 負傷者8名
 ミサイル艇〈くまたか〉中破
 ミサイル艇〈わかたか〉小破


 民間船多数沈没、死傷者多数



ブンガ・マス・リマ中央商館街 〈ジェスルア大橋〉応急防御陣地
2013年 1月6日 18時07分

「痛いよぅ……痛いよぅ」
「うう、足が……僕の足が無い……」
「動ける者は、胸壁と阻塞を修復しろ! 奴らはまたやってくるぞ──おい、そいつはもう死んでいるぞ」
「ちくしょう、アペル。しっかりしろ!」
「もう駄目だ。俺たちは皆殺しにあうんだ」
「僕の足がないんだ。ねぇ、ロティ。足を探しておくれよ」
「隊長殿、軽傷者を含め戦える者は52名です。次で終わりですな……」
「そうかい。そいつはいい話だな。ようやくこのクソッタレな戦場からおさらばできるって訳だ」

 太陽が西へ傾き、〈ジェスルア大橋〉の欄干の影が長く伸び始めている。重厚な石造りのアーチを連ねた橋のたもとにでっち上げられた南瞑同盟会議軍の応急防御陣地は、この日三度目の突撃を辛うじて撃退したところであった。

 貿易商〈マナスール商会〉の丁稚であるロティは、幼なじみで丁稚仲間のアペルが動かなくなるのを呆然と見つめていた。アペルの右足は太ももの半ばで断たれ、動脈から噴水のように血を噴き出していたが、それも収まりつつある。
 必死に傷を押さえていた両腕を返り血で染めたロティは、脱力感に包まれて座り込んだ。彼の目の前には薄目を開いたまま息絶えた同い年の親友が横たわっている。
 人間ってこんなに白くなるんだ……。
 先週までは「次の休みには〈赤絨毯亭〉でエビを食べよう!」「小間物屋のラナを遊びに誘って、海に行こう」などと13歳にふさわしい話題で盛り上がっていたのが、遠い世界のことのように感じられた。

 周囲では、ロティと同じ様な年格好の兵士たちが、血まみれの地面に滑り止めの砂を撒き、破損した胸壁代わりに樽を積み上げていた。その動きは緩慢で、絶望感に満ちている。
 うめき声と悲鳴が辺りを埋め尽くし、中年の兵士が「こいつも駄目か」と呟きながら、手にした短剣で息子ほどの年頃の兵士に止めを刺していた。


 彼らはブンガ・マス・リマ義勇防衛隊と名付けられた寄せ集めの守備隊である。200名余の素人に、わずかに残った兵士と引退した冒険者をつけて編成された彼らが、西市街から中央商館街へと繋がる〈ジェスルア大橋〉を守る唯一の兵力だった。

 その義勇防衛隊に西市街を突破した帝國南方征討領軍歩兵団が襲いかかった。再編成を完了した一個大隊規模のゴブリン軽装兵が〈ジェスルア大橋〉打通を図り、陣地を三度強襲している。妖魔兵による正面攻撃に対し、義勇防衛隊は必死の防戦を行い未だ突破は許していない。
 しかし、彼らは少年兵を含む素人集団である。死傷者は七割を超え、突破されるのは時間の問題であった。


 僕は何でこんなところにいるんだろう……。
 ロティは親友の血にまみれた自分の革鎧を見下ろした。商会の倉庫から引っ張り出された武具を着せられ、仲間たちと橋に集められてからまだ一刻ほどしか経っていないはずだった。
「ロティ、大丈夫か?」
「……え? あ、はい。僕は大丈夫です。でもアペルが……」
 声をかけたのは、元冒険者の分隊長だった。顔の半分を包帯で覆った彼は、横たわるアペルに目をやると顔を曇らせた。瞳には暗い光が浮かんでいる。
「そうか……残念だったな。だが、また敵が来る。武器を取って胸壁を守れ」
「……また、来るんですか?」
 ロティは感情の失せた顔を上げ、言った。
「ああ、すぐに来る。死にたくなければ、武器を取って戦うんだ」
 死にたくない。でも、戦って生き残れるわけが無いよ。ただの丁稚であるロティにもそれくらいのことはわかる。

 歌が聞こえた。陣地の真ん中で、髭面の神官が歌を歌っていた。ロティは手槍を杖代わりに立ち上がった。少しだけ、足に力が戻ってきた気がした。心配そうに見つめる分隊長を見て、小さく頷く。
「やれるだけやってみます。アペルの仇も討ちたいし」
 それを聞いた分隊長は、何故だか顔を大きく歪めた。彼は「すまない」と搾り出すように言った。

「来たぞーッ!」
 警告の叫びが上がった。橋の向こうから重々しい軍靴の響きが聞こえてくる。誰かが絶望的な声で言った。
「オーク重装兵を出して来やがった……畜生、おしまいだ」
 遠目にも巨漢とわかる軍勢が、橋の幅一杯に横列を組み近付いていた。ロティはどうして自分が逃げ出さないのか不思議に思いながら、迫り来る敵軍を睨みつけていた。


「オーク重装兵隊、押し出します」
「おう」
 軍太鼓が響く。その音色をかき消す程の重々しい軍靴の響きが辺りを圧している。頑丈な石造りの橋桁を揺らしながら、軍勢が前進を開始していた。
 指揮下のオーク共が高い戦意を保ちつつ進んでいる様子に、指揮官のベレージンは満足した。
 手こずらされたが、これで終わりにしてやる。散々損害を出した上に、美味しいところを俺の隊に持って行かれたゴブリン軽装兵の指揮官は怒り狂っていたが、知ったことでは無い。
 帝國南方征討領軍歩兵団は、敵軍が十分に消耗したと判断、最も突撃衝力の大きいオーク重装兵隊の投入を決定していた。
 ベレージンは、向こう岸の貧相な敵陣を眺めた。配下からの報告によれば、あそこを守るのはガキと年寄りの寄せ集めだった。彼は哀れに思った。同時に、これから得られる栄誉と戦利品に思わず笑みが浮かぶ。

「ものども! 突撃にぃ──」

 敵陣に見慣れぬ軍勢が現れたのは、その時だった。馬車のような、箱のような乗り物で陣地に降り立つ十名程の兵を、ベレージンは視界に捉えた。西市街で遭遇した連中と同じ軍装である。
 また奴らか。一体何者だ? いや、あの程度の数なら問題ないだろう。ベレージンは改めて下知を下すことにした。

「ものども、掛かれェ! 蛮族の陣を踏み破り、皆殺しにせよ!」

 軍太鼓が乱打される中を、頑丈な橋梁を揺らしながらオーク重装兵が突撃を開始した。蛮声が大気を揺らす。彼らの突撃の前には、貧相な陣地など薄絹のように引き裂かれる運命であった。
 少なくとも、帝國軍の誰もがそう信じていた。


 へんてこ格好だな。まだらで何だか小汚いや。
 突如現れた兵士たちを見て、ロティは思った。全身緑色と茶色がまだらに染められた彼らの軍装は、彼の常識に照らし合わせて、威厳や武威に溢れているとは言い難い。街でこんな格好で歩いていたら、邏卒が駆けつけてきそうだった。
 彼らは、不思議な鉄の箱で現れ、太い筒や黒い杖を抱えて陣地に駆け込んできた。ロティの耳に誰かのつぶやきが聞こえた。
「あいつら〈ニホン〉の兵だよ。いまさら何をしに来やがったんだ? あれっぽっちで」
 ニホン軍。ブンガ・マス・リマに現れた異国の軍勢。奇妙な道具と巨大な軍船を持ちながら、帝國軍との戦いに加わろうとしなかった厄介者。
 ロティは仲間や客から伝え聞いた話を思い出した。彼らと直接接したことは無かった。だから、風評を鵜呑みにした。戦いから逃げる臆病者。そういう印象だった。だから、彼らが加勢に駆けつけたと分かっても、期待はしなかった。
 十人ぽっちが応援に来たところで、どうにもならないや。それに剣すら帯びていない。一緒に死ぬ人間が増えただけだ。
 ほら、もうオークが目の前まで来ている。


 ニホン兵が、胸壁の前で大きな筒を構えた。異国の言葉で何か叫んでいる。筒を構えた兵とは別の兵士が筒の後ろから何かを差し込んだ。
 義勇防衛隊の少年兵たちは、何をしているのかさっぱり分からず、ニホン兵を眺めていた。
「dokero! abunaizo!」

「……どうやら、後ろに立つなと言っているみたいだな。くそ〈通詞の指輪〉が無いと何を言っているのかさっぱりだ!」
 分隊長がもどかしげに言った。確かにニホン兵は腕を振り回してロティたちを退けようとしているようだ。
「ニホン兵は救援に来たのですか?」
「そうらしい。だが、あの数ではな」
 分隊長も淡い期待すら持っていない。手練れの冒険者だった彼は、二百を超えるオークの群れにたかだか数十名でどうにかなるはずがないことを知っている。

 義勇防衛隊員が背後から離れたことを確認したニホン兵の指揮官(見た目では全く見分けがつかなかった)が、叫んだ。

「te!」

 直後、彼らが構えた筒から炎が噴き出した──炎はオークの群れではなく陣地内を襲った。
「!? う、裏切りかッ!」
「うわぁ!」
「おのれ、ファイアーボルトか」

 陣地内の義勇防衛隊は混乱した。彼らは味方のはずのニホン兵から炎を浴びせられたと受け取ったのだった。数名の少年兵が爆風にあおられて転倒する。白煙で視界が一時的に失われた。

 怒りに駆られた分隊長が剣を抜き、ニホン兵に挑みかかろうとする。形勢不利を見て裏切るとは汚い。そう思った彼の怒りは全く正当なものに思われた。

 だが、直後に発生した光景に、分隊長もロティも言葉を失い、目を丸くして立ち尽くすことになった。



 救援に駆けつけたニホン兵──陸自普通科中隊第3小隊員は高機動車から降車すると、3門の84ミリ無反動砲の砲列を敷き、眼前に迫るオーク重装兵に対して榴弾を発射した。義勇防衛隊が攻撃と勘違いしたのは、カールグスタフM2のバックブラストであった。
 小隊長の赤沢二尉は、周囲の人間が発する妙な気配を感じ、背後を振り返った。
「ありゃ、驚かせちまったか」
「何だか怒っている兵士もいますね……しかし、酷いもんです」
 赤沢は顔を前方に戻した。無反動砲と同時に射撃を開始した機関銃弾と小銃弾が、一塊になったオーク重装兵を切り刻んでいる。榴弾が命中する度に肉片と武具のかけらが宙を舞った。

「ガキとじいさんばっかりだ。陣地の中は血の海で、四分の一しか生き残っちゃいねぇ。危ないところだったな」
「赤沢二尉。衛生員に手当てを実施させても宜しいですか?」
 隣にいた矢野二曹が尋ねた。居ても立ってもいられない様子だ。どうみても中学生くらいの少年たちがあちこちに転がっている姿が耐えられないらしい。
「オークを撃退した後、救護を実施させよう。砲手! 敵が逃げ散るまで榴弾を叩き込め!」
 赤沢も矢野と同じ気分だった。早く目の前の豚どもを追い返して、救護に当たらせよう。そう思った。



 ベレージンは己の目論見が砕け散ったことを即座に認識した。
 認識せざるを得なかった。前方で横陣を組んでいたオーク共は、敵陣から放たれた光矢と爆炎魔術により、寸刻みの肉片と化している。あれほどの魔術投射量は、南方征討領軍本隊ですら実現させ得ないだろう。
 爆発は徐々に自分のいる中陣に近付いていた。一刻の猶予もならぬ。ベレージンは慌てて下知を下そうとした。

「も、ものども、退け! 西岸まで退くのだ!」
 既に士気が崩壊していた彼の配下は、雪崩を打って退却に移った。前衛に至っては指揮を執る騎士が早々に討ち死にしていたため、パニックに陥ったオークがバラバラと橋から転落し水柱を立てていた。

 一旦退くのだ。態勢を立て直し、エギン閣下の御助勢を仰がねば……。
 ベレージンは未だ悪夢を見ているような心地でいた。今はただ安全な西市街へ撤退することだけが、彼の頭の中を占めていた。



 中央商館街のある中洲には、荷揚げや商品搬入のための広場が点在している。そのうちの一つ、〈ジェスルア大橋〉にほど近く対岸の西市街が見渡せる広場を警護していた邏卒長は、不思議なものを目撃していた。
 それはニホン軍の集団であった。
 正確に言えばニホン軍が行う奇妙な儀式だ。彼らは大きな鉄の車で広場に現れると、幌付きの車から何かを降ろし始めた。大きな鉄の皿を地面に敷くと、その上に筒と棒を立てている。筒は斜めに傾いでいた。
 邏卒長は、何をしているのかさっぱり分からなかった。合計4本の筒が立てられるのと同時に、周りで兵士たちが慌ただしく動き、何人かは奇妙な筒を通して対岸を見ていた。

「あいつら、何ばしよらすと?」
 邏卒長は西方訛りを隠すことも忘れてつぶやいた。
「はぁ、遠眼鏡で対岸を見ているようで……」
「あがんとこから見とるだけか。二十人ばかりおるばい。橋の守備に行けば、防衛隊がいくらか助かるんじゃなかとや?」
「何をしとるんでしょうね──お、筒のそばに一人ずつ跪いてますよ」
 確かにニホン兵が、筒に手を添えて跪いていた。手に何かを持っているように見えるがよくわからない。
 指揮官らしい男が何かを叫ぶと、跪いていた兵が頭に両手をあてがい、不思議な動きをした。邏卒長は何かに祈っているのだと思った。妙な音がした。

 数秒の後。対岸を見ていたニホン兵が、大声で何かを唱えた時だった。マワーレド川を挟んだ半里ほど先の西市街。そこに展開した帝國軍の近くで轟音と共に爆煙が上がった。
「な、何ね!?」
「爆発しました!」
 邏卒長たちは、呆気にとられた。はるか先の帝國軍のいる辺りで爆発が起き、明らかに混乱が発生していた。
 ニホン兵たちの動きが慌ただしくなった。筒にとりついて何かをしている。別の筒でまた祈りの動作が行われ、先程のニホン兵がまた、何かを唱えた。爆煙があがる。今度はやや帝國軍から離れた位置だ。ニホン兵たちは筒の方角を変え始めた。

 邏卒長は、ようやく合点がいった。

「魔術士の部隊ばい。あの筒は、呪具かなにかに間違いなか!」
「あんな遠くまで、ですか?」
「あの兵が呪文を唱える度に、帝國軍のおる辺りで爆発ば起きよる! 呪具で力ば強めとるに違いなかばい」
 邏卒長たちはたまらずニホン兵の近くに駆け寄った。ニホン兵による祈りの動作は淀みなく続いていた。

「ダンチャーク・マッ!」

 魔術士が呪文を唱える。対岸で爆発が起こり、ゴブリンと思しき帝國兵が吹き飛ぶのがわかった。邏卒長は、尊敬の眼差しで魔術士の男を見た。子供のような顔つきの若い男だ。しかし、恐るべき魔術の遣い手だった。
「こら凄か!」
「いいぞ! もっとやれ!」
「見ろ! 右往左往しているぞ。どこから攻撃されているか分からないんだ!」
 邏卒たちは口々に叫び喜びを露わにした。目の前の異国の兵に心から声援を送る。涙を流すものさえ出る有様だった。


 迫撃砲小隊所属の絹谷三曹は困惑していた。彼の小隊は4門のL16 81ミリ迫撃砲を広場に布陣し、対岸の帝國軍に対し近接支援射撃を開始していた。
「効力射、射撃始め!」
「撃て!」
 小隊長の射撃命令が発せられ、試射による調定を完了した各砲が効力射を開始する。機械的な正確さで半装填と発射が繰り返された。
 目標まで約800メートル。迫撃砲の射距離としては至近である。砲列から直接観測が可能な位置だった。絹谷は効力射初弾の弾着秒時を計測し、発声した。
「だんちゃーく、今!」
「オオー!」
 敵軍のただ中で迫撃砲弾が炸裂した。土煙に混じって、軍馬らしい物が吹き飛ぶのが見えた。
 絹谷はいつの間にか近くに来ていたマルノーヴ人の男たちを横目で覗き見た。皆、何故か彼をキラキラした瞳で見つめ、大騒ぎをして喜んでいた。騒ぐ理由はは理解できた。敵がどんどん吹き飛んでいるのだから。

(でも、なんで俺を見て喜ぶんだ?)

 さっぱり理由が分からない。
 絹谷士長は不思議な居心地の悪さを抱えながら、任務を続行することとなった。邏卒長たちの大騒ぎは、対岸の帝國軍歩兵団が壊乱するまで延々と続いた。


 破滅的な破壊が歩兵団本隊を襲っていた。レフ・エギン歩兵団長は、事態の収集を試みたが、彼ほどの胆力を持つ者は少数派であった。
 あっという間にゴブリンとコボルトが壊乱する。本隊の兵士たちにも動揺が広がった。何しろどこから攻撃されているか誰も把握できていないのだ
 本隊付参謀魔導師が、額から血を流しながら叫んだ。
「閣下! このままでは危険です。お退き下さい!」
「莫迦な。ここまで来てか!」
「既にオーク重装兵隊も退却を開始しております。現地点での立て直しは困難です」
 参謀の意見具申に対し、吼えるように返すエギンの声をかき消すように爆発が発生し、掘り返された石畳の破片が辺りに降り注ぐ。
「これは如何なる魔術かッ!? 儂は知らぬぞこのようなデタラメな──」
 爆発。旗手が破片を浴び、軍旗が倒れる。動揺がさらに広がった。

 騎乗した騎士がエギンに駆け寄る。顔面は蒼白だった。
「エギン団長! ラーイド港区方面より敵軍が迫っております。南瞑の水軍兵と思われます。その数約五百!」
「閣下!」
 相次ぐ凶報に、流石のエギンも退却を決意せざるを得なかった。戦塵で白く染まった髭を震わせ、命じる。

「全軍、退け! 一度退いて立て直すのだ!」

 だが、その命令に反応できた部隊は少なかった。オーク重装兵隊は潰滅。本隊も多くの妖魔が逃散し、部隊としての戦闘力を喪失した。
 エギンが西市街中心部でどうにか態勢を立て直した時には、配下の兵力は妖魔、人間合わせて五百騎に満たない状況に落ち込んでいたのだった。

 一方陸上自衛隊は普通科小隊及び迫撃砲小隊をもって〈ジェスルア大橋〉を奪還する事に成功。さらにラーイド港区で再編成を終えたカサード提督の水軍兵五百名と共に、対戦車小隊が反撃を開始、帝國南方征討領軍歩兵団を圧迫しつつあった。

「あのひとたちは、いったい……」
 彼らはあの恐ろしいオーク重装兵を、ネズミ駆除程度の扱いで叩き潰してしまった。ロティはぺたりと尻を地面に着け、座り込んでいた。ぽかんと口を開けたまま、ニホン兵を凝視している。

 ニホン兵はそんなロティの様子に気付いたようだった。まだら模様の鎧を着込んだ大柄の兵士が、大股で近付いてきた。ロティは緩慢な動作でニホン兵を見上げる。
 ロティの目に映るニホン兵は、顔に炭を塗り、全身から湯気を立ち昇らせた恐ろしい見かけをしていた。これなら、オークを倒してもおかしくないや。彼はそう思った。
「──?」
 ニホン兵はロティの顔を覗き込んだ。ロティはニホン兵の厳つい風貌の中に、心配そうに彼を見つめる瞳を見つけた。意外だった。それはとても優しい瞳だった。
 ニホン兵はロティと足元に横たわるアペルを交互に見つめ、突然ロティを抱きしめた。大きな手のひらがロティの頭を乱暴に撫でる。ニホン兵からは焦げたような不思議な匂いがした。
 おとうさんみたいな大きな手だ……。
 そう思うと、ようやく自分が生き残った実感が湧いた。そして、親友が地面で冷たくなっていることを思い出し、彼がもう二度と目を覚ますことはないのだと、理解した。
「アペル、アペルが死んじゃった……うわあああん!」
 熱い涙が両目から溢れ出して、止まらなかった。ニホン兵は大きな手のひらで、ロティが泣き止むまで、彼の背中を優しくさすり続けてくれた。


 矢野二曹が少年兵にすがりつかれている様子を、赤沢二尉は何ともいえない表情で見ていた。呼び戻すべきか……あいつ、息子があれくらいの年頃だったな。
 うん、まあ後はあいつ抜きでも大丈夫だろう。

「よーし、高機動車とLAVをゆっくり押し出せ! 橋の上を掃討するぞ」

 赤沢の小隊は、号令を受け前進を再開した。



ブンガ・マス・リマ近郊 帝國南方征討領軍本営
2013年 1月6日 19時11分


 帝國南方征討領軍先遣兵団は、本営をブンガ・マス・リマ北方約半里の地点まで前進させていた。
 主将レナト・サヴェリューハとその幕僚団にとり、それは不本意な状況であった。本来であれば、本営は未だ後方にて商都攻略の指揮を執っていたはずである。しかし、戦況がそれを許さなかった。

 最初の躓きは、東市街攻略に向かわせた助攻部隊で発生した。徴用兵と妖魔兵団からなる混成部隊は、ブンガ・マス・リマ東市街へ突入するのに充分な兵力を与えられていたはずだった。
 しかし、彼らは忽然と連絡を断った。本営付魔導士の導波通信にも応答しなくなった。

 続いて、この地の空を支配していたはずの飛行騎兵団が、正体不明の敵軍から迎撃を受け大損害を受けた。帰投した翼龍騎兵と『魔獣遣い』たちは、口々に「火龍に匹敵する敵と遭遇した」と主張した。
 幕僚たちは一笑に付したが、翼龍と有翼蛇が大損害を受けていることは厳然とした事実であり、無視する訳にはいかない。

 報告を受けたサヴェリューハの酷薄な表情を見て震え上がった幕僚たちは、慌てて現状把握のために矢継ぎ早に指示を出した。
 しかし、東岸の助攻部隊は依然行方不明であり、導波通信は沈黙したまま。さらに、斥候と連絡を命じられ本営付の翼龍騎兵が東岸へと派出されたが、あっさりと消息を絶つ始末である。
 本営に何一つ詳細が入ってこないまま、時間が費やされていった。

 ここで、南瞑の地で猛威を振るってきた帝國南方征討領軍の弱点が露呈する。
 その根幹を、帝國内における少数民族や競争に敗れた者たちで組み上げられた南方征討領軍は、貪欲な上昇思考を活力としている。
 国内に居場所を失った彼らは、帝國の外を征服しなければ未来は無い。その現実が彼らに果断さと勇猛な戦ぶりをもたらしていた。
 しかし、それ故に緻密な連携や協力態勢などは存在しない。勝手気ままに動きたがる寄せ集めの軍勢を束ねるべき本営の作戦指揮能力は低かった。サヴェリューハは決して無能な指揮官では無かったが、彼を補佐すべき幕僚団が貧弱であったのだった。
 主将の意を汲むことを取り違えた幕僚の出した指示によって、導波通信を行うことのできる魔導士は急速に消耗し、力を失った。
 本来であれば、魔導士と組み合わせることで速やかな斥候が可能だったはずの翼龍騎兵は、単独で投入され失われた。

 運用試験を兼ねて先遣兵団に与えられていた特技兵たちは、6日夕刻を迎える前に消耗し、サヴェリューハは昔ながらの伝令を用いて隷下部隊を指揮しなければならなくなったのだった。

 自らの無能を補うために前進を余儀なくされた南方征討領軍本営は、無数の篝火と鬼火によって、夜の闇の中に浮かび上がっている。
 周囲よりわずかに小高い位置に布陣した本営には、指揮官の所在を示す軍旗が掲げられ、前線部隊との伝令がひっきりなしに出入りしていた。馬蹄の音が鳴り響き、怒声と武具の擦れ合う金属音が不協和音を奏でている。
 行き交う騎士や参謀魔導士は何かに追われるように駆け回り、殺伐とした空気を本営内に醸成していた。

「──それで?」
 氷のような声が参謀魔導士を詰問した。
「は、はっ! 市街襲撃から帰投した飛行騎兵団の報告によれば、東市街に我が軍の突入した様子は有りません。現時点で東市街に大規模な混乱が見られないことから、助攻部隊は敗北したものと見積もられます」
 報告を行う参謀魔導士のローブは、冷たい汗で重く湿っていた。我ながら酷い報告だと理解している。それ故に怖ろしくてたまらない。
「助攻部隊を撃退したと思われる敵軍については、情報を得られておりません。二刻前に出した翼龍斥候は敵影を得ず、一刻前に出した斥候は帰りませんでした。墜とされた恐れがございます」
「……」
「飛行騎兵団を迎撃した敵勢につきましては……その報告を真とするならば、導師級が数十名程も待ちかまえていたことになります。到底、信じられませ──」
 そこで、参謀は言葉に詰まった。主将の顔に浮かぶ刺すような殺気にようやく気がついたからだ。思わず後退る。
「いや、そ、その。失礼致しました。飛行騎兵団の損害は『魔獣遣い』3名、翼龍騎兵8騎が討死、3騎が行方知れず。有翼蛇は20以上を失ったとの知らせを受けています」

 重たい沈黙が、参謀魔導士の胃を締め上げた。耐えられなくなった彼が何か釈明のようなものを述べようとした瞬間、目の前の主将が口を開いた。


「飛行騎兵団、もう動かせる駒はありませんか?」
 その言葉は青い顔をした参謀魔導士ではなく、先程から本営内の片隅で葡萄酒をあおっていたがっしりとした体躯の漢に向けられていた。
「無理だな。そちらに預けた騎兵は全員行方知れずだし、市街襲撃から戻った連中は消耗が酷い」
「消耗? 私は翼龍も有翼蛇もそれほどひ弱な生き物だとは聞いていませんが?」
「へたっているのは恥ずかしながら俺の部下たちだ。性根をすり減らしてぶっ倒れてやがる。今夜一晩は使い物にならんよ」
 その漢──飛行騎兵団長シュヴェーリン男爵は、ぞんざいな口調で言い放った。浅黒い彼の顔面には、飛行帽の革帯の跡が残っている。
 適当な丸太を手斧とノミで削りだしたようなおおざっぱな顔付きだが、奥まった瞳からは不思議と強い意志を感じさせた。拳でも入りそうな程大きな口に流し込むような勢いで酒を飲んでいるにも関わらず、動作は機敏で酒に酔った様子はない。

「俺はあいにくと出くわさなかったが、南蛮の魔導士はうちらのぼんくら共とはモノが違うようだ。ヴァロフが珍しく興奮していたよ」
 ぼんくら、という言葉に目を剥きかけた参謀魔導士は、シュヴェーリンの瞳に強い怒りが宿っていることに気づき、下を向いた。
「彼の報告は信用して間違いありませんか?」
 サヴェリューハが言った。シュヴェーリンは手にした杯を背後に放り投げた。どかりと手近な床几に腰を下ろす。

「ヴァロフの報告が信用できなければ、この世に確かなものなど有りはしないさ。現に俺のかわいい部下たちは還ってこなかった。本営付の翼龍騎兵に至っては──クソッ! 無駄に使い潰しやがって」
「……」 

 南方征討領軍飛行騎兵団は、新兵種の実験部隊として位置付けられている。その指揮系統はやや変則的で、大元は本領軍にあり、南方征討領軍先遣兵団に対しては寄騎という形で付けられていた。そのため、先遣兵団主将であるサヴェリューハもそれなりに気を使う必要があった。
「なぁ、サヴェリューハ殿。これぐらいで一旦退くわけにはいかんか? 我らの任は『南瞑同盟会議諸勢力の分断と消耗』だったろう? あまりに敵が脆すぎて商都まで来ちまったが」
「確かに、多くの敵勢力を離反させ、都市を陥落せしめた。我々の目的は達成されていると言っても良いでしょうねぇ」
 シュヴェーリンの問いに、サヴェリューハは同意した。先遣兵団の遊撃戦により、南瞑同盟会議は多くの都市と野戦軍を喪っていた。後に続く南方征討領本軍の露払いとしては充分と言ってよい。

「しかし、足りません。我らにはさらなる戦果が必要なのですよ。日陰者が陽光を浴びて輝くには、人並では到底足りない。ねぇ、そうでしょう?」
「だが、自軍の半分とは渡りが付かず、俺の飛行騎兵団も今は動けん。強力な敵の正体は不明。そして、夜! ──到底正気とは言えんよ」
 シュヴェーリンはサヴェリューハの異常なまでの戦意に半ば呆れていた。サヴェリューハは役者と見紛う程整った顔を上気させ、怒りとも喜びとも取れる表情を浮かべている。
「エギンの歩兵団が間もなく中洲へ突入するはずです。中央商館街さえ陥とせばこの戦、敵があといかほど戦力を残していても、我らの勝利です」
「そう上手くいくかな……」

 シュヴェーリンは頭をひねった。その耳に馬蹄の響きと騒がしい叫び声が聞こえた。(伝令だな……しかし、こいつは)

「申し上げます!」

 本営に全身汗みずくの伝令騎兵が転がり込んできた。煤に薄汚れ、あちこちに傷を負っている。それを目に留めたサヴェリューハの眉根がしかめられた。

「蛮都ジェスルア大橋において、エギン閣下の歩兵団が敵守備部隊と交戦。大損害を受け、西市街北部へ撤退しましてございます!」
 伝令の声はほとんど悲鳴に近かった。
 本営に衝撃が走った。幕僚と騎士たちが騒ぎ出す。
「ば、莫迦な!? 敵は老人と子供の寄せ集めでは無かったのか!?」
 その問いに伝令はかぶりを振り、甲高い声で叫んだ。
「敵陣に魔導士多数が後詰めに入り、エギン閣下の隊を散々に叩きました。正体不明の高威力魔法の攻撃により、オーク重装歩兵は壊滅。現在西市街北部にて再編成を行っておりますが、港方面からは水軍部隊と思われる敵の一隊が迫っております」

 サヴェリューハを除く全員が呻り声を洩らした。

「これで川の両岸に有力な敵勢が出現したことになるな……予備隊が払拭したいま反撃を受ければ危ないぞ」
「何より敵がどれほどかわからぬのが拙い。我らは目を塞いだまま戦っているようなものだ」
「ここは一旦退き、本軍の後詰めを待って態勢を整えるべきだろう」

 幕僚たちは口々に言った。敵の勢力は不明。主攻、助攻、そして飛行騎兵団。その全てが大損害を受け攻撃は頓挫している。攻撃一辺倒でやってきた南方征討領軍の幕僚たちも、流石にこれ以上の攻勢維持は困難だと判断を始めていた。
 それは、軍事的な常識に則った至極真っ当な判断であると言えた。

 しかし──。

「魔獣兵団を投入します」
 サヴェリューハは戦意を失ってはいなかった。決然と言い放つ。幕僚たちが顔色を失い、一拍遅れて口々に翻意を求めた。
「か、閣下! これ以上は危険です。我が軍の受けた損害はあまりに多く、市攻略は困難と思料いたします」
「魔獣兵団の他は、本営警護を合わせても、二百騎がせいぜいで御座る」
「……本気か?」
 シュヴェーリンは思わず主将の正気を疑い、その瞳を覗き込んだ。

「ええ、本気です。ヘルハウンド、剣歯虎各隊は市街へ速やかに突入。火を放ちなさい」
「……敵軍が西市街を回復しつつあります。遭遇戦となるおそれがありますが?」
 辛うじて自己の職責を思い出した参謀魔導士が訊ねた。
「敵勢に出会っても捨て置きなさい。蛮都を焼くことを第一とします。魔獣兵団は爾後戦場を離脱し、北方五里の地点で再度集結。本営及びエギン歩兵団、並びにオーガー隊は速やかに集結地点に後退します」

 シュヴェーリンは、彼の主将が正気を失った訳では無いことを理解した。サヴェリューハは敵軍ではなく敵軍を支える南瞑同盟会議の力の源を叩くと言っているのだった。
 それは即ち、膨大な富を産み出すブンガ・マス・リマそのものである。確かに、街の三分の一を焼かれたならば、商業同盟たる南瞑同盟会議は大きな痛手を受けるだろう。

──だが。

「たくさん死ぬぜ」

 シュヴェーリンは固い声で言った。
 確かに魔獣兵団なら、速さに任せて街を焼くことは可能だろう。逃げ惑う民衆と燃え盛る炎が、同盟会議軍を混乱させ、俺たちへの追撃を困難にすることも期待できる。
 だが、必ず敵とぶつかる。まさか後れをとることはあるまいが、敵地で戦う以上楽な戦にはなるまい。退き陣で手酷く叩かれることになるのではないか?

「彼らには苦労をしてもらいます。敵味方等しく出血を強いられるなら、臓腑から流す血の方がより深手となるでしょうから」
「容赦のないことだ」
「無論、任を全うしたならば指揮官の判断で退くことは許します。無事戻ればその功を第一としましょう」

 シュヴェーリンはサヴェリューハの冷徹な作戦指揮に反発を覚えた。その一方で脳内では帝國軍将校としての損益判断を行っている。
 手足に痛手を負ったとしても、本営さえ無事なら敵の本拠により打撃を与える方がよいということか。俺の好みではないが、これがこの御仁の将器のかたちというわけだな。そもそも我ら先遣兵団自体が、南方征討領軍の槍の穂先に過ぎん。

「南方征討領軍先遣兵団主将として発令します。魔獣兵団の指揮官を呼びなさい」

 サヴェリューハの命令に、幕僚たちと本営付の伝令が慌ただしく動き始めた。誰も彼もが不安を抱えてはいたが、主将の明確な命令を受け徐々に戦意を回復させつつあった。
 作戦に批判的な思いを抱いたシュヴェーリンでさえ、これが上手く行けば本軍到着時に敵は戦力を回復できず、ブンガ・マス・リマはあっさりと陥落するだろうと考えた。

「……ただでは負けてあげません」

 喧騒の満ちる本営内でサヴェリューハがぽつりと呟いた一言に、シュヴェーリンが何か言葉を返そうとした瞬間、猛烈な爆風と閃光が彼を襲った。



「初弾、目標に命中を確認」
「よし、弾種そのまま、続けて撃て」

 発砲の余韻が夜闇に溶けていく。
 柘植の90式戦車は、僚車を率いてマワーレド川東岸に臥せていた。砲口は真西──対岸に向けられ、微かな砲煙を立ち昇らせている。
 発砲の直前まで聞こえていた鳥と蛙たちの大合唱は、すでに沈黙した。戦車の周囲は奇妙な静寂に包まれていた。

「発射」

 砲口から白い閃光が煌めく。闇の中に90式戦車の角張った車体が浮かび上がる。轟音が大気を切り裂き、戦車前方の下草がバラバラと吹き飛んだ。初弾と同様、一瞬の灼熱の後はまた静寂が辺りを制した。

 対岸は対照的である。
 川を挟んだ2000メートル先では、悲鳴と怒号が上がっている。所々に火の手が上がり、稜線を浮かび上がらせていた。
 林立していた軍旗はことごとく倒れ、人馬がてんでバラバラの方角に走り回っている。轟音。第3射弾目の多目的対戦車榴弾がその真っ只中に飛び込み、彼らの混乱に拍車をかけた。


 柘植一尉が率いる偵察隊一個戦車班は、対岸に布陣した帝國南方征討領軍先遣兵団本営に対して、夜間攻撃を実施していた。


 熱線映像装置のモニターには、対岸の状況が昼間のように明るく映し出されていた。肉眼では点在する炎程度しか視認できない状況だが、現代科学が90式戦車に与えた眼は、夜間2000メートル先の敵影を容易く識別する能力を持つ。


「いいぞ、敵は大混乱だ。奴らどこから撃たれたか理解できずにいるぞ」
「そりゃこの距離ですから」
「ようやく敵の本隊を叩けたな」そう言って、柘植は安堵の表情を浮かべた。


 川を渡れりゃ一発なんだがな。
 敵本営らしい目標に射撃を続行しつつも、柘植はもどかしさを感じていた。分派した戦車班と小銃班は、それぞれ前哨陣地の守備と物資集積所の救援に就いている。彼の手元には一個戦車班2両が残されているだけである。
 もちろん刀剣と弓矢、そしていくつかの魔法を攻撃手段としているマルノーヴの軍隊に対しては、慎重に戦うのであればそれだけで十分な戦力だったが、柘植がマワーレド川西岸で苦戦する味方の救援に向かうためには超えなければならない障害が存在していた。

 柘植は、モニター上で暗く表示されている部分──目の前に横たわる幅約500メートルのマワーレド川に目を向けた。5メートル以上の水深があるこの大河を越えて、向こう岸へ向かう手段は彼の元には存在しない。
 潜水渡渉には深すぎるし、海自のLCACは使えない。90式の重量に耐えられる橋も無かった。人員と軽装備だけなら渡ることはできたが、たかだか数名の戦車乗りが手ぶらで駆けつけることに、柘植は意味を見いだせなかった。

 結局、マワーレド川東岸で避難民を収容しつつ対空警戒に就いていた柘植たちが再度戦闘に加入できたのは、ようやく通信を回復した派遣調査団本部からの情報を得てからだった。


「敵味方識別を何とかしないと、これからも大変だぞ」
 柘植は砲撃の効果を確認しつつ、つぶやいた。モニター上では敵本隊が大損害を受けている。それが敵であると本部経由で柘植に教えたのは、南瞑同盟会議軍の偵察部隊である。
 彼らが敵後方に浸透し『導波通信』により敵本隊の位置を通報しなければ、自衛隊は攻撃を決断できなかっただろう。全てが混乱しつつ始まったこの日、各地で無視できぬほどの損害を受けながらも、自衛隊は友軍相撃の可能性を恐れながら戦っていたのだった。

「旗印や装備品だと、こんな夜には見分けがつかないですからね。味方がストロボを点けてくれる訳でもなし……どうしたもんでしょう?」
 根来が照準装置を覗き込んだままで言った。その声は真剣に心配していた。
「……本格的に、同盟会議軍と協力しないと駄目だろうな。俺たちには分からないことが多すぎる。地理、風土、文化、戦術。知らない土地は怖ろしいぞ」
「ですね……次で対榴、残弾10発です」
「了解」
 柘植は、根来の報告に対し頷いた。頭の片隅で(次は徹甲を減らして、対榴を多く積もう。まさか、第3世代MBTより硬い敵がいるとも思えん)などと考えている。
 次弾発砲の轟音と衝撃が柘植の身体を揺らした。耳から余韻が失せる前に、無線が鳴る。

『01、03。砲撃効果大なるを確認』僚車からの報告だ。
「撃ち方待て」柘植は隊内通信系で命じた。砲声が止む。90式戦車の熱線映像装置は、敵軍が壊乱しつつある様子を映し出している。合わせて20発近くの120ミリ戦車砲弾を撃ち込まれた帝國軍は、四分五裂していた。

 何にせよ、これで敵も退くだろう。あれだけ本部を叩かれれば、継戦能力はがた落ちのはずだ。

 柘植は額から流れ落ちる汗を拭い、祈るような気持ちでモニターを見つめていた。




 俺は、生きているか?
 意識を取り戻したシュヴェーリンは、止まない耳鳴りに悩まされていた。視界が少しずつ戻る。そこらじゅうが軋むような痛みをあげている。酷い気分だが、今は良いことなのだろう。彼は自分の身体を確かめた。
 右腕、左腕、右脚、左脚、右脚。全部ある。彼は安堵した。頭を左右に振ると、ぼやけた意識がわずかにはっきりしてきた。

 俺は幸運にも五体満足で助かったらしい。そこでようやく違和感に気付いた。
 ……では俺の腹の上にあるこの右脚は一体誰のものなのだ?

 考え込んでいても仕方がない。
 シュヴェーリンは泥にまみれた誰かの脚を地面に降ろし、辺りを見回した。耳鳴りが収まるにつれ、悲鳴と呻き声が辺りを満たしているのに気づいた。
 本営を守っていた警護隊の衛兵たちは、壊れた人形のように辺りに四散していた。そこかしこに肉体の一部が散乱している。 
 その光景を無感動に見ていたシュヴェーリンの耳に、誰かを必死に呼び続ける声が聞こえた。その真剣さに思わず声の主を探す。すぐに見つかった。

「おい、大丈夫か?」
「ううう……本領軍に、本領軍参謀部に。どうか、どうか……」
 地面に仰向けに倒れた参謀魔導士は、うわごとのように繰り返していた。「大丈夫だ、しっかりしろ」シュヴェーリンはそう言いかけ、止めた。参謀の下半身は地面に埋まっているように見えた。すぐに間違いだと気づく。彼の下半身はどこかに行ってしまったらしい。
 みるみるうちに血の気を失っていく参謀は、すでに冥界への旅路に出ようとしていた。
「俺はシュヴェーリン男爵だ。おい、貴様。頼みがあるならはっきり言え」
 その呼びかけに参謀魔導士は目を見開いた。そして、残った生命をかき集めるかのように、吐息のような声で途切れ途切れに言った。
「シュヴェーリン殿……どうか本領……軍参謀部に我が言……言伝をお伝えください」
「何だ? 言ってみろ」シュヴェーリンは瀕死の魔導士に耳を寄せた。

「異界より〈烏〉来たれり。備えられよ……と」
「なんだそれは? 〈烏〉が来たと伝えればいいのか? だいたい〈烏〉とは何のことだ?」
「……必ず、お、お伝えくださ……い。帝國の存亡……この魔……導、間違いな……」
「サヴェリューハ殿ではいかんのか?」
 反応は激烈だった。参謀は狂ったように叫んだ。
「必ずや! ほ、本領軍に! 〈烏〉が、異……軍……が、備えねば……」
 そこまで言うと、参謀は力を失い息絶えた。目は見開かれ、壮絶な形相だった。

 こいつ、何に怯えていやがったんだろうか。〈烏〉? 何かの符丁だろうが、本領軍だけが知る話があるらしい。おもしろくないな。
 シュヴェーリンは参謀魔導士の死体を見下ろし、思った。〈烏〉については敵を示す符丁だろうと見当はついた。そのままあれこれと想像を巡らせようとした彼の思考は、獣のようなうなり声に中断させられた。

 うなり声の発生源は、黒金の見事な甲冑を纏った長身の男──サヴェリューハだった。ただし、美麗だったその姿は血と泥にまみれ、獣じみたうなり声に見合ったものと化している。
 指揮官の変貌にシュヴェーリンが呆気にとられていると、背後から呼びかける声が聞こえた。

「そこの貴公、無事か?」
 気遣わしげな声には覚えがあった。シュヴェーリンが振り返ると、目つきの悪い小柄な漢が、片手で剣帯を押さえた姿勢でこちらに近付いてきていた。
 漢は魔獣兵団剣歯虎隊指揮官だった。その姿は小綺麗なままだ。彼の部隊は本営から離れた位置に配置されていたため、この災厄から逃れることができたのだ。本営警護騎士の馬が怯えるから、というのが理由であった。
(もちろん、何事にも例外は存在する。一部の軍馬は虎やヘルハウンドを恐れなかった)

「どうにか、な。飛行騎兵団長シュヴェーリンだ。しかし、何が起きたのだ? いや、敵の攻撃なのは分かっているが如何なる手管を用いたのかさっぱりわからん」
 シュヴェーリンは軍装にこびりついた泥を落としながらつぶやいた。
 剣歯虎隊指揮官は、背後に控えている部下にうなずいた。それを受けて、オーガーとも殴り合えそうな下士官が、重々しい声で言った。右手が川向こうを指していた。

「恐れながら。川向こうからの攻撃であります」
「莫迦な。半里はあるぞ? そのような術など聞いたこともない」
 シュヴェーリンは即座に否定した。しかし、剣歯虎隊指揮官とその部下は、揺るがない。
「シュヴェーリン殿。私も見たのです。川向こうで赤い閃光が放たれたのち、本営が吹き飛んだ様子を。敵は何らかの恐るべき魔導で、我らを撃ったと考えるほかありません」
「……何てこった。くそ、こんな南の果てまで来て、魔女の婆さんの呪いか!」
 シュヴェーリンは悪態を尽きながら、思考を巡らせた。敵が狙ったのは本営。間違いない。こちらに反撃の手段は無く、指揮官は前後不覚に陥っている。そして、厄介なことに敵はまだこちらを叩くことが可能かもしれない。

──ならば。

「速やかに退くべきです。私の剣虎が殿を務めます。シュヴェーリン殿は……サヴェリューハ閣下をお連れ下さい。護衛にはヘルハウンド隊が就くでしょう。すでに向こうの指揮官とは話がつけてあります」
 判断が早いな。魔獣兵団の連中は皆こうなのか? 
 シュヴェーリンに異論はなかった。ここでの戦は、すでに喪われているのだ。
「俺の部下を呼ぶ。サヴェリューハ閣下を運べるだろう。貴様の隊は何処にある?」
「この丘の反斜面に。川縁は危険でしょうから」
 剣歯虎隊指揮官は抜け目ない声で答えた。シュヴェーリンは、ニヤリと笑った。退き戦で頼れるしんがりがいるのは有り難い。
「では、私は隊に戻り──」

「アアアアアア! 何奴がッ! 敵は何処です! すぐに反撃しなさい! 伝令! 伝令! どうしましたッ! 伝令を呼びなさい!」
 サヴェリューハが叫んでいた。人狼も顔色を失う程の叫びだ。怒り狂ったその姿は、正気を失っているように見えた。
 だが、シュヴェーリンと剣歯虎隊指揮官は、その叫びが意味を持ち始めたことに気付いていた。少し前はうなり声ばかりだったのだ。今なら話が通じる。
「サヴェリューハ殿、本営は壊滅した。敵はおそらく……川向こうだ。さすがに届かんよ」シュヴェーリンが宥めた。
 サヴェリューハは、シュヴェーリンを殺気に満ちた瞳で睨みつけると、口角から血の混じった泡を吹きながら叫んだ。

「それがどうしたと言うのです! 敵を殺すのです。私を愚弄した敵を! たとえ南瞑海の果てに逃げようとも、逃がさぬ。兵を集めるのです」
「サヴェリューハ殿、あんたの先遣兵団はもうボロボロだよ──その目と腕のように」
「腕? 私の右腕がどうかしましたか──」荒い息を吐きながらサヴェリューハは己の右腕を見た。血まみれのそれは、肘から先が失われていた。
 美麗だったその顔も、酷く傷付いている。右目が有ったはずの場所は焼け爛れ、醜くひきつっていた。

 サヴェリューハはようやく自分が重傷を負っていることに気付いた。失われた物を知り、一瞬顔面に感情らしきものが浮かぶ。しかし、彼はすぐにそれを消した。

「ならばますます逃がすわけにはいきません。私から何かを奪う者がどうなるのか、知らしめる必要があります」
 サヴェリューハは言った。どういった心理なのか、いつの間にか声色は平静さを取り戻している。残った左の瞳が、ようやく態勢を立て直した本営警護隊が丘を登ってくるのを見ていた。

 たいまつを掲げ、武具の音を響かせながら丘を登る警護隊を確認したシュヴェーリンと剣歯虎隊指揮官が顔色を変えた。慌てて進言する。

「サヴェリューハ殿、あれは拙い。敵はこちらを見ている」
「閣下! 警護隊は速やかに川縁からお退かせ下さい! 撃たれます」
「撃たれる? 何処から撃たれると言うのです? この丘のどこかに敵が潜んでいるとでも?」サヴェリューハは首を傾げた。

 シュヴェーリンが、 顔面をひきつらせ、暗闇に横たわるマワーレド川の向こうを指差して言った。その声は、神の託宣を告げる神官のようで、辺りに厳かに響き渡った。

「敵軍は彼に有り。我らは既に捉えられているのだ」

 サヴェリューハは、その言葉に導かれるように対岸を見た。



「小隊長、敵の増援らしきもの。距離2000」
「……確認した」

 車長席で根来二曹の報告を聞いた柘植は、背筋を伸ばし双眼鏡を構えた。熱線映像装置を用いなくても、たいまつの炎が群をなして闇の中を進む様子はよく見えた。
 彼は決断しなければならなかった。可能な手段で敵に打撃を与えなければならない。健在な敵がいるならば、これを撃破するのは当然のことだ。
 夜空を見上げると、星が降るようだった。息を呑むほどに美しい星空。降り注ぐ星明かりが、周囲の熱帯雨林を影絵のように見せている。
 柘植は、命令を発した。まるで、自分に言い聞かせるような響きだった。

「敵増援を撃破する。前方敵歩兵、距離2000、対榴、班集中──撃て!」
「発射」根来二曹がいつもと変わらない声で発砲を告げた。

 2両の90式戦車から放たれた多目的対戦車榴弾は、マワーレド川を容易く飛び越え、敵の増援部隊のただ中へ飛翔した。
 弾着。たいまつの炎が吹き飛び、代わりに引火した何かがより大きな炎を上げていた。
 柘植の目には、それがまるで生命の火が消えゆく様子に見えていた。彼は苦しげな表情を浮かべ、言った。
「……もう一撃だ」
「敵は既に大混乱ですが? 敵は戦闘力を喪失したと判断できます」
 根来二曹の言葉に、柘植はかすかに震える声で答えた。
「……ここで徹底的に叩いておけば、その分どこかで味方が楽になるんだ。たとえ逃げ惑う相手でも、見逃せば奴らはきっと誰かを殺す。そうなる前に俺が先に奴らを殺すよ──射手、以前の目標、対榴、撃て!」
 振り払うような柘植の命令を受け、根来は発射ボタンを押した。装填された多目的対戦車榴弾が闇へと飛び出す。90式戦車の角張った車体が、瞬間、照らし出されて闇に浮かんだ。



 対岸で閃光が煌めくと、一瞬の後本営警護隊のただ中で爆発が起きた。精鋭を誇った護衛兵たちが吹き飛ぶ。熟練の魔導師でなければ成し得ぬ程の爆炎が、帝國南方征討領軍先遣兵団本営を襲っていた。
「何という……」
 シュヴェーリンは顔色を失い、本能的に身を屈めていた。豪胆な彼に似つかわしくない振る舞いだった。あれが先程己を襲ったのだと思うと、背筋に震えが走った。
 川向こうにいるのは一体『何』なのだ? 彼は滅びた迷宮都市跡で邪神に遭遇した冒険者のような心境で、マワーレド川対岸を見ていた。
 そこに、笑い声が聞こえた。

「クク……クククク。見ました。見つけましたよ!」

 それは狂気を孕んだ声だった。

 閃光と轟音。警護隊が倒れ、悲鳴が上がる。爆風が立ち尽くすシュヴェーリンをなぶる。
 その彼の傍らで、片腕を失ったサヴェリューハが哄笑している。残された左目は爛々と輝き、喜悦に染まっているように見えた。

「おい、あんた何を……?」
「わかりました。貴方が私に刃を突き立てた。ならば私は貴方に相応の返礼をしましょう。貴方と貴方の部下と貴方に連なるすべての者を、私は追うでしょう。
 貴方の前で、それらを捕らえ、切り裂いて犯し、生きたまま焼いた肉を、貴方に振る舞いましょう」
 サヴェリューハは対岸のまだ見ぬ敵に向けて、愉しげに語っていた。間違いなく相手を見ることはできぬ距離。だが……。
「ふふ……それまでどうか、どうか御身大切に。感謝しますよ! 私のこの生にかくも明らかな導をもたらした貴方に!」

 サヴェリューハの言葉に応じたかのように、対岸で三度目の閃光が煌めいた。シュヴェーリンは闇の向こうにいる敵の姿をはっきりと見ることはできなかったが、少なくともサヴェリューハが心を決めたことを理解した。
 この傷貌の将は、この先偏執的なその性を、対岸の敵に注ぐのだろう。それは敵味方に酸鼻極まる戦場をもたらすのだ。
 本営警護隊を粉々に砕く爆発の照り返しに写るサヴェリューハの横顔は、まるで禍々しい魔神のようだった。

 視られている? 
 柘植は突然背筋を走った悪寒に困惑した。何処からか視線を感じる。しかし、誰が? 周囲の安全は確保したはずだった。だが、蛇が絡みつくような、蛞蝓が肌を這うような感覚が離れない。
 その感覚は、彼が何の気なしに対岸に目を向けた時、最も強くなった。柘植は身震いした。

「うーん……、03、こちら01。撃ち方止め、陣地転換。各車後退し予備陣地に入れ」
『……03了解。今夜は店じまいですか?』
 微かな雑音を含んだ僚車からの返答。
「そうだ、下がって補給を受ける──」

 そこで彼は、対岸の異変に気付いた。



 新たな報告が届くのと、サヴェリューハが音もなく崩れ落ちるのは、ほぼ同時だった。
「サヴェリューハ閣下、シュヴェーリン殿!」報告の声は剣歯虎隊指揮官の叫びだった。
 気を失ったサヴェリューハを慌てて抱き留めたシュヴェーリンは、声の方を振り向いた。そして、絶句した。

「……!」
 無数の光が、熱帯雨林の向こうに広がる丘陵地を埋めていた。あまりに多いその光は、稜線を、輝く一筋の光帯のように見せていた。
 鳴り響く金鼓と軍楽の音。軍馬のいななき。それは西から現れた。

「何処の、何処の軍勢か?」シュヴェーリンが言った。

「この軍楽は──ザハーラ諸王国軍。南瞑同盟会議の西の雄。おそらく援兵の求めに応じ、差し向けられた軍でしょう」剣歯虎隊指揮官が言った。

「おいおい、万は下らんぞ」シュヴェーリンが毒気の抜かれた声を返す。
「夜間これほどの軍を動かすのに、いかほどのたいまつを用いているのやら……。厄介な敵が現れたものです。その兵、万を超えるということは──」
「少なくとも、太守が来ているな。奴ら、贅沢な戦争をしてやがる」

 光の群れは軟体動物のように蠢き、一部は流星群のように動いていた。威圧するようなその動きが示す事実は一つだ。

「逃げるぞ」
「撤退しましょう」
 二人は同時に声を発した。敵は圧倒的だ。夜間とはいえ、これほどまでに彼我の戦力差があれば、勇敢な将なら迷わず追撃を命じる。ぐずぐずしていれば、包囲されて一巻の終わりだ。
「アスースまで退くぞ。サヴェリューハ殿は俺が連れて行こう」
「ヘルハウンド隊が同行します。敵は騎兵を向けてくるはず。歩兵は逃げられないかもしれません」
「やむを得ん。俺たちすら危ない」シュヴェーリンは苦笑いを浮かべた。
 おそらく本営の徒歩部隊の大半と南から撤退してくる歩兵団は捕捉され壊滅するだろう。攻勢時には無類の強さを発揮するオーガー隊も、今の状況では無力だ。しかし、どうすることもできない。
 剣歯虎隊指揮官が静かに言い放つ。
「私は部隊を五里北上させ、街道横の樹木線に埋伏します」
「お前、それは……」
「適当にしんがりを勤めたら、退きますよ。ヘルハウンドより私の剣虎の方が伏撃には向いていますから」
「生き延びたら、一杯奢ろう」
「とびきりの一杯を所望します」
 剣歯虎隊指揮官はそう言って笑った。丘陵地の稜線から溢れ出した光の洪水は、道をたどり押し寄せつつあった。
 シュヴェーリンは、張りのある声で周囲に命じた。

「飛行騎兵団長、シュヴェーリン男爵が命じる! 此度の戦はこれまでとするぞ。全軍退けェ!」



ザハーラ諸王国バールクーク王国軍本営

2013年 1月6日 20時18分


 南瞑同盟会議の緊急要請を受けたザハーラ『豊饒』王ゲズル・バーリシュ・ザハラディーの命により出撃したバールクーク王国軍は、ついにブンガ・マス・リマ近郊へと到達した。
 動員された兵の数は、軽騎兵、親衛騎兵、戦象兵、各種歩兵等合わせて2万余。これに途中の都市国家群から募った民兵や傭兵を含めると優に3万を超える。動員兵力の多さを誇るザハーラ諸王国の面目躍如たる規模であった。

「おうおう、無様に逃げ始めたのぉ。まあ、無理もあるまいが」
 マワーレド川河畔を見下ろす丘陵地の上、金箔と極彩色の織物で飾られた輿の主は、肥満した身体を揺らしながら愉快気に笑った。ゆったりとした衣服には金糸が織り込まれ、篝火の照り返しを受けて鈍く輝いている。
 3万の兵を統べるバールクーク王は、見事に手入れされた口髭を撫でながら、得意気な口調で言葉を続ける。

「我が軍の豪壮無比な姿を見れば、魔神とて敵わぬと悟るであろう。見よ、あの慌てよう。可愛げがあって愉快じゃ。しかし、あの程度の敵に良いようにされるとは、我らが同盟盟主も存外だらしないのぅ。ほっほっほっ」
「はい。バールクーク王国軍の来援なくば、ブンガ・マス・リマは陥落の憂き目に合っていたことと思料いたします」

 慎重に目を伏せたまま、輿の傍らに控える妖精族の男性が答えた。リユセ樹冠国『西の一統』に属する彼は、ザハーラ『豊饒』王からの援兵を先導する役目を負っていた。樹冠国高官であるため、バールクーク王への直答が許されている。

 同盟盟主側のしおらしい態度に満足したバールクーク王は鷹揚にうなずいた。
「ほっほっほっ、よいよい。余の軍が、たちまちのうちに北の野蛮人どもを『狂える神々の座』まで追い返してみせようぞ」
「御意。偉大なる王の軍が駆け降りれば、帝國軍など鎧袖一触でしょう」
「ほっほっほっ」
 尊大な王の態度に思うところはあったが、それを表に出してわざわざ不興を買うほど、リユセの使者は莫迦では無かった。そもそも王とは尊大なものなのだ。


 ザハーラ諸王国は、ブンガ・マス・リマの西方に横たわる広大な亜大陸を領域とする国家である。さらに先には帝國西方諸侯領があり、国境を接している。
 その国土は熱帯林に始まり、高地と平原そして砂漠を有し、多くの人口を抱えている。
 この地に勃興する諸王国を纏め上げるのがザハーラ王国であり、もってザハーラ諸王国と号していた。
 『豊饒』王ゲズル・バーリシュの卓越した指導力のもと、ザハーラ王国は他を圧倒する経済力と軍事力、そして魔導力を使い、実質的な帝国を築き上げていた。
 その中の一つバールクーク王国も、実体は中央から統制を受ける領邦の一つである。実際、他国の文書上では『王』ではなく『太守』と記されることも多い。
 ザハーラ王は、軍役を差し出す義務を負ったバールクーク王国に対し、ブンガ・マス・リマ救援を命じたのだった。

(参事会議長殿の打った手はギリギリのところで間に合ったのだ。それを率いる者が少々尊大だからといって何のことがあろう)
 リユセ樹冠国の使者は心の中でそうつぶやいた。

「さて、ではかかるとするかのぅ。将軍、始めよ」
 バールクーク王の言葉に、全身を薄片鎧で固め、胸の中央にある巨大な護心鏡を煌めかせた将軍が進み出る。浅黒い肌に鷲鼻をそびやかせた彼は、口髭をふるわせながら、大音声で王に報告した。

「偉大なる我がバールクーク王に申し上げます! 眼下の敵勢はすでに崩れておりますれば、軽騎兵をもって追い立てこれを屠るが至当!」
 将軍の背後に数名の将校が歩みでて、ひざまずいた。
「ファラーシャ!」
「はっ!」
「ヤースーフ!」
「ははっ!」

「以上の二個軽騎兵団を差し向け、明朝陛下の朝餉がお済みになる頃には、敵将の素首を御覧に入れましょう!」

「よい」バールクーク王は、目を細めうなずいた。

「かかれ!」
 将軍の号令が発せられると、騎兵将校が弾き飛ばされるような勢いで駆け出した。間を置かず本営後方に待機していた騎兵集団に命令を告げる怒声が響き始めた。軍馬のいななきと鎖帷子の触れ合う音が辺りを満たす。
 たいまつを掲げた雑兵が周囲を照らす中、バールクーク王国軍二個軽騎兵団は、独特の甲高い鬨の声を響かせながら丘を駆け下り始めた。

 バールクーク王はでっぷりと肥えた身体を大儀そうにひねり、斜め後ろに控えるやや小振りな輿を見た。
「アイシュや、よく見ておくのじゃぞ。お前は余の後継としていずれこの軍を率いるのじゃ」
「はい、お父様。お任せ下さい」小振りな輿から、鈴を転がすような声色が返ってくる。その響きにはかすかな高慢さが滲む。
 輿には薄絹のベールが幾重にもかけられているため、中を伺い知ることは難しい。ただ、辺りの篝火に照らされ、薄くたおやかな姿が影法師として浮かんでいた。

「うむうむ。アイシュは聡いのう。のう、使者よ。リユセにもブンガ・マス・リマにも、これほど美しく聡明な王女はおらぬであろう?」

 目尻と頬の下がりきったバールクーク王の様子に、リユセ樹冠国の使者は表情一つ変えず「誠にその通りでございます」と、頭を垂れた。


(王ともあろうものが、親馬鹿か……まぁよい。それより、河畔の帝國軍を混乱に陥れていたのはいずこの軍だろうか? 我が同胞にそれほどの力は残っていないはずだが……)

 心中密かに首をひねるリユセの使者の眼下では、猛威を振るった帝國南方征討領軍が撤退に移る姿があった。


 2013年1月6日夜。
 およそ四月もの間、南瞑同盟会議領域で猖獗を極め、ついに本拠地まで攻め寄せた帝國南方征討領軍先遣兵団は敗北した。
 ザハーラ諸王国軍の来援を受けたブンガ・マス・リマ軍は市内の帝國軍の掃討に成功。帝國軍との前線は北方約20キロに位置するアスースまで後退することになる。


第4章 エピローグ

南瞑同盟会議大商議堂
ブンガ・マス・リマ中央商館街

2013年 1月6日 22時37分


「彼の軍勢は議長閣下が?」日本政府特使の村井は穏やかに尋ねた。
 尋ねられた参事会議長マーイ・ソークーンは少し驚いた表情を見せた。
「〈ニホン〉の方々は、よい耳をもっておられる。彼の軍勢は同盟会議の援兵、ザハーラ諸王国バールクーク王国軍です。我らが西の友邦ですな」
「間に合ったのですね」
 村井の言葉に、ソークーンは苦い表情を浮かべた。
「かろうじて……いや、果たして間に合ったのか。我らは多くを喪いました」
 大商議堂内部は、帝國軍の攻撃によってもたらされた粉塵と、戦後の喧騒に包まれている。バールクーク王国軍の参着と、帝國軍の撤退が明らかになるにつれ、室内は雰囲気は明るいものになりつつあったが、参事会を取り仕切るソークーンの表情は暗かった。
 それも仕方あるまい。村井は心中を察した。

 南瞑同盟会議は、かろうじて本拠地を守りきった。しかし、支払った代償は大きい。野戦軍は壊滅し、都市の三割は灰燼に帰した。市民の死者は集計すらできておらず、その経済的損失は計り知れない。
 そして、未だブンガ・マス・リマ北方領域を敵の手に委ねたままであるという事実は、商業同盟として致命傷となりかねなかった。

──それに。

「村井さん、案の定です」背後にさり気なく近付いてきた幹部自衛官が囁いた。彼には、ブンガ・マス・リマ首脳陣や市中の様子を探るよう指示を出してあった。

「やはり、予想通りですか……?」村井が好好爺然とした顔つきで言った。ただし、目は笑っていない。自衛官は、苦々しい口調で答える。

「実際共に戦った連中は別ですが、その他の参事や市民のかなりの数の中で、帝國軍を退けたのは援軍に来たバールクーク王国軍であるとの認識が主流となりつつあります」
「初動の混乱が痛かったねぇ。我々が後手に回っている間に、被害が出過ぎてしまった。不信に思う者も多くいるだろう」
「報告によれば、バールクーク王国軍は三万を超える兵力を誇示しつつ、西市街に進軍。市民に対して庇護下に入るよう喧伝している模様です。あれは宣撫工作に近い」

 控えていた外務省の専門官が言葉を継いだ。
「バールクーク王国がどのような性格を持つかは目下情報収集に当たっていますが、戦闘の経緯とその勢力から、今後同盟会議の方針決定に多大な影響力を行使することは間違いありません」
「困ったねぇ。本省からは安全保障条約の締結に向けた交渉を進めるように指示が来ているが、横槍が1ダースは入りそうだよ……」
 おそらく異世界から現れた我々に対し、バールクーク王国軍がすんなりと協力するということにはなるまい。今後の交渉は難しいものになるだろう。
 幹部自衛官が、ややこしいことになるくらいなら、と話し始めた。
「統幕は今回の戦訓を受け、充分な兵力を投入すると言ってきています。いっそ現地勢力は、邪魔にならない程度の協力態勢でも──」

 その時、会議室内で複数の鋭い警告の声が上がった。
 一瞬にして室内の空気が変化したことを察知した経験豊富な警護官と機動隊員が素早く反応する。彼らは警護対象である村井を中心に防壁を作り上げた。いざという時は攻撃から村井を守るための、ポリカーボネートとセラミック、そして肉でできた防壁だ。

 警護官の一人は退避するための手順として、まず脅威対象を特定しようとした。しかし、それらしきものはどこにも見当たらない。
「どこだ? 何が起きている?」困惑した声が機動隊員から上がる。

 会議室内のマルノーヴ人たちは、二通りに分かれていた。戦える者とそれ以外である。
 戦える者は各々の武器を抜き放ち、室内のある一点を向いていた。ソークーン参議会議長も手にしたスタッフを構え、アシュクロフトギルド長に至っては長剣を振りかぶり突進している。

 しかし、その場の日本人たちには、『敵』の姿が見えない。

「どういうことだ? 彼らは何と戦っているんだ?」
「何もいないぞッ!?」
「陣形を崩すな。特使閣下を守れ」

 魔術士が光の矢を放ち、アシュクロフトが虚空に向けて長剣を振り抜いた。何かを切り裂く生々しい音。断末魔の叫び。

 警護官たちが見ている前で、何もないはずの空間が揺らめき──そして、褐色の肌を血に染めた女が現れ、床に倒れた。
「〈悪疫〉だ! 帝國の雌犬どもだぞ」
「こんな所まで入り込んでいたか。出入り口を封鎖しろ、急げ!」
 衛士たちが口々に叫ぶ。魔術士が言った。
「アシュクロフト殿、この部屋にはもはや感じません」
 アシュクロフトが長剣の血を払いながら答える。
「探索を館内全域に広げよ」
「はッ! 」
「混乱に乗じて入り込んだとみえる。油断も隙もないな」


 いち早く冷静さを取り戻した村井がつぶやいた。
「魔法、というやつだろう……警部どうだ? どう思う」
 警護責任者の警部が、冷や汗を拭いながら答えた。彼は村井が何を尋ねたのか理解している。

「与太話では無かったのですな。あれが、『姿を消す』魔法だとして……いくつか試すべき手段はありますが、厄介ですな。このような施設内ならば対抗策は色々ありましょうが……」
 9ミリ拳銃をホルスターに収めた幹部自衛官が苦々しい口調で言った。
「三好一佐を殺ったのは奴らだ。くそ、でたらめな奴らめ。暗視装置か、熱源探知、または動体センサー……検証が必要です特使閣下。速やかに」

 村井はそれらの言葉を聞きながら、アシュクロフトの訝しむような視線を感じていた。彼ほどの手練れなら、すぐに我々に敵が見えていなかったことに気づくだろう。そう思った。
「彼らには対抗策があるようだ。今までは『我々が何をできないか』を彼らに隠して付き合ってきたが、今後はそうもいかんかもな」
「と、いいますと?」
「『魔法』を舐めると痛い目に遭うよ。我々は早く信頼できる相手を見極めなければならない──この世界で戦い抜くために」



ナバート亜大陸南方海域
2013年 1月7日 12時18分


 海碧色の海原がどこまでも広がっている。風は穏やかで、ビロードのようになめらかな水面は、わずかにうねりがあるのがわかる程度だ。
 ナバート亜大陸沿岸部を南に遠く離れたこのあたりの海域は、行き交う交易船の姿もない。

 翼長2メートルに及ぶカモメに似た海鳥の群れの中の一羽が、海面に一休みできそうな枝を見つけた。海鳥は高度を下げる。

 ところが、海面ににょっきりと突き出た枝は、みるみるうちにその数を増やした。そして、海碧色の水面が黒い影を映し出した。
 海鳥は、それを彼らを狙う大型海竜だと思ったのだろう。甲高い声で一鳴きすると、慌てた様子で高度を上げていった。


 それは、海竜では無かった。しかし、全くの間違いという訳でもない。影は数十秒の後、白波を立てながら水面を割り、漆黒の姿を海上に現した。


 その名を〈そうりゅう〉と言う。


 瑞祥動物の名を冠した海上自衛隊初のAIP潜水艦が、大湊湾からアラム・マルノーヴへつながる〈門〉を密かに越えてから、すでに二週間余りが過ぎていた。


 吸音タイルが貼られたセイルの上で、重々しい音と共にハッチが開かれると、機敏な動作で数名の人影が外に飛び出してきた。青色と濃紺色二種類の作業服に身を包んだ彼らは、皆一様に深呼吸をすると、それぞれが己の配置についた。

「やっぱり外の空気は最高だな。この瞬間のために俺は潜水艦乗りをやっているに違いない」
 〈そうりゅう〉艦長、木梨洋一二等海佐が軽口を叩いた。
「艦長の『潜水艦乗りをやる理由』は、これで17個目ですね」
「ん? そうだったか? まぁ、細かいことは気にするな。それだけ潜水艦が魅力的なんだ」
「はいはい」
 隣に立った航海長兼副長の大竹雅孝三等海佐がぞんざいな合いの手を入れる。幸運にも新鮮な空気を胸一杯吸い込みながら任務に就く見張り員は「また始まった」と聞き流した。

「レーダー、目視共付近に目標無しです、艦長」
 副長が照りつける日の光に目を細めながら報告した。木梨二佐は、うん、と大きくうなずくと「交代で乗員を上げろ。虫干しだ」と言った。

 彼の率いるAIP潜水艦〈そうりゅう〉は、極秘の任務を遂行すべく、異世界の大海原を西に向けて航海を続けていた。一度洋上で補給を受けた以外は、徹底的に人目を避けている。交易船が行き交う海域では、潜航するか潜望鏡深度を保ち続けてきたのだった。

その時、艦内へ通じるハッチから、よろよろと這い出てくる者がいた。青ざめた白い肌は不健康極まりない印象で、長い金色の髪はぺたりと顔に張り付いている。
 今にも倒れそうな顔色のその人物は、彫像のような整った顔をこれ以上無いくらいにしかめ、大きく息を吐いた。

「艦長どの。わたしはいま大いなる精霊に一言申し上げたい気分で一杯だ。『なぜ、このような理不尽な苦難をわたしに与えたもうたのですか? わたしが何かしましたか? 今季の供物は充分だったはずですが?』と」
 その人物──リユセ樹冠国『西の一統』百葉長、マウノ・エテラマッキは長く伸びた耳を力無くたれ下げた。浅い呼吸を繰り返している。

「艦内生活は、色々と難儀なようですな」
 木梨が気の毒そうに言った。
「わたしは森と海に生きる妖精族ですよ。役目の重要性はわかっているのですが、この船はあまりにも……。あなた方は、ヒト族というよりは、あの面倒くさい髭モグラどもに近いと思います! 狭いし臭いし、風を感じることができない。何とも冒涜的な船を作ったものです」
 エテラマッキは、早口でまくしたてた。よほど鬱憤が溜まっているらしかった。
「みなさん良くしてくれるのですが、だいたい食事もわたしには合いません。何で毎日毎日獣の肉をふんだんに使った料理ばかりなのですか! もっとこう、野草と豆を用いた質素な食事にすべきではありませんか? わたしのように美しく、長生きできますよ?」
「暴動が起きますな」木梨が斬って捨てる。
「うぬぬ」
 エテラマッキは、悔しげに口をつぐんだ。大竹が、申しわけなさそうに尋ねた。
「ところで、仕事の話をしたいのですが、現海域からあとどれくらいでしょう?」
 大竹の問いかけに、外の空気のお陰でようやく回復してきたエテラマッキは、静かにうなずくと目を閉じ、低い声で何かを詠唱し始めた。
 艦橋に小さなつむじ風が起きる。ぼんやりとした光が彼の肩口で光った。
 すっと、目を開く。

「今より北西に1日。それで陸が見えましょう」
 大竹が、エテラマッキの言葉を受けて、ジャイロコンパスを確認する。示された針路は真方位320度を指していた。
 エテラマッキが〈そうりゅう〉に乗艦した目的は、水先案内にある。彼は熟練した航海士兼外交官として、異界の船を目的地へ導くためにここにいるのだった。

「ようやく目的地か。そういえば『積荷』どのはどうしている? 副長」木梨が聞くと、大竹は肩をすくめた。
「ベッドでひっくり返っています。船酔いと閉鎖空間への怖れ。それにあれやこれやで。飯も喉を通らない様子です」
「……陸に着けば復活するさ。俺たちの任務はあれを無事に送り届けることだ」
「彼はよく耐えていますよ。初めて乗った潜水艦ですし」
「と言うか、『世界』からして違うからなぁ」木梨は短く刈り込んだ頭をかきながら言った。


「ソーナーから艦長、『パッシブ探知。方位023度』」
 電話を被った伝令の言葉に木梨は意識を向けた。自らソーナー室と繋がる送受話器を握る。
「何かわかるか?」
『音の感じは……鯨に近いですな。海洋生物の可能性が高いです。ただし、いままで聴いたことがない音です。でもってこいつは、間違いなくデカいですよ。近づいてます』
 普段は物静かな水測員長の声には抑えきれない興奮があった。
「どう思う? 副長」
「聴知方位は本艦の右63度。近づくとすれば脅威となりうるかも知れません」
「見張り、何か見えるか?」
「その方向、何も視認できません!」
 双眼鏡を構えた見張り員が海風に負けないように声を張り上げた。木梨は腕を組み唸った。未知の何かが本艦に近づいている。

「ピンを打ちますか?」副長が真剣な口調で言った。「少なくとも、距離と的針的速が分かります。それに『何』なのかも分かるかも……」
 アクティブソーナーで目標を探知できれば、音の変化や音質の違いからその物の動きや材質を探ることができる。木梨もその利点については理解している。
 いっちょ、試してみるか?
 木梨がそう考えたとき、エテラマッキが不意に声をかけてきた。
「艦長どの? ピン、とはもしかして以前この船が出していた『鳴き声』のことだろうか?」
「そうです。音の跳ね返りを測って、相手の位置や動きを探ります」木梨が説明した。

「それは、やめた方がよい」

 エテラマッキの表情はとても真剣だった。ゆっくりとした低い声で、続ける。

「この辺りには、様々な連中が棲んでいます。命知らずの交易船乗りを震え上がらせる巨獣たちが。わたしの叔父上もこの辺りで手足を失いました。確かに〈ソウリュウ〉は恐るべき船だが、奴らを侮るべきではありません。奴らの体躯はこの船に劣らない」

 ごくり。大竹三佐は思わず唾を飲んだ。思わずパッシブ探知方向を見た。きらきらと光る海面には何も見えない。

「やめとくか」木梨が言った。
「はぁ」
「この艦は轟天号じゃないし、俺も神宮司大佐じゃないから、マンダに出てこられても困る。刺激しないよう距離を開こう」
「賢明な判断です」エテラマッキが頷いた。


「ソーナー、方位変化知らせ」
『方位、左に変わります』
「右に取ろう。面舵、060度宜候」
 木梨の指示に従い、〈そうりゅう〉の全長84メートルの船体が大きく右に針路を変えた。
 木梨は、艦首が立てる白波を眺めながら(まぁ、大したロスにはなるまい。それはそうと、もしデカブツとやり合うとして、89式魚雷は通用するかな? 試してみてぇなあ)と思った。
 その気分が顔に出ていたらしい。

 ニヤニヤと笑う艦長の横顔を見て、大竹三佐は、また何か良からぬことを考えているぞと、嫌な顔をした。




ブンガ・マス・リマ西市街
2013年 1月7日 14時24分

 1月6日夜。
 帝國軍本営に対する陸上自衛隊戦車小隊の攻撃と、西の盟邦バールクーク王国軍の到着により、帝國軍は北方へと撤退した。商都は危ういところで虎口を脱したのだった。
 自衛隊側の損害は少なくない。先遣隊長三好一佐を始め幕僚団は本部とともに壊滅、普通科一個小隊が壊滅。全体で殉職者の数は100名に近い。海自もミサイル艇〈くまたか〉が大破、〈わかたか〉が小破し、陸戦隊にも被害が出ていた。

「大敗北だ」
 統合幕僚監部では幕僚が真っ青になっていた。100を超えるオーダーの死者を出したことに対して、各方面からの突き上げは激しいものになることは間違いなかった。
 しかし、日本政府に撤退の意志は無い。現地部隊には増援到着まで治安の維持と拠点守備命令が下されていた。
 柘植が率いる陸上自衛隊マルノーヴ先遣隊戦車小隊も、その中のひとつであった。


 通りのあちこちから、瓦礫を片付ける男たちの掛け声が響いている。人々は昨日の恐怖を振り払うように、精力的に復興へと動き始めていた。
 とはいえ、昨日までの商都を巡る攻防は人々に深い傷を与えている。広場の端に90式戦車を停止し、警備に当たる柘植の目にもそれは明らかだった。
 数千を超える人間が死んでいた。柘植自身、無造作に横たえられた死体の山を見ている。高温多湿のこの地では腐敗も早い。未だ行政機能は麻痺したままで、横たわる遺体は尊厳を回復されぬまま朽ち始めていた。


 車長席の柘植は自分に向けられた視線に気付いていた。この地の人々は遠慮がない。広場に鎮座する異形の物体と、それを操る男たちへの対応は大きく分けて二通りであった。

「騎士さま、騎士さま」旅装を解いたばかりなのか、足に頑丈な脚絆を巻いた中年の男が、柘植に呼びかけていた。乾いた泥があちこちにこびりついている。
 柘植が目を向けると、男の顔がぱっと明るくなった。よく見ると背後には照れくさそうに父親らしいその男に隠れる、二人の子供がいた。
「ああ、やはりあの時の騎士さまだ。昨日は危ないところをお救いくださりまことに有り難う御座いました。ほれ、お前たちも御礼を申し上げなさい」
「きしさま、ありがとうございました!」
「ました!」

 二人の男の子は、笑顔を満面に咲かせ元気に頭を下げた。どうやら昨日マワーレド河畔で危機を逃れた避難民らしい。柘植ははにかんで言った。
「どういたしまして。無事で良かった」

 父親は90式戦車を見上げると、感心したように言った。
「昨日はあの有様でよく見られませんでしたが、これは見れば見るほど厳めしい魔獣で御座いますなぁ」
「おとうさん、この中にまじゅうがいるの?」
「そうだぞ。異界の騎士さまが使役する魔獣がいるのだ。見なさいこの鎧を」
「おおきいね」
「おもくないのかな?」
「そりゃあ重いさ。それでも凄いはやさで動くのだ。〈ニホン〉の騎士さまたちがいてくだされば何も心配することはないよ」
 父親の言葉に、二人の男の子は大喜びで飛び跳ねた。柘植はその様子を微笑ましく見守った。魔獣か、この世界の人々が戦車を見たらそう思うしか無いのかもな。

 しばらくはしゃいだ父子は、もう一度深々と頭を下げると、雑踏の向こうへと去っていった。

 柘植はその様子を眺めながら、自分たちに向けられたもう一種類の視線に意識を向けた。
 それは、疑念・警戒・不信そういったものの集まりだ。部下からも話は聞いている。街の人間の中には、あからさまにはしないものの、自衛隊に対して良くない心証の者も多かった。
 無理もない。
 柘植は思った。初動の遅れ、防衛体制の不備、そして援軍としてのバールクーク王国軍の出現。自衛隊に守られなかった者たちが我々に不信感を抱くのは仕方のないことだ。そして、軍人が得体の知れない異物を警戒するのも当然のことだ。

 柘植の、ここ数日で以前より頬のこけてしまった、本来ならのんびりとした印象の丸顔が、鋭く歪んだ。

──あれは、カルフ?

 柘植の心中に痛みに似た何かが走った。視線の先にいたのは間違いなくカルフという名の少年だった。しかし、その控えめで優しかった顔には何の表情も無い。
 敬愛する衛士団を失い、柘植に「力を持ちながら、何故救ってくれなかったのか」と叫んだ少年は、ただ暗い瞳でこちらを見ていた。
 柘植は炎天下の車長席で微動だにできなかった。目をそらすこともできない。そのうちに、カルフは口髭を生やした数人の男たちに導かれるように、半壊した家屋の陰に消えていった。


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