第4章 現代日本の宗教批判の視座 (p.131)
宗教の人間的意義は宗教の人間抑圧の可能性と本質的にセット
① 宗教が原理的にはらむ否定的側面を明らかに
② 現代日本における宗教批判の具体的論点を確認
③ これからの宗教批判のあり方と意味について問題提起
1 宗教批判の基本視点 (p.131)
宗教の人間的意義の固有の特徴は、超越的威力によって諸個人の生の場面を意味づけ、生に関わる問題を解決するという点にあった。(前章)
→ だが同時に、まさにこの固有の特徴が、宗教が人間を抑圧する場合のテコ
諸個人の自己超越的力への依存性と宗教 (p.131)
考察すべき焦点は、
→ ①超越的威力による生の諸問題の解決という枠組みがなぜ人間の抑圧をもたらすのか。
②それは本質的に避けられえないのか。
焦点は、この私(たち)のこの生の問題・苦悩の解決という実践の地平におかれねばならない。
宗教の特色は、複雑な依存関係や欲求実現の要因を人間や自然を超越した存在の威力と抽象的に理解し、象徴的行為を介してこの威力と関わることで欲求・願望を実現するふるまい
実践の観点に立てば、以下の二つを同時に満たすか否かが非宗教と宗教の分岐点
(1) 依存関係や自己超越的存在・力を人間と自然という現実的存在を総括するカテゴリーか、人類や自然を超越した存在者という想像的存在のカテゴリーか
(2) 諸個人がこの超人間的超自然的威力と関わると信じ、それを象徴的行為によって表現するか否か
宗教が人間抑圧的になる理由 (p.133)
理念が人間抑圧的となるのは、その理念に基づく人間の具体的行為と社会制度による。
(人間抑圧とは基本的には、人間らしい生存への諸個人の自由な活動を力によって抑えこんで苦悩を与えること)
問題は、宗教は超越的威力への信仰を理念とするがゆえに、諸個人にこの意味で抑圧的な制度・行動を必ずもたらすのか否か
→ 結局はこの現実世界に生きる宗教者、特に宗教的権威者の、現実の抑圧や苦悩へのセンスと理解が問題
宗教が抑圧的か否かを検討する上でなお残る問題
→ 宗教的世界や宗教的関係においては超越者が主体。この宗教の本質構造は、結局は宗教的権威者・指導層による一般民衆の支配・抑圧を必然的に引き起こすことにならないのだろうか。
宗教の諸タイプの両義性 (p.135)
宗教が必然的に抑圧的になるか否かについて、欲求の宗教的解決の3タイプに即して検討
① 生活上の個別的欲求・願望の実現やその心理的保障(術の宗教/国家宗教・霊術宗教)
② 自己確証や共同性の確保など全人格的な欲求(信の宗教/天蓋的宗教)
③ 社会的文化的儀礼・冠婚葬祭(たしなみの宗教/社会や共同体による強制的儀礼・天皇教)
宗教的観念の人間抑圧の可能性 (p.137)
現代宗教が人間抑圧的になる可能性は、以下の原理に対応
① 諸個人の自由・平等
② 生存権
③ その保障としての科学技術と合理的民主主義的な社会制度
この原理は特に近代において、絶対王政や国家宗教、国家主義の社会体制、階級支配、民族の帝国主義的支配、人種差別・性的差別その他の弱者抑圧システムのもたらす悲惨と戦い、それらを克服する過程で豊かにされてきた。
→ 地球上の諸地域や諸個人の価値観の相違や文化的歴史的個性を超えて、21世紀においても基本的に共有すべき“普遍的価値”
3原理を確認し、なお再考すべき論点として、
・ 超越的威力による問題解決を志向することは、諸個人の他者依存的メンタリティや神秘主義的志向性を温存し増幅することにならないか。
・ 結局は諸個人の生の主体的ふるまいを抑制・阻害することではないか。
・ まして信の宗教のように全人格的に超越者に服従する場合はなおさらではないか。
・ 超越者依存型の心性ゆえに、自己・具体的関係者以外の他者一般(特に、見えないシステム)に容易に依存(服従)する温床となるのでないか。
宗教とイデオロギーのリンク (p.139)
しかし、これは宗教のもつ潜在的な可能性の問題であるにすぎない。
→ それが顕在化するにはこの可能性を現実化する媒体が不可欠
諸個人の主体性を宗教ゆえに阻害し支配への依存に誘導する回路と見るのは、
・ 再び啓蒙主義的宗教観に陥る。
・ 人間の本来の姿を能動的・自立的存在と短絡し、強い単独の個人を一面的に理想化
自然・社会・他者との相互関係の中で生きうる諸個人は、これらへの受動性・依存性を前提としてこそ初めて能動的主体的にふるまえる。(第3章)
→ それゆえ、親密圏や共同関係など生の場面での受動性と依存関係の確保が現代的意義をもち、そこで宗教もまた人間的意義の可能性をもちうる。
近代的個人主義の観念に呪縛されて自己を自立的能動的な主体だと信じこんだ“強い個人”は、かえって“見えない権威”や抑圧システムに絶対服従していく。
→ 超越的威力への依存という観念的枠組みを特徴とする宗教だけでなく、個人の自立という観念的枠組みをもつ近代的ヒューマニズムも、同様に諸個人を権力や人間抑圧システムへの服従へとうながす心理的思想的な温床
問題なのは、諸宗教の具体的な宗教的行動様式において市場原理至上主義イデオロギーとリンクすることで、諸個人の主体性を解体ないしいっそう弱体化することになる点
2 現代日本の宗教批判の中心的論点 (p.141)
国家宗教の温存強化の批判 (p.141)
天皇教はいわばソフトな国家宗教として温存され、さらにハードな形でも新たに再構築されようとしている。
① 天皇家の宗教・祭祀がなお国家行事とされている。
→ 政教分離原則に違反。国民の信仰や信条がますます多様化。
② 首相はじめ閣僚の伊勢神宮・靖国神社への公式参拝が強化されつつある。
→ 歴代首相が強行してきた公式参拝が、「君が代」の国家制定のように制度化されると、国民・諸個人は信仰・信条の自由をいっそう深刻に抑圧される。
③ 天皇教が道徳の根幹として“復活”し、学校教育を通じて国家的に強行されている。
・ “豊かな社会”の“道徳的崩壊”→道徳教育の宗教教育化。天皇教教育が“復活”
・ “日本人のアイデンティティ”教育の中核に天皇崇拝がすえられている。
自治体の宗教関与と民俗儀礼非宗教論の批判
(p.145)
以上のような天皇教の国家宗教としての温存・強化に対しては、政府・マスコミ批判とともに、国民が天皇教を実質的に受容する思想的テコに批判の目を向ける必要がある。
① 天皇崇拝は宗教問題でなく道徳問題だという論理
② 天皇儀礼は日本文化の伝統的民俗儀礼であり、天皇崇拝は日本文化の象徴的体現者(文化的天皇)の尊重という意味だから、宗教ではないという論理
天皇教の国家宗教化批判と同時に、自治体や社会の各レベルの公共団体の特定宗教への加担や民俗・習俗への宗教的な関与の批判もなされねばならない。
・ 政教分離原則および公共圏の非宗教原則。習俗的宗教儀礼は宗教
・ 天皇儀礼も伝統文化として重要だというなら、伝統芸能と同様に文化保護のカテゴリーで扱えばよいことで、それは象徴天皇制の道徳的文化的理由や、まして国家宗教化の理由にはならない。
→ 逆に強調すべきは、現在の象徴天皇制は単に政治制度であり、天皇は特殊な国家公務員であるにすぎず、公職と私事は厳密に区別されねばならない。
宗教による政治支配と天蓋的宗教の批判 (p.147)
国家宗教の批判は、特定宗教(ex.オウム真理教)が国家・公共団体や政治の世界を支配することへの徹底的批判とセット
→ 特定宗教の国家・政治支配に至る根幹の問題は、信者のライフスタイルを教祖(や宗教的指導者)が全面的に支配し、信者を絶対服従させる天蓋的宗教の深刻さ
まず何より批判されるべきは、教団と政党・政治団体との融合や政教一致の問題
→ 政治団体・政党は国家権力とは影響力が違うという理由から従来あまり批判対象とされなかったが、宗教のあり方の問題としては国家宗教の抑圧性・反民主主義性と同質
宗教が諸個人の現実の生の苦悩と問題を解決する“実践”である限り、その延長上に社会的解決や制度改善を宗教者や教団が政治的に要求するのはあってしかるべき
→ 特定宗教が政治権力の獲得を目的とする政党を創りこれを支配することは民主主義社会では断じてあってはならない。
教団や宗教者がその宗教的理念に基づいて政治に関与する場合、政界と宗教界、政党・政治団体と教団・宗教団体が組織的・理念的に相互独立性を確保することが大前提
→ その上で、たとえば靖国神社国営化や戦争協力など、個別の政治的問題や政策に対して宗教者・教団として広く国民・政界に働きかけ、政党などとは個別的で部分的な問題ごとの一時的な“協力”要請にとどめるべき
人権侵害とカルト批判・天蓋宗教化批判(p.150)
現代の宗教批判の論点として、急いで確立すべきは、宗教が市民生活レベルで引き起こす人権侵害と抑圧である。これには二つの側面がある。
① 教団外の市民に対する人権侵害・抑圧
→ 自己の信ずる宗教の世界と行動を“真実”と絶対化して、他の信者・市民社会を“虚偽と悪”と位置づける宗教的独善主義の問題
② 教団が信者に対して行う人権侵害・抑圧
→ 宗教内人権抑圧の問題
批判の基本は、宗教の人間的意義の原点に立ち返りその対極から逆照射されるべき
→ 宗教が現実的に信者の人間らしい生を破壊する構造になっているか否か
→ この点で示唆に富むのは、
・ 信仰の自由は子どもの生と成長を抑圧する場合は保留されるべき(山口1998)
・ 自由(権)の無条件前提論(自由には“奴隷になる自由”や“自由を売り渡す自由”は含まれず、“自己決定の自由”には生を否定する自由は含まれない)