著者の基本的な問題意識
「なぜ、天皇は滅びなかったのか」?
「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか」?
「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか」?
本書の概要[まえがき~十一]
近世以前の列島において、共通の原理、「自由」と「平和」とを表現する「無縁・公界・楽」という言葉が存在した。
この「自由」と「平和」は、近代西欧の自由と平和と同一のものではないが、その理念の基盤となるものであり、自由と平和が理念として自覚されるとともに滅びていった「原始以来の」原理である。
この「自由」と「平和」は、近代西欧の自由と平和と同一のものではないが、その理念の基盤となるものであり、自由と平和が理念として自覚されるとともに滅びていった「原始以来の」原理である。
こどもの遊びにみられる「原理」[一]
- 「エンガチョ」
「エンきーった」というまじないをすると「エンガチョ」が付かなくなる⇒「縁切り」
- 「スイライカンジョー(水雷・艦長)」、「海戦」
「陣」に入ったり、「大将」に触れたりすると、安全になったり、戦闘力を回復できる
- デンマークの子供の遊び
「helle(避難所)」と叫ぶと鬼はその人を捕まえられなくなる
「エンガチョ」の「縁切り」は「もともと『縁』と無関係なもの、『縁』を拒否したものの強さと明るさ、その生命力を示す」といえる。
同様に、これら子供の遊びには「そこにふれ、またとびこむと、外の勝負、戦闘とは関係なくなり、安全になる場所や人、また[…]戦闘力、活力を回復しうるような空間や人間」という「原理」が共通してみられる。
同様に、これら子供の遊びには「そこにふれ、またとびこむと、外の勝負、戦闘とは関係なくなり、安全になる場所や人、また[…]戦闘力、活力を回復しうるような空間や人間」という「原理」が共通してみられる。
このような「原理」は人間の社会やその歴史に深い根を持っているのではないか?
近世の縁切寺における「自由」[二]
縁切寺
江戸時代、女性には離婚権がなかったが、妻が離婚の意思を積極的に貫くための有効な手段として、縁切寺への駆込が行われていた。(鎌倉松ヶ岡の東慶寺、上野徳川の満徳寺)
この場所は「離婚を望む女性が、門内に草履でも櫛でも、身につけたものを投げ入れたとたん、追手はその女性に手をかけることもできなくなる」という寺法によって支えられていた。
この場所は「離婚を望む女性が、門内に草履でも櫛でも、身につけたものを投げ入れたとたん、追手はその女性に手をかけることもできなくなる」という寺法によって支えられていた。
厳しい規律のもとでの「自由」と、権力や武力によらない「保護」が存在した
また、福島・守山藩では、「罪を犯したものがその菩提寺、あるいは氏神の神職の家に駆けいり、『寺抱え』となることによって、藩の追求を逃れ、処罰を受けずに済む慣行」があった。
罪人が世俗と縁の切れた場に駆け入ることによって救われた
罪人が世俗と縁の切れた場に駆け入ることによって救われた
縁切の原理を持つ場の特質(後半で詳述)
尼寺⇒女性性[十八]
禅宗・時宗・公方祈願所⇒遍歴の勧進上人[十五]
ある特定の「家」[二十]
「辺境」
漁民の「入会海」
禅宗・時宗・公方祈願所⇒遍歴の勧進上人[十五]
ある特定の「家」[二十]
「辺境」
漁民の「入会海」
「自由」の場
これらの「自由」の場は、江戸後期や明治に入ると次第に権力によって圧迫され、その管理下に置かれ消滅していく。また、罪人の駆込寺が同時に「牢獄」となっていったように、その内実も退廃していった。しかし逆に、時代が遡れば遡るほど、このような「自由」の場や人々はその生命力を増してくる。
{「『自由』の場や人々が生き生きと活動し、機能していた時期があったと想定し、それを追及してみることは、十分に見通しのあること」である
}また、「もしも文化が、人間の多少とも自由な精神活動の所産であるとするならば、江戸時代の文化といいうるもの、絵画・文学・演劇等等の大部分が、こうした〔「自由」の〕場を媒介としてしか生まれえなかったこと」も、以上の見方の正当性を物語っているといえる。
{「『自由』の場や人々が生き生きと活動し、機能していた時期があったと想定し、それを追及してみることは、十分に見通しのあること」である
}また、「もしも文化が、人間の多少とも自由な精神活動の所産であるとするならば、江戸時代の文化といいうるもの、絵画・文学・演劇等等の大部分が、こうした〔「自由」の〕場を媒介としてしか生まれえなかったこと」も、以上の見方の正当性を物語っているといえる。
「無縁所」と呼ばれた場所[三~六]
「縁切の原理」と「無縁所」
若狭の正昭院万徳寺には、罪人の走入りが戦国大名に認められた駆入寺だった。この寺は「無縁所」であるとされていた。
戦国時代、縁切の原理は「無縁」といわれた
周防の禅昌寺、京の阿弥陀寺なども同様に「無縁所」と呼ばれていた。
周防の禅昌寺、京の阿弥陀寺なども同様に「無縁所」と呼ばれていた。
「無縁所」の特徴
世俗の主従の縁や、貸借関係が切れる⇒駆け入り、徳政免許、課役免除
広義の「芸能」民の寄進によって支えられる
市場、寺社の門前
一揆
広義の「芸能」民の寄進によって支えられる
市場、寺社の門前
一揆
「私所」と「無縁所」
幕府や戦国大名の所有する寺社は「私所」=「氏寺」とよばれ、「無縁所」は「公界寺」と呼ばれ明確に区別された。
この「公界寺」は、権力者が、軽々にその子息や兄弟を寺社にいれて住持にしようとすることを戒められ、「もし『公界寺』の従事になろうとするならば、『公界僧』にふさわしい『能』―学識や能力を身につけなくてはならない」とされた。
この「公界寺」は、権力者が、軽々にその子息や兄弟を寺社にいれて住持にしようとすることを戒められ、「もし『公界寺』の従事になろうとするならば、『公界僧』にふさわしい『能』―学識や能力を身につけなくてはならない」とされた。
「公界寺」は「無縁所」と同じ本質を持つ寺であった
「公界」[七~九]
相模・江嶋や越前
「公界所」とされ、「平和領域」であった
⇒江嶋のものが「縁の切れた人々」だったため
⇒江嶋のものが「縁の切れた人々」だったため
また、江嶋においては、喧嘩口論、押買狼藉、国質郷質が禁じられた
⇒市場禁制の典型
⇒市場禁制の典型
自治都市:南伊勢大湊・山田、博多、堺
会合衆によって運営される自治都市。この自治組織の「花押印」は「公界の印判」といわれた。
これらの中世の都市では、「自治」、「自由と平和」が存在した。
これらの中世の都市では、「自治」、「自由と平和」が存在した。
「公界」という語は、「無縁」と同義に用いられた
会合衆=老若
年齢階梯的な自治組織。「老者」「老名」「年寄」と「若衆」「若者」とからなり、ときに間に「中老」を置く。
「本来階級社会以前の、または未開社会の身分的分化様式であり、性別と並ぶ自然発生的分業の秩序」(石母田)
また、この組織は一揆の運営においても現れた。
そこでは「一期中の成員の相論に際し[…]個人の主体的判断に基づき理非の意見の開陳をすること、そしてそのようにして多数決で決定した一揆の裁定に対する違反者に対しては、同じく〈縁者・重縁〉の関係を断ち切って、衆議の決定を尊重した行動をとることが定め」られ、「『多分の儀』―多数決制は、『無縁の場』においてはじめて成立した」(勝俣)
また、この組織は一揆の運営においても現れた。
そこでは「一期中の成員の相論に際し[…]個人の主体的判断に基づき理非の意見の開陳をすること、そしてそのようにして多数決で決定した一揆の裁定に対する違反者に対しては、同じく〈縁者・重縁〉の関係を断ち切って、衆議の決定を尊重した行動をとることが定め」られ、「『多分の儀』―多数決制は、『無縁の場』においてはじめて成立した」(勝俣)
⇒老若のような「公界者」たちに特徴的な組織形態は、「下人・所従に対する私的な所有、従者・被官にたいする主の私的な支配を軸とする秩序・組織」とは「本質的に異質な秩序原理」だった。
「十楽」・「楽」[十]
⇒楽市楽座の規定=無縁・公界の原理
「無縁」=「公界」=「楽」
「無縁・公界・楽」[十一]
「無縁」「公界」「楽」という言葉で表現された場や人(集団)の根本的な特質は、主従関係、親族関係等々の世俗の縁と切れている点にある。そこからおのずと以下の特徴が生まれてくる。
- 不入権
- 地子・課役免除
- 自由通行権の保証
- 平和領域、「平和」な集団
- 私的隷属からの「解放」
- 貸借関係の消滅
- 連坐制の否定
- 老若の組織
「楽」
⇒極楽浄土、理想世界への希求
「公界」
⇒修行の場など。自立的な厳しさ、暗さ。公的な世界 ⇔ 私的な世界
「無縁」
⇒孤独な印象。貧・飢・賎
これらの仏教語「無縁」「公界」「楽」は「日本の民衆生活そのものの底からわきおこってくる、自由・平和・平等の理想への本源的な希求を表現する言葉」である。
(西欧の思想に比べれば体系的な明晰さと迫力欠いているとはいえ)「日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を精一杯自覚的・積極的に表した『日本的』表現にほかならない」