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かがみ

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Beautiful World 3章/みゆきより続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

§9

 流石にアパートまでは、駅みたいに新築っていうわけにはいかなかったらしい。
 建ったときにはさぞやピカピカに輝いていただろうアパートも、風雨に晒されてできた染みや汚れがあちこちについていた。門を入った先にある集合ポストも少し錆びついていて、開けるときに軋んだ音を立てそうだ。
 それでも、落ち着いたグレイの板が張られた二階建ての建物は、どこかお洒落な佇まいをしていた。ちょっとでっぱった窓は白い木枠で囲まれていて、十字に入った桟の直線がかがみの背筋みたいで気持ちがいい。
 同じように白い柵に囲まれて、庭には春の花々が咲き誇っている。ああいうのは、大家さんが手入れしているのだろうか、それとも一階の住人が好きにできるのだろうか。一人暮らしなんてしたことがないわたしには、それがわからない。
 なんとなく辺りを見渡せば、門の向こうにある駐輪スペースに、何台かの自転車が適当においてあった。その中にかがみの自転車もあるんだろうか。でも新品のものはなかったから、まだ買ってないのかもしれない。小さなスコップが籠に入った三輪車がおいてあって、親子で入居している人もいるのかなってわたしは思った。
 ――メゾン・ド・エルメーム。
 壁にかかった黒いプレートに、そう書いてあった。
「フランス語で『彼女自らによる家』でしょうか。……独特で詩的な構文ですね」
 みゆきが、困ったような顔をしてそう云った。要するに、多分文法的に変だっていうことなんだろう。
「女性限定のアパートなんだよ。その方がこなちゃんも安心できるでしょ?」
 つかさが云わなくてもいいことを云って、にっこりと笑った。たしかに、かがみの部屋から壁一枚隔てた隣に、誰か知らない男がいるって思うとぞっとしない。でもどちらかっていうと、それで安心できるのはわたしじゃなくて、柊家の女姉妹たちなんじゃないかって思うんだ。女だらけの家で育った大事な三女が一人暮らしをするのに、多分色々と口を出してきたんだろう。心配顔のおばさんたちと、あきれ顔のかがみの姿が目に見えるようだった。
 短い芝草に覆われた飛び石を踏んで、階段にむけて歩く。
 かがみの部屋は、二階の角部屋のようだった。
 とんとんと階段を踏みしめる度、わたしの心臓もとくとくと音を立てて跳ね上がる。
 ――なんでだろう。
 なんだかすごく緊張しているのはなんでだろう。
 今日は一日、色々なことがあった。電車の中でつかさに泣かされて、渋野では強引な男の子に厭な思いをして、不覚にもみさきちたちに弄られて、あやのんからは思いがけない話を聞いて、みゆきが中学時代にした冒険のことを知った。
 ただかがみの家に来るっていうだけなのに、随分色々なことがあった一日だなって思う。
 そうしてそんな出来事が起きる度に色んな方向に感情が揺れ動いて、その都度かがみのことばかり考えていたからかもしれない。やっとかがみと会えるってなった今、膨らんだ期待が胸の中で暴れ回っていて、わたしはいてもたってもいられない気分になったんだ。少し汗ばんだ手でビニール袋を抱え直すと、さっきスーパーでつかさと買ってきた食材が、がさりと音を立てて崩れた。
 ――どうしよう。なにこれ、どうしよう。
 思わず歩く速度を遅くして、つかさに先頭を譲ってしまうわたしだった。
 なのにダークブラウンの扉を前にして、つかさは不思議そうに小首を傾げてわたしのことを振り返る。その扉の向こうにかがみがいる。そう思うとなぜだか無性に恥ずかしくなってしまって、わたしはつい、みゆきの背中に体を隠してしまうんだ。
「……こなちゃん? インターホン押さないの?」
「い、いやいや、ここはほら、肉親のつかさが押してくれたまえ~」
「えー? でもここは、彼女のこなちゃんの方が適任だと思うよ?」
「か、彼女って……」
 瞬間的に顔が赤くなるのを自覚する。
 そういえば、かがみの恋人だとか彼女だとかって、誰か他人から云われたのは初めてかもしれない。来るときにも散々からかわれてきたのに、改めてそういう単語で云われるとなんだか無性に照れるんだ。
 けれどそんな風にみゆきの背中に隠れながらつかさと押し問答していると、横から呆れたような声が聞こえてきた。
「あー、もうめんどくせーな。誰が押しても大して変わんねっだろ」
 そうしてみさきちは、一瞬口ごもったわたしたちを尻目に扉の前に身を滑り込ませ、何の躊躇も見せずにインターホンへ手を伸ばす。さすがみさきち、見事な空気破壊能力だ。
 ――けれど。
 みさきちがボタンを押そうとしたその瞬間、扉が勢いよく向こうから開かれたのだった。
「ぶへっ」
 開いた扉に思いっきり顔面を強打されて、みさきちが潰れたカエルみたいな声を出す。
「うおっ! えっ、なにっ? 私今何か潰した?」
「――かがみ」
 ――藤色の、綺麗な髪。
 片付け中だったのだろうか、いつもは可愛いツインテールにしてる髪を、今は後ろで一本にまとめてバンダナを被っている。着ているのは、家に遊びにいったときにもよく着ていた、生成のタートルにスキニーなブラックデニム。それと、ギンガムチェックのエプロン。
 見慣れたかがみが、見慣れた服を着て、初めて来た街の知らないドアから顔を出している。それを見て、ああ、かがみは本当に引っ越ししたんだなって、わたしは今更になって実感したのだった。
 ――桔梗色の優しい瞳。
 その視線がふと泳ぐ。涙目になったみさきちを見て、苦笑しているつかさを見て、頬を掻いているあやのんを見て、微笑んでいるみゆきを見て――その背中から顔を出しているわたしを見た。
 そうしてかがみは、そのみんなに向けてにっこりと笑った。
「いらっしゃい」
 わたしがずっと聞きたかった声で、そう云った。
 引っ越しの準備で忙しかったこの十日ほどの間にも、毎日のようにメールをしたし、電話もしてきた。けれどこうして直接目を見て声を聞くと、やっぱり全然違うんだ。電波を通して機械が変換して作った音とは全然違う、かがみの声帯が空気を震わせて作った声が、わたしの耳に届いてくる。わたしの体に入ってくる。
 だからわたしは、ぶるっと体を震わせてみゆきの背中から身体を出したんだ。多分いつもと全然違うわたしの様子にも、かがみはまるで普段通りだったから。自分の気持ちのこともよくわからなくて、“恋人”とどうつき合ったらいいのかわからなくて、ついみゆきの背中に隠れてしまったわたしでも、かがみはまるで普段通りに笑いかけてくれたから。
 かがみはきっと、そんなわたしの全部を受け入れてくれる。
 ――つかさが云ったことを信じようって、わたしは思ったんだ。
「ちっちっち、駄目だよかがみん。そこは“おかえりなさいませ、ご主人様”でしょー?」
 頬が赤くなっていても気にしない。
 胸がどきどきしても気にしない。
 かがみの彼女になってもわたしはわたしだし、わたしの彼女になってもかがみはかがみだ。それをそのまま受け入れて、そこから少しずつ始めて行こうってわたしは思った。
「だれがご主人様か誰がっ!」
 そう云ったかがみも、どこかほっとした様子で笑っていた。

   *

「ってか、玄関前でごちゃごちゃうるさいんだよあんたらは。チャイム鳴らすかと思ったらいつまで経っても鳴らさないしさ。近所迷惑じゃないの」
 わたしたちが荷物を置いて炬燵に足を潜り込ませたころ、かがみが呆れ顔でそう云った。
「いやいや、そこがまた、インターホンを前にした微妙な駆け引きがあってだね? 例えるなら、レベル上げ用の狩り場に微妙に勝てるかどうかわかんないレアモンスが沸いた瞬間、各野良パーティの間に走った緊張感みたいな!」
「わかるかっ!」
「うひゃあっ、やっぱり凶暴~。こりゃ絶対勝てないね」
「はいはい、もういい加減あんたにモンスターよばわりされるのも慣れたわよ」
「あ、ちなみに野良パーティーってのはね、レベル上げ用に組む知らない人同士の即席グループで、レアアイテム目当てに挑んで全滅したらデスペナルティで経験値マイナスになって台無しになっちゃうっていう――」
「解説が必要なネタ振るなよっ!」
 そんないつも通りのツッコミを入れながら、かがみは流しの横にある冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、グラスと一緒に持ってきてくれた。冷蔵庫は使い込まれた感じの中型のもので、キッチンに備え付けのものらしい。つかさは買ってきた食材をしまいつつ、ごそごそと夕食の用意を始めていた。
 キッチンスペースは割と広くて、四畳くらいはありそうだ。一般的な一人暮らしの部屋がどの程度のものなのかはよくわからないけれど、よく漫画とかエロゲで主人公が住んでいるような、六畳一間のアパートっていう感じではなかった。
 試しに訊いてみると、ちゃんとしたキッチンスペースが取られている部屋は、つかさのたっての希望によるものらしい。曰く、ちゃんとしたキッチンじゃないとちゃんとした料理が作れず、ちゃんとした料理を食べないとちゃんとした生活ができないとのことだった。なるほどとは思うけれど、ちゃんとした料理を作っててもちゃんとした生活ができるとは限らないっていうのは、わたしを見ていればよくわかるって云うものだ。
「そもそも、ちゃんとした料理ができるとは限らないしね」
「うっさいな、これから頑張るからいいんだよっ」
 わたしがいじくると、かがみは顔を赤くしてそっぽを向いた。
 ――これこれ、この反応。
 久しぶりに補給できた生かがみ分に、炬燵以外の熱源によって身体が熱くなっていく。だからってわけじゃないけれど、わたしは五人分の足が熾烈な領土争奪戦を繰り広げていた炬燵から抜けだして、家捜しをしようと立ち上がった。部屋は八畳くらいのフローリングで、炬燵とベッド、パソコンが乗った勉強机にテレビ台、それにラックなんかの収納箱が幾つかあるだけで、もう手狭になってしまう。さっきまで整理していたんだろう、隅にはダンボール箱も幾つか積み重ねてあった。
「――おい、勝手にそこら辺開けるなよ?」
 みゆきと話していたかがみが、ちらりとこっちを見て云った。
「それはつまり、勝手に開けろって意味かね。芸人的な意味で!」
 口元に手を当て、わたしはむふふと笑いながらダンボールのガムテープをびーって剥がした。別にそんなつもりはなかったんだけれど、お望みとあらば仕方がない。
「ばっ、違うってこらっ、芸人的な意味でもツンデレ的な意味でもないわよ!」
「ご開帳~!」
「こらーっ!」
 顔を真っ赤にしたかがみが、慌てて駆け寄ってきてわたしの手を取った。
 けれどもう遅かった。わたしの視界に飛び込んできたのは、ダンボール箱に詰まっていた色とりどりの可愛い下着たち。
 予想だにしなかった光景に、顔がどんどん熱くなっていくのを感じていた。きっとわたしの顔もかがみみたいに真っ赤になってるって思った。
「……ちょっ、おい、なによその反応……私も余計恥ずかしいだろ……」
「……も、もー! 開けちゃ駄目だったら開けちゃ駄目って云ってよ!」
「逆ギレかよ! 思いっきり云ったわよ!」
「かがみのツンデレ語はわかりづらいんだよ!」
「私は生まれたときから今まで日本語しか喋ってねぇっ!」
「嘘だッ! 英語の勉強散々一緒にやったじゃん!」
「散々って云うほど一緒にやってないだろ! あんた英語やり始めたらすぐ寝てた癖に」
「――ふふ。かがみちゃん、上手く話をすり替えられてるわよ」
 そんなおだやかな声が聞こえてきて、振り向けばあやのんが楽しそうな顔で笑っていた。あやのんだけじゃない、みさきちもみゆきも戸口の向こうのつかさも、“面白い見せ物が始まった”みたいな顔をして、こっちを見ながら笑っていたのだった。
「あれ? もうやめちゃうの婦婦漫才」
「つかさっ、見せ物じゃないわよ!」
「えへへ、ごめんごめん」
 つかさは、ぺろって舌を出すとひょいと戸口に引っ込んだ。どこから出したのだろう、いつのまにか空色のエプロンをつけていた。
「あ、つ、つかさ、手伝おっか?」
「んーん、大丈夫だよ」
 つかさはそう云ったけれど、わたしは一刻も早くこのテレテレムードを終わらせたかった。戸口に向かおうとして邪魔だったみさきちの身体をひょいと跨いだら、わたしを見上げたみさきちはニヤニヤと厭らしい顔で笑っていた。なんとなくむかついたので頭を引っぱたいてみると、予想以上にいい音がして驚いた。
 戸口ののれんを潜ってキッチンに出ると、小振りのキッチンテーブルにはさっき買ってきた食材が並べられていた。
「石狩鍋なんだよね?」
「そそ、さすがこなちゃん」
 何かしようかと思って来てみたけれど、確かにこれだと手伝えることはあまりなさそうだ。流しもキッチンもやっぱりちょっと狭くって、何かしようとしたら余計邪魔になりそうだってわたしは思った。
「あ、みさちゃん、お鍋持っててくれてありがとね」
「おう、これ今から使うのか?」
「あれ、お鍋なら幾つかあるじゃないの? また持ってきたの?」
 つかさはみさきちから荷物を受け取ると、不思議そうな顔をしたかがみの前でがさごそと包みをほどきだした。果たして現れたのは立派な土鍋で、家族全員で突っつけそうな大きさのものだった。
「あるけど、あれって一人用のお鍋でしょ?」
「うん」
「土鍋は違うんだよ。おっきい土鍋は、ただの料理道具じゃないの。土鍋があるところは家庭になって、そこに人が集まるんだよー」
 自信満々っていう感じでつかさが胸を張りながらそう云うと、みゆきも大きくうなずいた。
「――ああ……それはわかる気がします。みんなで一つのお鍋を突っついていると、不思議な一体感が感じられますよね」
「そそ。だからね、これがわたしの引っ越し祝いなの。土鍋があれば、ここもただお姉ちゃんが一人暮らししてる部屋じゃなくて、お姉ちゃんを中心にしたお姉ちゃんの場所になるっていうか……いつでもみんなが集まれるような家になるっていうか……うーん? な、なんか上手く云えないや……頭の中では、“これ”っていうのがあるんだけど……」
「大丈夫よ、つかさちゃん、ちゃんと伝わってるわ」
「あ、ありがとうあやちゃん」
 いつもみたいにおっとりと云ったつかさだったけれど、そのときわたしの目はかがみの表情に釘づけになっていた。
 喜び。安堵。悲しみ。羨望。寂しさ。
 それらの全てが入り交じっていて、これと云い当てることができない。そんな複雑な表情が、かがみの顔に浮かんでいた。
「――ん。ありがとう、つかさ」
「うん。引っ越しおめでとう、かがみお姉ちゃん」
 そのときかがみが泣きそうになったことを、多分、わたしとつかさだけが知っている。

§10

「へー、そうなんだ。大学の生協で不動産屋を紹介してもらえるのね」
「そうよ。多分どこも同じだと思うけど、案内書に書いてなかった?」
「そうねぇ。最初から興味がなかったから、読み飛ばしてたのかもしれないわ」
「でもあれだよなー、あたしの日体大もあやのの明大泉水キャンパスも、ここからだと結構近いんだよなー」
「……そうだが、何を云いたい?」
「たまに学校帰りとかによらせて――」
「却下だ却下。溜まり場にされてたまるか」
「うみゅう……つかさぁ、かがみが釘が打てるバナナ並に冷たいよー。今のって、つかさの思いを無にする発言じゃねー?」
「大丈夫だよみさちゃん、今のはお姉ちゃんのツンデレだから」
「ちょっとつかさ、余計なこと云うな!」
「へへ、ごめーん」
「……前から思ってたけどさ、つかさの“ごめん”ってたまにもの凄く誠意がないよね」
「えー! こなちゃんに云われたくないよー!」
「そりゃ、誠意がないのはわたしの得意技だし! ほら、誠意がなければ背もない、なんてね!」
 わたしがそう云った瞬間、炬燵とお鍋で身体の奥から暖まっていたはずの場が、一瞬にしてバナナで釘が打てる世界みたいに冷え込んだ。
「……あ、その、ええと。誠意と背の発音が似ているので、掛けているのですよね。ええ、わかりますよ」
「……みゆき、それフォローになってないよ……」
「は、はう」
 そうして再びみんな黙り込む。
 胸がないとか背が低いとか、気にしてないふりをしてたまに自虐ギャグにするけれど、なんだか毎回受けが悪い。やっぱりわたしが発育悪いのを結構気にしてるって、わかっちゃってるのかなって思う。もっとも、今のダジャレが受けなかったのは、単につまらなかっただけだと思うけど。
「――それにしても美味しいわよね、お鍋。流石つかさちゃんだわ~」
「えへへ、ありがとう。でもお鍋だから簡単だし」
 つかさは謙遜したけれど、石狩鍋は本当に美味しかった。白味噌のほんのりした甘さと、赤味噌のコク、それにバターのまろやかさが合わさって、奥深い味になっている。メインは鮭だけど、豆腐やしいたけ、ねぎや白菜、春菊なんかの定番の具の他にとうもろこしやじゃがいもが入っていて、いかにも北海道の鍋らしかった。あやのんがみさきちの取り皿に大量の野菜を盛っていて、嫌がるみさきちの顔を見てみんなで笑った。それでも大の野菜嫌いであるみさきちが文句も云わずにちゃんと食べていたから、どれだけ美味しくできているのかがわかるってものだった。
 学部のこと。
 間近に迫った入学式のこと。
 通うことになるキャンパスのこと。
 大学の有名な教授や卒業生のこと。
 話題になるのはきたるべき大学生活のことばかりで、あの制服に包まれて穏やかな時間を過ごしていた高校生活を、誰も振り返ったりしなかった。卒業の前後は思い出話も多かったし、たまに切なくなったりもしたけれど。今はもう、未来もきっと同じように楽しいんだって、素直に信じられる気がする。
 だって、こうして新生活を迎えようとしているかがみは、今生き生きと輝いている。よく笑って、よく怒って、よく喋っている。瞳はいつも以上にキラキラしていて、伸ばした背筋にもなんだか力がみなぎっている気がした。自立心が旺盛なかがみだから、やっぱり自分自身で世の中に挑戦していくことが、本当に楽しみなんだろう。全身に自信と誇りが溢れていて、今日のかがみは凄く綺麗だった。
 お鍋も食べ終わってごちそうさまをして、食後のお茶なんかを飲みながら、かがみに今日起きた出来事を喋った。つかさが云ったようにお鍋の効果は絶大で、混み合った炬燵の中でみんなの足と触れ合っていることも、今となっては嬉しいことのように思えた。
 流石に電車の中でつかさに泣かされたことなんて云わない。あやのんがわたしに云ってくれたことも、あやのんはかがみになら話してもいいよって云っていたけれど、みさきちの前じゃ話せるはずもない。
 つかさが男の子にナンパされたこと。みさきちが引っ越し祝いを買うのにずっと迷ってたってこと。入った喫茶店の店員さんが、アリスみたいで凄く可愛かったこと。みゆきがこの辺りにも詳しくて、それは中学時代の小冒険の成果だって云うこと。
 かがみは男の子に怒り、みさきちのことを笑い、アリスちゃんを褒めるわたしに不機嫌な顔をして、みゆきのことを優しい目で眺めた。
 そんなくるくると変わるかがみの表情は、いつまで見ていても飽きなかった。
「――で。この抱き枕がなんだって?」
 その中でも、みさきちの引っ越し祝いを貰ったかがみの顔は見物だった。一瞬凄く喜んで、枕を抱きしめた後にぽっと頬を染めて、みさきちがニヤニヤしながらわたしサイズだってことを仄めかしたら、その赤がどんどん強く顔中に広がっていったんだ。
「んあ? 別になんでもねーぞ。ただかがみには丁度いいサイズなんじゃねー? ってな」
「まあ、ぶっちゃけわたしの代わりに大事にしてねってことなのだよ」
 そこがチャンスと思って、いつもみたいな猫口を作ってポンとかがみの肩を叩いたら、その抱き枕がわたしの顔に飛んできた。
「あ、あんたの差し金かっ!」
「ぷくく、照れない照れない」
 ひょいと枕をどかして、さてもっと弄ろうかとわたしが思ったそのとき、
「――でも、そう云う泉ちゃんが実は一番照れてたんだけどね」
 裏切り者のあやのんがそう云って、途端にわたしたちの間で形勢が逆転したのだった。
 わたしのパスタ・マシーンとそれに付随した“パスタを作りにくる権”を、かがみは普通に凄く喜んでくれた。あやのんがプレゼントした“こにゃたぬいぐるみ”は、流石にみさきちの後だともう慣れたんだろう、ちょっと照れただけで素直に受け取って、今は家から持ってきたポン太くんの膝に収まっている。
 そうして次はみゆきの番だった。
「色々と考えたのですが……」
 そう云って、わたしも気になっていたヨドバシの袋を開けると、果たしてそこに現れたのは、二組のヘッドセットとウェブ・カメラなのだった。
「――あ、これ。スカイプとかで使う奴よね?」
「ええ。最近はIP電話のシステムもとても発展しているのですね。普通のIP電話でしたら、携帯電話とあまり変わりがないと思うのですが、スカイプでしたらリアルタイムのビデオ通話が可能だとのことで、お二人には便利かな、と思いまして」
 ――通話しながら、いつでもかがみの顔が見られる。
 それはやっぱり生のかがみじゃないけれど、でも、見られないよりは見られる方が絶対いい。そう思ってかがみの方を向いたら丁度かがみもこっちを向いていて、わたしたちは顔を見合わせたまま同時に笑った。凄く素敵なプレゼントだなってわたしは思った。
「でもこれって、P2P使ってるのよね? そういうのって、IPによっては接続できないって聞いたことあるけど、大丈夫なの?」
「はい。そこがスカイプの凄いところなのですね。一般的なPtoPのシステムですと、ファイアウォールやNATなどのセキュリティが壁となっているところなのですが、スカイプはスーパーノードの採用によるUDPホールパンチング技術やリレーノードシステムによって複雑な設定をしなくても接続できます。さらには複数のコーデックによってバッファを最適化し、いつでも高音質が得られるようです」
「……調べたんだ……」
「ええ。難しいことをなんとか達成しようとする技術者の発想のきらめきが感じられて、とてもわくわくしました」
 あきれ顔で云ったかがみに、なぜかぽっと頬を染め、恥ずかしそうに答えるみゆきだった。
「スカイプは、ネトゲのギルメンでもやってる人たちいるよー。レイド戦なんかでのHCの打ち合わせとか、CCHのタイミングとか、対AoEの位置取りとか伝えるのに便利なんだよね」
「へー、そうなんだ。もういい加減言葉の意味には突っ込まないけど。じゃ、あんたも使ったことあるの?」
 その瞬間、わたしはしまったなって思った。嬉しかったからつい口を滑らしてあんなことを云ってしまったけれど、かがみにそう訊かれるかもしれないって、ちゃんと考えておくべきだった。
「んー。ボイスチャットが出始めたころ、何回かやったことあるんだけどね。でもすぐに止めちゃった」
 ――それは、あんまり思い出したくない記憶だ。
 でも口に出しちゃったから、思い出さないといけない。かがみが不思議そうな顔をしてたから、ちゃんと話さないといけない。そういうことを黙ったまま誤魔化そうとしていても、また去年の冬みたいなことになってしまうってわたしはわかったから。
 それはもう四年くらい前、あのクリスマスのちょっと前の出来事だった。
 そのときわたしは、今やってるネトゲとは別のゲームで、普通に女キャラを使っていた。けれど試しにやってみたボイスチャットのせいで中身も女だってわかった途端、なぜだかギルメンから妙にちやほやされ始めたんだ。
 今となっては不用意だったなってよくわかるけど、当時はなんだかよくわからなかった。ネトゲのキャラならネトゲのキャラに萌えていればいいのに、中身の性別を気にする人があんなに多いなんて、考えたこともなかったから。
 そのうち、ギルドの中で一番可愛い言動で“姫”って呼ばれていたヒーラーから、メールが届くようになった。『リアル女だからって調子に乗んな』とかいう、それは酷いメールだった。初めてやったネトゲだったから辞めるのは凄く辛かったけど、何よりもキツかったのは、わたしがその子に萌えていて、その子とは親友だって思っていたことだった。悲しくなったわたしはギルマスに資産を全部譲って、そのキャラを消したんだ。
 ――それなのに。
 そんなことがあって、ネトゲはもう止めようって思っていたのに。
 よりによって、進学校であるはずの陵桜で担任になった黒井先生が何故かヘビーゲーマーで、『リアフレがいると何かと便利なんや』なんて云われて、わたしはまたネトゲの世界に引きずり込まれてしまったのだった。
 正直教え子にネトゲさせるなんて教師としてどうかと思うけれど、でも、やっぱりネトゲに未練はあったから、わたしとしても嬉しかった。大人の女の人で、リアルで連絡とれる先生がいてくれたから、わたしは安心してネトゲを楽しむことができた。
 そうしてそのおかげで、クリスマスのことがあって塞ぎがちだったわたしも、段々人と話すことが楽しくなってきたんだ。
「――なんていうか、もしかして黒井先生、あれで結構いい先生だったのかな?」
 かがみのそんなセリフに、元B組の三人が一斉に首を傾げて苦笑した。
 あんまり聞いてて面白い話ではなかったと思うけど、場は暗くなったりはしなくて、わたしはほっと胸をなで下ろした。
 お鍋パワーで楽しい雰囲気だったからか、それとも隣でかがみが優しい目でわたしのことを見ていてくれたからか、あのクリスマスのことにもわたしは気軽に触れることができたんだ。
 ――こうやって、忘れていくのかな。
 それは嬉しいことのはずなのに、ちょっとだけ寂しい気もするのが理不尽なところだなって自分でも思う。
「ど、どっかなー? 流石にいくらなんでも、わたしを元気づけるためだけにネトゲに誘ったとは思えないけどね。だってネトゲの中の黒井先生って本当酷いもんだよ? レベリング中に平気で寝オチするし、お金にはがめついし、使わないレアアイテムにも平気でロットして持ってくし」
「そ、その、ネトゲでのそれらの行為についてはよくわかりませんが。それでも先生はちゃんとした大人の方なのですから、その裏で色々とお考えになっていてもおかしくはないと思いますよ」
「えー? 黒井先生がー? ないない。あの人に限ってそれはないよ~」
 わたしがそう云うと、つかさは力強くうんうんとうなずいた。でもみゆきはあんまり信じてないようで、自分が云ったことを確信している感じでニコニコと笑っていた。そんなみゆきの何もかもわかってるみたいな微笑みを見ていると、なんだかわたしもそれが正しいみたいな気がしてくるから不思議だった。
「――にしても、ネトゲってやっぱ怖ぇ世界なのなー。新聞にも載ってたけどなにあれ? ネトゲ内離婚とかサツジンとかわけわかんねー」
「いやいや、わたしが経験したことなんて、なんだかんだで序の口だよ?」
 そう云って、わたしはネトゲ内外で仕入れたうわさ話を語り出す。
 曰く、結婚してるのにネトゲ内恋愛してた男の人のキャラが何度も何度も誰かに殺されて、調べてみたらその犯人の中の人が正にリアル奥さんだったとか。
 ギルドの共有になってるレアアイテムをあらかた持ち出したまま突然ギルドを脱退したキャラが数週間ぶりにログインしてきたと思ったら、そのキャラ自体もアイテムも全部ネットオークションで売られてて、中の人は全然違う人だったとか。
 目を丸くして驚くみんなの反応が気持ちよくて、毎日十八時間ログインし続ける伝説の廃人のうち、トイレの時間すら惜しんでプレイするオムツァーやペットボトラーたちの生態を開陳しようと思ったら、その話を知っているかがみに慌てて止められた。
「おまえ、今みんなペットボトルのお茶飲んでるのわかってるのか!?」
 確かに全くその通りだってわたしも思った。
 でも普段あんまり話せないネトゲネタを充分に喋ることができて、わたしはちょっとハイテンションになっていたんだ。もっともっとネトゲネタを共有できたらなって思ったとき、わたしの頭の中で電灯がついたみたいにある考えがひらめいた。
「そうだ! せっかくスカイプ用のヘッドセットもらったんだし、かがみも一緒にネトゲやろうよっ!」
「――なあ、真剣に疑問なんだが。今のあんたの話聞いてて、やりたくなる奴がいると思うか?」
「――あれ? すっごく楽しい話じゃなかった?」
「ううん、楽しかった。楽しかったわよ? 自分と全然関わりがない世界の話ならね」
「えぇー。いーじゃん、いーじゃん、ネトゲの中なら毎日わたしに会えるんだよ? チャットみたいな2Dと違って、ちゃんと3Dで動き回れるしー」
「やらないってば。大体あんたの言葉で云わせてもらえば、会えるのはこなたじゃなくて中の人がこなたのキャラなんでしょ? わたしが会いたいのは――」
 そこまで云って、かがみは自分が喋ろうとしていたことに気がついたように黙り込む。みるみるうちに赤くなっていく頬を見ながら、本当にかがみのこういうところはいつまで経っても変わらないなってわたしは思う。
「――会いたいのは?」
 思わず漏れ出る笑いを堪えながらそう云うと、かがみはそっぽを向いたまま蚊の鳴くような声で、けれどちゃんと口にだして云ってくれたんだ。
「……生身の泉こなた、なんだから……」
 って。
 だからまあいいやってわたしは思った。一緒にネトゲやるって云ってくれなかったのは残念だけど、かがみがちゃんとそう云ってくれたってことの方がわたしには嬉しかった。
「――かがみっ」
 そんなかがみがどうしようもなく可愛くて、横から思い切り抱きついた。こんなことしていいのかなって思ったけれど、したくなったんだから仕方がない。これまでも散々抱きついてきたのに、恋人になったからって我慢しないといけない方がおかしいんだってわたしは思う。それに、かがみが“そんな気持ち”を抑えられなくなるかもしれないなんて、多分今のかがみを馬鹿にした考えだって思うんだ。
「――な、ちょっ、やめろよ、おい……」
 だからこんな言葉も、きっとツンデレ語のはずなんだ。わたしは形ばかりの抵抗を見せるかがみの胸に、顔をぐりぐりと押しつけた。
「いいじゃん、今のうちにわたし分補給だよ。ついでにわたしもかがみ分補給で一石二鳥の作戦なのだよ」
「なにが作戦だよ、もう……」
 ほら、そんなことを口では云いながら、かがみは両手をわたしの背中に回して抱きしめてくれたんだ。暖かいかがみの身体に包まれて、わたしの目が思わずすっと閉じていく。
 ――カシャ、カシャ。
 ふとそんな音が聞こえてきたかと思ったら、つかさが笑いながらケータイでわたしたちのことを撮っていた。みゆきやみさきちやあやのんも、嬉しそうに、からかうように、あるいはひやかすように微笑みながら、わたしたちのことを眺めていたのだった。そんなみんなの反応を見るうちに、我ながら見事にバカップルなことをしている気がして、流石にわたしも恥ずかしくなってしまう。
「――ほらほら、こなちゃんチーズッ」
 それでも。
 こんなわたしたちに笑ってカメラを向けてくれる友達がいるってことは、凄い幸せなんじゃないかって思うから。
 わたしは恥ずかしさを隠そうともせず、つかさのケータイに向けて思いっきりVサインをしたのだった。

   *

 ――夜は更ける。
 どんなに楽しいことであってもやがて終わりがくるのは、いい加減わかっていることだった。文化祭だって、クリスマスパーティだって、みんなで行った遊園地だって、永遠に続くかと思ったのに、終わってみたら一瞬のことだった。
 だから、もう慣れないといけない。
 何かの終わりが近づくにつれて胸に忍び込んでくる寂しさにも、もう慣れないといけない。
 時刻は十時近く。十時半をすぎると遠い埼玉に辿り着く電車はなくなってしまうから、もう、すぐにも部屋を出ないといけない時間だった。
 つかさが、みさきちが、あやのんが、みゆきが。
 みんなそれぞれに帰り支度を始めていて、そうするとこの部屋も少しだけ寒くなる。三月の終わりの夜はまだまだ寒いんだって、そのときわたしは初めて気がついた。
 窓の外は月。
 白い桟に切り取られた、沈んだ、黒い家並み。
 点々と灯る街路灯がかろうじて夜の闇を跳ね返し、けれどそこに映る光景は、倖手とも鷹宮とも違う、今まで見たことがない街並だ。
 ――かがみも、どこか寂しそうな顔をした。
 でも、気丈で誇り高くて、自ら選んで一人暮らしを始めたかがみだから、きっとそんな様子は見せまいとしているはずだった。
 だからそれは、もしかしたらわたしがそう感じていたってだけかもしれない。こんなに暗くて寒くて見知らぬ部屋でかがみが眠りにつかないといけないんだって思ったら、今までになくわたしは寂しくなってしまったから。
「――こなた」
 だから、かがみがわたしの名前を呼んだとき、わたしはそれだけでかがみが何を云いたいのかがわかったんだ。
 かがみが云ってくれるのを待っていたのかもしれない。
 わたしからいつ云おうかって、機会を窺っていたのかもしれない。
 云っていいんだろうか。
 甘えていいんだろうか。
 これだけ気持ちが通じ合っているように感じるかがみとでも、一度真剣に向き合ったなら、人間関係はいつだって手探りだ。
「明日、予定あるの?」
 ――もう、慣れないといけない。
 後ろ髪を引かれながら、涙を飲みながら、それでも『じゃあね』って云うことにわたしたちは慣れないといけない。
 ――それでも。
 それでも今だけは、今日だけは、わたしとかがみの間でだけは。
 それを少しだけ先延ばしにして欲しいって、誰だかわからない何かに向けてわたしは祈った。
「――ないよ。泊まっていってもいい?」
 わたしが家に帰らないと、あの広い家にお父さんとゆーちゃんは二人きり。いくら慣れてきたとは云っても、見た目と違って人見知りしないゆーちゃんであっても、お父さんと二人きりの一日は気まずいことだろう。
 それでもわたしは今日、泊まっていきたいってかがみに云ったんだ。

「――ありがとう」

 微笑みながらそう云ったかがみの言葉は、誰だかわからない何かに向けて云ったような気がした。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Beautiful World 5章/かがみとこなたへ続く














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