古事記
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ゆかりの寺社(御朱印視点)
引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。
【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。
都道府県 | 寺社名 | 所在地 | 備考 |
富山県 | 高瀬神社 | 南砺市高瀬291 | 大国主命 |
滋賀県 | 日吉大社 | 大津市坂本5-1-1 | 大山咋神 |
京都府 | 松尾大社 | 京都市西京区嵐山宮町3 | 大山咋神 |
鳥取県 | 唐王神社 | 西伯郡大山町唐王725 | 須勢理毘売命 |
島根県 | 御井神社 | 出雲市斐川町直江2518 | 木俣神 |
島根県 | 三屋神社 | 雲南市三刀屋町給下865 | 宮居 |
兵庫県 | 生石神社 | 高砂市阿弥陀町生石171 | 少毘古那 |
新潟県 | 奴奈川神社 | 糸魚川市一の宮1-3-34 | 奴奈川姫 |
奈良県 | 大神神社 | 桜井市三輪1422 | 大物主神 |
島根県 | 朝山神社 | 出雲市朝山町1404 | 眞玉著玉之邑日女命 |
島根県 | 八野神社 | 出雲市矢野町725 | 八野若日女命 |
長野県 | 矢彦神社 | 上伊那郡辰野町小野3267 | 大己貴命・事代主神・建御名方神 |
島根県 | 日御碕神社 | 出雲市大社町日御碕455 | 素盞嗚尊 |
生石神社 |
〇生石神社御祭神について〇 神代の昔、大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が、天津神の命を受けて出雲国より播磨国に来られた時に、 二神が相談し国土を鎮めるに相応しい石造りの宮殿を建てようとしました。 一夜のうちに現在の形まで造ったが、工事半ばで阿賀の神(あがのかみ:播磨の土着の神)の反乱が起こり、宮殿造営を止めて現在の 神爪地区に多数の神様を集めて反乱を鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができませんでした。 しかし二神は、宮殿が未完成でも二神の霊はこの石に籠り、永劫に国土を鎮めんと言明されました。以来この宮殿は石宝殿(いしのほ うでん)、鎮の岩室(しずのいわや)と言われるようになりました。 生石神社では、大穴牟遅命と少毘古那命の二神を御祭神としています。 |
生石神社 |
唐王神社 |
「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」とは、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉でありますが、当社のご神 徳はこの地方に広くゆきわたっております。 ご祭神須勢理毘売の神様は、女神様で御父神様はあのご気性のはげしい素盞鳴命(すさのうのみこと)です。 当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、素盞鳴命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々 な方法で試されたのでした。 最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過すことでした。 大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れずどっと襲いかかって来たのです。その時すかさず須勢理毘売命は「この比 礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。 その次は、むかでと蜂の部屋でした。又火ぜめの試練もありましたが、その都度姫のご神徳によって危険をのがれられ目出度くご夫婦と なられました。 後御子事代主命の神々と共に力を合わせてこの国の農業の開拓、医療の進展、温泉の開発等と人々の福祉を進められたご功績は甚大なも のがあります。 この神社は、この須勢理毘売命を崩った地として、以前には毎年出雲大社から祭官が参向されていたそうであります。 現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、ご本殿下の砂をいただいて田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にま けばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水 は如何なる旱祓にも涸れたこともなく(※)、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれて居ります。 旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。又芸能奉納や名 物「どじょう汁」の売店もあります。 |
唐王神社 |
三屋神社 |
出雲国風土記にも記された古社。出雲大社と同じ神紋を持ち、大国主命がここに宮居を置いたと伝えられる。 大神の御門此ゝに在り、故に御門屋と云ふ。(神亀3年三屋と改む) ○社号の由来は所造天下大神大穴特命が八十神を出雲の青垣山の内に置かじと詔りて、此処に宮居を定め国土経営に端緒をお開きになっ た。 ○出雲国内に於て大神の神地と神戸が風土記選上当時に置かれた場所は他の一か所もない。 神の御門と神戸を社号とした神社が全国に他に一社もないことは特筆に値する。 |
島根県観光連盟 |
奴奈川神社 |
天津神社に向かい左手に位置するのが、奴奈川神社です。 かつて奴奈川の郷に君臨した首長、奴奈川姫と「賢し女」「麗し女」といわれた奴奈川姫に求婚にやって来たと言われる大国主の命を祀 っています。 |
糸魚川市観光協会 |
御井神社 |
御井神社および、ご祭神である木俣神の記述は、「古事記」に描かれている大国主の神話で確認することができます。 その大国主の神話には、「八上姫(やかみひめ)は大国主命のお妃・須世理姫を恐れて、御子を木の俣にかけて因幡へお帰りになった。 その御子の名を木俣の神、またの名は御井の神という」という形で紹介されております。 |
御井神社 |
大神神社 |
当社の創祀に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおお かみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」 と三輪山に祀られることを望んだとあります。 また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であ ると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御 魂として顕現され、三輪山に鎮まられたということです。 この様に記紀の神話に創祀の伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご 祭神の神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。 そして、ご祭神がお山に鎮まるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原 初の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。 「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神天皇の時代には国造り神、国家の守 護神として篤く祀られました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさの まつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観元年(859)に最高位の正一位となりました。延喜式の社格は官 幣大社で、のちに大和国一之宮となり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。 中世には神宮寺であった大御輪寺や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入る と幕府により社領が安堵されて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社となりました。現在も国造りの神 様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。 |
大神神社 |
朝山神社 |
主祭神眞玉著玉之邑日女命は神魂命の御子にして姿容端正淑徳玉の如し坐し坐せば「大巳貴命」娶り給いて毎朝に通い坐しき故、朝山と 云う」と出雲風土記に記さる。 当社の創立については、当地方の神楽歌に「ありがたや宇比多伎山の宮造りこれぞ社の初めなるらむ」と歌われる如く、余りにも古く古 典に依れば出雲風土記に淺山社、延喜式神名帳に朝山神社と記さる。 当社は往古より山美しく水清き宇比多伎山に御鎮座坐し坐し位置を移せしことなく故に中世より宇比多伎大明神とも申し奉る。 天武天皇以来皇室を始め毛利氏、松平氏等領主の崇敬厚く古文書に依れば毛利氏出雲国を領せし時の左の棟礼あり |
朝山神社御由緒 |
高瀬神社 |
御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国 成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。 越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳天皇の斉衝元年に従 三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。 また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る地名によって、往時 の盛大さを偲ぶことが出来ます。 戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12 年に国幣小社に昇格されました。 大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣 戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。 |
高瀬神社 |
※御祭神=大国主命
日吉大社 |
当社には東西両本宮があり、東本宮の御祭神大山咋神は、古事記神代の巻に「大山咋神亦名山未之大主神此神者生近淡海国之日枝 山……」と記されている。日枝山頂から今の地に移し祀られたのは、崇神天皇七年と禰宜口伝抄にある。又西本宮の御祭神大己貴神は 「天智天皇七年戊辰三月三日詔鴨賀嶌八世孫宇志麿祭大和国三輪坐大己貴神於比叡山口日大比比叡宮」と禰宜口伝抄にある。 元慶四年、西本宮御祭神正一位(三代実録)。寿永二年、東本宮御祭神正一位、二十二社注式。長暦三年、二十二社に加えられ、延喜式内 名神大社でもある。明治四年官幣大社列班。昭和三年官幣大社祭神御増座、謂ゆる東西両本宮が官幣大社に列せられたのである。行幸は 創祀以来二十数回を数えるが、中でも第五十代桓武天皇が延暦十年四月第二ノ申日より七日間、日吉大社に参籠ましまして行在所を設け られ、勅願に依り大比叡、小比叡の神輿二基の御造進が特記される。神佛習合に関しては、天台宗の守護神として延暦寺と密接な関係を 有し、歴史的にも天台教学の上にも現代に至るまで大きな影響を及ぼしている。戦国の武将は並べて崇敬が篤く、中でも秀吉、家康の山 王信仰の篤さは日吉三橋(重文)、日吉東照宮(重文)に文化遺産として残されている。 元亀の乱により社殿及び神輿は烏有に帰したが、天正十四年から逐次再建された。全国にある三八〇〇余社の分霊社の総本宮である。 例祭である山王祭には古式祭がよく継承されていて、四月十二日山頂の牛尾神社、三宮神社より東本宮拝殿に神輿が舁ぎおろされる午の 神事、同十三日に斎行される献茶式、未の御供、花渡式、宵宮落等未の神事、十四日神幸祭で神輿が唐崎に湖上渡御し、粟津の御供の神 事が斎行される等特に有名である。(県選択)(市指定)。また元旦暁闇に斎行される大戸開神事には京都の片山能太夫による「日吉の翁」 が奉舞される。 |
滋賀県神社庁 |
松尾大社 |
当社の御祭神“大山咋神”は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地 方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始 まりと伝えられております。 |
松尾大社 |
矢彦神社 |
当神社は、信濃国二之宮であり、上伊那郡五十四か村の総鎮守であります。 遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれました折、御子事代主命・建御名方命をしたがえて、この地にお立寄りになったと 伝えられております。 古くから、皇室の御崇敬が厚く、勅使の御差遣もしばしばありました。 欽明天皇の御代、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿におまつりし、矢彦神社としてのかたちがととのいま した。そして例祭日を毎年、八朔(旧八月朔日)と定め田ノ実祭(憑祭)といわれました。 天武天皇の御代に勅使を下向、新宮を造營し、正遷宮祭と御柱祭とが七年毎の式年祭と定められました。白鳳二年(六七四年)のこと であります。 安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曽山林より伐り出し社殿を造營し、以後約七百年にわたって宮材を木曽山林から出材されること になりました。 以来、鎌倉から徳川時代に至るまで、武田晴信(信玄)、勝頼をはじめ、徳川幕府の崇敬厚く、再三社殿を造營されました。とくに、 慶安二年(一六四九年)、徳川家光より、神領として、高十石、及び付属山林諸役免除の公文御朱印状を献納されました。 明治天皇の御代、明治五年(一八七二年)社格が郷社となり、明治十四年(一八八一年)有栖川宮熾仁親王殿下より神号の額字を賜り ました。 明治二十七年(一八九四年)十月一日明治遥拝殿を創建。明治天皇の生祠明治宮は、わが国でもはじめてのものであります。 明治三十三年(一九〇〇年)社格が県社に昇格。御造營材の御下賜は昭和七年(九三二年)まで続き、「天賜材式年造營神社」と称せ されるにいたりました。 昭和十一年(一九三六年)五月七日、巢山沢御料地を御造営材供給の備林として二十四町歩余の山林御下賜の天恩をうけました。 |
矢彦神社現地看板 |
日御碕神社 |
島根半島の西端に位置する日御碕神社は、『出雲国風土記』に「美佐伎社」と記される歴史ある神社です。神社は下の宮「日沉宮(ひし ずみのみや)」と上の宮「神の宮」の上下二社からなり、両本社を総称して「日御碕神社」と呼ばれます。 花崗岩の鳥居の奥に朱の楼門が鮮やかに映え、松林を背景に荘厳な雰囲気が漂います。 楼門をくぐり、右手の小高いところには「神の宮」があり、こちらには素盞嗚尊(スサノオノミコト)が祀られています。 出雲の国造りをしたスサノオが、根の国(黄泉国)より「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏 葉は風に舞いこの神社背後の「隠ヶ丘」に止まったということです。 その後スサノオの五世の孫、天葺根命(アメノフキネノミコト)がこの地にスサノオを奉斎したといわれています。 |
出雲観光協会 |