第二節 宮沢賢治についての最近の二つの考察
●押野武志『童貞としての宮沢賢治』(2003.4 ちくま新書)
題名の挑発的な調子そのままに、著者の思考は「オナニーをした(かもしれない)宮沢賢治」「賢治の性交恐怖」などオナニスムへの偏執を媒介として展開する。
意外と思われるかも知れないが、賢治の他者とのコミュニケーションの様相を童貞と自慰という用語から探索する試みは、賢治の安易な“聖化”へ異を唱えるための一般的な手法であり、青江舜二郎(*1)をはじめとして先行研究は多い。「(童貞であることに)賢治の自己犠牲による万人幸福の願いなどという高邁な思想を読むのは間違いだし、仏教的な禁欲主義から単純に説明できるものではない」(p.9)という断言は、歴史上のどこにも聖人の影を見ない今日の私たちにとってすでに十分に常識的だろう。だが、押野の主要な関心は、狭い意味での賢治論には存しない。むしろ押野にとっての最大の関心は、性欲と「贈与」(p.190 *2)のより汎歴史的問題である。「オナニーのような自己に与える快楽と、自己犠牲的に他者に与える快楽を賢治はどのように配分したのか。……(中略)……贈与が贈与であるためには、見返りや感謝を期待しない無償の行為でなければならないだろう」。無償の行為とは、行為が結果として無償であると同時にさらに行為そのものが根拠をもたないことも含意している」(p.14)という逆説的な「贈与」への疑問に集約される。
論考の順序としては、近代日本における小説家(白樺派がとくに注目される)や宗教者が自慰・童貞というテーマ、または性欲の処理をどのように扱ったかを概観し、オナニーを自閉的行為として否定する傾向へ執拗に疑問を呈し、抗がいつづける。続いて「共依存」「対人恐怖」「醜形恐怖」「摂食障害」「トラウマ記憶」などの精神医学的キーワードを基点としたパトグラフィック-病跡学的なアプローチが行われる。賢治の病跡学的論考の先行研究としては福島章の『宮沢賢治―こころの軌跡』があげられるだろう。福島が賢治を「天才」と称揚しつつ彼の病理を追体験しようと試み、結果的に賢治の生理学的特徴を、彼を称える隠喩の段階にまで引き下げてしまった失敗を踏まえてか、押野はあくまで象徴世界の明快さからこぼれ落ちた、一人称的で交換不能な、それでもなお他者を必要とする「性欲」を保全することを指向する。「性欲というのは、自分の内に帰属するものでありながら、統御するのが困難な外的なものでもあり、空想的にも経験的にも他者を必要とし、ひとりのうちに充足するものではない」(p.10)
押野の病跡学的出発点は、賢治が農学校教師時代に熟読していたハヴロック・エリス(Havelock Ellis /1859-1939)の『性学大系』である。賢治が大量の春画を収集していたことは有名だが、賢治と性科学者ハヴロック・エリスの影響を受けていたことはあまり知られていない。知人や教え子の証言にあるとおり、賢治はエリスの主著『性学大系』を原著ですべて揃えていた。(大正十年にエリスの著作は翻訳されていたにもかかわらず賢治が原著を読みこんだのは、豊富な実例や実験例の部分で報告されている性的倒錯や恍惚の表情などが検閲によって白紙になっていたからだとも考えられる。)その影響については小倉豊文(*3)や大塚常樹(*4)、杉原正子(*5)らによって指摘されている。特に大塚常樹の「「春谷暁臥」論」が賢治のエリス受容に関して精密な先行研究としてあげられるが、信時哲郎の「宮沢賢治とハヴロック・エリス―性教育・性的周期律・性的抑制・優生学―」(*6)も忘れるわけにはいかない。『春と修羅』の作品群の制作日の偏りが、グラフ化するとエリスの提示した性的周期律グラフとほぼ符合する点は、賢治が彼の「性欲」を明快かつ客観的な科学的合理性のもとに詩作に応用しようとした試みを示す。
この科学的合理性こそ、賢治が自身の一人称的な幻覚-ファンタズムを、他者にとっても自分自身にとっても理解-伝達可能な形式で検証するために採用した二つの方便のうちの一つである。(もう一つの方便とは、次章で考察する「法華経」である。)賢治が自身の幻覚-ファンタズム、およびそれを誘発する危険な衝動に科学的に証明された解釈を与えようとしてハヴロック・エリスの性科学に関心を抱いていたことはほぼ間違いない。大塚常樹は、賢治がエリスの著書を読んで最も関心を抱いただろう内容として「性的周期律の現象 (Phenomena of Sexual Periodicity)」の章をあげており(*4) 、教え子であった沢里武治も次のように証言している。(*7)
「ある日、例のごとく机を中にして先生と相対しいろいろのお話をうかがっていたら、先生はやおら立ち上がって戸棚の中から一枚のグラフをお出しになり、芸術と禁欲生活についての線を縦横に引張ったものを私に指し示し、いろいろとご説明下さいました。」
賢治は、彼が体験した事実を詩作のうちに、あるいは詩ではなく「心象スケッチ」として書きとめたあとで、それに科学的な解釈を与えようと試み、禁欲生活を、(そして性欲を、)芸術の原動力の大きな因子として提示する。賢治は彼の一人称的な幻覚-ファンタズムに翻弄されきっているわけではない。寄せては返す衝動に抵抗し、その衝動の周期的な部分を「性欲」として、性科学として秩序づける。それは彼の思考における新しい秩序をもたらしただろう。つまり彼は、彼の病的な状態の周期的変化にしたがって現れる混迷のなかで、数値化されたひとつの導きを手に入れる。
ただし、病跡学的論考の一貫した論理性はこの著作に求めるべきではない。採用されるデータは広範囲に渡り、検証は精密であるものの、押野の考察は主観的な推測を脱していない。例を一つ一つ挙げればきりがないが、賢治が二十一歳の時に徴兵検査で不合格になった体験がトラウマになって、後に摂食障害的な食に対する強迫観念を加速させたと診断するが(p.173・179)、賢治にとってこの事件がどれほどトラウマと言いうるものだったのか否かという問題について、押野が根拠として挙げているのは、「この(徴兵検査の)結果は屈辱的であったに違いない」という主観的な推測に留まる(p.112)。この体験以降、賢治が兵隊や軍事からの回避行動をみせた、あるいは毛嫌いするようになった(反動形成)のであれば、徴兵検査の不合格が賢治にかなりの影響を与えたと推論しされるだろう。しかし、実際にはそのようなことは起こらず、弟や親友保坂嘉内が入隊した時には気軽に兵舎まで面会に行って遊んできたり、書簡を往復させる。また後年の作品「朝に就ての童話的構図」でも軍の命令系統に素朴な愛着を示しており、トラウマと言えるまでの影響を与えたとは言いがたい。また、賢治とトシの関係を「共依存」であると診断するが(p.89)、依存症者と共謀的-利己的支え手の関係を指す「共依存」概念を、「信仰を一つにする」(*8)ことを指向する賢治とトシの関係に当てはめるのは見当違いだろう。もっとも、童貞とオナニーという用語が象徴的な論理照合性をくり返し中断するその状況こそ、意味形成の手前に留まる主観的な推測への寛容を私たちにもたらし、やはり断固として主観性に留まった宮澤賢治の諸作品をさらに楽しませてくれる準備をしてくれるのかもしれない。
●押野武志『童貞としての宮沢賢治』(2003.4 ちくま新書)
題名の挑発的な調子そのままに、著者の思考は「オナニーをした(かもしれない)宮沢賢治」「賢治の性交恐怖」などオナニスムへの偏執を媒介として展開する。
意外と思われるかも知れないが、賢治の他者とのコミュニケーションの様相を童貞と自慰という用語から探索する試みは、賢治の安易な“聖化”へ異を唱えるための一般的な手法であり、青江舜二郎(*1)をはじめとして先行研究は多い。「(童貞であることに)賢治の自己犠牲による万人幸福の願いなどという高邁な思想を読むのは間違いだし、仏教的な禁欲主義から単純に説明できるものではない」(p.9)という断言は、歴史上のどこにも聖人の影を見ない今日の私たちにとってすでに十分に常識的だろう。だが、押野の主要な関心は、狭い意味での賢治論には存しない。むしろ押野にとっての最大の関心は、性欲と「贈与」(p.190 *2)のより汎歴史的問題である。「オナニーのような自己に与える快楽と、自己犠牲的に他者に与える快楽を賢治はどのように配分したのか。……(中略)……贈与が贈与であるためには、見返りや感謝を期待しない無償の行為でなければならないだろう」。無償の行為とは、行為が結果として無償であると同時にさらに行為そのものが根拠をもたないことも含意している」(p.14)という逆説的な「贈与」への疑問に集約される。
論考の順序としては、近代日本における小説家(白樺派がとくに注目される)や宗教者が自慰・童貞というテーマ、または性欲の処理をどのように扱ったかを概観し、オナニーを自閉的行為として否定する傾向へ執拗に疑問を呈し、抗がいつづける。続いて「共依存」「対人恐怖」「醜形恐怖」「摂食障害」「トラウマ記憶」などの精神医学的キーワードを基点としたパトグラフィック-病跡学的なアプローチが行われる。賢治の病跡学的論考の先行研究としては福島章の『宮沢賢治―こころの軌跡』があげられるだろう。福島が賢治を「天才」と称揚しつつ彼の病理を追体験しようと試み、結果的に賢治の生理学的特徴を、彼を称える隠喩の段階にまで引き下げてしまった失敗を踏まえてか、押野はあくまで象徴世界の明快さからこぼれ落ちた、一人称的で交換不能な、それでもなお他者を必要とする「性欲」を保全することを指向する。「性欲というのは、自分の内に帰属するものでありながら、統御するのが困難な外的なものでもあり、空想的にも経験的にも他者を必要とし、ひとりのうちに充足するものではない」(p.10)
押野の病跡学的出発点は、賢治が農学校教師時代に熟読していたハヴロック・エリス(Havelock Ellis /1859-1939)の『性学大系』である。賢治が大量の春画を収集していたことは有名だが、賢治と性科学者ハヴロック・エリスの影響を受けていたことはあまり知られていない。知人や教え子の証言にあるとおり、賢治はエリスの主著『性学大系』を原著ですべて揃えていた。(大正十年にエリスの著作は翻訳されていたにもかかわらず賢治が原著を読みこんだのは、豊富な実例や実験例の部分で報告されている性的倒錯や恍惚の表情などが検閲によって白紙になっていたからだとも考えられる。)その影響については小倉豊文(*3)や大塚常樹(*4)、杉原正子(*5)らによって指摘されている。特に大塚常樹の「「春谷暁臥」論」が賢治のエリス受容に関して精密な先行研究としてあげられるが、信時哲郎の「宮沢賢治とハヴロック・エリス―性教育・性的周期律・性的抑制・優生学―」(*6)も忘れるわけにはいかない。『春と修羅』の作品群の制作日の偏りが、グラフ化するとエリスの提示した性的周期律グラフとほぼ符合する点は、賢治が彼の「性欲」を明快かつ客観的な科学的合理性のもとに詩作に応用しようとした試みを示す。
この科学的合理性こそ、賢治が自身の一人称的な幻覚-ファンタズムを、他者にとっても自分自身にとっても理解-伝達可能な形式で検証するために採用した二つの方便のうちの一つである。(もう一つの方便とは、次章で考察する「法華経」である。)賢治が自身の幻覚-ファンタズム、およびそれを誘発する危険な衝動に科学的に証明された解釈を与えようとしてハヴロック・エリスの性科学に関心を抱いていたことはほぼ間違いない。大塚常樹は、賢治がエリスの著書を読んで最も関心を抱いただろう内容として「性的周期律の現象 (Phenomena of Sexual Periodicity)」の章をあげており(*4) 、教え子であった沢里武治も次のように証言している。(*7)
「ある日、例のごとく机を中にして先生と相対しいろいろのお話をうかがっていたら、先生はやおら立ち上がって戸棚の中から一枚のグラフをお出しになり、芸術と禁欲生活についての線を縦横に引張ったものを私に指し示し、いろいろとご説明下さいました。」
賢治は、彼が体験した事実を詩作のうちに、あるいは詩ではなく「心象スケッチ」として書きとめたあとで、それに科学的な解釈を与えようと試み、禁欲生活を、(そして性欲を、)芸術の原動力の大きな因子として提示する。賢治は彼の一人称的な幻覚-ファンタズムに翻弄されきっているわけではない。寄せては返す衝動に抵抗し、その衝動の周期的な部分を「性欲」として、性科学として秩序づける。それは彼の思考における新しい秩序をもたらしただろう。つまり彼は、彼の病的な状態の周期的変化にしたがって現れる混迷のなかで、数値化されたひとつの導きを手に入れる。
ただし、病跡学的論考の一貫した論理性はこの著作に求めるべきではない。採用されるデータは広範囲に渡り、検証は精密であるものの、押野の考察は主観的な推測を脱していない。例を一つ一つ挙げればきりがないが、賢治が二十一歳の時に徴兵検査で不合格になった体験がトラウマになって、後に摂食障害的な食に対する強迫観念を加速させたと診断するが(p.173・179)、賢治にとってこの事件がどれほどトラウマと言いうるものだったのか否かという問題について、押野が根拠として挙げているのは、「この(徴兵検査の)結果は屈辱的であったに違いない」という主観的な推測に留まる(p.112)。この体験以降、賢治が兵隊や軍事からの回避行動をみせた、あるいは毛嫌いするようになった(反動形成)のであれば、徴兵検査の不合格が賢治にかなりの影響を与えたと推論しされるだろう。しかし、実際にはそのようなことは起こらず、弟や親友保坂嘉内が入隊した時には気軽に兵舎まで面会に行って遊んできたり、書簡を往復させる。また後年の作品「朝に就ての童話的構図」でも軍の命令系統に素朴な愛着を示しており、トラウマと言えるまでの影響を与えたとは言いがたい。また、賢治とトシの関係を「共依存」であると診断するが(p.89)、依存症者と共謀的-利己的支え手の関係を指す「共依存」概念を、「信仰を一つにする」(*8)ことを指向する賢治とトシの関係に当てはめるのは見当違いだろう。もっとも、童貞とオナニーという用語が象徴的な論理照合性をくり返し中断するその状況こそ、意味形成の手前に留まる主観的な推測への寛容を私たちにもたらし、やはり断固として主観性に留まった宮澤賢治の諸作品をさらに楽しませてくれる準備をしてくれるのかもしれない。
●大澤信亮「宮澤賢治の暴力」(『新潮11月号』2007.11 新潮社 *1)
第39回新潮新人賞評論部門受賞作であるこの評論は、詩、童話作品を書きはじめる以前の宮澤賢治について、軍事拠点であった明治末期の盛岡の状況や国柱会の位置づけなどを踏まえつつ、四〇年代戦時下の満州から、現代に至るまでの〈暴力性をおびた〉賢治受容を主題としている。
ただし、そこには賢治作品と戦争と戦後史をめぐる政治-経済的な因子を取り出して、時間の流れを再構成する、いわゆる理論的生産への関心はない。戦時中に賢治が「反戦的だったからではなく、好戦的な現実意識と、矛盾しない」(「宮沢賢治の価値」*2)と苦々しく振り返る吉本隆明を受け、「確かに賢治は好戦的な人物ではなかった。暴力を心底嫌っていた。にもかかわらず、その非暴力的な姿勢が「好戦的な現実意識と、矛盾しない」とはどういうことか」(p.67)という序盤の問いから大澤の論考は始められるが、あくまでも吉本の「熱情」を積極的に焚きつける賢治の「迫り来る死をも恐れなくさせる何か」(p.67)の素描に関心は向けられる。
つまり、ここで目指されているのは、宮澤賢治の過激な暴力性が田中智学を通じて引き出され、受肉され、やがて、非暴力への地平へと至る心性の反転不能な変容を、書簡や証言などの豊富な一次資料、受容文献を駆使して記述的に再体験することである。言い方をかえれば、「暴力を完全に否定していくとどうなるか」「人間にとって暴力とは何か。最終的な審級が物理的な暴力によって決定されているなら、言葉など暴力を担保にしたお喋りでしかないのではないか。だが言葉とはその程度のものなのか」という大澤自身の不穏な問いかけが向けられる言語的交通の場所で、〈暴力〉の考察を、賢治と(そして、大澤と)共になされることが読者には求められる。
様々な資料が縦横に裁断され、接続され、フラッシュバック風に積み重ねられていくこの評論は一つの「賢治論」としてももちろん読めるが、先の『童貞としての宮澤賢治』同様、(そして、本論考「恍惚の技法」と同様)、より普遍的な問題を扱っている。
大澤の作業がそれぞれの形で目指しているのは、〈暴力〉という、私たちにとって不可避な事態の、その不可避さから脱する試みを通じて形成される、あるひとつの精神状態、――すなわち童話「よだかの星」に見られる、殺されるよだかが、それまで自分が多くの生き物を捕食してきたことに慄然とし、自死を試みるような「暴力の循環小数の輪廻を断ち切ろうとすることが結果として自らを滅ぼす」破壊的衝動を再度心象化してみせることにある。
つまり賢治の内在的な破壊的衝動-〈暴力〉との対面こそが、本書の主題に他ならない。しかも正確にいえば、〈暴力〉との対面を通じて賢治の精神を占拠した苦痛の相貌を、言述の内容の水準で確認-検証するというよりも、細断された言述の重層そのものを通じて、その苦痛を大澤自身が実践し、感情状態として再演することが、ここでは重きを置かれている。
そのことからしても、『宮澤賢治の暴力』の章構成は、この大澤の関心と実践そのものに、より正直な整合性を与えている。賢治によって自らの「熱情」を奮い立たせようとする欲望から無縁であれなかった吉本隆明をはじめとする論評を扱う<1:宮澤賢治から出発する/出発した>、また賢治が田中智学に開かれた彼の暴力性を対象化しかね、徴兵検査を頼んだり、同人誌アザリアに「復活の前」と題した不気味な断章を投稿する大正七年(1918)に焦点をしぼる<2:賢治と国柱会>のような章から、苦痛の経験を自分と他者の区別において受容するとき、苦痛の経験そのものが忘却されてしまうという事情を、「よだかの星」のような苦渋に満ちた作品を書いて賢治がなぜ生きつづけられたのかという問いとして考察しはじめる<3:よだかと修羅――あるいは宮澤賢治の暴力>、その考察への賢治の(大澤の)回答である「あらゆる生物のほんたうの幸福」を願うことをくり返し断言する<4:燃えるゾルエンの結晶>、そして〈暴力〉をさらに与える原光景へと立ち返り、遺稿「銀河鉄道の夜」を再加工することで、〈暴力〉を感性の中心に構造化していく経緯を描く<5:銀河鉄道の他者>へと収斂され、また第三者へと開放される。
特に第五章の、
「賢治の暴力性は、智学によって引き出されると同時に保阪によって自らへと向けられた。決定的なのはこのターニング・ポイントであり、それが法華経というかたちを取ったのは偶然に過ぎない。だが、真に「信仰」に値するのはこのターン=転回だけだ」(p.96)
「「あらゆる生物のほんたうの幸福」という願いに他者の光が差し込まれている限り、彼はその公言に何度でも立ち戻り、自分が何を殺し、何を愛したのかを思い出させられるだろう。そのとき私たちは時間と空間を超えて”その現場”を反復し、”その人”と再び新しい約束を交わすことになるだろう」(p.97)
という大澤の視点は本稿のそれと非常に近接しており、私(太田)は驚きを隠せない。
ただしこれは大澤と私の論理展開の指向する因子は別である。大澤が整理する自己破壊の二つの回路は以下のようなものである。(p.91)
A:殺す自分を肯定→殺す他人を肯定→殺される自分を肯定→無限の自己破壊=? (「なめとこ山の熊」「烏の北斗七星」)
B:殺す自分を否定→無限の自己破壊→殺す他者を否定=全否定 (ex.菜食主義、「或る農学性の日記」)
上記の二つには賢治の創作品群に暢気とさえ言える肯定的な調子をもたらす因子は不在である。賢治がその不在を受け入れたから、後年の過労に端を発する病死に至ったのだと言われればそれまでだが、『童貞としての宮澤賢治』で扱われた性欲という快楽と密接な〈暴力〉もその生々しさや不気味さを、上記の図は最初から刈り取ってしまう。
とは言うものの、賢治とともに思考するという点で近年においては最高水準に位置すること間違いのない大澤の論を踏まえて、以降の本論は展開される。
第39回新潮新人賞評論部門受賞作であるこの評論は、詩、童話作品を書きはじめる以前の宮澤賢治について、軍事拠点であった明治末期の盛岡の状況や国柱会の位置づけなどを踏まえつつ、四〇年代戦時下の満州から、現代に至るまでの〈暴力性をおびた〉賢治受容を主題としている。
ただし、そこには賢治作品と戦争と戦後史をめぐる政治-経済的な因子を取り出して、時間の流れを再構成する、いわゆる理論的生産への関心はない。戦時中に賢治が「反戦的だったからではなく、好戦的な現実意識と、矛盾しない」(「宮沢賢治の価値」*2)と苦々しく振り返る吉本隆明を受け、「確かに賢治は好戦的な人物ではなかった。暴力を心底嫌っていた。にもかかわらず、その非暴力的な姿勢が「好戦的な現実意識と、矛盾しない」とはどういうことか」(p.67)という序盤の問いから大澤の論考は始められるが、あくまでも吉本の「熱情」を積極的に焚きつける賢治の「迫り来る死をも恐れなくさせる何か」(p.67)の素描に関心は向けられる。
つまり、ここで目指されているのは、宮澤賢治の過激な暴力性が田中智学を通じて引き出され、受肉され、やがて、非暴力への地平へと至る心性の反転不能な変容を、書簡や証言などの豊富な一次資料、受容文献を駆使して記述的に再体験することである。言い方をかえれば、「暴力を完全に否定していくとどうなるか」「人間にとって暴力とは何か。最終的な審級が物理的な暴力によって決定されているなら、言葉など暴力を担保にしたお喋りでしかないのではないか。だが言葉とはその程度のものなのか」という大澤自身の不穏な問いかけが向けられる言語的交通の場所で、〈暴力〉の考察を、賢治と(そして、大澤と)共になされることが読者には求められる。
様々な資料が縦横に裁断され、接続され、フラッシュバック風に積み重ねられていくこの評論は一つの「賢治論」としてももちろん読めるが、先の『童貞としての宮澤賢治』同様、(そして、本論考「恍惚の技法」と同様)、より普遍的な問題を扱っている。
大澤の作業がそれぞれの形で目指しているのは、〈暴力〉という、私たちにとって不可避な事態の、その不可避さから脱する試みを通じて形成される、あるひとつの精神状態、――すなわち童話「よだかの星」に見られる、殺されるよだかが、それまで自分が多くの生き物を捕食してきたことに慄然とし、自死を試みるような「暴力の循環小数の輪廻を断ち切ろうとすることが結果として自らを滅ぼす」破壊的衝動を再度心象化してみせることにある。
つまり賢治の内在的な破壊的衝動-〈暴力〉との対面こそが、本書の主題に他ならない。しかも正確にいえば、〈暴力〉との対面を通じて賢治の精神を占拠した苦痛の相貌を、言述の内容の水準で確認-検証するというよりも、細断された言述の重層そのものを通じて、その苦痛を大澤自身が実践し、感情状態として再演することが、ここでは重きを置かれている。
そのことからしても、『宮澤賢治の暴力』の章構成は、この大澤の関心と実践そのものに、より正直な整合性を与えている。賢治によって自らの「熱情」を奮い立たせようとする欲望から無縁であれなかった吉本隆明をはじめとする論評を扱う<1:宮澤賢治から出発する/出発した>、また賢治が田中智学に開かれた彼の暴力性を対象化しかね、徴兵検査を頼んだり、同人誌アザリアに「復活の前」と題した不気味な断章を投稿する大正七年(1918)に焦点をしぼる<2:賢治と国柱会>のような章から、苦痛の経験を自分と他者の区別において受容するとき、苦痛の経験そのものが忘却されてしまうという事情を、「よだかの星」のような苦渋に満ちた作品を書いて賢治がなぜ生きつづけられたのかという問いとして考察しはじめる<3:よだかと修羅――あるいは宮澤賢治の暴力>、その考察への賢治の(大澤の)回答である「あらゆる生物のほんたうの幸福」を願うことをくり返し断言する<4:燃えるゾルエンの結晶>、そして〈暴力〉をさらに与える原光景へと立ち返り、遺稿「銀河鉄道の夜」を再加工することで、〈暴力〉を感性の中心に構造化していく経緯を描く<5:銀河鉄道の他者>へと収斂され、また第三者へと開放される。
特に第五章の、
「賢治の暴力性は、智学によって引き出されると同時に保阪によって自らへと向けられた。決定的なのはこのターニング・ポイントであり、それが法華経というかたちを取ったのは偶然に過ぎない。だが、真に「信仰」に値するのはこのターン=転回だけだ」(p.96)
「「あらゆる生物のほんたうの幸福」という願いに他者の光が差し込まれている限り、彼はその公言に何度でも立ち戻り、自分が何を殺し、何を愛したのかを思い出させられるだろう。そのとき私たちは時間と空間を超えて”その現場”を反復し、”その人”と再び新しい約束を交わすことになるだろう」(p.97)
という大澤の視点は本稿のそれと非常に近接しており、私(太田)は驚きを隠せない。
ただしこれは大澤と私の論理展開の指向する因子は別である。大澤が整理する自己破壊の二つの回路は以下のようなものである。(p.91)
A:殺す自分を肯定→殺す他人を肯定→殺される自分を肯定→無限の自己破壊=? (「なめとこ山の熊」「烏の北斗七星」)
B:殺す自分を否定→無限の自己破壊→殺す他者を否定=全否定 (ex.菜食主義、「或る農学性の日記」)
上記の二つには賢治の創作品群に暢気とさえ言える肯定的な調子をもたらす因子は不在である。賢治がその不在を受け入れたから、後年の過労に端を発する病死に至ったのだと言われればそれまでだが、『童貞としての宮澤賢治』で扱われた性欲という快楽と密接な〈暴力〉もその生々しさや不気味さを、上記の図は最初から刈り取ってしまう。
とは言うものの、賢治とともに思考するという点で近年においては最高水準に位置すること間違いのない大澤の論を踏まえて、以降の本論は展開される。
●押野武志『童貞としての宮沢賢治』
(1)青江舜二郎『宮澤賢治―修羅に生きる』(講談社現代新書 1974)
(2)贈与とは物を与えることであるが、一方が他方に贈与し続けるということは稀であって、贈与には絶えず、贈る/贈られるという相互性がある。さらに言えば、モース-バタイユが北米先住民のポトラッチを観察した通り、被贈与者は「贈られた物以上の物を贈与者に送り返す」ことが贈与の基本的構造である。つまり贈与は負債の意識とは切り離せず、絶えず交換のエコノミーに絡め取られる。やがて贈与は次第に儀礼化・制度化され、限りなく等価交換に近い形で、原初にあった善意や感謝などの感情をその運動のうちに忘れ去るだろう。そのため賢治は、「贈与が贈与に留まるためには、それが贈与であってはならない」というベイトソンの二重拘束のようなパラドックスに直面することになる。
(3)小倉豊文『宮沢賢治』「宮沢賢治の愛と性」(洋々社 1999)
(4)大塚常樹『宮沢賢治 心象の宇宙論』「「春谷暁臥」論 《春》の象徴と、フロイト、エリス」(朝文社 1993)
(5)杉原正子『賢治研究』「賢治とエリス (上・下)」(1994,1995)
(6)「宮沢賢治とハヴロック・エリス―性教育・性的周期律・性的抑制・優生学―」(『神戸山手大学環境文化研究所紀要』vol.6 2002.3)
(7)関登久也『賢治随聞』(角川書店 1960)
(8)「無声慟哭」(1922.11)
(1)青江舜二郎『宮澤賢治―修羅に生きる』(講談社現代新書 1974)
(2)贈与とは物を与えることであるが、一方が他方に贈与し続けるということは稀であって、贈与には絶えず、贈る/贈られるという相互性がある。さらに言えば、モース-バタイユが北米先住民のポトラッチを観察した通り、被贈与者は「贈られた物以上の物を贈与者に送り返す」ことが贈与の基本的構造である。つまり贈与は負債の意識とは切り離せず、絶えず交換のエコノミーに絡め取られる。やがて贈与は次第に儀礼化・制度化され、限りなく等価交換に近い形で、原初にあった善意や感謝などの感情をその運動のうちに忘れ去るだろう。そのため賢治は、「贈与が贈与に留まるためには、それが贈与であってはならない」というベイトソンの二重拘束のようなパラドックスに直面することになる。
(3)小倉豊文『宮沢賢治』「宮沢賢治の愛と性」(洋々社 1999)
(4)大塚常樹『宮沢賢治 心象の宇宙論』「「春谷暁臥」論 《春》の象徴と、フロイト、エリス」(朝文社 1993)
(5)杉原正子『賢治研究』「賢治とエリス (上・下)」(1994,1995)
(6)「宮沢賢治とハヴロック・エリス―性教育・性的周期律・性的抑制・優生学―」(『神戸山手大学環境文化研究所紀要』vol.6 2002.3)
(7)関登久也『賢治随聞』(角川書店 1960)
(8)「無声慟哭」(1922.11)
●大澤信亮「宮澤賢治の暴力」
(1)未だ単行本として出版されていないため、ページ数はすべて『新潮11月号』と対応している。
(2)吉本隆明『初期ノート』(試行出版部 1967)
(1)未だ単行本として出版されていないため、ページ数はすべて『新潮11月号』と対応している。
(2)吉本隆明『初期ノート』(試行出版部 1967)