期待と不安。
よくあるカップリングであるが、それは例えば合格発表だとか、その後の4月に始まる新生活にこそふさわしいものであって、隣家の客室の大きすぎるベッドにて風邪で寝込みながら抱える感情としては、あまりふさわしいものではない。
それでもみなみの心にあるのは、期待と不安以外の何物でもなかった。注記が必要とすればその比率に関してであり、期待が1、不安が9といったところであったが。
「みなみちゃん」
名前を呼び、幼稚園児みたいなスモックを羽織り、黄色いチューリップ帽を被ったゆたかが客室に入って来るに及んで、みなみの中の期待は2になる。無事に着いたのは喜ばしいことだ。その代わり不安が98になった。何なんだこの幼稚園児ルックは。高熱で錯乱した泉先輩が、無理矢理着せて送り出したのだろうか? いずれにしても危険である。ゆたかの愛玩動物的可愛らしさを、あの人は放っておくだろうか? あるいは……
「ゆたか、本当に来てくれたんだね……」
「うん。みなみちゃんが心配だもん」
屈託なく笑うゆたかにみなみの心は癒されが、不安は998くらいに膨れ上がる。来てくれたのはありがたいが、心配になるのはむしろみなみの方である。ここまでにあっていると、自分だっていじりたくなる。そういえば、泊まりのための荷物はどうしたのだろうか……?
「高良先輩の部屋においてきたよ。おばさんからは、そこを使ってって言われたの。最初はみなみちゃんの部屋で寝るのかなって思ったんだけど、風邪が伝染るといけないからって」
「……そうだね」
常識的にはそうだが、期待していなかったといえば嘘になる。
「そしたらね、小さい服がたくさん並べてあって、高良先輩が昔着ていたものなんだって。それで私に似合うのを選び始めて……」
着せたというわけか!! みなみは戦慄し、静かに戦闘態勢へと移行した。
園児コスのゆたかは抱き締めてしまいたいほどに愛らしく、思わず触れてみたくなり、みなみは手を伸ばしてしまう。
「はーい、みなみちゃーん。お粥が出来ましたよー」
そこへ何の前触れもなくゆかりが入ってきた。手にしたお盆にはおかゆの入った丼、それを掬う匙、コップと水差しが載っている。
「あらあら……お取り込み中だったかしら?」
ゆかりにはみなみが、ゆたかの頬を包み込もうとしているように見えた。
「あ……こ、これは……。帽子が曲がっていたから……」
みなみは顔面を赤熱させ、慌てて手を引っ込める。ここはゆたかに幼稚園児の格好をさせた事を突っ込むべきであろうに……。
「あら? じゃあ何で直さないで手を引っ込めるの?」
「……」
みなみ、返す言葉なし……。
「うふふ、本当に可愛いわ。お人形さんみたい」
ゆかりはお盆をサイドテーブルに置くと大きすぎるベッドの端に腰掛け、ゆたかを抱き上げて膝の上に座らせてしまった。まるで腹話術の人形……。
「『こんにちは、私ゆたかちゃん。ゆかりおばさんのお人形なの』」
裏声で「ゆたかちゃん」のセリフを口にするゆかり。取りようによっては不穏な内容に解釈できるものだが、ゆかりに悪意はないらしい。
「ほら、セリフに合わせて口をパクパクさせないと」
その証拠に、本当の腹話術人形として(?)の演技指導(?)までしている。
「え、えと……」
ゆかりの膝の上であたふたするゆたか。
「……ゆたかが裏声で喋ればいいのでは」
「その方が腹話術人形らしく見える?」
「う、え……そ、それは……」
出した助け船が、出港直後に轟沈。いずれにしてもゆかりのペースだ。成す術をなくして、みなみは二人を見遣ることしかできない。
純粋に腹話術人形としての出来を見るならば、このまま幼稚園や小学校を訪問し、交通安全の啓発だって出来そうだと思えるくらい様になっていた。
交通安全人形「ゆたかちゃん」。この手の人形がたいてい「太郎くん」である事を考えると、画期的である。
ゆたかって、膝に乗せられるくらい軽いんだ……。
「はい、あーん」
人知れず(幸い顔には出なかった)いずれ自分も試してみようと決心を固めるみなみの口に、お粥が運ばれる。
「あの……自分で……」
食べますから、とは言えなかった。おかゆを乗せた匙を握ったゆかりが、笑顔のまま首を振る。
笑 顔 の ま ま。
「……」
みなみは口を開けたまま固まるばかり。その口にお粥と匙が入って来る。
「おばさん……あの、私が……」
膝に座ったままのゆたかが、みなみの口に匙でおかゆを運ぶ役を志願するが、ゆかりは首を横に振る。
「ゆたかちゃんじゃ届かないわ」
なるほどベッドは無駄に大きく、枕が真ん中に置かれていたため、みなみもベッドの真ん中付近にいる。したがってゆかりの膝の上からでは、みなみの口まで届きそうになかった。
「あーん」
なおもこれ見よがしに、みなみにおかゆを与えるゆかり。ゆたかは焦りを覚え、横断歩道で左右を確認する際の動作を啓蒙する交通安全人形のように辺りを見回し……それを見つけた。
「はーい、みなみちゃーん」
ゆたかが目をつけたのは、サイドテーブルの上の水差しだった。ゆかりの膝を離れるとコップに水を注ぎ、反対側に回ってベッドの上にひざ立ちになり、コップをみなみの口元へ持っていく。
「ゆたか、自分で……」
飲むから、とは言えなかった。水の入ったコップを手にしたゆたかが、笑顔のまま首を振る。
笑 顔 の ま ま。
「はい、みなみちゃん。のど渇いたでしょ」
「……」
みなみは促されるままコップに口をつけると、ゆたかがわずかにそれを傾ける。上唇までが冠水したため、みなみは吸った。飲むというよりは吸うという、何とも不自由な感覚で喉を潤す。
「はい、みなみちゃん」
そこへすかさずゆかりのお粥攻撃。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
それが済むとゆたかの水攻め。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
三度お粥攻撃。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
三度水攻め。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
その繰り返し。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
その反復。わ ら い な が ら。
やがておかゆが食器を残して全滅し、ゆかりがそれを下げる為に部屋を後にすると、みなみは疲れ果てたようにベッドに横たわった。対するゆたかは、何かこうとてつもない事をやり遂げたような顔をしていた。
何はともあれ、やっと訪れた二人だけの時間。さあ、何を話そう……。
「ゆたか、学校でのこと聞かせて」
「うん」
ゆたかはベッドに腹這いになり、頬杖を突いて3-Bの教室に呼ばれたこと、会談の模様、そこでの決定事項を1-Dで話したら、ひよりが異常反応を示したことなどを伝えた。
「田村さんが?」
「うん。なかなかおいしいシチュなんだって」
「おいしい……シチュー??」
「……シチュエーションの事だと思うよ」
「あ、ああ……そうだね」
「みなみちゃん」
ゆたかの顔がグイっと迫り、額と額がランデブー。
「まだ熱下がってないみたいだね」
ゆたかはコロコロと笑う。
「そ、そうだね……」
むしろ上がったように感じられる。
ああ、でも心安らぐ瞬間。
病は気からというが、その「気」の方は確実に癒されていくのを感じる。ゆたかが来てくれてやっぱり良かった。みなみは心からそう思った。
そうそう、シチューといえば……。
「ゆたか、夕食は?」
「食べてきちゃった。みなみちゃんの看病に専念できるように」
「それは……ありがとう」
みなみが赤面し、ゆたかがそれに続く。おかしなものだ、と二人は内心で思う。こういう反応は、さっき額をあわせたときにこそあってしかるべきものではないか? おずおずと顔を上げ、目が合ってまた伏せる。隣に、そして一緒にいるのがあまりに自然で、変に意識して初めて甘さを帯びる二人の時間。こういう得がたいものは、得てして長続きしないのが世の倣い。
「はーい、みなみちゃーん」
再びゆかりが入ってきた。その手にはわずかに湯気を上げるぬるま湯を張った洗面器と、一枚のタオル。それにパジャマの替えのつもりと思しき衣類(パジャマではなくネグリジェだったが)まで持っていた。額に濡れタオルを乗せるのなら、ぬるま湯である必要はないはずだ。……ということは?
「体を拭き拭きしましょー」
サイドテーブルに持ってきたものを置き、大発明を大発表する発明家のように両手を広げてみせる。
「……もう昼間に拭きましたよ」
みなみはボソッと言う。
「やったの、みなみちゃん!?」
ゆたか、異常反応。再びみなみに大接近。
「うん……でも、途中で電話がかかってきて」
「そ~なのよ。みゆきったらちょうどいいところでかけてきて」
三角トレードの成立を告げる電話である。それに出るためにゆかりが行ってしまった為、みなみは自分で拭き、電話が終わって戻ってくる頃には後の祭りだったというわけだ。
「よかった……」
ゆたかは胸を撫で下ろす。
「で・も」
ゆかりはというと糸目をアーチ状に和ませ、無駄に嬉しそうな顔でこう言う。
「ゆたかちゃんが来てくれたからいいかな」
みなみは嫌な予感がした。
「というわけでゆたかちゃん」
またもやひょいと抱き上げ膝の上へ。またもや交通安全人形「ゆたかちゃん」状態。
「後でゆたかちゃんも拭き拭きしましょうね」
「ダメ!」
そう言ったのはみなみだった。
「……です。ダメです……」
同じくひょいという感じでゆたかをゆかりの膝から奪回し、体の後ろに隠すと震えるようにプルプルと首を横に振る。
「あら、ど~して?」
ゆかりは、おもちゃを買ってもらえないことを承服しかねる子供のように尋ねる。
「ゆたかは子供扱いすると傷つくから……」
何とも苦しい言い分。
「あらそう……」
ゆかりの糸目は水平になり、一応納得したようではあるが、すぐにアーチ状に戻って、
「じゃあ、みなみちゃんを大いに拭き拭きしましょう!」
「え、え……?」
ゆかりに手を引っ張られ、みなみはベッドに腹這いにされる。抵抗する暇もなくグレーのちょっと男っぽい感じのパジャマの上衣がめくられ、ぬるま湯に浸して搾ったタオルが降りてきた。
「♪ふふふん ふん、ふん~」
何が楽しいのか鼻歌まで出てくるゆかりと、取り残されたゆたか。
「あの、おばさん」
「なあに?」
「私―」
当然「―がやりますから」とでも続くべきところなのだが―
「拭き拭きして欲しいの!?」
そんなこと言わせる間も与えず、ゆかりは自身の欲望を表明する。
「いえ、あの……」
「待ってて! みなみちゃんを拭き拭きしたら、すぐにやってあげるから」
無論聞いてない。
ゆたかは大いに焦った。このままでは、みなみがゆかりのものになってしまう……ような気がする。しかしタオルは一枚だけ。部屋のカーテンが目に入るが、カーテンレールに手が届きそうにないし、届いたとしてもカーテンで拭くのは色々と問題がありそうである。ベッドシーツは二人が乗っているし、自分が被ってるチューリップ帽はちょっと固そうだ。
ええい、ままよ。自分の着ているスモックを脱ごうとした時、不意にそのポケットから一枚のハンカチが零れ落ちた。擬人化された(?)チューリップが満面の笑みを浮かべている何とも微妙な柄であった。幼稚園時代のみゆきが使ってそのままだったのだろうか。約12年の封印より解き放たれ、今ぬるま湯に浸された。
「あらあら……」
ベッドの反対側に上がり、そのハンカチでみなみの体を拭き始めたゆたかを、ゆかりは意外そうな面持ちで見た。
「そんなところにあったのね、それ」
「はい、ポケットに」
「よかった。お気に入りだったのよ」
「じゃあ、高良先輩喜びますね」
「ううん、私のお気に入り」
「おばさんのなんですか?」
「うん、見つかってよかったわ」
そう言いながら、ゆかりは髪を掻き揚げる程度の軽い動作で、みなみのブラのホックを外した。
「ゆ、ゆかりさん!?」
みなみはうろたえるが、ゆかりはアーチ状の糸目で笑い返すだけ。
「ん~、邪魔だったしー。ねえ、ゆたかちゃん?」
「ええ。みなみちゃん、きれい……」
耳朶を舐めるようなうっとりとした声でゆたかが言うと、みなみは抵抗の意思を放棄してしまった。
女性的というよりは中性的、それよりも贅肉も筋肉もついてない美少年的と言った方が適切かもしれない白い背中が、元々無遠慮だった二人に蹂躙される。
「いいなあ、私も昔は……」
なんて言いながら、ゆかりの空いている方の手がみなみの尻を撫で始める。
「ゆかりさん!!」
抵抗の意思が再燃する。本人としては猟犬のように吼えたつもりだったが、ゆかりは子犬をあやすように、笑いながらこうかわす。
「ん~、みなみちゃん小尻でいいなあって」
「「……」」
絶句したのはみなみだけではなく、ゆたかもだった。水を飲ませるくらいなら笑って付き合う(張り合う)ところだが、これにはいくらなんでも、である。女王様のように超然と微笑むゆかりに比べ、自分がまるで小間使い程度の存在に思えてくる。このままではみなみが、ゆかりに征服されてしまうような気がした。だからゆたかは、その上を行く行動に出た。出なければならなかった。
「本当、かっこいい……」
ゆたかの手も、みなみの尻を撫でる。それも準強制わいせつレベル……つまり、手をパジャマの中に潜り込ませ、下着の上から。
「ゆ、ゆ、ゆ……」
首を巡らせそれをゆたかの行為だと確認すると、みなみは諦めたように全身を弛緩させて顔を布団に埋める。
「はい、じゃあ次は前ね」
それをいい事に、ゆかりはみなみをゴロン転がして仰向けにさせる。
「ボタン外しちゃいましょ」
申し合わせたかのように、二人の手がパジャマのボタンを外してご開帳。ブラのホックはすでに外されていたため、それは腕を通して胸の上に乗っているだけの格好になっていた。
「いや……」
みなみは弱々しく呻いて本能的に前を隠そうとするが、その手首を二人の魔手が捉えベッドに押し付ける。
「脇の下が拭けないでしょ」
「みなみちゃん」
叱るように見下ろす二人に、みなみの抵抗は即座に頓挫する。
そして征服される柔肌。肉付きと曲線に乏しい脇腹や鳩尾を、タオルとチューリップハンカチが撫で清めていく。やがてそれは、外れかけて浮き上がったブラの下にも達し……。
「あ……」
みなみが声を上げると、すかさずゆかりが聞く。
「みなみちゃん、気持ちいい?」
「……くすぐったい」
「そう? それは女の子としてとても残念なことね……」
「……ッ」
ベッドの上だというのに、なんだか16tくらいのおもりをくくりつけられ、海底に叩き落されたような気持ちになる。その間に予告通り腋の下まで拭いてしまうと、
「じゃあ次は下ね」
ゆかりはパジャマのズボンに手をかける。ゆたかも慌ててそれに倣う。二人の親指がショーツにかかり……。
「イヤ!」
みなみは脚を閉じ激しく首を振ったが、それ以上はしなかった。
「そう遠慮しないで。着替えさせてあげる」
笑うゆかりの顔が、闇の中で嗤う悪魔のそれに重なる。
「お世話させて、みなみちゃん」
お世話させてくれなければ死んでしまう、とでもいう様な顔で。
まるで自分が加害者であるかのような錯覚に陥る。薄い胸の中で傷むのは良心なのか。この痛みに責めさいなまれるくらいなら……。
「……」
みなみは力を抜いて脚を開く。ゆかりは嬉しそうに、
「さあ、お尻か脚を上げて」
「脱がせるよ」
二人息を合わせて脱がせようとした―その時だった。
よくあるカップリングであるが、それは例えば合格発表だとか、その後の4月に始まる新生活にこそふさわしいものであって、隣家の客室の大きすぎるベッドにて風邪で寝込みながら抱える感情としては、あまりふさわしいものではない。
それでもみなみの心にあるのは、期待と不安以外の何物でもなかった。注記が必要とすればその比率に関してであり、期待が1、不安が9といったところであったが。
「みなみちゃん」
名前を呼び、幼稚園児みたいなスモックを羽織り、黄色いチューリップ帽を被ったゆたかが客室に入って来るに及んで、みなみの中の期待は2になる。無事に着いたのは喜ばしいことだ。その代わり不安が98になった。何なんだこの幼稚園児ルックは。高熱で錯乱した泉先輩が、無理矢理着せて送り出したのだろうか? いずれにしても危険である。ゆたかの愛玩動物的可愛らしさを、あの人は放っておくだろうか? あるいは……
「ゆたか、本当に来てくれたんだね……」
「うん。みなみちゃんが心配だもん」
屈託なく笑うゆたかにみなみの心は癒されが、不安は998くらいに膨れ上がる。来てくれたのはありがたいが、心配になるのはむしろみなみの方である。ここまでにあっていると、自分だっていじりたくなる。そういえば、泊まりのための荷物はどうしたのだろうか……?
「高良先輩の部屋においてきたよ。おばさんからは、そこを使ってって言われたの。最初はみなみちゃんの部屋で寝るのかなって思ったんだけど、風邪が伝染るといけないからって」
「……そうだね」
常識的にはそうだが、期待していなかったといえば嘘になる。
「そしたらね、小さい服がたくさん並べてあって、高良先輩が昔着ていたものなんだって。それで私に似合うのを選び始めて……」
着せたというわけか!! みなみは戦慄し、静かに戦闘態勢へと移行した。
園児コスのゆたかは抱き締めてしまいたいほどに愛らしく、思わず触れてみたくなり、みなみは手を伸ばしてしまう。
「はーい、みなみちゃーん。お粥が出来ましたよー」
そこへ何の前触れもなくゆかりが入ってきた。手にしたお盆にはおかゆの入った丼、それを掬う匙、コップと水差しが載っている。
「あらあら……お取り込み中だったかしら?」
ゆかりにはみなみが、ゆたかの頬を包み込もうとしているように見えた。
「あ……こ、これは……。帽子が曲がっていたから……」
みなみは顔面を赤熱させ、慌てて手を引っ込める。ここはゆたかに幼稚園児の格好をさせた事を突っ込むべきであろうに……。
「あら? じゃあ何で直さないで手を引っ込めるの?」
「……」
みなみ、返す言葉なし……。
「うふふ、本当に可愛いわ。お人形さんみたい」
ゆかりはお盆をサイドテーブルに置くと大きすぎるベッドの端に腰掛け、ゆたかを抱き上げて膝の上に座らせてしまった。まるで腹話術の人形……。
「『こんにちは、私ゆたかちゃん。ゆかりおばさんのお人形なの』」
裏声で「ゆたかちゃん」のセリフを口にするゆかり。取りようによっては不穏な内容に解釈できるものだが、ゆかりに悪意はないらしい。
「ほら、セリフに合わせて口をパクパクさせないと」
その証拠に、本当の腹話術人形として(?)の演技指導(?)までしている。
「え、えと……」
ゆかりの膝の上であたふたするゆたか。
「……ゆたかが裏声で喋ればいいのでは」
「その方が腹話術人形らしく見える?」
「う、え……そ、それは……」
出した助け船が、出港直後に轟沈。いずれにしてもゆかりのペースだ。成す術をなくして、みなみは二人を見遣ることしかできない。
純粋に腹話術人形としての出来を見るならば、このまま幼稚園や小学校を訪問し、交通安全の啓発だって出来そうだと思えるくらい様になっていた。
交通安全人形「ゆたかちゃん」。この手の人形がたいてい「太郎くん」である事を考えると、画期的である。
ゆたかって、膝に乗せられるくらい軽いんだ……。
「はい、あーん」
人知れず(幸い顔には出なかった)いずれ自分も試してみようと決心を固めるみなみの口に、お粥が運ばれる。
「あの……自分で……」
食べますから、とは言えなかった。おかゆを乗せた匙を握ったゆかりが、笑顔のまま首を振る。
笑 顔 の ま ま。
「……」
みなみは口を開けたまま固まるばかり。その口にお粥と匙が入って来る。
「おばさん……あの、私が……」
膝に座ったままのゆたかが、みなみの口に匙でおかゆを運ぶ役を志願するが、ゆかりは首を横に振る。
「ゆたかちゃんじゃ届かないわ」
なるほどベッドは無駄に大きく、枕が真ん中に置かれていたため、みなみもベッドの真ん中付近にいる。したがってゆかりの膝の上からでは、みなみの口まで届きそうになかった。
「あーん」
なおもこれ見よがしに、みなみにおかゆを与えるゆかり。ゆたかは焦りを覚え、横断歩道で左右を確認する際の動作を啓蒙する交通安全人形のように辺りを見回し……それを見つけた。
「はーい、みなみちゃーん」
ゆたかが目をつけたのは、サイドテーブルの上の水差しだった。ゆかりの膝を離れるとコップに水を注ぎ、反対側に回ってベッドの上にひざ立ちになり、コップをみなみの口元へ持っていく。
「ゆたか、自分で……」
飲むから、とは言えなかった。水の入ったコップを手にしたゆたかが、笑顔のまま首を振る。
笑 顔 の ま ま。
「はい、みなみちゃん。のど渇いたでしょ」
「……」
みなみは促されるままコップに口をつけると、ゆたかがわずかにそれを傾ける。上唇までが冠水したため、みなみは吸った。飲むというよりは吸うという、何とも不自由な感覚で喉を潤す。
「はい、みなみちゃん」
そこへすかさずゆかりのお粥攻撃。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
それが済むとゆたかの水攻め。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
三度お粥攻撃。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
三度水攻め。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
その繰り返し。わ ら い な が ら。
「はい、みなみちゃん」
その反復。わ ら い な が ら。
やがておかゆが食器を残して全滅し、ゆかりがそれを下げる為に部屋を後にすると、みなみは疲れ果てたようにベッドに横たわった。対するゆたかは、何かこうとてつもない事をやり遂げたような顔をしていた。
何はともあれ、やっと訪れた二人だけの時間。さあ、何を話そう……。
「ゆたか、学校でのこと聞かせて」
「うん」
ゆたかはベッドに腹這いになり、頬杖を突いて3-Bの教室に呼ばれたこと、会談の模様、そこでの決定事項を1-Dで話したら、ひよりが異常反応を示したことなどを伝えた。
「田村さんが?」
「うん。なかなかおいしいシチュなんだって」
「おいしい……シチュー??」
「……シチュエーションの事だと思うよ」
「あ、ああ……そうだね」
「みなみちゃん」
ゆたかの顔がグイっと迫り、額と額がランデブー。
「まだ熱下がってないみたいだね」
ゆたかはコロコロと笑う。
「そ、そうだね……」
むしろ上がったように感じられる。
ああ、でも心安らぐ瞬間。
病は気からというが、その「気」の方は確実に癒されていくのを感じる。ゆたかが来てくれてやっぱり良かった。みなみは心からそう思った。
そうそう、シチューといえば……。
「ゆたか、夕食は?」
「食べてきちゃった。みなみちゃんの看病に専念できるように」
「それは……ありがとう」
みなみが赤面し、ゆたかがそれに続く。おかしなものだ、と二人は内心で思う。こういう反応は、さっき額をあわせたときにこそあってしかるべきものではないか? おずおずと顔を上げ、目が合ってまた伏せる。隣に、そして一緒にいるのがあまりに自然で、変に意識して初めて甘さを帯びる二人の時間。こういう得がたいものは、得てして長続きしないのが世の倣い。
「はーい、みなみちゃーん」
再びゆかりが入ってきた。その手にはわずかに湯気を上げるぬるま湯を張った洗面器と、一枚のタオル。それにパジャマの替えのつもりと思しき衣類(パジャマではなくネグリジェだったが)まで持っていた。額に濡れタオルを乗せるのなら、ぬるま湯である必要はないはずだ。……ということは?
「体を拭き拭きしましょー」
サイドテーブルに持ってきたものを置き、大発明を大発表する発明家のように両手を広げてみせる。
「……もう昼間に拭きましたよ」
みなみはボソッと言う。
「やったの、みなみちゃん!?」
ゆたか、異常反応。再びみなみに大接近。
「うん……でも、途中で電話がかかってきて」
「そ~なのよ。みゆきったらちょうどいいところでかけてきて」
三角トレードの成立を告げる電話である。それに出るためにゆかりが行ってしまった為、みなみは自分で拭き、電話が終わって戻ってくる頃には後の祭りだったというわけだ。
「よかった……」
ゆたかは胸を撫で下ろす。
「で・も」
ゆかりはというと糸目をアーチ状に和ませ、無駄に嬉しそうな顔でこう言う。
「ゆたかちゃんが来てくれたからいいかな」
みなみは嫌な予感がした。
「というわけでゆたかちゃん」
またもやひょいと抱き上げ膝の上へ。またもや交通安全人形「ゆたかちゃん」状態。
「後でゆたかちゃんも拭き拭きしましょうね」
「ダメ!」
そう言ったのはみなみだった。
「……です。ダメです……」
同じくひょいという感じでゆたかをゆかりの膝から奪回し、体の後ろに隠すと震えるようにプルプルと首を横に振る。
「あら、ど~して?」
ゆかりは、おもちゃを買ってもらえないことを承服しかねる子供のように尋ねる。
「ゆたかは子供扱いすると傷つくから……」
何とも苦しい言い分。
「あらそう……」
ゆかりの糸目は水平になり、一応納得したようではあるが、すぐにアーチ状に戻って、
「じゃあ、みなみちゃんを大いに拭き拭きしましょう!」
「え、え……?」
ゆかりに手を引っ張られ、みなみはベッドに腹這いにされる。抵抗する暇もなくグレーのちょっと男っぽい感じのパジャマの上衣がめくられ、ぬるま湯に浸して搾ったタオルが降りてきた。
「♪ふふふん ふん、ふん~」
何が楽しいのか鼻歌まで出てくるゆかりと、取り残されたゆたか。
「あの、おばさん」
「なあに?」
「私―」
当然「―がやりますから」とでも続くべきところなのだが―
「拭き拭きして欲しいの!?」
そんなこと言わせる間も与えず、ゆかりは自身の欲望を表明する。
「いえ、あの……」
「待ってて! みなみちゃんを拭き拭きしたら、すぐにやってあげるから」
無論聞いてない。
ゆたかは大いに焦った。このままでは、みなみがゆかりのものになってしまう……ような気がする。しかしタオルは一枚だけ。部屋のカーテンが目に入るが、カーテンレールに手が届きそうにないし、届いたとしてもカーテンで拭くのは色々と問題がありそうである。ベッドシーツは二人が乗っているし、自分が被ってるチューリップ帽はちょっと固そうだ。
ええい、ままよ。自分の着ているスモックを脱ごうとした時、不意にそのポケットから一枚のハンカチが零れ落ちた。擬人化された(?)チューリップが満面の笑みを浮かべている何とも微妙な柄であった。幼稚園時代のみゆきが使ってそのままだったのだろうか。約12年の封印より解き放たれ、今ぬるま湯に浸された。
「あらあら……」
ベッドの反対側に上がり、そのハンカチでみなみの体を拭き始めたゆたかを、ゆかりは意外そうな面持ちで見た。
「そんなところにあったのね、それ」
「はい、ポケットに」
「よかった。お気に入りだったのよ」
「じゃあ、高良先輩喜びますね」
「ううん、私のお気に入り」
「おばさんのなんですか?」
「うん、見つかってよかったわ」
そう言いながら、ゆかりは髪を掻き揚げる程度の軽い動作で、みなみのブラのホックを外した。
「ゆ、ゆかりさん!?」
みなみはうろたえるが、ゆかりはアーチ状の糸目で笑い返すだけ。
「ん~、邪魔だったしー。ねえ、ゆたかちゃん?」
「ええ。みなみちゃん、きれい……」
耳朶を舐めるようなうっとりとした声でゆたかが言うと、みなみは抵抗の意思を放棄してしまった。
女性的というよりは中性的、それよりも贅肉も筋肉もついてない美少年的と言った方が適切かもしれない白い背中が、元々無遠慮だった二人に蹂躙される。
「いいなあ、私も昔は……」
なんて言いながら、ゆかりの空いている方の手がみなみの尻を撫で始める。
「ゆかりさん!!」
抵抗の意思が再燃する。本人としては猟犬のように吼えたつもりだったが、ゆかりは子犬をあやすように、笑いながらこうかわす。
「ん~、みなみちゃん小尻でいいなあって」
「「……」」
絶句したのはみなみだけではなく、ゆたかもだった。水を飲ませるくらいなら笑って付き合う(張り合う)ところだが、これにはいくらなんでも、である。女王様のように超然と微笑むゆかりに比べ、自分がまるで小間使い程度の存在に思えてくる。このままではみなみが、ゆかりに征服されてしまうような気がした。だからゆたかは、その上を行く行動に出た。出なければならなかった。
「本当、かっこいい……」
ゆたかの手も、みなみの尻を撫でる。それも準強制わいせつレベル……つまり、手をパジャマの中に潜り込ませ、下着の上から。
「ゆ、ゆ、ゆ……」
首を巡らせそれをゆたかの行為だと確認すると、みなみは諦めたように全身を弛緩させて顔を布団に埋める。
「はい、じゃあ次は前ね」
それをいい事に、ゆかりはみなみをゴロン転がして仰向けにさせる。
「ボタン外しちゃいましょ」
申し合わせたかのように、二人の手がパジャマのボタンを外してご開帳。ブラのホックはすでに外されていたため、それは腕を通して胸の上に乗っているだけの格好になっていた。
「いや……」
みなみは弱々しく呻いて本能的に前を隠そうとするが、その手首を二人の魔手が捉えベッドに押し付ける。
「脇の下が拭けないでしょ」
「みなみちゃん」
叱るように見下ろす二人に、みなみの抵抗は即座に頓挫する。
そして征服される柔肌。肉付きと曲線に乏しい脇腹や鳩尾を、タオルとチューリップハンカチが撫で清めていく。やがてそれは、外れかけて浮き上がったブラの下にも達し……。
「あ……」
みなみが声を上げると、すかさずゆかりが聞く。
「みなみちゃん、気持ちいい?」
「……くすぐったい」
「そう? それは女の子としてとても残念なことね……」
「……ッ」
ベッドの上だというのに、なんだか16tくらいのおもりをくくりつけられ、海底に叩き落されたような気持ちになる。その間に予告通り腋の下まで拭いてしまうと、
「じゃあ次は下ね」
ゆかりはパジャマのズボンに手をかける。ゆたかも慌ててそれに倣う。二人の親指がショーツにかかり……。
「イヤ!」
みなみは脚を閉じ激しく首を振ったが、それ以上はしなかった。
「そう遠慮しないで。着替えさせてあげる」
笑うゆかりの顔が、闇の中で嗤う悪魔のそれに重なる。
「お世話させて、みなみちゃん」
お世話させてくれなければ死んでしまう、とでもいう様な顔で。
まるで自分が加害者であるかのような錯覚に陥る。薄い胸の中で傷むのは良心なのか。この痛みに責めさいなまれるくらいなら……。
「……」
みなみは力を抜いて脚を開く。ゆかりは嬉しそうに、
「さあ、お尻か脚を上げて」
「脱がせるよ」
二人息を合わせて脱がせようとした―その時だった。
ワン ワン ワン
激しく吼える犬の声。
「チェリー……?」
「チェリーちゃん?」
「あらあら」
一応責任者の立場にあるゆかりが、渋々という感じで窓から外を覗く。
「不審者さんかしら?」
「不審者!?」
びっくりしたゆたかも背伸びして庭を見下ろす。みなみも急いで着衣の乱れを正し、チェリーの姿を探す。庭の見下ろせる位置で、チェリーの目が黄色く光る。
「チェリー……?」
「チェリーちゃん?」
「あらあら」
一応責任者の立場にあるゆかりが、渋々という感じで窓から外を覗く。
「不審者さんかしら?」
「不審者!?」
びっくりしたゆたかも背伸びして庭を見下ろす。みなみも急いで着衣の乱れを正し、チェリーの姿を探す。庭の見下ろせる位置で、チェリーの目が黄色く光る。
ワン ワン ワン
みなみの姿を認めたのか、チェリーはさらに激しく吼える。
「そうじゃないみたいです。こっちを見て吼えてる……」
みなみは思い当たるところがあり、ゆかりに尋ねる。
「ゆかりさん、散歩は……?」
「ううん」
ゆかりは口を尖らせて首を振る。
「おばさん、ハーネスのつけ方分かんないもん……首輪ならともかく」
大型犬を操るには首輪よりハーネスの方がいいとイギリスの犬調教番組で言っていたので、みなみもそれに従ったのだ。
「欲求不満……」
みなみはボソッと言った。無論ゆかりのことではなく、散歩に連れてってもらえないチェリーのことである。
「そうだ」
名案の浮かんだゆかりは、ポンと手を打つ。
「ゆたかちゃん、行ってらっしゃいよ」
「え……ええっ!?」
「チェリーちゃんと仲が良いんでしょ?」
「そうですけど……」
「おばさん、みなみちゃんの体を拭き拭きして待ってるから」
ゆたかの中の何かに火がつく。
「おばさんこそ行ってください。もう暗いし、地元じゃないから迷子になったら帰れません。みなみちゃんの拭き拭きは私がやっておきますから」
二人の視線がぶつかり、火花が散る。みなみが人間ではなく導火線だったら、即座に点火完了となっていただろう。
「迷子になっても大丈夫よ。ゆたかちゃん小さいから、チェリーちゃんが乗せてくれるわ」
「おばさんこそ行くべきですよ。迷子になるくらいの方がいい運動になりますよ」
なおも譲り合う(押し付けあう)二人をよそに、みなみはパジャマを脱ぎ、ネグリジェではなく外着にせっせと着替えていく。二人が気付いた時、みなみはすっかり準備完了してて……。
「私が……行きます」
熱に浮かされた赤い顔で、みなみは決然と言う。
新たなライバル出現。よもやチェリーにみなみを取られるわけにはいかず、間髪をいれずに二人は叫んだのだった。
「「私も行く」」
「そうじゃないみたいです。こっちを見て吼えてる……」
みなみは思い当たるところがあり、ゆかりに尋ねる。
「ゆかりさん、散歩は……?」
「ううん」
ゆかりは口を尖らせて首を振る。
「おばさん、ハーネスのつけ方分かんないもん……首輪ならともかく」
大型犬を操るには首輪よりハーネスの方がいいとイギリスの犬調教番組で言っていたので、みなみもそれに従ったのだ。
「欲求不満……」
みなみはボソッと言った。無論ゆかりのことではなく、散歩に連れてってもらえないチェリーのことである。
「そうだ」
名案の浮かんだゆかりは、ポンと手を打つ。
「ゆたかちゃん、行ってらっしゃいよ」
「え……ええっ!?」
「チェリーちゃんと仲が良いんでしょ?」
「そうですけど……」
「おばさん、みなみちゃんの体を拭き拭きして待ってるから」
ゆたかの中の何かに火がつく。
「おばさんこそ行ってください。もう暗いし、地元じゃないから迷子になったら帰れません。みなみちゃんの拭き拭きは私がやっておきますから」
二人の視線がぶつかり、火花が散る。みなみが人間ではなく導火線だったら、即座に点火完了となっていただろう。
「迷子になっても大丈夫よ。ゆたかちゃん小さいから、チェリーちゃんが乗せてくれるわ」
「おばさんこそ行くべきですよ。迷子になるくらいの方がいい運動になりますよ」
なおも譲り合う(押し付けあう)二人をよそに、みなみはパジャマを脱ぎ、ネグリジェではなく外着にせっせと着替えていく。二人が気付いた時、みなみはすっかり準備完了してて……。
「私が……行きます」
熱に浮かされた赤い顔で、みなみは決然と言う。
新たなライバル出現。よもやチェリーにみなみを取られるわけにはいかず、間髪をいれずに二人は叫んだのだった。
「「私も行く」」
「腐っても鯛」という言葉がある。もし差し支えなければ、今日からそれを「風邪を引いてもみなみ」と言い換えて欲しい。
チェリーは走る。朝から散歩に連れて行ってもらえない欲求不満を発散すべく、彼女は東京の蒼い闇の下で風になる。
みなみはハーネスを握り締め、それに追随する。風邪が完治しておらず、体はだるく、脚の関節も痛むだろう。しかしいざ走らせたら、こなたと同じタイムを叩き出すスプリンターである。だからみなみも風になる。風邪を引いても風になる。
一方、昼ドラ大好きのインドア派セレブマダム・ゆかりと、保健室のヌシ・ゆたか。
この四者が走るとどうなるか?
答えはこうである!
「「みなみちゃーん、待ってぇ~」」
二人はすぐに離されてしまい、チェリーとともに闇に同化したみなみを見失う。
それでも追いかけようとするのだが……。
「きゃ」
ゆたかはあそびにんみたいに足をもつれさせて転倒。黄色いチューリップ帽が外れて道に転がる。
「あらあら……。大変」
ゆかりは荒い息をつきながら、ゆたかを振り返る。
「とっても似合ってるのに……」
ゆかりは引き返し、外れたチューチップ帽を被せ直した。
「おばさん……」
顔を上げたゆたかは、目に涙を浮かべていた。敗北感に打ちひしがれていた。
「大丈夫よ。すぐに戻ってくるわ」
その通りだった。
やがて足音が聞こえ、姿が見え……。
「ゆかりさん、ゆたかを、お願いしま~~~~す」
ドップラー効果を利かせながら、緑と白の風が二人の傍らを吹き抜けていった。
「うふ、みなみちゃんにお願いされちゃった。じゃあ戻りましょ」
ゆかりはゆたかを背負って立ち上がる。
「軽いわ~。みゆきの幼稚園時代を思い出しちゃう。あの子よく転ぶ子で、こうやっておんぶしてあげたわ~」
幼稚園児の格好をしたゆたかは、しがみつきつつ膨れ面で抗議する。
「せめて小学校の頃を思い出してください」
それにしたって志の低い話である。
チェリーは走る。朝から散歩に連れて行ってもらえない欲求不満を発散すべく、彼女は東京の蒼い闇の下で風になる。
みなみはハーネスを握り締め、それに追随する。風邪が完治しておらず、体はだるく、脚の関節も痛むだろう。しかしいざ走らせたら、こなたと同じタイムを叩き出すスプリンターである。だからみなみも風になる。風邪を引いても風になる。
一方、昼ドラ大好きのインドア派セレブマダム・ゆかりと、保健室のヌシ・ゆたか。
この四者が走るとどうなるか?
答えはこうである!
「「みなみちゃーん、待ってぇ~」」
二人はすぐに離されてしまい、チェリーとともに闇に同化したみなみを見失う。
それでも追いかけようとするのだが……。
「きゃ」
ゆたかはあそびにんみたいに足をもつれさせて転倒。黄色いチューリップ帽が外れて道に転がる。
「あらあら……。大変」
ゆかりは荒い息をつきながら、ゆたかを振り返る。
「とっても似合ってるのに……」
ゆかりは引き返し、外れたチューチップ帽を被せ直した。
「おばさん……」
顔を上げたゆたかは、目に涙を浮かべていた。敗北感に打ちひしがれていた。
「大丈夫よ。すぐに戻ってくるわ」
その通りだった。
やがて足音が聞こえ、姿が見え……。
「ゆかりさん、ゆたかを、お願いしま~~~~す」
ドップラー効果を利かせながら、緑と白の風が二人の傍らを吹き抜けていった。
「うふ、みなみちゃんにお願いされちゃった。じゃあ戻りましょ」
ゆかりはゆたかを背負って立ち上がる。
「軽いわ~。みゆきの幼稚園時代を思い出しちゃう。あの子よく転ぶ子で、こうやっておんぶしてあげたわ~」
幼稚園児の格好をしたゆたかは、しがみつきつつ膨れ面で抗議する。
「せめて小学校の頃を思い出してください」
それにしたって志の低い話である。
チェリーはすっかり満足したらしい。みなみ争奪戦からも身を引き、岩崎家から持ってきた犬小屋に素直に引っ込んで行った。
疲れ果てたのは人間たち。ゆたかに至ってはすでに眠りに落ちていた。
みなみはゆかりの背中から下ろしたゆたかを抱え、みゆきのベッドに寝かせると、自分の客間へと下がり、無駄に大きいベッドに倒れこむ。体は十分に温まった。このまま冷やさないようにすれば、熱は下がるだろう。このまま寝てしまおう。
灯りを消そうとリモコンに手を伸ばした時、突然部屋のドアが開いた。見覚えのある(!)ネグリジェに着替え、両腕で園児服のままのゆたかを抱えていた。
「三人で寝られるベッドが他にないのよ」
そんな事を言って、当たり前のようにベッドに入ってくる。なるべく離れようとするみなみを抱き寄せ、「川」の字というよりは「木」の字を作り、そのまま寝てしまうつもりらしい。
一体何なのか。今日のゆかりは、いつもにも増しておかしい。その事を説明できる仮説を、みなみはその時までに見つけていた。
「……ゆかりさん」
「なあに、みなみちゃん?」
「本当は……」
聞くべきか、聞かざるべきか。
「……」
「なあに、寝言?」
「…………はい」
「じゃあ私は寝聞き」
寝聞き? まあ、言わんとすることは分かるので、みなみは続けた。
「本当は……」
「うん」
「みゆきさんの弟か妹が欲しかったじゃないですか?」
迂遠な言い回しだと思う。みゆきの弟か妹といえば、ゆかり自身が産むよりないのだ。それより、これは聞いていいことだったのだろうか? 答えたくなければ、ゆかりはそのまま寝てしまうだろうが……。
「そうなのよ」
意外にもゆかりは至って気楽に答えた。
「あの子、来年は大学生でしょ。子育ても終わりかと思うと……何か物足りなくなっちゃって」
「物足りない??」
みなみには理解しかねる感覚だった。
「うん、みゆきがあまり手のかからない子だから」
「ああ……」
首肯しながらも、みなみには完全に納得がいったわけではない。物足りないとか張り合いがないとか、それらはやはりゆかりに似つかわしい感じがしなかった。
「それで私たちを代わりに……?」
自分だけではなく、ゆたかをもターゲットにしている節があった。だから「私たち」なのである。
「うん。おむつ交換の感覚を思い出したりしてね」
「え゛……」
みなみのパジャマのズボンを脱がせようとしたのは、つまりそういう事だったわけだ。
絶句するみなみに構わず、ゆかりは暢気に提案する。
「明日になったら、三人でお風呂入りましょ。今日は入れなかったし」
「いいですけど……服は自分で脱ぎますから」
「あら、残念……。ふふ、みなみちゃんあったかい」
「風邪、伝染っちゃいますよ」
「いいもーん。みなみちゃんが看病してくれるから」
そんな事を言いながら、ゆかりはみなみを抱き寄せる。みなみもみなみで、ネグリジェの裾をぎゅっと握ったりして……。
やがて二人は互いのぬくもりに包まれながら、ゆたかに続いて眠りに落ちていった。
疲れ果てたのは人間たち。ゆたかに至ってはすでに眠りに落ちていた。
みなみはゆかりの背中から下ろしたゆたかを抱え、みゆきのベッドに寝かせると、自分の客間へと下がり、無駄に大きいベッドに倒れこむ。体は十分に温まった。このまま冷やさないようにすれば、熱は下がるだろう。このまま寝てしまおう。
灯りを消そうとリモコンに手を伸ばした時、突然部屋のドアが開いた。見覚えのある(!)ネグリジェに着替え、両腕で園児服のままのゆたかを抱えていた。
「三人で寝られるベッドが他にないのよ」
そんな事を言って、当たり前のようにベッドに入ってくる。なるべく離れようとするみなみを抱き寄せ、「川」の字というよりは「木」の字を作り、そのまま寝てしまうつもりらしい。
一体何なのか。今日のゆかりは、いつもにも増しておかしい。その事を説明できる仮説を、みなみはその時までに見つけていた。
「……ゆかりさん」
「なあに、みなみちゃん?」
「本当は……」
聞くべきか、聞かざるべきか。
「……」
「なあに、寝言?」
「…………はい」
「じゃあ私は寝聞き」
寝聞き? まあ、言わんとすることは分かるので、みなみは続けた。
「本当は……」
「うん」
「みゆきさんの弟か妹が欲しかったじゃないですか?」
迂遠な言い回しだと思う。みゆきの弟か妹といえば、ゆかり自身が産むよりないのだ。それより、これは聞いていいことだったのだろうか? 答えたくなければ、ゆかりはそのまま寝てしまうだろうが……。
「そうなのよ」
意外にもゆかりは至って気楽に答えた。
「あの子、来年は大学生でしょ。子育ても終わりかと思うと……何か物足りなくなっちゃって」
「物足りない??」
みなみには理解しかねる感覚だった。
「うん、みゆきがあまり手のかからない子だから」
「ああ……」
首肯しながらも、みなみには完全に納得がいったわけではない。物足りないとか張り合いがないとか、それらはやはりゆかりに似つかわしい感じがしなかった。
「それで私たちを代わりに……?」
自分だけではなく、ゆたかをもターゲットにしている節があった。だから「私たち」なのである。
「うん。おむつ交換の感覚を思い出したりしてね」
「え゛……」
みなみのパジャマのズボンを脱がせようとしたのは、つまりそういう事だったわけだ。
絶句するみなみに構わず、ゆかりは暢気に提案する。
「明日になったら、三人でお風呂入りましょ。今日は入れなかったし」
「いいですけど……服は自分で脱ぎますから」
「あら、残念……。ふふ、みなみちゃんあったかい」
「風邪、伝染っちゃいますよ」
「いいもーん。みなみちゃんが看病してくれるから」
そんな事を言いながら、ゆかりはみなみを抱き寄せる。みなみもみなみで、ネグリジェの裾をぎゅっと握ったりして……。
やがて二人は互いのぬくもりに包まれながら、ゆたかに続いて眠りに落ちていった。
電話が鳴っても携帯が鳴っても、誰も目を覚まさない……。
……
-追記-
みゆきの依頼で高良家の様子を見に行った警備会社社員による
『とある一家への追憶』
『とある一家への追憶』
あの家に着いたのは日付の変わる前だったか、変わった後だったか……まあ、大体それくらいだったかな。
灯りは消えていたが、何度も呼び出したら、その内眠そうな顔をした緑髪の女の子が出てきたよ。異変はなさそうだったが、上からは何故か家人全員の無事を確認するようにと厳命されていた。なんでも、警察の口添えもあったとか……。
俺はその旨を女の子に話して、寝室に案内してもらった。
ああ、寝室だ。
変な気を起こすはずもないが、意識しなかったといえば嘘になる。その場に男は俺だけだったからな。
寝室じゃ奥さんと別の女の子が気持ちよさそうに寝てた。それが確認できたので、俺は挨拶(礼を言ってそして詫びて、だな)してその場を去った。ただそれだけだ。
灯りは消えていたが、何度も呼び出したら、その内眠そうな顔をした緑髪の女の子が出てきたよ。異変はなさそうだったが、上からは何故か家人全員の無事を確認するようにと厳命されていた。なんでも、警察の口添えもあったとか……。
俺はその旨を女の子に話して、寝室に案内してもらった。
ああ、寝室だ。
変な気を起こすはずもないが、意識しなかったといえば嘘になる。その場に男は俺だけだったからな。
寝室じゃ奥さんと別の女の子が気持ちよさそうに寝てた。それが確認できたので、俺は挨拶(礼を言ってそして詫びて、だな)してその場を去った。ただそれだけだ。
でもまあ、あれだ。
のんびり屋の母にしっかり者の長女、甘えん坊の次女ってとこか。
仲の良さそうな親子だったな……。
のんびり屋の母にしっかり者の長女、甘えん坊の次女ってとこか。
仲の良さそうな親子だったな……。
おわり
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- 大仰な文体がいい雰囲気。
しかしまさかゆかりママをここまでメインに出すとは…。その展開はよめなかったw -- 名無しさん (2008-10-09 21:05:12)