前回発表から
1. ウェルビカミング概念のまとめ
森下(2003)は、「健康への欲望」を起点として連続的に広がる「安楽への欲望」に私たちが「果てしなく」駆り立てられているという状況に対して、欲望間の適否を区別し、「健康」の基準を「自分の身体感覚として明瞭にする試み」として「ウェルビカミング」概念を提唱した。ウェルビカミングとしての健康は、「自己回復の循環生成」を中軸とし、「活力の循環生成」、「死と再生の生命循環」の三重の循環生成からなる(図、森下2003)。
「自己回復の循環生成」の特徴は、「否定性・消極性」と「個別性」にある。身体が病いや傷ついた状態になると、これに伴う「苦しみ」のパトスが起点となり、以前の状態への回復を目指す循環生成が始まる。回復すると「安らぎ」のパトスを束の間のこして回復された状態は意識から消失し、「安らぎ」のパトスもやがて消える。「自己回復の循環生成」は、顕在的には苦しみから始まって再び苦しみに終わるという意味で否定的・消極的である(ただし、価値的には回復と快さが選考する)。
また、「自己回復の循環生成」の全体は、ひとりひとりの身体状態と感受性の際を反映する。このことから、病気や健康に関しては統計的に処理できない「自分の病気」「自分の健康」にこだわらざるをえない。また自分の病気・健康は特定の時間・空間の中での動的な安定性・均衡・平衡であるから、自分の内部でも年齢や生活環境の変化の中で変動する。この意味で「自己回復の循環生成」は徹底して個別的な出来事である。
また、「自己回復の循環生成」の全体は、ひとりひとりの身体状態と感受性の際を反映する。このことから、病気や健康に関しては統計的に処理できない「自分の病気」「自分の健康」にこだわらざるをえない。また自分の病気・健康は特定の時間・空間の中での動的な安定性・均衡・平衡であるから、自分の内部でも年齢や生活環境の変化の中で変動する。この意味で「自己回復の循環生成」は徹底して個別的な出来事である。
これに対し、「活力の循環生成」は気力・元気・活気・快活といった気分の賦活・活性化を意味し、これによって「積極的健康」が支えられる。「自己回復の循環生成」が確保されることで支えられる「活力の循環生成」が、派生的な欲動群(性的欲動、保護/庇護の欲動、自己拡張の欲動)を深津氏、さらに(外的表象への依存を介して)欲動群を発生させる。逆に欲望や欲動を通じて刺激された「活力の循環生成」が、今度は「回復への欲動」を刺激することで「自己回復の循環生成」を支える。ここで、健康の精神的次元と社会的次元は、「活力の循環生成」に結びついている。
最後に「死と再生の生命循環」とは、健康観に内在されるべき生命観である。この視点を導入することで、単なる生命の維持・回復限定の治療・元気一点張りの健康増進・幸福と混同される健康至上主義(ヘルシズム)の偏狭さ・不老不死へのこだわりを回避できる。
以上のことから、「回復の循環」と「活力」は、基本的にひとりひとりに関わる個別的なものであるといえる。その上で、「回復の循環」は身体により注目し、身体の危機とそこからの回復という循環が健康の中軸とされている。もちろんここには「苦しみ」や「安らぎ」のパトスが伴い「精神」が排除されることはあり得ないが、森下は「健康の精神的次元と社会的次元」を「回復の循環」が確保された上での「活力」に結び付けている。
2. 身体と自然の直接的かかわりについて
前回考えた仮説は、「自然と直接的・身体的に関わること」にはどのような意味があるのか(または無いのか)という疑問に答えるためのものだった。それは、①ウェルビカミングの三重の循環を確保することが身体的に望ましい、②そのうちの「活力の循環生成」を確保するために「身体の活性化」が必要、③②を達成するためには自然的環境が最適、というものである。この仮説について検討したい。
ひとまず①については正しいものとしたい(ただし一人ひとりがどうやってこれを“体感”できるのかという問題がある)。②について補足すれば、「身体の活性化」とは中枢神経系の自発的活動と、その他身体システムとの相互作用を活性化することで、これは派生的な欲動群のうちの「自己拡張の欲動」によって賦活される。このためには身体の知覚システムを総動員して環境と関わることが必要であると考えられるから、③自然的環境が選ばれる。ここでの問題点は、現実の一人ひとりにおいては「自己拡張の欲動」が必ず「身体の活性化」に向かうわけではないことと、最適な環境として自然的な環境が選ばれる必然性がないことである。
一点目については、ウェルビカミングの循環をどうやって自分の身体感覚として明確にすることができるのかという問題でもある。これについては、「なんとなく」身体を動かしたいとか、全面コンクリートの部屋では「息苦しい」といった個別的な感覚に頼るほかないかもしれない。ただここで周囲に自然的環境がある場合とない場合とでは選択が変わってくるだろう。
二点目は、この観点からすれば、身体の知覚が外界を捉えるうえでの特徴(ある種のステレオタイプで捉える)から、必ず自然的環境でなければならないということはできない。人工的な環境においても当然知覚のシステムは働いているし、リアルと区別のつかない仮想空間なら尚更違いはない。
しかし、自然的環境においてはそこに「いのち」があることから、それに対する関わり方において身体的にも違いがでてくる可能性がある。対象が生きているものである場合とそうでない場合において、知覚の仕方に違いがでてくるのではないか。
しかし、自然的環境においてはそこに「いのち」があることから、それに対する関わり方において身体的にも違いがでてくる可能性がある。対象が生きているものである場合とそうでない場合において、知覚の仕方に違いがでてくるのではないか。
3. 身体と他者・社会とのかかわりについて
森下は、ウェルビカミング概念における自己と他者との関係について、他者を同様の循環を共有する「ウェルビカミングの極」と捉える。「他者もウェルビカミングを共有する」という信念は、「自己回復の循環生成」における自己のケアの延長として、傍らにいる危機的状態の他者をケアするという、「回復への欲動」の広がりから生まれるとする。この認識のもとに、さらに「活力の循環生成」によって賦活される欲動・欲望群に促されて他者と関わっていくのである。
「活力の循環生成」を確保するためには、他者や社会とのかかわりを欠かすことができない。関連する欲動・欲望群の間にどのように線引きできるかを考える必要がある。
また、傍らにいる他者への「回復への欲動」の広がりは、自然にそうなるものであるとはいえない。これは「共感」と言い換えられると思うが、このような「共感」はどうやって達成できるのか。
感想・論点
「個々人の問題」にどう答えるか
卒論の構成(案)
『「いま、ここにいる私」の意味』(仮)
序章
1. 「いま、ここにいる私」
2. 「いま、ここにいる」感覚の希薄化とその問題点
第一章 「私」の歴史性
1. 歴史を顧みることの意味と意義
2. 日本・日本人
3. 自然観と歴史観
4. 歴史の発展的継承
第二章 「私」の身体性
1. “こころ”と“からだ”
2. 身体のあり方―健康
3. 身体と自然
4. 身体と他者
5. 都市における身体
終章
1. 歴史を持つ身体である「私」のあり方
2. 「いま、ここにいる」感覚の回復
参考文献
網野善彦『「日本」とは何か』講談社学術文庫2008
内山節『共同体の基礎理論』農文協2010
内山節『自然・労働・協同社会の理論』農文協1989
加藤周一『日本人とは何か』講談社学術文庫1976
門脇厚司『社会力を育てる―新しい「学び」の構想』岩波新書2010
亀山純生『人間と価値』青木書店1989
亀山純生『環境倫理と風土―日本的自然観の現代化の視座』大月書店2005
桑木敏雄『空間と身体―新しい哲学への出発』東信堂1998
竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』ちくま新書2009
種村完司『心―身のリアリズム』青木書店1998
ピンカー,S『心の仕組み(上)』NHKブックス2003
ベネディクト,R、角田安正訳『菊と刀』光文社古典新訳文庫2008
フロム,E、日高六郎訳『自由からの逃走』東京創元社1951
茂木健一郎『脳と仮想』新潮文庫2007
宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫1984
森下直貴『健康への欲望と<安らぎ>―ウェルビカミングの哲学』青木書店2003
レルフ,E、高野岳彦『場所の現象学―没場所性を越えて』ちくま学芸文庫1999
                                
内山節『共同体の基礎理論』農文協2010
内山節『自然・労働・協同社会の理論』農文協1989
加藤周一『日本人とは何か』講談社学術文庫1976
門脇厚司『社会力を育てる―新しい「学び」の構想』岩波新書2010
亀山純生『人間と価値』青木書店1989
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桑木敏雄『空間と身体―新しい哲学への出発』東信堂1998
竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』ちくま新書2009
種村完司『心―身のリアリズム』青木書店1998
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ベネディクト,R、角田安正訳『菊と刀』光文社古典新訳文庫2008
フロム,E、日高六郎訳『自由からの逃走』東京創元社1951
茂木健一郎『脳と仮想』新潮文庫2007
宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫1984
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レルフ,E、高野岳彦『場所の現象学―没場所性を越えて』ちくま学芸文庫1999
