黒咲恵梨佳:オデュッセウス・OP2

黒咲恵梨佳は魔術師だ。
私は借りた空き家の掃除を二日間かけて済ませ、地下室に物を運び出した。
魔術の基本は隠匿。目立つ場所では魔術の行使は出来ない。
地下室のある空き家をわざわざ不動産屋に指定したのも、そういう理由があったからだ。
聖杯戦争は最早目前となっている。準備は早く済ませるに越したことはない。
オランダに付いてすぐ、私の左手には熱が走った。
熱と共に左手の甲に現れた、三方向に広がる結晶のような刻印。
私がマスターになった証。そしてサーヴァントへの三度の絶対命令権、令呪。
いよいよ、戻る道は無くなった。振り返るつもりも引き返すつもりも無いが、身体はどうしても強張ってしまう。
瞼を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えながら、私は『その時』を待った。


深夜二時。私の魔力が最大に高まる時間だ。
腕時計と置き時計をもう一度チェックする。
──大丈夫だ。始めよう。
魔法陣は既に描き上げてある。
トロイの城塞の欠片をコトリと置き、私は息を吸った。
詠唱文はいやというほど暗記した。
一言一言、確かめるように詠唱していく。


 素に銀と鉄。
 礎に石と契約の大公。
 降り立つ風には壁を。
 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。


魔法陣には研究用に仕入れた、血晶魔術用として最上級の血を惜しげもなく使っている。


 閉じよ(みたせ)。 閉じよ(みたせ)。 閉じよ(みたせ)。
 閉じよ(みたせ)。 閉じよ(みたせ)。


触媒は神代の聖遺物。トロイの城塞。神の血を引く英雄達が鎬を削った、考えうる限り最高の時代のもの。


 繰り返すつどに五度。
 ただ、満たされる刻を破却する


そして、呪文を唱えるのは時計塔の天才と称されるこの黒咲恵梨佳。
この儀式に失敗など――あるものか。


 ――――告げる。


魔法陣が光を帯びた。
地下室は眩く照らされ、魔力の励起を知らせる。
私の身体を魔力がめぐり、魔術回路が打ち震える。
立ち昇る悪寒を抑え、叫ぶ用に呪文を紡ぐ。


 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。


心臓が早鐘を打つ。
私の身体は今、幽体と物質を繋げる回路。
痛みを感じている暇は無い。
もっと集中して──自らの身を、神秘を為す一部と捉えて──!!


 誓いを此処に。
 我は常世総ての善と成る者、
 我は常世総ての悪を敷く者。


最早、思考は無い。
────私はただ、詠唱を続ける。


 汝三大の言霊を纏う七天、
 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!


────白。
魔法陣から発せられた稲妻の様な強烈な光は、世界を白く塗りつぶした。
そして、魔力の奔流と身に打ち付ける暴風が地下室を支配する。
私は、地を踏みしめて耐えるのがやっとだった。


──恐る恐る、瞼を開く。
魔法陣は『あちら側』に繋がり、淡い光を発し続けている。
風は埃を巻き上げ、竜巻のように魔法陣の周囲を走っている。
そして『彼』はその中央に凛と立っていた。まるで神が玉座に座るような、ヒトならざる者の威風を漂わせて。
──あれが、サーヴァント。英霊にエーテルの肉体を与え、マスターの使い魔として聖杯戦争を共に戦う者。
そして英霊である以上、『彼』は──過去の大英雄に違いない。
その現実離れした感覚に私はとうとう腰を抜かし、立っていることも出来なくなった。


「さて……と」
『彼』が口を開いた。
やや高めの中性的な声だ。
よく見れば、女としても通用する美しい顔立ちをしている。
もし、あの黒髪を伸ばしていたら、きっと女性だと思っていただろう。
「や、や、や。ボクを呼んでくれて、ありがとう。キミが、ボクのマスターなんだよね?」
『彼』はとてもにこやかに、緊張感などまるで無いように喋り始めた。
英雄らしからぬ、いやに飄々とした軽い口ぶりに、抜けた腰が更に抜けるのを感じる。
「へ? もしかしてマスターじゃない? いやー、でもさ、ホラ。ボクの周りにキミ以外の人、いないんだけど」
小馬鹿にしているような口ぶりとおどけた仕草に、かえって私は冷静になった。
このサーヴァントに、しっかり主従関係を示さなければならない。
「……ええ、そうよ。私が黒咲恵梨佳。あなたの……マスターよ。」
精一杯の虚勢を張って答えた。
──腰は抜けて、未だに床にへたれているけど。我ながら、情けない姿だ。
「はい、はい。よろしくね、マスター。よろしく。」
「ええ、よろしく……じゃなくて! アンタは何の英霊なの? クラスは?」
サーヴァントには元となった英雄や偉人としての真の名前があるはずだ。
そして、サーヴァントの役割に則した一面を表すクラス。
サーヴァントを御する為に、最も重要な情報だ。
「や、ごめんよ。先に名乗るのを忘れていたね。ボクはアーチャー。名前は──『ウーティス』さ」
──アーチャー。弓兵のサーヴァント。
セイバーランサーと並んで強力とされる三騎士の内の一角。
クラスに不満は無い。しかし──。
「ウー……ティス?」
「そう、ウーティス。記憶したかい?」
トロイの城塞を触媒にすると決めてから、私はトロイア戦争の資料を片っ端から調べていった。
トロイア戦争の英雄といえば、ギリシャ側はアキレウス・オデュッセウス・両アイアス・アガメムノン・メネラオス。
トロイア側はヘクトール・パリス・アイネイアス・デイポボスといったところだろうか。
当然他にも高名な将軍は数多くあり、念のため逐一記憶していた。
しかし、ウーティスなどという武将の名は目にした覚えが無かった。
「……トロイア戦争に、そんな英雄はいたかしら。」
「うーん、ボクもさ、ホラ。この時代に来たばかりで、あの戦争がどう伝わってるかは把握してないんだけどさ。」
相変わらず癪に触る口調でアーチャーが喋る。
「ボク、あれだよ。隠れた名将ってやつだから。目立つ戦功は無いんだよね。あっはっはっはっは。」
アーチャーの軽い笑い声が、地下室に木霊する。
「……つまり、アンタは大英雄どころか名前も残らない一介の武将ってこと!?」
「ま、ま、そこはね。ボクも名前を残せなかったのは悔しいから、ここは一つ大目に。」
悪びれもしないアーチャーの態度に、頭に血が一瞬で昇り、そして一気に冷めていくのを感じる。
この、時計塔の天才と呼ばれた私が、聖遺物・生贄の血・魔法陣の全てに万全を期して召喚した結果。
それがこの、おちゃらけたどこぞの馬の骨だというのか──!
「そ、んな……。この戦いだけは絶対、負けられないのに……」
腰が抜けたのは収まったが、今度は最早立ち上がる気力もない。
《本当に君は理解しているのか? 魔術師同士の殺し合い、戦争の意味を。銃で頭をブチ抜かれて死んだ方がまだマシだと、そう思うほどに魔術師の殺し方というのは、悪辣と凄惨の極みだ。》
先生の最後の忠告が脳裏に蘇る。
負ければ、死ぬ。その言葉が今になって、現実味の重しを背負って胸に突き刺さる。
恐怖が鎌首をもたげ、心を支配しそうになる──。
「──っと。……マスター、ちょっといいかな」
アーチャーのいやに優しげな声に私はゆっくりと顔を上げた。
理由は分からないが、その声を聞いた途端、少し心が晴れた気がしたのだ。
「さっき言ったよね。ボク、隠れた名将だったって。名将ってのはこれ、つまり勝利を導く凄腕ってこと」
アーチャーは励ますように言葉を続けた。
「ボクが召喚に応じたのは、キミをこの戦いに勝たせるためだ。その自信が無ければ、ボクは座で眠っていたさ。神と魔術と人とが共存した時代、神代の名将がキミのサーヴァントなんだ。これは誇りに値する、キミの力だよ。」
自信満々といった面持ちでアーチャーは言い放った。
フフン、と鼻を高くするその生意気な態度に、私は少しの安心と、ほんのちょっとだけ──頼もしさを感じた。
「……まぁ、仕方ないわね。私は天才だもの。サーヴァントに多少の差があったところで、ハンデにもならないわ。」
そうだ。私にうなだれている暇は無かった。
「そそ。ボクの足りない分はマスターが補ってくれると嬉しいな。ね、ボク達はほら、パートナーだからさ。」
──仕方ないけど、認めるしか無い。
「そうね、その生意気な態度は小癪だけど。でも、アンタは────私の、パートナーよ。」
無名で、実力も分からなくて、生意気だとしても。この聖杯戦争では、アーチャーが私のパートナーだ。
アーチャーと私で、聖杯戦争を勝ち抜く。この事に何も変わりは無い。
パン、と両手で頬を叩いた。
戦いはこれからだ。私は気を新たに、戦いに臨む決心を──。


「あぁ、そうそう。マスターさっき、ボクのことパートナーって言ったよね?」


……は?
心構えを改めようとした矢先、アーチャーが口を挟んだ。
確かにそう言ったが、それに何の意味があるのだろうか。
アーチャーはいつの間にか、何か企んだような不敵な笑みを浮かべている。
「パートナーなら、ボク達は対等だ。ね? だって相棒だもの。ホラ、さっき一目で分かったからね。この人は絶対主従関係を強制してくる! ってさ」
口が文字通りポカンと開いた。
このサーヴァントは一体何を言っているんだろう。
「もいちど言うけど、これでもうパートナーであるボク達の間に上下は無しだ。いやー、身の回りの世話しろとか言われたらね、ホラ。ボク、自分のことすら出来ないし。助かったよ、うん」
──やっと理解が追いついた。
こいつはショックを受けた私の隙を狙って、励ますような口ぶりで私を唆し、言質を取るつもりだったのだ。
自分を使い魔扱いするな、と──。
さっき抱いた安心と信頼は完全に吹き飛び、胸の中には怒りの炎がどんどん燃え上がっていく。
「こ、の────バカサーヴァント!!!!!!!」


魔術師黒咲恵梨佳の聖杯戦争は、こうして始まったのだった──。

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最終更新:2016年09月28日 01:16