古事記
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ゆかりの寺社(御朱印視点)
引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。
【おススメ度 ☆☆☆☆☆】御朱印帳があります。(売切御免)
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
鳥取県 | 白兎神社 | 鳥取市白兎603 | 白兎 |
【おススメ度 ☆☆☆☆★】ゆかりの御朱印が頂けます。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
鳥取県 | 賣沼神社 | 鳥取市河原町曳田 | 八上姫【平日は八上地区公民館にて拝受】 |
【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
和歌山県 | 伊太祁曽神社 | 和歌山市伊太祈曽558 | 木の俣くぐり |
鳥取県 | 赤猪岩神社 | 西伯郡南部町寺内232 | 赤猪岩 |
鳥取県 | 大石見神社 | 日野郡日南町上石見819 | 二度目の復活 |
【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
鳥取県 | 倭文神社 | 鳥取市倭文548-1 | 恋文 |
鳥取県 | 阿陀萱神社 | 米子市橋本623 | 多岐喜姫 |
鳥取県 | 多加牟久神社 | 鳥取市河原町本鹿387 | 八上姫 |
鳥取県 | 黒木神社 | 鳥取市河原町高福 | 八上姫 |
【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
島根県 | 湯の川温泉 | 出雲市斐川町学頭 | 八上姫 |
鳥取県 | 嶽古墳 | 鳥取市河原町曳田811-1 | 八上姫 |
鳥取県 | 清水井 | 西伯郡南部町清水川233 | 赤猪岩 |
鳥取県 | 御身洗池 | 西伯郡南部町清水川233 | 白兎 |
鳥取県 | 淤岐之島 | 鳥取市白兎 | 白兎 |
気多之前(気多岬) |
白兎海岸の西端に突出した岬で、白兎神が負傷して上陸された岬であります。 |
白兎神社 |
高尾山 |
社地の西方に当たり、天正年間 羽柴秀吉が此の所に陣し、大崎城(気高郡宝木)を攻めた所であると云われています。 一名本陣山とも言われていました。白兎神が負傷して伏して居られた山であります。 |
白兎神社 |
淤岐之島 |
気多之前から北方150メートル沖合にある神話の島で、白兎神が流れついた島だと云われています。 沖の平坦な所は千畳敷と言われ、東西に通ずる洞窟もあります。 最も高い所は10メートル余、頂上に黒松、緑草が育ち、四方の眺望は誠に美しいものがあります。 維新前、この島は鳥取池田藩主の遊覧所のあった所と言われています。 また島蔭は昔、漁夫の唯一の避難所となって居り、沿岸の漁夫は、このあたりを「神が下」と言っておりました 島の上には「あまんじゃく」の塚があるといわれています。 因伯教育の教本を見ると、「淤之島は、新世代の第三紀層に属し、地球上哺乳動物の初めて出現したる時代の生成なり、第四紀前期に入 り、ようやく人類の祖先とも見るべきものら出現したる形跡あり。第四紀後期には、人類は大に発達し、今日の社会を形成する。淤岐之 島の土層生成は、遠く第三紀であろうと考える。」と記述されています。 島と岬の間の波間に見え隠れする岩礁は、ワニの背に例えられます。 |
白兎神社 |
御身洗池 |
この池は、社前の凹所緑樹に蔽はれ周囲百メートルあまりの池で、往古は内海池の流出口にあたって居たので、水門と呼んで居たが、亀 井武蔵守が内海池を良田と化してから僅に此の池だけが残っています。 昔、内海より内海中村まで、一面が湖水となっており、池の周囲には蒲草が多く密生していたと云われています。 古事記の中で、白兎神が傷口を洗われた池、「水門」(みなと)であります。 この池は、旱天・豪雨の時でも水位の増減がないとされており、別名「不増不減の池」 とも呼ばれています。 |
白兎神社 |
身干山 |
社地の南方日当たりの良い砂丘で、頂上には松の木が生い茂っていたが、現在は砂を取り民家となっています。 白兎神が蒲の花を敷いて神体を干し給うた山であると云われています。 |
白兎神社 |
白兎神社 |
白兎神社は、白兎神を主神とし、保食神、豊玉比売(豊玉姫命)を合祀しています。 白兎神社は神話にも登場している「因幡の白兎」の神社と称えられ、主神は白兎大明神と呼ばれていた時代もありました。 鎮座する土地は、平成22年に「恋人の聖地」にも選ばれていますように、美しい白兎海岸に面した小高い砂丘上にあります。 神社からは、東に鳥取港、鳥取砂丘を眺め、西に神蹟であります気多之前、淤岐ノ島を眺めることができます。 また、大島、房島、鳥ケ島等が目の前に拡がり、漁船が波間を航行しています。 白兎神社の樹叢(じゅそう)は、日本海岸地方の原始林景を今に残している重要なものとして、昭和12年に国天然記念物に指定されまし た。 眼前の白兎海岸近くは、我が国におけるハマナスの自生南限地帯としても知られており、美しい眺望と共に、貴重な植物も先祖からの贈 り物として伝えられています。 この壮大な眺望は太古の昔からずっと親しまれてきたことでしょう。 |
白兎神社 |
赤猪岩神社 |
兄神たちに騙されて、真っ赤に焼いた大岩に潰され命を落とした大国主(オオクニヌシ)が、それを悲しんだ母神とふたりの女神の力に よって生き返ったとされる日本神話。それが、「大国主(オオクニヌシ)の再生神話」です。 この神話の舞台「伯伎國之手間山本」=「ほうきの国の手間(てま)の山本」を現在地として祀られているのが、鳥取県南部町の赤猪岩 神社です。大正6年創建の久清神社と要害山山頂にあった赤猪神社が、大正9年に合祀され現在の赤猪岩神社となりました。お社は最も 古い神社建築様式のひとつ、大社造です。 大国主命を主神とし、母神の刺国若比売命(サシクニワカヒメ)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、さらに、稲田姫命(イナダヒメミコ ト)を合祀しています。 |
南部町 |
清水井 |
八十神たちの策略で命を落とした大国主(オオクニヌシ)を蘇生するために遣わされたウムギヒメが、母乳とここ清水井の水で練った薬 を大国主の体に塗りつけたところ、大国主は息を吹き返しました。生き返った大国主の姿は、元のままの麗しい姿であったといいます。 |
南部町 |
大石見神社 |
大国主2度目の復活の地 大名牟遅(大国主の命)は南部町の赤猪岩神社での復活の後、腹違いの兄・八十神の命の嫉妬が和らぐのを大倉山(大蔵山)の麓にて隠 れ逃れたとも、また八十神の命に謀られ落命するが、母神の助けにより二度目の復活をしたとも言い伝えられます。 神紋は「亀甲の中に三つ葉柏」を表現しています。柏の葉は春の新芽が出るのを見届けるまで落葉しないことから「復活」にも無縁では ありません。 |
大石見神社 |
伊太祁曽神社 |
伊太祁曽神社の御祭神である五十猛命(いたけるのみこと)は『日本書紀』に木の神・植樹神として記されていますが、『古事記』では 因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)の続きの部分で大屋毘古神(おおやびこのかみ)の神名で登場し、いのち神として記されています。 兎を助けヤガミヒメと結ばれて幸せになった大国主神(おおくにぬしのかみ)ですが、やがて嫉妬する八十神(やそがみ)たちから様々 な嫌がらせを受けます。そして遂には生命を脅かされることになって行きます。心配した母神である刺国若姫(さしくにわかひめ)は、 大国主神を紀伊国の大屋毘古神の元へ行くように助言します。大屋毘古神は木の国に坐す五十猛命の別名でした。はるばるやってきた大 国主神から事情を聴いた大屋毘古神は木の俣をくぐらせて、大国主神の生命を救います。そして生命を助けられた大国主神は出雲国へ帰 り国造りを始めました。 この 『古事記』 に記される神話にちなみ、割拝殿の木の俣をくぐると大屋毘古神の御神徳により災難から逃れられると伝えられていま す。 木の俣くぐりの木は、古くより伊太祁曽神社の御神木として聳えていた樹齢800~1000年と云われる杉の木です。昭和37年に落 雷があり燃えてしまいましたが、外側が燃え残り煙突状になりました。それでもしばらくは生きていたようですが、やがて枯れてしまい ましたので伐採したものです。 神話になぞらえてつくり出したものではなく、自然の力で人がくぐることのできる穴ができ、しかも御神木だった樹木ということから、 いつしか古事記神話に登場する木の俣くぐりが現代に甦ったものとして、「厄難除け木の俣くぐり」と称されるようになりました。 |
伊太祁曽神社 |
八上姫
倭文神社 |
倭文(しとり)は、「しづり」とも読み、「しづ織り」という絹織物のことを指します。機織り(はたおり)を業(なりわい)とする倭 文部の民がこの地に居住し、祖神「倭文神・建葉槌命(たけはづちのみこと)」をご奉斎したと伝えられています。倭文神社は、全国各 地にあります。 当神社は、江戸時代には御祭神の一柱である大己貴命(おおなむぢのみこと=大国主命の別名)が七つの名を持っていたため、「七躰大明 神(ななたいだいみょうじん)」と呼ばれていました。 神話「稲羽の素兎(因幡の白兎)」で、白兎を助けた大国主命がこの地から八上姫に恋文(ラブレター)を書いたと伝えられています。(当 時は歌を詠んだものと思われます) この故事にちなみ、当神社では 「恋文奉納」をしています。あなたも大切な人に想いをつづってみませんか? 倭文神社は、 四柱の御祭神様をご奉斎しています。 |
倭文神社 |
杖突坂 |
気多之前を上った高尾山の中腹にある坂で、大国主命が、袋を負うて通りかかり、この先に山坂が無いからというので、この坂を下り、 杖を突き立てて去った。 その杖の跡から杖突清水が湧き出しました。 今も尚白砂の中から清水が湧き出ています。 恋坂と名づけられたのは、この坂で八上比売を恋い給うたからであると云われています。 |
白兎神社 |
恋島 |
杖突坂の上り口にあり、大国主命がこの島で八上比売を恋い給うた故に名づけられました。 安政5年6月(1858年)に、一番高い神楽岩の上に地元の若衆により石燈籠が建立されました。 |
白兎神社 |
多加牟久神社 |
景行天皇の御世に竹内宿禰(たけのうちのすくね)が熊襲征伐の途中、播州まで来た時、「因幡の金屋の洗足山に山賊(鬼)がでて近郷 の住民を苦しめるので退治してほしい」との訴えを聞き入れ部下の多加牟久命(たかむくのみこと)を差し向けた。 洗足山に対峙する高尾山に仮陣屋を置き、みごと鬼退治した。住民は大変喜び、仮陣屋の場所のいわれを教えた。その昔、大国主命(お おくにぬしのみこと)と八上姫(やかみひめ)が八十神(やそがみ)達に追われて逃げ込んだ場所であること。さらには大国主命が自分 から16世前の先祖にあたることなどから深い縁(えにし)を思い、九州には下らず神官としてこの地にとどまり大国主命を祀った。そ の子孫もこの社に多加牟久命も合わせて祀り、代々神主として奉仕した。これが神社の名の謂れです。 |
多加牟久神社御由緒 |
湯の川温泉 |
「火の山の ふもとの湯こそ 恋しけれ身をこがしても 妻とならめや」 神代の昔、出雲からやってきた大国の主命と恋に落ちた稲羽の国(八上姫)は、命にスセリヒメというおきさきがあることを知らず、出 雲の国に帰られた命を慕ってはるばる旅に出られました。かよわい足取りで厳しい旅を続けられ、出雲の入り海(宍道湖)を船で進まれ た八上姫は、南の山の谷あいに湯気を立ち上がっているのをご覧になりました。湯の泉があるに違いないと近づいてみると、そこには岩 の間からこんこんと湯が湧き出ているのです。旅の疲れをその温泉でいやされた八上姫は心身共にお元気になられ、いっそう美しい美人 神になられたと伝えられます。冒頭の歌は、稲羽の国にお帰りになるとき、ふたたび湯の川温泉に立ち寄られた八上姫のお歌です。 |
湯の川温泉 |
阿陀萱神社 |
古事記(712年)によれば大国主命は大勢の兄神様と一緒に八上姫へ求婚のため因幡国への途次、因幡の白兎を助けた縁で結ばれ出雲の直 会で多岐喜姫(当社祭神)が生まれ給う。因幡国へ里帰りの途中、多岐喜姫は榎原郷橋本邑の榎の俣に指を挟まれ此処にとどまり鎮守神 として祭祀された歴史ある古社です。また阿陀萱神社由緒書には合祀の宗像神社祭神を天平6年(735)9月15日安芸国厳島神社より勧請の 記述あり。 戦国時代は七尾城(当、宝石山山頂)の守護神として篤く崇敬され大永元年(1521)行松源太兵衛城主、出雲富田城主、尼子経久(1523 年)、米子城主吉川広家侯(1601年)より寄付あり。依って神領地も多く瑞光山清水寺地蔵院(安来市)が当社の別当を勤め永らく祭祀厳 重なり。 神社創建の年代不詳なれど旧くより阿陀萱大明神と称し榎原郷八ヶ邑の鎮守神であったが現在は榎原、吉谷、古市、橋本、の氏神様とし て祭祀継承されております。 |
阿陀萱神社御由緒 |
※「直会」には「なおえ」とルビが振られている。「直江」を指すか?
賣沼神社 |
神話・因幡の白うさぎに登場する「八上姫(やがみひめ)」を祀った神社とされます。八上姫は、因幡国の絶世の美女といわれ、神話・ 因幡の白うさぎは、大国主命が八上姫を尋ねる旅の途中でのお話で、大国主命に助けられたうさぎが、この八上姫との縁を結んだといわ れています。 神社に隣接して整備されている「八上姫公園」には、八上姫と大国主命のロマンを伝える恋物語が刻まれた石碑があり、石碑を順番に辿 りロマンを感じることができます。春には桜を楽しむこともでき、憩いの場所となっています。 |
鳥取県観光連盟 |
嶽古墳 |
古代―大国主命(おおくにぬしのみこと)が須佐男命(すさのおのみこと)の命令で国づくりを始める少し前の話である。 神々の里出雲で大国主命の異母兄弟八十神(やそがみ)達は、因幡の国八上の郷(現河原町)に美しい姫がいると伝え聞き、この八上 姫をめとろうと考えた。八十神達は、弟の大国主命に八上姫への贈り物をすべて持たせると、弟を待つことなく因幡の国へと向かった。 途中の海岸で傷ついた白ウサギが泣いていたが、八十神達はこれに誤った治し方を教えて笑いものにし、大国主命はわけを聞いて助け た。 さて、先に八上の郷にたどり着いた八十神達は八上姫に求婚したが、ことごとく断られてしまう。やがて遅れて着いた大国主命に八上 姫は「私の慕うお方はあなたです」と告げる。姫は、一目で人となりを判断できる聰明な女性だったのだ。 この二人のロマンスにちなんだ地名が鳥取市河原町には今も残っている。例えば、大国主命が贈り物をつめた袋を捨てた千代川の河原 が「袋河原」、恋文を書いたところが「倭文(しどり)」。また「円通寺」は、二人が縁を通じた「縁通路」に由来するとか。 ところで、その後の話。二人は八上の郷で幸せな結婚生活をはじめ、やがて子供をもうけた。これをきっかけに、姫は夫とともに出雲 に行くことになったが、そこに待ち受けていたのは正妻の須世理姫(すせりひめ)。気性が激しく嫉妬深い彼女と折りが合わず、八上姫 は子供を残して因幡へ帰る。 傷心の姫を郷の人々は優しく迎える。そして、姫は死後、売沼(めぬま)神社にまつられ、その裏山にある嶽(だけ)古墳は、姫の墓 と伝えられている。 |
鳥取県庁 |