私は雨が嫌いだ。
それは未来永劫絶対不変と確信を持って言えるような気さえするほどに。
それなのに、そんな私の気持ちを裏切るかのようにその今日は五月蠅い雨音が鳴り響いている。それも、私が学校から帰る途中の、図ったようなタイミングで。
降って来てしまったのならどうにもならないし、雨を遮る道具などその場に持ち合わせていなかったから仕方なく、私は誰も存在しないバス停の屋根の下に立ち尽くしていた。ベンチが備え付けられているそのバス停は雨宿りをするには充分な広さを持っていたから、私は嘆息混じりにベンチに腰を落ち着けた。
多少濡れしまったようで、私の髪の毛はうなじに張り付いて、そして制服までもが体に張り付いていて。
だから雨は嫌いなのだ。こんなにも人間に迷惑を掛けるものであるならば、必要な時以外に降らなければ良いのに、と子供染みた事を考えながら、せめて風邪を引かないようにと私は制服の裾を雑巾を絞る時のように握り締めた。
力を入れてみると、布に吸い込まれた水分が絞り出されて、地面に向けて幾つもの水滴が落ちて行った。屋根によって天を遮っている所為で地面はまだ灰色を保っている。そんな変哲のないアスファルトに、私が絞り出した水滴が斑模様を彩って行った。点々と、黒い染みが作られて行く度に早く雨が止まないかと考える。けれどやはり天から降り注ぐ雨粒はその勢いを弱くすることなど無く、むしろその勢いを強くしたようにさえ思えた。
「……」
人通りの少ないこのバス停には、眼の前の道路を悠々と通り過ぎて行く自動車の稼働音ばかりが聞こえて来て、そのタイヤが水溜りに沈む度に耳障りな音が耳に付いた。
代わり映えのない光景に浮かぶ、自動車のヘッドライト。雨の姿を明るく映し出し、私の気分をより一層不機嫌にさせる。まるでその光は、雨はまだまだ止まないと、そう私に言い聞かせているかのようで。私は濡れた髪の毛を掻き上げて、眼に掛からないようにした。
藤色の長い髪の毛が、水滴を辺りに飛び散らせながら少しだけ乱れた。髪の毛を伸ばそうとしているのは私なのだけど、いざこういう時になって鬱陶しくなってしまう。水分を含んだ髪の毛は背中に張り付いて何だか気持ち悪いし、体も冷えてしまう。雨の日に、そしてそんな日に運悪く濡れてしまった時に、私の髪の毛は少し邪魔だった。
「何でこんな日に傘忘れてんのよ……私」
そう言って空を見上げてみればそこには厚く暗い雲の塊が見渡す限りに広がっている。そしてそこから降り注いでいるのだろう雨粒が地面に突き刺さっていた。それはもう、バケツを引っ繰り返したと形容しても差支えないだろう。この勢いだと、川が氾濫して洪水でも起こるのではないかと要らない心配さえしてしまう。
こんな雨の中を走って帰るなど、春に近付いているとはいえまだ肌寒いこの季節にしてしまえば風邪を引く事必至で、その言い訳はどんなに信憑性があったとしても私の自業自得で終わってしまうだろう。八方塞がりで立ち往生。取り敢えずこの雨足が弱くならない事には私は此処でそれを待つ事しか出来ないようだ。
嘆息を一つ落として、手持無沙汰のこの状況をどうやって打開するか頭を捻っていると、パシャパシャと水を蹴りながら掛けてくるような音が聞こえた。
殆ど人通りがないこのバス停に来るなんて、きっと私みたいにやむを得ず雨宿りに来た人か、もしくは本当にこのバス停でバスに乗ろうとしているかのどちらかだろう。私は特に気にせず、道路に波紋を広げている雨をぼんやりと眺めていた。
「はあっ……はあっ……参ったなあ、もう」
地面を見つめていると、バス停の屋根の下に潜り込んだ人は息を荒くさせながらそう呟いた。その声は何処かで聞いた事があるような――いや、間違い無く毎日聞いている声だ――そんな声で、何で今の今まで此処に来た人が誰なのかと言う事に気付かなかったのだろう、と私は顔を隣で溜息を吐いている人物に向けた。
「あれ、かがみんじゃん。いやー、奇遇だねー」
「こなた……ってあんたももしかして傘持って来てないの?」
「そだよー。今日は天気予報見なかったから。うん、こりゃとんだ失態だったね」
此処に同じ穴のムジナが一人。もしもこなたが傘を持っていたならそれに入れて貰って帰る事も出来ただろうに、その可能性も呆気なく打ち砕かれてしまった。
未だ途絶えるどころか弱くもならない雨は、そんな私達を嘲笑しているかのように断続的な雨音をこの世界に響かせている。近くからか、遠くからか、何処からか集まってくるこの音はやはり五月蠅かった。
「……」
何故だか私達は何時もの活気を陰に潜めさせて、沈黙を保ち続けている。かと言ってこの雰囲気が気まずい訳ではないのだけれど、それでも何時もと比べてみるとやはり違和感は拭えなかった。
何も話さずに屋根と言う盾を持っていないコンクリートに眼を向ければ未だ雨の勢いは健在で。雨足は途絶える素振りを片鱗すら覗かせなかった。
ふう、と一つ溜息を落として、隣りに座るこなたを見遣る。長い髪の毛は雨で濡れてしまって、幾つかのまとまりが出来ていた。頭の上に飛び出たアホ毛はその形を失わず、ぴょこんと天に向かって突き出している。静かに去り行く自動車の光景を眺めているこなたの眼は何処か憂いを秘めているようだったけれど、ただ呆けているだけのようにも見えた。
「……」
静かだ。
ただ、雨が大地に刺さる音と、車が横切る音が五月蠅い。それだと言うのに、私とこなたの間に流れる沈黙は静かと言う言葉以外に形容するものが見付けられなくて、それはまるで私とこなたが雨宿りに使っているこのバス停の空間だけが他の世界から隔絶されたかのような印象を受けた。
「中々止まないねー」
気の抜けた声で、こなたが呟いた。それは私に対して同意を求めた言葉だったのかも知れないけれど、私は無言でそれを肯定した。言葉を発するのが億劫に思えたのではなく、ただ言わなくてもこなたに伝わる気がしたのだ。そのこなたはと言うと、一人猫口顔で微笑みながら道路を見遣っていた。
「そう言えば、あんた何してたのよ? 家、こっちじゃないじゃない」
ふと思い出すと、こなたは此処に居る理由がない。少なくともこなたの行動原理を完全に把握していない私にとってはこんな雨の日に此処に居る事自体が不思議だ。私とこなたの家はみゆきの家ほど離れている訳ではないけれど、それでも多少の距離はある。それならば、年中面倒くさがりのこなたがこんな土砂降りの日に此処に居るはずがなかった。
尤も、これだって勝手な憶測なのだけれど。
「んー、まあ、ちょっと」
少しだけ首を上に傾けて一考した後、こなたはそう言った。何とも曖昧で不明瞭な答え。それで私を満足させる事が出来ると思っているのなら、こなたは相当な朴念仁だろう。怪訝な視線でこなたを見ると、こなたは「まあ、大した事じゃないよ」と言葉を濁してこの話題を打ち切った。
何だかお腹の奥がもやもやと嫌な気分だ。丁度、分かりそうなクイズの答えが中々出て来ない時と同じように、すっきりしない蟠りが残っている。考えてもこれが何なのか分からなかったから、取り敢えずこなたの答えに納得出来ないからなのだろう、と勝手な結論を付けて私は視線を道路へと戻した。
自動車のヘッドライトに照らされる雨の量は、先刻よりも増している気がした。
「そーいえば」
私が道路に視線を戻して、暫くもしない内にこなたが何かを思い出したようだ。閃いた、とでも言うように手の平に拳を打ち付けて軽い音を出した。それも雨音と自動車の喧騒に搔き消されてしまったけれど。
私はそんなこなたに、「どうしたのよ」と無言で伝えるような視線を投げ掛けて、二の句を待った。どうせ他愛のない世間話だろうから。それは何時もと同じの、軽い話題なのだろう。
「かがみこそ、つかさは? 何時も一緒に帰ってるのに」
ああ、そう言えば。
私とこなたが座る間の席に何かが足りないと思ったら、何時も居るはずの人物が居なかった。何だか今になって気付いたのがつかさに申し訳ないけれど、雨が私の思考能力を奪って行ったのだ、と責任転嫁をして私は今頃家の炬燵でぬくぬくと暖を取っているつかさを思い浮かべた。
「ん、先に帰らせた。私、学校でやらないといけない事があったから」
それは誰がしても良いような内容の、先生の手伝いだったのだけど、何故か強引に私が手伝わされる事になったのだ。多少疲れたものの、プリントの束を運ぶ仕事だった。
そして私の予想通り、それが終わった後に長い話に付き合わされて結局こんなに帰路に付くのが遅くなってしまったのだ。その話題も殆どがあの保健室の先生の事で、惚気話を聞かされているようで気が滅入ったのもよく覚えている。
「先生の手伝い?」
「うん、そう」
「桜庭先生?」
「よく分かったわね」
「んで、長話に付き合わされたと」
「あんたはエスパーか」
「んふふー。かがみんの事は全部お見通しだよ」
「気持ち悪い……」
「今、何かを意識したでしょ?」
「するか!」
そんな何時ものノリの、馬鹿話。最後はどうせ何かのアニメネタなのだろうけど、生憎私にはさっぱり分からない。と言うか分かりたくない。それでも何かのアニメキャラと似た事をしてしまったのは何となく分かったから、私は何だか悔しくて再び道路に視線を戻した。まだ、強い雨が地面を割らんと突き刺さっている。
はあ、と白い息を出すと、こなたは「ピッタリなのに」と、またしても訳の分からない事を言った。
「あれ、じゃああんたは? 早く帰ったにしては随分遅くない?」
よくよく考えてみればこなたがこんな所にこんな時間に居るのはかなり不自然だ。
さっきの答え方もやけに不自然だったし、まさかとは思うけどこれから彼氏の家に行くとかかも……なんて。私はそんな事有り得ないだろ、と自分に言い聞かせてからこなたの答えを待つ。こなたは少しの間逡巡した後に口を開いた。
「いやー、ゲマズ行こうと思ったんだけどね」
何か含みを持たせた物言いでこなたは笑う。私は焦らされているのが気に入らなくて、早く続きを言えよと目を尖らせた。こなたはまあ落ち着きなよ、なんて言いながら目を細めて、続きを語り出した。
「まあこの通りの雨でしょ? 途中で嫌になって……」
「嫌になって?」
「彼氏の家に行こうかと思ったのだよ」
一瞬、こなたが何を言ったのか理解出来なかった。何文字化の言葉の羅列が私の頭の中を駆け巡り、そしてその一つ一つの意味を語り掛けて、漸く話を咀嚼出来る。
私は暫くこなたの言葉を反芻した後、眼をこれでもかと言うぐらいに丸くしてこなたに詰め寄っていた。殆ど無意識の行動だったかも知れない。私は脊髄反射でこなたに詰め寄っていたのだ。
「嘘」
「即答の上に否定された私涙目なんだけどなー」
気付いた時にはその一言だけが口をついて出ていた。最初は「あんたがー?」なんて茶化したり、「あー、はいはい」なんてあしらったり。色んな行動の選択肢が頭の中にあったのに、言えたのは"嘘"の一言一文字だけで。何でこんなに焦っているんだろうと思う間もなくこなたによる追撃が始まった。
「まあでも、正しくは彼氏じゃないけどね。ただ、好きな人ってだけだよ」
その言葉を聞いた時、訳も分からない脱力感が私に圧し掛かってきた。そして、それに続いて足の爪先から昇ってくるかのような羞恥心。私は熱くなった顔を見せないようにと元の位置に座り直した。
「好きな人、居たのね」
「まあねー」
「でも、あんたが男子と話してる所なんてあまり見掛けなかったけど」
「そうだねー」
こなたの態度はさっきから何だか含ませぶりだ。
私に何か言いたい事があるんだけど、それを敢えて言わないようにしている。そんな感じだ。
自分でも何であんなに焦ったのか未だに分からないけれど、こうしてこなたの好きな人について聞く度に蟠りが色濃く感じる。それでも、まるで男に興味なさそうなこいつが好きになる人が気になった。
でも、今からこんな態度なら、これ以上踏み込んでも全てを躱されそうだ。ひらりひらりと、風を受けるみたいに簡単に。だから、私はこの蟠りを残したままにした。いっそ全部ぶちまけたい気分だったけれど。
「でもさ、少し問題があるんだよね」
暫しの逡巡、そうしてこなたは自分に語り掛けるかのように呟いた。その言葉は私に聞いて、と言っているようで、比較的小さな声量で紡がれるその言葉を一言一句聞き逃すまいと、私は降り頻る雨の中で耳を澄ました。
「その人、すっっっごく鈍感みたいで、全然気付いてくれない」
「……。ま、そう言う事もあるんじゃないの」
期待してた私が確実に存在していた。
何時もの飄々とした態度で"嘘だよ"と言ってくれる事を期待している自分がいた。そして、その期待すらも儚く散ってしまった今、私はこの話題にもう触れたくなかった。聞けば聞くほどお腹の蟠りが蠢くから。
嫌悪感を募らせる、嫌な動きで私の中を荒らして回っている。それは、こなたの話を聞くのを止めるとぴたりと収まるのだ。だから、私はこの件にもう触れたくなかった。
舞い戻る静寂が痛い。降り頻る雨の音が五月蠅い。車のヘッドライトが眩しかった。
まだこの雨は止まないのだろうか。一刻も早く家に帰りたいと思っているのに、その望みを見事に打ち砕いてくれるこの雨は鬱陶しいという他無かった。
「あ、」
こなたが声を出した。私は特に気を留めるような素振りも見せずに同じ景色に視線を向けたまま。我ながら子供みたいだと思うけれど、例え些細な話題からでも先刻のような話題が出るのが嫌だった。
声を出したのち、こなたは何やら鞄を弄っていたようだ。がさごそと、そんな音が聞こえて来る。何をやっているのか聞こうとも思ったけれど、やはりそれは出来なくて。私は変わらず雨を眺めている。出来ればこんな静寂を一刻も早く打ち破りたいのだけど、今の私には無理そうだ。こなたが何かを言うのを、ただ待つしか私には出来ない。
「はあ……」
吐いた息は白く色付いた。突然の雨だったけれど、気温を下げるのにはこの雨は十分に貢献したらしい。私は今頃になって身に襲いかかって来ている寒さに体を震わせた。着ていたコートはぐっしょりと濡れてしまってるから着たら余計に寒くなってしまう。今、そのコートはベンチの背凭れに掛けてあった。
寒さを凌ぐ手段を持たない私は出来るだけ身を縮こまらせて、暖かくなるようにした。ちらりとこなたを見遣ってみると、やはり私と同じように寒いのか小さな体躯を震わせている。私達は髪の毛が長いから、余計に寒くなるのかも知れない。こんな時はこの長い髪の毛が煩わしく思えてしまうのだけど、切ると言う行為をするつもりが毛頭ないのは何故だろう。と、意味のない思考に嵌っていると、こなたの吐息が聞こえてきた。
「何か、寒いね」
私が言わなかった言葉を代弁するかのようにこなたが呟く。寒そうに息を吐きながら、正面を向いているこなたの姿は本当に寒そうだ。彼氏――もとい、好きな人の家が近いならそこに走ってでも行く手段はあるだろうに、何故そうしないのだろう。意味も分からず傷心になっている私は、早めに一人になりたいのだけど。
「そうね。もう、春も近いのに」
私達が住んでいるこの土地には春を代表する花、桜はまだ咲いていないけれど、連日の内に感じる暖かな陽気は春の訪れを感じさせるには充分だった。そんな春の少し手前を謳歌していた私達にとっては、またしても訪れて来た冬並みの寒さが恨めしい。一直線に春に向かって進んでしまえばいいのに――なんて、考えても無駄な事だ。
そんな事を考えていた矢先だった。こなたは音も立てずにすっと立ち上がると、これまた音も立てずに私の前に無言で立ち尽くした。何事かと思ってこなたの瞳を見つめる私。こなたもそんな私を見つめている。時間の経過が感じられず、私達を取り巻く雨音が刻々と時を刻んで行く。
そして、幾らかの時間が経った後、こなたは静かな声で、けれど何処か怒ったような声で呟いた。
「寒いね」
「え? あ、ああ、そうね……って、どうしたのよ。同じ事さっきも聞いたじゃないの」
ジト目で私を見据えるこなたに多少怯みながらも私はそう返した。同じ事を反復するこなたの意図が分からず、眼を彷徨わせる私に、こなたはまだ目の前で佇んでいた。自動車のヘッドライトが浮かび上がらせるこなたの姿。それは逆光で朧気で、秘める想いすらも朧気に感じられた。
ざあ、と雨の音が耳に付く。この気まずい沈黙に拍車を掛けるような雨音が煩わしい。私は何か言える言葉が無いものかと必死に心中で模索していたが、何を言ってもこの空気は読めないのではないかと思い、結局何も言えなかった。
「……はあ――、鈍感なのはリアルじゃ迷惑なだけだね、ホント」
長い溜息を白い吐息に変えて、こなたは諦めたようにそう言った。
この場合、こなたの鈍感と言う発言は私に当てられたものなのだろうか。けれど、何故そんな事を言われているのかも分からず、私は眼を辺りに彷徨わせるばかりで。そんな私を知ってか知らずか、こなたはどかりと再びベンチに腰掛けた。
「鈍感って、私が?」
「かがみの眼には他の誰かがここに居るように見えるんだねー」
「……分かったから、そんな不貞腐れないでよ。何でそんな風に言われるのか分からないんだけど」
「そんのまんまの意味ですけど何かー」
「……」
全く、意味が分からない。此処に来た時は何処か嬉しそうな顔をしていた癖に今になってこんなに機嫌を損ねるなんて、ただ私を困らせたいだけなのだろうか。
「よいしょ、っと」
そんな事で頭を悩ませていた私を余所に、こなたは腰を少しだけ持ち上げると鞄を引き摺って自分の所へ寄せると、私に近寄った。それこそ、密着と言って差し支えないくらいに。
雨に濡れて冷えていたお互いの体は制服の布越しでも冷たく感じられたけれど、それ以上に羞恥と困惑とで混乱へと導かれた私の脳は急激に体温を上げてしまう。顔に熱が昇って行くのを感じながら、私はこなたの澄まし顔を凝視した。多分、凄く変な表情をしていたと思う。目を真丸にして、口をぽかんと開けて。
「ちょ、ちょっと! 何やってんの!」
焦って声を出せば、こなたはそっちこそ何を言ってるの、と言わんばかりの顔で私を見てきて、僅かに残っていた私とこなたの間の隙間を埋めるかのように更に身を寄せる。
離れるという選択肢もない訳ではなかったけれど、それをやるのは何だか忍びなくて――ただ私がそれをするのを嫌だっただけかも知れないけれど――私はその場で背筋を伸ばして固まっていた。
「いいじゃん、別に。寒いんだもん」
「だからって――」
「はいはい、つべこべ言わない」
焦る私を見てにやりと微笑んだこなたは小悪魔と形容出来るそれで。未だに慌てふためく私の手を握ったかと思えば、そのまま恋人がするような形に指を絡めてきた。
もう何が何だか分からなかった。こなたが何で不機嫌になったのか、何でこんな事をするのか、何でこんなに私は慌てているのか。先刻まで五月蠅いと感じていた雨音よりも今は自分の心音の方が五月蠅かった。
「……っ」
何でか拒絶する事も出来なくて、私は俯いたままこなたの手の温もりを感じていた。少しだけ濡れているこなたの手はそれでも暖かくて、私は自分の手が汗ばんでいないか、とかそんなどうでもいい事を考えている。
そんな私とは対極的に、こなたは困惑だとか羞恥だとか、そう言った感情の片鱗すらも覗かせずにぼんやりと空に広がる雲を眺めている。それが余計に私を困らせるのだ。こなたのその表情からは何の意図も汲み取れないから。
「さっきさ、好きな人が居るって言ったじゃん?」
「う、うん」
こなたは視線をそのままに語る。横顔すらまともに見る事が出来なくて、私はまだ俯いたまま。この話題は正直勘弁して欲しかったのだけど、今の私が何か言えるはずもなく、黙って言葉を受け取って、中身のない返事をした。
「その人、何時も何かと口うるさい人なんだけど逆に迫られると弱いんだよ」
「……」
こなたの話は聞こえているけれど、まだ落ち着かない。
相槌の代わりに頷いて、私は深呼吸。その間にもこなたは話を続ける。
「でも、こんなに迫ってるのにまだ気付いてくれない。私だって恥ずかしいのにね」
「え……?」
その言葉には違和感があった。
"こんなに"と言う言葉は現在も進行中だと言う事を示唆しているものだろう。それならば、こなたの"好きな人"に当てはまる人は――私? 有り得ないと分かっていつつも、それに反して胸の動悸は激しさを増してしまう。こなたは未だに平然としていて。私だけ慌ててるのが馬鹿らしく思えた。
「だからさー、その"私の好きな人"はどう思ってるのかなー? って今でも考えてるんだけど、どう思う?」
そう言ってこなたは俯く私の顔を覗き込んで来る。そこにあるのは何時もと同じ、人をからかっているかのような――けれど真剣な顔。私はこなたが言っている意味も、その"好きな人"が誰かも理解した。
そんな顔で言われたら、そう思う事しか出来ない。
こなたは卑怯だ。ズルくて、意地悪で、何時だって私の考えの斜め上を行く言葉を紡ぎ出す。だから私は何時もこんなに慌てて、一人で顔を赤くしてしまうのだ。だから、言いたい事も素直に言う事が出来ないのだ。少し前に感じていた苛立ちの正体さえも、直ぐには認める事が出来ないのだ。
「……その人も、好きなんじゃないの。……あんたの事……」
自分の体温が更に増した事が鮮明に分かる。どうして私の体はこんなにも素直なんだろう。口頭では何時も強がったりしているのに、こんな時に限って。けれど、それがこいつの好きな事であると言うのなら、それも良いかも知れない。こんな自分の個性とも楽しく向き合えるかも知れない。
こなたは私の答えを聞いて、多分満面の笑みを浮かべただろう。私は俯いていたから確証を得る事は出来ないけれど、手に籠る力と温かさが増した気がする。それは、何かが繋がった証左なのではないだろうか。
「ふふー、かがみって、ホントに可愛いよね!」
そんな喜色満面の言葉を聞いて、私は一層深く俯いた。
それは未来永劫絶対不変と確信を持って言えるような気さえするほどに。
それなのに、そんな私の気持ちを裏切るかのようにその今日は五月蠅い雨音が鳴り響いている。それも、私が学校から帰る途中の、図ったようなタイミングで。
降って来てしまったのならどうにもならないし、雨を遮る道具などその場に持ち合わせていなかったから仕方なく、私は誰も存在しないバス停の屋根の下に立ち尽くしていた。ベンチが備え付けられているそのバス停は雨宿りをするには充分な広さを持っていたから、私は嘆息混じりにベンチに腰を落ち着けた。
多少濡れしまったようで、私の髪の毛はうなじに張り付いて、そして制服までもが体に張り付いていて。
だから雨は嫌いなのだ。こんなにも人間に迷惑を掛けるものであるならば、必要な時以外に降らなければ良いのに、と子供染みた事を考えながら、せめて風邪を引かないようにと私は制服の裾を雑巾を絞る時のように握り締めた。
力を入れてみると、布に吸い込まれた水分が絞り出されて、地面に向けて幾つもの水滴が落ちて行った。屋根によって天を遮っている所為で地面はまだ灰色を保っている。そんな変哲のないアスファルトに、私が絞り出した水滴が斑模様を彩って行った。点々と、黒い染みが作られて行く度に早く雨が止まないかと考える。けれどやはり天から降り注ぐ雨粒はその勢いを弱くすることなど無く、むしろその勢いを強くしたようにさえ思えた。
「……」
人通りの少ないこのバス停には、眼の前の道路を悠々と通り過ぎて行く自動車の稼働音ばかりが聞こえて来て、そのタイヤが水溜りに沈む度に耳障りな音が耳に付いた。
代わり映えのない光景に浮かぶ、自動車のヘッドライト。雨の姿を明るく映し出し、私の気分をより一層不機嫌にさせる。まるでその光は、雨はまだまだ止まないと、そう私に言い聞かせているかのようで。私は濡れた髪の毛を掻き上げて、眼に掛からないようにした。
藤色の長い髪の毛が、水滴を辺りに飛び散らせながら少しだけ乱れた。髪の毛を伸ばそうとしているのは私なのだけど、いざこういう時になって鬱陶しくなってしまう。水分を含んだ髪の毛は背中に張り付いて何だか気持ち悪いし、体も冷えてしまう。雨の日に、そしてそんな日に運悪く濡れてしまった時に、私の髪の毛は少し邪魔だった。
「何でこんな日に傘忘れてんのよ……私」
そう言って空を見上げてみればそこには厚く暗い雲の塊が見渡す限りに広がっている。そしてそこから降り注いでいるのだろう雨粒が地面に突き刺さっていた。それはもう、バケツを引っ繰り返したと形容しても差支えないだろう。この勢いだと、川が氾濫して洪水でも起こるのではないかと要らない心配さえしてしまう。
こんな雨の中を走って帰るなど、春に近付いているとはいえまだ肌寒いこの季節にしてしまえば風邪を引く事必至で、その言い訳はどんなに信憑性があったとしても私の自業自得で終わってしまうだろう。八方塞がりで立ち往生。取り敢えずこの雨足が弱くならない事には私は此処でそれを待つ事しか出来ないようだ。
嘆息を一つ落として、手持無沙汰のこの状況をどうやって打開するか頭を捻っていると、パシャパシャと水を蹴りながら掛けてくるような音が聞こえた。
殆ど人通りがないこのバス停に来るなんて、きっと私みたいにやむを得ず雨宿りに来た人か、もしくは本当にこのバス停でバスに乗ろうとしているかのどちらかだろう。私は特に気にせず、道路に波紋を広げている雨をぼんやりと眺めていた。
「はあっ……はあっ……参ったなあ、もう」
地面を見つめていると、バス停の屋根の下に潜り込んだ人は息を荒くさせながらそう呟いた。その声は何処かで聞いた事があるような――いや、間違い無く毎日聞いている声だ――そんな声で、何で今の今まで此処に来た人が誰なのかと言う事に気付かなかったのだろう、と私は顔を隣で溜息を吐いている人物に向けた。
「あれ、かがみんじゃん。いやー、奇遇だねー」
「こなた……ってあんたももしかして傘持って来てないの?」
「そだよー。今日は天気予報見なかったから。うん、こりゃとんだ失態だったね」
此処に同じ穴のムジナが一人。もしもこなたが傘を持っていたならそれに入れて貰って帰る事も出来ただろうに、その可能性も呆気なく打ち砕かれてしまった。
未だ途絶えるどころか弱くもならない雨は、そんな私達を嘲笑しているかのように断続的な雨音をこの世界に響かせている。近くからか、遠くからか、何処からか集まってくるこの音はやはり五月蠅かった。
「……」
何故だか私達は何時もの活気を陰に潜めさせて、沈黙を保ち続けている。かと言ってこの雰囲気が気まずい訳ではないのだけれど、それでも何時もと比べてみるとやはり違和感は拭えなかった。
何も話さずに屋根と言う盾を持っていないコンクリートに眼を向ければ未だ雨の勢いは健在で。雨足は途絶える素振りを片鱗すら覗かせなかった。
ふう、と一つ溜息を落として、隣りに座るこなたを見遣る。長い髪の毛は雨で濡れてしまって、幾つかのまとまりが出来ていた。頭の上に飛び出たアホ毛はその形を失わず、ぴょこんと天に向かって突き出している。静かに去り行く自動車の光景を眺めているこなたの眼は何処か憂いを秘めているようだったけれど、ただ呆けているだけのようにも見えた。
「……」
静かだ。
ただ、雨が大地に刺さる音と、車が横切る音が五月蠅い。それだと言うのに、私とこなたの間に流れる沈黙は静かと言う言葉以外に形容するものが見付けられなくて、それはまるで私とこなたが雨宿りに使っているこのバス停の空間だけが他の世界から隔絶されたかのような印象を受けた。
「中々止まないねー」
気の抜けた声で、こなたが呟いた。それは私に対して同意を求めた言葉だったのかも知れないけれど、私は無言でそれを肯定した。言葉を発するのが億劫に思えたのではなく、ただ言わなくてもこなたに伝わる気がしたのだ。そのこなたはと言うと、一人猫口顔で微笑みながら道路を見遣っていた。
「そう言えば、あんた何してたのよ? 家、こっちじゃないじゃない」
ふと思い出すと、こなたは此処に居る理由がない。少なくともこなたの行動原理を完全に把握していない私にとってはこんな雨の日に此処に居る事自体が不思議だ。私とこなたの家はみゆきの家ほど離れている訳ではないけれど、それでも多少の距離はある。それならば、年中面倒くさがりのこなたがこんな土砂降りの日に此処に居るはずがなかった。
尤も、これだって勝手な憶測なのだけれど。
「んー、まあ、ちょっと」
少しだけ首を上に傾けて一考した後、こなたはそう言った。何とも曖昧で不明瞭な答え。それで私を満足させる事が出来ると思っているのなら、こなたは相当な朴念仁だろう。怪訝な視線でこなたを見ると、こなたは「まあ、大した事じゃないよ」と言葉を濁してこの話題を打ち切った。
何だかお腹の奥がもやもやと嫌な気分だ。丁度、分かりそうなクイズの答えが中々出て来ない時と同じように、すっきりしない蟠りが残っている。考えてもこれが何なのか分からなかったから、取り敢えずこなたの答えに納得出来ないからなのだろう、と勝手な結論を付けて私は視線を道路へと戻した。
自動車のヘッドライトに照らされる雨の量は、先刻よりも増している気がした。
「そーいえば」
私が道路に視線を戻して、暫くもしない内にこなたが何かを思い出したようだ。閃いた、とでも言うように手の平に拳を打ち付けて軽い音を出した。それも雨音と自動車の喧騒に搔き消されてしまったけれど。
私はそんなこなたに、「どうしたのよ」と無言で伝えるような視線を投げ掛けて、二の句を待った。どうせ他愛のない世間話だろうから。それは何時もと同じの、軽い話題なのだろう。
「かがみこそ、つかさは? 何時も一緒に帰ってるのに」
ああ、そう言えば。
私とこなたが座る間の席に何かが足りないと思ったら、何時も居るはずの人物が居なかった。何だか今になって気付いたのがつかさに申し訳ないけれど、雨が私の思考能力を奪って行ったのだ、と責任転嫁をして私は今頃家の炬燵でぬくぬくと暖を取っているつかさを思い浮かべた。
「ん、先に帰らせた。私、学校でやらないといけない事があったから」
それは誰がしても良いような内容の、先生の手伝いだったのだけど、何故か強引に私が手伝わされる事になったのだ。多少疲れたものの、プリントの束を運ぶ仕事だった。
そして私の予想通り、それが終わった後に長い話に付き合わされて結局こんなに帰路に付くのが遅くなってしまったのだ。その話題も殆どがあの保健室の先生の事で、惚気話を聞かされているようで気が滅入ったのもよく覚えている。
「先生の手伝い?」
「うん、そう」
「桜庭先生?」
「よく分かったわね」
「んで、長話に付き合わされたと」
「あんたはエスパーか」
「んふふー。かがみんの事は全部お見通しだよ」
「気持ち悪い……」
「今、何かを意識したでしょ?」
「するか!」
そんな何時ものノリの、馬鹿話。最後はどうせ何かのアニメネタなのだろうけど、生憎私にはさっぱり分からない。と言うか分かりたくない。それでも何かのアニメキャラと似た事をしてしまったのは何となく分かったから、私は何だか悔しくて再び道路に視線を戻した。まだ、強い雨が地面を割らんと突き刺さっている。
はあ、と白い息を出すと、こなたは「ピッタリなのに」と、またしても訳の分からない事を言った。
「あれ、じゃああんたは? 早く帰ったにしては随分遅くない?」
よくよく考えてみればこなたがこんな所にこんな時間に居るのはかなり不自然だ。
さっきの答え方もやけに不自然だったし、まさかとは思うけどこれから彼氏の家に行くとかかも……なんて。私はそんな事有り得ないだろ、と自分に言い聞かせてからこなたの答えを待つ。こなたは少しの間逡巡した後に口を開いた。
「いやー、ゲマズ行こうと思ったんだけどね」
何か含みを持たせた物言いでこなたは笑う。私は焦らされているのが気に入らなくて、早く続きを言えよと目を尖らせた。こなたはまあ落ち着きなよ、なんて言いながら目を細めて、続きを語り出した。
「まあこの通りの雨でしょ? 途中で嫌になって……」
「嫌になって?」
「彼氏の家に行こうかと思ったのだよ」
一瞬、こなたが何を言ったのか理解出来なかった。何文字化の言葉の羅列が私の頭の中を駆け巡り、そしてその一つ一つの意味を語り掛けて、漸く話を咀嚼出来る。
私は暫くこなたの言葉を反芻した後、眼をこれでもかと言うぐらいに丸くしてこなたに詰め寄っていた。殆ど無意識の行動だったかも知れない。私は脊髄反射でこなたに詰め寄っていたのだ。
「嘘」
「即答の上に否定された私涙目なんだけどなー」
気付いた時にはその一言だけが口をついて出ていた。最初は「あんたがー?」なんて茶化したり、「あー、はいはい」なんてあしらったり。色んな行動の選択肢が頭の中にあったのに、言えたのは"嘘"の一言一文字だけで。何でこんなに焦っているんだろうと思う間もなくこなたによる追撃が始まった。
「まあでも、正しくは彼氏じゃないけどね。ただ、好きな人ってだけだよ」
その言葉を聞いた時、訳も分からない脱力感が私に圧し掛かってきた。そして、それに続いて足の爪先から昇ってくるかのような羞恥心。私は熱くなった顔を見せないようにと元の位置に座り直した。
「好きな人、居たのね」
「まあねー」
「でも、あんたが男子と話してる所なんてあまり見掛けなかったけど」
「そうだねー」
こなたの態度はさっきから何だか含ませぶりだ。
私に何か言いたい事があるんだけど、それを敢えて言わないようにしている。そんな感じだ。
自分でも何であんなに焦ったのか未だに分からないけれど、こうしてこなたの好きな人について聞く度に蟠りが色濃く感じる。それでも、まるで男に興味なさそうなこいつが好きになる人が気になった。
でも、今からこんな態度なら、これ以上踏み込んでも全てを躱されそうだ。ひらりひらりと、風を受けるみたいに簡単に。だから、私はこの蟠りを残したままにした。いっそ全部ぶちまけたい気分だったけれど。
「でもさ、少し問題があるんだよね」
暫しの逡巡、そうしてこなたは自分に語り掛けるかのように呟いた。その言葉は私に聞いて、と言っているようで、比較的小さな声量で紡がれるその言葉を一言一句聞き逃すまいと、私は降り頻る雨の中で耳を澄ました。
「その人、すっっっごく鈍感みたいで、全然気付いてくれない」
「……。ま、そう言う事もあるんじゃないの」
期待してた私が確実に存在していた。
何時もの飄々とした態度で"嘘だよ"と言ってくれる事を期待している自分がいた。そして、その期待すらも儚く散ってしまった今、私はこの話題にもう触れたくなかった。聞けば聞くほどお腹の蟠りが蠢くから。
嫌悪感を募らせる、嫌な動きで私の中を荒らして回っている。それは、こなたの話を聞くのを止めるとぴたりと収まるのだ。だから、私はこの件にもう触れたくなかった。
舞い戻る静寂が痛い。降り頻る雨の音が五月蠅い。車のヘッドライトが眩しかった。
まだこの雨は止まないのだろうか。一刻も早く家に帰りたいと思っているのに、その望みを見事に打ち砕いてくれるこの雨は鬱陶しいという他無かった。
「あ、」
こなたが声を出した。私は特に気を留めるような素振りも見せずに同じ景色に視線を向けたまま。我ながら子供みたいだと思うけれど、例え些細な話題からでも先刻のような話題が出るのが嫌だった。
声を出したのち、こなたは何やら鞄を弄っていたようだ。がさごそと、そんな音が聞こえて来る。何をやっているのか聞こうとも思ったけれど、やはりそれは出来なくて。私は変わらず雨を眺めている。出来ればこんな静寂を一刻も早く打ち破りたいのだけど、今の私には無理そうだ。こなたが何かを言うのを、ただ待つしか私には出来ない。
「はあ……」
吐いた息は白く色付いた。突然の雨だったけれど、気温を下げるのにはこの雨は十分に貢献したらしい。私は今頃になって身に襲いかかって来ている寒さに体を震わせた。着ていたコートはぐっしょりと濡れてしまってるから着たら余計に寒くなってしまう。今、そのコートはベンチの背凭れに掛けてあった。
寒さを凌ぐ手段を持たない私は出来るだけ身を縮こまらせて、暖かくなるようにした。ちらりとこなたを見遣ってみると、やはり私と同じように寒いのか小さな体躯を震わせている。私達は髪の毛が長いから、余計に寒くなるのかも知れない。こんな時はこの長い髪の毛が煩わしく思えてしまうのだけど、切ると言う行為をするつもりが毛頭ないのは何故だろう。と、意味のない思考に嵌っていると、こなたの吐息が聞こえてきた。
「何か、寒いね」
私が言わなかった言葉を代弁するかのようにこなたが呟く。寒そうに息を吐きながら、正面を向いているこなたの姿は本当に寒そうだ。彼氏――もとい、好きな人の家が近いならそこに走ってでも行く手段はあるだろうに、何故そうしないのだろう。意味も分からず傷心になっている私は、早めに一人になりたいのだけど。
「そうね。もう、春も近いのに」
私達が住んでいるこの土地には春を代表する花、桜はまだ咲いていないけれど、連日の内に感じる暖かな陽気は春の訪れを感じさせるには充分だった。そんな春の少し手前を謳歌していた私達にとっては、またしても訪れて来た冬並みの寒さが恨めしい。一直線に春に向かって進んでしまえばいいのに――なんて、考えても無駄な事だ。
そんな事を考えていた矢先だった。こなたは音も立てずにすっと立ち上がると、これまた音も立てずに私の前に無言で立ち尽くした。何事かと思ってこなたの瞳を見つめる私。こなたもそんな私を見つめている。時間の経過が感じられず、私達を取り巻く雨音が刻々と時を刻んで行く。
そして、幾らかの時間が経った後、こなたは静かな声で、けれど何処か怒ったような声で呟いた。
「寒いね」
「え? あ、ああ、そうね……って、どうしたのよ。同じ事さっきも聞いたじゃないの」
ジト目で私を見据えるこなたに多少怯みながらも私はそう返した。同じ事を反復するこなたの意図が分からず、眼を彷徨わせる私に、こなたはまだ目の前で佇んでいた。自動車のヘッドライトが浮かび上がらせるこなたの姿。それは逆光で朧気で、秘める想いすらも朧気に感じられた。
ざあ、と雨の音が耳に付く。この気まずい沈黙に拍車を掛けるような雨音が煩わしい。私は何か言える言葉が無いものかと必死に心中で模索していたが、何を言ってもこの空気は読めないのではないかと思い、結局何も言えなかった。
「……はあ――、鈍感なのはリアルじゃ迷惑なだけだね、ホント」
長い溜息を白い吐息に変えて、こなたは諦めたようにそう言った。
この場合、こなたの鈍感と言う発言は私に当てられたものなのだろうか。けれど、何故そんな事を言われているのかも分からず、私は眼を辺りに彷徨わせるばかりで。そんな私を知ってか知らずか、こなたはどかりと再びベンチに腰掛けた。
「鈍感って、私が?」
「かがみの眼には他の誰かがここに居るように見えるんだねー」
「……分かったから、そんな不貞腐れないでよ。何でそんな風に言われるのか分からないんだけど」
「そんのまんまの意味ですけど何かー」
「……」
全く、意味が分からない。此処に来た時は何処か嬉しそうな顔をしていた癖に今になってこんなに機嫌を損ねるなんて、ただ私を困らせたいだけなのだろうか。
「よいしょ、っと」
そんな事で頭を悩ませていた私を余所に、こなたは腰を少しだけ持ち上げると鞄を引き摺って自分の所へ寄せると、私に近寄った。それこそ、密着と言って差し支えないくらいに。
雨に濡れて冷えていたお互いの体は制服の布越しでも冷たく感じられたけれど、それ以上に羞恥と困惑とで混乱へと導かれた私の脳は急激に体温を上げてしまう。顔に熱が昇って行くのを感じながら、私はこなたの澄まし顔を凝視した。多分、凄く変な表情をしていたと思う。目を真丸にして、口をぽかんと開けて。
「ちょ、ちょっと! 何やってんの!」
焦って声を出せば、こなたはそっちこそ何を言ってるの、と言わんばかりの顔で私を見てきて、僅かに残っていた私とこなたの間の隙間を埋めるかのように更に身を寄せる。
離れるという選択肢もない訳ではなかったけれど、それをやるのは何だか忍びなくて――ただ私がそれをするのを嫌だっただけかも知れないけれど――私はその場で背筋を伸ばして固まっていた。
「いいじゃん、別に。寒いんだもん」
「だからって――」
「はいはい、つべこべ言わない」
焦る私を見てにやりと微笑んだこなたは小悪魔と形容出来るそれで。未だに慌てふためく私の手を握ったかと思えば、そのまま恋人がするような形に指を絡めてきた。
もう何が何だか分からなかった。こなたが何で不機嫌になったのか、何でこんな事をするのか、何でこんなに私は慌てているのか。先刻まで五月蠅いと感じていた雨音よりも今は自分の心音の方が五月蠅かった。
「……っ」
何でか拒絶する事も出来なくて、私は俯いたままこなたの手の温もりを感じていた。少しだけ濡れているこなたの手はそれでも暖かくて、私は自分の手が汗ばんでいないか、とかそんなどうでもいい事を考えている。
そんな私とは対極的に、こなたは困惑だとか羞恥だとか、そう言った感情の片鱗すらも覗かせずにぼんやりと空に広がる雲を眺めている。それが余計に私を困らせるのだ。こなたのその表情からは何の意図も汲み取れないから。
「さっきさ、好きな人が居るって言ったじゃん?」
「う、うん」
こなたは視線をそのままに語る。横顔すらまともに見る事が出来なくて、私はまだ俯いたまま。この話題は正直勘弁して欲しかったのだけど、今の私が何か言えるはずもなく、黙って言葉を受け取って、中身のない返事をした。
「その人、何時も何かと口うるさい人なんだけど逆に迫られると弱いんだよ」
「……」
こなたの話は聞こえているけれど、まだ落ち着かない。
相槌の代わりに頷いて、私は深呼吸。その間にもこなたは話を続ける。
「でも、こんなに迫ってるのにまだ気付いてくれない。私だって恥ずかしいのにね」
「え……?」
その言葉には違和感があった。
"こんなに"と言う言葉は現在も進行中だと言う事を示唆しているものだろう。それならば、こなたの"好きな人"に当てはまる人は――私? 有り得ないと分かっていつつも、それに反して胸の動悸は激しさを増してしまう。こなたは未だに平然としていて。私だけ慌ててるのが馬鹿らしく思えた。
「だからさー、その"私の好きな人"はどう思ってるのかなー? って今でも考えてるんだけど、どう思う?」
そう言ってこなたは俯く私の顔を覗き込んで来る。そこにあるのは何時もと同じ、人をからかっているかのような――けれど真剣な顔。私はこなたが言っている意味も、その"好きな人"が誰かも理解した。
そんな顔で言われたら、そう思う事しか出来ない。
こなたは卑怯だ。ズルくて、意地悪で、何時だって私の考えの斜め上を行く言葉を紡ぎ出す。だから私は何時もこんなに慌てて、一人で顔を赤くしてしまうのだ。だから、言いたい事も素直に言う事が出来ないのだ。少し前に感じていた苛立ちの正体さえも、直ぐには認める事が出来ないのだ。
「……その人も、好きなんじゃないの。……あんたの事……」
自分の体温が更に増した事が鮮明に分かる。どうして私の体はこんなにも素直なんだろう。口頭では何時も強がったりしているのに、こんな時に限って。けれど、それがこいつの好きな事であると言うのなら、それも良いかも知れない。こんな自分の個性とも楽しく向き合えるかも知れない。
こなたは私の答えを聞いて、多分満面の笑みを浮かべただろう。私は俯いていたから確証を得る事は出来ないけれど、手に籠る力と温かさが増した気がする。それは、何かが繋がった証左なのではないだろうか。
「ふふー、かがみって、ホントに可愛いよね!」
そんな喜色満面の言葉を聞いて、私は一層深く俯いた。
見えるのは細かい雨の粒。
それと、車が通る度に、暗がりを裂く光。
聞こえるのは五月蠅い雨音と、車の稼働音。
私は雨が嫌いだ。
それは未来永劫絶対不変とさえ感じられる程に。けれど、こうしてこなたの体温を直接感じて、少しだけ恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが綯い交ぜになった不思議な気持ちで時間が過ぎて行くのを見つめるのも良いかも知れない。
――ふと、こなたの鞄が眼に入った。その端から何かが飛び出ている。それは紛れもなくこの雨を遮る事が出来る道具で。それが何時までも鞄の中に入れられていた理由を考えると不覚にも微笑みが溢れ出てしまった。
それと、車が通る度に、暗がりを裂く光。
聞こえるのは五月蠅い雨音と、車の稼働音。
私は雨が嫌いだ。
それは未来永劫絶対不変とさえ感じられる程に。けれど、こうしてこなたの体温を直接感じて、少しだけ恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが綯い交ぜになった不思議な気持ちで時間が過ぎて行くのを見つめるのも良いかも知れない。
――ふと、こなたの鞄が眼に入った。その端から何かが飛び出ている。それは紛れもなくこの雨を遮る事が出来る道具で。それが何時までも鞄の中に入れられていた理由を考えると不覚にも微笑みが溢れ出てしまった。
私は、雨が嫌いだ。
――けれどそんな雨が、今は少しだけ好きになれたと、この降り頻る雨の中で思った。
――けれどそんな雨が、今は少しだけ好きになれたと、この降り頻る雨の中で思った。
――end.
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- これのこなたサイドってなかったっけ? 昔読んだ記憶があるんだけど。 -- 名無しさん (2010-07-05 23:17:26)
- この話たまに読みたくなるんだよな〜 -- 名無しさん (2009-06-07 04:45:03)
- 雰囲気がいいな -- 名無しさん (2008-08-18 19:08:39)
- かがみが鈍感って話もいいな -- 名無しさん (2008-03-29 16:26:43)
- いい文でした〜!
楽しかった。 -- 名無しさん (2008-03-29 11:47:07)