犠牲の秘密、または人間は彼が食べるところのものである(1862年)
※以下、全文
「人間は彼が食べるところのものである」という命題は、私によってモレショットの『栄養手段論--民衆のために』(1850年)にかんする紹介批評のなかで言表されたものであって、熟知されているように私のとっくに「忘れられている」諸著書の方から今日もなお若干の人々の耳にひびいて来る唯一の命題である。しかしこの命題は単にドイツの哲学および文化の名誉を傷つける不協和音として若干の人々の耳にひびいて来るにすぎない。しかしまさにこの不協和音こそが私にたいへん気持ちがよいユーモアを感じさせたので、私はこの名高い語呂遊びを独自な一論文のテーマにすることをやめることができなかった。しかし私の諸著書に加えられる主要な非難は私の諸著書が宗教の謎を解いたということである。また私は人間の精神の他のあらゆる謎をもっぱら宗教に対する関係で(もっぱら宗教を根拠または誘因として)考察し、且つしかも私が熟知されているように全くおそろしい唯物論者であり、それの最も粗野な形式における素材にたいへん沈潜している。そのことの結果私はもはや、人間はただ食べるisstだけではなくてまた飲みtrinktもするということをさえも知らないとされているほどである。ところで飲む(trinkということはあるistということと語韻が合わないのである。--これらの理由によって
私はまた直ちに胃病学(胃にかんする教説・口腔にかんする教説)の対象を神学の対象にし、そのことによってまたもちろん神学の対象を胃病学の対象にした。しかし私はまさにこのために、「いったいお供えの食物およびお供えの飲物の真の意味は何であるか?」という依然として論争すべき問題に対して、もとより簡単ではあるがしかし決定的な寄与をなしたという希望をいだいて、得意になっている。
