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根の堅洲国

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古事記

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原文 現代語訳 備考
故、隨詔命而、參到須佐之男命之御所者、其女須勢理毘賣出見、爲
目合而、相婚、還入、白其父言「甚麗神來。」
スサノヲノミコトの御所に到着し、迎えに出てきたスセリヒメに会
い、互いに一目惚れしました。スセリヒメは父君に「大変立派な神
様がおいでになりました。」と申されました。
爾其大神出見而、告「此者、謂之葦原色許男。」卽喚入而、令寢其
蛇室。
スサノヲノミコトは「この者はオオクニヌシノカミだ。」と言い、
招き入れて蛇のいる部屋に寝させることにしました。
葦原色許男(アシハラノシコオ)=大国主神(オオクニヌシノカミ)以下同。
於是其妻須勢理毘賣命、以蛇比禮二字以音授其夫云「其蛇將咋、以
此比禮三擧打撥。」
そこでスセリヒメノミコトが蛇の領巾を渡しながら「蛇が襲ってき
たら、この領巾を三度振って打ち払いなさい。」と言いました。
故、如教者、蛇自靜、故平寢出之。 教えられた通りにすると蛇が静かになったので、ぐっすりと寝るこ
とができました。
亦來日夜者、入吳公與蜂室、且授吳公蜂之比禮、教如先、故平出之
次の夜は百足と蜂の部屋でしたが、また百足と蜂の領巾をもらい、
ぐっすりと寝ることができました。
亦鳴鏑射入大野之中、令採其矢、故入其野時、卽以火廻燒其野、 次の日は、オオクニヌシノカミに大野原の中に射った鏑矢を捕って
くるように命じ、野原に入った時に火をつけて焼き囲みました。
根堅州国にも昼夜の概念、野の存在があるので、地底国ではない?
於是不知所出之間、鼠來云「內者富良富良此四字以音、外者須夫須
此四字以音」如此言故、蹈其處者、落隱入之間、火者燒過。爾其
鼠、咋持其鳴鏑出來而奉也、其矢羽者、其鼠子等皆喫也。
脱出できずに困っていると、鼠が出てきて「内はほらほら、外はす
ぶすぶ。」と言うので、鎮火するまで鼠の巣穴に隠れていました。
爾其鼠、咋持其鳴鏑出來而奉也、其矢羽者、其鼠子等皆喫也。 そこで鼠が鏑矢を咥えて来ました。ただし、矢羽根は鼠の子どもが
齧ってしまっていました。
於是、其妻須世理毘賣者、持喪具而哭來、其父大神者、思已死訖、
出立其野。
スセリヒメは泣きながら葬式の道具を持って、スサノヲノミコトも
死んだと思いながら野に来てみると、オオクニヌシノカミは無事で
した。
爾持其矢以奉之時、率入家而、喚入八田間大室而、令取其頭之虱、
故爾見其頭者、吳公多在。
そこで家に連れ帰り、大広間に呼び入れて、頭の虱を取らせました
が、頭を見ると百足がいっぱいいます。
於是其妻、取牟久木實與赤土、授其夫、故咋破其木實、含赤土唾出
者、其大神、以爲咋破吳公唾出而、於心思愛而寢。
スセリヒメに渡された椋の木の実を齧り、赤土を口に含んで吐き出
すと、スサノヲノミコトは百足をかみ殺していると思い、感心しな
がら寝てしまいました。
爾握其神之髮、其室毎椽結著而、五百引石取塞其室戸、 そこでスサノヲノミコトの髮を大広間の屋根に結びつけ、大きな岩
で大広間の戸口を塞ぎました。
負其妻須世理毘賣、卽取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而、
逃出之時、其天詔琴、拂樹而地動鳴。
スセリヒメを背負い、宝物の大刀や弓矢、また美しい琴を持って逃
げようとした時に、その琴が樹に触れて音を立てました。
故、其所寢大神、聞驚而、引仆其室、然解結椽髮之間、遠逃。 音に驚いたスサノヲノミコトが起き上がったため、大広間は崩落し
ました。屋根に結んだ髮を解く間に、二人は遠くまで逃げました。
故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰 黄泉比良坂まで追いかけたところで、遠くに見えるオオクニヌシノ
カミに
「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦
追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其
我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津
石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以
而居。是奴也。」
「持ち出した大刀や弓矢で、兄弟神を坂の上へと河の瀬へと追い払
い、オオクニヌシノカミとしてスセリヒメを正妻とし、ウカの山の
山本の、大磐石の上に宮柱を太く立て、高天原に届くほどの棟木を
上げて住めよ、こ奴め。」と呼びかけられました。
三屋神社
スサノヲノミコト隠棲の地。 日御碕神社
故、持其大刀・弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥
、始作國也。
そこでその大刀・弓を使って、兄弟神を坂の上に追い伏せ、河の瀬
に追い払った後、国を作り始めました。
故、其八上比賣者、如先期、美刀阿多波志都。此七字以音。故、其
八上比賣者、雖率來、畏其嫡妻須世理毘賣而、其所生子者、刺挾木
俣而返、
かのヤガミヒメとは約束通りに結婚しました。そのヤガミヒメは子
供を連れて来ましたが、正妻のスセリヒメを恐れ、子供を木の俣に
挟んで帰ってしまいました。
故名其子云木俣神、亦名謂御井神也。 ですからその子の名をキノマタノカミと申します。またの名はミイ
ノカミとも申します。
御井神社
此八千矛神、將婚高志國之沼河比賣、幸行之時、到其沼河比賣之家
、歌曰、
このオオクニヌシノカミが、越の国のヌナカハヒメと結婚するため
、ヌナカハヒメの家に行ってお詠みになりました歌は、
奴奈川神社
八千矛神(ヤチホコノカミ)=大国主神(オオクニヌシノカミ)以下同。
夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖 登富
登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖 久波志賣遠
阿理登伎許志弖 佐用婆比爾 阿理多多斯 用婆比邇 阿理加用婆
勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖 淤須比遠母 伊麻陀登加泥婆 
遠登賣能 那須夜伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆
良比 和何多多勢禮婆 阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴 佐怒都登理 
岐藝斯波登與牟 爾波都登理 迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留
登理加 許能登理母 宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加
比 許登能 加多理其登母 許遠婆
八千矛の 神の命は 八島国 妻枕きかねて 遠遠し 高志の国に
賢し女を 有りと聞かして 麗し女を 有りと聞こして さ婚ひ
に あり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も いまだ解かず
て 襲をも いまだ解かねば 嬢子の 寝すや板戸を 押そぶらひ
我が立たせれば 引こづらひ 我が立たせれば 青山に ぬえは鳴
きぬ さ野つ鳥 雉はとよむ 庭つ鳥 鶏は鳴く 心痛くも 鳴く
なる鳥か この鳥も 打ち止めこせね いしたふや 天馳使 事の
語言も 是をば
爾其沼河比賣、未開戸、自內歌曰、 そこで、そのヌナカハヒメが、戸を開けずに家の内から詠んだ歌は
夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆 和何許許
呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米 能知波 那杼
理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾 伊斯多布夜 阿麻波世
豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠婆
八千矛の 神の命 ぬえ草の 女にしあれば 我が心 浦渚の鳥ぞ
今こそは 我鳥にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は な死せ
たまひそ いしたふや 天馳使 事の 語言も 是をば
阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能
惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能 和加
夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻
岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠 阿夜爾 那古斐支許志 夜知富許
能 迦微能美許登 許登能 迦多理碁登母 許遠婆
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄
え来て 栲綱の 白き腕 沫雪の 若やる胸を そだたき たたき
まながり 真玉手 玉手さし枕き 股長に 寝は寝さむを あやに
な恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 事の 語言も 是をば
故、其夜者、不合而、明日夜、爲御合也。 それで、その夜は逢わずに、翌晩に逢われました。
又其神之嫡后、須勢理毘賣命、甚爲嫉妬、故其日子遲神、和備弖
字以音
、自出雲將上坐倭國而、束裝立時、
スセリヒメノミコトは、大変嫉妬深い方だったので、オオクニヌシ
ノカミは心憂く思い、出雲国から大和国に向かう時に、
片御手者、繋御馬之鞍、片御足、蹈入其御鐙而、歌曰、 片手は馬の鞍に懸け、片足はその鐙に踏み入れて、詠われた歌は、
奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登
理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受 幣都那美 曾邇
奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠 麻都夫佐邇 登理與曾比
於岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美
曾邇奴棄宇弖 夜麻賀多爾 麻岐斯 阿多泥都岐 曾米紀賀斯流邇
斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登
岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等 牟良登
理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那迦士登波
那波伊布登母 夜麻登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加
佐麻久 阿佐阿米能 疑理邇多多牟叙 和加久佐能 都麻能美許登
許登能 加多理碁登母 許遠婆
ぬばたまの 黒く御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る
時 はたたぎも これは適さず 辺つ波 そに脱き棄て そに鳥の
青き御衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎ
も 此適はず 辺つ波 そに脱き棄て 山県に 蒔きし あたね舂
き 染木が汁に 染め衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見
る時 はたたぎも 此し宜し いとこやの 妹の命 群鳥の 我が
群れ往なば 泣かじとは 引け鳥の 我が引け往なば 泣かじとは
汝は言ふとも 山処の 一本薄 項傾し 汝が泣かさまく 朝雨の 
霧に立たむぞ 若草の 妻の命 事の 語言も 是をば
爾其后、取大御酒坏、立依指擧而歌曰、 そこでスセリヒメが酒盃を手に立ち添いながら詠われた歌が、
夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 遠邇
伊麻世婆 宇知微流 斯麻能佐岐耶岐 加岐微流 伊蘇能佐岐淤知
受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠
岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯
多爾 牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾
阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀
多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛毛那賀邇 
伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世
八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝こそは 男に坐せば 打ち廻
る 島の埼埼 かき廻る 磯の埼落ちず 若草の 妻持たせらめ 
吾はもよ 女にしあれば 汝を除て 男は無し 汝を除て 夫は無
し 綾垣の ふはやが下に 苧衾 柔やが下に 栲衾 さやぐが下
に 沫雪の 若やる胸を 栲綱の 白き腕 そだたき たたきまな
がり 真玉手 玉手さし枕き 股長に 寝をし寝せ 豊御酒奉らせ
如此歌、卽爲宇伎由比四字以音而、宇那賀氣理弖六字以音、至今鎭
坐也。此謂之神語也。
そこで盃を取り交わして、手を懸け合あって、今日までも鎮まって
おいでになります。これらの歌は神語と申す歌曲です。
スセリヒメが亡くなった地 唐王神社
故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神・多紀理毘賣命、生子、阿遲
字以音
鉏高日子根神、次妹高比賣命、亦名・下光比賣命、此之阿遲
鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。
このオオクニヌシノカミが宗像の沖津宮のタギリヒメノミコトと結
婚して生んだ子は、アヂスキタカヒコネノカミ、次にタカヒメノミ
コト、またの名はシタテルヒメノミコトであります。このアヂスキ
タカヒコネノカミは、今はカモノオオミカミと申す神樣であります
オオクニヌシノミコト
大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。 オオクニヌシノカミが、またカムヤタテヒメノミコトと結婚して生
んだ子は、コトシロヌシノカミです。
亦娶八嶋牟遲能神自牟下三字以音之女・鳥耳神、生子、鳥鳴海神。
訓鳴云那留。
またヤシマムチノカミの娘のトリトリノカミと結婚して生んだ子は
、トリナルミノカミです。
此神、娶日名照額田毘道男伊許知邇神田下毘、又自伊下至邇、皆以
生子、國忍富神。
この神がヒナテリヌカダビチヲイコチニノカミと結婚して生んだ子
は、クニオシトミノカミです。
此神、娶葦那陀迦神自那下三字以音亦名・八河江比賣、生子、速甕
之多氣佐波夜遲奴美神。自多下八字以音。
この神がアシナダカノカミ、またの名はヤガハエヒメと結婚して生
んだ子は、ツラミカノタケサハヤヂヌミノカミです。
此神、娶天之甕主神之女・前玉比賣、生子、甕主日子神。 この神がアメノミカヌシノカミの娘のサキタマヒメと結婚して生ん
だ子は、ミカヌシヒコノカミです。
此神、娶淤加美神之女・比那良志毘賣此神名以音生子、多比理岐志
麻流美神。此神名以音。
この神がオカミノカミの娘のヒナラシヒメと結婚して生んだ子は、
タヒリキシマミノカミです。
此神、娶比比羅木之其花麻豆美神木上三字、花下三字、以音之女・
活玉前玉比賣神、生子、美呂浪神。美呂二字以音。
この神がヒヒラギノソノハナマヅミノカミの娘のイクタマサキタマ
ヒメノカミと結婚して生んだ子は、ミロナミノカミです。
此神、娶敷山主神之女・青沼馬沼押比賣、生子、布忍富鳥鳴海神。 この神がシキヤマヌシノカミの娘のアヲヌマヌオシヒメと結婚して
生んだ子は、ヌノオシトミトリナルミノカミです。
此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。度美二字以音。 この神がワカヒルメノカミと結婚して生んだ子は、アメノヒバラオ
ホシナドミノカミです。
此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神。 この神がアメノサギリノカミの娘のトホツマチネノカミと結婚して
生んだ子は、トホツヤマザキタラシノカミです。
右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神。 以上ヤシマジヌミノカミからトホツヤマザキタラシノカミまでを十
七代の神と申します。
数が合わない。
故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、
內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。
そこでオオクニヌシノカミが出雲の御大の御埼においでになった時
に、波の上を蔓芋のさやを割って船にし、剥いだ蛾の皮を着物にし
て寄って来る神様があります。
爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言
多下四字以音
その名を聞きましたけれども答えません。またお供の神達も皆知り
ませんでした。ところがひきがえるが言うには、
「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白 「これはクエビコが知っているはずです。」と申しましたから、そ
のクエビコを呼んでお尋ねになると、
「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾
、白上於神產巢日御祖命者、答告
「これはカムムスビノカミの御子でスクナビコナノカミです。」と
申しました。カムムスビノカミに申し上げたところ、
「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以
音。
故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。」
「確かに私の子だ。子どもの中でも私の指の間からこぼれて落ちた
子どもです。お前はオオクニヌシノカミと兄弟となってこの国を作
りなさい。」と仰せられました。
故自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。 それでオオクニヌシノカミとスクナビコナは、お二人でこの国を作
り堅めたのです。
生石神社
然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。 後に、スクナビコナノカミは、常世国へ行ってしまいました。
故顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也
このスクナビコナノカミのことを申し上げたクエビコというのは、
今にいう山田の案山子のことです。
此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。 この神は足は歩きませんが、天下のことを何でも知っている神様で
す。
於是大國主神、愁而告「吾獨何能得作此國、孰神與吾能相作此國耶
。」
そこでオオクニヌシノカミが、「私ひとりではどうやっても国を造
れません。誰と一緒に国を造ればよいでしょう。」と嘆きました。
是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不
然者、國難成。」
この時に海上を輝きながらやってきた神様が「私を祀ってくれたな
ら、国造りを手伝いましょう。そうしないと国造りは難しいでしょ
う。」と仰せられました。
爾大國主神曰「然者、治奉之狀奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭
之青垣東山上。」此者、坐御諸山上神也。
オオクニヌシノカミが「どのようにお祀りしましょうか。」と尋ね
ると、「私を大和国の東の青々とした山の上に祀りなさい。」と仰
せられました。これは御諸の山においでになる神樣です。
大神神社
北国御開拓 高瀬神社
信州御開拓 矢彦神社
オオクニヌシノカミの妻、眞玉著玉之邑日女命 朝山神社
故、其大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比賣、生子、 さて、オホトシノカミが、カムイクスビノカミの娘のイノヒメと結
婚して生んだ子は、
大國御魂神、 オホクニミタマノカミ、
次韓神、 次にカラノカミ、
次曾富理神、 次にソホリノカミ、
次白日神、 次にシラヒノカミ、
次聖神。五神。 次にヒジリノカミの五神です。
又娶香用比賣此神名以音生子、大香山戸臣神、 またカグヨヒメと結婚して生んだ子は、オホカグヤマトミノカミ、
次御年神。二柱。 次にミトシノカミの二神です。
又娶天知迦流美豆比賣訓天如天、亦自知下六字以音生子、奧津日子
神、
またアメシルカルミヅヒメと結婚して生んだ子はオキツヒコノカミ
⑧❶
次奧津比賣命、亦名、大戸比賣神、此者諸人以拜竈神者也、 次にオキツヒメノミコト、またの名はオホヘヒメノカミです。これ
は皆様の祀っている竈神であります。
⑨❷
次大山咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山
、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也、
次にオホヤマクヒノカミ、またの名はスヱノオホヌシノカミです。
これは近江国の比叡山においでになり、また葛野の松尾においでに
なる鏑矢をお持ちになっている神様であります。
日吉大社
松尾大社
⑩❸
次庭津日神、 次にニハツヒノカミ、 ⑪❹
次阿須波神此神名以音 次にアスハノカミ、 ⑫❺
次波比岐神此神名以音 次にハヒキノカミ、 ⑬❻
次香山戸臣神、 次にカグヤマトミノカミ、 ⑭❼
次羽山戸神、 次にハヤマトノカミ、 ⑮❽
次庭高津日神、 次にニハノタカツヒノカミ、 ⑯❾
次大土神、亦名、土之御祖神。九神。 次にオホツチノカミ、またの名はツチノミオヤノカミの九神です。 ⑰❿
数が合わない。
上件大年神之子、自大國御魂神以下、大土神以前、幷十六神。 以上オホトシノカミの子のオホクニミタマノカミからオホツチノカ
ミまで合わせて十六神です。
数が合わない。
羽山戸神、娶大氣都比賣自氣下四字以音神、生子、 さてハヤマトノカミがオホゲツヒメノカミと結婚して生んだ子は、
若山咋神、 ワカヤマクヒノカミ、
次若年神、 次にワカトシノカミ、
次妹若沙那賣神自沙下三字以音 次に女神のワカサナメノカミ、
次彌豆麻岐神自彌下四字音 次にミヅマキノカミ、
次夏高津日神、亦名、夏之賣神、 次にナツノタカツヒノカミ、またの名はナツノメノカミ、
次秋毘賣神、 次にアキヒメノカミ、
次久久年神久久二字以音 次にククトシノカミ、
次久久紀若室葛根神。久久紀三字以音。 次にククキワカムロツナネノカミです。
上件羽山之子以下、若室葛根以前、幷八神。 以上ハヤマトノカミの子のワカヤマクヒノカミからワカムロツナネ
ノカミまで合わせて八神です。

ゆかりの寺社(御朱印視点)

引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。

【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
富山県 高瀬神社 南砺市高瀬291 大国主命
滋賀県 日吉大社 大津市坂本5-1-1 大山咋神
京都府 松尾大社 京都市西京区嵐山宮町3 大山咋神
鳥取県 唐王神社 西伯郡大山町唐王725 須勢理毘売命
島根県 御井神社 出雲市斐川町直江2518 木俣神
島根県 三屋神社 雲南市三刀屋町給下865 宮居
兵庫県 生石神社 高砂市阿弥陀町生石171 少毘古那
新潟県 奴奈川神社 糸魚川市一の宮1-3-34 奴奈川姫
奈良県 大神神社 桜井市三輪1422 大物主神
島根県 朝山神社 出雲市朝山町1404 眞玉著玉之邑日女命
島根県 八野神社 出雲市矢野町725 八野若日女命
長野県 矢彦神社 上伊那郡辰野町小野3267 大己貴命・事代主神・建御名方神
島根県 日御碕神社 出雲市大社町日御碕455 素盞嗚尊



生石神社
 〇生石神社御祭神について〇
神代の昔、大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が、天津神の命を受けて出雲国より播磨国に来られた時に、
二神が相談し国土を鎮めるに相応しい石造りの宮殿を建てようとしました。
一夜のうちに現在の形まで造ったが、工事半ばで阿賀の神(あがのかみ:播磨の土着の神)の反乱が起こり、宮殿造営を止めて現在の
神爪地区に多数の神様を集めて反乱を鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができませんでした。
しかし二神は、宮殿が未完成でも二神の霊はこの石に籠り、永劫に国土を鎮めんと言明されました。
以来この宮殿は石宝殿(いしのほ
うでん)、鎮の岩室(しずのいわや)と言われるようになりました。
生石神社では、大穴牟遅命と少毘古那命の二神を御祭神としています。
生石神社

唐王神社
「まーむしまむし、よーけよけ、唐王御前のお通りだ」とは、山の茂みや草むらなどにわけ入る時の唱え言葉でありますが、当社のご神
徳はこの地方に広くゆきわたっております。
ご祭神須勢理毘売の神様は、女神様で御父神様はあのご気性のはげしい素盞鳴命(すさのうのみこと)です。
当時賢明で御徳高く信望の厚い大国主命が、須勢理毘売命を妻にと申出のあった際、素盞鳴命は姫の夫をしてふさわしいかどうかを色々
な方法で試されたのでした。
最初の試練は、毒蛇の室で一夜を過すことでした。
大国主命が部屋に入られるや否や、大蛇や蝮等毒蛇が数知れずどっと襲いかかって来たのです。その時すかさず須勢理毘売命は「この比
礼を三度打ち払い給え」と申されて、その通りに比礼を振ると毒蛇はみな姿を消して危機を助けられました。
その次は、むかでと蜂の部屋でした。又火ぜめの試練もありましたが、その都度姫のご神徳によって危険をのがれられ目出度くご夫婦と
なられました。
後御子事代主命の神々と共に力を合わせてこの国の農業の開拓、医療の進展、温泉の開発等と人々の福祉を進められたご功績は甚大なも
のがあります。
この神社は、この須勢理毘売命を崩った地として、以前には毎年出雲大社から祭官が参向されていたそうであります。
現在も害虫毒虫蝮よけの守護神として県内外からの参拝者も多くあり、ご本殿下の砂をいただいて田畑にまけば害虫が去り、家屋敷にま
けばささりやむかでが退散するし、又お守を身につけて居るならば蝮の危害をのがれることができるし、更に神社裏奥にあるご神井の水
は如何なる旱祓にも涸れたこともなく(※)、蜂にさされた折等いち速くこのご神水をぬれば勿ち治癒するといわれて居ります。
旧8月3日には早朝から参拝者で賑わい、特に地方の名産干瓢市が立ち見る間に数百貫の干瓢も売り切れてしまいます。又芸能奉納や名
物「どじょう汁」の売店もあります。
唐王神社

三屋神社
出雲国風土記にも記された古社。出雲大社と同じ神紋を持ち、大国主命がここに宮居を置いたと伝えられる。
大神の御門此ゝに在り、故に御門屋と云ふ。(神亀3年三屋と改む)
○社号の由来は所造天下大神大穴特命が八十神を出雲の青垣山の内に置かじと詔りて、此処に宮居を定め国土経営に端緒をお開きになっ
た。
○出雲国内に於て大神の神地と神戸が風土記選上当時に置かれた場所は他の一か所もない。
神の御門と神戸を社号とした神社が全国に他に一社もないことは特筆に値する。
島根県観光連盟

奴奈川神社
天津神社に向かい左手に位置するのが、奴奈川神社です。
かつて奴奈川の郷に君臨した首長、奴奈川姫と「賢し女」「麗し女」といわれた奴奈川姫に求婚にやって来たと言われる大国主の命を祀
っています。
糸魚川市観光協会

御井神社
御井神社および、ご祭神である木俣神の記述は、「古事記」に描かれている大国主の神話で確認することができます。
その大国主の神話には、「八上姫(やかみひめ)は大国主命のお妃・須世理姫を恐れて、御子を木の俣にかけて因幡へお帰りになった。
その御子の名を木俣の神、またの名は御井の神という」
という形で紹介されております。
御井神社

大神神社
当社の創祀に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおお
かみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」
と三輪山に祀られることを望んだ
とあります。
また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であ
ると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御
魂として顕現され、三輪山に鎮まられたということです。
この様に記紀の神話に創祀の伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご
祭神の神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。
そして、ご祭神がお山に鎮まるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原
初の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。
「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神天皇の時代には国造り神、国家の守
護神として篤く祀られました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさの
まつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観元年(859)に最高位の正一位となりました。延喜式の社格は官
幣大社で、のちに大和国一之宮となり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。
中世には神宮寺であった大御輪寺や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入る
と幕府により社領が安堵されて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社となりました。現在も国造りの神
様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。
大神神社

朝山神社
主祭神眞玉著玉之邑日女命は神魂命の御子にして姿容端正淑徳玉の如し坐し坐せば「大巳貴命」娶り給いて毎朝に通い坐しき故、朝山と
云う」と出雲風土記に記さる。
当社の創立については、当地方の神楽歌に「ありがたや宇比多伎山の宮造りこれぞ社の初めなるらむ」と歌われる如く、余りにも古く古
典に依れば出雲風土記に淺山社、延喜式神名帳に朝山神社と記さる。
当社は往古より山美しく水清き宇比多伎山に御鎮座坐し坐し位置を移せしことなく故に中世より宇比多伎大明神とも申し奉る。
天武天皇以来皇室を始め毛利氏、松平氏等領主の崇敬厚く古文書に依れば毛利氏出雲国を領せし時の左の棟礼あり
朝山神社御由緒

高瀬神社
 御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国
成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うた
とも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。
越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳天皇の斉衝元年に従
三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。
また社頭荘園多く又皇室の御領に宛てられたこともあり、神子屋鋪・鎌倉屋鋪・大宮司田・神子畑等、近傍に残る地名によって、往時
の盛大さを偲ぶことが出来ます。
戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12
年に国幣小社に昇格されました。
大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣
戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。
高瀬神社
※御祭神=大国主命

日吉大社
当社には東西両本宮があり、東本宮の御祭神大山咋神は、古事記神代の巻に「大山咋神亦名山未之大主神此神者生近淡海国之日枝
山……」と記されている。
日枝山頂から今の地に移し祀られたのは、崇神天皇七年と禰宜口伝抄にある。又西本宮の御祭神大己貴神は
「天智天皇七年戊辰三月三日詔鴨賀嶌八世孫宇志麿祭大和国三輪坐大己貴神於比叡山口日大比比叡宮」と禰宜口伝抄にある。
元慶四年、西本宮御祭神正一位(三代実録)。寿永二年、東本宮御祭神正一位、二十二社注式。長暦三年、二十二社に加えられ、延喜式内
名神大社でもある。明治四年官幣大社列班。昭和三年官幣大社祭神御増座、謂ゆる東西両本宮が官幣大社に列せられたのである。行幸は
創祀以来二十数回を数えるが、中でも第五十代桓武天皇が延暦十年四月第二ノ申日より七日間、日吉大社に参籠ましまして行在所を設け
られ、勅願に依り大比叡、小比叡の神輿二基の御造進が特記される。神佛習合に関しては、天台宗の守護神として延暦寺と密接な関係を
有し、歴史的にも天台教学の上にも現代に至るまで大きな影響を及ぼしている。戦国の武将は並べて崇敬が篤く、中でも秀吉、家康の山
王信仰の篤さは日吉三橋(重文)、日吉東照宮(重文)に文化遺産として残されている。
元亀の乱により社殿及び神輿は烏有に帰したが、天正十四年から逐次再建された。全国にある三八〇〇余社の分霊社の総本宮である。
例祭である山王祭には古式祭がよく継承されていて、四月十二日山頂の牛尾神社、三宮神社より東本宮拝殿に神輿が舁ぎおろされる午の
神事、同十三日に斎行される献茶式、未の御供、花渡式、宵宮落等未の神事、十四日神幸祭で神輿が唐崎に湖上渡御し、粟津の御供の神
事が斎行される等特に有名である。(県選択)(市指定)。また元旦暁闇に斎行される大戸開神事には京都の片山能太夫による「日吉の翁」
が奉舞される。
滋賀県神社庁

松尾大社
当社の御祭神“大山咋神”は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地
方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇した
のが始
まりと伝えられております。
松尾大社

矢彦神社
 当神社は、信濃国二之宮であり、上伊那郡五十四か村の総鎮守であります。
遠い神代の昔、大己貴命の国造りの神業にいそしまれました折、御子事代主命・建御名方命をしたがえて、この地にお立寄りになった
伝えられております。
古くから、皇室の御崇敬が厚く、勅使の御差遣もしばしばありました。
欽明天皇の御代、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿におまつりし、矢彦神社としてのかたちがととのいま
した。そして例祭日を毎年、八朔(旧八月朔日)と定め田ノ実祭(憑祭)といわれました。
天武天皇の御代に勅使を下向、新宮を造營し、正遷宮祭と御柱祭とが七年毎の式年祭と定められました。白鳳二年(六七四年)のこと
であります。
安徳天皇の御代、木曽義仲が宮材を木曽山林より伐り出し社殿を造營し、以後約七百年にわたって宮材を木曽山林から出材されること
になりました。
以来、鎌倉から徳川時代に至るまで、武田晴信(信玄)、勝頼をはじめ、徳川幕府の崇敬厚く、再三社殿を造營されました。とくに、
慶安二年(一六四九年)、徳川家光より、神領として、高十石、及び付属山林諸役免除の公文御朱印状を献納されました。
明治天皇の御代、明治五年(一八七二年)社格が郷社となり、明治十四年(一八八一年)有栖川宮熾仁親王殿下より神号の額字を賜り
ました。
明治二十七年(一八九四年)十月一日明治遥拝殿を創建。明治天皇の生祠明治宮は、わが国でもはじめてのものであります。
明治三十三年(一九〇〇年)社格が県社に昇格。御造營材の御下賜は昭和七年(九三二年)まで続き、「天賜材式年造營神社」と称せ
されるにいたりました。
昭和十一年(一九三六年)五月七日、巢山沢御料地を御造営材供給の備林として二十四町歩余の山林御下賜の天恩をうけました。
矢彦神社現地看板

日御碕神社
島根半島の西端に位置する日御碕神社は、『出雲国風土記』に「美佐伎社」と記される歴史ある神社です。神社は下の宮「日沉宮(ひし
ずみのみや)」と上の宮「神の宮」の上下二社からなり、両本社を総称して「日御碕神社」と呼ばれます。
花崗岩の鳥居の奥に朱の楼門が鮮やかに映え、松林を背景に荘厳な雰囲気が漂います。
楼門をくぐり、右手の小高いところには「神の宮」があり、こちらには素盞嗚尊(スサノオノミコト)が祀られています。
出雲の国造りをしたスサノオが、根の国(黄泉国)より「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ、柏
葉は風に舞いこの神社背後の「隠ヶ丘」に止まった
ということです。
その後スサノオの五世の孫、天葺根命(アメノフキネノミコト)がこの地にスサノオを奉斎したといわれています。
出雲観光協会

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