窓を叩く雨の音を聞きながら、俺は目を覚ました。そろそろ見えることに慣れ始めた俺の部屋の天井が見える。そのままの姿勢ですぐに煙草の煙のように空気中に拡散して消えてしまう夢の残滓を掴まえようとしてみたが、結局それは俺の中に何も残さずに消えていってしまう。その時にはもう、どんな夢を見ていたかなんて思い出せない。思い出したいと思ったのかさえ思い出せない。
今日も目覚ましの仕事を奪ってしまったな、と思いながらアラームのスイッチを止める。ベッドから降りて、寝汗を吸い込んだシャツを着替えると、ようやく意識がはっきりしてくる。
制服を着て、鞄を持つと、俺は階下に降りる。洗面所で顔を洗ってリビングへ行くと、そこにはやっぱり、昨日と同じ風景。
「よう」
「あ、おはよー」
どこか気の抜けたような声。泉こなたはいつもと同じ調子で、昨日と同じように俺の家で朝食を頬張っている。俺は小さく笑って、昨日と同じように自分の場所に座った。隣にはやっぱりこなたがいる。
パンに、目玉焼きに、ベーコンに、サラダ。
食べながら、ふと感じた視線に、俺は顔をそっちに向ける。何故か俺を見ていたこなたと目が合う。こなたは小さく笑って朝食に戻る。俺もそれを見てから朝食に戻る。
昨日のように、こなたと母さんの会話を聞き流して、俺は考える。何を考えなければいけないか、考える。
何を考える?
こなたのことじゃないのか?
「ごちそうさまでした」
こなたが行儀良く、胸の前で手を合わせる。
「ねえ」
「ん?」箸を咥えたまま、俺はこなたの方を向く。
「行儀悪いヨ、それ」
ああ、そうか。こなたに指摘されて、俺は箸を口から話す。
「で、何だ?」
「んー」
こなたはどこか困ったように笑うと、曖昧に首を傾げた。
「やっぱ、いいや」
「そうか」
こなたがどこか戸惑ったような顔をしているのを見て、俺は少し楽しくなる。理由はよく分からないけれど、ずっとこっちが押されっぱなしだったんだから、少しくらいこういう感じがあってもいいだろう。
「そういえば、明日休みだね」
今日は金曜日。今日一日が終われば、明日明後日は休みになる。とはいえ、今の状態ですんなり休めるわけもなく。
「高良さん、土日も体育館取ったって言ってたぞ」
「う゛」
こなたは箸を咥えたまま動きを止める。行儀悪いぞ。昨日の最後にちゃんと言ってたじゃないか。
「……聞いてなかった」
ご愁傷様。
「今日明日は心おきなくヴァナ・ディールに旅立とうと思ってたのに……」
重ね重ねご愁傷様。でもネトゲはほどほどにな。
「午前? 午後?」
「土日両方午前」
「アニメの予約録画しとかないと」
例の執事アニメか。見たら俺に貸してくれ。
そんなことを話していると、結構いい時間になっている。俺は箸を置くと、立ち上がった。のんびりと食後のお茶を啜っていたこなたが俺を見上げる。
「まだ早くない?」
「今日は雨が降ってるな」
「そうだネ」
「雨が降っていると、自転車が使えないな」
「そういうこともあるかもしれないネ」
「自転車が使えないと、歩かないといけないな」
「泥跳ねるし、嫌だよネ」
「歩くとなると、自転車より時間がかかるのは当然だよな」
「そういう解釈もアリかも?」
俺は足下に置いていた鞄を持つ。今時珍しい、学校指定の学生鞄だ。大して容量がないのになんでこんな鞄指定するのかさっぱり意味が分からないけれど、それが校則ならば仕方がないのだろう。辞書とか体操服とか必要な日にはサブバッグがいるのが大変めんどくさいとしても。
「ちょっと早めに出よう、ってことだよ」
俺がそう言うと、こなたは椅子から飛ぶようにして降りると、くるんと一回転して、「じゃ、行こうー」と笑う。一拍遅れて、いい加減地面に届くんじゃないかというくらい長い彼女の髪が、体に巻き付くようにふわりと動いた。
今日も目覚ましの仕事を奪ってしまったな、と思いながらアラームのスイッチを止める。ベッドから降りて、寝汗を吸い込んだシャツを着替えると、ようやく意識がはっきりしてくる。
制服を着て、鞄を持つと、俺は階下に降りる。洗面所で顔を洗ってリビングへ行くと、そこにはやっぱり、昨日と同じ風景。
「よう」
「あ、おはよー」
どこか気の抜けたような声。泉こなたはいつもと同じ調子で、昨日と同じように俺の家で朝食を頬張っている。俺は小さく笑って、昨日と同じように自分の場所に座った。隣にはやっぱりこなたがいる。
パンに、目玉焼きに、ベーコンに、サラダ。
食べながら、ふと感じた視線に、俺は顔をそっちに向ける。何故か俺を見ていたこなたと目が合う。こなたは小さく笑って朝食に戻る。俺もそれを見てから朝食に戻る。
昨日のように、こなたと母さんの会話を聞き流して、俺は考える。何を考えなければいけないか、考える。
何を考える?
こなたのことじゃないのか?
「ごちそうさまでした」
こなたが行儀良く、胸の前で手を合わせる。
「ねえ」
「ん?」箸を咥えたまま、俺はこなたの方を向く。
「行儀悪いヨ、それ」
ああ、そうか。こなたに指摘されて、俺は箸を口から話す。
「で、何だ?」
「んー」
こなたはどこか困ったように笑うと、曖昧に首を傾げた。
「やっぱ、いいや」
「そうか」
こなたがどこか戸惑ったような顔をしているのを見て、俺は少し楽しくなる。理由はよく分からないけれど、ずっとこっちが押されっぱなしだったんだから、少しくらいこういう感じがあってもいいだろう。
「そういえば、明日休みだね」
今日は金曜日。今日一日が終われば、明日明後日は休みになる。とはいえ、今の状態ですんなり休めるわけもなく。
「高良さん、土日も体育館取ったって言ってたぞ」
「う゛」
こなたは箸を咥えたまま動きを止める。行儀悪いぞ。昨日の最後にちゃんと言ってたじゃないか。
「……聞いてなかった」
ご愁傷様。
「今日明日は心おきなくヴァナ・ディールに旅立とうと思ってたのに……」
重ね重ねご愁傷様。でもネトゲはほどほどにな。
「午前? 午後?」
「土日両方午前」
「アニメの予約録画しとかないと」
例の執事アニメか。見たら俺に貸してくれ。
そんなことを話していると、結構いい時間になっている。俺は箸を置くと、立ち上がった。のんびりと食後のお茶を啜っていたこなたが俺を見上げる。
「まだ早くない?」
「今日は雨が降ってるな」
「そうだネ」
「雨が降っていると、自転車が使えないな」
「そういうこともあるかもしれないネ」
「自転車が使えないと、歩かないといけないな」
「泥跳ねるし、嫌だよネ」
「歩くとなると、自転車より時間がかかるのは当然だよな」
「そういう解釈もアリかも?」
俺は足下に置いていた鞄を持つ。今時珍しい、学校指定の学生鞄だ。大して容量がないのになんでこんな鞄指定するのかさっぱり意味が分からないけれど、それが校則ならば仕方がないのだろう。辞書とか体操服とか必要な日にはサブバッグがいるのが大変めんどくさいとしても。
「ちょっと早めに出よう、ってことだよ」
俺がそう言うと、こなたは椅子から飛ぶようにして降りると、くるんと一回転して、「じゃ、行こうー」と笑う。一拍遅れて、いい加減地面に届くんじゃないかというくらい長い彼女の髪が、体に巻き付くようにふわりと動いた。
ぱしゃりと、スニーカーがちょうど水たまりの真ん中に着水して、水しぶきを上げた。じわりと水が染み込んでくる感触に俺は顔をしかめる。
「やっちゃった?」
「やっちゃったな」
「雨の日は、こういうのが嫌だよネ」
「まったくだ」
ぱらぱらと、頭上に差した傘を雨粒が叩く。俺の親がいるときはそうでもなかったけれど、二人だけになってしまうと、会話はどこか途切れがちだった。そして、時折曲と曲の合間の間奏のように訪れる沈黙に、俺は居心地の悪さを感じている。
こつん、と傘が触れて、離れる。そんな距離。
たぶん、何かを話したそうにしている俺と、ひょっとしたら、何かを話したそうにしているのかもしれないこなた。同方向のベクトルは打ち消しあって、残るのはゼロという名の停滞だ。
傘がぶつかって、離れる。
自転車では五分程度の距離が、歩くと思ったより長い。雨の朝は憂鬱だというのは決まり文句かもしれないが、今のところそれを否定する材料は見当たらなかった。
ちらりと隣を見ると、ちょうど同じようにこっちを見たこなたと目が合う。そのままお互いに視線を離せないまま俺たちは歩く。特に意味はない。だけど、先に視線を外したら負けかなって思ってる。
その瞬間。
こなたの顔がぐにゃりと歪んで、
「ちょ、おまっ」
俺は思わず傘を落としてしまいそうになるほどに吹き出してしまっていた。不覚だ。サプライズで落ちてきた手榴弾に俺の腹筋は耐えきることができなかった。そう、それは言うなれば、現代に今新しく再生したピカソとも言うべき光景だった。何故そんな事ができるのか俺には理解できない。元を知っているだけに、どうやってこう変化しているのか俺にはさっぱり理解できない。そのあまりのカオスさにこみ上げてくる笑いが止まらない。
「うーん」
ぜいぜいと息を吐きながら顔をあげると、さぞかし満足げな、勝ち誇った顔をしているかと思われたこなたはどこか複雑そうな顔。
「なーんかいまいち素直に喜べないなぁ」
「……すさまじい一発芸だった」
心の底の畏怖を込めて俺はそうこなたに告げた。マジで。それだけでたぶん一年は芸人として食っていける。保証してやってもいい。俺がそう言うと、こなたはさらに不満げな顔になる。唇を尖らせながら、ぽつりと、「かがみ達にもそう言われた」と呟く。ウケをとれるのは嬉しいけれど、それが顔だからそれなりに複雑なのか。そういうものか。
俺は前を向く。
視界の先に、駅が見えてきている。
まあ、アレだ。こなたの言ってたこと、なんとなくわかるよ。
「何が?」こなたは首を傾げる。
昨日の、一人で歩きたい気分の時もある、ってやつさ。
「そっか」
じゃあどんなときなのか、なんて聞かれてしまうと明確に言葉にはできないけれど、確かに、そういう気分の時はある。
そんなことを、知ってしまった。
「そうだね」こなたは頷く。「そういうときも、あるよね」
「やっちゃった?」
「やっちゃったな」
「雨の日は、こういうのが嫌だよネ」
「まったくだ」
ぱらぱらと、頭上に差した傘を雨粒が叩く。俺の親がいるときはそうでもなかったけれど、二人だけになってしまうと、会話はどこか途切れがちだった。そして、時折曲と曲の合間の間奏のように訪れる沈黙に、俺は居心地の悪さを感じている。
こつん、と傘が触れて、離れる。そんな距離。
たぶん、何かを話したそうにしている俺と、ひょっとしたら、何かを話したそうにしているのかもしれないこなた。同方向のベクトルは打ち消しあって、残るのはゼロという名の停滞だ。
傘がぶつかって、離れる。
自転車では五分程度の距離が、歩くと思ったより長い。雨の朝は憂鬱だというのは決まり文句かもしれないが、今のところそれを否定する材料は見当たらなかった。
ちらりと隣を見ると、ちょうど同じようにこっちを見たこなたと目が合う。そのままお互いに視線を離せないまま俺たちは歩く。特に意味はない。だけど、先に視線を外したら負けかなって思ってる。
その瞬間。
こなたの顔がぐにゃりと歪んで、
「ちょ、おまっ」
俺は思わず傘を落としてしまいそうになるほどに吹き出してしまっていた。不覚だ。サプライズで落ちてきた手榴弾に俺の腹筋は耐えきることができなかった。そう、それは言うなれば、現代に今新しく再生したピカソとも言うべき光景だった。何故そんな事ができるのか俺には理解できない。元を知っているだけに、どうやってこう変化しているのか俺にはさっぱり理解できない。そのあまりのカオスさにこみ上げてくる笑いが止まらない。
「うーん」
ぜいぜいと息を吐きながら顔をあげると、さぞかし満足げな、勝ち誇った顔をしているかと思われたこなたはどこか複雑そうな顔。
「なーんかいまいち素直に喜べないなぁ」
「……すさまじい一発芸だった」
心の底の畏怖を込めて俺はそうこなたに告げた。マジで。それだけでたぶん一年は芸人として食っていける。保証してやってもいい。俺がそう言うと、こなたはさらに不満げな顔になる。唇を尖らせながら、ぽつりと、「かがみ達にもそう言われた」と呟く。ウケをとれるのは嬉しいけれど、それが顔だからそれなりに複雑なのか。そういうものか。
俺は前を向く。
視界の先に、駅が見えてきている。
まあ、アレだ。こなたの言ってたこと、なんとなくわかるよ。
「何が?」こなたは首を傾げる。
昨日の、一人で歩きたい気分の時もある、ってやつさ。
「そっか」
じゃあどんなときなのか、なんて聞かれてしまうと明確に言葉にはできないけれど、確かに、そういう気分の時はある。
そんなことを、知ってしまった。
「そうだね」こなたは頷く。「そういうときも、あるよね」
これは例え話だ。その積もりで聞いて欲しい。
この日本という国では、教育という制度がほぼ百パーセントという割合で行き届いている。中学までは義務教育。しかしながら、九十八パーセントほどは高校への進学の道を選ぶ。ということは、まあ、ほとんどの人は中学、そして高校という空間を体験していると言っても良いのではないだろうか。
その経験を元に考えてみて欲しいことがある。もし、同級生が付き合っているという噂を耳にしたら、どういう行動を取るだろうか。あまつさえ、校内で、それも人目のある場所でキスをしていた、などという噂が耳に入ってきたら、いったいどんな反応をとるだろうか。
「なんか一日ごとにすげえことになってくな、おい」
一時間目の後の休み時間。わざわざ後ろを向いて話しかけてきた谷口から出てきた言葉に、俺はうんざりと天井を見上げる。
うるさい黙れ。あんまりいじめられると俺だってやさぐれちゃうぞ、と。
「まあ、相手が泉だから、珍獣扱いくらいで済むと思うぞ、俺は」
俺は珍獣か。それともこなたが珍獣か。どっちにしろ救いがなさそうなのはたぶん俺の気のせいじゃない。
「これが柊姉妹のどっちかとか高良さんだったらオマエたぶん死んでただろうけどな」
お、あの人達人気あるのか。なんとなくわかるけど。柊姉妹は気さくで可愛い姉と、天然で可愛い妹だし。高良さんは文句なしの美人だし。でもこなたも悪い奴じゃないぞ。変なのは認めるけど。
「しかしなあ」しみじみと谷口は言う。「手の早い奴だったんだな、白石は」
それはとてつもない誤解だ。俺は手を出されるのが早い男なんだ。言ってから自分がとてつもなく情けない内容の告白をしてしまったことに気付いて机に突っ伏した。こなたに迫られている、というこの状況。傍目からみたらどうなのかということを考えるだけ恐ろしい。見た目小学生と付き合って、なおかつ学校でキスしていた男。そこにどんな経緯や理由があったとして、噂になってしまうのはその部分だけなのだ。
他人の恋愛沙汰なんてほっといてくれよ、というのは当事者だからこそ思うことだ。例えば目の前の谷口が誰かと付き合っているとして、俺はその噂をめいっぱい楽しむに違いない。立場が変わればきっと俺だってそうする。そう考えたら、なんだかやるせない気分になってしまう。
「ま、がんばれ」
ぽん、と谷口は俺の肩を叩く。
ああ、くそ。
ちょっとだけこいつを良い奴だと思ってしまったじゃないか。
「谷口」
「ん?」
「俺と付き合ってくれ」
「お断りだ」
「ちゃんとお弁当イベントもこなすから」
「キモっ」
失敬な奴だ。
「白石は錯乱している」
俺は正気だ。
「それがすでに正気じゃねえよ」
谷口が肩を竦めるのとほぼ同時に、チャイムがなって、黒井先生が教室に入ってくる。俺は気を取り直して、世界史のテキストとノートを机の中から引っ張り出した。
この日本という国では、教育という制度がほぼ百パーセントという割合で行き届いている。中学までは義務教育。しかしながら、九十八パーセントほどは高校への進学の道を選ぶ。ということは、まあ、ほとんどの人は中学、そして高校という空間を体験していると言っても良いのではないだろうか。
その経験を元に考えてみて欲しいことがある。もし、同級生が付き合っているという噂を耳にしたら、どういう行動を取るだろうか。あまつさえ、校内で、それも人目のある場所でキスをしていた、などという噂が耳に入ってきたら、いったいどんな反応をとるだろうか。
「なんか一日ごとにすげえことになってくな、おい」
一時間目の後の休み時間。わざわざ後ろを向いて話しかけてきた谷口から出てきた言葉に、俺はうんざりと天井を見上げる。
うるさい黙れ。あんまりいじめられると俺だってやさぐれちゃうぞ、と。
「まあ、相手が泉だから、珍獣扱いくらいで済むと思うぞ、俺は」
俺は珍獣か。それともこなたが珍獣か。どっちにしろ救いがなさそうなのはたぶん俺の気のせいじゃない。
「これが柊姉妹のどっちかとか高良さんだったらオマエたぶん死んでただろうけどな」
お、あの人達人気あるのか。なんとなくわかるけど。柊姉妹は気さくで可愛い姉と、天然で可愛い妹だし。高良さんは文句なしの美人だし。でもこなたも悪い奴じゃないぞ。変なのは認めるけど。
「しかしなあ」しみじみと谷口は言う。「手の早い奴だったんだな、白石は」
それはとてつもない誤解だ。俺は手を出されるのが早い男なんだ。言ってから自分がとてつもなく情けない内容の告白をしてしまったことに気付いて机に突っ伏した。こなたに迫られている、というこの状況。傍目からみたらどうなのかということを考えるだけ恐ろしい。見た目小学生と付き合って、なおかつ学校でキスしていた男。そこにどんな経緯や理由があったとして、噂になってしまうのはその部分だけなのだ。
他人の恋愛沙汰なんてほっといてくれよ、というのは当事者だからこそ思うことだ。例えば目の前の谷口が誰かと付き合っているとして、俺はその噂をめいっぱい楽しむに違いない。立場が変わればきっと俺だってそうする。そう考えたら、なんだかやるせない気分になってしまう。
「ま、がんばれ」
ぽん、と谷口は俺の肩を叩く。
ああ、くそ。
ちょっとだけこいつを良い奴だと思ってしまったじゃないか。
「谷口」
「ん?」
「俺と付き合ってくれ」
「お断りだ」
「ちゃんとお弁当イベントもこなすから」
「キモっ」
失敬な奴だ。
「白石は錯乱している」
俺は正気だ。
「それがすでに正気じゃねえよ」
谷口が肩を竦めるのとほぼ同時に、チャイムがなって、黒井先生が教室に入ってくる。俺は気を取り直して、世界史のテキストとノートを机の中から引っ張り出した。
頑張って授業中にとったノートにだけ記録を残し、俺の頭の中になんの記憶も残さないままに午前中の授業は終わる。果たして俺は後からあのノートを見返して、そこに描かれた数式の羅列の意味を思い出せるのだろうかと不安になる。もう文系なんだから数学は勘弁してくれ、と思いながらももし国公立を受けるのならば数学を外すわけにもいかない。どうするかなぁ、とそう遠くない未来に決めなければならない進路のことを思いながら廊下を歩いていると、向こうから歩いてくる柊姉妹が見えた。
「あれ」
「あ」
二人は同時に俺に気付いて声を出す。どうしようか、と思ったけれど、向こうに先に反応されてしまったからには無視する訳にもいかない。軽く片手をあげて、その手をひらひらと揺らす。
「お昼?」
「まあ、昼休みだしね」
「じゃあ、一緒に行こ?」
柊妹がまったく邪気のない笑顔でそんなことを言う。邪気がない。なさ過ぎて逆に裏があるんじゃないかと疑ってしまうような笑顔だ。まあ、そんなわけはないんだろうけど。
「ま、私はどっちでもいいけど」柊姉は言う。「どうせなら台詞覚えてるかどうか見てあげてもいいわよ」
「まあ、とりあえずパン買ってきてからかな。今日もあそこで?」
「そうね。つかさの小道具作りもあそこでやってるし」そこまで言ったところで、柊姉は訝しげに首を傾げる。「……あれ、お昼はこなたが作ってきてるんじゃないの?」
「今日はなんにも聞いてない」俺は両手を広げて言った。
「たぶん、こなちゃん作ってきてると思うけど……」
そう言いながらちらちらとこちらを見て、何かを思い出したのかほんのりと頬を染める柊妹。うん、昨日の今日だけどさっさと忘れてしまうのがいいと俺は思うんだ。たぶん昨日の俺はどうかしてたんだ。だからお願いします忘れてください。
「まあ、パンはあっても困らないし、それに、」
「それに?」
俺はひらひらを手を振って、二人から離れる。
「期待はあんまりしないようにしてるんだ、これが」
よくわからない、という顔をする二人を残して、俺は購買に向かって歩き出す。ポケットに手を突っ込んで、そこに財布の存在があることを確認する。いったい何の期待だろう、と俺は思う。何を期待しないようにしてるんだろう、と俺は思う。
分からなかったけど、たぶん、こなたのことに関係しているんだろうな、と俺は思う。
足早に購買へ行って、サンドイッチと焼きそばパンを買うと、そのままいつものと言ってしまっていいのかわからない文芸部の部室に向かう。小道具やらなんやらも起きっぱなしで、文芸部の部長はそろそろ文句を言いたくならないのだろうか。たぶん俺が気にするようなことじゃないんだろうけど、少しだけ未だ顔を拝んでいない文芸部の部長さんのことが気になってしまう。
文芸部、とプレートのついた部室の前。俺はパンを手に持ったまま、そのドアを開ける。部屋の中にはいつものメンバーが揃っている。柊姉妹に、高良さんに、それからこなた。それぞれ食事を取りながらだべっているようだった。最初から中にいるとそうでもないが、こうやって後から入っていくと何か抵抗を感じてしまうのは何故だろうか。
「あ、きたきたー。おーい」
大げさにぶんぶん手を振るこなたにつられて、つい自然とその隣に座ってしまう。慣れって怖い。座ってからしまった、と俺は思う。が、いまさら移動するのも不自然極まりないような気がする。
「はーい、今日はこれー」
今日もきたか。一回受け取ってしまうと、その次以降はどうしても拒否しづらいものがある。俺は少し複雑な気分になりながらも、やっぱりこなたが出した物を受け取ってしまう。
やっぱり良くないよな、こういうの。
「なあ、こなた」
「ん?」
「毎日作ってくるの面倒じゃないか?」
「案外そうでもないよ?」
遠回しに断る作戦は決行される前にぶった切られたようだ。全身倦怠感女のくせになんでこういうときはちゃんと俺の望んだ返答をしてくれないのか小一時間問い詰めたい。
「面倒だよな?」
「そうでもないけど?」
「だよな?」
「ないけど?」
「面倒だと言ってくれないか」
「だが断る!」
「そこをなんとか!」
「嫌なの?」
唐突に素に戻ってそう言うこなたに、俺は言葉に詰まる。嫌だというわけではない。むしろ嬉しい、と言ってしまうとまずいのだが、何故かこういうのは良くない、と思ってしまうのだ。それを上手く言葉にできない自分に苛立つ。
しばらくのにらめっこの後、
「……嫌なわけじゃ、ないけど」
負けた。何にかは分からないけど、とにかく俺は負けた。何か大きなものに敗北したんだ。敗北感にうちひしがれながら肩を落とす俺に、こなたはにこにこ笑いかける。にやにやかもしれない。とにかくそんな笑い方だ。
「なら、いいじゃん」
「何かに負けたような気がする」
いえーい、と何故かサムズアップのこなた。白旗どっかに売ってないかなあとかそんなことを考えながら、俺はこなたがくれた昼食に手をつけ始めた。普通に美味しいのがまた敗北感を加速させてくれる。そうか、これが敗北の味か。
「敗北の味をじっくりと味わいたまへ」
「うるさい」
そもそもなんでそんなに楽しそうなんだ。
「勝利の味は格別だよネ」
「何が勝利の味だ」
「良くわかんないけど、私の勝ちなんでしょ?」
だったら勝利の味だー。意味が分からない。分からないけど、なんか楽しそうにしてるからそれでいいや、と思ってしまった。ため息を我慢しながらこなたを視界に入れないように頭を振ると、ミニトマトをほおばっている柊姉と目が合う。彼女は口の中の物をもぐもぐと租借すると、果てしなく投げやりな態度と声で言った。
「……もうさ、あんた達結婚しちゃいなさいよ」
柊姉の言葉に俺たちは顔を見合わせる。
結婚?
付き合ってもいないのに?
そんな風に、同時に首を傾げると、彼女は何故か深いため息を吐いた。
「あれ」
「あ」
二人は同時に俺に気付いて声を出す。どうしようか、と思ったけれど、向こうに先に反応されてしまったからには無視する訳にもいかない。軽く片手をあげて、その手をひらひらと揺らす。
「お昼?」
「まあ、昼休みだしね」
「じゃあ、一緒に行こ?」
柊妹がまったく邪気のない笑顔でそんなことを言う。邪気がない。なさ過ぎて逆に裏があるんじゃないかと疑ってしまうような笑顔だ。まあ、そんなわけはないんだろうけど。
「ま、私はどっちでもいいけど」柊姉は言う。「どうせなら台詞覚えてるかどうか見てあげてもいいわよ」
「まあ、とりあえずパン買ってきてからかな。今日もあそこで?」
「そうね。つかさの小道具作りもあそこでやってるし」そこまで言ったところで、柊姉は訝しげに首を傾げる。「……あれ、お昼はこなたが作ってきてるんじゃないの?」
「今日はなんにも聞いてない」俺は両手を広げて言った。
「たぶん、こなちゃん作ってきてると思うけど……」
そう言いながらちらちらとこちらを見て、何かを思い出したのかほんのりと頬を染める柊妹。うん、昨日の今日だけどさっさと忘れてしまうのがいいと俺は思うんだ。たぶん昨日の俺はどうかしてたんだ。だからお願いします忘れてください。
「まあ、パンはあっても困らないし、それに、」
「それに?」
俺はひらひらを手を振って、二人から離れる。
「期待はあんまりしないようにしてるんだ、これが」
よくわからない、という顔をする二人を残して、俺は購買に向かって歩き出す。ポケットに手を突っ込んで、そこに財布の存在があることを確認する。いったい何の期待だろう、と俺は思う。何を期待しないようにしてるんだろう、と俺は思う。
分からなかったけど、たぶん、こなたのことに関係しているんだろうな、と俺は思う。
足早に購買へ行って、サンドイッチと焼きそばパンを買うと、そのままいつものと言ってしまっていいのかわからない文芸部の部室に向かう。小道具やらなんやらも起きっぱなしで、文芸部の部長はそろそろ文句を言いたくならないのだろうか。たぶん俺が気にするようなことじゃないんだろうけど、少しだけ未だ顔を拝んでいない文芸部の部長さんのことが気になってしまう。
文芸部、とプレートのついた部室の前。俺はパンを手に持ったまま、そのドアを開ける。部屋の中にはいつものメンバーが揃っている。柊姉妹に、高良さんに、それからこなた。それぞれ食事を取りながらだべっているようだった。最初から中にいるとそうでもないが、こうやって後から入っていくと何か抵抗を感じてしまうのは何故だろうか。
「あ、きたきたー。おーい」
大げさにぶんぶん手を振るこなたにつられて、つい自然とその隣に座ってしまう。慣れって怖い。座ってからしまった、と俺は思う。が、いまさら移動するのも不自然極まりないような気がする。
「はーい、今日はこれー」
今日もきたか。一回受け取ってしまうと、その次以降はどうしても拒否しづらいものがある。俺は少し複雑な気分になりながらも、やっぱりこなたが出した物を受け取ってしまう。
やっぱり良くないよな、こういうの。
「なあ、こなた」
「ん?」
「毎日作ってくるの面倒じゃないか?」
「案外そうでもないよ?」
遠回しに断る作戦は決行される前にぶった切られたようだ。全身倦怠感女のくせになんでこういうときはちゃんと俺の望んだ返答をしてくれないのか小一時間問い詰めたい。
「面倒だよな?」
「そうでもないけど?」
「だよな?」
「ないけど?」
「面倒だと言ってくれないか」
「だが断る!」
「そこをなんとか!」
「嫌なの?」
唐突に素に戻ってそう言うこなたに、俺は言葉に詰まる。嫌だというわけではない。むしろ嬉しい、と言ってしまうとまずいのだが、何故かこういうのは良くない、と思ってしまうのだ。それを上手く言葉にできない自分に苛立つ。
しばらくのにらめっこの後、
「……嫌なわけじゃ、ないけど」
負けた。何にかは分からないけど、とにかく俺は負けた。何か大きなものに敗北したんだ。敗北感にうちひしがれながら肩を落とす俺に、こなたはにこにこ笑いかける。にやにやかもしれない。とにかくそんな笑い方だ。
「なら、いいじゃん」
「何かに負けたような気がする」
いえーい、と何故かサムズアップのこなた。白旗どっかに売ってないかなあとかそんなことを考えながら、俺はこなたがくれた昼食に手をつけ始めた。普通に美味しいのがまた敗北感を加速させてくれる。そうか、これが敗北の味か。
「敗北の味をじっくりと味わいたまへ」
「うるさい」
そもそもなんでそんなに楽しそうなんだ。
「勝利の味は格別だよネ」
「何が勝利の味だ」
「良くわかんないけど、私の勝ちなんでしょ?」
だったら勝利の味だー。意味が分からない。分からないけど、なんか楽しそうにしてるからそれでいいや、と思ってしまった。ため息を我慢しながらこなたを視界に入れないように頭を振ると、ミニトマトをほおばっている柊姉と目が合う。彼女は口の中の物をもぐもぐと租借すると、果てしなく投げやりな態度と声で言った。
「……もうさ、あんた達結婚しちゃいなさいよ」
柊姉の言葉に俺たちは顔を見合わせる。
結婚?
付き合ってもいないのに?
そんな風に、同時に首を傾げると、彼女は何故か深いため息を吐いた。
いろいろ、考えなければいけないことがあるような気がしていた。五時間目、六時間目、機械的に手を動かしながら、俺の頭はあまり建設的ではない方向にぐるぐると何回も同心円を書き続けているような感じだった。何回も何回も回っても、決して中心には辿り着けない同心円。
今指名されたらアウトだな、と頭の片隅で思ったけれど、それならそれでいいや、とも思った。捨て鉢になりたい訳じゃない。投げやりになりたい訳じゃない。それでもどこかで冷めた自分が邪魔をする。
演技、だから。
昨日のこなたの言葉を思い出す。こなたの事を思い出す。俺の知っている、泉こなたを思い出す。あの時の声のトーンを、表情を、仕草を、俺は思い出す。
なあ。
もうちょっと明確に線を引いてくれよ。
もっと上手に演技してくれよ。
こんな風に思うことすらできないほどに、完璧に演技してくれよ。
そうじゃなかったら。
そうじゃなかったら?
そうじゃなかったら、いったい、何なんだ?
「白石」
顔を上げると、俺の名前が呼ばれているようだった。教師の顔と、それからクラスメイトの何人かの顔が俺の方に向いている。あれ、今なんの時間だっけ。机の上を見ると、英語のグラマーのテキスト。そうか、英語の時間か。しかしながら、それが分かっても何を聞かれているかがわからない。何を答えて良いかも分からない。
俺は少しだけ考える振りをした後で、俯いたまま言った。
「分かりません」
今指名されたらアウトだな、と頭の片隅で思ったけれど、それならそれでいいや、とも思った。捨て鉢になりたい訳じゃない。投げやりになりたい訳じゃない。それでもどこかで冷めた自分が邪魔をする。
演技、だから。
昨日のこなたの言葉を思い出す。こなたの事を思い出す。俺の知っている、泉こなたを思い出す。あの時の声のトーンを、表情を、仕草を、俺は思い出す。
なあ。
もうちょっと明確に線を引いてくれよ。
もっと上手に演技してくれよ。
こんな風に思うことすらできないほどに、完璧に演技してくれよ。
そうじゃなかったら。
そうじゃなかったら?
そうじゃなかったら、いったい、何なんだ?
「白石」
顔を上げると、俺の名前が呼ばれているようだった。教師の顔と、それからクラスメイトの何人かの顔が俺の方に向いている。あれ、今なんの時間だっけ。机の上を見ると、英語のグラマーのテキスト。そうか、英語の時間か。しかしながら、それが分かっても何を聞かれているかがわからない。何を答えて良いかも分からない。
俺は少しだけ考える振りをした後で、俯いたまま言った。
「分かりません」
通して演じて、三十分強。いろいろつっかえたり立ち位置間違えたり台詞間違えたり出番間違えたり相手間違えたりいろいろあったけれど、とりあえず今日は通して一通りできたので良かったのだろう。たぶん、よかった、の、だと思う。本番までに詰めないといけないところだらけで嫌になるほど気が重くなったが、最終形が少しでも見えたことは少し気が楽になった。
土日も体育館使って練習するということになっているので、今日はこれで終わり。そして解散、と行けば良かったが、人生そう上手く回るものではないらしい。
俺は張りぼてのナイフにくるくると銀紙を巻きながら、こっそりとため息を吐いた。そういえば劇をやるとなると道具もいるんだよなぁ、と今更ながらに思う。部隊の上に置く小道具も必要だし。極力削減する方向で動いているみたいだけれど、それでも最低限必要なものはある。まさか制服やジャージで演技するわけにもいかないだろうし。
「あ、ねえ、ちょっと来て!」
呼ばれて振り向くと、そこには柊妹。何だろうと思いながら銀紙を巻いていたナイフを下に置いて、呼ばれるままにそちらに向かう。
「どうした?」
「ちょっとこっち立って。あ、両手広げてね」
言われるままに両手を広げて立つ。あ、また俺流されてる。ここは意味もなく拒否してみるべきだったか、なんてことを思っていると、柊妹はメジャーをびろんと伸ばして俺の体にぐるぐる巻き付け始めた。
「これは?」
「衣装の採寸ー。白石くんに合わせないといけないからね」
「あ、そっか」
「お姉ちゃん用に準備してたんだけど、そうもいかなくなったでしょ?」
あれ思ったよりも大きいかもー、なんてことを言いながら、肩幅やら腕やらのサイズを測られる。なんかくすぐったいというか恥ずかしいというか、微妙な心地になる。早く終わってくれないものか。ちょこちょことメジャーを持ったまま俺の周りを動き回る柊妹見ながらそんな風に思う。なんかの羞恥プレイみたいだ。
一通り測り終わると、柊妹はメジャーをたたみながら体を離す。
「もういいよー」
そう言われて、俺は両腕を下ろした。柊妹は今測った数値をさらさらとメモ帳に書き込んでいる。
「じゃあ、土日でなんとか形にしておくね」
「あー、大変だなあ」
「役者の方が、大変じゃない?」
「そう、か?」
実際のところ、どっちもどっちで大変なんだろう。道具とか衣装は本当に少ない人数で回しているみたいだから。役者も同じようなものだし。だから、たぶん、どっちもどっちだ。
「そうだね」そう言って、柊妹は笑う。「どっちも、大変だ」
「大変だな」
「うん、大変だね」
言葉の内容とは裏腹に、どこか弾んだ口調で彼女は言う。
「でも、こういうのって、なんか楽しいよね。みんなで作ってる、って感じで」
そう言われて、周りを見回す。
最初は俺の知っている四人だけがいて。次の日から少しずつ人が増え始めて。高良さんとかが余裕のある人に声をかけて回っていたんだろうけど、何か大きな流れの中にいるような感じすらしてくる。柊妹が『なんか楽しい』と言ったのはそう言うことなんじゃないかと俺は思う。個人としての自分。それとは違う、集団の中にいる自分。
視界に長い髪が踊っているのが見えた。こなただ。柊姉の隣でくるくる回っている。あれって仮面つけた舞踏会のシーンだろうか。「もっと優雅に」とか「指先まで神経いれろ」とか言われている。思わず同情の視線を送りたくなってしまうのは仕方のないところだろう。
それでも目があったら俺まで掴まってしまいそうな気がしたので、同情の視線は一瞬だけに止めておく。
「ねえ」
「ん?」
柊妹から声がかかり、俺は振り返る。
「覚えてる? こなちゃんが白石くんに言ったこと」
「さあ、なんかいっぱいいろいろ言われてるから、どれのことだか」
「うーんと、ほら、お姉ちゃんの代わりに主役やるってなったとき」
頭で理解するとかではなくて、もっと根源的なもので彼女のいいたいことを分かってしまった俺は、黙って肩を竦めた。覚えてる。覚えてるさ。忘れられるわけがないじゃないか。あんな衝撃的なこと言われたのは十七年生きてきてあの一回しかない。
「私ね」柊妹が言う。「こなちゃんのこと、好きなんだ」
そっか。
「だってこなちゃん、いつもマイペースで、自分のしたいことちゃんとしてるって感じしない?」
そうなのだろうか。やりたいことをやっているのだろうか。やりたいことをやっているのだろうか?
「私なかなかそういうのできないから、お姉ちゃんとかこなちゃんみたいな人って憧れちゃうんだ」
そんなことはないだろう。世の中そんな人間ばっかりだったら大変なことになる。柊妹や俺みたいな人間だって、いないとたぶん困ることになるんじゃないか、なんて甘い期待の入り交じった言葉。そうだね、と柊妹は言った。
「そうだったら、嬉しいかな」
彼女は視線を、俺を通り越して、その向こうに放り投げる。俺もその視線を追いかけるように振り返った。なぜかそこにはあらゆる作業を放り出した関係者一同によるバレエ大会が始まっていた。その昔習っていたらしい、一人の女子(たぶん同じクラスだ)が先頭で手足を優雅に振り回し、他のみんなが優雅とは言えない動作でその真似をする。いつのまにここはカオス空間になったんだ。
半ば呆然としている俺と柊妹をみつけたこなたが「おーい」と俺たちを呼ぶ。
「一緒にやろうよー」
「つか、あんたたちも参加しなさいっ」こっちは柊姉。
意味がわからない。まったくもってわからない。俺と柊妹は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「行くか?」
「うん、行こう」
マイペースに。傍若無人に、楽しそうだからやってみよう。意味がわからないことはきっと楽しいし、この空間でもはや羞恥を感じることなんてなんでもない。
「ねえ」
歩き出した最初の一歩目が地面に下りたのとほぼ同時に、柊妹は言った。
何でもないことのように。会話の導入に天気の話をするような自然さで。あるいは、不自然さで、
「こなちゃんのこと、好き?」
彼女は言った。
「たぶん」俺は柊妹の方を見ないまま、答える。「嫌いだな」
ええええ。背中側から聞こえる声に俺は小さく笑いながら、みんなの輪の中に混じる。いつの間にか体育館のスピーカーからは音楽が聞こえ始めている。てかこれ今流行の軍隊式アレじゃないか。もうみんな好き勝手にしゃべりながら体を動かしている。
隣の人が振り回した腕が俺の顔すれすれを掠める。よく見たらそれはこなただった。目の前を通り過ぎた拳に明確な悪意を感じたぞ、おい。
「人生って戦いだよネ」
意味がわからん。
「欲しいものは戦って勝ち取るのだ、と偉い人も言ってた」
アホみたいなテンションだ。でも、そういうのだって悪くないし、俺はたぶん、嫌いじゃない。
受けて立ってやる。
なあ、こなた。
戦って、勝ち取ればいいんだろう?
「有段者の腕を見せてあげよう」
そりゃ楽しみだ。ロクにルールも確認しないまま中途半端な寸止めストリートファイトが始まる。こなたの実力と俺の存在しない実力の絶妙なブレンドによってまるでへたくそなダンスみたいになってしまったそれは、まるでいつまでも終わらないような錯覚さえするような時間だった。
結果なんて言うまでもない。
当然、俺の負けだ。
土日も体育館使って練習するということになっているので、今日はこれで終わり。そして解散、と行けば良かったが、人生そう上手く回るものではないらしい。
俺は張りぼてのナイフにくるくると銀紙を巻きながら、こっそりとため息を吐いた。そういえば劇をやるとなると道具もいるんだよなぁ、と今更ながらに思う。部隊の上に置く小道具も必要だし。極力削減する方向で動いているみたいだけれど、それでも最低限必要なものはある。まさか制服やジャージで演技するわけにもいかないだろうし。
「あ、ねえ、ちょっと来て!」
呼ばれて振り向くと、そこには柊妹。何だろうと思いながら銀紙を巻いていたナイフを下に置いて、呼ばれるままにそちらに向かう。
「どうした?」
「ちょっとこっち立って。あ、両手広げてね」
言われるままに両手を広げて立つ。あ、また俺流されてる。ここは意味もなく拒否してみるべきだったか、なんてことを思っていると、柊妹はメジャーをびろんと伸ばして俺の体にぐるぐる巻き付け始めた。
「これは?」
「衣装の採寸ー。白石くんに合わせないといけないからね」
「あ、そっか」
「お姉ちゃん用に準備してたんだけど、そうもいかなくなったでしょ?」
あれ思ったよりも大きいかもー、なんてことを言いながら、肩幅やら腕やらのサイズを測られる。なんかくすぐったいというか恥ずかしいというか、微妙な心地になる。早く終わってくれないものか。ちょこちょことメジャーを持ったまま俺の周りを動き回る柊妹見ながらそんな風に思う。なんかの羞恥プレイみたいだ。
一通り測り終わると、柊妹はメジャーをたたみながら体を離す。
「もういいよー」
そう言われて、俺は両腕を下ろした。柊妹は今測った数値をさらさらとメモ帳に書き込んでいる。
「じゃあ、土日でなんとか形にしておくね」
「あー、大変だなあ」
「役者の方が、大変じゃない?」
「そう、か?」
実際のところ、どっちもどっちで大変なんだろう。道具とか衣装は本当に少ない人数で回しているみたいだから。役者も同じようなものだし。だから、たぶん、どっちもどっちだ。
「そうだね」そう言って、柊妹は笑う。「どっちも、大変だ」
「大変だな」
「うん、大変だね」
言葉の内容とは裏腹に、どこか弾んだ口調で彼女は言う。
「でも、こういうのって、なんか楽しいよね。みんなで作ってる、って感じで」
そう言われて、周りを見回す。
最初は俺の知っている四人だけがいて。次の日から少しずつ人が増え始めて。高良さんとかが余裕のある人に声をかけて回っていたんだろうけど、何か大きな流れの中にいるような感じすらしてくる。柊妹が『なんか楽しい』と言ったのはそう言うことなんじゃないかと俺は思う。個人としての自分。それとは違う、集団の中にいる自分。
視界に長い髪が踊っているのが見えた。こなただ。柊姉の隣でくるくる回っている。あれって仮面つけた舞踏会のシーンだろうか。「もっと優雅に」とか「指先まで神経いれろ」とか言われている。思わず同情の視線を送りたくなってしまうのは仕方のないところだろう。
それでも目があったら俺まで掴まってしまいそうな気がしたので、同情の視線は一瞬だけに止めておく。
「ねえ」
「ん?」
柊妹から声がかかり、俺は振り返る。
「覚えてる? こなちゃんが白石くんに言ったこと」
「さあ、なんかいっぱいいろいろ言われてるから、どれのことだか」
「うーんと、ほら、お姉ちゃんの代わりに主役やるってなったとき」
頭で理解するとかではなくて、もっと根源的なもので彼女のいいたいことを分かってしまった俺は、黙って肩を竦めた。覚えてる。覚えてるさ。忘れられるわけがないじゃないか。あんな衝撃的なこと言われたのは十七年生きてきてあの一回しかない。
「私ね」柊妹が言う。「こなちゃんのこと、好きなんだ」
そっか。
「だってこなちゃん、いつもマイペースで、自分のしたいことちゃんとしてるって感じしない?」
そうなのだろうか。やりたいことをやっているのだろうか。やりたいことをやっているのだろうか?
「私なかなかそういうのできないから、お姉ちゃんとかこなちゃんみたいな人って憧れちゃうんだ」
そんなことはないだろう。世の中そんな人間ばっかりだったら大変なことになる。柊妹や俺みたいな人間だって、いないとたぶん困ることになるんじゃないか、なんて甘い期待の入り交じった言葉。そうだね、と柊妹は言った。
「そうだったら、嬉しいかな」
彼女は視線を、俺を通り越して、その向こうに放り投げる。俺もその視線を追いかけるように振り返った。なぜかそこにはあらゆる作業を放り出した関係者一同によるバレエ大会が始まっていた。その昔習っていたらしい、一人の女子(たぶん同じクラスだ)が先頭で手足を優雅に振り回し、他のみんなが優雅とは言えない動作でその真似をする。いつのまにここはカオス空間になったんだ。
半ば呆然としている俺と柊妹をみつけたこなたが「おーい」と俺たちを呼ぶ。
「一緒にやろうよー」
「つか、あんたたちも参加しなさいっ」こっちは柊姉。
意味がわからない。まったくもってわからない。俺と柊妹は顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「行くか?」
「うん、行こう」
マイペースに。傍若無人に、楽しそうだからやってみよう。意味がわからないことはきっと楽しいし、この空間でもはや羞恥を感じることなんてなんでもない。
「ねえ」
歩き出した最初の一歩目が地面に下りたのとほぼ同時に、柊妹は言った。
何でもないことのように。会話の導入に天気の話をするような自然さで。あるいは、不自然さで、
「こなちゃんのこと、好き?」
彼女は言った。
「たぶん」俺は柊妹の方を見ないまま、答える。「嫌いだな」
ええええ。背中側から聞こえる声に俺は小さく笑いながら、みんなの輪の中に混じる。いつの間にか体育館のスピーカーからは音楽が聞こえ始めている。てかこれ今流行の軍隊式アレじゃないか。もうみんな好き勝手にしゃべりながら体を動かしている。
隣の人が振り回した腕が俺の顔すれすれを掠める。よく見たらそれはこなただった。目の前を通り過ぎた拳に明確な悪意を感じたぞ、おい。
「人生って戦いだよネ」
意味がわからん。
「欲しいものは戦って勝ち取るのだ、と偉い人も言ってた」
アホみたいなテンションだ。でも、そういうのだって悪くないし、俺はたぶん、嫌いじゃない。
受けて立ってやる。
なあ、こなた。
戦って、勝ち取ればいいんだろう?
「有段者の腕を見せてあげよう」
そりゃ楽しみだ。ロクにルールも確認しないまま中途半端な寸止めストリートファイトが始まる。こなたの実力と俺の存在しない実力の絶妙なブレンドによってまるでへたくそなダンスみたいになってしまったそれは、まるでいつまでも終わらないような錯覚さえするような時間だった。
結果なんて言うまでもない。
当然、俺の負けだ。