祭囃子が聞こえる。
ピーヒャラ ピーヒャラ トンツクツ
トンツク トンツク ピーヒャララ
トンツク トンツク ピーヒャララ
幾重にも連なる人垣を越えて、むせ返るような人いきれを抜けて。
どこか古めかしい笛と太鼓の音が飛んでくる。
高く、低く。
細く、太く。
夏の湿った熱気のように、身に、耳に、纏い付く。
仰いでみれば、どこまでも連なる提灯の列と列との狭間に浮かぶ、冗談のように円い月。
どこか古めかしい笛と太鼓の音が飛んでくる。
高く、低く。
細く、太く。
夏の湿った熱気のように、身に、耳に、纏い付く。
仰いでみれば、どこまでも連なる提灯の列と列との狭間に浮かぶ、冗談のように円い月。
ピーヒャラ ピーヒャラ トンツクツ
トンツク トンツク ピーヒャララ
トンツク トンツク ピーヒャララ
いまどき、こんな音を流すところがあるなんて。
つかさがいなくてよかった。
熱に浮かされたような頭で、ぼんやりと、そんなことを思う。
あの子はこの音が嫌いだから。
そして私もあまり好きではない。たぶん、小さいころに見てしまったテレビの影響なのだろう。
何かの時代劇だったか、それとも横溝正史か江戸川乱歩あたりのミステリだったか。
詳細は忘れてしまったけれど、この、か細い祭囃子のメロディーだけは、
おどろおどろしい映像とともに鮮明に記憶に焼き付いている。
あれを見て以来、この音がテレビから聞こえてくるたびに私は不安を掻き立てられ、
つかさなどは涙目になって震えていたものだ。
だから。
今日あの子が熱を出してこの場に来られなくなったのは、むしろ幸運だったといえるだろう。
対して、私は……
……。
……。
……?
あれ……私は……私、は……
どうして私は、こんなところに来ているのだったか……
つかさがいなくてよかった。
熱に浮かされたような頭で、ぼんやりと、そんなことを思う。
あの子はこの音が嫌いだから。
そして私もあまり好きではない。たぶん、小さいころに見てしまったテレビの影響なのだろう。
何かの時代劇だったか、それとも横溝正史か江戸川乱歩あたりのミステリだったか。
詳細は忘れてしまったけれど、この、か細い祭囃子のメロディーだけは、
おどろおどろしい映像とともに鮮明に記憶に焼き付いている。
あれを見て以来、この音がテレビから聞こえてくるたびに私は不安を掻き立てられ、
つかさなどは涙目になって震えていたものだ。
だから。
今日あの子が熱を出してこの場に来られなくなったのは、むしろ幸運だったといえるだろう。
対して、私は……
……。
……。
……?
あれ……私は……私、は……
どうして私は、こんなところに来ているのだったか……
「――かがみ?」
「え?」
不意の、横合いからの声に、振り返る。
目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤。
提灯の灯りに照らされて、鮮明に、けれどもどこか曖昧に浮かび上がる、赤色の浴衣。
それを纏う小柄な体。
いつもはだらしなく伸ばされて、今はきれいに結い上げられている長い髪。
幼さ、あるいはあどけなさを残した顔に不思議がるような色彩を浮かばせて。
目元の泣きぼくろが妙に印象的な。
そんな、少女。
「どうかした?」
「……こなた?」
その名を呼ぶ。
そう。こなただ。泉、こなた。
「? なに?」
訝しげに、小首を傾げる。
頭の横に引っ掛けられた狐の面が、音もなく揺れた。
不意の、横合いからの声に、振り返る。
目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤。
提灯の灯りに照らされて、鮮明に、けれどもどこか曖昧に浮かび上がる、赤色の浴衣。
それを纏う小柄な体。
いつもはだらしなく伸ばされて、今はきれいに結い上げられている長い髪。
幼さ、あるいはあどけなさを残した顔に不思議がるような色彩を浮かばせて。
目元の泣きぼくろが妙に印象的な。
そんな、少女。
「どうかした?」
「……こなた?」
その名を呼ぶ。
そう。こなただ。泉、こなた。
「? なに?」
訝しげに、小首を傾げる。
頭の横に引っ掛けられた狐の面が、音もなく揺れた。
ああ、そうか。
思い出した。
彼女に誘われて、来たのだった。
『お祭りに行こう』
いつもの放課後――いや、違う。携帯にかかってきた電話で、そんなふうに誘われて。
私は、この夏祭りに来たのだった。
「いや……なんでもない」
首を振る。
「ごめん。ちょっと、ぼうっとしてた」
そう。そうだ。
そんな言い方だったから、またあのコミケとかいう“祭典”に連れ出されると思ったから、一度は断って。
だけど今度は本当に普通のお祭りだからと押し切られて。
騙されたと思って来てみたら本当に普通のお祭りで。
でも、あの埋立地には遠く及ばないものの、想像以上だった人の多さに、戸惑って、そして、
「人ごみに酔っちゃった、みたい」
そういうこと、なのだろう。
「……この程度で?」
「悪かったわね」
さらに不思議がるこなたに、ため息に乗せて返す。
「五歳のころからあんな場所に出入りしてるなんていうあんたと、一緒にするな」
「むぅ。人聞き悪いよかがみ」
「人聞きも何も事実だろ」
そうしながらも、変だなと思う。
確かに私は、そう人ごみに強いわけではないけれど、この程度で酔うということは今までになかった。
そういう意味ではこなたの疑問はもっともだ。
これなんかよりも、そう、たとえば正月三ヶ日の我が家、鷹宮神社の方が遥かに人の出は多い。
なのに、何故だろう。
半ば無意識で人の流れから外れて立ち止まる。
彼女に誘われて、来たのだった。
『お祭りに行こう』
いつもの放課後――いや、違う。携帯にかかってきた電話で、そんなふうに誘われて。
私は、この夏祭りに来たのだった。
「いや……なんでもない」
首を振る。
「ごめん。ちょっと、ぼうっとしてた」
そう。そうだ。
そんな言い方だったから、またあのコミケとかいう“祭典”に連れ出されると思ったから、一度は断って。
だけど今度は本当に普通のお祭りだからと押し切られて。
騙されたと思って来てみたら本当に普通のお祭りで。
でも、あの埋立地には遠く及ばないものの、想像以上だった人の多さに、戸惑って、そして、
「人ごみに酔っちゃった、みたい」
そういうこと、なのだろう。
「……この程度で?」
「悪かったわね」
さらに不思議がるこなたに、ため息に乗せて返す。
「五歳のころからあんな場所に出入りしてるなんていうあんたと、一緒にするな」
「むぅ。人聞き悪いよかがみ」
「人聞きも何も事実だろ」
そうしながらも、変だなと思う。
確かに私は、そう人ごみに強いわけではないけれど、この程度で酔うということは今までになかった。
そういう意味ではこなたの疑問はもっともだ。
これなんかよりも、そう、たとえば正月三ヶ日の我が家、鷹宮神社の方が遥かに人の出は多い。
なのに、何故だろう。
半ば無意識で人の流れから外れて立ち止まる。
ざぁ。
生ぬるい風が吹き抜ける。
すぐそばの出店に並べられた無数の風車が一斉に廻りだす。
鮮やかで、曖昧な、色とりどりの羽の列。
金魚すくいに綿菓子に、射的に当てもの、焼きとうもろこし。屋台を行き交う人と人。
すぐそばの出店に並べられた無数の風車が一斉に廻りだす。
鮮やかで、曖昧な、色とりどりの羽の列。
金魚すくいに綿菓子に、射的に当てもの、焼きとうもろこし。屋台を行き交う人と人。
ピーヒャラ ピーヒャラ トンツクツ
トンツク トンツク ピーヒャララ
トンツク トンツク ピーヒャララ
祭囃子が途切れない。
「……」
「って、かがみ。本当に気分悪そうじゃない?」
こなたが言う。
「うん……」
何故だろう。
さっきぼうっとしてしまっただけじゃなく、なんとなく熱っぽいような、頼りない感覚が全身に薄っすらと漂っている。
つかさの風邪を少しもらってしまったのだろうか。
「ちょっと休む?」
「……そうね」
頷いて。
手を引かれて、路の脇。
ちょうど膝ぐらいの高さの石垣があった。腰を下ろす。こなたは、そのまま。
立ったまま。
「何か飲み物でも買ってこようか?」
気遣わしげな、声。
「――はっ」
思わず噴き出す。
「? なにさ」
「別に……?」
額を押さえる。
少し汗をかいている。
「ただ、ちょっとね。――あのこなたが。泉こなたさまともあろうお方が、傍若無人を絵にかいたようなあんたが、
そんなことを言ってくれるなんて、ね」
そして流れ出る辛辣。
おかしい。
さすがに言いすぎだろう。ここまで言うほどのことじゃないし、そのつもりもなかった。
なのに言ってしまった。フォローする気も起こらない。
気分がささくれ立っている?
「むぅ」
こなたが口をとがらせる。
膨れっ面を隠すように、そっぽを向く。
頭の横に引っ掛けられた狐の面が、入れ替わるようにこちらを向いた。
いまどき見ないような、田舎の旅館の廊下にでも飾ってありそうな、古めかしい面。
こんなものを売っている店まであるのか。
というか、いつの間に買ったのだろう。
切れ長に描かれた黄色い糸目が、私を見て笑っている。
「私だって心配ぐらいするよ」
「どうだか」
鼻を鳴らす。
まるで嘲笑。
「お見舞いとか言って宿題漁ってたのは誰よ」
そういえば、そんなこともあった。
自分で言っておいて、思い出す。
なんだろう。
妙に投げやりな気持ちになってしまっている私と、それを他人事のように眺めている私がいる。
これは、なんだろう。
「あー……そんなこともあったねぇ」
こなたが笑う。
こちらもこちらで、他人事のよう。
「でもソレはアレだよ。おどけてみせて元気づけようとしたんだよ。みゆきさんも言ってたでしょ?」
「また適当なことを……」
そういえば、あの聖人君子はそんなことを言っていた。けれど。
どうしてこなたがそれを知っているのだろう。
みゆきから聞いたのだろうか。
いや、それよりも。
「……みゆきは、なんで来られないんだっけ」
生じた疑問を、ふと声にして漏らす。
「あー、えっと」
狐の面が首を傾げる。
「家の用事とか言ってたような……なんだっけ?」
どうだったか。
言われてみればそんなことを聞いたような覚えがある。詳しく聞いた覚えはない。
なんでもいい。
なんにしても、
「羨ましい話ね」
「なにが?」
「つかさとみゆきが、よ」
嘲笑。
自嘲か、それとも。
「……」
「って、かがみ。本当に気分悪そうじゃない?」
こなたが言う。
「うん……」
何故だろう。
さっきぼうっとしてしまっただけじゃなく、なんとなく熱っぽいような、頼りない感覚が全身に薄っすらと漂っている。
つかさの風邪を少しもらってしまったのだろうか。
「ちょっと休む?」
「……そうね」
頷いて。
手を引かれて、路の脇。
ちょうど膝ぐらいの高さの石垣があった。腰を下ろす。こなたは、そのまま。
立ったまま。
「何か飲み物でも買ってこようか?」
気遣わしげな、声。
「――はっ」
思わず噴き出す。
「? なにさ」
「別に……?」
額を押さえる。
少し汗をかいている。
「ただ、ちょっとね。――あのこなたが。泉こなたさまともあろうお方が、傍若無人を絵にかいたようなあんたが、
そんなことを言ってくれるなんて、ね」
そして流れ出る辛辣。
おかしい。
さすがに言いすぎだろう。ここまで言うほどのことじゃないし、そのつもりもなかった。
なのに言ってしまった。フォローする気も起こらない。
気分がささくれ立っている?
「むぅ」
こなたが口をとがらせる。
膨れっ面を隠すように、そっぽを向く。
頭の横に引っ掛けられた狐の面が、入れ替わるようにこちらを向いた。
いまどき見ないような、田舎の旅館の廊下にでも飾ってありそうな、古めかしい面。
こんなものを売っている店まであるのか。
というか、いつの間に買ったのだろう。
切れ長に描かれた黄色い糸目が、私を見て笑っている。
「私だって心配ぐらいするよ」
「どうだか」
鼻を鳴らす。
まるで嘲笑。
「お見舞いとか言って宿題漁ってたのは誰よ」
そういえば、そんなこともあった。
自分で言っておいて、思い出す。
なんだろう。
妙に投げやりな気持ちになってしまっている私と、それを他人事のように眺めている私がいる。
これは、なんだろう。
「あー……そんなこともあったねぇ」
こなたが笑う。
こちらもこちらで、他人事のよう。
「でもソレはアレだよ。おどけてみせて元気づけようとしたんだよ。みゆきさんも言ってたでしょ?」
「また適当なことを……」
そういえば、あの聖人君子はそんなことを言っていた。けれど。
どうしてこなたがそれを知っているのだろう。
みゆきから聞いたのだろうか。
いや、それよりも。
「……みゆきは、なんで来られないんだっけ」
生じた疑問を、ふと声にして漏らす。
「あー、えっと」
狐の面が首を傾げる。
「家の用事とか言ってたような……なんだっけ?」
どうだったか。
言われてみればそんなことを聞いたような覚えがある。詳しく聞いた覚えはない。
なんでもいい。
なんにしても、
「羨ましい話ね」
「なにが?」
「つかさとみゆきが、よ」
嘲笑。
自嘲か、それとも。
ピーヒャラ ピーヒャラ トンツクツ
トンツク トンツク ピーヒャララ
トンツク トンツク ピーヒャララ
「……」
こなたが無言で、お面をずらして、顔に被せ直した。
「来たくなかった?」
「そうは言ってないわよ」
「言ってるよ」
「……」
確かに。
少し、言い過ぎた。
謝った方がいいだろうか。そうは思うが、何か億劫だ。
頭が上手く回らない。
「……ってゆーか、変なお祭りよね」
何を言っているんだろう。
「そう?」
「うん。レトロってゆーか、時代錯誤な感じがする」
祭囃子、狐のお面。
提灯、灯篭、風車。
行き交う人は、みいんな浴衣。
「いまどきのお祭りじゃないわよ」
タイムスリップでもしたみたいだ。
「そうかな」
「そうよ」
「そうかもね」
「……」
適当な返事しやがって、このやろう。
理不尽な苛立ちが沸き起こる。
睨んでやるが、動じない。そもそも視線に気付いているのかどうか。
「外しなさいよ、それ」
「なんで?」
小首を傾げる。不思議そうな、少しこもったような、声。
「いいから」
手を伸ばす。
避けられた。
上体をひょいと逸らして、流れる動作で地面を蹴って。
「やだよ」
一歩、離れる。
「ごめんね」
「え、ちょ」
「これは外せないんだよ」
面を押さえて、さらに、一歩。赤い浴衣がふわりとなびく。
「何を――」
「待ってて。飲み物、買ってくる」
そうして、そのまま。
人ごみに、消えた。
こなたが無言で、お面をずらして、顔に被せ直した。
「来たくなかった?」
「そうは言ってないわよ」
「言ってるよ」
「……」
確かに。
少し、言い過ぎた。
謝った方がいいだろうか。そうは思うが、何か億劫だ。
頭が上手く回らない。
「……ってゆーか、変なお祭りよね」
何を言っているんだろう。
「そう?」
「うん。レトロってゆーか、時代錯誤な感じがする」
祭囃子、狐のお面。
提灯、灯篭、風車。
行き交う人は、みいんな浴衣。
「いまどきのお祭りじゃないわよ」
タイムスリップでもしたみたいだ。
「そうかな」
「そうよ」
「そうかもね」
「……」
適当な返事しやがって、このやろう。
理不尽な苛立ちが沸き起こる。
睨んでやるが、動じない。そもそも視線に気付いているのかどうか。
「外しなさいよ、それ」
「なんで?」
小首を傾げる。不思議そうな、少しこもったような、声。
「いいから」
手を伸ばす。
避けられた。
上体をひょいと逸らして、流れる動作で地面を蹴って。
「やだよ」
一歩、離れる。
「ごめんね」
「え、ちょ」
「これは外せないんだよ」
面を押さえて、さらに、一歩。赤い浴衣がふわりとなびく。
「何を――」
「待ってて。飲み物、買ってくる」
そうして、そのまま。
人ごみに、消えた。
・
・
・
・
・
「……え?」
まばたき。
消えた。
「こなた?」
立ち上がって、呼びかける。返事はない。消えた。消えてしまった。
いや、何を言っている。
人ごみに紛れた。それだけだ。言ったじゃないか。飲み物を買ってくる、と。
何もおかしなことはない。
「……」
ああ、でも。
「こなた……」
どうして、こんな。
こんなにも、不安になる。
「こな――」
まばたき。
消えた。
「こなた?」
立ち上がって、呼びかける。返事はない。消えた。消えてしまった。
いや、何を言っている。
人ごみに紛れた。それだけだ。言ったじゃないか。飲み物を買ってくる、と。
何もおかしなことはない。
「……」
ああ、でも。
「こなた……」
どうして、こんな。
こんなにも、不安になる。
「こな――」
“――ごめんね?”
「っ! ……こなたっ!」
気付いたら駆け出していた。
人の流れに飛び込んで、押しのけるようにして進む。
思うように進めない。
下駄と浴衣が走りにくい。
「すみません、通してっ」
気付いたら駆け出していた。
人の流れに飛び込んで、押しのけるようにして進む。
思うように進めない。
下駄と浴衣が走りにくい。
「すみません、通してっ」
ピーヒャラ ピーヒャラ トンツクツ
トンツク トンツク ピーヒャララ
トンツク トンツク ピーヒャララ
祭囃子を掻き分ける。
見つからない。こなたがいない。
見つからない。こなたがいない。
ピーヒャラ ピーヒャラ トンツクツ
視線を巡らす。右、左。
どこだ。
どこに、どこにいる。
どこだ。
どこに、どこにいる。
トンツク トンツク ピーヒャララ
どこに。
ピーヒャラ ピィヒャラ
どこ――
トンツク、ツ
――――――――いた。
「こなた!」
見えた。
提灯の明かりに照らされて、行き交う人の垣根の向こう。
見知らぬ影と陰との狭間に、赤の浴衣がちらりと揺れた。
「すみませんっ、ごめんなさい――こなたってばっ!」
走る、叫ぶ。
届かない、届かない。
「待ってよ! 待って!」
駆ける。呼ばう。
届かない、届かない。
人がまばらになってきた。
後ろ姿がはっきり見える。
それにこの距離。聞こえていないはずがない。
人ごみを抜けた。
道の終点。灯りの終点。
祭囃子を背後に置いて、真正面、見上げた先には、暗い森。
鬱蒼と生い茂る、覆いかぶさるような深い森。
石段が一本伸びている。
その手前。
「こなたっ!」
「――」
止まった。
振り向いた。
繋がった。
月の明かりに照らされて、赤の袂が弧を描き、黄色の糸目が私を射抜く。
そして、笑った。
にんまりと。
見えた。
提灯の明かりに照らされて、行き交う人の垣根の向こう。
見知らぬ影と陰との狭間に、赤の浴衣がちらりと揺れた。
「すみませんっ、ごめんなさい――こなたってばっ!」
走る、叫ぶ。
届かない、届かない。
「待ってよ! 待って!」
駆ける。呼ばう。
届かない、届かない。
人がまばらになってきた。
後ろ姿がはっきり見える。
それにこの距離。聞こえていないはずがない。
人ごみを抜けた。
道の終点。灯りの終点。
祭囃子を背後に置いて、真正面、見上げた先には、暗い森。
鬱蒼と生い茂る、覆いかぶさるような深い森。
石段が一本伸びている。
その手前。
「こなたっ!」
「――」
止まった。
振り向いた。
繋がった。
月の明かりに照らされて、赤の袂が弧を描き、黄色の糸目が私を射抜く。
そして、笑った。
にんまりと。
笑った?
声じゃない。聞こえてない。
顔は見えない。隠れてる。
なのに、感じた。
光の加減か。錯覚か。
動かぬはずの狐の面が、私に向って微笑んだ。
そう、見えた。
「……こな、た?」
呼びかける。
すると、こなたは。
「……」
再び私に背を向けた。
「え――ちょっと!」
軽やかに。
まるで本当の狐のように。
跳ねるような足取りで、こなたは石段を駆けていく。
何故だ。
何故、逃げる。
「待ちなさい!」
追いかける。
暗い石段。先が見えない。
たぶん神社で、境内に通じているのだと思うけど。
ここからじゃ、見えない。
そんな道を、こなたは駆けていく。
カラコロ、カラコロ、下駄の音を響かせて。
跳ねるように、軽やかに。
顔は見えない。隠れてる。
なのに、感じた。
光の加減か。錯覚か。
動かぬはずの狐の面が、私に向って微笑んだ。
そう、見えた。
「……こな、た?」
呼びかける。
すると、こなたは。
「……」
再び私に背を向けた。
「え――ちょっと!」
軽やかに。
まるで本当の狐のように。
跳ねるような足取りで、こなたは石段を駆けていく。
何故だ。
何故、逃げる。
「待ちなさい!」
追いかける。
暗い石段。先が見えない。
たぶん神社で、境内に通じているのだと思うけど。
ここからじゃ、見えない。
そんな道を、こなたは駆けていく。
カラコロ、カラコロ、下駄の音を響かせて。
跳ねるように、軽やかに。
いいのだろうか。
追いかけていいのだろうか。
この先に、踏み込んでいいのだろうか。
そんな疑問が沸き起こる。
さっき、こなたは笑った。
否。こなたの被る、狐の面が、笑ったように見えた。
でも。
その、下は?
仮面の下の、素顔の方は?
こなたは、本当に。
笑っていたのだろうか。
この先に、踏み込んでいいのだろうか。
そんな疑問が沸き起こる。
さっき、こなたは笑った。
否。こなたの被る、狐の面が、笑ったように見えた。
でも。
その、下は?
仮面の下の、素顔の方は?
こなたは、本当に。
笑っていたのだろうか。
ざぁ。
生ぬるい風が吹き抜ける。
左右を遮る真っ暗の森が、一斉に木の葉を打ち鳴らす。
ざわざわ、ざわざわ。
遠く、近く。
ざわざわ、ざわざわ。
高く、低く。
うねるような葉鳴りの音が、取り囲む。
いいのだろうか。
この先に、進んでしまっていいのだろうか。
左右を遮る真っ暗の森が、一斉に木の葉を打ち鳴らす。
ざわざわ、ざわざわ。
遠く、近く。
ざわざわ、ざわざわ。
高く、低く。
うねるような葉鳴りの音が、取り囲む。
いいのだろうか。
この先に、進んでしまっていいのだろうか。
「――ハァッ!」
気付けば登り切っていた。
疑問に揺さぶられながらも、足は止まらなかった。
結構な段数だった。膝が笑っている。
やはりここは境内、その入口だ。
「ハァ、ハァ……」
鳥居に手をつき、息を整える。
風に木々がざわめいている。
祭囃子が遠くに聞こえる。
疑問に揺さぶられながらも、足は止まらなかった。
結構な段数だった。膝が笑っている。
やはりここは境内、その入口だ。
「ハァ、ハァ……」
鳥居に手をつき、息を整える。
風に木々がざわめいている。
祭囃子が遠くに聞こえる。
「だいじょうぶ?」
声。
少しこもったような、声。
顔を上げる。
赤い浴衣。狐の面。
まるで何事もなかったかのように、そいつはそこに立っていた。
「こなた……」
「なぁに? かがみ?」
「なにって、あんた……」
「どうして来たの?」
「どうしてって、そんなの……」
「待っててって言わなかったっけ」
「知らないわよ……!」
顔を下げる。
息が整わない。
「だいじょうぶ?」
「じゃないわよっ! ……ハァ、ハァ……」
くそ。
息が苦しい。整わない。
生ぬるい空気がどろりと重くて、まとわりついて、余計に上手く呼吸ができない。
汗で張り付いた浴衣が気持ち悪い。
なんなんだ、これ。
なんで私がこんな目に。
「――ハァッ」
ぐい、と、額をぬぐって身体を起こす。
こなたは変わらず、立っている。
首を小さく傾けて、身体の重心もそちらに置いて、浮いた片脚をぶらりと揺らす。
「……何がそんなにおかしいのよ」
「べつに? 笑ってないよ?」
とぼけた声。
イラついた。
「でも」
そして、
少しこもったような、声。
顔を上げる。
赤い浴衣。狐の面。
まるで何事もなかったかのように、そいつはそこに立っていた。
「こなた……」
「なぁに? かがみ?」
「なにって、あんた……」
「どうして来たの?」
「どうしてって、そんなの……」
「待っててって言わなかったっけ」
「知らないわよ……!」
顔を下げる。
息が整わない。
「だいじょうぶ?」
「じゃないわよっ! ……ハァ、ハァ……」
くそ。
息が苦しい。整わない。
生ぬるい空気がどろりと重くて、まとわりついて、余計に上手く呼吸ができない。
汗で張り付いた浴衣が気持ち悪い。
なんなんだ、これ。
なんで私がこんな目に。
「――ハァッ」
ぐい、と、額をぬぐって身体を起こす。
こなたは変わらず、立っている。
首を小さく傾けて、身体の重心もそちらに置いて、浮いた片脚をぶらりと揺らす。
「……何がそんなにおかしいのよ」
「べつに? 笑ってないよ?」
とぼけた声。
イラついた。
「でも」
そして、
「まぁ――それでもいいよ」
ゾっとした。
「え……」
なんだ。
今のは。
「嬉しい気持ちがあるのは確かだし、かがみがそう見えるって言うなら、いいよ。ソレで」
こいつは何を言っている?
わからない。
だけど、ゾっとした。
空気が入れ替わったように、空間が裏返ったように。
周囲の気温が一気に下がった、気がした。
大して意味をあることを言ったとも思えない。適当に口から出任せを並べただけだ。そんなふうにも受け取れる。
「うん。私は笑ってる」
だったら、どうして、
「でも、なんで」
私は、
「かがみは」
こんなにも、
なんだ。
今のは。
「嬉しい気持ちがあるのは確かだし、かがみがそう見えるって言うなら、いいよ。ソレで」
こいつは何を言っている?
わからない。
だけど、ゾっとした。
空気が入れ替わったように、空間が裏返ったように。
周囲の気温が一気に下がった、気がした。
大して意味をあることを言ったとも思えない。適当に口から出任せを並べただけだ。そんなふうにも受け取れる。
「うん。私は笑ってる」
だったら、どうして、
「でも、なんで」
私は、
「かがみは」
こんなにも、
「そんなにも――怯えているのかな?」
「!? ――お、怯えてなんかないわよ!」
反射的に怒鳴り返した。
「そう?」
「あ、当り前よっ。なんで私が、あんたなんかを怖がらなくちゃいけないのよ」
目を逸らした。
「私をとは、言ってないよ?」
「っ!」
詰まった。
しまった。
認めたも同然だ。
「何に、までかは知らないよ。でも、かがみは怯えてる」
「あんたなんかに、何が……」
「わかるよ。見ればわかる」
でも、
「でも」
違う。
「そっか」
違う。
「かがみは私が怖いんだね」
「違うっ!」
確かに、おかしい。今の私は。不安定になっている。
嫌な気持になっている。
こんなのは嫌だと感じている。
それらは確かに、恐怖と呼べるものなのかも知れない。
それでも、違う。
違うんだ。
「違わないよ」
「っ……」
通じない。覆せない。訂正の仕方がわからない。
焦りが、募る。
このままじゃ、駄目なのに。
「かがみは嘘が下手だよね」
対照的に、淡々と。
「そこがいいところではあるんだけどね」
勝ち誇るでもなく、こなたは言葉を紡いでいく。
「残念だな」
かくり。
傾げた首が、元に戻って、反対側へ。
その、反動か。
一歩、下がった。
「え……」
「うん、残念だ」
また、一歩。
「でも、仕方ないかな」
また、一歩。
「ちょ、ちょっと……」
「うん、仕方ない」
一歩。
一歩。
一歩ずつ。
境内の奥の暗がりへと、沈んでいく。
反射的に怒鳴り返した。
「そう?」
「あ、当り前よっ。なんで私が、あんたなんかを怖がらなくちゃいけないのよ」
目を逸らした。
「私をとは、言ってないよ?」
「っ!」
詰まった。
しまった。
認めたも同然だ。
「何に、までかは知らないよ。でも、かがみは怯えてる」
「あんたなんかに、何が……」
「わかるよ。見ればわかる」
でも、
「でも」
違う。
「そっか」
違う。
「かがみは私が怖いんだね」
「違うっ!」
確かに、おかしい。今の私は。不安定になっている。
嫌な気持になっている。
こんなのは嫌だと感じている。
それらは確かに、恐怖と呼べるものなのかも知れない。
それでも、違う。
違うんだ。
「違わないよ」
「っ……」
通じない。覆せない。訂正の仕方がわからない。
焦りが、募る。
このままじゃ、駄目なのに。
「かがみは嘘が下手だよね」
対照的に、淡々と。
「そこがいいところではあるんだけどね」
勝ち誇るでもなく、こなたは言葉を紡いでいく。
「残念だな」
かくり。
傾げた首が、元に戻って、反対側へ。
その、反動か。
一歩、下がった。
「え……」
「うん、残念だ」
また、一歩。
「でも、仕方ないかな」
また、一歩。
「ちょ、ちょっと……」
「うん、仕方ない」
一歩。
一歩。
一歩ずつ。
境内の奥の暗がりへと、沈んでいく。
「恐がられてるんじゃ、近くにいることはできないね」
「――待ちなさいっ!」
叫ぶ。
止まった。
そして、かくり。
再度首が傾けられる。
「……なんで?」
「なんでじゃないわよ! いいから――いいから戻ってこい!」
「……わかんないなぁ」
「何がよ! わけわかんないのはあんたでしょ! なんだってのよさっきから!」
ああ、わからない。
こいつが何を言っているのか。
どうしてこんなに不安になるのか。
私には何もわからない。
頭が熱に浮かされて、ぼうっとして、上手く考えられない。
ただ、胸騒ぎがする。
木々がざわめいている。
このままじゃ、駄目だ。
この距離は、駄目だ。
「私は――」
「もういい! 喋るな!」
駆け寄った。
駆け寄って、その手を掴んだ。
「痛いよ」
「うるさいっ!」
掴んだ。
確かに、掴んだ。掴んだのに。
なのに、なんだろう。この折れそうなほどの腕の細さは。頼りないまでの体温の低さは。
胸の不安が、止まらない。
ざわざわ。
ざわざわ。
騒いでる。
「ねぇ、かがみ」
「……今度は何よ」
「かがみはどうしたいの?」
「え……?」
「どうして、こんなところまで私を追いかけてきたの?」
「……」
「私は待ってて欲しかったのに」
「……」
「おとなしく待っててくれればよかったのに」
「……」
「追いかけてくるから、こんなところまで来ちゃったよ」
「……」
「戻れなくなっちゃうよ」
「……」
わからない。
わからない。
わからない。
どうすればいいのか。何を言えばいいのか。
何も、わからない。
ただ、さっきまで以上に――何かが、遠い。
「私は、どうすればいいのかな」
木々が鳴いている。
胸騒ぎがする。
「かがみは、どうして欲しいのかな」
駄目だ。
まだ駄目だ。
まだ何かがよくない。わからないけど、とにかく、駄目だ。これだけじゃ、まだ駄目なんだ。
「……こなた」
衝動に。
押されるように、引かれるように。
さらに一歩、詰め寄った。
「なぁに?」
こなたは動かない。
近づきも、離れもしない。
ただ、かくり。
人形のように、またしても首を傾けなおす。
狐の面が音もなく嗤う。
止まった。
そして、かくり。
再度首が傾けられる。
「……なんで?」
「なんでじゃないわよ! いいから――いいから戻ってこい!」
「……わかんないなぁ」
「何がよ! わけわかんないのはあんたでしょ! なんだってのよさっきから!」
ああ、わからない。
こいつが何を言っているのか。
どうしてこんなに不安になるのか。
私には何もわからない。
頭が熱に浮かされて、ぼうっとして、上手く考えられない。
ただ、胸騒ぎがする。
木々がざわめいている。
このままじゃ、駄目だ。
この距離は、駄目だ。
「私は――」
「もういい! 喋るな!」
駆け寄った。
駆け寄って、その手を掴んだ。
「痛いよ」
「うるさいっ!」
掴んだ。
確かに、掴んだ。掴んだのに。
なのに、なんだろう。この折れそうなほどの腕の細さは。頼りないまでの体温の低さは。
胸の不安が、止まらない。
ざわざわ。
ざわざわ。
騒いでる。
「ねぇ、かがみ」
「……今度は何よ」
「かがみはどうしたいの?」
「え……?」
「どうして、こんなところまで私を追いかけてきたの?」
「……」
「私は待ってて欲しかったのに」
「……」
「おとなしく待っててくれればよかったのに」
「……」
「追いかけてくるから、こんなところまで来ちゃったよ」
「……」
「戻れなくなっちゃうよ」
「……」
わからない。
わからない。
わからない。
どうすればいいのか。何を言えばいいのか。
何も、わからない。
ただ、さっきまで以上に――何かが、遠い。
「私は、どうすればいいのかな」
木々が鳴いている。
胸騒ぎがする。
「かがみは、どうして欲しいのかな」
駄目だ。
まだ駄目だ。
まだ何かがよくない。わからないけど、とにかく、駄目だ。これだけじゃ、まだ駄目なんだ。
「……こなた」
衝動に。
押されるように、引かれるように。
さらに一歩、詰め寄った。
「なぁに?」
こなたは動かない。
近づきも、離れもしない。
ただ、かくり。
人形のように、またしても首を傾けなおす。
狐の面が音もなく嗤う。
ああ――それだ。
脈絡はない。根拠もない。
でも、それだ。それなんだ。
手を伸ばす。
「……どうしたらいいかって?」
私が何を望んでいるのか。
「どうして欲しいかって?」
私が何を求めているのか。
「別にいらないわよ、何も」
そんなことは、知らない。わからない。どうでもいい。
「ただ……」
手を、伸ばす。
「そのふざけた面を外しなさい!」
その腕が。
その指が。
空を、切った。
「え……」
でも、それだ。それなんだ。
手を伸ばす。
「……どうしたらいいかって?」
私が何を望んでいるのか。
「どうして欲しいかって?」
私が何を求めているのか。
「別にいらないわよ、何も」
そんなことは、知らない。わからない。どうでもいい。
「ただ……」
手を、伸ばす。
「そのふざけた面を外しなさい!」
その腕が。
その指が。
空を、切った。
「え……」
カラン。
「駄目だよ」
見えなかった。
一秒前までここにいたはずなのに。その手を確かに掴んでいたのに。
気がつけば、石畳の参道に軽やかな下駄の音を響かせて、こなたは再び遠のいていた。
なんだ?
何をされた? 何をした?
「ちょっと……」
近づく。
「駄目だよ」
離れる。
「何がよ」
歩み寄る。
「駄目なんだよ」
遠ざかる。
磁石の同極同士のように、一定以上に近づけない。
「これは外せないんだよ」
「だから、なんでよ」
「一度被った仮面は、そう簡単に外すわけにはいかないんだよ」
埒が明かない。
「また何のアニメネタだよ。いいから――」
ぐいっ。
踏み出す足に力をこめて。息を大きく吸って、止めて。
こなたの佇む暗がりめがけて、思いっきり、地面を、蹴った。
「外しなさいっ!」
瞬間。
見えなかった。
一秒前までここにいたはずなのに。その手を確かに掴んでいたのに。
気がつけば、石畳の参道に軽やかな下駄の音を響かせて、こなたは再び遠のいていた。
なんだ?
何をされた? 何をした?
「ちょっと……」
近づく。
「駄目だよ」
離れる。
「何がよ」
歩み寄る。
「駄目なんだよ」
遠ざかる。
磁石の同極同士のように、一定以上に近づけない。
「これは外せないんだよ」
「だから、なんでよ」
「一度被った仮面は、そう簡単に外すわけにはいかないんだよ」
埒が明かない。
「また何のアニメネタだよ。いいから――」
ぐいっ。
踏み出す足に力をこめて。息を大きく吸って、止めて。
こなたの佇む暗がりめがけて、思いっきり、地面を、蹴った。
「外しなさいっ!」
瞬間。
「駄目だってば」
ぞくり、と。
背筋を何かが駆け抜けた。
いくつものことが同時に起きた。
また退くと思ったのに、今度は逆に肉薄されて、伸ばした腕に何かが触れた。
こなたの髪留めが弾け飛び、まるで音のない花火のように、長い髪の毛が螺旋を描いて広がった。
赤の袖が翻り、足元の感触がふわりと消えて、視界の端に月が舞い、
そして、見た。
こなたの被る狐の面。
目に穿たれた覗き穴。
その、奥に。
暗く。
深く。
澄んだ。
光が――――
背筋を何かが駆け抜けた。
いくつものことが同時に起きた。
また退くと思ったのに、今度は逆に肉薄されて、伸ばした腕に何かが触れた。
こなたの髪留めが弾け飛び、まるで音のない花火のように、長い髪の毛が螺旋を描いて広がった。
赤の袖が翻り、足元の感触がふわりと消えて、視界の端に月が舞い、
そして、見た。
こなたの被る狐の面。
目に穿たれた覗き穴。
その、奥に。
暗く。
深く。
澄んだ。
光が――――
・
・
・
・
・
「……」
気がついたときには、全てが止まっていた。
祭囃子は聞こえない。
葉鳴りの音も聞こえない。
垂れ下ったこなたの髪が周囲の視界を遮っている。
目の前には、逆様になった狐の面。背中には固い石畳。
投げ飛ばされた、のだろうか。
痛みはまったく感じなかった。
私の身体は、驚くほどの、見過ごしてしまいそうなほどの優しさをもって、地面に横たえられていた。
「ねぇ、かがみ」
それを為した、こなたが囁く。
「わかってる? “これ”を取ったら、どうなるか」
「……」
「見えちゃうんだよ?」
「……」
「私の素顔が」
「……」
「私が、本当はどんな顔をしてるのか、ぜんぶ見えちゃうんだよ?」
「……」
「私が、本当はどんな顔でかがみのことを見てるのか。本当はどんな顔でかがみの声を聞いてるのか。
本当はどんな顔でかがみとおしゃべりをしてるのか。本当はどんな顔でかがみに触れようとしてるのか。
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ――見えちゃうんだよ?」
「……」
「それをかがみは、受け止めてくれるっていうの?」
「……」
「その、覚悟が、かがみにはあるの?」
「知らないわよ、そんなの」
「……」
ああ、もう。
わからない。
私には何もわからない。
こなたが何を言っているのか。私が何を言っているのか。
でも、見えたから。
今は影になって見えないけれど。
さっきは、見えたから。
こなたの被る狐の面。
目に穿たれた覗き穴。
その向こうに垣間見た、光は。
瞳は。
心は。
私にとって、決して不快なものではなかったと、思うから。
気がついたときには、全てが止まっていた。
祭囃子は聞こえない。
葉鳴りの音も聞こえない。
垂れ下ったこなたの髪が周囲の視界を遮っている。
目の前には、逆様になった狐の面。背中には固い石畳。
投げ飛ばされた、のだろうか。
痛みはまったく感じなかった。
私の身体は、驚くほどの、見過ごしてしまいそうなほどの優しさをもって、地面に横たえられていた。
「ねぇ、かがみ」
それを為した、こなたが囁く。
「わかってる? “これ”を取ったら、どうなるか」
「……」
「見えちゃうんだよ?」
「……」
「私の素顔が」
「……」
「私が、本当はどんな顔をしてるのか、ぜんぶ見えちゃうんだよ?」
「……」
「私が、本当はどんな顔でかがみのことを見てるのか。本当はどんな顔でかがみの声を聞いてるのか。
本当はどんな顔でかがみとおしゃべりをしてるのか。本当はどんな顔でかがみに触れようとしてるのか。
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ――見えちゃうんだよ?」
「……」
「それをかがみは、受け止めてくれるっていうの?」
「……」
「その、覚悟が、かがみにはあるの?」
「知らないわよ、そんなの」
「……」
ああ、もう。
わからない。
私には何もわからない。
こなたが何を言っているのか。私が何を言っているのか。
でも、見えたから。
今は影になって見えないけれど。
さっきは、見えたから。
こなたの被る狐の面。
目に穿たれた覗き穴。
その向こうに垣間見た、光は。
瞳は。
心は。
私にとって、決して不快なものではなかったと、思うから。
ああ――そうか。
そうだ。
理解した。
こなたの言うとおりだった。私は確かに怖がっていた。
怖かった。
この子が。
こなたが――消えてしまうことが。
それだけが、私は怖かったんだ。
「ってかさ、こなた」
手を伸ばす。
仮面に触れる。
温度がない。
うん。やっぱり邪魔だ、これ。
「あんたこそ、なに怖がってんのよ」
「……」
「とりあえず外してみなさいよ」
「……」
「受け止めろっていうんなら、とりあえずやってみるからさ」
「……かっ」
「だからさ、見せてみな?」
「か――が、み……」
濡れたような光沢の、つるりと滑る表面を、なぞって。
留め紐に、指を。
かける。
そして、
理解した。
こなたの言うとおりだった。私は確かに怖がっていた。
怖かった。
この子が。
こなたが――消えてしまうことが。
それだけが、私は怖かったんだ。
「ってかさ、こなた」
手を伸ばす。
仮面に触れる。
温度がない。
うん。やっぱり邪魔だ、これ。
「あんたこそ、なに怖がってんのよ」
「……」
「とりあえず外してみなさいよ」
「……」
「受け止めろっていうんなら、とりあえずやってみるからさ」
「……かっ」
「だからさ、見せてみな?」
「か――が、み……」
濡れたような光沢の、つるりと滑る表面を、なぞって。
留め紐に、指を。
かける。
そして、
☆
そして私は、目を覚ました。
「……」
……。
「……」
……。
「……え?」
目を、覚ました?
「……」
……。
「……」
とりあえず。
寝そべった体勢のまま、視線だけで周囲を見回してみる。薄暗い。けど、なんとか見える。
あれは机。あれは本棚。あれはドア。あれはクローゼット。あれはカーテン。
で、私の寝ているこれは、ベッド。
うん。わかる。
でも、
「ええと……」
どうやら夜らしい。カーテンは閉められているけれど、外も暗くなっていることはわかる。
何時、だろう。今。
思うと同時に時計に目が向いたけど、さすがに文字盤までは読めなかった。
そこでようやく、身体を起こす。
世界がぐらついた。
「ぅ……?」
一瞬、地震かと思った。
でも違う。
感じたのは目眩だけじゃない。暑くて寒い、この体感。これは――
「……」
……。
「……」
……。
「……え?」
目を、覚ました?
「……」
……。
「……」
とりあえず。
寝そべった体勢のまま、視線だけで周囲を見回してみる。薄暗い。けど、なんとか見える。
あれは机。あれは本棚。あれはドア。あれはクローゼット。あれはカーテン。
で、私の寝ているこれは、ベッド。
うん。わかる。
でも、
「ええと……」
どうやら夜らしい。カーテンは閉められているけれど、外も暗くなっていることはわかる。
何時、だろう。今。
思うと同時に時計に目が向いたけど、さすがに文字盤までは読めなかった。
そこでようやく、身体を起こす。
世界がぐらついた。
「ぅ……?」
一瞬、地震かと思った。
でも違う。
感じたのは目眩だけじゃない。暑くて寒い、この体感。これは――
「――お姉ちゃん、起きてる?」
と、
思い至るのとほぼ同時に、ドアが控えめにノックされ、そんな声がかけられた。
「……ええ。……っ」
反射的に返事を返した声が、少し詰まった。
ああ、ノドもだな。
そうこうしているうちにドアが外側から押し開けられ、部屋の電気も点けられる。
入ってきたのは、
「ただいま。お姉ちゃん」
浴衣の、つかさ。
「……おかえり」
ああ、そうだ。
そうだった。
思い出した。
今度こそ、完全に、思い出した。
思い至るのとほぼ同時に、ドアが控えめにノックされ、そんな声がかけられた。
「……ええ。……っ」
反射的に返事を返した声が、少し詰まった。
ああ、ノドもだな。
そうこうしているうちにドアが外側から押し開けられ、部屋の電気も点けられる。
入ってきたのは、
「ただいま。お姉ちゃん」
浴衣の、つかさ。
「……おかえり」
ああ、そうだ。
そうだった。
思い出した。
今度こそ、完全に、思い出した。
熱を出してお祭りに行けなくなったのは、私の方だったんだ。
つまりすなわち要するに。
さっきまでのは。
全部。
夢。
「~~~~……っ!」
思わず頭を抱えてしまう。
なんつー……なんっつー夢を見てんだ私はっ。
フロイト先生も爆笑とはこのことかっ。
「お、お姉ちゃん? どうしたの?」
はっ。
「あ、いや――」
「うわ、顔が真っ赤だよ。熱上がっちゃった? ごめんね起こしちゃって」
「いや、だ、大丈夫だから」
「だめだよ無理はっ。ほら、ちゃんと横になって」
「う、うん……」
慌てるつかさに、だけど優しく促されて、再びベッドに身を倒す。
「えっと……今お母さんがおかゆ作ってて、食べるかどうかついでに聞いてきてって言われたんだけど……
やっぱり食欲は、まだない?」
言いながらつかさが顔を覗き込んでくる。
着替えるついで、ということだろう。
目を逸らした。
「ん……どうかな。とりあえず喉は乾いてるけど……それより先に、着替えたいかも」
パジャマの胸元を少し引っ張ってみる。
襟口からひんやりとした空気が滑りこんでくる。
「うん、わかった。……すごい汗かいてるね?」
「あ……におう?」
「え? えっと……あはは」
「もう」
同時に、現実感も。
話しているうちに戻ってきた。
頭が少しぼんやりするけど、その事実もしっかりと実感できる。
間違いなく現実だ。
まったく。
本当に。
なんて夢。
「じゃ、タオルと、何か飲み物持ってくるね」
言って、つかさが一歩離れる。
「着替えてからで――」
いいわよ、と。
言いかけた声が、途切れて止まる。
きびすを返した、つかさの背中。
その、腰に。
帯の結びに引っ掛けられて、揺れるのは。
さっきまでのは。
全部。
夢。
「~~~~……っ!」
思わず頭を抱えてしまう。
なんつー……なんっつー夢を見てんだ私はっ。
フロイト先生も爆笑とはこのことかっ。
「お、お姉ちゃん? どうしたの?」
はっ。
「あ、いや――」
「うわ、顔が真っ赤だよ。熱上がっちゃった? ごめんね起こしちゃって」
「いや、だ、大丈夫だから」
「だめだよ無理はっ。ほら、ちゃんと横になって」
「う、うん……」
慌てるつかさに、だけど優しく促されて、再びベッドに身を倒す。
「えっと……今お母さんがおかゆ作ってて、食べるかどうかついでに聞いてきてって言われたんだけど……
やっぱり食欲は、まだない?」
言いながらつかさが顔を覗き込んでくる。
着替えるついで、ということだろう。
目を逸らした。
「ん……どうかな。とりあえず喉は乾いてるけど……それより先に、着替えたいかも」
パジャマの胸元を少し引っ張ってみる。
襟口からひんやりとした空気が滑りこんでくる。
「うん、わかった。……すごい汗かいてるね?」
「あ……におう?」
「え? えっと……あはは」
「もう」
同時に、現実感も。
話しているうちに戻ってきた。
頭が少しぼんやりするけど、その事実もしっかりと実感できる。
間違いなく現実だ。
まったく。
本当に。
なんて夢。
「じゃ、タオルと、何か飲み物持ってくるね」
言って、つかさが一歩離れる。
「着替えてからで――」
いいわよ、と。
言いかけた声が、途切れて止まる。
きびすを返した、つかさの背中。
その、腰に。
帯の結びに引っ掛けられて、揺れるのは。
黄色い糸目の、狐面。
「――つかさっ?」
跳ね起きた。
「え、どうしたのお姉ちゃん?」
つかさが振り返る。
「それ……」
腕が勝手に持ち上がる。
指差した。
「それ? ……あ、そっか」
察した顔。
面が帯から取り上げられる。
「ごめん、忘れてた。これ、おみやげ」
こちらへと差し出される。
受け取った。
「おみ、やげ?」
「うん。こなちゃんから」
「……!」
跳ね起きた。
「え、どうしたのお姉ちゃん?」
つかさが振り返る。
「それ……」
腕が勝手に持ち上がる。
指差した。
「それ? ……あ、そっか」
察した顔。
面が帯から取り上げられる。
「ごめん、忘れてた。これ、おみやげ」
こちらへと差し出される。
受け取った。
「おみ、やげ?」
「うん。こなちゃんから」
「……!」
こな……た?
「『私だと思って大切にしてね』、だって」
「……」
「お姉ちゃん?」
「……」
「お姉ちゃん? どうしたの?」
「え、あ」
「大丈夫?」
「あ、いや……うん。ごめん。ちょっと、ボーっとしてた」
「そっか。ってゆーか、起きちゃだめだよ。寝てなきゃ」
「うん。でも、大丈夫。大丈夫よ」
「ホントに? 無理しちゃダメだよ?」
「大丈夫だってば。それより、はやく着替えちゃいな」
「うん……」
そしてつかさは出て行った。
一人になる。
ベッドに倒れ込む。
面を掲げて、仰ぎみる。
目に穿たれた覗き穴から蛍光灯の光を透かし見る。
「……」
なんだろう。
どういうことだろう。
例えば仮に正夢だったとして、何を意味しているんだろう。どう解釈すればいいんだろう。
わからない。
頭が上手く働かない。
けど。
でも。
「……いいわ。受け取ってあげる」
そうしよう。
そうして、しっかり持っていよう。
二度とあんたの手に戻らないように。二度と、あんたに被られることがないように。
せいぜい大切にしてやるわ。
それでいいんでしょう?
ねぇ、こなた。
「……」
「お姉ちゃん?」
「……」
「お姉ちゃん? どうしたの?」
「え、あ」
「大丈夫?」
「あ、いや……うん。ごめん。ちょっと、ボーっとしてた」
「そっか。ってゆーか、起きちゃだめだよ。寝てなきゃ」
「うん。でも、大丈夫。大丈夫よ」
「ホントに? 無理しちゃダメだよ?」
「大丈夫だってば。それより、はやく着替えちゃいな」
「うん……」
そしてつかさは出て行った。
一人になる。
ベッドに倒れ込む。
面を掲げて、仰ぎみる。
目に穿たれた覗き穴から蛍光灯の光を透かし見る。
「……」
なんだろう。
どういうことだろう。
例えば仮に正夢だったとして、何を意味しているんだろう。どう解釈すればいいんだろう。
わからない。
頭が上手く働かない。
けど。
でも。
「……いいわ。受け取ってあげる」
そうしよう。
そうして、しっかり持っていよう。
二度とあんたの手に戻らないように。二度と、あんたに被られることがないように。
せいぜい大切にしてやるわ。
それでいいんでしょう?
ねぇ、こなた。
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- 「漫画の神様」こと手塚治虫先生は、かつてその自著の中で
「夢オチと下ネタはするな」と仰られた。
しかし、こういう作品を読むたび、俺は確信を持って言える。
「手塚先生、間違ってますよ」と。 -- 名無しさん (2009-10-28 01:29:10) - 夢オチなのに なんかグッときた GJ!! -- 名無しさん (2009-10-11 03:49:52)
- この世界観は好きだぜ -- 名無しさん (2009-03-31 02:22:58)
- 最初のトラップには気づいたけどまさかもう一つあるとは…
お主なかなかよりおるな!
-- 名無しさん (2009-03-24 01:33:32) - 二重のトラップ、話の展開に引き込まれました -- yomirin (2009-03-19 23:27:27)
- 最初おどろおどろしい表現
だったので
ちょっと苦手かなと
思いましたが、
全然大丈夫でした。
寧ろお気に入りです -- 無垢無垢 (2009-03-19 18:30:00) - 最初から最後まで雰囲気に引き込まれっぱなしでした!こなかがも綺麗に成立してるし。すげぇwww -- 名無しさん (2009-03-19 11:39:23)
- 今まで見た中で最高レベルの夢オチでした!!
神よ、GJ!!>∀<b -- 名無しさん (2009-03-19 07:39:44)