Beautiful World 2章/みさおとあやのより続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
§7
元住良の駅は、多分出来たばっかりなんだろう、格好良くてお洒落な感じがする駅だった。
真っ白い支柱、綺麗な駅名表示板。ホームにある建物はどれもまだ新しく、柱や桟に使われたピカピカのステンレスがわたしたちの顔を写していた。上りと下り、二つあるホームはドーム状の屋根に覆われていたけれど、真ん中の線路の部分だけ天窓みたいに開いていて、そこから夕暮れの空を覗かせていた。そんなところもなんだか近代建築っていう感じがして、わたしはちょっとだけ嬉しかった。かがみがこれから暮らす街が綺麗で格好いいってことが、わたしは嬉しかったんだ。
ホームの端っこにある階段を登ると、コンコースからは周辺の様子がよく見えた。片面が吹き抜けになっていて、そこからは遠くの地平線まで一直線に見渡すことができるんだ。
ごちゃごちゃとした、東京近郊の街並。凄く背の高いビルが群れているっていうわけでもなく、かといって倖手とか鷹宮みたいに田んぼや野原が残っているわけでもない。洗練されていて、都会っぽくて、けれどちゃんと活気溢れる生活の匂いが漂っている。そんな街だった。
もう群青色が強くなっている空の端に、複雑な陰影を描く雲が沢山浮かんでいる。空の高いところにあるからなんだろう、地上はそろそろ夕闇に落ちようとしているのに、雲はオレンジと青のグラデーションに染まりながらほの白く輝いていた。
そんな空を写して流れる青と橙、タータンチェックのリボンみたいな川が、東京と神奈川を隔てる多磨川だ。みゆきが住んでいる田園調府は東京だけど、そこから三駅離れただけでここはもう神奈川なのだった。
――なんでだろう。
それが悔しく感じるのはなんでだろう。
みゆきの家だったら何度も来ていたし、遠いなんて思ったことはないのに。埼玉から東京を縦断して神奈川まで来ないといけないんだって思うと、なんだかそれが凄く大変な道のりだって思えてしまうんだ。
でもそんなことに文句を云っても仕方がない。かがみはずっと目標にしてた慶央に入れたんだし、そこから近いところって云ったらどうしたってこの辺になるはずなんだ。
そんな風に自分のことを説得しながら、わたしは意識的に夕闇の風景から目をそらし、みんなの後を追って改札へと向かっていった。
改札を抜け、外に向かって拓けているオープンテラスに出ると、約束通りそこに綺麗な女の人が立っていた。
見たことがない街の、真新しい駅。
どこかお洒落な感じがする白いベンチと植え込みの向こう、大時計の支柱の根本に立っているみゆきは、なんだか知らない人みたいに見えた。
黒いスキニーパンツにオフホワイトのロングブーツ。グレー地に白で雪の結晶模様が編み込まれたポンチョを羽織っている。ポンチョの下はニットのタートルネックと、その上にベストも着ているみたいだった。
――大人の女の人だ。
反射的に、そう思ってしまった。
同じ制服を着て同じ教室にいたときはそんなこと思ったこともないのに。こうして普段と全然違うシチュエーションの中で会うと、時々わたしは信じられなくなるんだ。
ポンチョを盛り上げる、なだらかな胸の膨らみ。どっしりとしたお尻の丸み。でも引っ込むところはちゃんと引っ込んでいて、すらりと立った姿勢はモデルみたいに格好いい。
そんなみゆきを前にして、ついわたしは自分の背格好がどう見えているのかを想像してしまう。
――やっぱり、信じられない。
こんなに大人っぽいみゆきが、わたしと同い年で。
こんなに落ち着いたみゆきが、以前わたしのために泣いてくれたことがあって。
そうしてなによりも、今こっちに気がついて天使のような笑顔を浮かべたみゆきが、わたしみたいなオタクの親友でいてくれるっていうことが。
「――こんばんは、みなさん」
「こんばんは、ゆきちゃん。えへへ、久しぶりだねー」
「うふふ、先週ぶりねー」
おしとやかに頭を下げて会釈をするみゆきにつかさが応えて、早速あやのんと三人でほんわかトライアングルを形成しようとする。
――でも、そうはいかないんだつかさ。みゆきは今日はわたしのものなんだよ。
心の片隅に忍び寄っていた感傷的な気分を振り払いながら、そんなことをわたしは考える。
みゆき、つかさ、あやのんトリオが結成されてしまったら、余り物のわたしとみさきちでコンビになってしまう。なんといってもわたしたち二人にかがみがつけた名前は、その名もずばり“傍若無人バカコンビ”なんだからたちが悪い。そんなユニットの結成はごめん被るってものだった。
「やっほーみゆき! ねーねー、あんたどこ中ー?」
アニメにでてくる不良みたいな蓮っ葉な口調で、わたしはみゆきの肩に肘を乗せながら絡み出す。隣でつかさが“また何か始まった”みたいな諦めきった笑顔を浮かべていた。
「え、えええっ、ど、どこちゅう、ですか? タ、タコチュー?……ち、違いますね……。ハイチュウ……。こ、これも違いますね、ええと……」
途端にしどろもどろになって、面白すぎることを云いだすみゆきだった。予想の斜め上を行く返答に、隣のみさきちがぶほっと盛大に吹き出した。
やっぱり田園調府のハイソなお子様は、中学校同士で対抗意識燃やして抗争したりなんてしないんだろうか。駅とかで同い年くらいの子を見つけたら、とりあえず学校がどこか聞いて絡むのがスタンダードなんて、もしかして埼玉の田舎だけのことなんだろうか。
もっとも、男子がそうだって云ってただけで、わたしがやったりやられたりしたわけじゃないんだけど。
――ハイチュウはハイチュウで面白いから、別にそれに乗ってもいいかな。
そんなことをわたしが考えたとき、みゆきが突然電灯が灯ったように顔を輝かせてこう云った。
「――あ、出身中学校のことですか? それでしたら田園調府中ですけれど……」
「――そ、そうそうそれそれ。いやね、鷹中の奴らが最近ちょっと調子に乗っててねー?」
慌てて“やれやれ”みたいな顔を作りながらわたしは云う。
電車を降りてからここに向かうときも、わたしとみゆきだけ中学が違うって話はしてたから、みんなわたしが何云っているのか飲み込めている風だった。みゆきがみんなの方に目で問いかけると、みんな“つき合ってあげて”って云うみたいにため息を吐きながらうなずいた。
「そ、そうですか。ええと……ほ、本当に鷹中のやつらは、大変どうしようもない人たちだよなー?」
みゆきは、いつかかがみの口真似をしたときみたいに、思いっきり棒読みのまま、自信がなさそうにそう云った。
――いい! なんかこれ凄くいい!
普段おしとやかな敬語で喋るみゆきが、たまにそうじゃない言葉遣いをするとなんだか凄く萌えるんだ。これってもしかして、新しい萌えなんじゃないかなんてわたしは思う。何萌えなのかはよくわからないけれど。
「だよなー。まあ鷹中の奴らは放っておいて先行こうぜ!」
自然にみゆきの腕を取りながら、わたしはそう云って歩きだす。気づけば、みゆきは珍しくヨドバシの紙袋なんて持っていた。多分かがみへの引っ越し祝いなんだと思うけど、一体なんだろうってちょっとだけ気になった。
「お、おう……って、うう、すみません、これって何ですかー?」
でもみゆきはやっぱり耐えられなかったみたいで、すぐに泣きそうな顔をして、いつも通りの口調に戻ってしまった。そんな様子を見て、みんなへらへらと笑った。
「あ、うん。えっとね、わたしたち六人って、同じ中学出身が四人もいて、わたしたちだけ仲間外れだねって話なのさー。陵桜って埼玉じゃ結構有名な私立校なのに、珍しいよね?」
「なるほど、そういうことでしたか。それは最後までおつきあいできず申し訳ありません」
みゆきが自分の頬にそっと手を当てながら申し訳なさそうな顔をしていると、横からみさきちが口を出してきた。
「いやいや、そんなんつき合う必要最初からねーってば。ホント高良は律儀だよなぁ。ずっとちびっ子の面倒見ててつかれねー?」
「うっさいなっ、あやのんに迷惑ばっかかけてるみさきちにだけは云われたくないよ、この鷹中めっ」
「おお、なんだとー! さっきから聞いてりゃ鷹中鷹中って! ギャグだと思って聞き流してきたけどよ、おまえんとこの西中なんて、どこの部活も地区最弱ってんで有名だっただろ!」
「へっへーんだ、鷹中なんてバカばっかって話だったじゃん! まあ、みさきち見てたらその通りなんだなってよくわかるよね!」
「なにをー!」
「なにさー!」
がるるるって感じで八重歯を剥きだしにするみさきちだった。わたしも最初は完全にギャグだったけど、気がついてみたら三割くらい本気になっていた。
大体みさきちってば口げんか弱い癖に、やたらとつっかかってくるから困るんだ。今だって、かがみも鷹中出身だってことを云えば綺麗にオチがついてわたしは黙るのに。みさきちはそんなこと思いつきもしないから、ついわたしも引っ込み処が見つからなくて長引いてしまうんだ。
「おーい、泉ちゃんにみさちゃん、先行っちゃうわよー?」
――そうして気がつけば。
もうすっかり馴染んだ様子のほんわかトライアングルの三人が、わたしたち傍若無人バカコンビをエスカレーターの下で待っていたのだった。
真っ白い支柱、綺麗な駅名表示板。ホームにある建物はどれもまだ新しく、柱や桟に使われたピカピカのステンレスがわたしたちの顔を写していた。上りと下り、二つあるホームはドーム状の屋根に覆われていたけれど、真ん中の線路の部分だけ天窓みたいに開いていて、そこから夕暮れの空を覗かせていた。そんなところもなんだか近代建築っていう感じがして、わたしはちょっとだけ嬉しかった。かがみがこれから暮らす街が綺麗で格好いいってことが、わたしは嬉しかったんだ。
ホームの端っこにある階段を登ると、コンコースからは周辺の様子がよく見えた。片面が吹き抜けになっていて、そこからは遠くの地平線まで一直線に見渡すことができるんだ。
ごちゃごちゃとした、東京近郊の街並。凄く背の高いビルが群れているっていうわけでもなく、かといって倖手とか鷹宮みたいに田んぼや野原が残っているわけでもない。洗練されていて、都会っぽくて、けれどちゃんと活気溢れる生活の匂いが漂っている。そんな街だった。
もう群青色が強くなっている空の端に、複雑な陰影を描く雲が沢山浮かんでいる。空の高いところにあるからなんだろう、地上はそろそろ夕闇に落ちようとしているのに、雲はオレンジと青のグラデーションに染まりながらほの白く輝いていた。
そんな空を写して流れる青と橙、タータンチェックのリボンみたいな川が、東京と神奈川を隔てる多磨川だ。みゆきが住んでいる田園調府は東京だけど、そこから三駅離れただけでここはもう神奈川なのだった。
――なんでだろう。
それが悔しく感じるのはなんでだろう。
みゆきの家だったら何度も来ていたし、遠いなんて思ったことはないのに。埼玉から東京を縦断して神奈川まで来ないといけないんだって思うと、なんだかそれが凄く大変な道のりだって思えてしまうんだ。
でもそんなことに文句を云っても仕方がない。かがみはずっと目標にしてた慶央に入れたんだし、そこから近いところって云ったらどうしたってこの辺になるはずなんだ。
そんな風に自分のことを説得しながら、わたしは意識的に夕闇の風景から目をそらし、みんなの後を追って改札へと向かっていった。
改札を抜け、外に向かって拓けているオープンテラスに出ると、約束通りそこに綺麗な女の人が立っていた。
見たことがない街の、真新しい駅。
どこかお洒落な感じがする白いベンチと植え込みの向こう、大時計の支柱の根本に立っているみゆきは、なんだか知らない人みたいに見えた。
黒いスキニーパンツにオフホワイトのロングブーツ。グレー地に白で雪の結晶模様が編み込まれたポンチョを羽織っている。ポンチョの下はニットのタートルネックと、その上にベストも着ているみたいだった。
――大人の女の人だ。
反射的に、そう思ってしまった。
同じ制服を着て同じ教室にいたときはそんなこと思ったこともないのに。こうして普段と全然違うシチュエーションの中で会うと、時々わたしは信じられなくなるんだ。
ポンチョを盛り上げる、なだらかな胸の膨らみ。どっしりとしたお尻の丸み。でも引っ込むところはちゃんと引っ込んでいて、すらりと立った姿勢はモデルみたいに格好いい。
そんなみゆきを前にして、ついわたしは自分の背格好がどう見えているのかを想像してしまう。
――やっぱり、信じられない。
こんなに大人っぽいみゆきが、わたしと同い年で。
こんなに落ち着いたみゆきが、以前わたしのために泣いてくれたことがあって。
そうしてなによりも、今こっちに気がついて天使のような笑顔を浮かべたみゆきが、わたしみたいなオタクの親友でいてくれるっていうことが。
「――こんばんは、みなさん」
「こんばんは、ゆきちゃん。えへへ、久しぶりだねー」
「うふふ、先週ぶりねー」
おしとやかに頭を下げて会釈をするみゆきにつかさが応えて、早速あやのんと三人でほんわかトライアングルを形成しようとする。
――でも、そうはいかないんだつかさ。みゆきは今日はわたしのものなんだよ。
心の片隅に忍び寄っていた感傷的な気分を振り払いながら、そんなことをわたしは考える。
みゆき、つかさ、あやのんトリオが結成されてしまったら、余り物のわたしとみさきちでコンビになってしまう。なんといってもわたしたち二人にかがみがつけた名前は、その名もずばり“傍若無人バカコンビ”なんだからたちが悪い。そんなユニットの結成はごめん被るってものだった。
「やっほーみゆき! ねーねー、あんたどこ中ー?」
アニメにでてくる不良みたいな蓮っ葉な口調で、わたしはみゆきの肩に肘を乗せながら絡み出す。隣でつかさが“また何か始まった”みたいな諦めきった笑顔を浮かべていた。
「え、えええっ、ど、どこちゅう、ですか? タ、タコチュー?……ち、違いますね……。ハイチュウ……。こ、これも違いますね、ええと……」
途端にしどろもどろになって、面白すぎることを云いだすみゆきだった。予想の斜め上を行く返答に、隣のみさきちがぶほっと盛大に吹き出した。
やっぱり田園調府のハイソなお子様は、中学校同士で対抗意識燃やして抗争したりなんてしないんだろうか。駅とかで同い年くらいの子を見つけたら、とりあえず学校がどこか聞いて絡むのがスタンダードなんて、もしかして埼玉の田舎だけのことなんだろうか。
もっとも、男子がそうだって云ってただけで、わたしがやったりやられたりしたわけじゃないんだけど。
――ハイチュウはハイチュウで面白いから、別にそれに乗ってもいいかな。
そんなことをわたしが考えたとき、みゆきが突然電灯が灯ったように顔を輝かせてこう云った。
「――あ、出身中学校のことですか? それでしたら田園調府中ですけれど……」
「――そ、そうそうそれそれ。いやね、鷹中の奴らが最近ちょっと調子に乗っててねー?」
慌てて“やれやれ”みたいな顔を作りながらわたしは云う。
電車を降りてからここに向かうときも、わたしとみゆきだけ中学が違うって話はしてたから、みんなわたしが何云っているのか飲み込めている風だった。みゆきがみんなの方に目で問いかけると、みんな“つき合ってあげて”って云うみたいにため息を吐きながらうなずいた。
「そ、そうですか。ええと……ほ、本当に鷹中のやつらは、大変どうしようもない人たちだよなー?」
みゆきは、いつかかがみの口真似をしたときみたいに、思いっきり棒読みのまま、自信がなさそうにそう云った。
――いい! なんかこれ凄くいい!
普段おしとやかな敬語で喋るみゆきが、たまにそうじゃない言葉遣いをするとなんだか凄く萌えるんだ。これってもしかして、新しい萌えなんじゃないかなんてわたしは思う。何萌えなのかはよくわからないけれど。
「だよなー。まあ鷹中の奴らは放っておいて先行こうぜ!」
自然にみゆきの腕を取りながら、わたしはそう云って歩きだす。気づけば、みゆきは珍しくヨドバシの紙袋なんて持っていた。多分かがみへの引っ越し祝いなんだと思うけど、一体なんだろうってちょっとだけ気になった。
「お、おう……って、うう、すみません、これって何ですかー?」
でもみゆきはやっぱり耐えられなかったみたいで、すぐに泣きそうな顔をして、いつも通りの口調に戻ってしまった。そんな様子を見て、みんなへらへらと笑った。
「あ、うん。えっとね、わたしたち六人って、同じ中学出身が四人もいて、わたしたちだけ仲間外れだねって話なのさー。陵桜って埼玉じゃ結構有名な私立校なのに、珍しいよね?」
「なるほど、そういうことでしたか。それは最後までおつきあいできず申し訳ありません」
みゆきが自分の頬にそっと手を当てながら申し訳なさそうな顔をしていると、横からみさきちが口を出してきた。
「いやいや、そんなんつき合う必要最初からねーってば。ホント高良は律儀だよなぁ。ずっとちびっ子の面倒見ててつかれねー?」
「うっさいなっ、あやのんに迷惑ばっかかけてるみさきちにだけは云われたくないよ、この鷹中めっ」
「おお、なんだとー! さっきから聞いてりゃ鷹中鷹中って! ギャグだと思って聞き流してきたけどよ、おまえんとこの西中なんて、どこの部活も地区最弱ってんで有名だっただろ!」
「へっへーんだ、鷹中なんてバカばっかって話だったじゃん! まあ、みさきち見てたらその通りなんだなってよくわかるよね!」
「なにをー!」
「なにさー!」
がるるるって感じで八重歯を剥きだしにするみさきちだった。わたしも最初は完全にギャグだったけど、気がついてみたら三割くらい本気になっていた。
大体みさきちってば口げんか弱い癖に、やたらとつっかかってくるから困るんだ。今だって、かがみも鷹中出身だってことを云えば綺麗にオチがついてわたしは黙るのに。みさきちはそんなこと思いつきもしないから、ついわたしも引っ込み処が見つからなくて長引いてしまうんだ。
「おーい、泉ちゃんにみさちゃん、先行っちゃうわよー?」
――そうして気がつけば。
もうすっかり馴染んだ様子のほんわかトライアングルの三人が、わたしたち傍若無人バカコンビをエスカレーターの下で待っていたのだった。
§8
駅から外に出ると、目の前には昔ながらの商店街が広がっていた。ピカピカの新しい駅舎に比べて、街並は意外なほど古くさい。ロータリーとか分譲マンションとかもまるでなくて、いきなり一軒家の商店が狭い路地の両脇にずらりと立ち並んでいる。出口はここと踏切を挟んだ向こう側の二カ所しかなかったから、裏側の出口から出たってわけでもないみたいだった。
「なんだか安心できる街ね」
あやのんが、しみじみとした口調でそう云った。
――安心できる街。
そうなのかもしれないって、わたしも思う。
確かに立ち並んでいるのは小さな個人商店だけど、どこもシャッターを下ろしているって様子はなかった。文房具屋さんとか総菜屋さんとか本屋さんとか魚屋さんとか、ちゃんと真面目に商売をしているみたいで、活気溢れた呼び込みの声がここまで聞こえてくるくらいだった。
行き交う人たちもどこかのんびりしているように見える。通勤や通学らしい装いの人たちが駅から沢山吐き出されてくるけれど、不思議と家路を急いでいそいそしているような感じじゃない。夕飯の準備には少し遅いのに、それでも商店街は賑わっているようだった。
「それでつかささん、かがみさんの新居はどちらなのでしょう?」
「あ、えっとね、確かこの商店街をずっと進んで大通りにでるの」
「綱島街道ですか?」
「そうだったかな? それでそのまま右に曲がって通り沿いに進んでいって、おっきな交差点を渡って次の信号をまた右に曲がったよ」
――大丈夫、なのかな。
メモを見ながら返事をするつかさだったけれど、わたしは今更ながら沸いてきた不安をぬぐい去ることができなかった。つかさってかなり地図が読めない子だから、ちゃんとメモがあっても迷うことができるんだ。むしろ迷子になることができる唯一の道を選んで探し当ててるんじゃないかって思うくらい、つかさは迷う。
みゆきもわたしと同じように心配したのだろうか、申し訳なさそうな顔をしながらも、つかさが持っていたメモを見せてもらっていた。
「この大きな交差点って、焼き肉屋さんが四つ並んでいるところで合ってますか?」
「あ! そうそう、焼き肉屋さん祭りだったよ! え? ゆきちゃん来たことあるんだ?」
「ええ、一応来たことはありますので、多少はわかりますよ」
「よかったー。ゆきちゃんが知ってれば安心だよ~」
つかさはそんなことを云いながら、思いがけずダンジョンの奥地で仲間に会えた冒険者みたいに顔を輝かせていた。その様子からみると、やっぱりつかさも上手く辿り着けるのか不安だったんだろう。メモと道案内の主導権をあっさり譲り渡したつかさをみて、わたしたちは全滅寸前で回復の泉にたどり着いたパーティみたいにほっとしたんだ。
横に電車の高架線を眺めながら、少し寂れた感じの路地を歩く。
みゆきに云わせると、人通りが激しい商店街を抜けていくより、こっちの路地を通っていった方が近いっていうことだった。
「オズ通り商店街は北寄りに戻りますから、少し遠回りになってしまいます。それに、喋りながら歩いていると多分ご迷惑でしょうからね」
そう云ったみゆきは、本当にこのあたりに詳しそうだった。何で商店街がオズ通りって云うのか訊ねたあやのんに、入り口脇の支柱に掲げられた看板を指し示してくれた。なるほど、そこで『オズの魔法使い』のキャラクタたちがニコニコと笑っていた。
「反対側はブレーメン通り商店街と云いまして、こちらは正式にドイツのブレーメンにある商店街と提携しているようです。経緯はわかりませんので推測でしかありませんが、ブレーメン市から童話の『ブレーメンの音楽隊』を連想し、ならばこちらは『オズの魔法使い』で、ということになったのかもしれませんね」
みゆきがそう説明してくれて、わたしはそれに感心すると同時に少しだけ驚いた。
そんなに有名じゃない街の決して大きくない商店街にも、色んな歴史があるんだっていうこと。さらには外国にある遠くの街と関係があったりもするんだっていうこと。
普段何気なく見過ごしているようなことでも、掘り下げてみると色んなことがあるんだなって思うと、この世界の大きさにわたしは眩暈みたいなものを覚えてしまうんだ。
そうしてそんな感情を覚える度、わたしはいつも不安になってしまう。こんなに大きな世界の中で、こんなにちっぽけなわたしが一体何をできるんだろうって、どうしようもなくそれが不安になってしまう。
それは多分、あの日『ハルヒの激奏』を見に行った帰りに感じていた感情と、根っこのところで結びついているんじゃないかってわたしは思うんだ。
――みゆきは、どうなんだろう。
みゆきはどんな知識もわけ隔てなく吸収していって、でもまだ知らないことが沢山あるっていうことまで知っている。そんなみゆきは、世界の大きさに逃げ出したくなったことはないんだろうか。ここまででいいや、わたしの世界はここまででいいやって、線を引いて諦めたくなることってないんだろうか。
自信に溢れた足取り。おだやかな口調。柔らかい物腰。
物をよく知っている人って、大抵それを鼻にかけていたり、おしつけがましかったりするのに、みゆきには全然そんな様子が見られない。それって多分、みゆきが本当に物事をよく識ってるからなんだろうって思うんだ。
中途半端に物を知っていて、でも自分に自信が持てないって人ほど知識をひけらかすし、間違いを指摘されたときに攻撃的になる。それはそれで気持ちはよくわかるし可愛いなって思うんだけど、でもあんまり尊敬する気持ちはわいてこない。
――みゆきは違う。
知らなかったら素直に謝るし、間違いを指摘されたらにっこり笑ってお礼を云うし、わたしが垂れ流すどうでもいいオタ知識だって、まるで教授の教えを受ける学生みたいな神妙な顔つきで聞いたあと『勉強になりました』なんて云ったりする。
以前一度だけみゆきに云ってみたことがあるんだ。
お医者さんになるのに、そんな知識必要ないんじゃないのって。
みゆきが物を知ること自体を楽しんでるんだってわかっていたけれど、せっかく身につけるなら役に立つ知識のほうがいいに決まってるってわたしは思った。
でも、そんなわたしに、みゆきは笑いながらこう云ったんだ。
――目標はお医者さんになることではなくて、お医者さんとしてやっていくことですから、って。
「ゆきちゃんは、前にここに来たときって、何しに来たの~?」
ふと会話が途切れたときのことだった。つかさが思い出したようにそう云った。それは多分凄く何気ない質問で、つかさとしても別にどうしても訊きたいってことでもなかったんだろう。でもその質問を聞いたみゆきは、ふ、と昔を懐かしむようにして笑ったんだ。
「ええと、その、それがちょっとお恥ずかしい話でして……」
「おお、みゆきの恥ずかしい話! 聞きたい聞きたい~」
途端に何か弄れそうなネタの匂いをかぎつけて、わたしは甘えた声を出しながらみゆきにすがりついていった。
「あう、そ、その、笑いませんか……?」
「激しく内容によるね!」
ピコンと人差し指を立ててそう云った瞬間、柔らかい物に口をふさがれた。見上げると、そこにはにぱっと笑ったみさきちの顔。わたしはすぐ後ろにいたみさきちに、手で口をふさがれていたのだった。
「こいつのことなんて気にすんな、変なこと云いだしたらあたしが口ふさいでやっからさー」
もがもが云いながら抗議するわたしを見て、みゆきはマリアさまみたいな笑顔を浮かべていた。けれど、ふと考え込むように眉をしかめた後、一拍間をおいてから口を開いて云ったんだ。
「――全部、知ってみようって思ったんですよ」
って。
みんな何を云っているのかわからなかったんだろう、わたしたちが一瞬押し黙ると、みゆきは慌てたように言葉を繋いでいった。
「あ、すみません。これでは何もわかりませんよね……。ええと、中学二年生のことでした。図書館で本を読んでいたときに、ふと気がついたんですね。私が、それまで何も知ろうとしてこなかったっていうことに」
「――変なの。図書館で本を読んでたのに、知ろうとしてなかったって、おかしいね?」
あやのんが不思議そうに小首を傾げてそう云うと、みゆきは自嘲するような笑みでそれに応えた。
「ええ、本でしたら当時からそれなりに読んでいて、そういう知識でしたらあったんです。でも、それはそれだけなんです。本で読めるだけの知識しか私は知らなくて、自分でもそれでいいんだって思い込んでいたんですね。今思えば、本の世界に逃げこんでいたのかもしれません。その、私はこんな性格ですから、当時はあまり親しくしてくれる方もおりませんでしたし……」
「はぁ? 何云ってんだかわかんねー。なんで? なんで高良の性格だと友達できねーんだ? むしろ友達になりてーだろ普通?」
みさきちは、本当にわかんないって顔をしながら沢山の疑問符を飛ばしていた。みさきちは素でわかってないんだろうけど、でもわたしはなんとなくわかるんだ。みゆきはただでさえ見た瞬間圧倒されるようなビジュアルを持っているのに、スポーツ万能で成績優秀で博覧強記で超がつくほどのお金持ち。しかも丁寧な物腰で敬語を使うものだから、自分とは違う人種だと思ってみんな距離をおいてしまうものだろうって思う。
かくいう私だってそうだった。
あまりにもハイスペックな萌え要素が揃いすぎていて、見ているだけでいいやってずっと思ってたんだ。
――つかさが、わたしたちのことを結びつけてくれるまで。
でも、そんなことがまるで理解できないっていうのがみさきちのいいところなんだろうなって思う。みさきちはいい意味でも悪い意味でも全く空気を読まないから、たまにこんな風に素敵なことをする。
まるで空気の読めない発言で、今みたいにみゆきの顔を輝かせたりすることができるんだ。
「ふふ、ありがとうございます。仰る通り、今こうしてみなさんとお友達になれたのですから、あんまり関係なかったのかもしれませんね。……ええと、それはともかくとしまして。やはり本当の知識というものは本を読んだだけでわかるものではないと思うんです。そういうものでしたら、今の世の中インターネットで調べるだけですぐに出てきますしね。……それで、思ったのです」
「――全部、知ってみようって?」
「ええ。私は、私が属するこの世界のことを、生身で全部知ってやろうって思ったんですね。例えばそうですね……朝露に濡れる草叢でアゲハ蝶が羽化するときの音ですとか、世界中の海岸に押し寄せる波が形作るありとあらゆるフォルムのことですとか、エベレストの山頂に登る朝日が雪を溶かして作る水の冷たさですとか、そんな世界に関わることの全て。夜中に吠える犬は何を思って啼いているのだろう、なぜ鳥は地球の円周にも等しい距離を渡るようになったのだろう、人はなぜ泣いたり笑ったり怒ったりするのだろう、なぜ――人は誰かのことを好きになるのだろう……そんな沢山の疑問。私はどんな世界に生まれ、どんな世界で生き、どんな世界で死んでいくのか。それを私は知りたかった。いつかこの世界から消え去るその前に、全てを識りたいと私は願ったんです。それを知らないまま私が消えていくということが、なんだか震えるほど怖くて怖ろしくて悲しい出来事に思えてしまったんです」
――笑えない。
そんな話は全く全然少しも笑えない。
これが例えばつかさだったら、ちょっと可愛いこと云ってるなって感じで微笑ましい笑い話だろう。
これが例えばみさきちだったら、何アホみたいなこと云ってんのって感じでやっぱり笑い話になるだろう。
でもみゆきが云うと、それは全然違うんだ。“全てを識る”なんていう台詞、みゆき以外の口から聞いたら“そんなこと出来るわけないじゃん”って思うけど、みゆきならそんな台詞からもちゃんと現実感を感じられてしまうんだ。方法はわからないし、具体的にそれがどういうことかもわからない。でもみゆきなら、本当に全てを識るための努力が何かできるんじゃないかってわたしは思う。
――根拠はない。
――上手く説明することもできない。
でもわたしは、そのときみゆきが図書館で感じた感情は、あの日『ハルヒの激奏』を見た後にわたしが感じた感情と、凄く近いんじゃないかって気がしていた。
ふと世界の大きさに触れたとき。
大きくて綺麗で素敵な何かに触れたとき。
わたしたちの胸の中で渦巻くあの感情。
不安と期待と願いと望みが入り交じって居ても立ってもいられなくなる、あの感情。それをみゆきも感じたんじゃないかって、わたしはそんなことを思った。
「――それで、意味もなく旅に出ようと思ったんです」
みゆきの話は続いていく。
「買っていただいたばかりのスポーツバイクに乗って。バックパックに毛布と携帯食料と地図を詰めて。行けるところまで行ってみようと、私はある秋口の朝に家を飛び出したんです」
「そ、それってもしかして、家出――なのかな?」
つかさが、おずおずといった感じで口を挟んだ。みさきちとあやのんは、息を呑んだような表情でそんな二人のことを見つめている。
「いえいえ、そんな大それたことではありません。勿論いつか帰るつもりでしたし、ちゃんと両親にも出かけて参りますと声を掛けました。ただ、いつ戻るかは云わなかったのですけれど」
みゆきはいつも通りの穏やかな口調でにこやかに話していたけれど、なんだか結構凄いことを云っている気がした。さらっと毛布を用意してるし、いつか帰るなんて云ってるし。それに、いつ戻るかを云わなかったってことは、意図的におばさん達に隠し事をしたってことだった。清廉潔白で品行方正なみゆきもそんなことをするんだなって思うと、なんだかちょっとだけ嬉しかった。
「それで、とりあえず海を見ようと思ったんですね。目的地を江乃島辺りに定めて、西横線を辿りました。しばらくの間は観る物が全て新鮮で、何一つ見逃さないようにして走っていましたね。空の色、風の匂い、鳥の声、陽に透けた蜻蛉の翅のきらめき、立ち並ぶ電柱の数、行き交う人たちの表情、服装、華やかな笑い声。全ての路地、全ての街並を記憶しようなんて思いながら、私は走りました。この辺りもそのときに通ったんですね。だから、全部覚えています」
――全部覚えてる、か。
みゆきが全部って云ったなら、それは正しく全部っていう意味なんだろうって思う。
――想像する。
今より五年分幼くて、でも結構ナイスバディなみゆきが、多分一本に縛った髪をなびかせながら銀色のスポーツバイクを走らせる光景を。
この街並も五年分幼くて、例えばあそこの角のコンビニはその頃まだなかったかもしれない。クリーニング屋のお兄さんはそのときまだ学生だったのかもしれない。通りがかった小学生は、その日お母さんの腕の中で眠っていたのかも知れない。
ハードディスクみたいなみゆきの頭の中のことだから、当時の光景も完璧に再現されていることだろう。まるで劣化しないデジタルデータみたいに、いつまでもその光景は残っていることだろう。そうしてわたしが想像したそんな五年前の光景の中、想像のみゆきが銀色の矢みたいに一直線に駆け抜けていく。
どこか遠くへ向かって。
まだ見ぬ未来へ向かって。
わたしとは全然違う、大人っぽくて長い手足を、一生懸命に動かして――。
「けれどそのうちに、そんなペースでは到底江乃島までも辿り着けないと気がつきました。そこで多少考え方を変えまして、とりあえず景色を眺めながら遠くまで行こうと思い直しました。まだ見ぬ物を見るには、それが一番効率がいいと思ったのですね。その時点ですでにして目的が多少変わっているのですけれど、あんまり気にはなりませんでした。わたしは上機嫌で鼻歌などを歌いながら、どこまでも走っていったんです」
「――そ、それで? それでどうなったの?」
ひどく不安そうな顔で、つかさが問いかける。その手はなぜかみゆきの腕をぎゅっと抱え込んだままだった。まるでその手を離したら、みゆきがどこか遠くへ行ってしまうとでも思っているように。
そんなことないのに。
今みゆきはここにいて、こうして恥ずかしそうな顔をしながら過去の話を口にしているのに。それでもなぜだか、わたしにはつかさの気持ちがわかるような気がしていた。あのクリスマスの夜、昔の出来事を告白しているわたしを、かがみは強く抱きしめたままずっと離さなかった。
「ええと、あんまり面白いことでもないのですが……。その後横濱までいきまして、東京湾を眺めながら海沿いを走っていきました。秋の潮風が火照った身体にとても気持ちがよくて、遠く拓けた海原を眺めながら走っていると、どこまででも行ける気がしたことを覚えています。そうして八京島シーパラダイスで休憩がてら海の生き物を眺めてから、厨子線に沿って三浦半島を横断しました」
「ええっ、ごめん、ちょ、ちょっとまってみゆき。地理わかんなくなってきたよー」
頭の中がごっちゃになってきて、わたしは額に手を当てながら慌ててみゆきの話を止めたんだ。見ると、つかさとみさきちも同じように首を捻りながら眉をしかめさせていた。あやのんが普通に青ざめた顔をしてるのは、きっと正確なところがわかってるからなんだろうなって思う。
正直さっき目的地は江乃島ってことを聞いたときには、“どこか遠くなんだなぁ”って漠然と思っただけだった。でも、話が目的地に近づいてきたようだったから、正確なところをイメージしておかないといけないなって思ったんだ。
「三浦半島ってあれだよね? 房総半島と向き合ってるやつ」
「ええ、そうですね。少しイタリア半島に似ていると思いませんか?」
「四国とオーストラリアくらい似てるよね! ってかそこ横断って、さらっと云ったけど結構凄くない?」
「そうですよね、意見が合ってよかったです。いえ、よくはありませんでした。それはもう大変でしたよ、江乃島にたどり着いたときにはくたくたでしたね」
「たどりついたんだっ!」
「はい、なんとか」
そう云って、にこにこといつも通りの笑顔を浮かべるみゆきなのだった。
わたしは慌ててさっき頭の中で開いた日本地図の、相模湾に浮かんだ小さな島に点を打つ。本当は陸地が繋がってるから島じゃないけれど、この際それは気にしない。だって自分で島だって云っているんだし。
それから田園調府にももう一つ点を打ってみた。東京都と神奈川の境目だから、こっちはわりとわかりやすい。
――なんか、もしかして凄く遠いんじゃないかって気がする。
ものは試しとばかり、田園調府の点を中心にして、コンパスみたいにくるっと江乃島の点を回して円を引く。その円は、糟日部辺りにまで届いていた。
「みゆきさん家から陵桜くらい遠いじゃん!」
だからわたしは、思わず昔みたいにさんづけしてしまったんだ。
それは純然たる敬意から出てきたものだったけれど、聞いたみゆきがちょっとだけ悲しそうな顔をしたから、やっぱりあんまり云わない方がいいみたいだって思った。
「えー! ゆきちゃんすごーい!」
わたしの発言を聞いてやっとその距離がわかったんだろう、つかさも驚いたようにそう云った。
ちなみにみさきちはそれでもよくわかってないようで、なんだかきょとんとした顔をしていた。きっとみさきちの頭の中には、そもそも日本地図が入ってないんだと思う。あるいは元々入ってはいたけれど、推薦が決まったその日にまとめて資源ゴミに出したんだ。
「ありがとうございます。でも、それほど大したことでもないと思いますが……。おそらく直線距離では三十キロくらいだと思いますし」
「そりゃ直線距離だとそうかもだけどさ、道のりだと全然違うじゃん?」
「そうですね。道のりでしたら四、五十キロはあるのでしょうか? 確かにとても大変で、自分でもよく走れたなと思います。……でも」
「でも?」
「ええ。それでも、わたしは思うんです。身体を鍛えたマラソンランナーでしたら、そのくらいの距離は二、三時間もあれば踏破できる距離なんだっていうことを。人は身体を鍛えれば、その二本の足だけであの距離を進むこともできるんです。……そう思ったら、私がしたことなんて全然大したことがないと感じるんですよね。ね、みさおさん?」
みゆきが笑いながら水を向けると、みさきちはきょとんとした顔のまま、不思議そうに目をぱちくりさせていた。
「ふみゃ? あ、や、でも部活やってない中二にしては頑張ったと思うぜ。でもまー、ほら。普通に長距離やってる奴なら、毎日十五キロくらい余裕で走ってるしなー。あいつら、毎日学生生活しながら、半年で日本縦断するくらい走ってんだぜ? そう考えると結構凄くねー?」
そう云って、うひゃうひゃと脳天気に笑うみさきちだった。
そんなみさきちの発言を聞いて、悔しいけどわたしは素直に凄いなって思ってしまった。みさきちなんかに驚かされるのは癪だったけれど、半年で日本縦断っていう数字に、狙い通りわたしはびっくりしてしまっていた。
――そっか、みさきちって、そういう世界で生きてるんだ。
改めて、思い出す。
あまりにもバカで脳天気だから時々勘違いしそうになるけれど、みさきちは高校女子陸上の世界では全国区のランナーだったんだっていうこと。みさきちができたことだから大したことないように思ってしまうけど、ただ二本の足だけで大学入学を決めるなんて、普通の人にはなかなかできるものじゃないんだってことを。
それはつまり、半年で日本を縦断するのが普通な人たちの中で、みさきちは特に優れてるってことなんだ。それは勿論、みさきちは短距離走だから、全く同じってわけじゃないんだろうけど。
でもきっと短距離の世界でも、“半年で日本縦断”みたいなことをみんなしているんだろうって思う。そういうことをずっとしてきて、それでもみさきちに及びもしなかった。そんな選手が一杯いるってことなんだ。
――ごめん、みさきち。ちょっと見直したかも。
さっきみさきちがきょとんってしてたのは、多分距離が実感できなかったってわけじゃない。自分にとっては大したことがない距離でも、もしかしたらわたしたちにとっては大変なものかもしれないって思って、あんまり口を出さないようにしていたってことなんだろう。
「――ね? 人間って凄いと思いませんか?」
嬉しそうに笑ってそう云ったみゆきに、わたしはふと思い出す。
あの日のこと。
わたしとかがみがつき合うことになった、季節外れの狂い桜が咲いたあの日のことを。
あの日つかさが“なんとなく”わたしたちが好き合っているのがわかったって云ったとき、みゆきは馬鹿笑いをしながら涙を浮かべて云ったんだ。
――人間って凄い、って。
今みさきちのことを見つめるみゆきの表情は、あの日つかさに対して浮かべていた、眩しそうな表情だ。
元住良駅のコンコース。
あそこで今日、夕陽を見ながらきっとわたしが浮かべていたものみたいに、それは眩しくて綺麗で荘厳なものに心を奪われているような、慈愛に満ちた眼差しだ。
――でも、わたしは思うんだ。
みさきちも凄いけど、そんな風に思えるみゆきだって、同じくらい凄いんだってこと。
自分が及びもつかない世界のことをそんな目で眺めることができるみゆきは、本当に凄いってわたしは思うんだ。
普通は、そんな風に他人のことを見られない。
自分にできないこととか、自分が知らないこととか、普通は自分とは関係がないことなんだって、切り捨ててしまうんだ。
だって、そうしないと悔しいから。そうしないと、自分のことが否定されたみたいに思ってしまうから。
――でもみゆきは違う。
自分が知らない世界のこと、自分が入れない世界のことを、本当に嬉しそうに見つめてる。
「なんだか安心できる街ね」
あやのんが、しみじみとした口調でそう云った。
――安心できる街。
そうなのかもしれないって、わたしも思う。
確かに立ち並んでいるのは小さな個人商店だけど、どこもシャッターを下ろしているって様子はなかった。文房具屋さんとか総菜屋さんとか本屋さんとか魚屋さんとか、ちゃんと真面目に商売をしているみたいで、活気溢れた呼び込みの声がここまで聞こえてくるくらいだった。
行き交う人たちもどこかのんびりしているように見える。通勤や通学らしい装いの人たちが駅から沢山吐き出されてくるけれど、不思議と家路を急いでいそいそしているような感じじゃない。夕飯の準備には少し遅いのに、それでも商店街は賑わっているようだった。
「それでつかささん、かがみさんの新居はどちらなのでしょう?」
「あ、えっとね、確かこの商店街をずっと進んで大通りにでるの」
「綱島街道ですか?」
「そうだったかな? それでそのまま右に曲がって通り沿いに進んでいって、おっきな交差点を渡って次の信号をまた右に曲がったよ」
――大丈夫、なのかな。
メモを見ながら返事をするつかさだったけれど、わたしは今更ながら沸いてきた不安をぬぐい去ることができなかった。つかさってかなり地図が読めない子だから、ちゃんとメモがあっても迷うことができるんだ。むしろ迷子になることができる唯一の道を選んで探し当ててるんじゃないかって思うくらい、つかさは迷う。
みゆきもわたしと同じように心配したのだろうか、申し訳なさそうな顔をしながらも、つかさが持っていたメモを見せてもらっていた。
「この大きな交差点って、焼き肉屋さんが四つ並んでいるところで合ってますか?」
「あ! そうそう、焼き肉屋さん祭りだったよ! え? ゆきちゃん来たことあるんだ?」
「ええ、一応来たことはありますので、多少はわかりますよ」
「よかったー。ゆきちゃんが知ってれば安心だよ~」
つかさはそんなことを云いながら、思いがけずダンジョンの奥地で仲間に会えた冒険者みたいに顔を輝かせていた。その様子からみると、やっぱりつかさも上手く辿り着けるのか不安だったんだろう。メモと道案内の主導権をあっさり譲り渡したつかさをみて、わたしたちは全滅寸前で回復の泉にたどり着いたパーティみたいにほっとしたんだ。
横に電車の高架線を眺めながら、少し寂れた感じの路地を歩く。
みゆきに云わせると、人通りが激しい商店街を抜けていくより、こっちの路地を通っていった方が近いっていうことだった。
「オズ通り商店街は北寄りに戻りますから、少し遠回りになってしまいます。それに、喋りながら歩いていると多分ご迷惑でしょうからね」
そう云ったみゆきは、本当にこのあたりに詳しそうだった。何で商店街がオズ通りって云うのか訊ねたあやのんに、入り口脇の支柱に掲げられた看板を指し示してくれた。なるほど、そこで『オズの魔法使い』のキャラクタたちがニコニコと笑っていた。
「反対側はブレーメン通り商店街と云いまして、こちらは正式にドイツのブレーメンにある商店街と提携しているようです。経緯はわかりませんので推測でしかありませんが、ブレーメン市から童話の『ブレーメンの音楽隊』を連想し、ならばこちらは『オズの魔法使い』で、ということになったのかもしれませんね」
みゆきがそう説明してくれて、わたしはそれに感心すると同時に少しだけ驚いた。
そんなに有名じゃない街の決して大きくない商店街にも、色んな歴史があるんだっていうこと。さらには外国にある遠くの街と関係があったりもするんだっていうこと。
普段何気なく見過ごしているようなことでも、掘り下げてみると色んなことがあるんだなって思うと、この世界の大きさにわたしは眩暈みたいなものを覚えてしまうんだ。
そうしてそんな感情を覚える度、わたしはいつも不安になってしまう。こんなに大きな世界の中で、こんなにちっぽけなわたしが一体何をできるんだろうって、どうしようもなくそれが不安になってしまう。
それは多分、あの日『ハルヒの激奏』を見に行った帰りに感じていた感情と、根っこのところで結びついているんじゃないかってわたしは思うんだ。
――みゆきは、どうなんだろう。
みゆきはどんな知識もわけ隔てなく吸収していって、でもまだ知らないことが沢山あるっていうことまで知っている。そんなみゆきは、世界の大きさに逃げ出したくなったことはないんだろうか。ここまででいいや、わたしの世界はここまででいいやって、線を引いて諦めたくなることってないんだろうか。
自信に溢れた足取り。おだやかな口調。柔らかい物腰。
物をよく知っている人って、大抵それを鼻にかけていたり、おしつけがましかったりするのに、みゆきには全然そんな様子が見られない。それって多分、みゆきが本当に物事をよく識ってるからなんだろうって思うんだ。
中途半端に物を知っていて、でも自分に自信が持てないって人ほど知識をひけらかすし、間違いを指摘されたときに攻撃的になる。それはそれで気持ちはよくわかるし可愛いなって思うんだけど、でもあんまり尊敬する気持ちはわいてこない。
――みゆきは違う。
知らなかったら素直に謝るし、間違いを指摘されたらにっこり笑ってお礼を云うし、わたしが垂れ流すどうでもいいオタ知識だって、まるで教授の教えを受ける学生みたいな神妙な顔つきで聞いたあと『勉強になりました』なんて云ったりする。
以前一度だけみゆきに云ってみたことがあるんだ。
お医者さんになるのに、そんな知識必要ないんじゃないのって。
みゆきが物を知ること自体を楽しんでるんだってわかっていたけれど、せっかく身につけるなら役に立つ知識のほうがいいに決まってるってわたしは思った。
でも、そんなわたしに、みゆきは笑いながらこう云ったんだ。
――目標はお医者さんになることではなくて、お医者さんとしてやっていくことですから、って。
「ゆきちゃんは、前にここに来たときって、何しに来たの~?」
ふと会話が途切れたときのことだった。つかさが思い出したようにそう云った。それは多分凄く何気ない質問で、つかさとしても別にどうしても訊きたいってことでもなかったんだろう。でもその質問を聞いたみゆきは、ふ、と昔を懐かしむようにして笑ったんだ。
「ええと、その、それがちょっとお恥ずかしい話でして……」
「おお、みゆきの恥ずかしい話! 聞きたい聞きたい~」
途端に何か弄れそうなネタの匂いをかぎつけて、わたしは甘えた声を出しながらみゆきにすがりついていった。
「あう、そ、その、笑いませんか……?」
「激しく内容によるね!」
ピコンと人差し指を立ててそう云った瞬間、柔らかい物に口をふさがれた。見上げると、そこにはにぱっと笑ったみさきちの顔。わたしはすぐ後ろにいたみさきちに、手で口をふさがれていたのだった。
「こいつのことなんて気にすんな、変なこと云いだしたらあたしが口ふさいでやっからさー」
もがもが云いながら抗議するわたしを見て、みゆきはマリアさまみたいな笑顔を浮かべていた。けれど、ふと考え込むように眉をしかめた後、一拍間をおいてから口を開いて云ったんだ。
「――全部、知ってみようって思ったんですよ」
って。
みんな何を云っているのかわからなかったんだろう、わたしたちが一瞬押し黙ると、みゆきは慌てたように言葉を繋いでいった。
「あ、すみません。これでは何もわかりませんよね……。ええと、中学二年生のことでした。図書館で本を読んでいたときに、ふと気がついたんですね。私が、それまで何も知ろうとしてこなかったっていうことに」
「――変なの。図書館で本を読んでたのに、知ろうとしてなかったって、おかしいね?」
あやのんが不思議そうに小首を傾げてそう云うと、みゆきは自嘲するような笑みでそれに応えた。
「ええ、本でしたら当時からそれなりに読んでいて、そういう知識でしたらあったんです。でも、それはそれだけなんです。本で読めるだけの知識しか私は知らなくて、自分でもそれでいいんだって思い込んでいたんですね。今思えば、本の世界に逃げこんでいたのかもしれません。その、私はこんな性格ですから、当時はあまり親しくしてくれる方もおりませんでしたし……」
「はぁ? 何云ってんだかわかんねー。なんで? なんで高良の性格だと友達できねーんだ? むしろ友達になりてーだろ普通?」
みさきちは、本当にわかんないって顔をしながら沢山の疑問符を飛ばしていた。みさきちは素でわかってないんだろうけど、でもわたしはなんとなくわかるんだ。みゆきはただでさえ見た瞬間圧倒されるようなビジュアルを持っているのに、スポーツ万能で成績優秀で博覧強記で超がつくほどのお金持ち。しかも丁寧な物腰で敬語を使うものだから、自分とは違う人種だと思ってみんな距離をおいてしまうものだろうって思う。
かくいう私だってそうだった。
あまりにもハイスペックな萌え要素が揃いすぎていて、見ているだけでいいやってずっと思ってたんだ。
――つかさが、わたしたちのことを結びつけてくれるまで。
でも、そんなことがまるで理解できないっていうのがみさきちのいいところなんだろうなって思う。みさきちはいい意味でも悪い意味でも全く空気を読まないから、たまにこんな風に素敵なことをする。
まるで空気の読めない発言で、今みたいにみゆきの顔を輝かせたりすることができるんだ。
「ふふ、ありがとうございます。仰る通り、今こうしてみなさんとお友達になれたのですから、あんまり関係なかったのかもしれませんね。……ええと、それはともかくとしまして。やはり本当の知識というものは本を読んだだけでわかるものではないと思うんです。そういうものでしたら、今の世の中インターネットで調べるだけですぐに出てきますしね。……それで、思ったのです」
「――全部、知ってみようって?」
「ええ。私は、私が属するこの世界のことを、生身で全部知ってやろうって思ったんですね。例えばそうですね……朝露に濡れる草叢でアゲハ蝶が羽化するときの音ですとか、世界中の海岸に押し寄せる波が形作るありとあらゆるフォルムのことですとか、エベレストの山頂に登る朝日が雪を溶かして作る水の冷たさですとか、そんな世界に関わることの全て。夜中に吠える犬は何を思って啼いているのだろう、なぜ鳥は地球の円周にも等しい距離を渡るようになったのだろう、人はなぜ泣いたり笑ったり怒ったりするのだろう、なぜ――人は誰かのことを好きになるのだろう……そんな沢山の疑問。私はどんな世界に生まれ、どんな世界で生き、どんな世界で死んでいくのか。それを私は知りたかった。いつかこの世界から消え去るその前に、全てを識りたいと私は願ったんです。それを知らないまま私が消えていくということが、なんだか震えるほど怖くて怖ろしくて悲しい出来事に思えてしまったんです」
――笑えない。
そんな話は全く全然少しも笑えない。
これが例えばつかさだったら、ちょっと可愛いこと云ってるなって感じで微笑ましい笑い話だろう。
これが例えばみさきちだったら、何アホみたいなこと云ってんのって感じでやっぱり笑い話になるだろう。
でもみゆきが云うと、それは全然違うんだ。“全てを識る”なんていう台詞、みゆき以外の口から聞いたら“そんなこと出来るわけないじゃん”って思うけど、みゆきならそんな台詞からもちゃんと現実感を感じられてしまうんだ。方法はわからないし、具体的にそれがどういうことかもわからない。でもみゆきなら、本当に全てを識るための努力が何かできるんじゃないかってわたしは思う。
――根拠はない。
――上手く説明することもできない。
でもわたしは、そのときみゆきが図書館で感じた感情は、あの日『ハルヒの激奏』を見た後にわたしが感じた感情と、凄く近いんじゃないかって気がしていた。
ふと世界の大きさに触れたとき。
大きくて綺麗で素敵な何かに触れたとき。
わたしたちの胸の中で渦巻くあの感情。
不安と期待と願いと望みが入り交じって居ても立ってもいられなくなる、あの感情。それをみゆきも感じたんじゃないかって、わたしはそんなことを思った。
「――それで、意味もなく旅に出ようと思ったんです」
みゆきの話は続いていく。
「買っていただいたばかりのスポーツバイクに乗って。バックパックに毛布と携帯食料と地図を詰めて。行けるところまで行ってみようと、私はある秋口の朝に家を飛び出したんです」
「そ、それってもしかして、家出――なのかな?」
つかさが、おずおずといった感じで口を挟んだ。みさきちとあやのんは、息を呑んだような表情でそんな二人のことを見つめている。
「いえいえ、そんな大それたことではありません。勿論いつか帰るつもりでしたし、ちゃんと両親にも出かけて参りますと声を掛けました。ただ、いつ戻るかは云わなかったのですけれど」
みゆきはいつも通りの穏やかな口調でにこやかに話していたけれど、なんだか結構凄いことを云っている気がした。さらっと毛布を用意してるし、いつか帰るなんて云ってるし。それに、いつ戻るかを云わなかったってことは、意図的におばさん達に隠し事をしたってことだった。清廉潔白で品行方正なみゆきもそんなことをするんだなって思うと、なんだかちょっとだけ嬉しかった。
「それで、とりあえず海を見ようと思ったんですね。目的地を江乃島辺りに定めて、西横線を辿りました。しばらくの間は観る物が全て新鮮で、何一つ見逃さないようにして走っていましたね。空の色、風の匂い、鳥の声、陽に透けた蜻蛉の翅のきらめき、立ち並ぶ電柱の数、行き交う人たちの表情、服装、華やかな笑い声。全ての路地、全ての街並を記憶しようなんて思いながら、私は走りました。この辺りもそのときに通ったんですね。だから、全部覚えています」
――全部覚えてる、か。
みゆきが全部って云ったなら、それは正しく全部っていう意味なんだろうって思う。
――想像する。
今より五年分幼くて、でも結構ナイスバディなみゆきが、多分一本に縛った髪をなびかせながら銀色のスポーツバイクを走らせる光景を。
この街並も五年分幼くて、例えばあそこの角のコンビニはその頃まだなかったかもしれない。クリーニング屋のお兄さんはそのときまだ学生だったのかもしれない。通りがかった小学生は、その日お母さんの腕の中で眠っていたのかも知れない。
ハードディスクみたいなみゆきの頭の中のことだから、当時の光景も完璧に再現されていることだろう。まるで劣化しないデジタルデータみたいに、いつまでもその光景は残っていることだろう。そうしてわたしが想像したそんな五年前の光景の中、想像のみゆきが銀色の矢みたいに一直線に駆け抜けていく。
どこか遠くへ向かって。
まだ見ぬ未来へ向かって。
わたしとは全然違う、大人っぽくて長い手足を、一生懸命に動かして――。
「けれどそのうちに、そんなペースでは到底江乃島までも辿り着けないと気がつきました。そこで多少考え方を変えまして、とりあえず景色を眺めながら遠くまで行こうと思い直しました。まだ見ぬ物を見るには、それが一番効率がいいと思ったのですね。その時点ですでにして目的が多少変わっているのですけれど、あんまり気にはなりませんでした。わたしは上機嫌で鼻歌などを歌いながら、どこまでも走っていったんです」
「――そ、それで? それでどうなったの?」
ひどく不安そうな顔で、つかさが問いかける。その手はなぜかみゆきの腕をぎゅっと抱え込んだままだった。まるでその手を離したら、みゆきがどこか遠くへ行ってしまうとでも思っているように。
そんなことないのに。
今みゆきはここにいて、こうして恥ずかしそうな顔をしながら過去の話を口にしているのに。それでもなぜだか、わたしにはつかさの気持ちがわかるような気がしていた。あのクリスマスの夜、昔の出来事を告白しているわたしを、かがみは強く抱きしめたままずっと離さなかった。
「ええと、あんまり面白いことでもないのですが……。その後横濱までいきまして、東京湾を眺めながら海沿いを走っていきました。秋の潮風が火照った身体にとても気持ちがよくて、遠く拓けた海原を眺めながら走っていると、どこまででも行ける気がしたことを覚えています。そうして八京島シーパラダイスで休憩がてら海の生き物を眺めてから、厨子線に沿って三浦半島を横断しました」
「ええっ、ごめん、ちょ、ちょっとまってみゆき。地理わかんなくなってきたよー」
頭の中がごっちゃになってきて、わたしは額に手を当てながら慌ててみゆきの話を止めたんだ。見ると、つかさとみさきちも同じように首を捻りながら眉をしかめさせていた。あやのんが普通に青ざめた顔をしてるのは、きっと正確なところがわかってるからなんだろうなって思う。
正直さっき目的地は江乃島ってことを聞いたときには、“どこか遠くなんだなぁ”って漠然と思っただけだった。でも、話が目的地に近づいてきたようだったから、正確なところをイメージしておかないといけないなって思ったんだ。
「三浦半島ってあれだよね? 房総半島と向き合ってるやつ」
「ええ、そうですね。少しイタリア半島に似ていると思いませんか?」
「四国とオーストラリアくらい似てるよね! ってかそこ横断って、さらっと云ったけど結構凄くない?」
「そうですよね、意見が合ってよかったです。いえ、よくはありませんでした。それはもう大変でしたよ、江乃島にたどり着いたときにはくたくたでしたね」
「たどりついたんだっ!」
「はい、なんとか」
そう云って、にこにこといつも通りの笑顔を浮かべるみゆきなのだった。
わたしは慌ててさっき頭の中で開いた日本地図の、相模湾に浮かんだ小さな島に点を打つ。本当は陸地が繋がってるから島じゃないけれど、この際それは気にしない。だって自分で島だって云っているんだし。
それから田園調府にももう一つ点を打ってみた。東京都と神奈川の境目だから、こっちはわりとわかりやすい。
――なんか、もしかして凄く遠いんじゃないかって気がする。
ものは試しとばかり、田園調府の点を中心にして、コンパスみたいにくるっと江乃島の点を回して円を引く。その円は、糟日部辺りにまで届いていた。
「みゆきさん家から陵桜くらい遠いじゃん!」
だからわたしは、思わず昔みたいにさんづけしてしまったんだ。
それは純然たる敬意から出てきたものだったけれど、聞いたみゆきがちょっとだけ悲しそうな顔をしたから、やっぱりあんまり云わない方がいいみたいだって思った。
「えー! ゆきちゃんすごーい!」
わたしの発言を聞いてやっとその距離がわかったんだろう、つかさも驚いたようにそう云った。
ちなみにみさきちはそれでもよくわかってないようで、なんだかきょとんとした顔をしていた。きっとみさきちの頭の中には、そもそも日本地図が入ってないんだと思う。あるいは元々入ってはいたけれど、推薦が決まったその日にまとめて資源ゴミに出したんだ。
「ありがとうございます。でも、それほど大したことでもないと思いますが……。おそらく直線距離では三十キロくらいだと思いますし」
「そりゃ直線距離だとそうかもだけどさ、道のりだと全然違うじゃん?」
「そうですね。道のりでしたら四、五十キロはあるのでしょうか? 確かにとても大変で、自分でもよく走れたなと思います。……でも」
「でも?」
「ええ。それでも、わたしは思うんです。身体を鍛えたマラソンランナーでしたら、そのくらいの距離は二、三時間もあれば踏破できる距離なんだっていうことを。人は身体を鍛えれば、その二本の足だけであの距離を進むこともできるんです。……そう思ったら、私がしたことなんて全然大したことがないと感じるんですよね。ね、みさおさん?」
みゆきが笑いながら水を向けると、みさきちはきょとんとした顔のまま、不思議そうに目をぱちくりさせていた。
「ふみゃ? あ、や、でも部活やってない中二にしては頑張ったと思うぜ。でもまー、ほら。普通に長距離やってる奴なら、毎日十五キロくらい余裕で走ってるしなー。あいつら、毎日学生生活しながら、半年で日本縦断するくらい走ってんだぜ? そう考えると結構凄くねー?」
そう云って、うひゃうひゃと脳天気に笑うみさきちだった。
そんなみさきちの発言を聞いて、悔しいけどわたしは素直に凄いなって思ってしまった。みさきちなんかに驚かされるのは癪だったけれど、半年で日本縦断っていう数字に、狙い通りわたしはびっくりしてしまっていた。
――そっか、みさきちって、そういう世界で生きてるんだ。
改めて、思い出す。
あまりにもバカで脳天気だから時々勘違いしそうになるけれど、みさきちは高校女子陸上の世界では全国区のランナーだったんだっていうこと。みさきちができたことだから大したことないように思ってしまうけど、ただ二本の足だけで大学入学を決めるなんて、普通の人にはなかなかできるものじゃないんだってことを。
それはつまり、半年で日本を縦断するのが普通な人たちの中で、みさきちは特に優れてるってことなんだ。それは勿論、みさきちは短距離走だから、全く同じってわけじゃないんだろうけど。
でもきっと短距離の世界でも、“半年で日本縦断”みたいなことをみんなしているんだろうって思う。そういうことをずっとしてきて、それでもみさきちに及びもしなかった。そんな選手が一杯いるってことなんだ。
――ごめん、みさきち。ちょっと見直したかも。
さっきみさきちがきょとんってしてたのは、多分距離が実感できなかったってわけじゃない。自分にとっては大したことがない距離でも、もしかしたらわたしたちにとっては大変なものかもしれないって思って、あんまり口を出さないようにしていたってことなんだろう。
「――ね? 人間って凄いと思いませんか?」
嬉しそうに笑ってそう云ったみゆきに、わたしはふと思い出す。
あの日のこと。
わたしとかがみがつき合うことになった、季節外れの狂い桜が咲いたあの日のことを。
あの日つかさが“なんとなく”わたしたちが好き合っているのがわかったって云ったとき、みゆきは馬鹿笑いをしながら涙を浮かべて云ったんだ。
――人間って凄い、って。
今みさきちのことを見つめるみゆきの表情は、あの日つかさに対して浮かべていた、眩しそうな表情だ。
元住良駅のコンコース。
あそこで今日、夕陽を見ながらきっとわたしが浮かべていたものみたいに、それは眩しくて綺麗で荘厳なものに心を奪われているような、慈愛に満ちた眼差しだ。
――でも、わたしは思うんだ。
みさきちも凄いけど、そんな風に思えるみゆきだって、同じくらい凄いんだってこと。
自分が及びもつかない世界のことをそんな目で眺めることができるみゆきは、本当に凄いってわたしは思うんだ。
普通は、そんな風に他人のことを見られない。
自分にできないこととか、自分が知らないこととか、普通は自分とは関係がないことなんだって、切り捨ててしまうんだ。
だって、そうしないと悔しいから。そうしないと、自分のことが否定されたみたいに思ってしまうから。
――でもみゆきは違う。
自分が知らない世界のこと、自分が入れない世界のことを、本当に嬉しそうに見つめてる。
「どぉーだぁー、すっげーだろあたし! ほれほれ、高良のお墨付きだぜ、惜しみない賞賛を浴びせてくれたまへー」
――なのに、そんなみさきちの馬鹿笑いで全てが台無しになった。
さっきまで誇らしげに微笑んでいたあやのんも、鼻高々でいばり散らすみさきちを見て、額を抑えながら頭を振っていた。
わたしだって、せっかくたまには褒めてあげようと思ったのに。正直ここまで調子に乗られると、なんだか冷たくあしらってあげないと悪い気すらしてしまう。
ずっと同じクラスだったかがみが何故かみさきちに冷たかった理由が、そのときわたしは身に沁みてよくわかったんだ。
「――や、別に? さっきみゆきが褒めたのって、長距離ランナーの人じゃん? 別にみさきちのことは褒めてない。全然褒めてないよ?」
「なっ! むぐぐぐぐっ、ち、違うだろー? さっき高良が云ったのって、そーゆーことじゃねーだろー?」
「じゃ、どういうことなのさ?」
「どーゆーってそりゃこう、なんかスポーツやってて凄いだろっていうか、諦めないで頑張ってたら色んな事できるんだぜっていうか、多分そういうことだ!」
「なにそれ、全然意味わかんないよ。やっぱ鷹中ってバカばっか」
「むきゃー! またそれかよ! 中学はもう関係ねっだろー!」
そんな風に、またいつもの口喧嘩を始めたわたしたちだった。さすがにあやのんもいい加減疲れたんだろう。ふいってみさきちから顔を背けると、みゆきに近づいていってこう云った。
「――もうあそこの傍若無人バカコンビは放っておきましょ。それよりゆきちゃん?」
「あ、はい、なんでしょうかあやのさん」
「さっきの話、まだ終わってないじゃない? 江乃島についてからどうなったの?」
「あ、そうそう、わたしもそれ気になってたんだよ~」
「ちょ、あ、あやのぉ……見捨てないでくれよぉ」
途端にみさきちも口喧嘩を切り上げて、あやのんの腕にすがりついていったんだ。
急に注目が戻ってきたからだろうか。そんなわたしたちを見て、みゆきは恥ずかしそうに頬を紅くする。
「え、ええと、その、これから先は本当にお恥ずかしいのですが……」
「おお! それそれ、まさにそういう話を聞きたかったのだよ~」
「あ、はい……ええとですね。江乃島に渡って私はすっかり満足していたのですが、考えてみれば女子中学生が一人で泊まれるような宿など見あたりませんで……。今でしたらネットカフェなどがどこかにあっただろうと思うのですけれど、当時はそのような形態のお店が存在することすら知らなかったので……」
「ふむふむ?」
「それで、仕方なく海を見下ろす海浜公園のベンチで、毛布をひっぱりだして眠ってしまったのです。丁度十時でしたし……」
「あー、中学時代は十時には寝てたって云ってたもんねー」
「ええ。それで翌朝目を覚ましましたら……私はなぜか自室のベッドで眠っていて、父と母があきれ顔で私のことを見下ろしていたんです……」
「「――へ?」」
そんな思いもよらない話の展開に、わたしたちは一斉に驚きの声を上げたんだ。
えっと、それってもしかして、夢オチっていうことなんだろうか。
――マジで? なにその超展開、そんなのわたし認めないよ。
散々面白いこととか信じられない展開とか連発して釣りに釣りまくっておきながら、最後に全部なかったことにして帳尻合わせようなんていう夢オチは、正直脚本として最低だってわたしは思うんだ。
でも、どうやらそうではないようだった。そんなわたしたちの反応を見て、みゆきは慌てたように手を振りながらこう云った。
「あ、ええとですね、どうやら寝込んですぐに私は見回りのお巡りさんに発見されていたらしく、いつの間にか派出所に移されていたようなのですが……何をどうしても起きないからと、呼び出された両親にそのまま車で実家まで運ばれていったとのことで……」
――思わず、お互いの顔を見合わせた。
それって、つまりはどういうことなんだろう。
“世界をみんな知ろう”なんていう決意の元、しばらく戻らない覚悟で家を飛び出して。そうして頑張って遠くまで来たと思ったのに、寝て起きたら自分のベッドの中だった。
――それってなんだか、お釈迦様の掌で踊ってた孫悟空みたいじゃん。
思わず、笑みが漏れそうになってしまう。
でも周りを見渡して見たら、わたしだけじゃなくつかさもみさきちもあやのんも、笑いを堪えるように頬をぷるぷると震わせていた。
そんなみんなの顔を見たら、もう駄目だった。
あっはっはっはって、わたしたちは顔を見合わせながら盛大な笑い声を上げてしまったんだ。
「あ、あううう……やっぱり、やっぱり笑われるって思っていましたぁ……」
そんな情けない声を上げて、みゆきは女らしく育った体を隠すようにして縮こまっていた。頬も耳も首筋も、どこもかしこも恥じらいの桜色に染まっていて、そんなみゆきは例えようもなく可愛らしかった。
「あははは! うんうん、いいよみゆき! いいオチだよそれ、グッジョブ!」
そう云って、わたしは思いっきりサムズアップ。
そんなわたしの反応を見て、みゆきは伏せていた顔を上げてくすりと笑った。
――そうして浮かべる。
あの表情を。
どこか眩しい物を見る、あの表情。
自分が届かない物を見て、自分が入れない世界を見て、そうして浮かべる慈しむようなあの表情。
けれど、みゆきがそんな顔をしたのは一瞬のことだった。
「べ、別にオチをつけようと思ったつもりではないのですが……」
そう云って、みゆきは恥ずかしそうにしながらも、ごく当たり前のようにわたしたちの輪の中に入ってきたんだ。
――あ、そうなんだ。
突然電灯が灯るように、わたしの頭の中でそんな思いがひらめいた。
わたしもつかさもみさきちもあやのんも、そうして当たり前のようにかがみも。
もうきっと、みゆきにとっては自分が入れない世界ってわけじゃない。本の中にあるような、外から眺めているような、みゆきが“知ってるけれど知ろうとしなかった”って云ったような世界じゃない。
“生身で全部知ってみようって思った”
そう思ったみゆきが、引かれたり特別扱いされたり羨ましがられたりする危険も顧みず、えいやって身体ごと飛び込んできて獲得した世界。わたしたちはみんな、みゆきにとってそういう存在なんだって、そのときわたしはやっとわかったんだ。
――だから。
だからもう、わたしにはちっとも不思議じゃなかった。
こんなに大人っぽいみゆきが、わたしと同い年で。
こんなに落ち着いたみゆきが、以前わたしのために泣いてくれたことがあって。
そうしてなによりも、このどこまでも誠実に世界と立ち向かおうとする女の子が、わたしみたいなオタクの親友でいてくれるっていうことが。
さっきまで誇らしげに微笑んでいたあやのんも、鼻高々でいばり散らすみさきちを見て、額を抑えながら頭を振っていた。
わたしだって、せっかくたまには褒めてあげようと思ったのに。正直ここまで調子に乗られると、なんだか冷たくあしらってあげないと悪い気すらしてしまう。
ずっと同じクラスだったかがみが何故かみさきちに冷たかった理由が、そのときわたしは身に沁みてよくわかったんだ。
「――や、別に? さっきみゆきが褒めたのって、長距離ランナーの人じゃん? 別にみさきちのことは褒めてない。全然褒めてないよ?」
「なっ! むぐぐぐぐっ、ち、違うだろー? さっき高良が云ったのって、そーゆーことじゃねーだろー?」
「じゃ、どういうことなのさ?」
「どーゆーってそりゃこう、なんかスポーツやってて凄いだろっていうか、諦めないで頑張ってたら色んな事できるんだぜっていうか、多分そういうことだ!」
「なにそれ、全然意味わかんないよ。やっぱ鷹中ってバカばっか」
「むきゃー! またそれかよ! 中学はもう関係ねっだろー!」
そんな風に、またいつもの口喧嘩を始めたわたしたちだった。さすがにあやのんもいい加減疲れたんだろう。ふいってみさきちから顔を背けると、みゆきに近づいていってこう云った。
「――もうあそこの傍若無人バカコンビは放っておきましょ。それよりゆきちゃん?」
「あ、はい、なんでしょうかあやのさん」
「さっきの話、まだ終わってないじゃない? 江乃島についてからどうなったの?」
「あ、そうそう、わたしもそれ気になってたんだよ~」
「ちょ、あ、あやのぉ……見捨てないでくれよぉ」
途端にみさきちも口喧嘩を切り上げて、あやのんの腕にすがりついていったんだ。
急に注目が戻ってきたからだろうか。そんなわたしたちを見て、みゆきは恥ずかしそうに頬を紅くする。
「え、ええと、その、これから先は本当にお恥ずかしいのですが……」
「おお! それそれ、まさにそういう話を聞きたかったのだよ~」
「あ、はい……ええとですね。江乃島に渡って私はすっかり満足していたのですが、考えてみれば女子中学生が一人で泊まれるような宿など見あたりませんで……。今でしたらネットカフェなどがどこかにあっただろうと思うのですけれど、当時はそのような形態のお店が存在することすら知らなかったので……」
「ふむふむ?」
「それで、仕方なく海を見下ろす海浜公園のベンチで、毛布をひっぱりだして眠ってしまったのです。丁度十時でしたし……」
「あー、中学時代は十時には寝てたって云ってたもんねー」
「ええ。それで翌朝目を覚ましましたら……私はなぜか自室のベッドで眠っていて、父と母があきれ顔で私のことを見下ろしていたんです……」
「「――へ?」」
そんな思いもよらない話の展開に、わたしたちは一斉に驚きの声を上げたんだ。
えっと、それってもしかして、夢オチっていうことなんだろうか。
――マジで? なにその超展開、そんなのわたし認めないよ。
散々面白いこととか信じられない展開とか連発して釣りに釣りまくっておきながら、最後に全部なかったことにして帳尻合わせようなんていう夢オチは、正直脚本として最低だってわたしは思うんだ。
でも、どうやらそうではないようだった。そんなわたしたちの反応を見て、みゆきは慌てたように手を振りながらこう云った。
「あ、ええとですね、どうやら寝込んですぐに私は見回りのお巡りさんに発見されていたらしく、いつの間にか派出所に移されていたようなのですが……何をどうしても起きないからと、呼び出された両親にそのまま車で実家まで運ばれていったとのことで……」
――思わず、お互いの顔を見合わせた。
それって、つまりはどういうことなんだろう。
“世界をみんな知ろう”なんていう決意の元、しばらく戻らない覚悟で家を飛び出して。そうして頑張って遠くまで来たと思ったのに、寝て起きたら自分のベッドの中だった。
――それってなんだか、お釈迦様の掌で踊ってた孫悟空みたいじゃん。
思わず、笑みが漏れそうになってしまう。
でも周りを見渡して見たら、わたしだけじゃなくつかさもみさきちもあやのんも、笑いを堪えるように頬をぷるぷると震わせていた。
そんなみんなの顔を見たら、もう駄目だった。
あっはっはっはって、わたしたちは顔を見合わせながら盛大な笑い声を上げてしまったんだ。
「あ、あううう……やっぱり、やっぱり笑われるって思っていましたぁ……」
そんな情けない声を上げて、みゆきは女らしく育った体を隠すようにして縮こまっていた。頬も耳も首筋も、どこもかしこも恥じらいの桜色に染まっていて、そんなみゆきは例えようもなく可愛らしかった。
「あははは! うんうん、いいよみゆき! いいオチだよそれ、グッジョブ!」
そう云って、わたしは思いっきりサムズアップ。
そんなわたしの反応を見て、みゆきは伏せていた顔を上げてくすりと笑った。
――そうして浮かべる。
あの表情を。
どこか眩しい物を見る、あの表情。
自分が届かない物を見て、自分が入れない世界を見て、そうして浮かべる慈しむようなあの表情。
けれど、みゆきがそんな顔をしたのは一瞬のことだった。
「べ、別にオチをつけようと思ったつもりではないのですが……」
そう云って、みゆきは恥ずかしそうにしながらも、ごく当たり前のようにわたしたちの輪の中に入ってきたんだ。
――あ、そうなんだ。
突然電灯が灯るように、わたしの頭の中でそんな思いがひらめいた。
わたしもつかさもみさきちもあやのんも、そうして当たり前のようにかがみも。
もうきっと、みゆきにとっては自分が入れない世界ってわけじゃない。本の中にあるような、外から眺めているような、みゆきが“知ってるけれど知ろうとしなかった”って云ったような世界じゃない。
“生身で全部知ってみようって思った”
そう思ったみゆきが、引かれたり特別扱いされたり羨ましがられたりする危険も顧みず、えいやって身体ごと飛び込んできて獲得した世界。わたしたちはみんな、みゆきにとってそういう存在なんだって、そのときわたしはやっとわかったんだ。
――だから。
だからもう、わたしにはちっとも不思議じゃなかった。
こんなに大人っぽいみゆきが、わたしと同い年で。
こんなに落ち着いたみゆきが、以前わたしのために泣いてくれたことがあって。
そうしてなによりも、このどこまでも誠実に世界と立ち向かおうとする女の子が、わたしみたいなオタクの親友でいてくれるっていうことが。
――朝露に濡れる草叢で、アゲハ蝶が羽化するときの音に耳を澄まし。
――世界中の海岸に押し寄せる波が形作る、ありとあらゆるフォルムに目をみはり。
――エベレストの山頂に登る朝日が、雪を溶かして作る水の冷たさに微笑む。
そんなみゆきの“世界をみんな知ろうとする旅”は、ベッドで目を醒ました後もずっと継続中なんだって、そのときわたしは知った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Beautiful World 4章/かがみへ続く
Beautiful World 4章/かがみへ続く