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ソラニ、オチル

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 空が高い。
 どこまでも深い青色の背景に、紙粘土のようなくっきりとした雲がいくつも浮かんでいる。
 まだ夏の空だ。
 でも、それももうすぐ終わる。
 日中の暑さもだいぶ和らいできた。もうしばらくすれば、紙粘土から千切った綿みたいになって、
 ウロコや羊の群を形作るようになるのだろう。
 遮るものが何もないこの屋上から見上げる空は、本当に広くて、高くて、深くて、大きい。
 『空のような人』なんて表現を本やテレビでたまに見聞きする。
 けど、そんなのは嘘っぱちだと思う。
 そんな表現をする人は、きっとこうしてじっくりと空を眺めたことがないんだと思う。
 だって、“これ”に匹敵するほどの人間なんて、いるわけがないから。

「……ん……」

 ずっと見上げていると首が痛い。
 指で筋肉を揉みほぐし、ぐるりと回すと、関節がごりごりと音を立てた。おばさんみたいだ。
 半笑いの息をつく。
 寝転んでしまおうか。
 そんなことを考える。即座に理性が否定する。
 誰かに見られたらどうする、はしたない。制服や髪も汚れてしまうじゃないか、と。
 以前の私なら素直に従っていたであろうそれらの声を、しかし今の私は無視をした。
「……ふぅ……」
 コンクリートの床面に身体を横たえ、手足を大の字に投げ出す。
 そうしてあらためて仰いだ空は……さすがに、少し眩しかった。
 日はだいぶ傾いているけど、まだ十分に明るく青い。全身に降り注ぐ光も、温かいというよりは、暑い。
 背中に当たるゴツゴツとした感触はちょっと痛くて、だけど少しだけ、気持ちがよかった。
 やはり私は、少し変わったのだろうか。

 それにしても、こんな格好、何年ぶりだろう。
 わからないけど、とっさに思い出せないぐらい遠い昔以来だ。
 それこそ男も女もなかった幼児期以来。
 特に私の場合は、そこから抜け出すのが人より早い方だったと思うから、なおさら遠い。
「……」
 目を閉じる。
 思い浮かぶ、二人の顔。
 私のお姉ちゃんと、みさちゃんのお兄さん。
 私がこんなにも“女の子”になってしまったのは、男と女、それぞれの見本のようなあの人たちが
 すぐそばにいたからだ。

 私が初めてそれに気付いたとき、二人ともまだ小学生だったと思う。
 だけど私の目には、二人とも既に立派な大人に見えた。
 そして明らかに、お互いを異性として意識しあっていた。子ども心にもそれがわかった。
 ううん、もしかしたら勘違いだったのかも知れない。でも当時の私にはそうとしか見えなかった。
 それが当時の私にとっての絶対の真実だった。
 だから、私は――私も、“女の子”にならなければならなかったんだ。
 だってあのままだったら、きっと二人はお互いの気持ちを伝えあって、結ばれていたから。
 そんなのはダメだと思ったから。許せなかったから。

 といっても、別に彼のことが好きだったわけじゃない。
 いや、もちろん好きは好きだった。いつも優しかったし、一緒に遊んでくれていたし。
 だけどその感情は恋でも憧れでもなかった。
 だってあのときの私は、彼のことを独立した個人であるとすら思っていなかったから。

 『みさちゃんのお兄さん』という、大好きな親友の付属物程度にしか、私は彼のことを見ていなかった。
 そして、優しくしてくれるのも、遊んでくれるのも、『みさちゃんの』だからだと、そう思っていた。
 現に『私の』お姉ちゃんはそうではなかった。ときどき厳しくて、あまり遊んでくれなかった。
 二人の違いを、私はそんなふうに理解してしまっていたのだ。……たぶん。
 実際はもっと漠然とした印象だったはずだから、正確なところはよくわからない。
 とにかく、彼は『みさちゃんの』だった。みさちゃんという存在を構成する一部分だった。
 そして、そのときには既に、私はみさちゃんのことが大好きだった。この世の何よりも大切だった。
 この世界の全てにも等しい存在だったんだ。

 そう。
 つまりは、そういうこと。

 許せるわけがない。見過ごせるはずがない。
 この世界が、たとえその一部分に過ぎないとしても、他の誰かのものになってしまうなんてこと。
 だから、私は。
 お姉ちゃんと張り合うために――世界に崩壊の危機を招こうとしていたあの人に立ち向かうために、
 あの人と同じ“女の子”にならなければならなかったんだ。

 馬鹿ばかしい話だ。
 訳がわからない。子どもの理論だということを差し引いても乱暴すぎる。
 だけど、どんなに馬鹿げていたとしても、当時の私にはやはりそれが絶対の真実で。
 結果として、私の目論見は長い年月をかけて果たされた。
 そして今でも続いている。
 もちろんそんな理由だけで彼と付き合いを続けているわけじゃない。
 今では一人の男性として普通に好きだし、尊敬しているし、いとしいと思っている。
 初めて身体を重ねたときは身も心も彼のことだけで満たされた。
 だけどそれでも、やっぱりそれらは純粋な想いじゃない。
 あとからくっついてきたものという感じしかしない。
 その証拠に、私は未だにあの人のことを名前で呼ぶことができていない。

 結局のところ、私が大切に思うのはみさちゃんただ一人でしかなくて。
 考えや行動の中心にはいつでもみさちゃんがいて。
 他のことは基本的にどうでもいいと思ってるんだ。
 真剣になって取り組めるれるのはみさちゃんの関わりのあることだけだし、本気で怒ることができるのも
 みさちゃんの害になりうるものに対してだけ。
 そんなふうに、私は、みさちゃんを通してでしか世界を見ることができない。
 そして。
 だけど。
 その理由はというと、これがさっぱりわからないのだ。
 気が付いたときには既に私はこうなっていて、そんな自分を疑問に思うことすらほとんどなかった。

 みさちゃんだから。

 それだけで全てに納得ができた。
 きっと私はそういうふうに生まれついてしまったのだろう。
 でも、それじゃダメなんだ。そのままじゃダメなんだということは、わかってる。
 わかってはいるけど、そう理解しているのは理性の方だけで、感情の方はまだ追いついてきてくれない。

「……」
 目を開く。
 空が眩しい。
 鳥の形をした雲が、右手の方から流れてきて、真上にくる手前あたりでゆっくりと崩れて、消えた。
 どうやら上空は風が強いらしい。
 さっきまで空の半分ほどを占めていた他の雲たちも、今は一割以下にまで減ってしまっている。
 一面のアオだ。
 ただ、その色は均一じゃない。
 山際や街の方の上空など、角度の浅いところは白っぽくて、真上に行くほど濃くなっていく。
 直上などは黒ずんでさえ見える。
 大気の層の相対的な厚み違いが原因なのだろう。
 斜めよりまっすぐに見上げたときの方が宇宙までの距離が近いから、そう見える。

 ああ、そうか。

 空って、丸いんだ。

 気付いた瞬間、世界がぐるりと反転した。
 とてつもなく巨大なボウル見下ろしている気分になる。
 どこまでも高く深く広がっていたはずの青色が、薄っぺらの膜に見える。
 その“下”には真っ黒な宇宙が、底なしの闇が淀んでいる。
 背中を支えるゴツゴツとした感触が、急に頼りないものに思えてきた。
 硬くて、まったいら。
 掴まれるところがどこにもない。
 首筋が粟立った。

 ――あ。


 ――――――――落ちる。







































「――あやの?」



「……」
 声、が。
 “上”から、降ってきた。

 反転していた世界がもとに戻る。重力が正しく下を向く。背中にコンクリートからの反作用を感じる。
 屋上の地面をなでるようにして吹いた風が全身の汗をさらっていく。心臓がドキドキと脈打っている。
 目の前の、もとの通りの広さと高さと深さと大きさを取り戻した空に、丸い何かが突き出している。
 人の頭だ。
 じわり、と、身体の奥から温かいものが湧き出でて、安堵の息が口から漏れた。

「……みさちゃん……」

「なにやってんだよ、こんなトコで」
 呆れたような問いかけの声。
 私は答えず、ちらり、目線を上の方に動かした。
「みさちゃん」
「ん?」
「ぱんつ見えてる」
「え、うぇ!? ――な、っちょ!」
 言うと、みさちゃんは奇声を発しながらスカートを押さえて一歩下がった。
 赤くなったのが逆光の中でもわかった。笑みがこぼれる。
「だめよ? 寝てる人の頭の上に立つなんて。もっとお行儀よくしないと」
「こ、こんなトコで寝転んでるヤツに言われたかねーよっ!」
 降り注いでくる怒鳴り声に、私はますます笑いを深める。
 あぁ、やっぱりみさちゃんは可愛いなぁ。
「てか、だから、何やってんだって訊いてんだよ」
 顔を赤くしたままでみさちゃんが言う。
 私は、少し考えて、正直に答えることにした。
「空を見てたの」
「ソラ?」
 言葉に引っ張り上げられるように、みさちゃんの首が上を向く。
 あごから首元にかけての滑らかなライン。
 お兄さんのそれに、よく似てる。
 だけど喉の中央にでっぱりはない。似ているけど、それでも確かに女の子のラインだ。
 みさちゃんも、ちゃんと女の子になっている。
「……なんもないぞ?」
「空だもん」
「ふーん」
 興味なさそうにうなずいたみさちゃんは、さっき私がしたのと同じように、首の後ろを手で揉んだ。
 そして、早くも飽きてしまったようだ。ふたたび私を見下ろしてくる。
「立ったままだと疲れるでしょ?」
「あー。……だから、寝てんの?」
「うん」
「…………あっそ」
 呆れたような吐息。
 脱力したのだろう。私の、ベッドで言えば枕元のあたりに腰を下ろして、あぐらを組んだ。
 右手で足首を掴んで、左手で頭をぼりぼりぼり。
 うん。お行儀は悪いけど、ちゃんとスカートの裾には気を払ってたから、合格。
「……ねぇ、みさちゃん」
「んー?」
「ひざまくら、してくれない?」
「はぁ?」
 あくびなんかして緩んでいた顔が、きょとんと驚いたものになる。
「ひざまくら。……さすがにちょっと、後頭部が痛くって」
「起きればいーじゃんよ……」
 そしてウンザリとした声で正論をこぼしながら、

「――ほら」

 と、足を組み替えて、いわゆるアヒル座りになってくれた。
「わーい」
 私は喜び勇んで、腕だけで身体を引きずって、みさちゃんの膝に頭を乗せる。
「うん。いいかんじ」
「そりゃどーも。……ったく、こーゆーのは兄貴にやらせろよな」
 そんなことをぼやくみさちゃんは、恥ずかしがってるみたいで、少し顔が赤い。
「じゃあ、連れてきてくれる?」
「ムチャゆーなって」
 鼻を鳴らす。
「……ったく。ホントあやのはワガママだよなー」
「うん」
「うん、じゃねーっての」
「あいたっ」
 ぺちん、おデコを叩かれた。
「……いじわる」
「うるせー」
 続いて耳を引っ張られる。
「やんっ、もう」
「ふふへへへ。私にこんなのさせたらこーなるって、わかってたはずだあー」
「やめてー」
 さらにほっぺたを、むにむにむに。
 また、鼻をつまんだり、あごの下を掻いたり。
 そんなふうに私の頭をさんざんに弄くりながらケタケタと笑って――
「……、?」
 みさちゃんは、だけど唐突に動きを止めた。
 笑いも収めて、真顔で見下ろしてくる。
「なぁ」
「ん?」

「ちびっ子となに話してたんだ?」

 “妹”の目だった。
 でも“お姉さん”の目でもあった。
 また“親友”の目でもあり、そして――みさちゃんの目だった。
 だから、私は。
 やっぱり正直に、答えることにした。
「漫画の話、かな」
「マンガ?」
「うん。最近“読んだ”お話の、結末とか、わからないところとか、そんな話」
 正直に。
 嘘はつかず。
 真実を、隠した。

 私が今日またこの屋上に来たのは、泉ちゃんに呼び出されたからだ。
 口頭やメールではなく、ルーズリーフの手紙で。
 つまり、“そういう”用件だったわけだ。
 色々なことを訊かれた。
 私が、何をどこまで知っていたのか、とか。
 そもそも何をどうしたかったのか、とか。
 どうにも彼女は、私のことを過大評価しているらしい。
 そりゃあ、私の方にもそう見せかけようという意図も少しはあったけど、そんな、何もかもを知っていて
 全てをコントロールしていたなんてことはまったくない。
 一番最初――先週のあの日に初めて一対一で話した時点でわかっていたのは、彼女と柊ちゃん、
 そしてみさちゃんとの間で三角関係めいたものが成立しているらしいということだけだ。
 そのときに考えていたのも、単純に「泉ちゃんが少し邪魔かな」という程度だった。
 だけどそのうちに、そうじゃないことに気が付いた。
 みさちゃんに必要なのはあくまで“笑顔の”柊ちゃんで、そのためには泉ちゃんの存在は、
 逆に欠かせないものだったのだ。
 それに気付くのに時間がかかってしまったから――だから私の行動がときにちぐはぐに見えたとしたら、
 きっとそのせいだと思う。
 柊ちゃんを「ヒメ社長」と呼んだことについても、なんとなくで、別に大した意味はない。
 強いて言うなら、泉ちゃんが一番いい顔で笑うのは柊ちゃんと一緒にいるときだと、その程度だ。
 どちらにしても柊ちゃんの方がどうだということは何もない。

 私は、ただ単純に、みさちゃんと、その害に“ならない”側に立っていただけ。
 その範囲内で、みさちゃん以外の人も大切に思えるようにと、自分を試してみただけ。
 上手くいったかどうかは、微妙なところだけど。

「マンガ?」
 みさちゃんが小首を傾げる。
「うん」
「なんてマンガ?」
「『ARIA』」
 首を戻して、反対側にまた傾ける。
「……。知らねー」
「面白いよ?」
「今度な。……そんだけ?」
「うん」
 うなずいて、私は目を閉じた。
 彼女の疑問を全て晴らすことができたかどうかはわからない。
 いや、きっとできなかったのだろう。
 去り際の彼女は、笑っていたけれど、あまり晴れやかとはいえない笑顔だった。
 まぁ、そのあたりはゆっくりやっていこう。
「お互いのこともちょっとだけ話したけどね。あと、妹ちゃんと高良ちゃんのこととか」
 彼女とも、妹ちゃんとも。
 ゆっくり打ち解けていこう。
「あー……」
 困ったような呆れたような、そんな呻き声が降ってきた。
「驚いたよね?」
「あー。……ってか、よくわかんねー」
 みさちゃんは、そうかも知れないね。
 私は、なんとなくわかるし、もしかしたらそうかなとも思ってたけど、それでもやっぱり驚いた。
 二人が想いあっているのは見れば明らかだったけど、それでも踏み出すことはないと思ってた。
 妹ちゃんの方は無自覚だったみたいだし、高良ちゃんにしたって、本格的な受験シーズンを間近に
 控えたこの時期に、周囲の人間関係を不用意に揺るがしかねない真似をするとは思えなかった。
 けど、泉ちゃんに言わせれば、ある種の必然だったらしい。
 自分だって驚いていたのにね。
 だけどまぁ、彼女が言うなら、きっとそうなのだろうし、心配することもないのだろう。
「まーなんでもいーけどさ」
「うん?」
「ひどいコトとか言われたわけじゃねーんだよな?」
「ないよ」
 目を開ける。
「泉ちゃんは、わざと人を傷つけるような子じゃないよ」
 空が青い。
 高くて、深くて、広くて、大きい。
 そして、そこに被さってるみさちゃんは、とても小さい。空の半分も覆えてない。
「知ってっけどよ」
 子どもみたいに唇を尖らせて、みさちゃんは言う。
「やっは私、アイツ嫌いだ」
「どうして?」
「だって……私の好きなヤツとばっか仲良くなろーとすんだもん」
「なんだ。そんなこと」
 私は、微笑んだ。
 片手を持ち上げて、小さなその頬に添える。
「大丈夫。柊ちゃんはもうわかってくれてるし、」
 こんなに小さいのに、それでも、受け止めてくれた。
 ごく自然に、無自覚に。
 反転した世界に堕ちてしまいそうだった私を、ただ現れただけで押しとどめてくれた。
「それに私の一番は、いつだってみさちゃんなんだから」
「……」
 なんだか嫌そうな目をされた。
 私は手を降ろし、もう一方の手と共に、自分のお腹に乗せた。微笑を微苦笑に変える。
「そんな意味じゃないって」
 うん。
 私はみさちゃんのことが大好きだけど、そんな意味じゃない。
 自分のものにしたいとか、自分だけを見て欲しいとか、そんなことは思わない。
 そんなことを願って、もし実現してしまったりしたら、一番肝心な“みさちゃんらしさ”が失われてしまう。
 それは私にとって一番許せないことだ。
 みさちゃんを損なうものは、たとえ私自身であろうが許さない。
 私は、私の方がみさちゃんのことを好きであり続けられれば、それでいい。
 それだけでいい。
「……んな心配してねーけどよ」
 拗ねた仕草で視線が逸らされる。
 また顔が赤い。
「恥ずかしいだろ」
「照れ屋さんだね。柊ちゃんみたい」
「……」
 ため息。
「幸せが逃げちゃうよ?」
「うるせー」
 視線が戻る。
 と同時に――がしっ、と、両手で頭をわしづかみにされた。
「きゃっ?」
「ってか、あやの」
 そうして私を固定して、みさちゃんは覆いかぶさるように顔を寄せてくる。息がかかる距離。
「な、なに?」
「柊になんか言っただろ」
「え……」
 あ。
 しまった。
「やっぱか。なに言ったんだ」
「もう……内緒だって言ったのに」
「別に何も喋ってねーよ、柊は。――なに言ったんだって訊いてんだよ」
「……」
「……」
「ないしょ」
「……」
 す、と目を細めて、みさちゃんは、その表情のまま顔を遠ざけた。
 しかし手は離してくれず、
「うら」
「え? ――やっ」
 それどころか逆に、がくがくと揺さぶり始めた。
「うらうらうら」
「やーめーてー」
 上下左右に激しく振られる視界の中で、空だけがどっしりと動かない。
 雲がまた増え始めている。

「――ん?」

 と?
 再度、みさちゃんは唐突に手の動きを止めた。
 口を割るまで離してくれないと思ったのに、なんだろう。まぁ、まだ手は離してくれてないけど。
 疑問に思っていると、そのまま、くい、と首を九十度回された。
「え?」
「ふむ……」
「み、みさちゃん?」
 戸惑う。
 こめかみの辺りに息がかかるのを感じる。
 それぐらいの至近距離で、たぶん、耳の穴を覗き込まれている。それは、さすがに、恥ずかしい。
「ちょっと、みさちゃ――ひあっ!?」
 さらに、突然の冷たい感触。指を突っ込まれた?
 たぶん、小指。
 くにくにと、まさぐるようにうごめかされる。全身に震えが走った。
 とっさに手を伸ばすけど、体勢的にも、腕力的にも、止めることなんてできやしない。
「ちょっ……! 言うっ、言うからっ、やめっ……!」
「んあ、あとでな」
「ええっ!?」
 指は止まらない。
 時おり静止を挟みつつ、なぶるようにうごめき続ける。
 身をよじってでも逃げればいいのだろうけど、さすがに本能的な恐怖が先に立ってしまっているらしく、
 動けない。
 耐えるほかなかった。

 そうして――時間にすればほんの数秒だっただろうけど、随分と長く感じた。
 というか、いつ終わったのかわからない。
 気が付いたら、涙に滲んだ視界の中に自分の指先をしげしげと眺めているみさちゃんがいて、
 私は荒い息をつきながらそれを見上げていた。
「ふーん。キレーなモンだな」
 言いながら、小指と親指をすり合わせて、ぴんっ、と弾いたりする。
「え……?」
「いや、ちゃんと耳そうじしてるんだなって」
「……」
 なにかと思えば……まったくもう。みさちゃんは。
「なんかさ、ひざまくらっていったら耳そうじだろ」
「指はやめてよ……」
「持ってねーし。耳かき」
「そういう問題じゃないでしょっ」
 少し怒って、睨み上げてみたけど、みさちゃんは余裕の表情で笑っている。
 このぐらいなら許せてしまうと、わかっちゃってるんだろうなぁ。
「なー、あやの」
 笑いを収めて、みさちゃんは、どこか何かを懐かしんでいるような声で言った。
「憶えてっか? ちっちゃいとき」
「……どれを?」
 みさちゃんとのことならだいたい全部憶えているから、小さいときとだけ言われても逆にわからない。
「ほら、ねーちゃんと兄貴もさ、よくこーやってひざまくらとかしてたじゃん」
 あぁ……。
「それ見るたびにあやのさー、必死んなってやめさせてたよな」
 私の、“戦い”の記録だ。
 うん。世界がなんだ、女がどうだと大そうな言葉を並べてみても、実際の姿なんてそんなものだ。
「あんときからもー、あやの兄貴にベタボレだったよな」
「そんなんじゃ……」
「『お兄ちゃんはみさちゃんのだから取っちゃダメー』とか言ってさ、ホント素直じゃないよなー。
自分のだからって言やいーのにって、私でも思ったぜ」
「だって……」
 目を逸らす。
「あのときは本当にそう思ってたんだもん……」
「んなコト言って、結局自分のにしてんじゃん」
「……」
 戻す。
「それは、違うよ」
 断言する。
 うん。それは違う。そこだけは違う。
「私のものになんかしてないよ」
 髪留めのカチューシャをそっとなでながら、私は言った。
「私が、お兄さんのものになったの」
「……」
 みさちゃんは、呆れたような、馬鹿にするような、嫌いなこんにゃくを前にしたような顔で見下ろしてくる。
「あーハイハイ、そーですか、そりゃよかったですねー、ゴチソーサマ」
「ふふっ、お粗末さま」
「じゃ、ねーって。ったく、こっちが恥ずかしいっての」
 ぼやくように言うみさちゃんは、言葉どおり、また少し赤くなっていた。

「ってかさー、もーいーだろー? さっさと帰ろーぜー?」
「うーん……」
 また目を閉じて、少し迷う。
 でも……もうちょっとこうしていたいけど、確かにそろそろ帰らないとね。
「うん」
 身を起こす。
 特に合図も確認もしなかったけど、おでこ同士をぶつけたりはしなかった。心得たものだ。
 そのまま立ち上がって、軽く背伸びをして、服に付いたほこりを払う。
 見るとみさちゃんも立っていて、同じようにスカートのお尻をはたいていた。
「じゃ、行こーぜ」
「うん」
 両手を腰の後ろで結んで、最後にもう一度、空を見上げた。
 高い高い、空の青。
 まだ夏の色だ。
 だけどそれも、もうすぐ終わる。
 今ぐらいの、日暮れ間際の時間ともなれば、なんとなく秋の気配も漂い始めている。
 グラデーションのかかった青。
 そこに散らばる、雲の白。
 西の方はやや黄色い。

 そうか。

 空の色って、一つじゃないんだ。

「でさ」
「ん?」
 前に向き直る。
「なに言ったんだ、柊に?」
「……」
 歩き出す。
「ないしょ」
 みさちゃんを追い抜いて、屋上の出口の扉をくぐる。
「ずりー。言うっていったじゃんかよ」
 みさちゃんの声を振り切って、私は薄暗い階段を降りていく。
「気が変わったの」

 その多彩な色だけに喩えれば――なるほど。『空のような人』というのも、ありかも知れない。
 私も、そんなふうになれるかも知れない。

「ずりーずりーずりー」
「他のことに気を取られてるからだよ。――なんだったら、柊ちゃんに訊いてみたら?」

 自惚れが過ぎるだろうか。
 確かに私のみさちゃん以外に対する感情は、この空のようにいくつもの要素が入り混じっているけれど、
 この空のように綺麗だとはとても言えない。
 でも、それを目標とすることならできるかも知れない。
 複雑でも、濁っていても、綺麗になんかなれなくても。
 私自身が、この感情を好きになることができれば、それでいいのかも知れない。

「んな地雷踏めるわけねーだろっ」
「そうかな? そんなに危険でもないと思うけど」
 階段を下りていく。
「だったら言えよっ。今ここでっ」
 追いすがってくる声を後ろに置いて、空への憧れを胸に、私は降りていく。
「だ~めっ」

 うん。
 まずはそこから、始めてみよう。


















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