【環境主義者のジレンマ】
アメリカのナチュラリストや生態学者たちは自然の多様な価値を訴えてきた。彼らが共通して抱えていたひとつの難題は、どうすれば彼らが愛するものに他の人々が関心をよせてくれるかという問題だった。合衆国における保全の初期の時代以来、自然界のそれぞれの部分を略奪から保護しようとしてきた人々のあいだには、哲学、戦略、戦術の不一致があった。そこで提出されたのが、保護/保全をはじめとする、二元論である。
例えば、ドナルド・オースターによる牧歌的な自然観と帝国主義的な自然観、グレッグ・ミットマンによるナチュラリストの親愛的で美学的な「まなざし」と科学者の全知全能で支配的な「凝視」、ダニエル・ボトキンによる直観的/情緒的な生態学的ディオニュソスと分析的/理性的アポロンがある。また「ディープ・エコロジスト」たちが、自分たちの生物中心主義的な信念を、地球は人間が利用するために、人間にとっての価値のために存在すると主張しつづける「シャロー・エコロジスト」たちに対漬させることにも、同じような二元論が反映されている。(ブライアン・ノートンも、道徳主義者と経済学的総計主義者を分けた)
今日の保全生物学者たちは、これらの操作的で観念論的な二元論を繰り返してもいるが、生物多様性に人々の関心をあつめようとするなかで、「保全のジレンマ」あるいは「環境主義者のジレンマ」と呼ばれている問題を解決しようと意識的に努力している。そこにノートンの議論も位置づけられる。(議論の詳細については、改めて)
アメリカのナチュラリストや生態学者たちは自然の多様な価値を訴えてきた。彼らが共通して抱えていたひとつの難題は、どうすれば彼らが愛するものに他の人々が関心をよせてくれるかという問題だった。合衆国における保全の初期の時代以来、自然界のそれぞれの部分を略奪から保護しようとしてきた人々のあいだには、哲学、戦略、戦術の不一致があった。そこで提出されたのが、保護/保全をはじめとする、二元論である。
例えば、ドナルド・オースターによる牧歌的な自然観と帝国主義的な自然観、グレッグ・ミットマンによるナチュラリストの親愛的で美学的な「まなざし」と科学者の全知全能で支配的な「凝視」、ダニエル・ボトキンによる直観的/情緒的な生態学的ディオニュソスと分析的/理性的アポロンがある。また「ディープ・エコロジスト」たちが、自分たちの生物中心主義的な信念を、地球は人間が利用するために、人間にとっての価値のために存在すると主張しつづける「シャロー・エコロジスト」たちに対漬させることにも、同じような二元論が反映されている。(ブライアン・ノートンも、道徳主義者と経済学的総計主義者を分けた)
今日の保全生物学者たちは、これらの操作的で観念論的な二元論を繰り返してもいるが、生物多様性に人々の関心をあつめようとするなかで、「保全のジレンマ」あるいは「環境主義者のジレンマ」と呼ばれている問題を解決しようと意識的に努力している。そこにノートンの議論も位置づけられる。(議論の詳細については、改めて)
【レオポルドの評価】
マックス・エルシュレーガーは、レオポルドを生物中心主義の先駆者として尊敬する環境史家たち(キャリコット、およびエルシュレーガーもその一人)と、徹底した人間中心主義者として分類する環境史家たちとを比較対照している。ロデリック・ナッシュをはじめ一部の人々は、レオポルドがひとつの避けることのできない真実を発見したと考えている。「倫理的な配慮は地球とそこに住む人間以外のものにも拡張されるべきだ」という。
しかしブライアン・ノートンにいわせれば、レオポルドは形而上学的なことはなにひとつ信じていない。レオポルドは土地とその居住者の実用主義的な評価と、より「恍惚的な」評価との境界線をまたぎつつも、できるだけ多くの実用主義的な議論だけを提出しようとした。
cf. Oelschlacger 1991;Nash 1987,1989;Norton 1991.
同書は、ノートンのほうが真実に近いと考えている。レオポルドは、自分の書いていることが結論ではなく、新たな総合理論の序論にすぎないことを承知していた。レオポルド以降の多くの環境主義者たちと同様、彼も多元論者であった。彼は自分の主張を弁護するため多くの議論やスタイルを使い、そのおかげで可能なかぎり多くの読者を改宗させることになった、と見なしている。
マックス・エルシュレーガーは、レオポルドを生物中心主義の先駆者として尊敬する環境史家たち(キャリコット、およびエルシュレーガーもその一人)と、徹底した人間中心主義者として分類する環境史家たちとを比較対照している。ロデリック・ナッシュをはじめ一部の人々は、レオポルドがひとつの避けることのできない真実を発見したと考えている。「倫理的な配慮は地球とそこに住む人間以外のものにも拡張されるべきだ」という。
しかしブライアン・ノートンにいわせれば、レオポルドは形而上学的なことはなにひとつ信じていない。レオポルドは土地とその居住者の実用主義的な評価と、より「恍惚的な」評価との境界線をまたぎつつも、できるだけ多くの実用主義的な議論だけを提出しようとした。
cf. Oelschlacger 1991;Nash 1987,1989;Norton 1991.
同書は、ノートンのほうが真実に近いと考えている。レオポルドは、自分の書いていることが結論ではなく、新たな総合理論の序論にすぎないことを承知していた。レオポルド以降の多くの環境主義者たちと同様、彼も多元論者であった。彼は自分の主張を弁護するため多くの議論やスタイルを使い、そのおかげで可能なかぎり多くの読者を改宗させることになった、と見なしている。
【場所について】
と、つまり「その場所を特別にしていることを保存」すべきだという彼の考えを語ってくれた。固有性を保全することによって、地球全体の多様性、地球生物多様性の最大化に到達するというのである。ノートンの考えかたも、これに呼応している。すなわち、生態系が遷移して成熟していくままにしておくと、生息場所内の多様性は減少するが、しかしその生息場所内の特殊化した集合は発達する。この有なユニークさは、地球全体の生物多様性に寄与する。
このように考えれば、〈生物多様性〉という用語を、多数の地域固有性をおおい包むものと見ることができる。
と、つまり「その場所を特別にしていることを保存」すべきだという彼の考えを語ってくれた。固有性を保全することによって、地球全体の多様性、地球生物多様性の最大化に到達するというのである。ノートンの考えかたも、これに呼応している。すなわち、生態系が遷移して成熟していくままにしておくと、生息場所内の多様性は減少するが、しかしその生息場所内の特殊化した集合は発達する。この有なユニークさは、地球全体の生物多様性に寄与する。
このように考えれば、〈生物多様性〉という用語を、多数の地域固有性をおおい包むものと見ることができる。
(……以下、続く……)