(メモ・抜粋の羅列になっています110722)
「内在的価値」を、キャリコットは「本質的な価値」とも言い表す。また、『地球の洞察』がリン・ホワイトの『神仕掛けの機械』への長い返答であることから考えて、ホワイトの扱い方は重要である。
また、ホワイトは生態系生態学が華やかなりしころに科学的・技術的なアプローチを批判したことにこそ着目されるべきであるが、キャリコットは、ホワイトがにおわせるユダヤ―キリスト教的な価値観への批判に過剰に反応しているように思われる。
また、ホワイトは生態系生態学が華やかなりしころに科学的・技術的なアプローチを批判したことにこそ着目されるべきであるが、キャリコットは、ホワイトがにおわせるユダヤ―キリスト教的な価値観への批判に過剰に反応しているように思われる。
「権利派エコロジー」に含まれる代表的なものとしては、P・シンガーの「動物開放論(animal liberation)」、T・レーガンの「動物の権利論(animal rights)」、C・ストーンやR・ナッシュの「自然の権利論(natural rights)」などをあげることができる。これらの諸派は理論的には対立を含んでいたが、従来の権利概念を、これまで無視されていた動物や植物(自然の権利になると、岩や風景なども)にまで拡張し、それに伴う道徳的範疇を拡大させていくという方向性で一致している。
ここで再度確認すべきことは、原則として「倫理的エコロジズム」の全てが、まず、人間中心主義からの脱却を目指す倫理的な枠組みを再構成しようとした、という点である。ここでは「権利派エコロジー」も同様である。環境思想では、“価値”という概念を人間などの有用性によって位置づけようとする場合、それを「道具的価値(instrumental value )」という。これに対立するのは、事物には有用性を超えた、それ自身の価値を有するという「内在的価値(intrinsic value)」(または「固有の価値」とも訳される)を認める立場である。「ディープ・エコロジー」は当然後者を強調するが、権利概念を拡張することは、人間の有用性を超えた物事の価値を認めることになり、「権利派エコロジー」もまた、後者の立場に立っているということができる。つまり、原則として「倫理的エコロジズム」のすべては、何らかの形で、内在的価値を認めているのである。
ここで再度確認すべきことは、原則として「倫理的エコロジズム」の全てが、まず、人間中心主義からの脱却を目指す倫理的な枠組みを再構成しようとした、という点である。ここでは「権利派エコロジー」も同様である。環境思想では、“価値”という概念を人間などの有用性によって位置づけようとする場合、それを「道具的価値(instrumental value )」という。これに対立するのは、事物には有用性を超えた、それ自身の価値を有するという「内在的価値(intrinsic value)」(または「固有の価値」とも訳される)を認める立場である。「ディープ・エコロジー」は当然後者を強調するが、権利概念を拡張することは、人間の有用性を超えた物事の価値を認めることになり、「権利派エコロジー」もまた、後者の立場に立っているということができる。つまり、原則として「倫理的エコロジズム」のすべては、何らかの形で、内在的価値を認めているのである。