ベアード・キャリコットは1941年5月9日、テネシー州メンフィスで生まれた。1971年にシラキューズ大学から哲学博士号を取得(専攻はプラトン哲学)。現在は、ノーステキサス大学の哲学教授。
1971年にウィスコンシン州立大学スティーブンズポイント校において、世界初の環境倫理学の講座を開き、1979年にこの分野の専門誌を発行した。環境倫理学という分野を発明した人物、と位置づけても構わないだろう。事実、北米で出版される環境倫理学関連の雑誌には、キャリコットの仕事へのに言及・注解、そして批判がいまでも多く見られる。
1971年にウィスコンシン州立大学スティーブンズポイント校において、世界初の環境倫理学の講座を開き、1979年にこの分野の専門誌を発行した。環境倫理学という分野を発明した人物、と位置づけても構わないだろう。事実、北米で出版される環境倫理学関連の雑誌には、キャリコットの仕事へのに言及・注解、そして批判がいまでも多く見られる。
キャリコットのキーワード
「内在的価値」
キャリコットの仕事
■アルド・レオポルドの哲学的解釈
キャリコットのキャリアは、アルド・レオポルド(1887-1948)の解釈から始まる。つまり、進化論と生態学がわれわれ自身とわれわれの周囲の世界についての基本的な見かたを変えたというレオポルドの認識を、彼は形而上学のレベルで整理したのだ。
キャリコットが依拠するのは、ダーウィンと、デヴィッド・ヒュームおよびアダム・スミスの仕事である。
レオポルドを解釈するキャリコットは、以下の一組みの倫理的な責務、「土地倫理」を擁護する。
キャリコットのキャリアは、アルド・レオポルド(1887-1948)の解釈から始まる。つまり、進化論と生態学がわれわれ自身とわれわれの周囲の世界についての基本的な見かたを変えたというレオポルドの認識を、彼は形而上学のレベルで整理したのだ。
キャリコットが依拠するのは、ダーウィンと、デヴィッド・ヒュームおよびアダム・スミスの仕事である。
レオポルドを解釈するキャリコットは、以下の一組みの倫理的な責務、「土地倫理」を擁護する。
- 進化論と生態学によれば「土と水、植物、そして動物、あるいは集合的に土地」と人間が、共有された社会的コミュニティの本質をなす。
- そのため、われわれ人間がおたがいに負うことを認めあっている倫理的な義務は、この土地コミュニティにたいしても同じように敷桁し、奨励することができるし、そうすべきである。
道徳的な責務を土地にまで拡大することに関する議論のなかで、キャリコットは土地が内在的な価値をもつと論じた。つまり、それは何か他の目的にたいする手段としての価値とは異なり、それ自身における、それ自身で有する価値であり、たんに道具的な価値以上の価値を土地は持つ、と主張する。この背景には、サイバネティクスの援用により、機械論に傾きつつあった生態系生態学と、それに基づく環境保護運動への批判がこめられている。
キャリコットは「生態系中心主義者」を標榜する。つまり、全体としての種、エコシステム、流域、生物コミュニティ、生命圏、そしてそれら生物学的集合を構成する要素である諸個体に、直接的な道徳的地位を認める。(ホームズ・ロールストンⅢやアルネ・ネスと同一視されることがあるが、それぞれの主張は異なるため、比較が必要である)
cf. Callicott, J. Baird (1989). In Defense of the Land Ethic: Essays in Environmental Philosophy. Albany: State University of New York Press.
キャリコットは「生態系中心主義者」を標榜する。つまり、全体としての種、エコシステム、流域、生物コミュニティ、生命圏、そしてそれら生物学的集合を構成する要素である諸個体に、直接的な道徳的地位を認める。(ホームズ・ロールストンⅢやアルネ・ネスと同一視されることがあるが、それぞれの主張は異なるため、比較が必要である)
cf. Callicott, J. Baird (1989). In Defense of the Land Ethic: Essays in Environmental Philosophy. Albany: State University of New York Press.
■北米のインディアン社会の世界観研究
キャリコットは、アメリカ・インディアン諸部族の宇宙論の吟味を通じて、環境倫理学の具体化を目指す。
キャリコットはレオポルドの土地倫理とインディアン諸部族の宇宙論が強い親近性を共有していると主張する。
キャリコットは、アメリカ・インディアン諸部族の宇宙論の吟味を通じて、環境倫理学の具体化を目指す。
キャリコットはレオポルドの土地倫理とインディアン諸部族の宇宙論が強い親近性を共有していると主張する。
アメリカ・インディアン文化のいっさいを包括する暗黙の総合的形而上学は、人間をより大きな社会的環境と物理的(自然的)環境の両方のなかに位置づけている。人びとは人間のコミュニティに属しているだけでなく、全自然からなるコミュニティにも属している。このより大きな社会のなかで存在することは、家族や部族のつながりのなかで存在することと同様、互恵的責任と相互的責務が当然と考えられており、疑問も反省もなしに受け入れられている環境に人びとを置く。
のちにキャリコットは、キリスト教、イスラムに、多神教、オーストラリアの先住民文化にいたる世界の諸文化と宗教的伝統のなかに表れている環境への姿勢と価値観をまとめる。
cf.『地球の洞察多 文化時代の環境哲学』みすず書房
cf.『地球の洞察多 文化時代の環境哲学』みすず書房
他の彼の仕事として
- ユダヤ・キリスト教の、人間は自然にたいする支配者でなく管理人であるという視座
- 動物福祉に関する倫理学と環境倫理学の区別
- 狩猟の倫理
があげられる。
なぜキャリコットは人気なのか?
- 検討中。
フロンティアでひたすら原生自然を破壊し続け、インディアンを殺し続けたトラウマ的過去を持つ北米人の罪責感を、彼の言説がうまくコーティングするからではないか。
- 「必死のオプティミズム」
キャリコットは一貫して、哲学と倫理学が地球環境の問題を説明するとともに解決することができるという「必死のオプティミズム」を唱える。
生存のためにはペシミズムはなんの価値もない。必死のオプティミズムが、実践的環境哲学者がとることのできる、唯一の態度である。
環境倫理であれ社会倫理であれ、倫理が完全に実践され、実現されるということはけっしてないにせよ、それにもかかわらず、倫理は実践にたいしてきわめて現実的な力をおよぼす。理想は人間の行動に重要な影響を実際におよぼす。道徳的理想を心に描き、説明し、達成すべく努力することによって、われわれは個人としてもまた集合的にもなんらかの前進を遂げ、新たな地歩を固める。
でも、それって、やせ我慢なんじゃないの? いや、やせ我慢をするのはもちろん良いけれど、万人に求めるべきものなの? という疑問は残る。